◆小野又一

[足立道五郎] 「流転の青春」に呈して【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

   序 文
  足立道五郎
「流転の青春」に呈して。
永年、心の底から言いたかったことを、
文章の形であらわすことは、
文筆家でない素人にとって、
並大抵の苦労では出来ないことですが、
これを著書として作成し
世に問うことは人間として
非常に大きな喜びであろうと思います。
昔風に表現すれば男子の本懐と言えましょう。

横山甲子蔵さんは
一九四一年(昭和16)から中国大陸にわたり、
満州開拓青年義勇隊、日本陸軍、及び
中国人民解放軍に於て、
幾多の辛酸をなめながら、
十七才から二十九才までの全青春を費やしました。

その間の波瀾にみちた経過を、
可能な限り詳細に事実調査し又
文献資料をあつめた結果にもとづいて
客観的に書きつづり、
己に失われた青春の日々が自身にとって又
その仲間の人達にとって、
どのような意義をもっていたのかを
見つめようとしています。

私共、同じ集団の帰還者達が、
これまで書き残さねばと思いながら
残し得なかったものを、
彼は五年の歳月と努力と忍耐とをもって
見事成就して下さいました。

心から感謝の意を表したいと存じます。

私共、所謂戦中派の育った環境は、
所謂半封建的資本主義社会で、
受けた教育はその基本が教育勅語にありました。

忠孝が道徳の根本であり、
日本民族は優秀民族で
他の民族の上位に君臨すべきものと
信じて居ましたが、
突如敗戦を迎えたのでした。

私自身、一九四六年(昭和21)には
牡丹江捕虜収容所内の病院で診療していて
解放軍の管轄下に入りましたが、
代表して帰国要求を執拗にしたり、
日本人の逃亡者を手助けしたりして、
「狭隘な民族観念」を持つ
注意人物としてマークされていた様ですが、
解放軍は気長に自覚を持ったものと推測されます。

そして私は漸次解放軍内の民主的管理や、
あくまで人民の利益を守る軍規律の厳しさに感銘し、
その后彼等の情勢判断が的確で、
全国解放の事業が着々と進展してゆく
現実を見せつけられて、
自分のしている医療の仕事に、
単なるヒューマニズム以上の意義を認めざるを
得なくなったのでした。

終戦后四十一年の年月が経ちました。
中国もその后、
文化大革命と称する国を挙げての
誤った路線を漸く克服して、
新たな方向を求めながら進んでいます。

一方経済大国になった日本の中には、
私共の命と青春を代償に得た
「戦争を憎み平和を求める」
という尊い教訓が踏みにじられて、
再び「力こそ正義」とか
「祖国を守るため、
 愛する人の為に戦争に出かける」
等の言葉が語られ、
一部の政治家によって
その準備が始められていることに
大きな危惧を感じます。

私共は戦争をどの様な人達が
どのような理由をつけて起させるかを
身をもって体験して参りました。
「日中不再戦」
これが両国民の共通の願であり
目標であるべきだと思う次第です。
  昭和六十一年(1986)二月
p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p7【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/7
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
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[足立道五郎院長] 山口組三代目田岡一雄組長・安井病院安井浩副院長・津島信則医長:『ベラミ』昭和53年【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】

【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
著者    飯干晃一 著
出版者   徳間書店
出版年月日 1982.9
p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p2【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/2

  3 雷鳴の京に首領(ドン)は斃(たお)れた
京阪三条駅前、クラブ『ベラミ』

昭和五十三年七月十一日の夜。
あの吉田芳弘射殺からじつに一年十カ月が経っていた。
京都は夕刻になって、前線の通過にともなって、
熱雷が発生し不気味な稲妻とともに雷鳴が轟いた。
雨足ははげしくなり、
東寺の塔、京都タワー、二条城などが
青白い閃光を浴びて夜空に浮かびあがり、
花見小路でははげしい雨を避けて酔客までが走った。

京阪三条駅前のナイトクラブ『ベラミ』は
夏枯れのせいもあって入りが悪い。
そしてこの夜のショーは
“うたとリンボーダンス”だった。

午後九時二十五分。
すでに京都を襲った雷鳴は遠のき、雨もやんだ。
『ベラミ』の舞台。
外人リンボーダンス“ルークール”が終わり、拍手がおこった。

スレージの下手(しもて)寄り二列目のテーブルに、
山口組三代目田岡一雄組長がいた。
さすが首領(ドン)と呼ばれるだけに貫録は十分で、
髪は短く、目に光のある人物である。
彼は心臓の疾患をもっていたから
アルコールは口にせず、
オレンジジュースだった。
しかしリンボーダンスのショーをたのしんだ。

奥のテーブルにいた若い男が、
この時いきなり立ちあがった。
彼は一歩踏み出すようにすると、
田岡一雄組長を狙って拳銃を両手で構え、腰をおとした。
一発、二発。男は拳銃を撃った。
のちにわかったことだが、
この拳銃はコルト38口径、
コルトスペシャルと呼ばれるものである。

