宗教法人大本

《總裁 出口王仁三郎 統務 大國以都雄》昭和靑年會・昭和坤生會【昭和青年会昭和坤生会一覧】昭和9年

【昭和青年会昭和坤生会一覧】昭和9年
出版者   昭和青年会本部
出版年月日 昭和9.2
  昭和靑年會
總 裁  出口王仁三郎
總裁補  出口日出麿
會 長  出口宇知麿
本  部 京都府南桑田郡龜岡町天恩郷
     統  務 大國以都雄
         (電話 龜岡一七五番)
         (振替大阪七四六八八番)
主  部 京都府何鹿郡綾部町本宮
     主部長  岩田久太郎
         (電話綾部一三一番)
東京本部 東京市四谷區愛住町七六
          大國以都雄
         (電話四谷三五八五番)
 p4【昭和青年会昭和坤生会一覧】昭和9年
〔画像〕p4【昭和青年会昭和坤生会一覧】昭和9年
  近畿第一主會
口丹波三ノ宮支部
京都府船井郡三ノ宮村字猪鼻字中村五六番地
樋口 勘藏
  昭和靑年會編隊一覽
本部隊
  京都府南桑田郡龜岡町荒塚字内丸一番地
       電話龜岡一七五番
       振替大阪七二六八八番
  本部隊長 大國以都雄
主部隊
  京都府何鹿郡綾部町大字本宮
       電話綾部一三一番
       振替大阪六二三五〇番
  主部隊長 岩田久太郎
  昭和坤生會支部名一覽表
總本部  京都府綾部町本宮
     會長 出口 澄子
     (電話綾部一三一)
     (振替大阪六二三五〇)
本  部 京都府龜岡町天恩郷
     會長 出口 澄子
     (電話龜岡一七五)
     (振替大阪壹九八三二)
東京本部 東京市四谷區愛住町七六
     主任 御田村卓子
     (電話四谷三五八五)
     (振替東京七四六八八)
昭和九年一月二十日 印刷
昭和授年二月 三日 發行 (非賣品)
編輯兼 昭和靑年會本部
發行所 京都府龜岡町荒塚内丸一
印刷所 天聲社
    京都府龜岡町荒塚内丸一
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年04月04日07:13
《大國以都雄》[昭和神聖會]
【愛国運動現勢. 第1輯】昭和10年4月10日発行
 79cbba90
〔画像〕79cbba90
左から
前列 大国以都雄(大国 弘 夫)
   松村一造 (小野又一 兄)
   松村正子 (松村一造 妻)
   坂本恭啓 (小野又一 二姉 文の夫)
中列 大国 弘 (大国以都雄 妻:小野又一 長姉)
   小野文子 (小野又一 妻)
   金岡重  (小野又一 三姉)
   坂本善春 (坂本恭啓 長男)
後列 小野又一 (小野一雄 父)
   小野一雄 (小野又一 長男)
   金岡武夫 (金岡 重 夫)
   坂本佳記 (坂本恭啓 二男)
撮影場所:松村一造宅 二階
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《出口王仁三郎・松村仙造・名田音吉・植芝盛平等》支那在留禁止【官報 1924年08月09日】大正13年

【官報 1924年08月09日】大正13年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正13年
◎支那在留禁止
支那奉天駐在帝國總領事ハ
左記ノ者ニ對シ
明治二十九年法律第八十號
淸國及朝鮮國在留
帝國臣民取締法第一條ニ依リ
各々頭書ノ期間
支那在留禁止ノ命令ヲ發セリ
[去月二十一日ヨリ向フ三箇年]
出口王仁三郎 明治四年七月十二日生
 當時 支那住所不定、
    京都府下何鹿郡綾部町
    本宮村宮下三十二番地
    平民 戸主
松村 仙造  明治十三年七月十九日生
 當時 支那住所不定、
    島根縣簸川郡直江村大字下直江
    千九十六番地
    平民 戸主
名田 音吉  明治七年九月十一日生
 當時 支那住所不定、
    大阪市西區九條南通一丁目百二十三番地
    平民 戸主
植芝 盛平  明治十六年十二月十四日生
 當時 支那住所不定、
    和歌山縣西牟婁郡西ノ谷村
    四百四十一番地
井上 兼吉  明治二十五年四月十二日生
 當時 支那住所不定、
    長崎縣南高來郡三會村六百二十九番地
    平民 戸主 兼七 四男
井上 廣一  明治十七年一月十五日生
 當時 支那住所不定、
    大阪市北區富島町十番地
小林 善吉  明治三十七年八月二十日生
 當時 支那住所不定、
    福岡市西新町六丁目四百三十八番地
山田文次郎  明治二十二年十月二日生
 當時 支那住所不定、
    愛知縣中島郡大里村字井ノ口百二十九番地
    平民 戸主 鐵次 弟
萩原 存愛  明治二十二年六月三十日生
 當時 支那住所不定、
    東京市牛込區辨天町百七十五番地
    士族 戸主
大石  良  明治十六年十月二十二日生
 當時 支那住所不定、
    東京市小石川區表町百九番地
    士族 戸主
p2【官報 1924年08月09日】大正13年
p2【官報 1924年08月09日】大正13年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年05月24日 04:36
[直江村:明治45年迄・帝國大學卒業者一名《松村仙造》]
【簸川郡教育五十年史】
[蒙古入りの一行]p203
洮南にて 大正13年3月22日
 1dc7317b
左から
佐々木弥一、出口王仁三郎、岡崎鉄首、大石良
松村真澄、名田音吉、植芝盛平。
『巨人 出口王仁三郎』 定価490円
昭和42年9月  8日 第1刷発行
昭和42年9月14日 第4刷発行
著 者 出口京太郎
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【大本七十年史 上巻】1964
著者    大本七十年史編纂会 編
出版者   大本
出版年月日 1964
(大正10年)七月二一日には
あらたに高木鉄男が社長となった。
そして八月三日には、
本社を大阪淀川の川畔にある
天満筋四丁目に移転するにいたり、
西村光月を編集長とし、
岡本霊祥・高見元男・
萩原存愛・吉島東彦・
三谷先見・大深浩三らが
新社屋にたてこもって
なお発行を維持した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3003950/1/286
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
盧占魁の実弟と、名田彦山田小林善吉
その他支那人二名が、
洮南に向かって強行軍に邪魔になる荷物を積み、
一度奉天へ向かって戻っていった。
主な人物【セ】源日出雄、萩原敏明、
坂本広一、真澄別、猪野敏夫
【場】白凌閣、盧占魁、守高
【名】岡崎、名田彦、山田、
包団長(包金山)、趙倜、趙傑、
劉陞山(第9章・他では劉陞三)、
大英子兒、盧秉徳(盧占魁の弟)、
小林善吉、李景林、闞旅長(闞中将)、大石、矢野
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
主な人物【セ】源日出雄、坂本
【場】真澄別、守高、白凌閣、
温長興、王讃璋、康国宝
【名】張彦三、盧占魁、劉陞三、西王母、
山田文次郎(第13章の山田文治郎と同一人物か?)、
岡崎、萩原
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村仙造》松村專藏君なる法學士の痛快なる男であつた 大正14年2月16日【比較スラヴ文典】昭和7年

