大久保麑山

福澤諭吉:白石照山:大久保麑山:小野梓【大分県六大偉人綜合年譜】

福澤諭吉白石照山大久保麑山小野梓【大分県六大偉人綜合年譜】

【大分県六大偉人綜合年譜】
はしがき p6/73
ここに大分県六大偉人と稱するは、
縣教育会で定められた
三浦梅園先生田能村竹田先生帆足萬里先生
廣瀬淡窓先生福澤諭吉先生
及び軍神廣瀬中佐の六先哲を指す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/6
弘化四丁未(2507) [西暦1847] p53/73
《諭吉一四才》
始て塾へ通學す―
塾は二三回変更せしが
北門通の白石照山(五郎右衛門)の塾へは
四五年間通學して漢學を修む―
左傳は通讀十一回に及び最も得意とす―
修學の餘暇
米搗畑仕事其他
諸般の鄙事に勤めて家計を助く
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/53
嘉永三庚戌(2510) [西暦1850] p54/73
《諭吉一七歳》
白石塾に通學中他日萬一の窮に應ずる一助として
同塾生按摩渡世の者に就て按摩を稽古す
(當時より自力自活の姿あり)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/54
安政三丙辰(2516) [西暦1856] p57/73
《諭吉二三歳》
九月三日
兄三平中津にて病歿す三三
報により中津に帰り福澤姓に復す―
家の借財整理の為
舊師白岩照山?臼杵に訪ひ
伊東東涯書入の明經隨註十三冊以外の蔵書全部を臼杵藩に賣拂ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/57
明治十六癸未(2543)[西暦1883] p64/73
十月三日 白石照山 歿 六九

明治十八乙酉(2545) [西暦1885] p64/73
大久保麑山 歿 六〇

明治十九丙戌(2546) [西暦1886] p64/73
一月十一日 小野梓 歿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/64
昭和三年十一月廿五日印刷
昭和三年十一月三十日発行
編纂兼発行者 大分県教育会
印刷人    畠山一夫
       大分市南新町二千七百十三番地
印刷所    豊州印刷所
       大分市南新町二千七百十三番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/70

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

加来金升(幼名・加来佐太郎):[東京高等工業学校・工業図案科選科卒業]

加来金升(幼名・加来佐太郎):[東京高等工業学校・工業図案科選科卒業]

明治18年(1885)、
大分県宇佐郡院内町(現・宇佐市)の生まれ。
父政太郎は恵良家より養子に入り、
母サダは中津の恩田家より嫁いだ。
茶屋ノ原の[院内高等小学校]第1回卒業生。

[中津中学校]
明治38年(1905)卒業

[東京高等工業学校]工業図案科選科
明治41年(1908)7月入学
明治42年(1909)7月卒業

明治42年(1909)大江製版所(麻布笄町)
明治43年(1910)大江印版所(麻布区笄町八一)
明治44年(1911)九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手
大正7年(1918) 九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手
大正8年(1919)
大正9年(1920) 日本印刷界社(大阪)
大正10年(1921)~13年(1924) 菊地工場(東京)
大正14年(1925)~アサヒ印刷所(東京)

[中津中学校]明治38年(1905)卒業

【大分県人士録】大正3年4月4日発行
[中津中学校]
第七回卒業生(六十五名)明治三十八年 p262/291
加来金升 宇佐東院内 正則英語学校  p263/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/263

[東京高等工業学校]工業図案科選科:明治42年(1909)7月卒業

【東京高等工業学校一覧】明治41-42年
学年暦(明治四十一、四十二年)
明治四十一年七月九日 第一学期始ル p3/150
同     七月九日 夏季休業始ル
同     九月十日 夏季休業終ル
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813047/3
第九章 選科生及聴講生       p25/150
第四十八条
選科生トシテ入学スル者ハ左ノ各号ノ資格ヲ具ヘ
且本校ニ於テ適当ト認メタル者ニ限ル
一 品行善良身体強健ナル者
二 年齢萬十七年以上ノ者
三 三箇年以上引続当該工業ニ従事シ居ル者
  又ハ工業学校卒業生
第四十九条
選科生ノ修業年限ハ二箇年以内トス
選科生ノ就業時間ハ別ニ之ヲ定ム
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813047/25
生徒現数(明治四十一年十一月三十日現在) p41/150
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813047/41
工業図案科 選科             p46/150
第一年(十名)
加来金升 大分 平
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813047/46

【東京高等工業学校一覧】明治42-44年
東京高等工業学校一覧 従明治四十二年 至明治四十三年 p2/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813048/2
明治四十二年七月 工業図案科 選科修了(二名)    p70/291
加来金升 大分 平
大江製版所(麻布笄町)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813048/70