山口組三代目は頸(くび)を撃たれたのだ!
「うっ」
思わず田岡一雄組長はその首をおさえた。
一瞬のうち、それがどういうことなのかわからなかった。

田岡一雄組長の席よりステージ寄りにいた
左京区安井病院の安井浩副院長は右肩に弾丸が当たり、
もう一発は同病院の津島信則神経科医長に
右背中から腹部に達する銃創を与えた。
これは気の毒にもまったくの飛ばっちりであった。

二人の医師が倒れたのを見て、
一人のホステスはおどろきのあまり失神した。

安井浩副院長らは新任の医師歓迎会で二次会として
『ベラミ』に居合わせたのである。

撃った男は拳銃を構えたまま、
「どけ、どけっ!」
とわめいて、入口から逃げた。

この時、護衛の一人、羽根組組長羽根恒夫は
そろそろひきあげる時だ、とレジで精算をして、
ついでにいわゆる“田岡御殿”に
田岡一雄組長が帰ると電話をし、
受話器を握っている最中だった。

羽根恒夫は異変に気づいて、
首領(ドン)のテーブルにかけ戻った。
首領(ドン)を撃った男とすれ違いになったのは
まさに皮肉なことであった。
p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p38【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/38

山口組三代目のお供をしていたのは、
細田組組長細田利明(山口組若頭補佐)、
仲田組組長仲田喜志登、
弘田組組長弘田武志、
それに羽根恒夫の四人だった。

首領(ドン)が撃たれた!
「追え、追えっ!」
血相を変えた
細田利明と羽根恒夫は男のあとを追ったが、
狙撃犯人の姿は闇のなかへ消えていた。
“奇蹟”というか、
頸を撃たれた山口組三代目はしっかりしていた。
自らハンカチで出血をおさえて、
「わしは大丈夫や。
 隣の撃たれた人を早よう病院に運んであげにゃ」
青くなってすっ飛んできた
『ベラミ』のママの山本千代子に
田岡一雄組長はおちついて言った。
『ベラミ』のなかは騒然としている。
  -略-
事件後三十分、新聞記者たちが殺到してきた。
「撃たれたお医者さんの安井病院といえば
 トラさん(蜷川虎三前京都府知事)の主治医の病院じゃないか」
p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p39【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/39

しかし『ベラミ』のホステスのなかには、
山口組三代目の顔をよく知っている者がいて、
田岡一雄組長が負傷した“事実”をみていた。
「なにっ! 首領(ドン)が撃たれた?」
記者たちは撃たれた客のなかに
山口組三代目田岡一雄組長がいたと知って愕然とした。
彼らはいっせいに電話に飛びついた。
午後十時十分。
  -略-
p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p40【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/40

  -略-
手術の終わった山口組三代目は、
かけよった組幹部たちに、
「こんなに見舞いにきてくれたら、
 わしのほうが気をつかう」
と軽口を叩くぐらいに元気で、
五〇六号室にはいった。