《松村仙造》松村專藏君なる法學士の痛快なる男であつた 
大正14年2月16日【比較スラヴ文典】昭和7年

【比較スラヴ文典】昭和7年
著者    福田精斎 編
出版者   狩野文京堂
出版年月日 昭和7
p1【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p1【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/1

p7【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p7【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/7

p19【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p19【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/19

p245【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p245【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/245

前列 左から
松村仙造 露人 露人 露人
出口王仁三郎 露人 著者 福田精斎 大谷?
後列中央(王仁三郎の後)
  大国 弘(松村仙造 長女:大国浩三 妻)
撮影:大正14年2月20日
p247【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p247【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/247

ハンガリーの新聞記事中大本敎に關する梗概
   日 本 通 信
 大本と名くる新信仰運動日本に於て發展す
 其運動史の梗概
綾部町なる京都市に遠からざる小さき町に
精神的宗敎運動を起し瞬時に全日本國に傳播し
遂にヱスペラントを以て世界に宣傳をなすに至る。

大本敎は出口直子が日本に於て「神がかり」として
獨特に千八百九十二年に宣傳せられたり

神がかりとは神詑亦は精神(精靈)存在の意味なり
それは精神的に深奥なる説示をし
或は不思議に未來を暗示するものなり
近隣に狂氣の如く信仰さるるに至れり、

但彼女の夫の死するや貧窮其底に徹し
遂に爰に神がかりなる現象を發明し
初めて隣人に之を示し
遂に一般世人に喧傳せらるに至れり
所謂「お筆先」なるもの
即ち無學なる彼女は精靈の暗示を受け
世の禍福を紙上に誌るすの謂也云云
   □
私の懇意な洋服屋大谷君に
アラビヤの羽織を作らせたことから端を發し
同君が大本敎の信者の關係から
大本敎がヱスペラントの小冊子で
世界各國に宣傳してるのを
常に我邦に好意を持つハンガリーでは
日刊新聞に其梗概を轉載して
大本敎本部に送つて來た。

しかし我邦では之を譯する人なく
持てあまして居つたらしい、
それを大谷君が持つて私を訪問した。

私は一見してハンガリー語であることを認めたが
學習しない語であるから
字書と首引で讀んで要点丈け譯して返した、

一兩日を經て再來て急がぬから
全譯して呉れとのことであるから
その後二三回も譯することとなつた、

其事から大本敎との交渉出來て
韃靼人と出口王仁三郎君とが面會することとなつた、

これより先き出口君は例の蒙古入の時
韃靼の志士セルヒメドフ氏と會話して
マホメツト敎と提携する約をなして
居つたそうであるから
在京都のマホメツト敎徒である
韃靼人と會合するは譯もないことであつた。

最初は大深君なる人を介して會談したが

大正十四年の二月十六日には
松村專藏君なる法學士の痛快なる男であつた

同月二十日には韃靼人四君を連れて
大谷君と共に行つた
龜岡の元明智の城跡に建てる
大本敎瑞祥閣に入つた
未だ其節は大建築出來上らぬ時で
假玄關とも云ふべき
可なり廣い建築物に入り案内を俟つた

そこには王仁三郎君のブロマイド全紙の寫眞が
額にして掛てある
須叟にして出口君の居室に入つた
出口君は六十を越した
頑丈な田舎丸出しの朴訥の老人で
言葉も田舎丸出しの現代離れのした
訛ある言葉が無造作に出る

實に素朴愛すべき
イヤに氣取つた点少しもなく
誠に天眞爛熳である

一間ほどある紫檀の机の一隅を占め
生ずきの半紙に敎理を記し
ボツリボツリと朗讀するから
私が通譯し亦韃靼人の意思をも
私が和譯し相互滿足し
雉の羹の饗を受け紀念撮影して別れた

普通の管長格の人人は箸の上げ下しの如き
些事に至る迄從者を煩はす樣だが
出口君は之に反對で
卒業期の親爺多忙で細君代理に來たものだから
田舎の婆樣器械の置き方目茶クチヤ也、

君身輕に走りてピントを直し、
ヨカロツと云つて自分の場處に歸る
ウマイものなり
これ丈けが出口君に對する感想也、
自署せる蒙古に入る記を各自貰つて歸京した、

私は不幸にして大本敎の敎理には理解を持たぬが
支那の紅卍字會やマホメツト敎と提携したり
土耳古帽を冠り私の着用したアラビヤの羽織を面白がり
自分(も弟子にも)之を着用し
ヱスペラントの弘布に勉めたりする
ヱキゾチツクの趣味丈けには私は共鳴する、

