◆小野安子

《小野ヤス》大阪市住吉區田邊町六丁目[松村一造方ヘ] 【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04

《小野ヤス》大阪市住吉區田邊町六丁目[松村一造方ヘ] 
【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04

《小野又一》 京都帝国大学 工学部 機械工学科
       昭和14年3月卒業

【児科雑誌 45(4)】(昭和14年)1939-04
出版者   日本小児科学会
出版年月日 1939-04

 〇消息    p80/97
小野 ヤス君  p81/97
京都市上京區紫竹ヨリ
大阪市住吉區田邊町六丁目
松村一造方ヘ
p81【児科雑誌 45(4)】1939-04
〔画像〕p81【児科雑誌 45(4)】1939-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/1760319/1/81

【児科雑誌 45(11)】(昭和14年)1939-11
出版者   日本小児科学会
出版年月日 1939-11

◎大阪府 一九五  p99/125
 大阪市 一六八
 住吉區  一三
小野 ヤス 田邊町六丁目
      松村一造方
p99【児科雑誌 45(11)】1939-11
〔画像〕p99【児科雑誌 45(11)】1939-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/1760326/1/99
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野又一:満洲國奉天市葵町三九 齊藤方》
【会員氏名録】昭和15年用~昭和18年用
《小野又一》 京都帝国大学 工学部 機械工学科
       昭和14年3月卒業
【会員氏名録. 昭和15~16年用】
 昭和15年12月10日発行
《小野又一》 高知 工(京) 昭14 機械 p386/664
       満洲飛行機會社
       大阪市住吉區田邊西町六ノ七 松村一造方
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《小野安子》福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

《小野安子》
(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究
【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

※福岡大学
 (正式名)京都帝国大学福岡医科大学
 (現)  九州大学医学部

【小野梓】早稲田大學佛教青年會
著者    早稲田大學佛教青年會 編纂
出版者   冨山房
出版年月日 1926.6(大正15年)
p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/1

表題『小野梓』の三文字は
同氏が國憲汎論發行の際
其の書に題筆せる所のもの、
印顆三個は
同氏が存稿議案批評の題辭に捺せるを
寫したるものにして
氏は之を以て常に其雄墨に用ゐたるものなり。
p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/2

 小野梓先生肖像
p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/3

 先生曾つて小野義眞氏の妹利遠子を娶り、二男三女を生む。
義男、鐵麿其二男及び橡子嬢は夭折せられ、
安子嬢は(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
それより福岡大學に入學を志願し、
破格を以て小兒科敎室に於て研究せられ後
神戸に於て開業せられたりと云ふ。
p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/14

大正十五年六月十七日印刷
大正十五年六月十九日發行 (非賣品)
編纂者 早稻田大學佛敎靑年會
    右代表者 木山十彰
    東京市牛込區岩戸町二十六番地
發行兼 合資會社 冨山房
印刷者 東京市神田區神保町九番地
    右代表者 坂本嘉治馬
p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/47
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野安子(祖母):西太后の主治医にという話
◎同仁會會長大隈重信伯の演説
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野安(安子)]明治39年(1906)頃:九州大学医学部聴講生
小野安子 談
昔、九州大学だけが女性の聴講生を受け入れていた。
※ 明治39 年(1906) 頃 福岡大学で聴講生(小野一雄 調)
※ 九州大学大学文書館 折田悦郎教授に調べて貰いましたが、
  正式な記録は残っていなかった。平成21年(2009)10月8日
  もし、記録が残っていたら、日本で女性・第一号の聴講生です。
※ 福岡大学
 [(正式名)京都帝国大学福岡医科大学 (現)九州大学医学部]
※ 当時、女性に大学入学は認可されていなかった。
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大隈重信 服部知事殿 小野安子嬢持參 明治41年2月14日【服部一三翁景伝】昭和18年

大隈重信 服部知事殿 小野安子嬢持參 明治41年2月14日
【服部一三翁景伝】昭和18年

【服部一三翁景伝】昭和18年
国立国会図書館/図書館・個人送信限定
図書 服部翁顕彰会 編 (服部翁顕彰会, 1943)  