田岡一雄組長には夫人の文子さん、
長男の満(みつる)氏がつきそった。

いっぽう『ベラミ』で、
流れ弾に当たった二人の医師は
救急車で自分たちの安井病院に運ばれ、
午後十一時から
足立道五郎院長自身の執刀で手術が行なわれた。

安井浩副院長の右肩からは比較的楽に弾が摘出され、
三週間の傷で済んだ。

津島信則神経科医長は腸で弾丸がとまり、
出血もひどいので手術はむつかしかったが、
足立道五郎院長は五時間に及ぶ大手術の末
ついに弾丸の摘出に成功した。

そして二カ月の重傷で済んだことに
関係者の愁眉はやっと開かれた。

手術の終りと同時に夜は明けた。
p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
〔画像〕p41【雷鳴の山口組 (徳間文庫)】1982
https://dl.ndl.go.jp/pid/12483761/1/41
(この作品は1979年3月徳間書店より刊行されました)
 徳間文庫  雷鳴の山口組
1982年9月15日 初刷
著 者 飯干晃一
発行者 徳間康快
発行所 株式会社 徳間書店
    東京都港区新橋四ノ一〇 〒一〇五
    電話(〇三)四三三・六二三一(大代)
    振替 東京四ノ四四三九二番
印刷 製本 凸版印刷株式会社
<編集担当 石井健資>
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年05月02日11:26
《足立道五郎》安井病院 院長
【近畿病院名簿 1980年度版】昭和54年(1979)
信和会 安井病院   左京区田中飛鳥井町89
           最終学       卒年度
杉山 茂  小(顧問)京都大学      昭和 6年
足立道五郎 院 長  京都大       昭和15年
安井  浩 副院長  京都大       昭和33年
藤井 洋一 事    四条商       昭和23年
小坂喜美子 内    東京女医専     昭和10年
馬杉 雄達 内    慈恵医大      昭和22年
津島 信則 神    東北大       昭和33年
藤村喜代治 外    京都府医大     昭和30年
三渕 浩道 薬    京都薬大      昭和38年
藤坂 邦彦 検査技師 兵庫職補      昭和33年
椎名 国夫 X線技師  千葉大技師学    昭和34年
西原 はる 総婦長  府医師会助産    昭和20年
鈴鹿日出子 副総婦長 大阪厚生学     昭和20年
平田 栄子 婦長   樺太庁豊原病院看養 昭和11年
民谷 清美 婦長   近畿高看      昭和51年
篠本 京子 婦長   京都大看学     昭和44年
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【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
出版者   医事日報社
出版年月日 1983.12
p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p1【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/1
安井病院  京都市左京区田中飛鳥井町89
足立道五郎 院長、外   京都大学 昭和15年
安井  浩 副院長、内  京都大学 昭和33年
津島 信則 精・神    東北大学 昭和33年
p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
〔画像〕p119【近畿病院名簿 1984年度版】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12089338/1/119
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《齋藤繼述:奉天市葵町三九》奉天鐵道警護本隊長【工業人名大辭典】昭和14年(1939)

《小野又一:満洲國奉天市葵町三九 齊藤方》
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年06月24日11:21
《小野又一:満洲國奉天市葵町三九 齊藤方》
【会員氏名録】昭和15年用~18年用
《小野又一》 京都帝国大学 工学部 機械工学科
       昭和14年3月卒業
【会員氏名録. 昭和15年用】
 昭和14年12月5日臨時発行
《小野又一》 高知 工(京) 昭14 機械 p62/326
       満洲飛行機會社
       満洲國奉天市葵町三九 齊藤方
【会員氏名録. 昭和15~16年用】
 昭和15年12月10日発行
《小野又一》 高知 工(京) 昭14 機械 p63/664
       満洲飛行機會社
       満洲國奉天市葵町三九 齊藤方
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【奉天市街全圖】昭和6年(1931)
著者    濱井松之助 編
出版者   大阪屋號書店
出版年月日 1931.8
p4【奉天市街全圖】昭和6年(1931)
〔画像〕p4【奉天市街全圖】昭和6年(1931)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8312081/1/4
<奉天市葵町1~38迄>
p13【奉天市街全圖】昭和6年(1931)
〔画像〕p13【奉天市街全圖】昭和6年(1931)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8312081/1/13
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【工業人名大辭典】昭和14年(1939)
出版者   滿蒙資料協會出版部
出版年月日 1939
p2【工業人名大辭典】昭和14年(1939)
〔画像〕p2【工業人名大辭典】昭和14年(1939)
《齋藤繼述》奉天市葵町三九
 在郷陸軍憲兵大佐
 奉天鐵道警護本隊長
[出生]明治一九年一〇月 滋賀縣堅田町
[續柄]梢 長男
[學歷]陸士及憲兵練習所各卒
[經歷]
累進して憲兵大佐となり
廣島憲兵隊長を最後に現役を退きて
渡滿 滿鐵に入社
昭和十二年一月
齊々哈爾鐵路局警務處長
昭和十二年十二月
齊々哈爾鐵道局産業課愛路係長兼務となり
次で鐵道警務局警務参與に進み退社
康德五年一月 ※昭和13年(1938)1月
現官職に就き
滿鐵囑託を兼ぬ
簡任二等たり
[趣味]野球
[家族]妻 いつ(明治二八年生)
        (大阪市 梅田高女卒)
[住所]奉天市葵町三九
p580【工業人名大辭典】昭和14年(1939)
〔画像〕p580【工業人名大辭典】昭和14年(1939)
滿洲飛行機製造株式會社
(設立)昭和十三年六月
監事 齋藤靖彦
昭和十四年六月二十日印刷
昭和十四年六月廿五日發行
工業人名大辭典
並製 定價 金參拾五圓也
編纂兼 中西利七
發行者 東京市麻布區市兵衞町一丁目六番地
印刷者 篠倉政一
    東京市京橋區湊町二丁目十六番地
印刷所 第一印刷所
    東京市京橋區湊町二丁目十六番地
    電話京橋(56)三〇六〇番 六〇三五番
發行所 滿蒙資料協會出版部
    東京市麻布區市兵衞町一丁目六番地
    電話赤坂(48)一二一八番
    振替口座東京三一五三五番
    振替口座大連 三八六二番
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<奉天市葵町四〇 社宅>
【大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇】昭和18年
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 昭和18
《大迫元光》
 滿鐵(株)用度部倉庫課長
 奉天市葵町四〇 社宅
 電話3-3910
[閲歷]鹿兒島縣人
明治廿八年生る
大正五年 鹿兒島髙農 卒業
大正九年 現社に入る
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《小野又一・父》《兼松中・伯父》《松村仙造・祖父》【京都大学卒業生氏名録:明治33年-昭和30年】1956

