大久保麑山

《大蔵蔵之助=大久保逕三=大久保麑山》【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年

【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
著者    赤松文二郎 編
出版者   中津小幡紀念図書館
出版年月日 昭和7
 p3【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
〔画像〕p3【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/3
  五三、中津藩の分限帳
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/136
  小 性
一 高 百石
  三輪十大夫   柴山 義彌   大谷茂右衛門
一 高 拾人扶持
  奥平群兵衛   伊東宗兵衞   西谷 勘藏
  奥平前兵衞
  大久保藏之助  奥平貞之助   瀨澤澄右衞門
  瀧澤 傳藏   坪坂 豐八
 p141【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
〔画像〕p141【扇城遺聞:郡誌後材】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/141

 一四、野本雪巖父子の家譜
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/211
 一九、野本雪巖と倉成龍渚
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/220
 二四、水島均の事
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/227
 二八、野本萬春の事
野本萬春は眞城の次弟で
中津進脩館創始者野本雪巖の第三子である。
大二郎 字は耕
後に侍讀に進んだ人であるが、
多くは江戸藩邸に居住して居たので、
此の人の事蹟はあまり郷地では知られて居ぬは
遺憾である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/232

 九、進脩學校職員任免の事
  △大久保逕三
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/246
三五、大久保麑山先生紀念碑 中村敬宇 中津公園地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/396
 (三五)大久保麑山先生紀念碑 中村敬宇撰
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/411
昭和七年十一月卅日印刷
昭和七年十二月五日發行
定價金四圓五十錢
送料書留(三十六錢)
編纂者 赤松文二郎
發行者 中里 眞淸
    中津小幡紀念圖書館代表者
    中津市一四九二番地
印刷者 漆島 梶夫
    中津市一七六九番地
印刷所 文化印刷社
    中津市一七六九番地
    電話二六七番
發行所 中津小幡紀念圖書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259733/1/429
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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《大久保蔵之助》手前抱御中間【中津藩:歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989

【中津藩:歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
著者    半田隆夫 解説・校訂
出版者   中津市立小幡記念図書館
出版年月日 1989.3
 p3【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
〔画像〕p3【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/3

 江戸家中分限帳
 享和三癸亥年(1803) 五月
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/40

一、高拾人扶持  大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/47

一、壱人扶持   大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/51

  手前抱御中間壱人ツヽ
一、金壱両 壱人扶持ツヽ 丸印之分ハ半高也
   三割五分増  百石已上ニ付
  〇菅沼孫右衛門
   梅田 康哉
   野本 友蔵
  〇竹下茂兵衛
   原岡 平泉
  〇菅沼新五右衛門
  〇大江 雲澤
   大久保蔵之助
   日下田三應
   村上 玄秀
   西  周哲
   山崎半左衛門
  〇阿部 善菴
   村田 淳良
   菅沼牧右衛門
   平井喜右衛門
   天野 尚賢
   水嶋六兵衛
   山口廣右衛門
   棟形忠太夫
   大西 僊舟
   津田 範晋
   跡部半右衛門
 p52【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
〔画像〕p52【歴史と風土 第9輯 (中津藩史料叢書)】1989
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/52
中津藩史料叢書
中津藩 歴史と風土 第九輯
一九八九年三月一日 非売品
校訂解説 半田隆夫
企画   中津藩政史料刊行会
     (会長 嶋 通夫)
発行   中津市立小幡記念図書館
     (館長 和泉英男)
     大分県中津市殿町一三八五
     (TEL〇九七九(二二)〇六七九)
     銀行口座 大分銀行中津市役所出張所
     普通〇〇〇〇六七五
     収入役 職務代理者・桧原直彦
     (郵便振替口座 下関四ノ一九七〇八)
印刷   増永印刷所
     福岡県大牟田市大字歴木二八八
     (TEL〇九四四(五二)二八七六)
     (FAX〇九四四(五二)二八七一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776209/1/169
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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《大久保蔵之助》極難ニ付、銀札百匁被下候事:嘉永6年(1854)12月23日【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988

【中津藩:歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
著者    半田隆夫 解説・校訂
出版者   中津市立小幡記念図書館
 p3【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
〔画像〕p3【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/3

出版年月日 1988.3
   嘉永元(1848) 申
       傳
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/112
一、同日(11月24日)※1848年12月19日
  大久保蔵之助在宅願被 仰付、申傳候事
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/114

