松村一造・正子

冠島視察記(一)末次信正中將(舞鶴要港部司令官)らに從って:昭和6年8月26日【更生日記 8の巻】昭和6年

【更生日記 8の巻】昭和6年
著者    月の家 著
出版者   第一天声社
出版年月日 昭和6.4-7.5
 月の家 著
 更生日記 八の巻
 昭和六年 自 八月 一日
      至 八月卅一日
p3【更生日記 8の巻】昭和6年
〔画像〕p3【更生日記 8の巻】昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/3

 ◇昭和六年八月廿八日 大阪毎日新聞所載記事
  冠島視察記(一)
   末次中將らに從つて
八月廿六日朝八時半
舞鶴海軍防備隊の曳船
(といつても普通そこいらのひき船ではない、
 准軍艦ともいふべき水雷敷設艇である)
は同隊から廿三マイル沖の冠島へ向け出港、
ラツパの音を後に旭日の軍艦旗を
晴れ渡る晩夏の快い海風になびかせて出航した――
末次中將の着任來はじめての冠島視察である。

谷本參謀長、溝口參謀の兩氏は
釣趣味なきか今日は加はらず、
そのかはり
宇垣朝鮮總督(宇垣一成)の甥御である
先任參謀の宇垣完爾中佐、
園田機關長、
三輪主計長、
野々山機關少佐、
港務部長武藤大佐、
工作部の藤永少佐に
スキーマンの尾長副長ら十五六名、
それに山下丹州、 ※丹州時報
下司新愛知、   ※新愛知新聞
かくいふ筆者の三記者も加はつた。
 ―略―    (ナガイ生)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/228
昭和六年十一月 十日印刷 更生日記 八の巻奥附
昭和六年十一月十三日發行 定價 壹圓
編輯兼發行者 第一天聲社
  京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
  振替大阪六〇五三四番
印刷者    東尾吉三郎
  京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
販賣所    第二天聲社
  京都府南桑田郡龜岡町大本天恩郷内
  振替大阪七五九一七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/239
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【職員録 昭和6年7月1日現在】
著者    内閣印刷局 [編]
出版者   内閣印刷局
出版年月日 昭和6
◎舞鶴要港部 京都府加佐郡中舞鶴町(五一、五三)
司令官    中將      末永 信正
〇司令部
幕僚
參謀長    大佐      谷本馬太郎
參謀     中佐      宇垣 完爾
兼      少佐      溝口  征
兼      大尉      宿谷 平治
副官     少佐      溝口  征
機關長    機關大佐    園田 耕三
軍醫長(兼) 軍醫大佐    矢野  環
主計長(兼) 主計大佐    三輪  寛
法務長 司法事務官四等(兼) 安藤 守議
部員
       機關少佐    野々山早吉
兼      軍醫少佐    伊藤 雋吉
兼      主計少佐    小林 壽一
兼        技師    浦 五十吉
兼        技師    荒木 隆吉
分隊長
兼      機關少佐    野々山早吉
兼      主計少佐    小林 壽一
       ―略―
〇港務部
長        大佐    武藤  浩
〇工作部
長        少將    和田 信房
部員       少佐    藤永 紫朗
p210【職員録 昭和6年7月1日現在】
〔画像〕p210【職員録 昭和6年7月1日現在】
昭和六年十月三十日印刷發行
發行者印刷者 内閣印刷局
定價三圓八十錢
送料不要
(外國郵便ニ依ル地域ハ
 一圓九十五錢ヲ要ス)
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《小石川の柳町に荒木楽山という、大変腕の立つ先生がいた》柳家小さん師匠を訪ねて【自警 57(4)】1975-04

【自警 57(4)】1975-04
著者    警視庁警務部教養課 編
出版者   自警会
出版年月日 1975-04
p1【自警 57(4)】1975-04
〔画像〕p1【自警 57(4)】1975-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/2706845/1/1

インタビュー
柳家小さん師匠を訪ねて
p44【自警 57(4)】1975-04
〔画像〕p44【自警 57(4)】1975-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/2706845/1/44

――師匠のは二天一流ですか。
小さん あっ、これはね、
秋満紫光という先生でしたよ。
海老一染太郎、染之助というのがいますよね、
曲芸の。
そのおじさんに当たるんですけれども、
小倉の出の人で、
この先生はいまだに教えに来てくれて、
もう七五ですよ。
数えだと喜の字ですか、
この先生から二天一流を教わったんですよ。
これは武蔵が小倉で伊織に教えたというやつですからね
若い時分のもので、
随分激しいんですよ。
熊本に残っている二天一流の形と違ってね、