【京都大学卒業生氏名録:明治33年-昭和30年】1956
著者    京都大学事務局庶務課 編
出版者   京都大学
出版年月日 1956
p4【京都大学卒業生氏名録】1956
〔画像〕p4【京都大学卒業生氏名録】1956
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/4

  学部卒業生氏名
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/20
小野 又一 高知  昭和一四年三月 工学部・機械
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/73
兼松  中 高知  昭和 五年三月 理学部・化学
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/104
松村 仙造 島根  明治三九年七月 法学部
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/296

  附屬医学專門部卒業生氏名
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/369
清水  勉 岐阜  昭和二〇年九月

 シミズ病院グループ
 沿革 開院~1980s
 1957年(昭和32年)9月1日
 京都市西京区桂木ノ下町1-88にてシミズ外科を開院
 開設者 清水 勉(初代理事長)
 〒615-8237
 京都市西京区山田中吉見町11-2
  075-381-5161

松島龍太郎 和歌山 昭和二五年三月
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/374

  卒業生員数(明治33年~昭和30年)
法学部      一四、五三六
医学部       五、七七二
工学部       九、四五八
文学部       四、六〇四
理学部       三、〇八二
経済学部      八、〇六六
農学部       三、三九二
附属医学専門部     八〇四
  計      四九、七一四

昭和三十一年三月 三十日印刷
昭和三十一年三月三十一日発行 (非売品)
京都大学
編集 京都大学事務局庶務課
印刷 中西印刷株式会社
   京都市上京区下立売通小川東入ル
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580273/1/377
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小野榮一郎(同郷の上級生:第二岡山中学校・第六高等学校)の妹恒子と結婚【西嶋定生博士還暦記念】1984

【東アジア史における国家と農民 : 西嶋定生博士還暦記念】1984
著者    西嶋定生博士還暦記念論叢編集委員会 編
出版者   山川出版社
出版年月日 1984.11
p3【西嶋定生博士還暦記念】1984
〔画像〕p3【西嶋定生博士還暦記念】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210650/1/3

  西嶋定生博士略年譜(一九八〇年四月まで)
一九一九年(大正八年)
 六月二五日、岡山縣阿哲郡本郷村(現在同郡哲多町)
 大字宮河内三八二番地にて、
 父芳太郎、母鶴代の次男として出生。

一九二三年(昭和七年)
 四月、岡山縣第二岡山中學校
 (現在の操山高校の前身)に入學。
 生家を離れて同校寄宿舎に入寮。
 八月、妹綾子生まれる。弟正篤病死。
 この年、同郷の上級生小野榮一郎の妹
 恒子(小學六年生)を知る。
 生意氣な子であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210650/1/9

一九四四年(昭和一九年)
 小野榮一郎 妹恒子と結婚。
 世田谷區世田谷二丁目に間借りし、
 ついで瀧野川區田端の建畠大夢氏遺宅
 アトリエ附屬の一室に轉居。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210650/1/11

一九七九年(昭和五四年)
 六月一八日、
 義兄小野榮一郎、
 關西醫科大學附屬病院にて死去。
 翌一九日、長男昭生、
 妻子とともにカナダに留學する(一ヶ年)。

 同(六月)二三日、
 岡山市にて義兄の告別式を行う。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210650/1/17
西嶋定生博士還曆記念
 東アジア史における國家と農民
定 価 一二、〇〇〇円
印 刷 一九八四年一一月一〇日
発 行 一九八四年一一月二〇日
編 者 西嶋定生博士
    還曆記念論叢編集委員会
発行者 野澤繁二
印刷所 明和印刷株式会社
製本所 山田製本印刷株式会社
発行所 株式会社 山川出版社
    東京都千代田区内神田一ノ一三ノ一三
    電話 〇三(二九三)八一三一(代)
    振替 東京(二)四三九九三
    〒一〇一
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210650/1/309
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【第六高等学校一覧 昭和10年至昭和11年】
  八、生徒氏名
   理科三年乙組
(第二岡山) 小野榮一郎  岡山

【第六高等学校一覧 自昭和12年至昭和13年】
  八、生徒氏名
   文科二年甲二組
(第二岡山) 西嶋定生  岡山
 ◎第三十四回卒業生(昭和十一年三月十三日卒業)
   理科乙類(二十七名)
京、工  小野榮一郎 岡山