私の此著に大本敎を挾むは嘲る人もあらう、
しかし刑事や憲兵が来て先妻が非常に神經を惱し
それが彼女の死を早めらしいから
私の歷史には決して微々たる事件ではなかつた、

其當時何故刑事が屢々私を訪問して困つたと云ふと
私の方に不謹慎の点があつた如何となれば
出口君の刑事問題が完結してないのに
ロシア人(韃靼人)を連れて行つたからである、

亦大本敎に買つてやらねばならぬことは
宗敎各派が手前味噌で固まり
人類愛と云ふことを忘れてるのに
世界人類は協同すべきを主張してる点にある
(人類愛善會と云ふ名稱が何だか變梃なれども)
終に臨んで痛快なる故松村仙藏君の永眠を悼む。
p249【比較スラヴ文典】昭和7年
〔画像〕p249【比較スラヴ文典】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/249
昭和七年十二月二十五日印刷
昭和七年十二月三十一日發行
編纂者 福田 精齋
    京都市中京區大宮通三條上ル
印刷人 中村辰之助
    京都市東山區疎水通正面上ル鍵屋町
印刷所 中京堂印刷所
    京都市東山區疎水通正面上ル鍵屋町
    電話祇園四〇九二番
發行所 狩野文京堂
    京都市上京區丸太町河原町東入
    電話上 六一三五番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688722/1/352
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

理髪師 名田音吉 大阪市西區九條中通一丁目【大家叢覧】大正4年

理髪師 名田音吉 大阪市西區九條中通一丁目【大家叢覧】大正4年

【大家叢覧】大正4年
〇大阪市理髪業の部(第一版)  p105/516
理髪師 名田音吉
西區九條中通一丁目
大正四年五月十九日印刷
大正四年五月廿三日發行 定價金四圓
著作兼 今北 治策
發行者 大阪市西區本田二番町六番地
印刷者 荒木佐兵衛
    大阪市西區阿波座中通二丁目四番地
印刷所 浩 進 舎
    大阪市西區阿波座中通二丁目四番地
製本所 吉田製本店
    大阪市西區立賣堀北通一丁目十六番地
發行所 商工重寶社
    大阪市西區本田貳番町六番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[元大本教幹部ら三十名有罪と認定公判へ]大阪毎日新聞 1938.1.26 (昭和13)

[元大本教幹部ら三十名有罪と認定公判へ]
大阪毎日新聞 1938.1.26 (昭和13)

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 倫理および宗教(4-113)
大阪毎日新聞 1938.1.26 (昭和13)

元大本教幹部ら三十名有罪と認定公判へ
不敬罪と治安維持法違反で

京都地方検事局ならびに京都府警察部によって
昭和十年十二月八日未明を期して
疾風迅雷的に大検挙された
妖教"皇道大本"の教主出口王仁三郎以下五十九名は
起訴予審に附され京都地方裁判所予審部
西川上席判事をはじめ
各判事総係りで審理を急いでいたところ
ついに検挙当日より約二年二ヶ月を経過した
二十五日正午五十九名(六十一名のうち二名死亡)のうち
出口伊佐男以下左記三十名の予審が終結したので
いずれも治安維持法違反、不敬事件として
有罪と決定公判に附されることとなった

本籍、京都府何鹿郡綾部町大字本宮村三三
住所、京都府南桑田郡亀岡町大字荒塚字内丸
本部 統理 出口伊佐男(宇智磨)(三六)

本籍、京都府何鹿郡綾部街大字本宮小字上野藤山五
住所、同
総務教務部 井上留五郎(六五)

本籍、岡山県岡山市西田町二五、
住所、京都府何鹿郡綾部町字上野七六
総務天声社長 高木鉄男(六五)

本籍、京都府南桑田郡亀岡町字横町二二ノ一
住所、同
総務亀岡内事課長 東尾吉三郎(五一)

本籍、山口県山口市堅小路一〇三
住所、京都府南桑田郡亀岡町字旅籠町三七
総務部昭和青年会総務 大深浩三(四三)
IMG_8138

本籍、京都府南鹿郡綾部町字並松
住所、京都府南桑田郡亀岡町字旅籠町
総務、明光社社長補 森慶三郎(六四)

本籍、長崎県佐世保市万津町三七
住所、同
総務 佐世保別院管事、貸地業 山県猛彦(七〇)

本籍、大阪市住吉区相生通三ノ三三
住所、京都府南桑田郡亀岡町荒塚一
特派宣伝使、愛善保育園主事 比村中(三九)

本籍、岡山県後月郡高屋町一一二〇
住所、京都府南桑田郡亀岡町天恩郷
特派宣伝使、亀岡会計課長 中村純一(五三)

本籍、京都府何鹿郡綾部町字上池田二七
住所、京都府何何鹿郡亀岡町字東町四二
特派宣伝使、編輯課長 桜井重雄(四六)

本籍、熊本県阿蘇郡小国町大字黒淵二五六一
住所、京都府南桑田郡亀岡町字東野一一
特派宣伝使、天声社副社長 河津雄次郎(五三)

本籍、福島県安積郡喜久田村大字早稲原五四
住所、同
特派宣伝使、大本東北主会長 長野久治(四九)

本籍、京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字上番所
住所、東京市四谷区愛住町七六
特派宣伝使、人類愛善新聞社経理局長 広瀬義邦(四三)

本籍、茨城県北相馬郡小文間村字戸田井九四
住所、東京市品川区上大崎町二丁目五五九
大本東京連合会長、占業 木村貞次(五九)

本籍、京都市中京区西ノ京中保町二六
住所、同
京都分院理事長 中村新助(五五)

