【一等女性十人の恋】昭和30年(1955)
著者 古谷綱正 著
出版者 東西文明社
出版年月日 1955
国際的な恋愛行脚・老いぬ蝶々夫人
三浦 環
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/17
戦争が終りに近づいた昭和十九年の秋、
環は山中湖畔の自宅から上京、
三田の実弟柴田衣千郎宅に移った。
四年前から環のマネージャーをしており、
その最後の愛人といわれている
井上元佶がつきそっていた。
環はここで
「私の成功のためによく犠牲になった弟へ」
という言葉をそえて、
自分の財産目録と正式の贈与證書を衣千郎に与えた。
ところが衣千郎は元佶をきらい
「若い男を同居させるのは世間態が悪い」
といって退去を求めていた。
戦争は環の期待に反して敗戦に終った。
蝶々夫人を封じた誓はもう必要がなくなったが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/25
環は再びうたうには、あまりに老いていた。
その頃から下腹部にできた腫瘍が、
だんだん悪化してきた。
衣千郎、元佶の板ばさみに悩んでいた環は、
昭和二十一年、元佶のすすめをいれ、
弟の家を出て元佶の知人である
玉川上野毛の大東学園病院に入院した。
衰弱は日ましに激しく、
十八貫あった身体は半分の九貫になってしまった。
最後の思い出にと、
四月十三日
NHKのマイクを病室に持ちこんで
蝶々夫人をうたった。
看護婦にささえられてベッドにすわり、
もとは手首にくいこんでいた腕輪が、
いまにも抜け落ちそうな手を医師にとられて、
環は最後の思いをこめてうたった。
その声もさすがに低く、
いたいたしかった。
環は五月二十六日に死んだ。
六十三才であった。
六月七日、日比谷公会堂で
盛大な音楽告別式が行われた。
宮中から祭祀料が贈られ、
時の文相田中耕太郎が弔辞を読んだ。
遺体は東大病理学教室で解剖されたが、
その声帯は二十二、三才の
若い女性と変りはなかった。
環の咽喉は、
東大耳鼻科教室に永久に保存されている。
環の波瀾に富んだ生涯は閉じられたが、
その余波はなお尾をひいていた。
衣千郎と元佶の間で遺産争いが起ったのである。
元佶は環の死の直前、
その養嗣子となり三浦姓を名のっていた。
そして衣千郎と同様
正式の遺産贈与証書を持っていた。
しかも三カ月も日付が新しかった。
大東学園病院で書かれたものである。
これに対して衣千郎は
「すでに環が意識不明に陥ってから
書かせたものだ」
といい、
元佶は
「芸術に理解のない弟をきらって
臨終直前に変更した」
と主張している。
これは、ついに訴訟沙汰にまで進んだが、
すでにそれは環とは関係ないことである。
昭和二十七年五月二十六日、
環の七回忌に上野寛永寺境内に建てられた
記念碑の除幕式が行われた。
蝶々夫人を記念して、
蝶々に形どった変った記念碑であった。
その碑の前で、
環の形見の衣裳をつけた弟子の小林伸江が
蝶々夫人のアリアをうたった。
その前に供物がならび、
左右にケサをかけた坊さんが
四、五名ひかえていた。
まことに異様な風景であった。
かつて環が、夫の墓石にすがって
哀悼の歌をうたった一場面が、
大げさな芝居といわれたが、
皮肉にもそれと同様のことが、
再現されたのである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/26
古谷綱正
1912年東京に生まる
京都大学文学部卒業
現在 毎日新聞社論説委員
本稿は、雑誌「人物往来」に
掲載したものである。
一等女性十人の恋
昭和30年3月31日 第一刷発行 ¥120
著 者 古谷 綱正
発行者 小嶺嘉太郎
印刷所 株式会社 上野印刷所
東京都墨田区緑町1-10
発行所 株式会社 東西文明社
東京都千代田区丸ノ内2-2 丸ビル
https://dl.ndl.go.jp/pid/2972010/1/103
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