◆別府祐弘

《大蔵蔵之助=大久保逕三=大久保麑山》【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年

【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
著者    赤松文二郎 編
出版者   中津小幡紀念図書館
出版年月日 昭和7
 p3【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
〔画像〕p3【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/3
  五三、中津藩の分限帳
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/136
  小 性
一 高 百石
  三輪十大夫   柴山 義彌   大谷茂右衛門
一 高 拾人扶持
  奥平群兵衛   伊東宗兵衞   西谷 勘藏
  奥平前兵衞
  大久保藏之助  奥平貞之助   瀨澤澄右衞門
  瀧澤 傳藏   坪坂 豐八
 p141【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
〔画像〕p141【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/141

 一四、野本雪巖父子の家譜
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/211
 一九、野本雪巖と倉成龍渚
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/220
 二四、水島均の事
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/227
 二八、野本萬春の事
野本萬春は眞城の次弟で
中津進脩館創始者野本雪巖の第三子である。
大二郎 字は耕
後に侍讀に進んだ人であるが、
多くは江戸藩邸に居住して居たので、
此の人の事蹟はあまり郷地では知られて居ぬは
遺憾である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/232

 九、進脩學校職員任免の事
  △大久保逕三
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/246
三五、大久保麑山先生紀念碑 中村敬宇 中津公園地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/396
 (三五)大久保麑山先生紀念碑 中村敬宇撰
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/411
昭和七年十一月卅日印刷
昭和七年十二月五日發行
定價金四圓五十錢
送料書留(三十六錢)
編纂者 赤松文二郎
發行者 中里 眞淸
    中津小幡紀念圖書館代表者
    中津市一四九二番地
印刷者 漆島 梶夫
    中津市一七六九番地
印刷所 文化印刷社
    中津市一七六九番地
    電話二六七番
發行所 中津小幡紀念圖書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/429
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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《大久保蔵之助》手前抱御中間【中津藩:歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989

【中津藩:歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
著者    半田隆夫 解説・校訂
出版者   中津市立小幡記念図書館
出版年月日 1989.3
 p3【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
〔画像〕p3【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/3

 江戸家中分限帳
 享和三癸亥年(1803) 五月
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/40

一、高拾人扶持  大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/47

一、壱人扶持   大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/51

  手前抱御中間壱人ツヽ
一、金壱両 壱人扶持ツヽ 丸印之分ハ半高也
   三割五分増  百石已上ニ付
  〇菅沼孫右衛門
   梅田 康哉
   野本 友蔵
  〇竹下茂兵衛
   原岡 平泉
  〇菅沼新五右衛門
  〇大江 雲澤
   大久保蔵之助
   日下田三應
   村上 玄秀
   西  周哲
   山崎半左衛門
  〇阿部 善菴
   村田 淳良
   菅沼牧右衛門
   平井喜右衛門
   天野 尚賢
   水嶋六兵衛
   山口廣右衛門
   棟形忠太夫
   大西 僊舟
   津田 範晋
   跡部半右衛門
 p52【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
〔画像〕p52【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/52
中津藩史料叢書
中津藩 歴史と風土 第九輯
一九八九年三月一日 非売品
校訂解説 半田隆夫
企画   中津藩政史料刊行会
     (会長 嶋 通夫)
発行   中津市立小幡記念図書館
     (館長 和泉英男)
     大分県中津市殿町一三八五
     (TEL〇九七九(二二)〇六七九)
     銀行口座 大分銀行中津市役所出張所
     普通〇〇〇〇六七五
     収入役 職務代理者・桧原直彦
     (郵便振替口座 下関四ノ一九七〇八)
印刷   増永印刷所
     福岡県大牟田市大字歴木二八八
     (TEL〇九四四(五二)二八七六)
     (FAX〇九四四(五二)二八七一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/169
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2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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《大久保蔵之助》極難ニ付、銀札百匁被下候事:嘉永6年(1854)12月23日【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988