この先生の二刀はうまいですね、
東京へ出て来て小石川の柳町に荒木楽山という、
大変腕の立つ先生がいたんです。
昔の人ですから段などは持っていなかったから、
「先生も段を取ったら」
と勧められて、
「おれの段をだれがつけるんだ、
 中山か、高野がつけるのか」
と言ったという、
変わった先生です。
で、中山博道先生が
「東京に怪物が一人いる」
と言われたくらいですけれども、
昔はそういう隠れた武芸者がいたんですね、
そこへ弟子入りして修業したそうですが、
そこでは二年ぐらいしてですか、
先生が亡くなられたんだそうです。
p48【自警 57(4)】1975-04
〔画像〕p48【自警 57(4)】1975-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/2706845/1/48
昭和五十年四月一日発行
(五十七巻第四号)
編集兼発行人 財団法人 自警会
印刷人    北島義俊
       東京都新宿区市ヶ谷加賀町一の十二
印刷所    大日本印刷株式会社
       東京都新宿区市ヶ谷加賀町一の十二
発行所    財団法人 自警会
       東京都千代田区霞が関二ノ一ノ一
       警視庁内
       電話 霞が関(581)四三二一番
       編集部 内線三〇八二番
       直 通(581)〇六八五番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2706845/1/126
 警視庁職員信用組合
p127【自警 57(4)】1975-04
〔画像〕p127【自警 57(4)】1975-04
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《松村宣子(松村一造)植芝守高(植芝盛平)荒木樂山》物語拜讀と奉納武術【更生日記 8の巻】昭和6年

【更生日記 8の巻】昭和6年
著者    月の家 著
出版者   第一天声社
出版年月日 昭和6.4-7.5
 月の家 著
 更生日記 八の巻
 昭和六年 自 八月 一日
      至 八月卅一日
p3【更生日記 8の巻】昭和6年
〔画像〕p3【更生日記 8の巻】昭和6年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/3

 ◇更生祭第二日
  昭和六年八月廿六日(舊七月十三日)於 綾部
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/177
  物語拜讀と奉納武術
午前八時半よりみろく殿にて
靈界物語の模範役割拜讀が開始さる。

拜讀者は天恩郷の拜讀講師
松村宣子(松村一造)、
林英春、鈴木滿善の三宣傳使、
三味線は森夫人である。

聖殿をうづめつくした聽衆は、
その老練な拜讀振りに
觀劇より以上の妙味を味はひ
今更ながら神恩のかたじけなさに
感極まつて約二時間に亘る拜讀中
動こうともしない。

此の間みろく殿内の西側には
新たに舞臺が設けられ拜讀が了ると直ちに
奉納武術が演ぜられる。

先づ
荒木流居合術元祖
荒木樂山師の居合術が試みられ、
次に東京の植芝守高(植芝盛平)氏は
その門下生
井上正治、押川郡一、橋口勘七、
武田二郎、市毛五郎、鎌田久雄、
岩田 一、湯川 勉、船場 勳の諸氏を相手に
相生流の試合を實演したが、
觀衆は皆、氏の神の如き手練のあざやかさに
感嘆の聲を惜しまなかつた。

この奉納武術出演中
寫眞班は大活躍をつゞけ
照明とマグネシユームにて
或はフイルムに或は乾板に
記念の撮影を怠らなかつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1137605/1/178
昭和六年十一月 十日印刷 更生日記 八の巻奥附
昭和六年十一月十三日發行 定價 壹圓
編輯兼發行者 第一天聲社
  京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
  振替大阪六〇五三四番
印刷者    東尾吉三郎
  京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
販賣所    第二天聲社
  京都府南桑田郡龜岡町大本天恩郷内
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《松村宣子=松村一造・松村純子(松村 墨)・大國伊都雄・大國清香》各地宣信徒の誕生祭祝電【東北日記 3之巻】昭和3年

【東北日記 3之巻】昭和3年
著者    月の家 著
出版者   天声社
出版年月日 昭和3.10
 東北巡敎中ノ出口王仁三郎聖師【著者】
 (北海道札幌神社前)
p3【東北日記 3之巻】昭和3年
〔画像〕p3【東北日記 3之巻】昭和3年
各地宣信徒の誕生祭祝電 左の如し。
  君現れし佳き日
  壽ほぐ天地の千代の榮えの
  色美はしき
と出口宇知麿 天恩郷一同の祝電を始め、
龜岡方面よりは御田村卓子氏、北村隆光、
愛善新聞社編輯一同、
明光社宗匠一同、
川畑八重子、石原氏、藤原勇藏、根占、古田豐年、
大國伊都雄、仝(大國)清香
大谷、畑中、佐伯の諸子、
松村宣子(松村一造)
土井大靖、土井佳江子、
井内鐵外、加藤明子氏、