【第六高等学校一覧 自昭和15年至昭和16年】
 ◎第三十四回卒業生(昭和十一年三月十三日卒業)
   理科乙類(二十七名)
京、工  小野榮一郎 岡山
 ◎第三十七回卒業生(昭和十四年三月十三日卒業)
   文科甲類(五十八名)
東、文  西嶋定生  岡山
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年02月15日05:50
小野栄一郎 応用熱力学 菅原菅雄監修
【防衛大学校図書目録. 昭和33年】
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月14日 19:03 ◆小野又一 小野栄一郎
[小野栄一郎より小野又一へ]
手紙-3/4-昭和47年(1972)1月23日
お便りに人生の80%をすぎたと書いてありましたが
小生自身は私に与えられた予定の200%も生きた気がします
身体の悪さによる心身の不快感のために
でも菅原先生のおかげで研究者の真似事も数年させてもらい
松葉杖をつきながらも高校の教壇に七年も上がったりして
今 別に思い残すことは先ずありません
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

河合敦夫・森本兵太郎・長井孝太郎・田賀喜一・中島穆:旧制 大阪高等学校【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972

【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
出版者   旧制大阪高等学校同窓会
出版年月日 1972
p1【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p1【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/1

 第9回 昭和5年~昭和8年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/79
 9理甲  河合敦夫
p83【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p83【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/83

 第10回 昭和6年~昭和9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/87
 10理甲  森本兵太郎
p91【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p91【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/91

 第11回 昭和7年~昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/95
 11理甲  長井孝太郎
p99【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p99【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/99

 第12回 昭和8年~昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/103
 12理甲  田賀喜一
p107【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p107【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/107

 12理乙  中島 穆
p108【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p108【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/108
   恩師名簿
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/261
 大高同窓会名簿
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/263
   昭和47年4月29日
発行 旧制 大阪高等学校同窓会
   会長 熊野啓五郎
   大阪市浪速区新川2丁目698 葵ビル9階
   ローレルクラブ内 TEL06-641-4454
印刷 ダイコロ株式会社
   大阪市北区空心町1-72
   TEL(06)352-0371(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/291
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年06月25日14:19
《中島 穆》[東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業]
《中島 穆》 大阪府立 高津中学校 卒業
       大阪高等学校 昭和 8年4月 入学
       大阪高等学校 昭和11年3月 卒業
       東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和11年4月入学
       東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業
       満洲飛行機製造株式会社 昭和20年当時
                  南機械製作処 製作部
                  第一工場  中島 穆
       平成21年(2009)4月~平成22年(2010)3月 歿
       ※正確な歿年月日は不明。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年04月13日05:10
《田賀喜一》《長井孝太郎》《河合敦夫》《森本兵太郎》
[汽車製造株式会社]【東洋経済会社人事録 1963年版】昭和38年
《田賀喜一》
ボイラ化工機
研究部長
大正5年生 大阪
昭和14年京大
昭和14年入社
豊中市桜塚下原 府営住宅252
《長井孝太郎》
東京製作所
製作部長
大正3年生 大阪
昭和14年京大
昭和22年入社
東京都世田谷区経堂町480
《森本兵太郎》
東京製作所
設計部長
大正2年生 東京
昭和13年東大
昭和13年入社
船橋市前原町二の301-5
《河合敦夫》
大阪製作所
製造管理部長
明治44年生 大阪
昭和13年京大 昭和13年入社
茨木市大字上中条77-5

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年04月13日08:45
《田賀喜一》【大高:それ青春の三春秋】昭和42年(1967)
田賀喜一(12理甲・汽車製造大阪製作所技師長)
田賀 船場生まれで家は呉服屋。
   これが裏書なしの手形を出して失敗したので、
   長男には学問をということで大高へ入った。
   戦時中にはジェットエンジンの設計にタッチ。
   最近ではパナマ運河向け電気機関車をつくった。
   汽車会社には大高同窓の取締役副所長が3人いる。
   9回理甲の河合敦夫氏(大阪製作所)、
   10回理甲の森本兵太郎氏、
   11回理甲の長井孝太郎氏(何れも東京製作所)で、
   さきのパナマ向け電関は森本氏の設計である。
【京都帝国大学一覧 昭和14年度】
〇卒業生姓名 p216/322
 工學部 機械工學科
昭和十三年三月学士試驗合格
河合 敦夫  大阪
昭和十四年三月学士試驗合格
小野 又一  高知
小野榮一郎  岡山
椹木 義一  京都
田賀 喜一  大阪
長井孝太郎  大阪
【東京帝国大学一覧 昭和13年度】
〇卒業生姓名
工學部 機械工學科
昭和十三年三月卒業
森本兵太郎 大阪
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《灘波清一》満州飛行機製造(株)設計部試作課長:昭和19年【稲門紳士録】1980

【稲門紳士録】1980
著者    稲門紳士録刊行会 編纂
出版者   稲門紳士録刊行会
出版年月日 1980.10
p3【稲門紳士録】1980
〔画像〕p3【稲門紳士録】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/3