【中津藩:歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
著者    半田隆夫 解説・校訂
出版者   中津市立小幡記念図書館
 p3【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
〔画像〕p3【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/3

出版年月日 1988.3
   嘉永元(1848) 申
       傳
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/112
一、同日(11月24日)※1848年12月19日
  大久保蔵之助在宅願被 仰付、申傳候事
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/114

   嘉永四(1851) 亥
       傳
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/117
一、四月七日 ※1851年5月7日
  左之面々具足拝借致、
  品物御陣道具ヘ不相納、
  相納候様 被 仰渡、
  夫々申傳候事
  野口平三郎・跡部半右衛門・佐藤忠・
  奥平市郎・恩傳次郎・渡辺藤三郎・
  松平助太夫・大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/118

   嘉永三(1850)
   金銀出納
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/136
一、同日(9月24日)※1850年10月29日
  大久保蔵之助馬代拝借被 仰付候
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/138

   嘉永四亥年(1851)
   金銀出納之部
一、二月廿四日 ※1851年3月26日
  左之面々具足拝借被 仰付候事
   金五両 松平助太夫
   金六両 大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/139

   嘉永六(1854) 丑
   金銀出納
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/143
一、十二月廿三日 ※1854年1月21日
  大久保蔵之助極難ニ付、
  銀札百匁被下候事
 p145【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
〔画像〕p145【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/145
中津藩史料叢書
中津藩 歴史と風土 第八輯
一九八八年三月一日 非売品
校訂解説 半田隆夫
企画   中津藩政史料刊行会
     (会長 嶋 通夫)
発行   中津市立小幡記念図書館
     (館長 和泉英男)
     大分県中津市殿町一三八五
     (TEL〇九七九(二二)〇六七九)
     銀行口座 大分銀行中津市役所出張所
     普通〇〇〇〇六七五
     収入役・木ノ下政利
     (郵便振替口座 下関四ノ一九七〇八)
印刷   増永印刷所
     福岡県大牟田市大字歴木二八八
     (TEL〇九四四(五二)二八七六)
     (FAX〇九四四(五二)二八七一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/170
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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漢籍を大久保逕三(麑山)先生の門に學び【偉人和田豊治翁】大正14年

【偉人和田豊治翁】大正14年
著者    三木作次郎 著
出版者   三木作次郎
出版年月日 大正14
p2【偉人和田豊治翁】大正14年
〔画像〕p2【偉人和田豊治翁】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/2

先生(和田豊治)は幼時、
漢籍を麑山大久保逕三先生の門に學び、
書道を川端楊坪先生に習はれた。

兩親の庭訓に加へて、
賢夫人と噂された
祖母藤子(とうこ)刀自の
親しき薫陶を受けて居たが、
明治十二年八月、
十九歳の時に嚴父を喪ひ、
翌年に至りて亦祖母に訣かれた、
是より先き先生は十五歳の頃より
中津藩の典醫村上長翁の家に寄寓し
藥局の手傳をなすの餘暇を利用して
市學校に通學せられた。
 ―略―
抑も此の市學校と云ふは明治四年の頃、
福澤先生が西洋文化鼓吹の爲めに
中津藩士島津祐太郎、桑名豐山、津田耕烟の
諸氏に内意を授けて
中津町三之丁(今の南部小學校の敷地)
に創設したもので、
當時に於ける關西唯一の英語學校であり、
慶應義塾とは經費を異にして居れど、
分校見たいなやうなものであつた。

初代の校長としては小幡篤次郎氏が就職せられ、
濱野定四郎氏其の後を襲かれた。
學級は初等、中等及び高等の三科に分ち、
先生(和田豊治)は高等科に在り
主として洋籍を研修せられたと云ふ。
p25【偉人和田豊治翁】大正14年
〔画像〕p25【偉人和田豊治翁】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/25
大正十四年二月廿七日印刷
大正十四年三月 八日發行
編輯兼 三木作次郎
發行者 大分縣下毛郡中津町二二六九番地
印刷者 伊崎 開治
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 株式會社 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/166
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《大久保蔵之助=大久保麑山の墓と碑》大井憲太郎の師【郷土大分の先覚者 中巻】1981