綾部よりは櫻井同仁、鈴木重義、井上留五郎、
大本瑞祥會本部一同、
第一天聲社一同及び中野武英、
松村純子(松村 墨)
湯ヶ島支部、伊豆支部、
綾部の渡邊宗彦、西崎算保、
藤津輝虎の諸氏及び紀伊南部支部、
紀伊南部下早支部、
東京駒込より御田村龍吉、比企支部、平田氏、
越前武生分所、岡山分所一同、
北海道では根室支部、小樽支部、宇都宮淸子より送電。
本日五十八回の誕生を祝し玉ひし
御厚意を記念するため東北日記の一部に記しおく也。

綾部大本總裁補井上留五郎氏より
本日總裁就任の挨拶電報あり、
明光社よりは小幡神社冠句懸額奉納
無事終了せりとの報知あり、
是にて一先づ安心
目出度五十八回誕生を祝ふ北見の空
昭和三年十月 十日印刷 東北日記三之巻奥附
昭和三年十月十四日發行 定價壹圓參拾錢
編輯者 藤津  進
    京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字本宮下三十二番地
印刷兼 瓜生 鑅吉
發行者 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
印刷兼 天聲社
發行所 京都府何鹿郡綾部町大字本宮村字東四ツ辻十三番地
    振替口座 大阪六〇五三四番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年10月05日04:30
物語拝読講師《松村宣子:松村一造》
大本瑞祥會九州主會・昭和6年10月
松村家代々祖等之奥城
昭和三十一年十二月吉日
 京都市東山区清水五丁目 松村宣子 建之
f3267e89
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《松村一造》賀川淸・堀正夫・木下千代子・明石潮・和歌浦糸子:三友劇場【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)

【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)
著者    朝日新聞社 [編]
出版者   朝日新聞社
出版年月日 1935-01
 p1【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)
p1【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1534531/1/1

〇…前々號に賀川淸の消息不明を記しておきました所、
京都の松村一造氏から左の如き親切な報告に接しました。
全文を掲げて質問者「フアン氏」へのお答へと致します。

(前略)
彼(賀川淸)は現在、京都新京極の三友劇場
(二流の小屋ですが、
 京都座が松竹映畫の封切館になつてのちは
 新京極に唯一の芝居小屋になりました)に、
舊下加茂の堀正夫、
舊日活の木下千代子、
他に明石潮、和歌浦糸子と
いつた連中と一座して出演して居ります。
余計なことですが、
入場料金貳拾錢也のお芝居ですから、
彼等も昔戀しい氣持で演つてゐることゝ存じます。
先は不取敢右御知らせ申上げます。
(後略) 《松村一造》
 p93【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)
p93【映画と演芸 12(1)】昭和10年(1935-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1534531/1/93
国立国会図書館内限定
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  御請求書 2024年6月14日
小野一雄様
     社会福祉法人 日本キリスト教奉仕団
     国立国会図書館複写受託センター
合計金額 ¥632
 請求書B4
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《鏑木はるな》(鏑木ハルナ)武蔵野市吉祥寺 昭和6年11月5日生【日本映画人大鑑】1959

【日本映画人大鑑】1959
出版者   キネマ旬報社
出版年月日 1959
p2【日本映画人大鑑】1959
p2【日本映画人大鑑】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708106/1/2
《鏑木春奈》(鏑木ハルナ)
 武蔵野市吉祥寺八六五
 昭和六年一一月五日 東京生
山脇高女から
(昭和)二二年東宝のニューフェイスとなり、
ストライキのため退社。
文化学院に入学、
卒業後
(昭和)二八年東宝に復帰し
(昭和)三一年日活に移る。
デビュー作は(昭和)二四年
大泉映画の「女の顔」。
〔作品〕
㉝佳人、陽のあたる坂道:昭和33年全作品
㉞若い川の流れ:昭和34年4月末までの全作品
p42《鏑木はるな》【日本映画人大鑑】1959
p42《鏑木はるな》【日本映画人大鑑】1959
https://dl.ndl.go.jp/pid/1708106/1/42
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【婦人生活 8(6)】1954-06
著者    婦人生活社 [編]
出版者   婦人生活社
出版年月日 1954-06
③ポニーテールまげ
作   山野愛子
モデル 鏑木はるなさん(東宝)
p7【婦人生活 8(6)】1954-06
p7【婦人生活 8(6)】1954-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/2324907/1/7
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【新婦人 12(4)(121);4月号】1957-04
出版者   文化実業社
出版年月日 1957-04
 [無法一代]
  スタッフ
原作    西口 克巳
脚本    八住 利雄
監督    滝沢 英輔
  キャスト
鰐口貫太  三橋 達也
お銀    新珠三千代
勢五郎   宇野 重吉
石崎キクノ 芦川いづみ
有馬マツエ 鏑木はるな
松田タケ  利根はる恵
キクノの母 高野 由美
p38【新婦人 12(4)(121);4月号】1957-04
p38【新婦人 12(4)(121);4月号】1957-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/11399092/1/38
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《辰日丸》舞鶴入港(昭和22年2月13日)引揚者数【舞鶴市史 現代編】1988.9