   嘉永四(1851) 亥
       傳
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/117
一、四月七日 ※1851年5月7日
  左之面々具足拝借致、
  品物御陣道具ヘ不相納、
  相納候様 被 仰渡、
  夫々申傳候事
  野口平三郎・跡部半右衛門・佐藤忠・
  奥平市郎・恩傳次郎・渡辺藤三郎・
  松平助太夫・大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/118

   嘉永三(1850)
   金銀出納
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/136
一、同日(9月24日)※1850年10月29日
  大久保蔵之助馬代拝借被 仰付候
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/138

   嘉永四亥年(1851)
   金銀出納之部
一、二月廿四日 ※1851年3月26日
  左之面々具足拝借被 仰付候事
   金五両 松平助太夫
   金六両 大久保蔵之助
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/139

   嘉永六(1854) 丑
   金銀出納
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/143
一、十二月廿三日 ※1854年1月21日
  大久保蔵之助極難ニ付、
  銀札百匁被下候事
 p145【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
〔画像〕p145【歴史と風土 第8輯 (中津藩史料叢書)】1988
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/145
中津藩史料叢書
中津藩 歴史と風土 第八輯
一九八八年三月一日 非売品
校訂解説 半田隆夫
企画   中津藩政史料刊行会
     (会長 嶋 通夫)
発行   中津市立小幡記念図書館
     (館長 和泉英男)
     大分県中津市殿町一三八五
     (TEL〇九七九(二二)〇六七九)
     銀行口座 大分銀行中津市役所出張所
     普通〇〇〇〇六七五
     収入役・木ノ下政利
     (郵便振替口座 下関四ノ一九七〇八)
印刷   増永印刷所
     福岡県大牟田市大字歴木二八八
     (TEL〇九四四(五二)二八七六)
     (FAX〇九四四(五二)二八七一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9776141/1/170
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月26日09:39
[大久保麑山(げいざん)]略歴
文政八年十二月十一日の生まれです。
※1826年1月18日
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
文久二年(1862)陣道具奉行に昇り、
文久三年(1863)江戸に出役し、
文久四年(1864)六月教連歿し麑山国に帰る。
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《大久保蔵之助=大久保麑山の墓と碑》大井憲太郎の師【郷土大分の先覚者 中巻】1981

【郷土大分の先覚者 中巻】1981
著者    大分県教育委員会 編
出版者   大分県教育委員会
出版年月日 1981.12
  大井憲太郎  楠本達男
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/186
 二 馬城山と大井の家系
日豊線下り列車が小倉を出て一時間もすると
豊前奥平藩十万石の城下町中津につく。
大井(憲太郎)の師(?)中津藩儒者
大久保麑山の墓所、大法寺があり、
福沢諭吉の郷里でもある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/189

<写真>大久保麑山の墓(中津大法寺にあり)
p191【郷土大分の先覚者 中巻】1981
画像〕p191【郷土大分の先覚者 中巻】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/191

万延元年(一八六〇) 十八歳
 名を大輔と改め、中津の儒者、
 大久保蔵之助に入門、儒学をまなぶ。

中津藩儒者大久保蔵之助は
大久保麑山ではなかろうか、正確ではない。

<写真>大久保麑山の碑(中津公園にあり)
p192【郷土大分の先覚者 中巻】1981
〔画像〕p192【郷土大分の先覚者 中巻】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/192
 郷土大分の先覚者 中巻
昭和56年12月発行
編集兼発行 大分県教育委員会
印刷所   明治印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12260855/1/259
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【賀来飛霞 大井憲太郎 (郷土の先覚者シリーズ ; 第8集) 
 (郷土の先覚者 ; 15~16)】1978
著者    辻英武 筆 [他]
出版者   大分県教育委員会
出版年月日 1978.2
内容は同一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12263060/1/48
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[福翁・白石照山・大久保麑山の三大紀念碑]【中津及中津人】淸原蘇子著

20120612()
【中津及中津人】
 中津及中津人 p12-14/134
 (一)緒論…福翁…麑山…照山…自然美…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、 

今日の吾中津人を爲せる三大恩人たらずんばあらず、
彼の三大恩人が百年の身血を人材の事に盡す、
中津は普く啓發せられ頴才を出したる處、

尊敬に價すべく是れ疑ひなき事實として、
何人も否まざるべし、
此の光榮ある過去の歷史は今日の吾中津人を養成せり、
照山派の學德、
慶應派の學德、
麑山派の學德、
其の人亡びたると共に、
其の學德今日僅かに存在する耳、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
老來多恨の士、之れを遵守せんとしつゝあり。 

