◆泉谷祐勝

《泉谷祐勝・佐々木勝麿》神戶倶樂部野球選手の上京【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)

【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)
出版者   明治製版所
出版年月日 1909-05
p1【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)
p1【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1600588/1/1

  神戶倶樂部野球選手
東京倶樂部に戰ひを挑み遙々上京して
(明治42年)四月四日より
羽田の新設運動場にて三回勝負を爲し
遂に失敗に歸したるも
其侮る可からざる腕前は等しく衆人の認むる處なり
(後列左より)
佐々木  海 本  高濱兄
松 田  奈良崎  高濱弟
(前列左より)
日 向  長谷中  菅 瀨
原    泉 谷  門 川
p18【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)
p18【写真タイムス (4)】明治42年(1909-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1600588/1/18
明治四十二年五月二日印刷 毎月一回五日發行
明治四十二年五月五日發行(定價金貳拾五錢)
著作兼  川田佐門次
發行者  東京市京橋區新肴町十八番地
印刷者  石井已之吉
     東京市京橋區木挽町一丁目十一番地
寫眞タイムス 明治製版所
發行所  東京市京橋區新肴町十八番地
     電話新橋四二四九番
賣捌所  日本橋呉服町 北隆館
     京橋 尾張町 東海堂
     神田 神保町 東京堂
https://dl.ndl.go.jp/pid/1600588/1/40
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年11月21日06:23
佐々木勝麿(善照寺の祐哲和尚):慶應 
實兄は泉谷祐勝:早稲田
【斜に視たる神戸一中】昭和15年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

〔写真〕神戸中學校野球撰手・東京專門學校野球撰手【野球年報 第1号】明治35年

【野球年報 第1号】明治35年
著者    野球年報編纂部 著
出版者   伊東卓夫
出版年月日 明35-大1
 神戸中學校野球撰手
(1)Rf  山田甚一君
(2)SS  陶山素一君
(3)B   後神昇吉君
(4)P   柴田松藏君
(5)2B  泉谷祐勝
(6)部長 山本龜彦君
(7)C   池田多助君[Capt.]
(8)1B  濵岸繁太郎君
(9)Cf  三笠文藏君
(10)Lf  太田幸三君
p12【野球年報 第1号】明治35年
p12【野球年報 第1号】明治35年
https://dl.ndl.go.jp/pid/860547/1/12
 神戸中學對神戸クリケットクラブ p23/244
明治三十四年六月二十五日
神戸遊園地に開く

https://dl.ndl.go.jp/pid/860547/1/23
 神戸中學對米艦ヨークタウン號 p25-29/244
明治三十四年七月三十一日
神戸遊園地
米艦海兵、本校生徒、其他有志者の來観約千人。
https://dl.ndl.go.jp/pid/860547/1/25

 東京專門學校野球撰手
(1)幹事 渡瀨正彦君
(2)Cf  海野 淸君
(3)3B  戸塚眞一君
(4)Sab  猪瀨君
(5)P   橋戸 信君
(6)部長 渡邊淸之君
(7)SS  鈴木 豐君
(8)2B  藤岡好春君
(9)1B  押川 淸君
(10)C  大橋武太郎君[Capt]
(11)Lf    丸山次郎君
(12)Rf   河盛廣益君
p39【野球年報 第1号】明治35年
p39【野球年報 第1号】明治35年
https://dl.ndl.go.jp/pid/860547/1/39
明治三十五年九月廿五日印刷
明治三十五年九月廿八日發行
紙數增加ニ付改正
定價金參拾五錢
著作兼 伊東卓夫
發行者 東京市本郷區本郷五丁目十番地
印刷者 戸上義章
    東京市牛込區市ヶ谷加賀街一丁目十二番地
印刷所 株式會社 秀英舎第一工場
https://dl.ndl.go.jp/pid/860547/1/207
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《泉谷祐勝・山脇正治》早大初の途米軍(明治38年5月2日)【球道半世記】昭和26年(1951)

《泉谷祐勝・山脇正治》
早大初の途米軍(明治38年5月2日)
【球道半世記】昭和26年(1951)