《辰日丸》舞鶴入港(昭和22年2月13日)引揚者数
【舞鶴市史 現代編】1988.9

【舞鶴市史 現代編】1988.9
著者    舞鶴市史編さん委員会 編
出版者   舞鶴市
出版年月日 1988.9
 舞鶴入港引揚者数  p140/573
入港月日  昭和22年2月13日
船 名   辰日
出港地   大連
乗船人員  3,549
引揚者
 陸軍   284
 海軍    8
 一般邦人 3,255
  計   3,547
 その他    2
摘要    船内死亡 7
      船内出生 3
p141【舞鶴市史 現代編】1988.9
〔画像〕p141【舞鶴市史 現代編】1988.9
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576477/1/141
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月11日05:00
【満州引揚】《松村一造》《松村正子》《松村 墨》
舞鶴上陸 昭和22年2月14日
[引揚者在外事実調査票][外地引揚調査票]昭和31-32年
       世帯員の状況 そのⅠ(生存)
  氏  名
1 松村一造 続柄 世帯代表者 性別 男
       生年月日   明治40年9月18日(満48才)
       外地渡航年月 昭和16年8月
       引揚出港地  大連  船名 辰日丸
       上 陸 地  舞鶴
       引揚(上陸)年月日 昭和22年2月14日
       生活保護適用の有無 無
       現在地 京都府
2 松村正子 続柄  妻    性別 女
       生年月日   大正3年1月20日(満42才)
       外地渡航年月 昭和16年10月
       引揚出港地  大連  船名 辰日丸
       上 陸 地  舞鶴
       引揚(上陸)年月日 昭和22年2月14日
       生活保護適用の有無 無
       現在地 京都府
       世帯員の状況 そのⅡ(死亡)
氏名 続柄 性別 死亡時の年令 死亡年月日 死亡場所
※黒で抹消:恐らく[松村 墨]
      明治11年(1878)10月18日生
      昭和22年(1947)2月14日歿(69才)
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川田義雄とミルク・ブラザース「明朗五人男」【東宝映画. 5(2)(52)】昭和15年8月

川田義雄とミルク・ブラザース「明朗五人男」
【東宝映画. 5(2)(52)】昭和15年8月  

【東宝映画. 5(2)(52)】昭和15年8月
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
(東宝映画社, 1940-08)  
【東宝映画. 5(2)(52)】p1
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/1

   明朗五人男
吉本興業    (役 名)
 横山エンタツ 横山 達吉
 花菱アチヤコ 藤木 德三
 柳家三龜松  伊東 鶴夫
 川田義雄   河田 郁治
 柳家金語樓  山下 敬太
  (順不同)
 椿 澄枝
 淸川 虹子
 淸川 玉枝
 音羽久米子
 永井柳太郎
 三田 國夫
 エノケン一座
  武智 豐子
 吉本興業
  千歳家今男
  ミス・ヴアジニア
 ミルク・ブラザース
  頭山  光
  有木 三多
  岡村 龍雄
 杉浦エノスケ

構成・山本嘉次郎
   (浪六原作”當世五人男“より)
脚色・小國 英雄
演出・齋藤寅次郎
撮影・友成 達雄
録音・宮崎 正信
音樂・松平 信博
装置・北  辰雄
製作・瀧村 和男
【東宝映画. 5(2)(52)】p3
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/3

  川田義雄  p27/33
「明朗五人男」で神戸ロケに行きました。
神戸は南京虫が甚(ひど)いといふことは
兼ねてから知つてゐましたし、
連日の強行撮影でヘトヘトのところへ
南京虫に迄目茶苦茶に喰われたら
明日からもう軀がもたんと思ひましたから、
豫(あらかじ)め相談して神戸驛に着くとすぐ、
寅さん      ※演出・齋藤寅次郎
キヤメラの友成氏 ※撮影・友成 達雄
それから僕と三人で、雲隱れした。
そのまゝ車で某ホテルに乘り着け
其處で泊つてしまつた譯です。
後で聞くと他の連中は、
空と地上との猛攻撃つまり
南京虫と蚊の總攻撃に遇つて
往生したといふ話で
僕達は大いにうらまれました。
 今度の撮影は實に猛烈で仕事以外に暇は何もありません。
何處へ行つても撮影のことが頭にこびりついてゐる。
その筈です。
エンタツ、アチヤコ、金語樓、三龜松その他、
今男、エノスケ――さん達、
僕より高座でも映畫でも先輩格の人が
づらりと顔を並べてゐる。
うつかり出來ません。
何ごとも他のことは考へず仕事に沒頭しました。