本籍、宮城県遠田郡富永村上埣字不動六九
住所、同
大本宮城県第二連合会長、農業 鈴木常雄(五一)

本籍、岡山市二番町一九
住所、同
大本岡山主会長、華道教授、中国別院管事補 木下愛隣(五六)

本籍、岡山県赤磐郡万富村大字万富九九五
住所、同
中国別院管事、酒類請売業 森国幹造(五六)

本籍、東京市蒲田区小林町二六五
住所、京都府何鹿郡綾部町本宮下一七
編輯課次長 波田野吉之輔(四二)

本籍、石川県鳳至郡諸橋村字古君八字一〇
住所、京都府南桑田郡亀岡町旅籠町
編輯課員 浜中助三郎(三二)

本籍、大阪市此花区春日出町三〇三ノ一
住所、京都府南桑田郡亀岡町字西堅町一二
大本本部受附係 笹岡康男(三六)

本籍、京都府南桑田郡亀岡町字内丸二六
住所、同
丹州時報記者、人類愛善会情報部主任 安藤武夫(三五)

本籍、大阪府堺市竜神橋通二丁目七
住所、同
大本竜神支部長、生花師匠 児玉知二(五九)

本籍、静岡県志太郡焼津町二二
住所、同
信者、農業 中野与之助(五〇)

本籍、東京市小石川区林町一八
住所、埼玉県浦和市常盤町四四四八
紫雲郡別院幹事、会社取締役兼工場長 米倉恭一郎(七〇)

本籍、静岡県磐田郡中泉町石原一六五〇
住所、同
信者、左官職 由太郎(二九)

本籍、静岡県周智郡飯田村字飯田
住所、静岡県浜松市元目町八六
信者、鉄工業 武田仙蔵(三一)

本籍、静岡県磐田郡袋井町高尾二二〇
住所、同
信者、農業 竹原弘(三四)

本籍、静岡県静岡市屋形町一九
住所、愛知県豊橋市瓦町通裏一
信者、錻力職 富井徳太郎(三六)

本籍、群馬県多野郡藤岡町大字藤岡一五三二
住所、同
信者、乾物商 石山喜八郎(二九)

データ作成:2009.12 神戸大学附属図書館
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

谷口雅春「生長の家」[特高外事月報・昭和12年1月分]

谷口雅春「生長の家」[特高外事月報・昭和12年1月分]

  宗敎運動の狀況  p87/117
    一、類似宗敎「生長の家」概況
(一)概況
東京市赤坂區檜町に本部を置く「生長の家」は
現主宰者谷口雅春の創始に係り、
同人が昭和五年神戸在住中個人雜誌「生長の家」を編輯發刊して
所謂光明思想の普及を提唱したるに濫觴するものにして、
昭和九年本部を東京に移して組織を擴充し、
巧妙なる布敎宣傳を以て克く世情に投じ、
創始以來僅々五年にして全國に七百數十の地方支部(誌友愛會)と
信者(誌友)十數萬を擁するの發展を見るに至れり。
而して本敎團は最近類似宗敎團體の跋扈弊害に對する
當局の斷乎たる取締を見るに至るや、
卽ち其の對象と爲ることを恐れて
自ら敎化團體に外ならずと稱し居れるも、
其の所説或は信者の心理に徴するも
類似宗敎團體たること明にして、
而も其の云爲する幼稚なる宗敎的唯心論に出發する
誇大なる現生利益の強調は、
殊に醫療妨害等の弊害を惹起するの虞ありて、
本敎團の動向等に關しては
宗敎警察上相當注目の要あるものと認めらる。
以下其の沿革敎義竝に現況等の概要に就て述ぶる所あるべし

(二)主宰者谷口の經歷及敎團の沿革
「生長の家」主宰者谷口雅春は
明治二十六年十一月二十二日
神戸市湊區夢野町三丁目に生れ、
大正十三年(※三年の誤記)早稻田大學文科を中途退學後
大日本紡績株式會社に入社したるが、
同八年同會社を退いて皇道大本敎に入信し、
綾部本部に於て同敎機關紙あやべ新聞の編輯に從事し、
傍ら出口王仁三郎、淺野和三郎等に就き
心靈學、鎭魂歸神法等を修習し
更に各宗敎を研究する處ありたり。
斯くて大正十年大本教第一次不敬事件の發生するや
直ちに同敎を去つて上京し宗敎上の著述に當り居りしが、
大正十三年十二月神戸市所在の外國商館
ヴアキユーム・オイル會社に就職したり。
其の後圖らずも神の啓示に依り
後述の如き眞理を體得せりと自稱し、
昭和五年三月神戸市外住吉の自宅を「生長の家」本部と爲し、
個人雜誌「生長の家」を編輯發刊して人類光明化運動を提唱し、
卑近巧妙なる布敎手段に依り漸次誌友(信者)を獲得し、
昭和八年八月右商館を辭して專ら敎勢の擴大
「生長の家」關係の著述出版に當れり。
斯くて昭和九年八月在京誌友有志の勸誘に依り上京し、
「生長の家」本部を東京市澁谷區穩田三丁目七六
(谷口の現住所)に移して組織を擴大し、
同年十一月「生長の家」關係書籍の出版竝に販賣營業を目的とする
株式會社光明思想普及會(資本金二十五萬圓)を設立し、
更に翌十年十月同じく其の附帶事業を目的として設立したる
株式會社見眞社を合併して資本金を百二十五萬圓となし、
同時に其の本社竝に「生長の家」本部を現在の場所に移轉せり、
而して「生長の家」を始め各種の機關雜誌、
單行本の出版頒布、新聞廣告、講演會等に依るの外
見眞道場、花嫁學校・家庭光明寮の設置經營等
布敎宣傳に努め遂に今日の隆盛を見るに至れり。