拜啓、時下餘寒嚴敷候處、益々御淸穆奉慶賀候。
陳者甚だ突如の次第に御座候得共、
本書持參の小野安子嬢は故小野梓君の遺子に御座候。
今般貴縣下に於て小兒科を專問として女醫開業の段、
熱心希望の者に御座候。
就ては御多忙中御迷惑には候へ共、
御引接なし下され萬事可然御高配に預り度
右御依賴申上度得貴意候。
   二月十四日   早々 敬具
        大隈重信
 服部知事殿  小野安子嬢持參
 【服部一三翁景伝】昭和18年p128
〔画像〕【服部一三翁景伝】昭和18年p128
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1080984/128

 『図録小野梓』p98大隈重信書簡(服部一三宛)2月14日
〔画像〕『図録小野梓』p98大隈重信書簡(服部一三宛)2月14日

昭和十八年十二月十五日印刷
昭和十八年十二月二十日發行 (非賣品)
編纂者 勝田銀次郎
    神戸市灘區上野通七丁目七四
印刷所 森田印刷所
    神戸市神戸區北長狹通一丁目三〇
印刷者 森田壽三郎
    神戸市神戸區北長狹通一丁目三〇
發行所 服部翁顯彰會
    神戸市神戸區下山手通六丁目
    神港倶樂部内
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1080984/184
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年2月1日11:29:36
[小野安(安子)] 《女医への道》-01
明治41 年(1908) 大隈重信書簡(服部一三宛)2月14日
小野梓三女安子(1883-1966)は緒方病院で医学を修め、
1910(明治43 年)年代初め頃に神戸で小児科病院を開業した。
その際、大隈が兵庫県知事服部一三に安子を引き合わせて、
「萬事可然御高配」を依頼した紹介状。
(早稲田大学大学史資料センター蔵)『図録小野梓』p98
[大学創立一二五周年記念 生誕一五〇周年記念]
[図録 小野梓]《立憲政治の先駆・大学創立の功労者》
「発行 早稲田大学 2002年3月10日発行」

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年5月5日18:24:55
《父、小野梓のこと》小野安:[早稲田學報]昭和30年11月号

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年8月18日05:55:02
M4012《助産之栞》(139號)明治40年(1907)12月
◎同仁會會長大隈伯の演説
同氏女醫及助産婦養成に就て
大阪支部演説の大要を前號に掲載せしも
今東京總會の演説を得たれば茲に掲ぐ
尚演説中の早稻田大學創立者
故小野梓氏令嬢安子氏は
永年緒方博士の許にて醫學を研究し女醫となり
續て産婦人科研究の上
福岡醫科大學に於て小兒科を研學し
目下神戸にありて獨逸學を專心研究中なりと聽く
尚々同氏當院に在て研究中は
本誌編輯に少なからず貢献せらるゝ所ありき
 ―略―
併しながら近年は東京邊にても女子にして醫學を修むる人が
追々に增して來たのである
大阪にも少しはあるだろうと思ひますが
私は只今熱心に醫學を研究されて居る
婦人にお目に懸つて來た
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります
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女醫 萩谷淸江女史【関西杏林名家集. 第1輯】明治42年