【郷土大分の先覚者 中巻】1981
著者    大分県教育委員会 編
出版者   大分県教育委員会
出版年月日 1981.12
  大井憲太郎  楠本達男
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/186
 二 馬城山と大井の家系
日豊線下り列車が小倉を出て一時間もすると
豊前奥平藩十万石の城下町中津につく。
大井(憲太郎)の師(?)中津藩儒者
大久保麑山の墓所、大法寺があり、
福沢諭吉の郷里でもある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/189

<写真>大久保麑山の墓(中津大法寺にあり)
p191【郷土大分の先覚者 中巻】1981
画像〕p191【郷土大分の先覚者 中巻】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/191

万延元年(一八六〇) 十八歳
 名を大輔と改め、中津の儒者、
 大久保蔵之助に入門、儒学をまなぶ。

中津藩儒者大久保蔵之助は
大久保麑山ではなかろうか、正確ではない。

<写真>大久保麑山の碑(中津公園にあり)
p192【郷土大分の先覚者 中巻】1981
〔画像〕p192【郷土大分の先覚者 中巻】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/192
 郷土大分の先覚者 中巻
昭和56年12月発行
編集兼発行 大分県教育委員会
印刷所   明治印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/259
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【賀来飛霞 大井憲太郎 (郷土の先覚者シリーズ ; 第8集) 
 (郷土の先覚者 ; 15~16)】1978
著者    辻英武 筆 [他]
出版者   大分県教育委員会
出版年月日 1978.2
内容は同一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12263060/1/48
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《留川一路》中津藩儒大久保麑山の家塾【基督者列伝:信仰三十年】大正10年

【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
著者    警醒社 編
出版者   警醒社書店
出版年月日 大正10
p2【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
p2【基督者列伝:信仰三十年】大正10年

《留川一路》
 現住所  福岡縣三瀦󠄀郡大川町
 生 國  大分縣中津町
 所屬敎會 大川日本基督敎會
安政元年二月十九日に生る。
※1854年3月17日
父は山脇藤吉、母をブン、
兄を山脇良市といふ。
出でて留川家を襲げり。

幼にして中津藩儒
大久保氏の家塾に學び、 ※大久保麑山:下記
明治五年(1872)より明治八年(1875)まで
藩立修德館に入りて、  ※進修館:下記に記載
英語數學を修めたり。

而して同年(明治8年)秋より長崎に出で、
米國宣敎師ヘンリー、
スタウト氏の家塾に入學し、
專ら英學を修めたるが、
其間家庭の禮拜に出席し、
聖書の講義を聞くこと一年有餘に及び
信仰の心生じ、
明治九年(1876)十二月廿五日、
長崎一致敎會に於て
ヘンリー、スタウト氏より洗禮を受けたり。

受洗後聖靈の指導と、
スタウト氏の勸めによりて、
宗敎界に献身するの決心をなし、
明治十二年(1879)東京に出で
一致神學校に入學せり。

而して明治十三年(1880)四月、
東京中會に於て傳道者に認定せられたり。
翌明治十四年(1881)神學校を卒業し、
明治十五年(1882)五月
鎭西中會に於て按手禮を受け、
牧師に任ぜられ、
鹿兒島、長崎、久留米の各地に傳道し
明治二十三年(1890)十二月
廣島日本基督敎會に赴任せり。

此の間佐賀久留米等にては
佛敎徒の迫害劇甚にして
暴徒のために危害を加へられしこと
一再に止らざりしといふ。

而して在職五年、
翌明治二十八年(1895)十月より
明治三十年(1897)まで
長府日本基督敎會を牧し、
同年(明治30年)十一月より大正六年(1917)まで
佐賀、唐津、大分、柳河の各地に傳道し、
現任地は福岡縣大川町なり。