(三)敎義竝に布敎の方法  p87-88/117
   -略-

(四)組織概況       p88-89/117
「生長の家」本部は谷口雅春を總裁とし、
殆ど其の獨裁的支配下に在り。
彼を中心として本部最高機關たる理事會あり。
理事は又各部局(顧問、企劃、敎化、總務、編輯、敎育、婦人)の
長として本部の中樞を形成し、
地方支部として全國各地に七百三十餘の
「生長の家誌友相愛會」を置き布敎開發に努め居れり。
株式會社光明思想普及會は「生長の家」本部と全く異名同體にして、
「生長の家」を敎化團體とする建前より
其の企業的方面を擔當せしむる爲の手段便法に過ぎず。
取締役社長の外取締役監査役各五名を置き社務を掌らしむ。
谷口は表面重役に列し居らざるも、
會社の實權は殆ど彼の壟斷する處にして、
前記役員の如きは寧ろ空位を擁しつゝあるの實狀なり。
而して「生長の家」地方支部たる「誌友相愛會」責任者は
會社の株式を以て之に充て、
誌友獲得に依る書籍の賣行を直ちに自己の利益に反映せしむるの
巧妙なる方法を採り居れり。
「生長の家」敎育事業として經營しつゝある花嫁學校、
家庭光明寮は谷口雅春の妻輝子寮長となり、
高等女學校卒業程度以上の婦女子に對し
結婚準備の敎育を施し約四十名の寮生を収容しつゝある狀況なり。
「生長の家」光明思想普及會の首腦者左の如し。
一、生長の家本部理事會(最高機關)
  總  裁   谷口 雅春
  理事長    辻村 楠造(元陸軍主計總監)
  顧  問   野村 義隆(元海軍主計大佐)
  企劃部長兼敎化部長
         秋田 重季(子爵元貴族院議員)
  總務部長   淸津 理門(谷口雅春義兄)
  編輯部長   岡田  昇(十一年十月佐藤彬辭職後就任)
  敎育部長   矢野 西雄
  婦人部長   松本 恒子
二、光明思想普及會重役
  取締役社長  服部 仁郎(十一年六月二十八日 佐藤勝身
               辭任後社長トナル)
  取締役    辻村彦二郎
  同      巽  忠藏
  同      佐田フミヨ
  同      湖松 茂吉
  同      西村辰五郎(佐藤勝身辭任後取締役トナル)
  監査役    石津又一郎
  同      湯澤 睦雄(警眼社)
  同      井上喜久麿
  同      伊東 義啓
  同      吉田 信雄
三、大株主(三百株以上)
  三、二七〇株 谷口 輝子(雅春妻)
  三、〇〇〇株 谷口 雅春
  一、四二六株 小塚 公平
    三〇〇株 伊東 義啓
    三〇〇株 宮崎喜久雄(以上東京)
    五〇〇株 山田豐太郎(長崎)
    五〇〇株 星丘 重一(兵庫)

(五)現 況    p89-90/117
(左記一)生長の家七つの光明宣言
     -略-
(左記二)招神歌
     -略-
(左記三)發行書籍種目
     -略-
(左記四)本部講習會席上に於ける谷口雅春の講義内容
     -略-
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード A04010437600
件名 特高外事月報・昭和12年1月分
国立公文書館 内務省関係 内務省警保局
特高外事月報・昭和12年1月分
[規模]117
作成年月日 昭和12年1月
作成者   内務省警保局//内務省警保局保安課
組織歴   内務省警保局//内務省警保局保安課
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
生長の家創始者  谷口 雅春 先生
明治26年11月22日、
兵庫県八部郡烏原村(現在の神戸市兵庫区)にご生誕。
大正3年、早稲田大学英文科を中退、求道生活に入られる。
やがて「人間・神の子」善一元の世界、万教帰一の啓示を受けられ、
この真理を 万人に伝えたいとの悲願の下に
個人雑誌「生長の家」誌を昭和5年3月に創刊。
以後、同誌の普及に連れ、後に宗教法人「生長の家」に発展する。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《松村真澄録》『霊界物語』天国巡覧「出口王仁三郎に学ぶ ‟日本再生”への道」 経済アナリスト 藤原直哉氏

《松村真澄録》出口王仁三郎著『霊界物語』第四十七巻
 第三編 天国巡覧 第十二章 天界行
「出口王仁三郎に学ぶ ‟日本再生”への道」 経済アナリスト 藤原直哉氏

 「出口王仁三郎に学ぶ ‟日本再生”への道」
•2019/05/30
(大正一二・一・九
  旧一一・一一・二三 松村真澄録)
出口王仁三郎著『霊界物語』第四十七巻
 第三編 天国巡覧 第十二章 天界行

「出口王仁三郎に学ぶ ‟日本再生”への道」 経済アナリスト 藤原直哉氏
令和元年5月15日
大本・人類愛善会東京本部主催「21世紀生きがい講座」(港区新橋)から
講題:「出口王仁三郎に学ぶ ‟日本再生”への道」
講師:藤原直哉氏(経済アナリスト)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
DB 王仁DB β版
出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト
文献名1 霊界物語 第47巻 舎身活躍 戌の巻
文献名2 第3篇  天国巡覧
文献名3 第12章 天界行〔1245〕
著 者  出口王仁三郎
あらすじ
 ―略―
主な人物 舞台
口述日 1923(大正12)年01月09日(旧11月23日)
口述場所
筆録者 松村真澄  校正日 校正場所
本文
 ―略―
『あゝさうです、愛の善といふものは凡て吸引力の強いもので、
又無限の生命を保有してゐるものです。
天人であらうと現界人であらうと地獄界の人間であらうと、
それ相応の愛に仍つて生命が保たれてゐるのですからなア、
そして其愛なるものは凡て厳の御霊、
瑞の御霊の御神格より内分的に流れ来るものですから、
実に無始無終の生命ですよ、あゝ惟神霊幸倍坐世
(大正一二・一・九 旧一一・一一・二三 松村真澄録)
 第12章 天界行〔1245〕
〔画像〕第12章 天界行〔1245〕
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年01月08日 13:05 ◆松村仙造(眞澄) 宗教法人大本
<松村真澄>《蒙古にて、逮捕された王仁三郎たち》
《霊界物語を口述する王仁三郎》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[大本敎埼玉聯合会状況並パンフレット][昭和青年会調査資料・大國以都雄]昭和8年12月

