◆小野又一

[足立道五郎軍医大尉]哈爾浜第二陸軍病院編成表(開戦時)「資料通報(B)第79号 哈爾浜第2陸軍病院…昭和26年3月6日」

  資料通報(B)第七十九号
    昭和二六年三月六日
    留守業務部第三課
    防衛研究所図書館
標題:表紙「資料通報(B)第79号 昭和26年3月6日」
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  資料通報(B)第七九號
哈爾浜第二陸軍病院{関 五七 満四〇 監一五五三二
   昭和二六年三月六日
   留守業務部第三課

本資料は本病院の海林移動迄に於ける概観を
六名の呼出調査(近郊)に依って得た資料であって
調査の進捗に伴ひ補備訂正を要するも
取敢えず送付するから参考とせられたい
    目  次
一、哈爾浜第二陸軍病院行動概況図
二、病院の生ひ立ち及変動竝開戦狀況
三、開戦時の編成
四、留守宅通信上の使用名
五、時期別、行動群別要調査事項
六、資料保持者名簿
七、病院建物要図
  (1) 哈爾浜第二陸軍病院
  (2) 満赤病院に於ける 哈爾浜第二陸軍病院
  (3) 海林に於ける哈爾浜第二陸軍病院(後送す)
  (4) 牡丹江(関東第五七陸軍病院)に於ける
     哈爾浜第二陸軍病院
C16120023200-01
〔画像〕C16120023200-01

哈爾浜第二陸軍病院行動概況図
C16120023200-02
〔画像〕C16120023200-02

第二表
哈爾浜第二陸軍病院編成表(開戦時)
[病院長 軍医少佐 有田浩吉]
庶務科 科長     医中尉  螺沢 健一
    区分 一般庶務
       将校  ヱ准尉  市川 清則
       下士官 ヱ伍長  山崎  正
       兵及軍属 ヱ上  平野 源藏
                山本 由藏
                山口 孫次
            雇員  小池 嘉喜
                岡  文子
    区分 患者業務
       下士官 ヱ曹長  福永 德好
            雇員  有吉 勝惠
    区分 敎育隊
       将校 兼医大尉  足立道五郎

經理科 科長 兼   薬中尉  谷  順雄
    区分 附
       下士官 主軍曹  岡本 一元
       兵及軍属 傭人  宮里 礼子

衛材科 科長     薬中尉  谷  順雄
    区分 附
       将校  ヱ准尉  小川  稔
       下士官 ヱ曹長  森  鈴男
       兵及軍属 ヱ上  春田  潔
                福田 久世
                近藤  博

診療科 区分 内科
       軍医  医中尉  安田  實
       看護婦      山井 愛子
                小暮みね子
                武重 笑子
                山口マチ子
    区分 伝染
       軍医  医大尉  井橋節太郎
       看護婦      福島 ふさ
    区分 外科
       軍医  医大尉  足立道五郎
       婦長       大石 なか
       看護婦      石島 てる
                飯島とみえ
                灘波フミヨ
                吉田シヱン
    区分 歯科
       軍医  嘱託   弘山 秀直
C16120023200-06
〔画像〕C16120023200-06
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標題:「資料通報(B)第79号 哈爾浜第2陸軍病院 関57
    満40 監15532 昭和26年3月6日」本文
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レファレンスコード C16120023200
件名 「資料通報(B)第79号 哈爾浜第2陸軍病院 関57
    満40 監15532 昭和26年3月6日」本文
防衛省防衛研究所 陸軍一般史料 中央 終戦処理
資料通報(B)第79号
[規模]14
[種別]図
作成年月日 昭和26年3月6日~昭和26年3月6日
作成者   留守業務部第三課
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[足立道五郎先生] 「足立大夫身体健康」人民解放軍一七一医院:昭和59年(1984)10月13日【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

   人民解放軍一七一医院
[一九八四年(昭和59)]十月十三日
朝食もそこそこに仕度して迎えの車を待った。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/212

私たち旅行団は一七一医院に記念品として
掛時計と血圧計五台を贈った。

私は銭通訳を介して、
足立(道五郎)先生が
今度の旅行に参加できなかった事情を、
[遊]院長はじめ中国側の皆さんに伝えた。

[遊]院長は
「足立大夫はそんなに多忙な仕事をしているのか、
 身体は健康か、
 太太(奥さん)は元気か。」
と矢継早にたずね
足立(道五郎)先生夫妻を気遣っていた。