【球道半世記】昭和26年(1951)
著者    飛田穂洲 著
出版者   博友社
出版年月日 1951
早大初の途米軍(明治38年5月2日)
スタンホード大学附近の宿舎玄関前にて
〔前列右より〕
小原益雄、細川絢彦、陶山素一、
〔中列右より〕
押川淸、鈴木豐、獅子内謹一郎、橋戸信、
〔後列右より〕
河野安通志、森本繁雄、立原秀輔、安部先生、
泉谷祐勝、山脇正治、
※赤枠:左・山脇正治 右・泉谷祐勝
p5【球道半世記】1951
〔画像〕p5【球道半世記】1951
https://dl.ndl.go.jp/pid/2459062/1/5
昭和二十六年八月十五日印刷
昭和二十六年八月十八日発行 定価200円
著 者 飛田 穗洲
発行者 小野高久良
    東京都新宿区揚場町九
印刷者 松本 高介
    東京都新宿区早稻田南町三七
発行所 株式会社 博友社
    東京都新宿区揚場町九
    振替口座東京二四〇番
    電話九段(33) 九六二番
    四九六二番 四九六三番
松濤印刷株式会社 印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/2459062/1/133
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
早稲田大学 2022年度入学式祝辞 福原 美和 様
スポーツ功労者表彰 福原 美和 様
早稲田大学スケート部フィギュア部門監督、
明治神宮外苑フィギュアスケートクラブヘッドコーチ
実は、私の母方の祖父も ※山脇正治:下記
早稲田の出身者です。
明治38年に、プロとアマチュアを含め、
日本のスポーツチームとして初めて
アメリカ遠征を行った
早稲田大学野球部の一員でした。
また、祖父が4年生の時に
アメリカの大リーグ選抜チームと
早稲田大学野球部との試合があり、
始球式では、
羽織はかま姿でマウンドに上がった大隈総長が、
バッターボックスに立つ祖父に対して、
ボールを投げたそうです。
勢いよく投げた球はストライクゾーンから
大きくそれたにもかかわらず、
祖父は総長の球を「ボール」にしてはいけないと、
空振りしてストライクにしたそうです。
これ以降、
1番バッターは始球式の相手に敬意を表して、
どんな球でも空振りをすることが
恒例になったとのことです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(1885年[1] - 1959年12月24日[2])は、
東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。
早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日に
アメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームである
リーチ・オール・アメリカンチームが来日し、
戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際[5]に、
早稲田大学創設者の大隈重信が
日本野球史上初となる始球式を行うことになり、
早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が
大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが
現在に伝わる始球式の形態になっていると言う[6]。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《泉谷祐勝》五十年間の想い出【半世紀の早稲田体育】昭和27年(1952)

《泉谷祐勝》五十年間の想い出
【半世紀の早稲田体育】昭和27年(1952)

【半世紀の早稲田体育】昭和27年(1952)
著者    安井俊雄 編
出版者   早稲田大学体育局
出版年月日 1952.10


 五十年間の想い出  p26-32/135
     泉谷祐勝
田圃と茗荷畑に圍まれた、
早稻田の校門をくぐつた、
溌剌たる二〇歳の私も、
今は七〇歳プラス四ケ月の
翁に朽ち果ててしまつた。
薫陶を受けた諸先生方も、
凡て故人になられた。
殊に在學當時より五十年、
絶えずその溫情に接し
心の糧であつた安部磯雄先生も、
一昨々年八四歳の御高令で逝かれた。
多くのスポーツ同人も、
次ぎ次ぎと此世を去つて行つた。
半世紀の歳月は、
全く吾々の人生を一轉換してしまつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/26
私は將來我早稻田大學體育部百年史、
貳百年史を編む日にも、
先生の遺された精神を把持する。
體育各部の、輝しき發展と隆盛を、
心から願うものである。
(明治39年大政卒、野球部大先輩)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/29
 早慶戰の憶い出 織田幹雄 p29/135
 (昭和6年大商卒、元オリムピック選手、
  朝日新聞社員)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/29
 空手部長の辨  大濱信泉 p30/135
 (大正7年大法卒、敎授、
  現體育局長、空手部長)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/30
 大學に入學か、體育會に入學か
        喜多壯一郎 p31/135
 (大正6年大法卒、
  東京都スケート聯盟會長、元代議士)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/31
半世紀の早稻田體育
昭和二十七年十月 十五日印刷
昭和二十七年十月二十一日發行 非賣品
編輯發行兼印刷者 安井俊雄
印刷所  早稻田大學資材課印刷所
     東京都新宿區戸塚町一ノ六四七
發行所  早稻田大學體育局
     東京都新宿區戸塚町一ノ六四七
https://dl.ndl.go.jp/pid/3452796/1/130
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[泉谷祐勝]伯母・松村正子(しょうこ)の父
松村正子(松村一造の妻)
松村一造(小野又一の実兄)
小野又一(小野一雄・雄二の父)