[大本敎埼玉聯合会状況並パンフレット]
[昭和青年会調査資料・大國以都雄]昭和8年12月

亞細亞局  第一課  昭和八年十二月八日接受
高秘第五五六號
   昭和八年十二月七日
       埼玉縣知事 廣瀨久忠
  内務大臣 山本達雄殿
  外務大臣 廣田弘毅殿
  陸軍大臣 荒木貞夫
  海軍大臣 大角峯生
   指定各廳府縣長官殿

    大本敎埼玉聯合会状況並パンフレット
    郵送越ニ関する件
大本敎埼玉聯合会ニ於テハ本月三日午后一時ヨリ
兒玉郡本庄町所在本庄分所ニ総会開催ニ
分所十八支部ヨリ五十二名参集
本部ノ指令ニ基キ左記各項ヲ協議決定シタルガ
第二第四項ニ付テハ不日具体的方法ヲ決定スル筈ニシテ
午后六時散会セリ
尚各支部ニ対シ大國以都雄編輯ニ係ル  ※下記
昭和青年会調査資料「一九三五・六年ノ問題」ト題スル
別記目次ノパンフレットヲ郵送有之
右及申(通)報候也
   決議事項
一、國体明徴運動ニ関シテハ各分所又ハ支部ニ於テ
  適切ナル方法ヲ以テ実行スルコト
二、國防展覧会ヲ開催スルコト
三、神社参拝ニ関シテハ毎月一日各支部ニ於テ實
B04012529200-08
〔画像〕B04012529200-08

  行
  皇道講座開設ニ関シ場所ハ浦和分所トシ日時ハ追テ決定ス
五、萬祥殿建設ニ際シ信者ハ應分ノ寄附ヲスルコト
六、明光運動ニ関スル作歌募集ニ対シ奮テ應募スルコト
    右決議ス

  一九三五・六年ノ問題目次
一 國際聯盟脱退の効力発生
一 南洋委任統治領問題
一 経済的圧迫
一 武力経済封鎖
一 第三次海軍々縮会議
一 米海軍対日比率優勢
    附太平洋航空路の完成
一 シンガポール軍港の完成と英國の建艦
一 第二次蘇聯邦軍備五ヶ年計画完成
    附空軍計画完成
一 支那の長期抗日策
一 支那空軍三ヶ年計画完成
一 侵略國定義條約締結の影響
一 國際主義破綻の影響
B04012529200-09
〔画像〕B04012529200-09

B04012529200-10
〔画像〕B04012529200-10
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード B04012529200
件名 本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻 2.大本教 分割2
   外務省外交史料館 戦前期外務省記録
   I門 文化、宗教、衛生、労働及社会問題
   2類 宗教、神社、寺院、教会
   1項 宗教 0目
   本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻
【 画像数 】10
作成年月日 昭和8年9月1日
作成者   在新京総領事代理佐々木高義
組織歴   外務省//在新京日本帝国総領事館
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年04月03日 08:00 ◆松村仙造(眞澄) 宗教法人大本
《大國以都雄:總務主任》[皇道大本昭和靑年會現勢一覧表](昭和九年六月末現在)
《大國以都雄》
  明治29年(1896)3月26日生
  平成         歿
大深浩三:山口縣吉敷郡山口町大字上堅小路百参番地[除籍謄本]
大深以都美(大正11年p85)
大国以都雄(大正13年11月)
大国美都雄(p98)→大本での名前
「真偽二道」大国美都雄著 昭和58年11月10日発行
妻 大国 弘 
  明治42年(1909)8月28日生
  昭和51年(1976)7月5日歿
 <父 松村仙造(眞澄) 母 松村 墨>
  大国弘(こう) → 大国清香 大本での名前
  大正15年2月11日婚姻
  「真偽二道」p119-120 大国美都雄著 昭和58年11月10日発行
  昭和2年7月16日 入籍[除籍謄本]
文責:小野一雄
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《三木 榮 號榮川》《ポーン・ブワナート 暹羅國》漆工科 明治43年卒業【東京美術学校一覧】

《三木 榮 號榮川》《ポーン・ブワナート 暹羅國》
漆工科 明治43年卒業【東京美術学校一覧】

【東京美術学校一覧. 明治43-45年】
 卒業生姓名            p67/236
 研究科 ○印ハ撰科研究生ヲ示ス  p66/236
金 工  ○チヤルン・スラナート  暹羅國
漆 工  ○ポンプー・ワナート   暹羅國
 漆工科              p83/236
明治四十三年三月卒業        p85/236
自 營    三木 榮       群馬士
研究科修業中 吉野 富雄      千葉平
自 營    長谷川源太郎     富山平
 金工撰科             p94/236
明治四十三年三月卒業        p94/236
自 營    原田 縫吉      東京平
研究科修業中 チヤルン・スラナート 暹羅國
 漆工撰科             p95/236
明治四十三年三月卒業        p96/236
自 營    ポンプー・ワナート  暹羅國