女醫 萩谷淸江女史【関西杏林名家集. 第1輯】明治42年

【関西杏林名家集. 第1輯】明治42年
  女 醫  萩谷淸江女史  p42-43/283
       大阪市南區谷町七丁目四番地
 婦女子にして刀圭の業に從ふもの近時其人に乏しからずと雖も、
大阪にありて最も聞ゆるもの萩谷淸江女史あり、
其門戸の盛、
堂々たる大家の壘を摩せんとするものあるは特に偉とすべし。
 女史の夫君義則氏は舊水戸の藩士にして、
勤王の義擧に加はり時人に知らる、
維新後大阪に來りて職を陸軍醫官に奉じて令名あり、
明治拾七年官を辭して醫業を開き、
内科の達人として重せらる。
 女史明治八年を以て北區櫻之宮の寓に生る、
幼より其起居既に尋常女兒に異るものあるを以て、
父君見るところあり、
女史をして其業を繼がしめんとし
明治廿六年東京に送り濟生學舎に入らしむ、
拮据黽勉校中に聞え、
廿八年四月前期試驗に及第し、
後病を以つて其研學を癈するの已むなきに至りたるに拘はらず、
三拾年三月京都に於て後期試驗を通過し、
同年六月より開業するに至れり、
妙齢の身を以て既に此事ある、生平の用意想ふべきなり。
 女史は夙に婦人科に就て造詣するところ深かりしに關せず、
同年六月より更に緒方病院に入り、
開業の傍ら研究を積み、
又佐多博士に師事して細菌學を修め出色の譽あり、
特に婦德堅固にして儕輩の崇敬を受けつゝありたりと云へり。
 女史は一意專心醫道の研鑽を以て任とし、
今尚ほ之れを怠らず、篤學の風あるは、
人の知るところなりと雖も、
一面又家長として理想的家庭を作りつゝあるは、
藝術に長けたる婦女子の、
往々家庭の圓滿と背馳する行動の多き時流に卓出するものと云ふべく、
愛兒の養育を以て唯一の娯樂と爲し、
其天職に忠實なる、特に稱揚するに足るべし。
明治四十二年十二月 二十日印刷  關西杏林名家集第壹輯
明治四十二年十二月三十一日發行       正價金拾圓
編輯兼發行者 山口 守治
印 刷 者  福山福太郎
       大阪市北區東梅田町參百參番地
發 行 所  衛生新聞社
       大阪市南區難波河原町二丁目千四百六十八番屋敷
印 刷 所  福山印刷製本所
       大阪市北區曾根崎中二丁目貳百參番地
發賣書肆   東京市神田區表神保町   東京堂
       大阪市北區東梅田町    盛文舘
       京都市寺町二條下ル    若林書店
       神戸市元町三丁目     丸善書店
       岡山市上ノ町       渡邊書店
       熊本市新二丁目      長崎書店
       長崎市地引町       安中集榮堂
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月19日
T0110《助産之栞》(記念號)大正01年(1912)10月
緒方洪庵記念財団所蔵
《助産之栞》 記念號
醫學博士 緒方正淸主幹
大正元年十月 創立十五周年
緒方病院助産婦學會
<写 真> p2/3
小野利教  岩崎勘治  梶 完次  山本貞次  藤岡耐三
二川鋭男  足立 貫  飯島貫一  石井嘉四郎 後藤誠一
緒方政治郎 三浦久治  緒方會長  幣原 節  萩谷淸江
高橋辰五郎 五井 徹  龜山忠良  橘  薫  村上 琴
池田義玄  池田 保  水口耕治  福井 繁  小野 安
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《小野 安》告別式:昭和41年(1966)4月1日死亡(83歳)

《小野 安》告別式:昭和41年(1966)4月1日死亡(83歳)

  死亡診斷書
一 氏     名  小野 安
二 男 女 ノ 別  女
三 出生ノ 年月日  明治16年(1883)9月12日生
四 職     業  死亡者ノ職業 なし
五 病     死  病死
六 病     名  老衰
七 発病ノ 年月日  不詳
八 死亡ノ年月日時  昭和41年4月1日午前10時52分
九 死亡ノ 場 所  京都市伏見区深草正覚町九番地
 右の通り証明致します
  昭和41年4月1日
      京都市伏見区深草正覚町二十七番地
    医療法人 大 羽 病 院
      医師 千葉ミエ子 印
【小野安・死亡診断書】-30
〔画像〕【小野安・死亡診断書】-30