私は「お二人とも元気ですからどうぞご安心下さい。」
と重ねて伝えた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/214

政治委員が盃を手に立ちあがり
「中日友好万歳」と乾杯の音頭をとった。
それにつづき全員で声高らかに乾杯の盃を干した。

[遊]院長も立ちあがって、
「足立大夫身体健康」と乾杯の盃をかかげると、
また全員がそれにつづく。
中国に人たちはこうした晩餐会では乾杯をよくやる。
あちらでもこちらでも乾杯、乾杯の声があがる。
[遊]院長の目が涙で光っていた。
横に座る太田団長もハンカチで目頭を押さえていた。
無理もない二人は当時院長、主治医生としてともに
この医院の建設に盡してきた間柄だった。

宴たけなわのころ、
[張績仲]副院長が珍しい物を持ってきて見せてくれた。
それはあのころ治療に当った
抗美援朝志願軍負傷兵の病歴表(カルテ)だった。
そこには傷病名や傷の程度、
そしてそれぞれの医生が行った治療の経過や、
護士の看護記録が詳しく記入され、
主治医生の承認印やサインがそのまま残っていた。

足立(道五郎)先生の印影や、
太田先生のサインを見たとき、
三十余年前のあのころに戻ったような錯覚にとらわれた。

[張]副院長は
「あのころの病歴表や統計表など
 記録した物は全部保管してある。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/215
といい、さらに
「安田同志の画いた
 毛沢東首席の肖像画も大切に保管して
 ある。」といった。
その肖像画は一九五一年(昭和26)十月一日
第三回国慶節祝賀に安田さんが画いたものであった。
これを聞いた安田さんは
とびあがらんばかりに喜び感激していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/216

<写真>一九八四年(昭和59)十月十三日
1984.10.13 九江一七一医院にて
右より
筆 者 横山甲子蔵
王子玉 元護理科主任
妻   横山トシ子
p215【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p215【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/215

  あとがき
多年の念願であった「流転の青春」を書き終り
肩の荷がおりた思いである。

拙著に過分な序文をお書き下されました
足立(道五郎)先生・※[序文]足立(道五郎)先生

太田先生はじめ、 ※[序文]太田修輔
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/8

貴重な資料や写真をお寄せ下された方々、
またややもすれば鈍りがちになる筆に、
叱咤激励の鞭を当ててくれた諸友の友情に
深く感謝申し上げます。

本書の出版に当って種々お骨折り下された
中信凸版印刷株式会社の各位、
とりわけ終始ご盡力いただいた
平沢課長様に深甚なる謝意を表します。

なお題字は「峯玉」の雅号で書を学ぶ
姪の米窪京子が筆を染めてくれました。
一言「有難う」を申し添えたい。
 一九八六年(昭和61)二月
       横山甲子蔵
p238【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p238【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/238
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/242
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[足立道五郎先生] 九江会の結成[昭和58年(1983)]五月伊豆長岡で第一回総会【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  第七章 再び九江を訪ねて
      九江会の結成
光陰夢の如し。
昭和も五五年(1980)になった。
中国から帰り
死にもの狂いで生きる闘いをすること二七年、
振り返れば一場の夢であった。

一九八二年(昭和57)五月
所用があって仙台に出かけた
私と妻は友人をたずねた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/204

翌日仙台からの帰り郡山に住む
太田先生のお宅にお邪魔した。
初年兵当時からの親友鈴木君も郡山に住んでいた。
太田先生のところで三夫婦揃って餃子を作り
当時を偲びながら、
ここで私は昨夜寝ずに考えた
九江会の計画を相談した。
先生も、鈴木君も賛成で、
それなら堤さんにも話してみようと
いうことになって、
その場で北九州市に住む
堤実隆さんに電話を入れた。
堤さんは
「いまごろやっとその気になったのか、遅すぎるぞ。」
といった。

太田先生は私に
「足立(道五郎)先生に相談するように。」といった。
もちろん私もそのつもりでいた。
私たちが九江時代を考える時、
足立(道五郎)先生、太田先生を抜きにしては
考えられなかった。