《灘波清一》
 日本工機株式会社 代表取締役専務
 昭和14年理工学部機械工学科卒
 大正3年12月12日生
 香川県高松市出身
勤務先 東京都港区西新橋2-36-1
    電話03-436-1221
現住所 神奈川県藤沢市片瀬山1-14-13
    電話0466-26-6969
昭和14年・満州飛行機製造株式会社入社
昭和19年・同社設計部試作課長
昭和20年・同社退社
昭和21年・早稲田大学理工学研究所所員
昭和25年・第一物産株式会社入社
昭和33年・三井物産に社名変更
昭和38年・同社ロンドン支店長代理
昭和40年・同社ドイツ物産有限会社副支配人
昭和46年・三井物産航空機部役員待遇参与
昭和47年・日本工機株式会社取締役に就任
      現在に至る
特 体育会山岳部出身、稲門体育会代表委員、
  稲門山岳会幹事長
家 妻 富美子 大正7年生
p270【稲門紳士録】1980
〔画像〕p270【稲門紳士録】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/270
稲門紳士録 定価金参万八千円
昭和五十五年十月 十一日 印刷
昭和五十五年十月二十一日 発行
編纂者 稲門紳士録刊行会
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
発行者 稲門紳士録刊行会
    船津庄次郎
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
印刷所 倉敷印刷株式会社
    東京都千代田区飯田橋3-4-6
発行所 稲門紳士録刊行会
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
    電話03-291-3251番(代表)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/433
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花園会会長 村田篤彦[機体の富永五郎、発動機の江沼孝太郎、設計の林 元、の三羽烏]【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)

【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
出版者   おおとり
出版年月日 1988.10
旧満州飛行機製造(株)(昭和40年7月24日)
市ヶ谷私学会館にて
p8【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p8【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/8

   花園会会長 四十年
       村田篤彦
昭和二十年八月十五日、
富永五郎氏はハルピン市にあった
満洲飛行機製造株式会社
北製作処の副処長の職にあった。

八月九日、
不可侵条約を破って満州に侵入してきたソ連軍は
八月十二日にはハルピン市内に姿を見せはじめていた。

頼みの関東軍は、
将校とその家族は一夜の内に移動して、
飛行場には満飛の社員だけが残された。

軍の命令により書類の焼却と、
機械工具の破損は終えたが、
従業員の不安はたかまるばかりであった。

従業員は飛行機材料の
ジュラルミンパイプを削って槍をつくったり、
手榴弾を二個、
腰にぶらさげて対戦車用と自爆用に備えたりもした。
軍からの指令だった。

富永さんの緊張は続いた。

富永さんは、
大日本航空輸送株式会社から
満洲航空株式会社に出向され、
昭和十三年、
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/131
満洲航空の航空工廠を中心として、

満航航空工廠技術部員(昭和11年)
奉天市内中華料理店にて、中央 富永氏、
p6【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p6【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/6

満洲飛行機製造株式会社が設立されるや、
その設立に参加、
「キ-七九」「キ-二七」などの生産に大活躍、
機体の富永五郎、
発動機の江沼孝太郎、
設計の林 元、
の三羽烏と呼ばれた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/132
富永五郎氏追悼録
発 行 昭和63年10月2日
発行者 野田親則、平沢秀雄、山田 晋、十時 覚、
    松尾芳郎、宮崎 勇、茂呂 豊。
編集・発行所 (株)おおとり 小寺正義
    東京都港区芝2~6~15
    TEL 03-798-2687
    ファックス 03-778-2788
印刷所 (株)ふそう美術印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/159
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[満飛と日航]野田親則・中嶋穆・小野又一・中島桂太郎・灘波清一【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)

【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
出版者   おおとり
出版年月日 1988.10
満飛幹部(昭和一四)満飛本館前にて、
右端 富永氏
p7【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p7【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/7

  満飛と日航  p96-104/164
   野田親則
富永さんとの御縁は昭和十四年頃に始まる。
現在まで約五十年の永い間お世話になった。

永いだけでなく私が社会人になりたての、
満洲飛行機と、
現在の日本航空とに入社するときに
特別の御厄介になった。
そして、私の社会人生活約五十年のうち、
三十年の間、
富永さんと職場を共にさせていただいた。

大学は私共の期まで僅か九人の定員が続いていて、
航空学科の卒業生の就職には全く問題がなかった。
何時でも希望の所に就職できると思っていた。
二年生の頃から、
会社の先輩から勧誘があり、
卒業近くなると、
母校に残る気はないかとの恩師のお話もいただいた。

ところが卒業が迫ってきたときに、
突然技術系学生の就職統制の制度が施行されて、
就職事情が一変した。
それまで漫然と、
自宅が東京に在ったから立川飛行機にでも入ろうか、
と考えていたものが御破産となった。
われわれ学生の希望と、
採用側に割当てられた採用枠とを整合する必要が起こった。