告別式 二日 自二時 至三時 小野家
   ※昭和41年(1966)4月2日
【小野安・告別式】01
〔画像〕【小野安・告別式】01

【小野安・告別式】02
〔画像〕【小野安・告別式】02

【小野安・告別式】03
〔画像〕【小野安・告別式】03

金岡重 小野雄二 小野文子 小野又一 僧侶(下記)
【小野安・告別式】04
〔画像〕【小野安・告別式】04

小野又一 小野文子
【小野安・告別式】05
〔画像〕【小野安・告別式】05

小野雄二 小野一雄
【小野安・告別式】06
〔画像〕【小野安・告別式】06

受付 坂本善春 坂本佳記 金岡 勝
(深川・山田・本間・池本・?・?・?)
【小野安・告別式】07
〔画像〕【小野安・告別式】07

小野雄二 坂本佳記 坂本善春 小野一雄
松村一造 坂本恭啓夫人 僧侶(下記)
【小野安・告別式】08
〔画像〕【小野安・告別式】08

小野雄二 坂本善春 小川清澄 小川清久 松村一造
【小野安・告別式】09
〔画像〕【小野安・告別式】09

【小野安・告別式】10
〔画像〕【小野安・告別式】10

坂本恭啓 坂本美代子 金岡 重 坂本恭啓夫人
大国以都雄 (深川) 坂本善春
【小野安・告別式】11
〔画像〕【小野安・告別式】11

(山田・?・本間・池本・芦田・?)
小野一雄
【小野安・告別式】12
〔画像〕【小野安・告別式】12

(深川・?・芦田・?・?・?・?・?・
 本間・?・池本・?・男・貴舩・?・?)
【小野安・告別式】13
〔画像〕【小野安・告別式】13

小川 梅 小川文子 小川清澄
【小野安・告別式】14
〔画像〕【小野安・告別式】14

【小野安・告別式】15
〔画像〕【小野安・告別式】15

親鸞聖人御旧跡
玉日姫君御廟所
九條殿花園御遺地能荘厳院殿
 西 岸 寺
  京都市伏見区深草直違橋二丁目
  電話64-5501番
【名刺】西岸寺(伏見区深草)
〔画像〕【名刺】西岸寺(伏見区深草)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月04日
写真[小野梓・墨・安]
[林譲治・坂本恭啓・坂本佳記]
[中西清二 前宿毛市長]

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年04月03日
大隈重信侯の思い出:小野梓先生の娘さん(小野安子)
【三代回顧録】松村謙三 著

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年02月10日
小野安子(祖母):西太后の主治医にという話

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年04月27日
小野安(祖母)【女性の生き方】
「女は男に頼ってはいけません。自立できるように」
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大阪宿毛線(朝の九時に大阪を出帆~三日目の午後一時に宿毛へ着く)【松山案内】明治42年5月

大阪宿毛線(朝の九時に大阪を出帆~三日目の午後一時に宿毛へ着く)
【松山案内】明治42年5月

【松山案内:附・道後高浜三津郡中】明治42年5月
         高濱虚子 校閲
         東 草水 編述

大阪宿毛線     p23/192
大阪、神戸より高知の宿毛に至る汽船は
上り下りとも毎日一回高濱へ寄せる。

下りは、朝の九時に大阪を出帆して
神戸、高松、多度津、今治を經て
翌日の午前七時に高濱へ着く。
それから更に長濱及び豐後沿岸の諸港を廻つて
八幡濱、宇和島を訪ひ、
三日目の午後一時に始めて宿毛へ着く。

上りは午後二時半に宿毛を出て
翌翌日の午前八時に高濱へ着き、
それから大阪へ行くのである。

此の航路の汽船には
香川丸、愛媛丸、別府丸、宇和島丸等があつて
何れも七八百噸のものばかりである。

 松山市商工人名  p55/192
 附 錄(二)   p68/192
  銀 行     p68/192
  會 社     p68-71/192
  組 合     p71/192
  官廰公署    p72/192
  諸學校、圖書館 p72-73/192
  名誉職員    p73-74/192
  病院、醫師   p74-75/192
  辯護士公證人及執達吏 p75/192
  新 聞     p75-76/192
  團 體     p76-77/192