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月16日
泉谷裕勝:鎮子夫人の父親:
徳川慶喜の実弟:池田茂政侯の六女
『天皇の野球チーム』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

佐々木勝麿(善照寺の祐哲和尚):慶應 實兄は泉谷祐勝:早稲田【斜に視たる神戸一中】昭和15年

佐々木勝麿(善照寺の祐哲和尚):慶應 
實兄は泉谷祐勝:早稲田
【斜に視たる神戸一中】昭和15年

【斜に視たる神戸一中】昭和15年
国立国会図書館/図書館・個人送信限定

 元町三丁目の善照寺の和尚さんは
大層繪がお上手だと言つたつて、
恐らく諸君はフンそうかと聞き流して了ふだらうが、
此祐哲和尚は往年早慶戰最も華なりし頃、
慶應の勝チャンと言へば本場の米國に於てさへ、
ナイスショートであると大向をウナラせた
佐々木勝麿君(7)の後身であると言うたら
鼻の穴をふくらせて驚くに相違ない。

 なぜ和尚なんぞになつたかといふ事は
此處に書く必要はないが、
佐々木君の實兄は泉谷祐勝君(3)で、
今の若い人は知るまいが
早稻田の名キャプテンとして
日本で最初に渡米試合に行つた一人である。

※キャプテン:橋戸 信(遊撃 主將)
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
早稻田大學野球部第一回米國遠征:安部磯雄部長と選手12名
[明治38年4月]【早稲田大学野球部史】大正14年
明治卅八年(1905)四月四日、
米國汽船コレア丸に搭じて渡米の途に上つた一行は、
部長     安部 磯雄
遊撃(主將) 橋戸  信
二壘     押川  淸
左翼     鈴木  豊
一壘     泉谷 祐勝
投手     河野安通志
一壘     森本 繁雄
右翼     獅子内謹一郎
三壘     陶山 素一
捕手     山脇 正治
中堅     小原 益遠
三壘     立原 秀輔
投手     細川 絢彦

 斯く兄弟二人ともが名選手として、
今日で言うたら
村社君と前畑穣とターキーをミックスして

デバイドせぬ程の人氣を學生間に持ち、
僕等は其同窓たる事を誇りとしたものであつた。

 兄さんの方はいつか本誌で御紹介した通り
東邦電力會社に勤め、
今でもバットを振り廻はして居られるが、
令弟の方は前記の通り
朝夕手珠をつまぐる身となられたので、
今度はミットの代りに繪筆を持ち
餘技とは思へぬヒットを飛ばして居られたが
先頃見事センターオーバー決つて
二科会會に入選せられたとあるから
ハイカラな宮本武藏みたいな人である。
 朱實やお通の話は知らぬ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280315/63

斜に視たる神戸一中 全一冊
著作者 神戸市林田區長田村丸山鶯丘一ノ五三九
    近江一郎
發行人 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    小野楠雄
印刷所 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    五典書院
印 刷 昭和十五年一月五日
發 行 昭和十五年一月十日
定 價 金壹圓五拾錢
    版權者有
發行所 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    五典書院
    電話湊川⑤〇四八三番
    振替神戸一三二六番
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280315/202
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