岡さん、鈴木君はじめ数名で九江会設立準備会をつくり、
発足へ向けて動きだし私が事務局を担当することになった。
準備会で案を練り
翌年[昭和58年(1983)]五月伊豆長岡で
第一回総会を開く運びとなった。

消息のあきらかな人六五名に趣意書と、
足立(道五郎)先生、太田先生の手紙を添えて
案内状を送った。

当日は三八名の出席があり、
この種の会としては盛会であった。
中国帰国者の会は他にも、
ハルピン満赤会、謝家溝会、回想四野会など
いくつも会があって、
それぞれ活動をつづけている。

九江会は会長を足立(道五郎)先生、
副会長を太田先生にお願いし、
今後親睦団体として活動することになったが、
この会は会則とか規約といった堅苦しいものはなく、
あの九江当時共に苦労を分ち合い、
助けあってきた仲間同志が、
年に一度集り当時を思い起し、
日中の友好と、
不再戦を語り合う親睦会で、
長岡の一夜は楽しい語らいの場となった。
メッセージを添えて九江会の結成を直ちに
九江一七一医院へ連絡した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/205

訪中の時期を一九八四年(昭和59)十月と決め、
別表のような計画をたて五月末までに希望者を募った。

費用は一人三十万円前後だったが、
いざ実行の段になるとそれぞれ支障ができ
最終的には十二名(別表)に決った。

すでに六十歳前後になっている仲間のあいだでは、
三十万の費用はそれほど重い負担ではなかったが、
まだほとんどの者は現役で働いており、
十日間仕事を休んで
この旅行に参加することが無理のようだった。

特に会長の足立(道五郎)先生は
当初参加を予定しておられたが、
七月に健康保険法の改正が行なわれ、
十月から実施という状況を目の前にして、
病院長という重責のある(足立道五郎)先生には
十日間病院を休むことは到底無理であり
残念ながら取消された。

私はあの解放戦争当時から
(足立道五郎)先生の
責任感の人一倍強いことを尊敬していた。
また、私もいま社会保険労務士として
健康保険法のいかなるものかをよく知っていた。
そのため(足立道五郎)先生に無理に
お願いすることはできなかった。
その代りあちらに行ったら
(足立道五郎)先生のこうした現状と、
お元気で活躍しておられることを
皆さんに伝えようと考えた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/206

 九江会訪中国旅程表:昭和59年(1984)10月10日~19日
p207-1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p207-1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

 参加者十二名
p207-2【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p207-2【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/207
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
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[足立道五郎先生] 祖国の風は冷たかった【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  十二年ぶりに踏む祖国の土
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/198
一九五三年(昭和28)八月十一日
ついに私たちは祖国の土を踏んだ。
それはまぎれもなく日本の土であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/199

  祖国の風は冷たかった
帰国した私は妻と長男を四国の妻の実家に預け
職探しに走り回った。
妻は実家で二男を出産した。
私はこの二男に「幸弘(ゆきひろ)」と命名した。
深い意味もなかったが「末永く幸多かれ」
と願う親の心情だった。

職探しをしながら中国で苦楽を共にしてきた
友人たちの消息を求めた。

幸い足立(道五郎)先生も、太田先生も、
堤さんも、橋本さんも、鈴木君も
みな無事帰国していた。
誰も彼もそれぞれ職を求め
生活の安定のために苦労していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/200
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院との別れ【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  九江第六陸軍病院との別れ
九江の生活は私たちが解放軍に従軍してから
最も落ちついた、
また変化の多かった時代であった。

九江に来るまでは、
ひとつ所に長くても一年足らずで、
戦況の進展につれて移動移動の連続だった。
ここに来てようやく少し落ちついた。
社会情勢も変化した。

私たちにとってなんといっても
一番大きな変化は、
軍服を脱いで薪金制になったことだった。
そして結婚し子供も生れた。

これは私の人生にとっても最大の変化だった。
九江第六陸軍病院ここは私たち夫婦にとって、
いや私たち夫婦だけでない
ここで結婚した人々にとっても、
終生忘れることのできない
結婚生活の思い出の地になった。

「新婚生活」、それはその形式内容がどうあれ、
人間にとっては新しい人生の出発点として
深い意義があった。
こうした異境で、
このような環境の中での新婚生活であっただけに
尚更その意義は深かった。