明治四十二年三月 十日印刷  p78/192
明治四十二年五月十五日發行
編輯者 東 俊造
發行者 松山市勸業恊會
    松山市出淵町壹丁目
印刷者 市川七作
    東京市小石川區久堅町百〇八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町百〇八番地
發行所 松山市勸業恊會

 高濱寄港各航路汽船定期發着表  大阪商船株式會社

  大阪宿毛線 毎日一回兩地發
    香川丸     愛媛丸     別府丸
   第九宇和島丸  第十宇和島丸  第十一宇和島丸
 下 リ
大 阪 初 日 前 九時三十分 發
神 戸 初 日 後 二時三十分 發
高 松 初 日 後 九時三十分 發
多度津 二日目 前 〇時    發
今 治 二日目 前 四時四十分 發
高 濱 二日目 前 七時二十五分着
        前 八時 三十分發
長 濱 二日目 前十一時    發
守 江 二日目 後 四時  十分發
日 出 二日目 後 五時 三十分發
別 府 二日目 後 六時 三十分發
大 分 二日目 後 七時 三十分發
佐賀關 二日目 後 九時 三十分發
川ノ石 三日目 前 一時 三十分發
八幡濱 三日目 前 二時  十分發
吉 田 三日目 前 四時 三十分發
宇和島 三日目 前 八時 三十分發
深 浦 三日目 後 〇時 三十分發
宿 毛 三日目 後 一時 二十分着
 上 リ
宿 毛 三日目 後 二時 三十分發
    -略-
大 阪 六日目 前 五時    着
◎本線毎一六ノ日大阪發船ニ限リ復航三瓶ニ寄港ス

  大阪内海線 毎日一回兩地發
    宮崎丸 大分丸 吉野川丸
    港川丸 肱川丸 加茂川丸
 下 リ
大 阪 初 日 後 四時    發
    -略-
内 海 四日目 前 五時    着
 上 リ
内 海 四日目 前 十時    發
    -略-
大 阪 六日目 後 五時    着
◎本線復航ハ毎日守江ニ寄港ス
p78【松山案内】明治42年5月
〔画像〕p78【松山案内】明治42年5月
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月01日
[小野安(安子)] 《女医への道》-01
医術開業試験・合格・第89号(第86号)
明治16 年(1883) 9 月12 日生誕
明治19 年(1886) 1 月11 日小野梓歿
明治30 年(1897) 東京府北豊島郡南千住大字地方橋場~宿毛
         明治30 年8 月26 日転住
明治31 年(1898) 高知県幡多郡宿毛村大字宿毛町50番屋敷
         明治31 年6 月30 日相続
明治31 年(1898) 大阪慈恵医院医学校 在学
『日本女医会雑誌・第73 号』昭和11 年頃発行
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小野安子(祖母):西太后の主治医にという話

小野安子(祖母):西太后の主治医にという話

《助産之栞》大隈侯 mail 2021/02/10 18:12
西太后の主治医にという話を聞いたことがあります。
この記載(赤字部)の延長線上にあった話ではないかと思います。
小野 雄二

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2018年08月18日
M4012《助産之栞》(139號)明治40年(1907)12月
◎同仁會會長大隈伯の演説 ※大隈重信
同氏女醫及助産婦養成に就て
大阪支部演説の大要を前號に掲載せしも
今東京總會の演説を得たれば茲に掲ぐ
尚演説中の早稻田大學創立者
故小野梓氏令嬢安子氏は
永年緒方博士の許にて醫學を研究し女醫となり
續て産婦人科研究の上
福岡醫科大學に於て小兒科を研學し
目下神戸にありて獨逸學を專心研究中なりと聽く
尚々同氏當院に在て研究中は
本誌編輯に少なからず貢献せらるゝ所ありき
 ―略―