「明朗五人男」には相變らず、
僕のミルク・ブラザースが出演(で)てゐます。
五人男が皆明治時代の流行歌を唄ふ。
ミルクは今度はホンのおつき合ひで、
その伴奏をしてくれるのですが、
仲々一生懸命にやつてくれる。

 統率者としての僕は人間としても
一個のアーチストとしても
勿論完璧であらう筈はないのだが、
皆不平も不滿もいはず
よくついて來てくれます。
皆が僕といふ人間をよく理解してくれてゐるからですが、
頭山光と有木三多はバンド・マスターをしてゐた。
そんな地位を投げて僕のところへ來てくれた。
非常に感謝してゐる譯です。
僕もよく無理をいひます。
だが、皆苦い顔もせず、よくやつてくれる。
それは二人ともそんな地位にゐて、
人を使ひなれてゐる。
使ふ人間の氣持も、使はれるものゝ氣持も、
よく知つてゐるからのことだと尊敬に堪えない次第です。
岡村龍雄は實弟ですから文句はありません。

 泳ぎは好きですが餘りうまくありません。
この間嵐山で泳いでぶよに喰はれました。
皮膚が弱いんですね。
未だにあとがなくならず、
夜ぽりぽりかくんで益々擴がる模樣なので困りました。
 海國日本なんて大きなことは
さて遠慮しても健康と趣味からでも
もつと泳ぎがうまくなりたいと思ふんだが
生れつき下手でその素質がないんですが
どうもうまくなれない。
尤も仕事だつて相當にいそがしいんで暇もないが。
それでゐて山もこの細い軀で上手でないと來てゐるんでね
少し恥ずかしい。
唄をうたふ時には相當につゞく心臓が山登りをすると
息ぎれするといふのは
醫學上どう説明してもらへるのか聞きたいね。
【東宝映画. 5(2)(52)】p27
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p27
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/27

東寶映畫 八月下旬號
 毎月二回(一日十五日)發行
 第五巻 第二號
 通 巻 五二號
     定 價
一部   廿錢(送料一錢五厘)
半ケ年分 二圓二十錢(送料共)
一ケ年分 四圓參拾錢(送料共)
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 (振替東京一八三四三)を御利用下さい。
 切手の際は勝手ながら二割增にてお願ひ致します。
 廣告掲載御希望の方は御一報下さい
 社員參上致します。
昭和十五年八月十五日發行
編輯兼發行人印刷人 中村脩吉
東京市小石川區久堅町一〇八
印刷所 共同印刷株式會社
東京市京橋區銀座七丁目一番地
發行所 東寶映畫社
 振替口座 東京 一八三四三
 電話 銀座 五九〇一(十)
停   定價 廿錢
【東宝映画. 5(2)(52)】p30
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p30
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/30
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[YouTube]
川田義雄とミルク・ブラザース / 地球の上に朝が来る
7分15秒
川田義雄とミルク・ブラザース  地球の上に朝が来る
〔画像〕川田義雄とミルク・ブラザース  地球の上に朝が来る
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、
本名、岡村 郁二郎、1907年3月15日 - 1957年6月21日)は、
昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。
いわゆるボーイズものの創始者である。
灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。
また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、
近年、再評価が為されている。
戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。
 ―略―
その間、人気絶頂だったあきれたぼういずに目を付けた
新興キネマ演芸部は、
1939年、吉本からの引抜を画策する。
破格の条件での引き抜き[2]であったが、 
川田は吉本幹部の林弘高の媒酌により
吉本ショウの劇団員であった
桜文子と結婚したばかりという義理もあった
(新聞では「吉本子飼いの芸人」と表現されている)[3]。
結局、川田を除く3人のメンバーが新興に移籍。
「あきれたぼういず」は事実上解散となり、
川田は新たに実弟の岡村龍雄、頭山光、菅井太郎
(後に有木三多[4]と交代)らと
新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」
(ミルス・ブラザース(英語版)のもじりであり[5]、
乳兄弟の洒落でもある)を結成し、引き続き吉本で活躍していく。
このミルク・ブラザース時代にレコード化された
「地球の上に朝が来る」は川田のテーマソングとして、
生涯オープニングテーマとして歌い続けた。
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漂う(新婚の大連・暗い時・おんな)吉田蕗女[随筆集:蕗]昭和46年(1971)7月

漂う(新婚の大連・暗い時・おんな)吉田蕗女
[随筆集:蕗]昭和46年(1971)7月

1-表紙[随筆集:蕗]
〔画像〕1-表紙[随筆集:蕗]

 筒井筒の 畏友 松村一造様 吉田蕗女 一九七一・五
2-筒井筒[随筆集:蕗]
〔画像〕2-筒井筒[随筆集:蕗]