割当は、政府の方針上の優先度と、
採用者が過去に獲得している
技術系学卒者の人数をもとに、
必要個所に新卒者が合理的に分布するように
決められたとのことだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/96

  満飛入社
富永さんにはじめてお目にかかったのは、
このような情況のもとであった。
富永さんは卒業後十年、
満洲航空から満洲飛行機が分離独立して、
そちらに移られて間もない頃のことであった。

会社の将来のこと、
奉天での生活の模様などいろいろ説明をいただいた。
国策の最前線にあって、
前途に明るい希望を懐いて、
満洲の新天地に根をおろして、
存分に活躍しておられる様子がよくわかった。

一度は芝公園近辺の料亭で御馳走にあずかったことがある。
料理のメニューのほかに、
食器のメニューが出るという、
貧乏学生の私にとっては夢のような高級な所だった。

富永さんは当時中島の飛行機を、
満洲飛行機で転換生産する関係の仕事のために、
時々内地と往復しておられる模様だった。

満飛は三菱、中島、立川、昭和、愛知などと同様に
一人分の採用枠を与えられていた。
同級の中嶋穆君がそれによって、
満飛に入社することとなった。

官庁、大学、陸軍などの採用枠は余っていたが、
それらはボイコットした。

就職統制が気に喰わない私は、
所詮ごまめの歯ぎしりに過ぎないけれども、
いささか反抗の心情で、
満飛を志願した。
採用枠がないのは承知の上で、
無理な願いである。
富永さんは、
関東軍の力添いで採用枠は何とかなるだろうが、
時間がかかるから、
それまで待機するように云われた。

卒業してから、
採用通知を待つ生活は、
楽なものではなかった。
学校にも勤めにも行かず、
ぶらぶらと時間をつぶすのに苦しみ、
例えようのない虚脱感に苛まれる日々であった。
幸なことに東大航空研究所の恩師、
谷一郎先生が、遊んでいるのは無駄だから、
航研に来て手伝うように云われたのは、
大いに助かった。

航研に通う間に、
やがて赴任する奉天の地を理解するために読んだ
クリスティー著「奉天三十年」(岩波新書)は、
希望と勇気を与えてくれるものだった。

卒業後に徴兵検査を受けたところ、
意外にも甲種合格になった。
時節柄召集令状が来るのは必至なので、
海軍と陸軍の短現を受験した。

海軍は、私が満飛入社予定であるためか不合格だった。

陸軍は面接のときに、
満飛に入社するつもりと述べたところ、
航研から満飛に移るとは
「大馬鹿者」とか「国賊」とか
口を極めて罵倒された覚えがある。
後になって、
これは試験官が人物を試めす
企みだったと思うようになった。
陸軍の短現の試験は合格だった。

 ※短期現役兵制度ノ廃止
  昭和十四年三月二十四日
  勅令第七十五號
  御署名原本・昭和十四年・勅令第七五号・兵役法施行令中改正
  レファレンスコード A03022342200

満飛の採用が決まって赴任したのは(昭和14年)八月で、
遅れ馳せながら満飛創立第一期の新卒、
康徳六年(昭和十四年)組の末尾に加わった。

奉天に着いて駅前広場に降り立った第一印象は、
煉瓦造りの建物の色彩のない灰色と、
寒冷地に特有の入口や窓の狭い閉鎖的な商店街だった。

街にはノモンハン事件末期なので、
やや緊張の色が漂っていた。

一人だけ四ヶ月半も遅れて入社するためには、
さぞ面倒な手続を要しただろうと想像する。
とにかく富永さんの尽力がなければ、
満飛入社もなく、
私の人生は全くちがったものに
なっていたにちがいない。

実習期間を経て、
満州各地に視察旅行に出してもらい、
実務に着く間もなく、
短現に入隊するため奉天を離れることとなった。

 ※短現(短期現役兵):野田親則氏の記憶違いで、
  陸軍航空兵科技術候補生
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  陸軍航空兵科技術候補生採用・51名
  【官報. 1939年10月21日】昭和14年

入隊は各務原の教育隊で、
幸にも満飛での同期、
中嶋穆、小野又一、中島桂太郎の諸君と合流した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/97

二ヶ月の教育を終えて年末には見習士官となり、
立川の部隊に移り、
技術将校の見習期間をつとめた。
明くる昭和十五年二月に任官と同時に、
それぞれの任地に散った。
私は立川の陸軍航空技術研究所に配属された。

  召集解除
戦局が悪化しているのに意外に早く
昭和十八年二月に召集解除となった。
 ※現 役  昭和15年2月
  予備役  昭和17年2月
  召集解除 昭和18年2月

中嶋穆、小野又一両君も同様だった。

 ※小野又一 昭和19年2月(召集解除)
  現 役  昭和15年2月
  予備役  昭和17年2月
  召集解除 昭和19年2月
 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 [小野又一の兵籍簿]高知県地域福祉政策課援護調査

短現の同期では、
われわれ満飛社員以外に召集解除となった人はなく、
全くの特例であった。

 ※短現(短期現役兵)⇒陸軍航空兵科技術候補生
  予備役:昭和17年2月~昭和18年2月
  野田親則氏のみ特例?