泉谷祐勝君【斜に視たる神戸一中】昭和15年

泉谷祐勝君【斜に視たる神戸一中】昭和15年

【斜に視たる神戸一中】昭和15年
国立国会図書館/図書館・個人送信限定

 泉谷祐勝君(3)は孫がもう三つになつたのだから、
此一回の試合だけで野球は罷めると言明して
プレートに立たれたら、
三壘打を二本カツ飛ばしたので
六十迄は罷められぬと
No accountを宣せられたさうである。

「リーグ戰に出る選手相手なら或はどうか知らんが、
僕の社へ入つて來る若い連中を向ふに廻しても
僕の方が駈けることでも速い。

 劍道家が年を取つても一旦竹刀を持つと腰がのびる樣に、
僕はユニフオームを着ると體が何だかピンとする。
五十五になつたら會社は停年になるから、
神戸へ歸つて一中野球部の監督になることに決めて居るし、
池田君とは約束濟なのだ」と。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280315/15

 僕「それは結構なお話で、
一日も早く首になられるのを待つて居ります」とも言へず、
「其節は校長初めドツト祝盃を擧げます」
とも言へず近來あんな困つたことはなかつた。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280315/16

斜に視たる神戸一中 全一冊
著作者 神戸市林田區長田村丸山鶯丘一ノ五三九
    近江一郎
發行人 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    小野楠雄
印刷所 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    五典書院
印 刷 昭和十五年一月五日
發 行 昭和十五年一月十日
定 價 金壹圓五拾錢
    版權者有
發行所 神戸市湊東區荒田町四丁目一七八番屋敷
    五典書院
    電話湊川⑤〇四八三番
    振替神戸一三二六番
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280315/202
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

泉谷祐勝氏(八五)(横浜市在住)が投手として活躍【神戸開港百年】昭和41年

泉谷祐勝氏(八五)(横浜市在住)が投手として活躍
【神戸開港百年】昭和41年

【神戸開港百年】昭和41年
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
大阪読売新聞社神戸支局 編 (中外書房, 1966)  
  学校スポーツ  p217/263
 明治二十九年には
神戸尋常中学校(現神戸高校)の創立とともに
生徒ら五十人で野球会が創設され、
のち早稲田大学野球部の草わけとなった
泉谷祐勝氏(八五)(横浜市在住)が投手として活躍、
明治三十年代には早くも外人と試合して大勝、
たちまち関西の野球名門校にのし上がった。
【神戸開港百年】昭和41年p217
〔画像〕【神戸開港百年】昭和41年p217
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3017385/217
神戸開港百年 ©
読売新聞神戸支局編
昭和41年10月 5日印刷
昭和41年10月25日発行 ¥950
発行者 高尾  清
印刷所 中外印刷株式会社
発行所 中外書房
    神戸市東灘区御影町上東
    TEL.  85-4328
    振替神戸9822
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3017385/259
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