  漂   う   吉田蕗女

   新婚の大連

 いつか往来の車馬や人声も途絶えていた。
防寒窓から夜更けの道路を眺めると
アカシヤの並木越しに渦巻く雪が絵の様にみえた。
満人商館の並ぶ電車通りの街灯に映えて雪は静かに降り続いた。

 肩に残っている夫の胸の温もりを、
そっと大切にしながら来年の此地での雪は見られまい。
もしかしたら、もう再び二人でここの雪を見る事はあるまいと
二六時中胸を占める不安と焦燥のやり場なさに私は涙ぐんで、
いつまでも寝室の窓に立ちつくした。

 彼の出発後少し遅れて、
生涯の場と思い決め海を渡って来た大連の街であった。
埠頭に出迎えた夫とマーチョに乗り眩しく顔を仰いだ時、
甲種合格で年末には帰国し兵役に服すが、
戦地へ持ってゆかれるかも知れない。
だが必ず又君の所へ帰って来るさと、
夫が労りのまな差しで思いがけぬことを告げた。

 学生時代からの、相愛、親の反対を押しきって、
それなればこそ遠く満州に就職して、
やっと得た二人の巣なのに、
それも後半年の短い時間しか許されていない。
目まいがしそうな絶望と不安が私を絞めつけた。

 社宅は電車通りに面した高台にあり、
晴れた日にはドラや鉦を鳴らし赤い布を垂らした花嫁行列が通り、
動物や家具の張り物を死者の供に白衣の泣き男の声高な葬列も行った。

 朝八時頃から前掛け姿の、
木の腰掛けを抱えた洗濯女達が電車通りを、
てん足の小さな足で歩いていた。
奥さん用ないかとドアから首を出して甲高い声できいた。
一時間イモチエン(十銭)だと言う。
アマに風呂用の太い木を割る様に頼むと、
火箸位の細さに揃え、その労力を惜
p160-161[随筆集:蕗]
〔画像〕p160-161[随筆集:蕗]

しまない器用さが哀れで、
残飯や肉をやると新聞紙にペタッと包み、
シェーシェーと白い歯で笑った。
洋菓子とデリシァスを抱えて帰宅した夫が与えても食べたことがない。
子に持って帰るのである。
国は異っても母情の切なさをその時身籠っていた私は、
いとしい思いで眺めた。

 街中を甘ずっぱいアカシヤの香りが包み、
遅い桜が散ってセルのたもとを六月の青い風が吹き抜けて行った。
別れる日が一日一日と命を刻む様な苛立たしさの内にせつなく過ぎ、
三ヶ月間の朝鮮国境調査に夫はアカシアの街に新妻の私を残して行った。
朝早い出発を紅茶の香りの中で上衣を着せながら、夫の体臭に涙ぐんだ。

 戦争の渦に吸い込まれるに違いない怖れと労りが、
夫と妻の愛情を確め合う様に燃え充実させて、
一層切なくつきつめたものにしたのであろうか。

 夫の出張中、真夜中に玄関のベルがけたたましく鳴った。
廊下に立ったものの満人の犯罪の多いのを知るだけに恐ろしく、
立ち止って息をつめていたが、
鳴り止まぬベルに思いきって鉄鎖りを付けたままのドアを少し開けた。
電報と確認して受け取るまでの、早鐘のような胸の動悸。
「アスアサ八時ツクゲンキアンシンセヨ」
想いの内に夫の瞳があった。

 九月の朝の澄みきった水色の空が白い月を浮ばせ、
ポプラの並木に快い風が渡っていた。

 花を飾り、パイを焼き、薄紫の袂にエンジ色の帯を締めた。
コツ、コツ、コツ、聞き慣れた靴の音に、
胸をはずませてドアが開くや飛びつくのを、
オツと片手で受けとめて、夫の日焼けした顔が笑っていた。

 自由港の大連は舶来品も安く、
日常品は満人商館の雑貨部で揃い、
生活費は月給の半分位で充分で、
若い二人には豊かな生活であった。

 満州の永い日が暮れぬ内に星ヶ浦海岸を歩き、
大和ホテルで食事を摂り
帰路を夫はロシア街の大きな毛皮商の並ぶ一軒へ
つかつかと入って行き、
毛足の長い真っ白な毛皮を、
私の肩にふわりと掛けた。
真っ赤な繻子の飾り縫いが裏一面にある
巾の広い羊毛のストールだった。

 出産を控えて間もなく生死も保証されぬ戦時下の兵の生活に
夫を送らなければならない前途への暗い不安。
どうにもならない時代の波に押し流されようとしている
夫婦のひたむきな日々を、
大連の街は静かに包み、去る日が刻まれて行った。