東京高等工業学校一覧 従明治四十三年 至明治四十四年 p116/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813048/116
明治四十二年七月 工業図案科 選科修了(二名)    p187/291
加来金升 大分 平
大江印版所(麻布区笄町八一)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813048/187

【東京高等工業学校一覧】明治44-大正2年
東京高等工業学校一覧 従明治四十四年 至明治四十五年 p1/362
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813049/1
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p69/362
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813049/69

東京高等工業学校一覧 従大正元年 至大正二年     p172/362
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813049/172
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p244/362
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813049/244

【東京高等工業学校一覧】大正3-4年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p75/129
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940871/75

【東京高等工業学校一覧】大正4-5年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p77/135
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940872/77

【東京高等工業學校一覽】從大正5年至大正6年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p77/131
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084314/77

【東京高等工業学校一覧】大正6-7年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p82/137
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940873/82

【東京高等工業学校一覧】大正7-8年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p84/140
加来金升 大分 平
九州帝国大学工科大学
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940874/84

【東京高等工業学校一覧】大正9-10年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p89/146
加来金升 大分
日本印刷界社(大阪)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940876/89

【東京高等工業学校一覧】大正10-11年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p90/152
加来金升 大分
菊地工場(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940877/90

【東京高等工業学校一覧】大正11-12年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p94/176
加来金升 大分
菊地工場(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940878/94

【東京高等工業学校一覧】大正13-14年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p95/158
加来金升 大分
菊地工場(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940879/95

【東京高等工業学校一覧】大正14-15年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p97/158
加来金升 大分
アサヒ印刷所(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940880/97

【東京高等工業学校一覧】大正15-16年
工業図案科 選科
明治四十二年七月修了(二名)             p98/161
加来金升 大分
アサヒ印刷所(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940881/98

【東京高等工業学校一覧】昭和2至3年
工業図案科 選科                   p106/174
明治四十二年七月終了(二名)
加来金升 大分
アサヒ印刷所(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466059/106

【東京高等工業学校一覧】昭和3至4年
工業図案科 選科                   p106/179
明治四十二年七月終了(二名)
加来金升 大分
アサヒ印刷所(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466078/106

【東京工業大学一覧】昭和4至5年
工業図案科 選科                   p122/214
明治四十二年七月終了(二名)
加来金升 大分
アサヒ印刷所(東京)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448299/122

《九州帝国大学 応用化学教室 助手 加来金升》
大正3年(1914)~大正7年(1918)

【九州帝国大学一覧】附・第八臨時教員養成所一覧. 従大正3至4年
工科大学 職員           p32/113
応用化学教室            p34/113
助手 加来金升 大分        p35/113
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940192/35

【九州帝国大学一覧】附・第八臨時教員養成所一覧. 従大正4至5年
工科大学 職員           p33/108
応用化学教室            p35/108
助手 加来金升 大分        p36/108
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940193/36

【九州帝国大学一覧】附・第八臨時教員養成所一覧. 従大正5至6年
工科大学 職員           p36/117
応用化学教室            p37/117
助手 加来金升 大分        p38/117
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940194/38

【九州帝国大学一覧】附・第八臨時教員養成所一覧. 従大正6至7年
工科大学 職員           p36/124
応用化学教室            p38/124
助手 加来金升 大分        p38/124
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940195/38

【九州帝国大学一覧】附・第八臨時教員養成所一覧. 従大正7至8年
工科大学 職員           p54/147
応用化学教室            p56/147
助手 加来金升 大分        p56/147
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940196/56

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『斜陽』の家と羊の石像[斉藤良夫]
教育者・加来金升
母校に「200 円」の奨学資金
加来金升は大分県宇佐郡院内町
(現・宇佐市)の生まれ。
「大分の彼の母校である東院内の小学校に講堂を寄付し、
奨学金制度を作ったりしたので校庭に胸像があったそうだが、
昭和の初期の事なのでどうなっているのかわからない」。
この『雄山荘物語』の記述から私は宇佐市にメールと電話で、
小学校のその後を問い合わせた。以下が回答である。
「加来金升(幼名・加来佐太郎)は、院内町原口の生まれ。
茶屋ノ原の院内高等小学校第1回卒業生で、
中津中学、東京高等工業を卒業し、
現在の九州大学に助手として勤務後
朝日印刷会社を創設した。
昭和 5 年に 200 円の大金を奨学賞の資金として寄付した。
学校ではその利子で、各学級で1名(分校も含む)の優秀児童に授与していた。
諸物価の高騰で利子では不足となり、元金の消滅するまで授賞した」
(「東院内小学校誌」)。
東京高等工業は現在の東京工大の前身で、加来は応用化学を修めた。
小学校は町の合併や小学校の統合で、
現在は「院内中部小学校」となっている。
私の電話で、学校側はわざわざ金庫をあけて卒業生名簿を調べてくれたが、
保存してあったのは大正時代以後の名簿で、
院内中部小学校には胸像ばかりでなく加来の面影を残すものはないという。
とは言っても、奨学資金の寄付にみられるように、
加来が後輩の育成・教育に尽力していたことは明らかだ。
http://www15.plala.or.jp/timebox/top/05komamori/aun/syayounoietohituji-honbun.pdf