松山日本基督敎會牧師《南廉平》、
新潟日本基督敎會牧師《西健二》
梅光女學院長《廣澤藤吉》氏の如き、
皆氏の傳道によりて基督敎に歸依したるなりと。

明治二十二年(1889)一月十八日、
蜂谷元壽氏の妹さめ子を娶り、
惠士、羔二、三郎、四郎の四男あり。
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
大正十年十一月廿五日印刷
大正十年十一月廿八日發行 (定價 貳圓)
編 纂 警醒社編纂
發行者 福永文之助
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
印刷者 村岡 平吉
    横濱市太田町五丁目八十七番地
印刷所 福音印刷合資會社
    横濱市山下町百〇四番地
版 元 警醒社書店
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
    振替 東京五五參番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日08:46
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日09:00
《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日15:28
《学校長(主長タル者・首座教員)大久保逕三》明治11年~17年
片端中學校
片端學校
中津中學校
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齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年

明治十七年
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。

【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
著者    日本歯科医師会 編
出版者   日本歯科医師会
出版年月日 昭15
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
明治十六年までに、
齒科で醫籍に登錄された者に就ては異説あるが、
左に判明した者を載せる。
 第五章 齒科醫術開業試驗
明治十六年十月公布された醫術開業試驗規則は、
明治十七年一月一日から實施されたが、
實施上から屢々改正された。
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、 ※下記
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。
 第三節 齒科試驗擧行地及期日
明治十七年から明治三十九年迄に告示された、
齒科醫術開業試驗擧行地及び期日は、
次表の通りである。
 第四節 齒科醫術開業試驗の狀況
東京に於ける試驗場は、
明治二十一年まで
本願寺淺草別院と慈惠醫院を充てたが、
 ―略―
齒科實地試驗は、・・・
明治二十六年第一回試驗から一日六名宛とし、
 ―略―
茲に明治十七年から三十九年までの、
齒科出願者及び及第者數を示すと、
次表のとおりである。
昭和十五年十月二十五日印刷
昭和十五年十月 三十日發行 (非賣品)
編輯兼發行者 小川正一郎
印刷者    柴山 則常
       東京市本郷區駒込林町一七二
印刷所    合資會社 杏林舎
       東京市本郷區駒込林町一七二
       電話駒込(82)七七三・七七四・七七五
發行所    日本齒科醫師會
       東京市神田區小川町一ノ三
       小川町ビルヂング内
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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<第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ>
【[和漢医師継続請願ノ理由]】明治25年
著者    山田茂 編
出版者   山田茂
出版年月日 明25.10
  〇布 達
〇太政官第三拾四號
今般第三拾五號ヲ以
醫師免許規則布告相成候ニ付
醫術開業試驗規則別冊ノ通リ相定メ
明治十七年一月一日ヨリ施行ス
  但明治十二年二月
  内務省甲第三號布達ハ同日ヨリ廢止ス
右布達候事
  明治十六年十月廿三日
    太政大臣 三條實美
    内務卿  山田顯義
(別冊)
    醫術開業試驗規則
第一條 醫術ヲ開業セントスルモノハ
    此規則ニ據リ試驗ヲ受クヘシ
第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ
    但試驗ヲ擧行スヘキ地方及ヒ試驗期日ハ
    六ケ月前之ヲ内務卿ヨリ告示スヘシ
第三條 内務卿ハ醫術開業試驗ヲ擧行スル毎ニ
    官立及ヒ府縣立醫學校病院ニ從事スル者
    又ハ地方ニ於テ學術名望アル
    醫師理化學者等ヲ選ヒ
    試驗委員ヲ命スヘシ
     但齒科醫術開業試驗ニ於テハ
     齒科醫一名ヲ試驗委員ニ加フルヿアルヘシ
第四絛 内務卿ハ主務者ヲ派遣シ
    試驗一切ノ事ヲ監督整理セシムヘシ
第五絛 醫術開業試驗ハ之ヲ二期ニ分チ
    前期試驗後期試驗トス
    前後二期ノ試驗ヲ同時ニ受クルコトヲ得ス
     但齒科醫術開業試驗ハ
     全科一時ニ受クルモノトス
第六條 試驗科目ヲ定ムルヿ左ノ如シ
    ―略―
明治廿五年十月十一日印刷
同   年十月十二日出版 (非賣品)
編輯兼 山田 茂
發行者 東京市本所區龜澤町壹丁目五十番地
印刷者 根岸高光
    東京市牛込區市ヶ谷加賀町壹丁目廿三番地
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2023年09月11日 11:40
《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)
・従來開業、舊試驗及第者(二八名)
【歯科評論 (57)】大正4年
<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)・従來開業、舊試驗及第者(二八名)【歯科評論 (57)】大正4年