   暗 い 時

 刻々と戦時色の濃くなる大連の街を去って
年末に内地へ帰って来た私達は、
本郷西片町の母が待つ実家に落ちついた。
東京駅に降り立った私は、コートに七ヶ月の身を包み、
白い毛皮に
p162-163[随筆集:蕗]
〔画像〕p162-163[随筆集:蕗]

深く頬を埋めて不安に耐えた。
夫は正月を祝うと仙台の原隊入営に父母の下に発って行った。
出発前夜、夫は髪を切って来たが、
私の知らない遠い日の俤をみる思いで涙ぐんだ。
どんなことがあっても死なないでと言い続け、
只この一念で戦争を呪った。

 八才の妹と未亡人の母と女ばかりの心細い生活が始った。
三月の寒い日に私は女児を産んだが、
初年兵の夫には電報すら遠慮しなければならなかった。
喜びの返書の中に兵隊姿の写真があったが、
頬の肉がげっそり落ち、目にも力がなかった。
育ちのよい俤は消えて、それは貧相な痩せた二等兵の顔であった。
慣れぬ兵営生活に学究肌の世事の疎さもあり、
毎日ビンタを受け、馬の糞にまみれる一兵卒の、みじめな夫であった。

 出産後、半年目に父の顔を知らない児を残して郷里の輜重隊から
夫は中支へ出征することになり、
電報を受けて駅前の旅館で私は夫に逢った。
一夜も共に過ごせない無残な別れであった。

 半俵の配給の炭を遠い区役所へ貰いに行った。
ねんねこで児を背負った私は
母と代り合って炭を入れた乳母車を押した。

 一月の凍てつく様な道であった。
咳入る母は何か元気がなかった。

 二日後に高熱で母は寝ついてしまった。
チフスと決り、すぐ大学の伝染病棟へ入院した。
薬も乏しい戦時下の隔離病室に一ヶ月余も入院していて、
高熱のため頭がおかしくなった母は、
私の顔を見れば子供の様に甘えた。
おうちへ帰りましょうよと毎日家へ帰りたがる。
笑ってうなづきながら、私は暗い予感に堪えねばならなかった。

 三月十日の夜更け勝手口を激しく叩き、
米屋の若い衆が病状の急変を知らせてくれた。
驚きと怖れに震えながら眠る児を背にくくりつけ、
人通りの絶えた深夜の道を、妹の小さな手をつかみ、
引きずるように病院へ急いだ。

 静まりかえった薄暗い廊下で
「心臓が極度に衰弱している、知らせる所へは急ぐように」
と、医者が小声で言った。
一瞬、すーっと上体の力が抜け吐気と共に貧血を起して倒れた。
児の泣声と医者の声を遠くで聞いた様な気がした。

 卵や牛乳も思うにまかせない、
国も人も貧しいこんな中で、
愛する者の死を見とどけねばならない不運と無力感。
昏睡状態の続く母を、自分の命が切り刻まれる様な辛さでみつめた。

「ハルナ……ハルナ……ハルナ……」
 幼くして父を失った末っ子に思いが残るのか、
妹の名を呼び続ける母がいたましかった。

 危篤に陥って四日目に母は息を引き取った。
その夕、叔父達が同乗した霊柩車が病院を出て行った。
「今から妹の母になる、どんなことが起っても離すものか、
 生きている限り」
p164-165[随筆集:蕗]
〔画像〕p164-165[随筆集:蕗]

 私は母に誓った。
 滲む視野の中を霊柩車は遠去かって行った。
刃の様に鋭く繊い月が暗い空に浮んでいた。

   お ん な

 心の支えだった母に急逝されて、
すべてが終ったような虚しい毎日を、
私は何も考えられないで、
荒涼とした孤独の中に漂った。

 朝になればペロンと顔を洗っただけで
子供達のための食卓に座ったが、
空腹感がなく味がわからなかった。
家の中には母の思い出ばかりなので、
妹とやっと歩き始めた児を連れ、
あて途もなく道を歩いていた。
人にも投げやりな生き方をしていると見えたにちがいない。

 母が買いつけの薬屋が在世中から子供達を可愛いがり
絵本などを持って来たり、
男手のない家の釘などを打って呉れたりしていた。

 或日、病院から母の寝具が返されて来た。
袖に顔を埋ずめて私は嗚咽し続けた。

 いきなり私の手を握る者がある。
いつの間に入って来たのだろうか。
その薬屋だった。

 仰天した私はあわててその手を振り払った。
親切だったこの男の本性はこれだったのか。

 不運のどん底にいる時すら、
女に向ける世間の目の浅ましい生臭さが腹立しく情なかった。
互いに強く生きぬいて、
この暗い時を通り抜けようと誓った夫にも、
何たるぶざまさ。
強く確かな心情で立ち直ろうと、私は決意をあらたにした。