『斜陽』に描かれた建築空間の考察
『斜陽』に描かれた建築空間 (6)
2000年10月 比較生活文化学会 発表論文
西島 恒佳 (西島建築設計工務)
第6章 河田子爵
これについては実際にこの山荘に住んでいた俳人 林 周平の娘、
林 和代が『雄山荘物語』で詳しく記述している。
下曽我の別荘「大雄山荘」は、加来金升氏により、昭和5年春に竣工した。
加来氏は、明治十八年大分県に生まれ、
父政太郎は恵良家より養子に入り、
母サダは中津の恩田家より嫁いだ。
妻である皓の父は海軍軍人であり、
妹の夫や親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ人、
海軍軍人、郵船会社社長などがおり、
後にこの家に住むことになる太田静子の母の弟も、その一人であり、
上の畑家から大和田家に養子に行き、逓信次官や会社社長をした人物で、
『斜陽』では、「和田の叔父さま」として登場する(第1章相関図参照)。
文中、河田子爵として登場する
加来金升氏は、現在の東京工業大学の前身、
東京高等工業学校で応用化学を修め、
九州大学で講師をしていたが、
写真印刷の技術の研究が固まったので東京でアサヒ印刷所を設立。
技術的には日本でも屈指で、
戦時中でも軍事関係の仕事を中心に成長を続けたが、
四百名もいた社員は次々に出征し、会社の経営が立ち行かなくなり、
凸版印刷に技術も社屋も売ってしまった。
彼の子供のころからの夢は建築家であり、
アサヒ印刷所の芝浦の社屋も
地下一階、地上二階の円筒形に直線を組み合わせた
大正期のモダニズムを汲むデザインであったそうだ。
http://www.archi-nishijima.co.jp/portfolio/ronbun/ronbun6.htm
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《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行

《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行

[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の伯父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、※
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、       (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、         (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
翌年(1883)文部省より特別功勞者として六國史及び硯石を賜與せらる、
明治十八年(1885)八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治廿二年(1889)門人相議して資を募り豐碑を公園地に建つ。
その撰文は中村正直なり、
麑山、人と爲り溫厚篤實親に事(つか)へて至孝なり、
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ、
其の子弟に接するや、常に溫顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く、
子弟深く麑山の學徳に服せり、
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、長恂は早死し、次愼次家を繼ぎ新聞業を營めり。
※叔父⇒伯父:平成26年4月9日 小野一雄
[豊前人物志]
定價 金 五圓
郵税 金 三十錢
昭和十四年三月 十日 印刷
昭和十四年三月二十五日發行
著作兼發行者 山崎有信
       旭川市六條通八丁目左十號
       振替口座 小樽一四九七〇番
印刷者    早坂善太郎
       東京市牛込區榎町七番地
發行所    山崎有信
       旭川市六條通八丁目左十號
       電話二〇八三番
       振替 小樽一四九七〇番

[豊前人物志](復刻版)
昭和四十八年三月一日発行
頒価  一、二〇〇円
著 者 山崎有信
発行者 友石孝之
発行所 美夜古文化懇話会
    福岡県行橋市行事出店町
    井本清美 方
    電話(○九三〇二)②○一三二
    振替(下関)一五九六
印 刷 株式会社 文信堂印刷所行橋工場
    行橋市神田町四五七
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[福翁・白石照山・大久保麑山の三大紀念碑]【中津及中津人】淸原蘇子著
中津及中津人 p12-14/134
(一)緒論…福翁…麑山…照山…自然美
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、
今日の吾中津人を爲せる三大恩人たらずんばあらず、
彼の三大恩人が百年の身血を人材の事に盡す、
中津は普く啓發せられ頴才を出したる處、
尊敬に價すべく是れ疑ひなき事實として、
何人も否まざるべし、
此の光榮ある過去の歴史は今日の吾中津人を養成せり、
照山派の學徳、
慶應派の學徳、
麑山派の學徳、
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2150318.html