一九五二年(昭和27)五月
平井出副院長・足立(道五郎)先生・太田先生
はじめ医生と大井民幹、
そのほか主だった医療技術者を残して、
半数の日本人はまた泰和へ移動することになった。

この時期にきて私たちを江西省の山奥にある泰和に、
それも全員ではなく護士や文書・工務員といった
比較的軽い職務にあった者だけを移動させたことに、
どんな理由があったのかいまでも私には理解できない。

だが、帰国の時期が近づいていることだけは分っていた。
泰和へ移動を命ぜられた者は、
命令のままに小さな船で@江を遡り泰和へ向った。

太田先生・足立(道五郎)先生そのほか
敗戦のときから、
或はまた第二後方病院が編成された時から数年、
牡丹江から雷州半島まで解放戦争に従事し、
そして再び東北へ、
さらにこの九江まで苦楽を共にしてきた
同志たちと別れなければならなかった。

特に太田先生・足立(道五郎)先生には
ほんとうにお世話になりました。

太田先生には
牡一の初年兵の時から衛生兵教育だけでなく、
学問も才能もない私は教えられることばかりでした。

足立(道五郎)先生には
妻 宮川トシ子が
やはり敗戦の時から、
五七院でお世話になってきた。

個性がはげしく欠点の多い私は、
この二人の先生のご指導と感化によって、
どれほど成長してきたことであろうか。

それを思えば感謝の気持ちで一杯だった。
そしてまた「すばらしい人生の師」を
得たことを幸せに思った。
涙もろい私は止めどもなく涙が流れた。
「生者必滅・会者定離」、
会った以上別離はまた定めでもあった。
「先生、みなさん、無事帰って下さい。
 日本でまた会いませう。」
そう言って別れた。

病院では別れを惜しみ送別会を開いてくれた。
思えば二年近く[遊]院長・[李]政治委員・[白]主任、
よく𠮟られた[王]護理科主任、
温厚な[寥]先生、
日本語の分る[王]先生、[張]士長、
みなさん親切に私たちの面倒をみてくれた。

謝々、再見、再見
(ありがとう、さようなら・さようなら)
p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/175

病院の正門に通じる通路の両側には
プラタナスの若葉が五月の陽を受けて緑に輝き、
その下に傷の癒えた傷兵たちが手を振って見送ってくれた。

昨年の今ごろは重い傷を負って
遠く朝鮮戦線から送られてきた負傷兵たちも、
私たちの献身的な治療看護の甲斐あって、
いまはこうして外を散歩できるまでに
快復している者も多くなった。
ほんとによかった。
嬉しいことであった。

「你們身体健康吧」
(あなたたち身体を大事にしてね)。
看とったもの看とられた者、
その立場は違っても
一年間も同じ病棟の中で生活していれば、
民族の違い言葉や習慣の違いを乗り越えて、
そこには人間対人間の愛情と信頼が
生まれてくるのであった。

もう二度とこの人たちと会うことはないだろうが、
どうか何時までも元気でいてほしい。
そう心に念じながら九江陸軍病院を後にした。
p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/176
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  九江第六陸軍病院
   日本人同志の分散
三度漢口に着いた私たちは各地に分散した。
全土が解放された中国大陸は経済建設と、
軍の正規化、抗美援朝に力を入れていた。

敗戦以来、数年生死を共にしてきた
私たちは肉親のような親しみを持っていた。

中南軍区司令部は私たちを、
それぞれの職務、技能に応じて
必要な部門に分散させた。

装蹄士の技術を持つ平塚要さんは
武昌の獣医処へ、
会計の人たちは経済部門へと分れていった。

医務関係者も湖北病院へ、
或は南昌の医学院へと行く者もあった。

田中民族幹事は漢口に残った。

私は足立(道五郎)先生・太田先生や
そのほか総勢五十名ほどで、
九江の病院へ行かされた。

また長江を船で下って九江に向った。
今度は洪水もなく、
迎えのトラックで病院に着いた。

九江の病院は中南軍区衛生部第六陸軍病院といった。
現在は中国人民解放軍一七一医院となっている。

この病院は旧日本軍の病院で、
俗称 椿部隊と呼んでいたと聞くがさだかではない。

建物は木造平屋建の病棟が六棟、
ほかに手術室・薬局・事務棟・炊事場・工作員病舎
などの附属建物があり、
相当大規模な病院だった。
戦火で破壊されることもなく、
そのまま病院として使用できた。
だが、まだ解放後日も浅くこれから建設の段階だった。