【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-01
齒科評論附錄
  齒科醫籍簿  p10-14/18
   例 言
一 齒科醫業ニ從事スルモノハ
  齒科醫籍簿を備付スルノ必要アリ
一 本社爾後引續キ毎號本紙附錄トシテ
  齒科醫籍ヲ掲載スベシ
一 齒科醫籍ハ内務省原簿ニ基キ
  第一號登錄者ヨリ順次掲載スルコトヽセリ
   但シ明治十七年以前ニ於ケル
   従來開業、舊試驗及第者ハ一括シテ巻頭ニ掲載ス
  ―略―
  大正四年一月二十五日
   齒科評論編輯局
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/10

免狀番號     一
免狀下附ノ日   明治十七年十月三十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 東京府士族
現住所    年  月  日死亡
氏  名 青山千代次
生年月日 
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/12

【歯科評論 (61)】大正4年(1915-05)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-05

免狀番號     二四九
免狀下附ノ日   明治二十七年十月十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 大分縣下毛郡中津町一四三 平民
現住所  大阪市西區九條三四八
氏  名 重松良説
生年月日 明治三年六月生
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507502/1/14
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<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月12日 09:47
齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
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《郡立中津中學》大久保麑山校長漢學を受持ち漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、【山田小太郎先生】昭和15年

【山田小太郎先生】昭和15年
出版者   学仏会
出版年月日 昭和15
p3【山田小太郎先生】昭和15年
〔画像〕p3【山田小太郎先生】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/3
  六十余年前(中津)市中ノ漢學塾ニ入リ
  初メテ四書等ノ素讀ヲ受ケ
  漢學講讀ノ門ニ入ル……
市中は中津を指すものに相違ないが、
何塾であつたらうか、
いろいろ各方面を採訪もし照會もしたが、
結局橋本塾から大久保塾へと、
時期を異にして入門されたことが、
始め中津の黑澤覺治氏から御報知があり、
其後に同じ頃一所に就學された、
從兄弟たる了戒晉作翁の御話で確かめられた、
その入塾の最初は七八歳頃であつたらしい。
 依つて此二塾に關する記事を
 下毛郡敎育會編纂の「下毛郡史」から摘錄する。
 「橋本塾は中間町に在り中津藩儒官
  手島物齋の弟鹽巖の主宰する處なり、
  鹽巖出てゝ橋本氏を嗣き
  早く山川東林に學び又熊府に遊學、
  後中津に歸り進修館敎授に任ぜらる。
  癈藩後自ら誠求め堂を再興す。
  明治十五年五月病で家に歿す享年六十七、
  鹽巖長身赫顔頗る威容あり、
  性最も謹巖剛直
  常に詩歌文章を以て末技となし、
  專ら窮經講史を尚ひ實用を以て主となす」
この最後の「詩歌文章を以て末技となし」以下は、
山田先生の講學精神の萌芽を培つたものと思はれる。