また東京にては男子の醫學生を養成してありますが
何うか婦人の醫者又は産婆を養成せねばならぬ
夫れで是れは餘程望が多いのであります、

若しまた清國の風俗に合したところの
婦人の醫を派遣すると云ふことになれば、
淸國到る所の上流社會貴顯社會に
必ず歡迎せらると云ふことは私の友人、
其他淸國に精通せる人よりの報告談話等に依つて明である

また此の外淸國に此の文明の醫術を導て
而して淸國多數の人民を不幸の中より救ひ出し、
其の上に醫術其のものが他の文明を導くと云ふことになれば
淸國の國家に取りまた淸國民に取り
是れ程幸福なことはないと思のであります
助産之栞(大隈)_0001
〔画像)助産之栞(大隈)_0001

 ―略―
併しながら近年は東京邊にても女子にして醫學を修むる人が
追々に增して來たのである
大阪にも少しはあるだろうと思ひますが
私は只今熱心に醫學を研究されて居る
婦人にお目に懸つて來た
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります

又産婆を養成する これは最も容易く行はる
而して其の人達が學びさへすれば
其の學問に對する報酬は内地にて働くよりも
遙かに大いなる報酬を得るのである
のみならず淸國の婦人方の幸福と云ふものは
非常に大いなる者である

其他我同仁會に資金さへ豐富であるならば
續々其人を淸國其他へ送り付けることが出來る
即ち施費を與へて送るので
さうすると必ず向ふにて自立して行くことが出來るやうで
さうすると必ず向ふに
て自立して行くことが出來るやうである ※二行追記:2021/02/11 12:22
何うも淸國には殆んど醫者がないのであります(以下略)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

小野安(祖母)【女性の生き方】「女は男に頼ってはいけません。自立できるように」

小野安(祖母)【女性の生き方】
「女は男に頼ってはいけません。自立できるように」

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年04月03日 08:00 ◆松村仙造(眞澄)宗教法人大本
《大國以都雄:總務主任》
[皇道大本昭和靑年會現勢一覧表](昭和九年六月末現在)
Comment
小野雄二 2018年08月06日 13:34
祖母が【女性の生き方】について、こんなことを言っていました。
「女は男に頼ってはいけません。自立できるように」と。
当然、本人は医師であり自立していました。
姉(墨)には、弘、文子、重子の3人の娘がいました。
その考えを実践し、教育費の援助をしていたようです。
文子は助産婦に、
重子はパルモア学院に入学し英速記もマスター、
後半生は加古川で英語塾をやっていました。
100名以上の生徒がいたようで、
祖母は重子おばさんに
「体が大変だから、もう少し生徒を減らしなさい」と意見していました。
祖母として残念だったのは、「弘」のことでした。
「16歳という若さで結婚してしまったので、
 何も身につけさすことができなかった」と言っていました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《写真》金岡 稔 金岡 護・母 金岡重子(小野又一の姉)
    小野一雄 小野雄二・父 小野又一
 小野雄二・金岡 稔・金岡 護・小野一雄
〔画像〕小野雄二・金岡 稔・金岡 護・小野一雄
左から:小野雄二(小三)金岡 稔(中二)金岡 護(小六)小野一雄(小六)
昭和33年(1958)3月末頃
金岡宅(加古川 日本毛織社宅)

mail 2020/04/25(土)09:28
英語のレッスンを受けていたのは、6年でしたか?
Dressの発音を何度も練習していた様子が記憶に残っています。
小野 雄二

英語の勉強の事は、全く覚えていません。
記憶にあるのは、
テニス(硬式)をやった時、逆シングルの際、
ラケットを両手で握って返球した事。
麻雀を覚えた事。
拳に座布団を巻き付けてボクシングをした事。
小野一雄
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年04月25日 05:10 ◆小野義真 小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]
《金岡利子》京都府立大学 神戸大学 卒業・神戸大学大学院 数学専攻修了

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年04月24日 05:28 ◆小野義真 小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]
《金岡利子様清書:小野安から小野十三郎様宛手紙》北出成美様より・
2020年4月15日
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大隈重信侯の思い出:小野梓先生の娘さん(小野安子)【三代回顧録】松村謙三 著