≪近代日本人の肖像≫[国立国会図書館]
[中村正直]なかむら まさなお
天保3年5月26日~明治24年6月7日(1832~1891)
号・別称等 敬宇(けいう)
東京生まれ。教育家。父は幕府の同心。
昌平坂学問所に学び、
安政2年(1855)学問所教授、
文久2年(1862)幕府の儒官となる。
慶応2年(1866)幕府遣英留学生の監督として渡英。
維新で帰国し静岡に移り、
『西国立志編』『自由之理』を翻訳刊行、ベストセラーとなる。
明治5年(1872)上京し、大蔵省に出仕。
6年(1873)家塾同人社を開設。
7年(1874)明六社に参加。
キリスト教にも関心を持ち受洗。
女子教育・盲唖教育にも尽力した。
14年(1881)東京大学教授、19年(1886)元老院議官。文学博士。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
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《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》

《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》

【大分県紳士録】
明治37年(1904)5月2日印刷
明治37年(1904)5月5日発行
発行兼著作者 大悟法雄太郎
       大分県下毛郡大幡村239番地
印刷者    石川金太郎
       東京市京橋区西紺屋町267番地
印刷所    株式会社秀英舎
       東京市京橋区西紺屋町267番地
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/446

[伊藤田金治君]下毛郡三保村住 安政5年(1858) 2月生 p117/457
幼年の頃君は中津町の儒者有馬先生に就て数年間漢学を修め
後更に仝地の河野武造氏並に
大久保先生に就て専ら漢学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/117

[大江鵬翼君]下毛郡中津町住 明治2年(1869) 11月生 p136/457
幼年の頃地方の儒者白石、大久保の諸先生に就て漢学を修め後
中津市学校に入りて普通学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/136

[梅津春五郎君]下毛郡中津町住 慶応元年(1865) 11月生 p171/457
幼にして地方の碩儒橋本監巌、大久保經三の諸先生に就て漢学を修め
長ずるに及び大分県公立中津中学校に入りて普通学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/171

[深水民次郎君]下毛郡深秣村住 元治元年(1864) 4月生  p188/457
明治十年より中津市学校に入りて翻訳書算術等を攻修し
十二年より更に仝地大久保麑山、橋本将多を始め
大分町小川含章の諸先生に就て和漢学詩文等の教授を受く
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/188

[荒金由二君]下毛郡中津町住 慶応3年(1867) 3月生 p192/457
明治14年小学校を卒業し
翌15年より中津町片端なる佐々木清氏に就て医学を修め
傍ら大久保先生の私塾に通勤して漢学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/192

[平田吉胤君]下毛郡城井村住 慶応2年(1866) 7月生 p215/457
明治11年碩儒園田朝弼氏の設立に係れる
宇佐郡駅館村大字法鏡寺学半舎に入りて修業すること二ヶ年
転じて下毛郡中津町大久保徑三先生の門に遊び
後更に西国東郡草地村涵養舎に入り
鴛海量容先生に就て数年間漢学を修業す
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/215

[板塲三七郎君]宇佐郡津房村住 元治元年(1864) 6月生 p223/457
十一二才の頃より十五六才の頃迄中津町養成校に於て普通学を修め
十五六才の頃より十七八才の頃迄
仝町白石、大久保両先生の私塾を始め
日出町帆足先生の私塾に・・・
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/223

[布津紋吉君]宇佐郡天津村住 文久3年(1863) 7月生 p296/457
十五才の時より十七才の時迄
中津町大久保先生に就て漢学を修め
十八才の時更に岡山に赴き
平松淡海先生の私塾に入りて同じく漢学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/296

[北信太郎君]宇佐郡駅館村住 慶応3年(1867) 1月生 p318/457
幼年の頃地方の儒者園田、大久保の諸先生に就て漢学を修め
後更に宇佐郡立中学校に入りて普通学を修む
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/318

【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

[大井憲太郎]年譜 p454
万延元年(一八六〇)十八歳
名を大輔と改め、三月、中津藩儒者大久保蔵之助に、入門、儒学を学ぶ。
[明治文学全集12]「大井憲太郎・植木枝盛・馬場辰猪・小野梓 集」
 筑摩書房 昭和四十八年三月三十日発行

《大久保麑山先生》和田豊治:[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/409/

大久保慶藏先生:布津紋吉翁【宇佐郡人物大鑑】上巻:大正12年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/454/

布津紋吉翁[長男・布津純一:東京帝国大学][二男・布津立一:早稲田大学]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/455/

大久保徑三先生:平田吉胤【下毛郡史】大正元年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/462/

《平田吉胤:豊前銀行株式會社 取締役》
【人事興信録. 7版】大正14年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1903/
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