九江の病院にはさきに、
東北に行く際漢口で別れた
橋本萬寿治・佐藤夏美さんが来ていた。
ほかに日本人は七・八名しかいなかった。
私たちが着くと、
院長はじめ病院挙げて大歓迎してくれた。

院長は、「遊全挙」という名前の恰幅のいい、
三十を少しすぎたくらいの
見るからに温厚そうな、
大人(たいじん)の風格をそなえた人だった。

私たちは先生方から順に、
一人一人紹介され握手した。
その日は
一九五〇年(昭和25)十月二十五日であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/159

  病院建設

こうして一九五一年(昭和26)の春ころまでには
一応の体制は整った。
しかし医療面ではやはり日本人の力が大きかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/160

主な陣容は、
副院長・平井出博士、
主治医生・足立(道五郎)先生・太田先生、
眼科主任・栗原先生、
歯科主任・肱川先生、その下には技工士 堤さん、
ほかに高田先生・紺野先生・中村先生、
さらに実習医生・医助数名、

レントゲン室主任・星先生、その下に杉田さん、
病理検査室主任・詫間先生、
その下に平野さん、永井さん、鈴木君。
医務科護士主任・白石さん、(後に猪股士長)
護士長・本池さん。猪股さん・宮村さん・斉藤さん、
文書・岡さん・加藤さん・といった顔ぶれで、
このほか五十名ほどの護士がおり、
医療面の中心になっていた。

男の人で数人工務班の仕事をする者もいた。

  志願兵の負傷兵を迎える
病院の体制が整うと志願軍の負傷兵の
第一陣が送られてきた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/161

朝鮮戦線から送られてきた負傷兵のなかに、
どうも日本人らしい顔をした兵士がいた。
傷はそれほど重いようではなかった。
病歴表(カルテ)の名前は『年永貴』と書かれていた。
そして中国語を上手に話したが、
どうみても日本人であった。

彼は名を『年岡冨貴夫』という
立派な日本人であった。

ただ一人で解放軍戦闘部隊に従軍していたため
抗美援朝志願軍に加わり、
北鮮の戦場で傷ついたのであった。

年岡さんは退院後私たちの仲間に加わった。

後の調査ではこのように、
志願軍として朝鮮戦線に従軍した日本人の数は、
三十人とも五十人とも、
或は百人を超えるという情報もあるが、
その数はいまもなお確認されていない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/162
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
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[足立道五郎先生] 日本人の援朝参戦回避【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  日本人の援朝参戦回避
<1950年(昭和25)>
九月十五日
米・韓連合軍は仁川に上陸作戦を敢行した。

この仁川上陸作戦によって
朝鮮半島の戦況は逆転し、
三八度線を南下していた北鮮軍は、
反対に三八度線以北に敗退した。

連合軍は三八度線を奪回した勢いで、
北へ北へ進攻し鴨緑江の線に迫ってきた。

<1950年(昭和25)>
十月八日
彭徳懐の指揮する
中国人民抗美援朝志願軍の第一陣は、
鴨緑江を越えて北朝鮮へ進撃した。

これと時を同じくして、
第二後方病院の日本人工作員全員に
漢口への移動命令がでた。
詳しい理由の説明はなかった。

院長も政治委員も、
「長い間解放戦争に協力してくれて有難う。
 漢口に帰って学習したり、
 また新しい工作に頑張るように。」
といって別れを惜しんでくれた。

牡丹江で第二後方病院が編成されて以来
三年有余言葉も十分通じない上、
立場も思想意識も違う中で、
中国人民解放戦争という壮大なドラマを
共に体験してきたこの人たちと、
いざ別れるとなると、
断ち難い惜別の情が湧いてきた。

この人たちは「抗美援朝 祖国防衛」
という大義名分を負って、
自らに与えられた職務の遂行に邁進していくであろう。

漢口に戻る私たちの前途には
なにが待っているのであろうか。
それは中国共産党だけしか分からないことだった。
病院では盛大な送別会を開いてくれた。
そしてお互いの健闘を祈り合った。