【東京美術学校一覧. 昭和5至6年】
 金工科            p131/205
明治四十三年三月選科卒業    p132/205
原田 縫吉      東京
チヤルン・スラナート 暹羅國
 漆工科            p140/205
明治四十三年三月本科卒業    p143/205
長谷川源太郎     富山 號 綠雲
吉野 富雄      千葉 號 花光
三木 榮       東京 號 榮川
明治四十三年三月選科卒業    p143/205
ポーン・ブワナート  暹羅國
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[シヤム駐在大本宣傳使皈朝ニ関スル件]
大本宣傳使 筧 淸澄:昭和8年10月
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[シヤム駐在大本宣傳使皈朝ニ関スル件]大本宣傳使 筧 淸澄:昭和8年10月

[シヤム駐在大本宣傳使皈朝ニ関スル件]大本宣傳使 筧 淸澄:昭和8年10月

亞細亞局  第一課  昭和八年拾月廿六日接受
八特秘第五三二〇號
   昭和八年十月十八日
       京都府知事 齋藤宗宜
  内務大臣男爵 山本達雄殿
  外務大臣男爵 廣田弘毅殿
   指定各廳府縣長官殿

    シヤム駐在大本宣傳使皈朝ニ関スル件
     大本宣傳使 筧 淸澄
右者皇道大本ノ意ヲ受ケ昨年七月廿三日
商船スラバヤ丸ニテ海外宣傳特使トシテ
暹羅國ニ渡航シ
爾来同國ニテ活動中ノ処
本月八日皈朝シタルニツキ
大本ニ於テハ筧ノ皈朝談トシテ
『暹羅最近ノ國情ヲ視テ』ト題スル別紙冩シノ如キ
印刷物ヲ百二十部作製シ
大本ニ好意ヲ有スル各新聞社ニ宛テ
本月十一日夫レニ郵送シタル趣ニ有之御参考迄
右及申(通)報候也
B04012529200-04
〔画像〕B04012529200-04

 澎湃として漲る親日気勢
  暹羅最近の國狀を視て
   山田長政其他先人の功績歷然たり
   皇道の特使 筧淸澄氏の皈来談

 昨年七月二十三日
商船スラバヤ丸でバンコツクに赴き
暹羅國に滞在八ケ月
英国の保護の下にある
マレー半島の諸王国に六ケ月滞在して
私は自分の使命である神教の宣傳に從事した。

在留日本人は皇道の大本を亜細亜諸民族共同の利害問題であり、
これなくしては亜細亜全体の興隆は期し難いと信ぜられ
早晩実現すべき物として八釜ましく言はれてゐる
亜細亜大同團結 亜細亜連盟等の問題について
根本指導原理として日本の皇道主義を分らせる事が
最も捷径であると考へられたからである。

然し私は他の基督教の牧師佛教の僧侶
其他既成宗教の人々のやうに
多額の活動資金を携へたり、
給料を貰ったりはして行かなかったのである。

其れは我々の教に反する事だし
元より彼の地の人々の為に計ってする神教の宣傳があるし
何等他意なきに出た宣傳だからである。

 最初に■へられた信徒は現在バンコツクの支部長をしてゐる
三木栄(群馬県人)と言ふ人であった。 ※別稿に記載
三木氏は二十年来王室の美術院に仕へる人で
東京の美術学校出身であり
在留邦人の中でも有力家であった。

暹羅人の信徒としては
現王家チヤクリ王朝と並び称される名家で
我国の西園寺公家以上のチヤルン・ナブンナーク氏が
上流社會では眞先に入信し日本の神様を奉齋した。

次ぎに海軍大將で前軍令部長であったビアマハ・ヨクー氏が入信
其他貴族院議員の間にも数氏が我々の信ずる神様を奉齋し
信徒に加はつたのである。

これ等の人々が入信したのは
神徳に依って永年患ってゐた病気が癒されたり
思ふ事が叶へられたりした事も一つの理由ではあったが
もっと重大な理由は心から日本を慕ひ
日本の神様を信頼する■出でた為であった。

 丁度私の滞在中我国が国際聯盟を脱退し
聯盟總會では孤立奮闘してゐた松岡全権を援けて
暹羅国代表が投票を棄権して評判となったが
当時の暹羅国の政情を私は始終目撃する事が出来たのである。

暹羅をして共処に導き得た所の物は
一に天祐の一言に盡きると思はれるのは
聯盟總會前二月二十日頃迄の同國の政情は
我国にとって甚だ不利益であった。

当時英国は暹羅の北境ビルマの横にある
サンスレート国に二萬の兵を駐めて絶へず
暹羅の新政府を威嚇したり
サンスレート国王の娘を我国の朝鮮にも比すべき
チエンマイ領主の息子と結婚させたりして
チエンマイ領を暹羅から引離して独立せしむる可く策動して居たりで
暹羅としてチエンマイを失ふ事は國の大半を失ふのだから
大不安に怖れてゐた。

斯くて首都バンコツクには戒厳令が布かれ
軍用自動車が市内を往行して日夜警戒してゐる状態で
將に暹羅国の分解時代を来しかと思はしめたのである。

斯んな訳で心ある在留邦人は従来扶殖した日本の勢力を
全く英国の為に根本的に覆へされる事を深く患れておった。

尚ほ昨年十二月に制定された暹羅国の新憲法には
外交方針は国際聯盟に手賴り凡て聯盟主義で行く事が規定さ
B04012529200-05
〔画像〕B04012529200-05

れてあり
おまけに外務省の顧問は代々米国人であり搗てゝ加へて
時の外務大臣は所謂華僑出身で支那人の第二世であったから
支那の外交方針は支持しても日本に加擔するなどの事は
夢想だに出来得なかったので
英米佛の出先外交部などもすっかり安心してゐたやうである。