泉谷祐勝(早稲田大学野球部)君と中學選手【野球ローマンス】大正8年

泉谷祐勝(早稲田大学野球部)君と中學選手【野球ローマンス】大正8年

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
泉谷祐勝(早稲田大学野球部)のデッドボール【野球茶咄】大正3年
※下記、赤字部が追記されている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【野球ローマンス】大正8年
  〇泉谷君と中學選手  p79-80/152
 早大舊選手の泉谷祐勝君が
志願兵生活を遣つて居た時の事である。
 或る時師團の演習に從つて
茨城縣は土浦方面に出掛けて行つたが、
時しも數時間の暇があつたので
ブラブラ散歩しながら同地の中學邊へ行つて見ると、
其のグランドで中學生が頻りに練習して居る處に出會した。
日頃軍規とか何んとかいふ八釜しい規則に縛られて、
此の世ながらの別天地に籠つて居る身には浮世の風が懐しい、
まして快い戛々の響きを聞いたのであるからに矢も楯も堪らず、
僕にも打たして呉れとバツトを握つた。
 中學生連中は何を生意氣な軍人奴がと思つたが、
それでも快諾して打たして遣ると、
これはまあ、打つは打つは、
火の出るやうな痛快な奴を三つ四つ五つと連發する。
少々驚いて其の後はカーヴも投げて見たが、
それも亦お茶の子だ。
これは唯者ではないと見て取つたが、
未だそれでも早大に名ある大選手とは氣が付かない。
驚いた揚句が癪に觸つて、とどのつまりは
デッドボールを喰はしたさうな。
 後に至つて中學生等はこれが
泉谷君なることを知つて更らに驚き、
苟くも帝都の名士にかゝる無禮を働いては
野球冥加に盡きる道理、
一同謝罪に行かねばならぬと迄協議を定めたが、
其の中に隊は出發してことはそれなりけり、
唯徒らに泉谷君
旅中の一笑話として今も話の種となつて居る。
當時土浦の投手をして居つた
泉谷君に球を投げ付けた星野三郎君
著者に語つて曰く、
『實際に癪に觸りやんしてね、
 でも後で泉谷さんと知つた時にや
 本統に驚いて蒼くなりやんしたよ』と。
大正八年十二月十日印刷  定價九十五錢
大正八年 一月五日發行 ※大正9年1月5日
著 者 小泉 葵南
    東京府下戸塚町諏訪四十番地
發行者 增田 義一
    東京市京橋區南紺屋町十二番地
印刷者 渡邊八太郎
    牛込區榎町七番地
發行所 實業之日本社
    東京市京橋區南紺屋町十二番地
    振替口座東京三二六番
日淸印刷株式會社印行
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、
1882年(明治15年)3月 - 1967年(昭和42年)2月3日)は、
日本のアマチュア野球選手。
黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、
後には宮内省野球班を組織した。
守備位置は捕手、一塁手。
慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

泉谷祐勝(早稲田大学野球部)のデッドボール【野球茶咄】大正3年

泉谷祐勝(早稲田大学野球部)のデッドボール【野球茶咄】大正3年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年01月05日
泉谷祐勝(早稲田大学野球部)君と中學選手
【野球ローマンス】大正8年
泉谷祐勝(早稲田大学野球部)のデッドボール【野球茶咄】大正3年
※赤字部が追記されている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【野球茶咄】大正3年
  〇泉谷のデツドボール p17-18/140
 早大舊選手の泉谷祐勝君が
志願兵生活を遣つて居た時のことである。
或時師團の演習に從つて
茨城縣は土浦方面に出て行つたが、
時しも數時間の暇があつたので
ブラブラ散歩しながら、
同地の中學邊へ行つて見ると
其の校庭で中學生が、
頻りに練習して居る處に出會して、
日頃軍規とか何んとかに縛られて此世ながらの別天地に、
籠つて居る身には浮世の風が懐かしい。
まして快い戛々の響に矢も楯も堪らず、
僕にも打たして呉れとバツトを握つた。
中學生は何を生意氣な軍人奴と思つたが、
夫れでも快諾して打たして遣ると、
是れはまあ、打つは打つは、
火の出るやうな痛快な奴を三つ四つ五つと連發する。
少々驚いて其の後はカーヴを投げ始めると、
夫れも亦御茶の子だ。
唯者ではないと見て取つたが未だそれでも、
早大に名ある大選手とは氣が付かない。
驚いた揚句が癪に觸つてとどのつまりは、
デッドボールを喰はしたさうな。
 後に至つて中學生等は是が
泉谷君なることを知つて更に驚き、
苟も帝都の名士にかゝる無禮を働いては、
野球冥加に
盡きる道理
一同謝罪に行かねばならぬと迄、
協議を定めたが
其の中に隊は出發してことはそれなりけり、
唯徒らに泉谷君
旅中の一笑話として今も話の種となつて居る。
  〇佐々木の大大悄氣  p45-46/140
※慶應の佐々木勝麿君⇒泉谷祐勝の実弟:下記
  〇佐々木君と胃活   p65-66/140
※佐々木勝麿君⇒泉谷祐勝の実弟:下記
大正三年二月十七日印刷
大正三年二月二十日發行
著 者 小泉三郎
發行者 大橋進一
    東京市日本橋區本町三丁目十番地
印刷者 金網 彌
    東京市小石川區久堅町百〇八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町百〇八番地
發行所 野球界社
    東京市日本橋區本町三丁目十番地
發賣元 博文館
    東京市日本橋區本町三丁目八番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、
1882年(明治15年)3月 - 1967年(昭和42年)2月3日)は、
日本のアマチュア野球選手。
黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、
後には宮内省野球班を組織した。
守備位置は捕手、一塁手。
慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月08日
早稻田大學野球部第一回米國遠征:安部磯雄部長と選手12名
[明治38年4月]【早稲田大学野球部史】大正14年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[泉谷祐勝]伯母・松村正子(しょうこ)の父
松村正子(松村一造の妻)
松村一造(小野又一の実兄)
小野又一(小野一雄・雄二の父)