私たち百数十名の日本人は、
田中民幹・足立(道五郎)先生・太田先生を中心にして
三度漢口への旅にたった。
今度はきれいな旅客列車に乗せてくれた。
私は敗戦以来はじめて旅客列車に乗った。

日本人がなぜ抗美援朝志願軍から除外されたか。
中共側からの説明はなかったが、
おおよその判断はついた。

志願軍の中に日本人兵士が従軍していることの
国際問題化をおそれたのでないか?
十分考えられることであった。

一年前中華人民共和国が成立している。
新しい中国を承認した国は
まだソ連・インド・イギリスなど
二・三ケ国にすぎないが、
中共政府は も早や過去の日陰者ではなかった。
堂々と世界に新しい国家として宣言しているのだ。
解放戦争初期に私たち日本人を残留させたころとは
状況が変っていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/157

私たちの病院のように
大勢の日本人が行動を共にしていたところでは
この命令も徹底していたが、
戦闘部隊に三人・五人と少人数で
従軍していた日本人の中には、
朝鮮の戦場で戦い負傷した人たちもいた。

この人たちは、
名前を中国名に変えており、
数年の解放戦争のなかで、
区別のつかぬほど中国人に同化していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/158
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
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印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎先生] と野村都己さんは開平にいたころ既に結婚していた【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1
私たちは日本人だけで院内報を作ることにした。

その中に私は忘れ得ぬ一首を見つけた。

  為傷病 口にはやすし 吹雪く夜を
      看(み)とりにいで行く 同志(とも)は尊し。

護士 野村都己さん(現足立先生夫人)の作だった。
(先日このことを足立夫人にお話したらすっかり忘れていた)
この一首に当時の私たちの心情がよく詠まれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/120

  新鄭のひととき

第二後方病院には、
技術のすぐれた先生方がおったので、
護士の学習にはこと欠かなかった。
私も護士たちの中に入って、
足立(道五郎)先生や太田先生の講義に耳を傾けた。
統計護士といえども、
医療技術の学習は欠かせない大事なものだった。
初年兵のころ、
懸命に覚えた衛生兵の知識は大半忘れていた。

新鄭で勤務替えが行われ、
太田先生が三所から一所の主治医生に、
そして足立(道五郎)先生が三所の主治医生になった。
私は、足立(道五郎)先生の下で働くことになった。

足立(道五郎)先生は、
元ハルピン第五七陸軍病院の軍医であり、
また教育隊長でもあった。

牡丹江で第二後方病院が編成された時から一緒だったが、
その下で働く機会はなかった。

先生は、そのすぐれた医師としての技術だけでなく、
温厚な人柄と、誠実な工作態度は、
ひとり日本人だけでなく
中国人同志からも
「足立大夫、足立大夫」と尊敬され、
また院長・政治委員はじめ中国側幹部から
深く信頼されていた。

足立(道五郎)先生は、
太田先生やそのほかの日本人医生とともに、
この病院を支える太い柱の一本であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/146

  結  婚
足立(道五郎)先生と護士 野村都己さんは、
開平にいたころ既に結婚していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/156
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎先生] 黒石鎮における最初の病院建設・第二後方病院編成表【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

   黒石鎮における最初の病院建設
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/109
 第二後方病院編成表
一所の主治医生は、
最初 池田先生
(元牡一院教育隊長軍医少佐、
 池田先生は西先生とも呼んでいた。)

二所の主治医生は、
足立(道五郎)先生
(元ハルピン第五七陸軍病院軍医大尉)であった。

池田先生は一ケ月ほどしてハルピンの病院に転勤になり、
その後、太田先生(元牡一院軍医大尉)が
一所の主治医生を担当していたが、
負傷兵の増加で三所が増設されたため、
太田先生は三所の主治医生に変り、
足立(道五郎)先生が一所の主治医生となり、
二所の主治医生は西垣先生(元牡一院軍医大尉、博士)
が担当することになった。

一所に足立(道五郎)先生・二所 太田先生と
元日本陸軍病院の優秀な軍医が主治医生となり、
さらにその下に多くの
日本人軍医・元衛生兵・日赤・満赤・陸看の看護婦がおり、
また薬局には薬剤師の太田先生が、
化験室(病理検査室)には
詫間先生(元衛生准尉)や平野さんといった
p110【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p110【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/110
病理検査のベテランが配置され、
病院としての機能が整った。