大隈重信侯の思い出:小野梓先生の娘さん(小野安子)【三代回顧録】松村謙三 著

【三代回顧録】松村謙三 著
p1【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p1【三代回顧録】松村謙三 著

p2【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p2【三代回顧録】松村謙三 著

   第三章 大隈侯の思い出
 一 大隈侯付きの記者に—婦人には温雅な態度—
 私が報知新聞の大阪支社に在任中に大隈老侯が来阪されたのは、
たしか明治四十一年か四十二年と思うが、
その旅行に随従するように—と本社に呼びよせられ、
東京からずっと随従してまわった。
 ―略―
p69【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p69【三代回顧録】松村謙三 著

 ―略―
 それから小野梓先生の娘さん—— ※小野安子
この人は、神戸の医学校を出て同地で開業していたが、
    ※神戸⇒大阪(大阪慈恵医院医学校)
    ※開業:神戸市三宮町一
その人が大阪の旅館に老侯を訪ねてきた。
すると非常に喜ばれた。
「あなたの顔をみると、
 おとうさまに会うような気持ちがする」といわれ、
親身になって自分の子をさとすように
「東京に出てこないか。
 すべて私がお世話するから……」と、
ねんごろにすすめられた。
 すると小野先生の血を受けただけに、
お嬢さんは、
「自分の力ひとつでここまできたのですから、
 あくまで独力でここでやっていきます」と、
厚意を謝して辞退した。
「さようなことをいわずに……」と、
老侯はすすめられたが、
ついに気持ちをひるがえさなかった。

前年、小野先生没後、七十年の記念会が催されたときに
その遺族をさがしたいというので、
私が当時のことを渡辺幾治郎氏に話すと、
それが縁となって娘さんの住所が判明したが、
京都に独身でおられる。
往年の佳人もいまは八十歳を越えている。

 人生の縁故は不可思議なもので、
私の叔母は京都に住んでいたが、
重病で大阪の緒方病院に入っていると、
その主治医が小野さんであったというし、
それから私の叔母の谷村家とは ※谷村ちか(松村謙三 叔母)
まことに懇意な交際をしていられたようである。

小野先生の記念会にも出席されて、
あいさつをされたが立派なものであった。
それから衆議院の長老であった故林譲治氏とも
親戚の関係にあったようだ。
当時の追憶の数々の話もうけたまわり、
帰洛されてから手紙をよこされたが、
その字体も文章もしっかりしたもので、
まるで男子のようであった。

この小野さんが、大隈老侯の前に出たとき、
老侯の感慨がどれほどであったか。
そのあふれるばかりの温情を、
私はいまも忘れることができないのである。
そしてその情景もはや半世紀の昔のこととなった。
 ―略―
p70-71【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p70-71【三代回顧録】松村謙三 著

p72-73【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p72-73【三代回顧録】松村謙三 著
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タイトル  三代回顧録
著 者   松村謙三 著
出版者   東洋経済新報社
出版年月日 1964
公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月18日 05:55 ◆小野安子 《助産之栞》
M4012《助産之栞》(139號)明治40年(1907)12月
◎同仁會會長大隈伯の演説
同氏女醫及助産婦養成に就て
大阪支部演説の大要を前號に掲載せしも
今東京總會の演説を得たれば茲に掲ぐ
尚演説中の早稻田大學創立者
故小野梓氏令嬢安子氏は
永年緒方博士の許にて醫學を研究し女醫となり
續て産婦人科研究の上
福岡醫科大學に於て小兒科を研學し
目下神戸にありて獨逸學を專心研究中なりと聽く
尚々同氏當院に在て研究中は
本誌編輯に少なからず貢献せらるゝ所ありき
 ―略―
併しながら近年は東京邊にても女子にして醫學を修むる人が
追々に增して來たのである
大阪にも少しはあるだろうと思ひますが
私は只今熱心に醫學を研究されて居る
婦人にお目に懸つて來た
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月08日 06:27 ◆小野安子 [巨人の面影]
《大隈侯の思い出:小野安》
[巨人の面影]丹尾磯之助/大隈重信生誕百二十五年記念
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月07日 08:22 
◆小野梓 小野梓先生七十周年記念祭:昭和30年11月
[東洋 小野梓先生七十年記念祭]昭和三十年十一月:早稲田大學
『小野梓先生七十年記念祭式典』
日時 十一月十八日(金)午前九時三十分
場所 本大學共通教室講堂
式典次第
一 總長式辭
二 遺族挨拶
三 記念講演
  衆議院議員 林 譲治
  文部大臣  松村謙三
四 映畫 「早稲田大學」
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月06日 12:43 
◆小野梓 小野梓先生七十周年記念祭:昭和30年11月
《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号
ついで衆議院議員林譲治氏と文部大臣松村謙三氏の記念講演に移り、
林氏は
「梓先生とは郷里が同じであるばかりではなく、多少緣がある。
先生の幼少の頃、若き日の俤」
を話してみたいと冒頭に述べ、さまざまなエピソードを話した。