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月16日
泉谷裕勝:鎮子夫人の父親:徳川慶喜の実弟:池田茂政侯の六女
『天皇の野球チーム』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

早稻田大學野球部第一回米國遠征:安部磯雄部長と選手12名[明治38年4月]【早稲田大学野球部史】大正14年

早稻田大學野球部第一回米國遠征:安部磯雄部長と選手12名
[明治38年4月]【早稲田大学野球部史】大正14年

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<追記>下記
2020.11.8 16:05
早大が逆転勝ちで10季ぶり通算46度目の優勝/東京六大学
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【早稲田大学野球部史】大正14年
  明治三十八年(1905)  p43/279
    空前の壯擧
    渡米の戰跡    p45-46/279
明治卅八年(1905)四月四日、
米國汽船コレア丸に搭じて渡米の途に上つた一行は、
部長     安部 磯雄
遊撃(主將) 橋戸  信
二壘     押川  淸
左翼     鈴木  豊
一壘     泉谷 祐勝
投手     河野安通志
一壘     森本 繁雄
右翼     獅子内謹一郎
三壘     陶山 素一
捕手     山脇 正治
中堅     小原 益遠
三壘     立原 秀輔
投手     細川 絢彦  p46/279
 一行十三名(※安部部長 選手12名)海路平穏、
同月廿日(明治38年4月20日)の拂曉
金門灣口を進んで、桑港に到着した。
翌廿一日サンフランシスコを去る三十五哩南方、
スタンフオード大學所在地に近く、
エバ・グリーンパークに一家を借り受けて本陣と定め、
二十二日から練習を開始した。
 船中の十六日間は全く練習に遠ざかり、
上陸しても甚だしく疲勞を感じてゐた。
不馴れな土地に氣候の變化、
起居飲食等の激變に、尠らず條件を失つた。
 ―略―
大正十四年三月二十七日印刷
大正十四年四月 三 日發行 定價二圓五十錢
編纂者 飛田 忠順
發行者 稻門倶樂部
    右代表者 飛田忠順
    東京市牛込區辨天町二番地
印刷者 吉田  潔
    東京市淺草區榮久町三十五番地
發行所 明善社
    東京市本郷區元町一丁目十七番地
    振替東京六六三一二番
(印刷所 長柄印刷所)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Waseda Weekly 早稲田ウィークリー
16 NOVEMBER 2015
ニュース, 早稲田に歴史あり
安部磯雄と早稲田大学野球部
大学史資料センター嘱託職員 高橋 央(たかはし あきら)
 大学史資料センター嘱託職員 高橋 央
〔画像〕1905年の野球部第1回渡米の際の写真。写真中央に安部部長
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[泉谷祐勝]伯母・松村正子(しょうこ)の父
松村正子(松村一造の妻)
松村一造(小野又一の実兄)
小野又一(小野一雄・雄二の父)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<追記>サンスポ
SANSPO.COM
2020.11.8 16:05
早大が逆転勝ちで10季ぶり通算46度目の優勝/東京六大学
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
第1回投稿:2020/11/07 02:28
第2回投稿:2020/11/08 16:35 <追記>
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