所が事件は外務大臣が皇帝の離宮に伺候してゐる
留守中に決行されたもので
これは純粋の暹羅人の手で処断されたものである。

だから国の内外を問はず誰れ一人として
総会で暹羅が棄権しやうなどとは予期しては居らず
毎日の新聞の論調を見ても
日本を支持するやうな言論は一つも見当たらない。

これ程だから在留日本人の中でも
一人だって暹羅の棄権などを信じた者はなかったのである。

滑稽な事にはこの事後に於て日本の各種團体から外務大臣宛に
盛んに暹羅の棄権に対する訓電が舞ひ込んだ事で
外務大臣は自分の意志ならずして行はれた事に対して
満腔の謝電を送られて随分苦笑して受取った事であらうと思ふ。

然し此事件以来国内の親日党は俄然頭を抬げ
親日気風が澎湃として勢力を張るに至ったのは偶然ではない。
一寸機っかけを作ってやれば日本の傘下に馳せ参じ得るのである。

然るに其後ビアマノー内閣は非常な英国の圧迫を受けるやうになり
終ひに閣内に分裂を来たして親英党の勝利に皈して
親日党のルオン・ブラジー氏は佛蘭西に亡命した。
氏が亡命の途中シンガポールに私を尋ねて来たので
在留邦人が大歓迎をしたのである。

然して去る六月二十日
再び親日党の革命が成功して、
今のピアパホン内閣が成立したが
ピアパホン氏は少佐時代に日本に来た事もあり
佛蘭西に亡命してゐたルオン・ブラジー氏も呼び戻され
佛蘭西から郵船の箱根丸に投じて
去る九月二十三日シンガポールに上陸
皈参して閣員の一人に加はったやうな次第である。

 次ぎに少しく我国との貿易関係について述ぶれば
今暹羅及びマレー半島の市場で
日本の雑貨品は七割迄の勢力を占めてゐるが
暹羅行の日本品の輸出額は一千萬円程度に過ぎぬ。

これは従来軽工業品許りが持込れてゐる関係で
もっと重工業品とか高級品を持込めば
我国から五千万円程度の輸出は容易だと思はれる。

と言ふのは現在暹羅の総輸入額は二億円程度の輸出は容易だと思はれる。
と言ふのは現在暹羅の総輸入額は二億円程度だからである。
高級品を輸出して日本品は暹羅の上中流社会にももっと侵入して
行かなければならないと思ふ。

次に敢へて暹羅許りではないが
南洋各地共従来日本品の販賣は支那の華僑の手に壟断されてゐた。
支那人のやり方は中々あくどくて辛辣だから何処でも共項では
飽かれ出し漸く没落の過程にある。

夫れで華僑に対する圧迫も漸次抬頭し
暹羅国では最近支那人労働者の入国を阻止する為
入国税の如きも従来の三十バーツを百バーツに引上げた程である。

そして支那商人に代はるに印度人が漸次勢力を加へてゐるが
暹羅でも南洋でも土着の国民は
みな日本商人との直接取引を希望してゐる。

これには日本の小賣商人の進出を計らねばならぬが
夫れには金融機関の応援がなくてはやれない。
(百バーツ  為替相場・・・約百六十円ニ當ル)
B04012529200-06
〔画像〕B04012529200-06

近く正金銀行がバンコツク支店を設けるとの話も出来かけたが
従来は完く正金銀行(※英米銀行)を手賴る外はなかったのである。
これ等の英米銀行は日本品圧迫の手段に出て
高額な保証金を要求するから殆んど現金取引と変らない。
日本商人の振はない点は一に共■にあると申さなければならぬ。

 次ぎに日本からの農業移民の有望性について記して見やうと思ふ。
暹羅は昔から米産国で米産には最も好適である。
然るに現在迄土人の農法を見るに非常に原始的で
草取りもやらず肥料も特別なものは施さない。
従って品質は劣悪であるが地味は非常に豊沃である。
然もこれ等有望な農耕適地は至る所に遺棄されて居り
未開墾地が豊富だ。

又マレー半島の如きは殆んど森林地帯で
これ等の土地を得るのは容易で
暹羅では地方知事の権限で
一家族千ライ程は出願すれば無償で拂下げられる事になってゐる。

自分の歩いた所ではマレー半島の北部地方では
海産物も多く鑛産(錫其他)も多く
農業には最も適したバンドン市を中心とした地方が好適地と思はれた。
其他天然の富原は至る所遺棄されてゐる。

 思ふに満洲は我国の北国であり北の生命線であると同時に
南洋は南門で又生命線である。
依って此際大いに此の有力なる生命線を守らねばならぬ。
依って此際大いに此の有力なる生命線を守らねばならぬ。

我国の南方発展の為には暹羅の如きは
最も大切な所で是非提携しなければならぬ。
殊に暹羅は数百年来我国とは最も因縁の深い地である。

日本に来てゐる暹羅の靑年などの間では
余り知ってゐる者は尠ないが
山田長政の遺跡は今も歷然として分明である。
長政はナコンシー・タマラート言ふ処に住んでゐたので
今のマレー半島全部を統治したのである。
役名はチヤウピアと言って
準皇族或ひは總理大臣格で勢力を張った事が
暹羅の国史にも明瞭である。

アイチア時代の遺跡日本人町の跡も視察したが
当時日本人は六百人程で近衛軍團を組織し
最優秀團として声明を■にした事も記載されてゐる。

これ等我等の先人の努力や功績に対しても
吾人は大いに奮起しなければならないと思ふ。
B04012529200-07
〔画像〕B04012529200-07
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
レファレンスコード B04012529200
件名 本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻 2.大本教 分割2
   外務省外交史料館 戦前期外務省記録
   I門 文化、宗教、衛生、労働及社会問題
   2類 宗教、神社、寺院、教会
   1項 宗教 0目
   本邦ニ於ケル宗教及布教関係雑件 第二巻
【 画像数 】10
作成年月日 昭和8年9月1日
作成者   在新京総領事代理佐々木高義
組織歴   外務省//在新京日本帝国総領事館
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