然れども冷灰の如き吾中津人の多くは、
彼の紀念碑に對し不用の長物として、
冷視するの外、何等の敬意も、何等の尊敬も拂はざる也、 

吾輩は此の三大恩人が遺せる偉大なる德風が
日に消滅し行きつゝあるを
哀まずんばあるべからず、
其の榮冠を中津人自身が放棄しつゝあるを轉た
痛惜とする處也。 

吾中津が過去に於て此の三大人物を出だせるは、
以て其の因とする處ありと雖も、
鄕土自然の美は偉人なる三大人物を排出せりと云ふを得べし、
之れ實に自然の爲せる三大人物たる可き也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/13
福翁の遺風大に可也、
照山の遺風可也、
麑山の遺風大に可也、 

然れどもアイスの如き極端なる個人主義を主唱せるに非ず、
絶對に他と放れて己を護るべき獨立獨行を敎えたる者に非ず、
温健にして且高尚なる獨立自尊の主義を主張し
躬踐實行すべき福翁の精神が中津の何處に流れつゝあるか、
吾も人も之れを顧て轉だ今昔の感に耐えざる也。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/14
 中津二大女學校論 p80-82/134
郡立高等女學校長 津田純一氏
扇城女學校長   梅高普行氏
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/80
中津及中津人 奥附
大正二年五月十九日印刷
大正二年五月廿二日發行
著者兼發行者 淸原寛之
       大分縣下毛郡中津町
印刷者    三重昇太郎
       大分縣下毛郡中津町千百〇四番地
印刷所    三重活版所
       大分縣下毛郡中津町千百〇四番地
發賣所    野依書店
       中津新博多町郵便局トナリ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/113
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

二碑の並び立つものあり【人物分布観. 上篇】大庭柯公:明治43年

20120706()
【人物分布観. 上篇】
[南豐地方(上)] p24/133
試みに中津に遊びて市中に問ふに
福澤諭吉の名を以てせよ、
彼等の多くは皆いふ
「あの足輕の子が」と一冷笑に葬り去る。
近來郷里子弟の慶應義塾出身者を增し來りて
此風漸く變ぜんとするも
而も里人の尚
翁を紀念せんとするものあるに至らず。 

更に公園に至る、
二碑の並び立つものあり。
その形大略同じきも
建立の時日二十年を隔つ、
その舊きものは大久保先生之碑にして
新きものは即ち
福翁門下の建立に係る獨立自尊の碑なり。
而して福翁や一世の偉人にして
大久保先生は眇たる一儒者に過ぎず、
郷人の福翁冷視する以て一班を察すべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778166/24
明治四十三年一月 十日印刷
明治四十三年一月十五日發行
金 六十錢
著作者 大庭柯公
發行者 杉本 要
    大阪市東區北渡邊町八十九番地
印刷者 堀越 幸
    大阪市西區阿波座二番町一番地
発兌元 梁江堂書店
    東京市京橋區中橋廣小路
    電話 本局 五七七番
発兌元 杉本梁江堂
    大阪市東區北渡邊町
    振替口座 東京 二八二三番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778166/124
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 《大久保麑山先生紀念碑》

《大久保麑山先生紀念碑》
[履歴と業績]別府祐弘 p20/34
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf

 

福澤諭吉の指導の多くは、当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい

20120209()
[履歴と業績]別府祐弘
帝京と私
1別府祐弘稿「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1 号、2002 10月、3-7 頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
帝京大学に着任早々の私は、
これを故沖永荘一学主、沖永佳史学長、沖永荘八副学長、
柴川林也経済学部長等に送呈して、自己紹介とさせていただいた。
「…中津の町はまた、福澤諭吉生誕の地として、
中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
しかし同じ公園の中に、
私の曽祖父の「大久保麑山先生紀念碑」も建立されていることを知る人は、
今日ほとんどありません。
そこには次のような碑文が刻まれているのです。 

大事にたへるには   欲任大事
篤実でなければならぬ 須是篤実
たとえば基礎が堅固で 督之基固
家が築けるようなもの 方可築室
君は実行を重んじ   君重躬行
かくて弟子を教えた  以誨弟子
学風を後に伝えて   風軌伝後
きわまることはない  罔有窮己
明治二十一年四月二十日
元老院議官従四位 中村正直 

この碑文の現代語訳は、
富士正晴『大河内傅次郎』中央公論社、昭和53年、18頁より。
(資料③参照)
文人風をきらって実学を尊重した藩学・麑山ゲイザンのこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも色濃く受け継がれていると
土地の古老は申します。
そしてこの碑文を選した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。
この碑文こそが、その後実学としての経営学を私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。
その間、経済学部経営学科、大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」 