これは藤原銀次郎査察使に要請した結果だと記録されている。
 ※藤原銀次郎査察使:満洲査察 昭和20年4月(初夏)
  上記、時期が合わない。

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 藤原銀次郎閣下の航空機緊急増産命令に基づく査察<2/3>
 [満洲飛行機の思い出]昭和57年
 日本人と満人との精神的緊密化と指導
 並に作業の円滑化からして、
 この際に満洲飛行機技術社員にして応召している
 中堅幹部社員の復帰こそ必要喫緊事であると具申し
 その引戻しを願い出たのである。
 (后に之が実現して
 小野又一氏、頼富竜太郎氏、灘波清一氏等の将校が帰社した。)
 ※小野又一:召集解除 昭和19年2月
  灘波清一:昭和19年 設計部試作課長⇒別稿に記載
  頼富竜太郎:?

私自身については、
それまで陸軍自身が進めていた、
キ93の設計班の一員だったので、
仕事が一段落するまで、
留まるよう要請があり、
会社が同意したので、
召集解除につづいて嘱託の身分となって
同じ仕事を続けた。

(昭和18年)十一月下旬には、
その任務も終って、
奉天に帰任した。
同月には関釜連絡船の崑崙丸が潜水艦の餌食となって、
多数の犠牲者が出た。

 崑崙丸[wikipedia]
 最後 1943年(昭和18年)10月5日被雷沈没

満飛入社後はじめての職場は設計部(林元部長)だった。
設計部には試作工場、設計課、研究課があり、
私は研究課長を命ぜられた。
試作工場長は同期入社の灘波君であり、
そのほかにも軍隊がえりの同僚が各所に居て、
心強かった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/98
富永五郎氏追悼録
発 行 昭和63年10月2日
発行者 野田親則、平沢秀雄、山田 晋、十時 覚、
    松尾芳郎、宮崎 勇、茂呂 豊。
編集・発行所 (株)おおとり 小寺正義
    東京都港区芝2~6~15
    TEL 03-798-2687
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年06月14日07:01
〔挨拶状〕日本航空株式会社
 常務取締役 整備本部長 野田親則様

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年06月25日14:19
《中島 穆》
[東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業]
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《名張隆政》東洋ミニチユアベアリング取締役【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)

【人事興信録 第23版 下】昭和41年(1966)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1966
名張 隆政(なばり たかのり)
(株)蒼電舎社長 技術士
大阪府出身
 母  春 枝 明治26年9月6日生
 妻  喜美子 大正15年4月18日生
        大阪府吹田市、
        久岡喜代松 長女、
        茨木高女卒
 長男 隆 司 昭和23年3月10日生
        北野高校卒
 長女 美陽子 昭和31年12月26日生
大正11年12月20日
京都府 恭治・春枝の長男に生る
昭和19年神戸高等工業学校電気学科卒業
昭和35年技術士 本試験 電気部門
昭和36年生産管理部門
各合格
松下電器産業研究所員
東洋ミニチユアベアリング取締役
を経て
現職に就任す
尚昭和37年10月より2カ月間
日本生産性本部
中小企業新製品開発専門視察団の一員として
米国及び欧州諸国を視察す
趣味 チェロ演奏・ゴルフ(22)
宗教 禅宗
住所 大阪府吹田市片山前二三七四番
電話 大阪381-3423
p336【人事興信録 第23版 下】1966
〔画像〕p336【人事興信録 第23版 下】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044976/1/336
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年10月28日07:00
《名張隆政(株)蒼電舎社長》
松下電器産業研究所員を経て現職に就任す
【人事興信録 第25版 下】1969

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月10日10:00
[思い出の写真帖]055
〔名張隆政さんと社員旅行:小野又一・雄二〕
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【産経日本紳士年鑑 第4版】昭和38年(1963)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1963
《名張隆政》
東洋ミニチユアベアリング取締役
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044843/1/814

【産経日本紳士年鑑 第5版 下】昭和39年(1964)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1964
《名張隆政》
東洋ミニチユアベアリング取締役
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025346/1/223

【産経日本紳士年鑑 第6版 下】昭和41年(1966)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1966
《名張隆政》
東洋ミニチユアベアリング取締役
https://dl.ndl.go.jp/pid/3018988/1/243

【産経日本紳士年鑑 第7版 下】昭和42年(1967)
出版者   産経新聞年鑑局
出版年月日 1967
《名張隆政》
東洋ミニチユアベアリング取締役
https://dl.ndl.go.jp/pid/3044850/1/298
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