松村氏は氏が大隈老候づきの記者であったころの思い出を淡々と語り、
話は老候と梓先生の關係また老候と梓先生の遺族の關係などに及んだ。
〔写真〕小野梓胸像前 前列右から四人目 林譲治衆議院議員
〔写真〕大隈重信銅像前 中央 松村謙三文部大臣
〔写真〕小野安子(小野梓 次女)
〔写真〕松村謙三文部大臣
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《緒方正清:舊氏名 辰己正清》『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

《緒方正清:舊氏名 辰己正清》『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
第4版 [大正4(1915)年1月]
緖方正清 (男性)
位階・勲等・功級 正七位
爵位・身分・家柄 大阪府士族
職業       醫學博士、緖方婦人科病院長、大阪化學研究所長
生年月日     元治元年七月二十一日 (1864)
親名・続柄    中村恒藏の二男
家族       妻 千重 明二一、二生、養父拙齋長女
養子       祐將 明二〇、五生、
         養女シナ夫、鳥取、平、伊東彌壽九郞三男
養女       シナ 明二五、一生、
         養子祐將妻、鳥取、平、福井久右衛門姪
記述部分
君は愛媛縣平民中村恒藏の二男にして
元治元年七月二十一日を以て生る
曩に同縣平民 辰巳家を相續せしも故ありて廢家し
明治二十年六月先代拙齊の養子となり
三十一年四月家督を相續せり
君初め漢醫となり刀圭の術に從ひしも
當時海外の文物制度漸く輸入し社會の風潮又
草根木皮の調劑の迂なるを悟り
飜然志を立て高松醫學校に入り優等を以て卒業し後
大學醫學部別科に入り明治二十年卒業す
同二十二年獨乙ヱナ大學に遊ひ又
フライブルク大學に入り研究多年
同二十四年ドクトルの學位を受く後
ストラスブルヒ大學伯林大學維納府大學等に學ひ
婦人科の薀奥を極め
同二十五年歸朝し直に緖方病院に入り産科婦人科長となる
同二十六年醫術開業試驗委員を命せられ
現時尚ほ其任にあり又
二十七年二月内務省産婆開業試驗委員を囑托せらる
同三十五年緖方婦人科病院を開き自ら院長となり
大阪化學硏究所長を兼ぬ
同三十八年醫學博士の學位を受け著者亦頗る多し
養弟潤三(明一六、九生)は京都府平民井口又五郞の養子となり
養弟平吉(同四、五生)は其妻子と共に分家し
養妹重(同二四、一一生)も亦分家せり
住所       大阪、東、今橋三ノ一八
電話番号     本一九八四
名古屋大学大学院法学研究科
〒464-8601 名古屋市千種区不老町 TEL:052-788-6236
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年08月11日 04:10 ◆小野安子 吉弘茂義(吉弘白眼)
《緒方正淸君》明治35年(1902)七月東區今橋に緒方婦人科病院を設立
【諸家稜々志】大正4年
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