『大久保麑山(ゲイザン)先生紀念碑』と
慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学・帝京大学 

最後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山について、
富士正晴著「前掲書」から若干引用して紹介しておきたい。
―略―
正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた 

福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。 

『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた白石照山のみが
福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていた…。
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf

 

[大久保麑山(げいざん)]略歴

20120209()
[大久保麑山(げいざん)]
 大久保麑山諱は教之字は子誨、通称を逕三といい、中津藩の世臣でした。
孝誨は教連、文政八年(1825)十二月十一日の生まれです。
幼い頃より慧敏、学を好み業を其の叔父
野本白厳に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又剣馬槍弓の術を習う。
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月教連歿し麑山国に帰る。
このときにあたり幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦微に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲台守隊長となり、又進修館助教となる。
廃藩置県後片端中学校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中学校教授と成る。
後年文部省より特別功労者として六国史及び硯石を賜る。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り碑を公園地に建てる。
その撰文は中村正直が行っている。
豊前人物志  山崎 有信  著   昭和五十六年 国書刊行会
扇城遺聞   中津小幡記念図書館  昭和七年
下毛郡誌 下毛郡教育委員会 昭和五十五年 国書刊行会
http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/geizan.txt 

[野本白巌]【大分県偉人伝】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/1
明治40812日印刷
明治40816日発行
著作者    大分県教育会
右代表者   千葉貞幹
発行兼印刷者 亀井忠一
       東京市神田区裏神保町一番地
印刷所    三省堂印刷部
       東京市神田区三崎町河岸第十二号地
発行所    三省堂書店
       東京市神田区裏神保町一番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/266
[野本白巌](日本教育史料)p130-131/270
野本白巌、諱は珵、字は伯美、通称は武三、
眞城山人と号し、晩年白巌樵夫と改む。
蓋し、宇佐郡白岩に退隠したるに因みてなり。
父は中津藩の儒臣野本亮右衛門。母は某氏。
寛政九年三月六日を以て家に生れぬ。
文化十三年、白巌嫡子を以て藩主昌暢に仕へ、
天保六年、父の後を襲ふて家俸十五口を継きぬ。
・・・
弘化四年、復た童蒙帳を下毛郡秣村に設けて教へ、
嘉永二年、又宇佐郡四日市に移りて教鞭を執れり。
同三年、露国の使船長崎に来るや、白巌慨然、
将に書を水戸老公に上り、邊防の事を論ぜんとして、
江戸に到りたるも、志を果たさざして帰り、
白巌の?宅を修め、書生を教授して居りぬ。
白巌幼より、帆足萬里に学び、程朱を以て宗と為し、
弱冠京都に遊び、古文を頼山陽に学びぬ。
性精識卓見、頗る気岸ありき。
学は實用に志し、博く治體に達しぬ。
故に、其の用ゐらるるや、政治を補佐し、其の罷めらるるや、
誌書を著し、側ら窮理説を学び、医術算数に通じ、律例を解せり。
俗語の著には、福恵全書、註解明官略、俗語纂、租税新論あり。
皆實用を主とせり。
又詩文集二冊あり、家に蔵む。
・・・
病に臥すること三年、安政三年七月三日を以て歿す。
享年六十。此の頃舊門生相議し、
白巌の塾跡に碑を建て鐫むに白巌先生之碑の六字を以てせり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/130 

[大久保逕造]
【中津歴史】廣池千九郎編述 明治24年12月発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/1
中津片端中学校開業ス p198/251
―略―
皇学教師ニハ渡邊重春アリ
漢学ニハ白石常人・橋本監厳・大久保逕造ノ三儒アリ
以テ両学ヲ分担専任シ
且傍ラ修身歴史地理等ノ訳書及和洋算術ノ初歩ヲ授ク
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/198
明治241210日印刷
明治241214日出版
定価金壱圓
編輯兼発行者 廣池千九郎
       大分県平民
       大分県下毛郡鶴居村151番地
印刷者    自由館印刷 担当人
       門田虎彦
       福岡県士族
       大分県下毛郡中津町106番地第二戸寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/246
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

[中津公園]【下毛郡誌】昭和2年

[中津公園]【下毛郡誌】昭和2年

【下毛郡誌】昭和2年

 中津公園 p283/466
舊城本丸の下段を平げて公園となす、
始め
奥平與四郎・生田晋・和田彌六郎・
中里耕多・今澤和太郎・岩田茂穗等
一社を設け、各金壹圓を醵出して社費に供し、
名づけて盡世會と云ふ、