更に大久保塾に就ては
「塾は大久保麑山通稱逕三の經營する處、
 業を叔父野本白巖に受け夙成を以て名あり、
 又劍馬槍弓の術を習ふ、
 後三百間砲臺守隊長及進修館助敎となる、
 (明治)十八年八月歿享年六十一、
 人となり溫厚篤實
 親に事へて至孝なり、
 家甚だ貧困なりしかとも、
 父翁酒を嗜みたれば、
 供張一日も缺きたる事なし、
 其子弟に接するや溫顔にして疾言せず、
 諄々として誦讀を授く
 屢々其窮乏を救へりと」
とある、この塾に於ける感化も、
先生の生涯に相當色濃く
あらはれてゐるやうである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/18
 再度の郡立中津中學(片端中學) p41-45/591
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/41
筆の序てに明治十九年の三月に卒業した生徒は、
古門林太郎、鈴木辨次郎、大江達三郎(以上物故者)
末廣房市氏と自分位なものである、
更に記憶に殘れるものは、
該中學に二學年の高等科があつたことで、
昨年物故された元中津市長の中里直淸、
梅津春五郎、水島吉次、宇都宮仙太郎(舊姓武原)
諸氏がその生徒であつた。

當時の校長は大久保塾を開いて居られた
大久保麑山氏で漢學を受持ち、
首席敎諭は中里文太郞氏で國語を擔當、
山田先生は英語、敷田傳吾氏が數學
外に三木・小原の兩氏、
漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、
理化の大江春水氏、
經濟は石野孝太郎氏、
博物と歷史は川崎松次氏、
簿記と英語は
佐々木勇太郎氏(前南海電鐵社長)であつた。
 ―略―
猶ほ當時の生徒は右の外
鈴木恒三郎、磯村豊太郎、矢野目孫一氏等であつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/43
  扇城學舎  p51-
前記の明治十九年四月の勅令は實に寝耳に水であつた、
それに依つて中津中學が癈校になり、
在學子弟百餘名は全く修學の前途を
塞がれてしまつた、
そこで舊職員二三氏は「・・・」
私立中學扇城學舎を設立して、
これらの癈學生徒を収容したのであつた、
先生は其發起人の筆頭であつたので、
推されて舎長兼講師となつた、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/51
幸ひ校舎は舊中津中學の校舎を
其儘用ひることになり、
同時に書物器具等も借用出來たから、
差當りの授業には不便はなかつたが、
經營資金とて別に準備してないので、
僅かに授業料を以て校費を支辨し職員は概ね
「勞力義捐」であつた、
其人々は
小原多喜三、大江春水、
大久保恂、佐々木勇太郞、中里左吉郞諸氏で、
此當時の學生は百名餘に上り、
大部分は無論中津中學に學んで居つた人達で、
其内二人の女性がまじつてた、
重松重治さんの御話では、
扇城學舎は、山田小太郎氏といふ英語の先生で、
偉い方がやつて居ると聞いたので、
或人の紹介で入學したのだとのことである、
やはり同舎の學生であつた
上田欽策さんは現在中津蠣瀨町で、
醫業を營んで居られる、
その談片を左に掲げる。
 ―略―
猶ほ當時扇城學舎で學んで居つた、
女性の一人である生田やす子さん
(中津市新魚町住)の御話を次に掲げる。
「私共は姉二人が東京の高等師範に入學したので、
 是非上の學校に入りたいと思つて
 始めは福岡の女學校に入る積りでしたが、
 其内中津に扇城學舎が出來ることになつたので、
 自分等も入學したいものだと思ひまして、
 上田辰衛さまに御願して其御骨折りで
 漸くはいれました。
 十六の歳でございます、
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/52
昭和十五年一月五日印刷
昭和十五年一月十日發行 非賣品
編 者 井坂 秀雄
發行者 草野忠右衛門
    東京市麴町區一番町四ノ二
印刷所 大黑屋印刷所
印刷者 羽田 政勝
    東京市京橋區月島通五ノ八
發行所 學佛會
    東京市京橋區銀座西一ノ一
    永樂ビル内
    振替東京一五三一四一番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/588
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年08月23日 06:30
<大久保系圖:原本>p21~p22[67《長女 セツ》~73《二男 格》]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月07日 08:13
<大久保系圖:No.09>67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格
71《長男 恂》※大久保 恂
     文久元年九月二十三日生 ※1861年10月26日
     藩黌舘ニ學ビ
     十七歳ニシテ ※明治11年(1878)
     家督ヲ繼ク
     二十歳ノ時  ※明治14年(1881)
     京都ニ遊學シ
     村上佛山ノ門ニ入リ
     漢學ヲ學ブ
     明治十八年(1885)
     父ノ病ニヨリ歸郷シ
     助教トシテ
     中津中學校ニ教鞭ヲ取リ
     又
     父ニ 代テ塾生ニ代講ス
     二十六歳ノ時 ※明治20年(1887)
     大阪ニ出デ
     次デ上京シ
     獨學ヲ以テ英學ヲ修ム
     年餘ニシテ
     〔パーレー〕ノ萬國史ヲ讀破シ得ルニ至ル
     人 皆 以テ 天才トナシ
     将来ヲ嘱望サル
     明治二十四年(1891)
     肺患ニ罹リ
     同年(1891)十一月八日
     遂ニ起タズ
     享年 三十一
     中津 大法寺ニ葬ル
     法號 守法院遊山日恂居士
     中津藩士 逸見栗藏ノ長女
     武子ト婚約アリシモ
     遂ニ果サズシテ逝ク
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《大久保麑山》重松良説 大分県下毛郡中津町【臨牀歯科 (317)】1986-06