 本社の月給と中尉の軍手当で暮しは充分だったが、
二階の八畳と六畳を大学生達に貸した。
時々五目鮨やお萩を作り母子の食卓に学生達の若い笑声が流れ
子供達も明るくなった。

 五月ともなれば苗売りの声が街に流れる。

 中支の夫の戦死公報が何時入るかの怖れは、
一刻一刻残る命を数える死刑囚の様な不安であった。
軍人会館の集会に頼まれて妹が踊る夜、
私は心配で楽屋への道を通り抜けて行った。

 開け放った窓の中に、
いきなり逞しい二の腕が鮮やかに目を射った。
湯気の中に男の声がざわめき、
そこは若い将校達の脱衣場らしかった。
筋肉の隆起した腕。
それは紛れもなく生々しい夫の肉体だった。
一瞬ハッと息を呑み、足早に通りすぎたが頬が熱くなり、
激しい動悸に目をつぶった。
むごい一撃だった。

 知り尽くした夫婦の日の幻影が意地悪く迫って、
幾度寝返りを打ってもその夜は眠れなかった。

 遠い夫の渇いた女の血が、激しく渦巻いた。
p166-167[随筆集:蕗]
〔画像〕p166-167[随筆集:蕗]

    随筆集・蕗
昭和46年6月20日 印刷
昭和46年7月 1日 発行
発行人 安 間 百 朗
編集人 堀 江   武
印刷人 矢 代 一 郎
発行所 蕗  の  会
    東京都清瀬市元町1-4-12
    TEL.0424-91-5134
    (同人頒価 ¥1,600)
奥付[随筆集:蕗]
〔画像〕奥付[随筆集:蕗]
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筒井筒の 畏友 松村一造様 吉田蕗女[随筆集:蕗]昭和46年(1971)5月

筒井筒の 畏友 松村一造様 吉田蕗女[随筆集:蕗]昭和46年(1971)5月

 随筆集 蕗   蕗の会
1-表紙[随筆集:蕗]
〔画像〕1-表紙[随筆集:蕗]

 筒井筒の 畏友 松村一造様 吉田蕗女 一九七一・五
2-筒井筒[随筆集:蕗]
〔画像〕2-筒井筒[随筆集:蕗]

No.1
一造様
すつかり秋になりました。
肌冷えの京都の夜々、虫の音をどの
様な御心で御聞きなされてかと、情感深く一生を御生きの貴方を
考へてをり升。秋になると貴方がなつかしい。どうした事か。
常日頃 あくせく粗雑に生きている身も 虫の音をきくと
こし方生涯が思われて何か心にずしんと、とどめを射し
たいような。こゝらでもう まとわりついている余計な皮をはが
なくつちゃあと自分を叱りつけて、でも、やつぱり哀れです。
恥しくて役者が自分の舞台を妻に見られるを、いやがる人もある由、
かつて聞きましたが私も自分の書いたもの肉親にみられたくなく
家族には、みせてません、貴方にも、五月、出来上り以来、かくの如く。
でも貴方には、読んで頂きたいと思つて、御届け申□□升。
キタンなく、やつけて、駄目を出して下さい。
檀一雄先生が “おんな” のピツチで六十枚位、書いてみろと、仰せ
蕗女-1[随筆集:蕗]
〔画像〕蕗女-1[随筆集:蕗]

No.2
下さつたのです。体力にも自信がなく、子を育てあげて
貧乏と戰つて少しホツとしたら情感も容姿もボロボロに
すりつぶされて後には何も残つてない。何をして来たのか
只 悲しく悲しくなり升 生きている故 生きて来たにすぎない。
”秋来れば己れに帰る はかなくも眞白く もろき己れに帰る“
 ※与謝野晶子 太陽と薔薇:下記
昌子の歌の如く 眞白く もろき己れに素直に帰つての
老女の愚痴かくの如し。御嗤ひ下さい。
赤い帯に二十才の娘時代を知つている貴方になら笑は
れたつて腹を立てません。大ざつぱながら自分の生涯を
記録する気持で、この続々 “帰還” “戰いの贄” “飢え” なぞ
を書いて升。又、みて下さいね。 私達八十人の仲間の一人、
京都で花屋さん やつてる人もあり升。ネクタイ御気に入つて、うれしい、
来秋、□□と再渡欧の予定、又、何か、よろこんで頂きたく。大切にね。
   かの丘のローマ寺院も虫鳴かむ  蕗女
蕗女-2[随筆集:蕗]
〔画像〕蕗女-2[随筆集:蕗]
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太陽と薔薇  与謝野晶子
秋来ればおのれに帰るはかなくも真白くもろきおのれに帰る
 太陽と薔薇 与謝野晶子
 秋来れば
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