明治十二年(1879)三月
社員各々その子弟をして
手づから鋤犁を執り、
其の開園の勞に服せしめ、
曩に中津町民より願ひ下げたる
舊城下段の池を平げ、
汚穢を除き荊棘を苅り、
而して市内有志より寄せたる
花卉竹木を適所に移植す、
是に於て稍々公園の體をなすに至れり、

園内甚だ廣からず、
且つ東崖南崖等
個人の別莊を構ふるあり、
風致を損する頗る大なり、

然れども略々町の中央に位するより、
祝賀慶吊其他
公開の會合には多く使用せられたり、

其上段には神宮分靈殿及
三所神社・城井神社等あり、
世俗には之をも普通公園となし、
神詣する人
逍遥する客
四時絶ゆることなし、

北崖を攀ぢて眸を放てば
遙に周防洋を隔てゝ
防長二州の雲山を水天縹緲の間に望み、
對岸なる吹出濱古表社の松原亦近く
指顧の中にあり、
山國川の淸流は二派に岐れ小祝島を抱き、
洋々として海口に朝し、
其の北岸一帶白沙靑松の裏より
漁帆の隱見するなど
稍々俗膓を洗ふに足るべし

上段には神社の外、
大久保麑山紀念碑 ※明治21年(1888)4月建立
  ※大久保麑山歿:明治18年(1885)8月18日
西南中津隊紀念碑
芭蕉句塚
齊進館等あり、

下段には
中津神社、
白石照山紀念碑     ※明治37年(1904)建立
      ※白石照山歿:明治16年(1883)10月3日
             現在、記念碑は福澤公園に建立。
福翁獨立自尊碑等あり。 ※明治37年(1904)7月建立
      ※福澤諭吉歿:明治34年(1901)2月3日

 題扇城圖  村上松瀨
當年老黠頗豪英。
苦肉謀成破修盟。
物變星移何所見。
空傳犬丸扇城名。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/283

昭和二年七月十五日印刷
昭和二年七月二十日納本
編纂兼発行者 社団法人 大分県下毛郡教育会
印刷者    安倍 豊
       東京市本郷区曙町三番地
印刷所    一番館印刷所
       東京市神田区今川小路一丁目三番地
発行所    社団法人 大分県下毛郡教育会
       大分県下毛郡中津町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/462

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[中津城公園・独立自尊碑]
「独立自尊碑」は、福澤諭吉の偉業を称え、
明治37年(1904年)7月8日、
福澤家のご意思に沿って中津城公園に記念碑を建立されました。
当時は公園地中央にありましたが、
昭和7年(1932年)10月18日に、現在の位置に移設されました。
http://www.city-nakatsu.jp/kankodocs/2013050700019/

[白石照山の墓・記念碑【大字角木】]
白石照山は、文化12年(1815年)中津藩に生まれました。
記念碑は福澤公園に建立されています。
http://www.city-nakatsu.jp/shihou/22-09-15/bunkazai.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月12日(火)
[福翁・白石照山・大久保麑山の三大紀念碑]
【中津及中津人】淸原蘇子著
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2150318.html

[中津城址][大久保麑山先生碑]【史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第2輯】

[中津城址]
[大久保麑山先生碑]
【史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第2輯】

【史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第2輯】
 大正12年12月
 大分縣史蹟名勝天然紀念物調査會
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2390897/1
中津城址] p50-51/78
一 所在地
  下毛郡中津町大字二ノ丁一、二七八番
二 地目
  公園地
三 地積
  二、四六〇坪
四 管理者
  中津町長
五 現状
  中津城址ハ中津町ノ西北部
  山國河畔ニ在ツテ、
  舊本丸ハ今中津公園トナツテオル。
  ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2390897/50
  ―略―
上段ヨリ南方低キ所
卽チモト本丸下段ノ跡ニハ、
村社中津神社(舊松ノ御殿及ビ焔硝倉ノ址)齊進館、
獨立自尊碑
大久保麑山先生碑等ガアル。
 ―略―
又三ノ丁和田豐治氏別邸内ニハ、
本丸ノ水門ガ舊時ノママニ保存サレテ居ル。

コノ門ハ廢城ノ際
一旦或ル人ノ私有ニ歸シタガ、
後更ニ扇城女學校ニ移サレテ久シク其ノ校門トナッテ居タ。

然ルニ同校ハ本年他ニ校舎ヲ新築シテ移轉シタ結果、
マタモ賣却サレテ和田氏ノ有ニ歸スルニ至ッタノデアル。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2390897/51

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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