日本軍の敗戦後解放軍に参加した元満軍の軍医や、
ハルピン医大をでた中国人の医生もいたが
その数は少なく、
また技術水準も低く、
そのため第二後方病院における医療面の中枢は
日本人医療技術者がしめていた。

そればかりではなく、
経理の面にも院部の供給科に桐谷・大橋、
一所に和田、
二所に佐藤、
三所に伊藤といった
会計のベテランがおり、
その面でも大きな役割りを果していた。

その他にも工務班、洗濯班などにも
大勢の日本人が働いていた。

私たち飼養班は院部の管理科に所属し、
街はづれの地主の馬小屋に落ちついた。
牡丹江当時とは違い忙しく、
日本人だけでは間に合わくなり、
郭さんと王さんの二人がきて、
郭さんが班長をすることになって
私は副班長になった。

郭さんは背の高いがっちりした、
少しずるがしそうな男だったが、
私たち日本人にはとても親切で、
「小高子班長」(背の低い班長)といって
私をひきたててくれた。

王さんは馬の飼育以外には取得のなさそうな
典型的な老百姓で、
いつも にこにこしながら
楽しそうに馬の飼育をしていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/111
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
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[足立道五郎先生] ハルピン満州赤十字病院のこと:昭和20年8月31日【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  ハルピン満州赤十字病院のこと
私はハルピン満赤病院には何の関係もない。
それなのになぜ満赤病院のことを書くのか。
それは後に私の生涯に大きな影響を与えることに
なるからである。
「ハルピン赤十字病院の最後・
 青春を犠牲に取残された従軍看護婦の記録」
の中から一部分を抜粋してみる。
(11) 昭和二十年(1945)八月八日、
   ソ連軍は突然ソ満国境を越え侵攻してきた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/97
ハルピン赤十字病院は、
関東軍の命令により病院長以下
全職員現地応召となった。
病院は関東軍野戦病院に編入された。
当院の看護婦は一一一名であった。
名簿別添(省略)
  -略-
(18) 梅林収容所に於ける救護活動、
昭和二十年(1945)八月三十一日、
梅林の入口附近にて
有田(浩吉)病院長を中心に露営した。
翌夕方露営地を出発、梅林収容地に向った。

此処は関東軍第五軍の材料廠のあった所で、
処々に点在する弾薬倉庫の中には、
もはや弾薬は何もなく広々としていた。

この倉庫の一棟が病院勤務者の宿舎となった。
昭和二十年(1945)の九月は六十年来の寒さで
土間の寒さが身に沁みて眠れなかった。
傷病兵の身の上が案じられた。

作業班により弾薬倉庫の一つひとつが、
それぞれ外科病棟・内科病棟・伝染病棟・
手術室・処置室・薬室等に改造された。

外科病棟、(手術室・処置室を含む)
有田(浩吉)病院長・
足立(道五郎)教育隊長・
看護婦長 俵ナカ(旧姓 大石)・七条シズ(旧姓 斉藤)・
看護婦 不動照子(旧姓 大木) 外九名、衛生兵十数名。

内科病棟、
安田(實)軍医・
看護婦長 太田善子(旧姓 中村)
看護婦 大井モンエ(旧姓 海野) 外十名、
衛生兵 佐々木班長 他十数名。

伝染病棟、
井橋(節太郎)軍医・
看護婦長 加川節子(殉職)
看護婦 森下東洋子 外十名、
衛生兵 上野班長 外十数名。

以上のような編成で
一応野戦病院としての形が整った。
この野戦病院において一面波陸軍病院の戦傷兵を
引き継ぎ救護に当った。
(中略)
間もなくソ連軍の命令により
牡丹江の収容所へ移動することになり、
梅林の救護活動を終えた。
しかし相当数の犠牲者の出たことは実に残念であった。

(19) 牡丹江収容所に於ける救護活動、
昭和二十年(1945)十一月
梅林収容所より牡丹江収容所へ移動した。
(中略)
牡丹江第一陸軍病院はすでに焼けて
使用不能になっていたために、
私どもはその焼跡を修復して
関東第五七陸軍病院を開設した。
(これを五七院と呼ぶ 筆者註)
病院における勤務員の配置は
梅林収容所と同じであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/98
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
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〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
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