【臨牀歯科 (317)】1986-06
著者    臨牀歯科社 [編]
出版者   臨牀歯科社
出版年月日 1986-06
p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
〔画像〕p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/1
  医・歯 一元か二元か
   重松良説の時代
現在、大阪府歯科医師会会員名簿には、
堺市、重松雅人先生、
南區、重松成一郎先生の名まえが載っている。
奥野喜一本会会長と重松成一郎先生とは
ご兄弟といううわさも聞いている。
重松姓は、大阪の歯科界において
陽の当たる位置にある。

ところで、大正2年の『大阪現代人名辞典』
(大阪府立中之島図書館、郷土資料室備付資料)に、
医師、重松良説を立志伝中の偉人として
紹介している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/20
 重松良説君(医師)
“君は大分県の人、重松元貞の三男にして、
明治3年2月23日を以て生る。
其祖は新田家の末流にして
福岡県築上郡下垂水村に住せしが、後、
大分県下毛郡中津町出でて
代々眼科医を業とせり、
君、(明治)18年、
中津中学校を3年にして退学し、
故大久保麑山に就いて漢籍を学ぶ。
明治21年大阪に出で、
普通医術を修業せんと志せしも、
家計の都合にて歯科医に志を転じ、
堺市開業歯科医轟氏に就て
学説実地を攻究するかたわら、
東京、高山歯科医学院院外生徒として学説を究め、
明治26年第2回内務省歯科医術開業試験に及第し、
明治29年初めて現在の地に門戸を張れり。
妻をルイと言い、
一子貞雄は市岡中学に通学せり。
(大阪、西、九条通1の85、電西3384番)“
このように誌されている。
この時代には一般に歯科医を医師のなかの
専門科として心得てうたにちがいない。
現に大阪府統計にも、
歯科は医師の大わくのなかに組込んで、
置かれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/21
臨牀歯科 No.317(発行予定月1・4・7・10)
1部 ¥   600(送料別)
年間 ¥3,000(送料共)
昭和61年6月30日発行
編集発行・津下敏夫
京都・西七条石井町29
発行所  臨牀歯科社
京都・蛸薬師・堺町東
振替京都7-25583
電話313-5811
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/22
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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