◆柴田和志

[民族運動社]主幹 加藤 昭(別名 加藤矩敏)国民運動社 柴田金三郎門下【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二一八  民族運動社
結成年月日  昭和三十年八月頃
事務所所在地 京都市東山区福稲高原町五
主要役員
 主 幹   加藤  昭
      (別名 加藤矩敏)
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙  なし
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「民族自立の精神に徹し、
 一切の不正不義を排除し、
 世界の恒久平和と日本民族の完全独立、
 共同福祉、国民の自由と人権の守護、
 愛と正義に基づく政治の実現、
 能率的経済社会の建設、
 国民生活の安定などを期す」
と標榜している。
 性 格
国民運動社
柴田金三郎門下であった加藤昭が、
独立して結成した団体である。
同人はさらに自己の門下をそれぞれ
民族青年隊、洛誠会、敷島同志会として
独立させている。
活動時には三団体から動員することが多い。
 p821【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p821【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/821
 主要活動
主幹 加藤昭は、
三曜会の一員として
昭和三十九年六月
大丸京都店における
中国経済貿易展に対する抗議活動、
同年八月
原水禁世界大会反対運動、
昭和四十一年六月
日教組大会反対活動を行なったが、
昭和四十一年十月十二日
名古屋地裁において恐喝罪により
懲役二年六カ月、
同年一一月二十六日
京都地裁において暴行傷害罪により
懲役八カ月の判決を受け、
同年十二月から京都刑務所にて服役した。
最近では、
昭和四十六年七月の日教組大会反対運動に参加したほか
みるべき活動はない。
 主要関係団体
傘下に民族青年隊、洛誠会、敷島同志会がある。
 p822【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p822【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/822
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[救国青年隊]隊長 鈴木棟夫:国民運動社主 柴田金三郎が在京都任俠団体関係者をもって組織【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二九 救国青年隊
結成年月日  昭和二十八年七月十二日
事務所所在地 京都市伏見区深草一九軒町
主要役員
 隊 長   鈴木 棟夫
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙  なし
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「天皇を日本民族の統帥者と仰ぎ、
 反共救国運動を展開し、
 共産革命を防止するために
 非日本的反動勢力たる
 日本共産党の撲滅を期す」
ことを標榜している。
 性 格
国民運動社主
柴田金三郎(昭和四十一年死亡)が、
同社の青年隊として
在京都任俠団体関係者をもって組織し、
さらに昭和三十七年四月
博徒 寺村組組員を主力として
再編した団体である。
 主要活動
昭和四十二年九月
「隊結成一五周年記念会」を開催し、
昭和四十四年六月
日教組大会反対活動に参加したほか
みるべき活動はない。
 主要関係団体 なし
 p794-2【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p794-2【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/798
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[救国時報社]主幹 川添嘉久(別名 川添正人)国民運動社主 柴田金三郎門下【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  二八 救国時報社
結成年月日  昭和三十五年十一月一日
事務所所在地 京都市伏見区桃山町三河五八の一〇
主要役員
 主 幹   川添 嘉久
      (別名 川添正人)
 情宣部長  西田 栄吉
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙 「救国時報」
      (不定期刊紙 約一、〇〇〇部)
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
「天皇を日本民族の統帥者と仰ぎ、
 反共救国運動を展開し、
 共産革命を防止するために
 非日本的反動勢力たる
 日本共産党の撲滅を期す」
ことを標榜している。
 性 格
博徒中島会の一員であった
川添嘉久が前国民運動社主
柴田金三郎門下に入り、
柴田の指導で結成した団体である。
 主要活動
機関誌「救国時報」で、
中国、日共、公明党等を批判するなど
文書による反共活動を行なっているほか、
昭和四十六年
日教組大会反対活動に参加した。
 主要関係団体
全愛会議、全京都愛国運動協議会に
主幹 川添嘉久が加盟。
 p794-1【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p794-1【大右翼史 増補】1974
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《柴田和志》チャー坊は裏のスターだった:鈴木創士[ジュリーがいた:沢田研二、56年の光芒]島﨑今日子

 ジュリーがいた-表紙
〔画像〕ジュリーがいた-表紙

その頃、木村は京都大学の西部講堂で
ロックコンサート「MOJO WEST」を
スタートさせようとしていた。
中井は、そこをPYGのデビューの場にしたいと言った。

「あの頃の西部講堂は、
 ヘルメットやゲバ棒、火炎瓶が転がり、
 バリケードで覆われた京大の象徴だった。
 そこにPYGを出すというんやから、
 やっぱり、中井さんは並のマネージャーじゃなかった。
 おかげで僕は、反体制を標榜する京都の学生たちから
 『商業主義ナベプロの回し者だ』
 と批判されるんやけど」

全共闘運動は撤退期に入っていたが、
京大では「過激派」による抵抗と闘争が激化していた。

伝説的な演劇やコンサートが開催された
場所として知られる西部講堂のシンボルは、
大屋根の赤い三つの星であった。
この星は、七二年五月にテルアビブ空港を襲撃した
三人のために描かれたという説がある。

生き残ってイスラエルの軍事裁判にかけられた
岡本公三以外の二人、
死亡した奥平剛士と安田安之は
京大工学部の学生だった。

PYGが西部講堂に立ったのは、
京大周辺に常時パトカーが止まっていた時代である。

七一年三月二十日、
京大西部講堂で開かれた
「第一回MOJO WEST」は
二つの伝説的バンドが登場したコンサートとして
ロックファンに長く記憶されている。

ひとつはPYGであり、もうひとつは、
木村が一時、プロデュースした村八分である。

日本語でロックをやるという試みが
同時多発的に生まれた時期で、
村八分もそうした先駆的存在、
コマーシャリズムに乗ることに
徹底的に抵抗した
アンダーグランドのバンドであった。

四九年生まれの
元ダイナマイツの天才ギタリスト、
山口冨士夫と、
腰まで髪を伸ばした
五〇年京都生まれのヴォーカル、
チャー坊、柴田和志が中心で、
マニアックなファンを集めた。

「目がジュリーに似てる」
と自称していた五二年生まれの作家、
中島らもも村八分のために
西部講堂に足を運んでいる。

中島はもういないので、
彼の盟友、五四年生まれの作家、
鈴木創士が語る。

「チャー坊の髪の毛の長さに、
 らもは憧れていました。
 ドロップアウトした時間そのものだから。
 みんな、吸血鬼みたいなメイクして、
 山口冨士夫のギターはめちゃくちゃうまかった。
 コンサートは野次る客席の新左翼と
 すぐに乱闘になるので、
 まだ子どもだった僕らはびっくりしてた。
 PYGの時は見ていないけれど、
 ジュリーが表のスターだとすれば、
 チャー坊は裏のスターだった。
 僕らはどちらも好きだったね。
 二人ともロックだったし、
 カッコよかったもん。
 今にして思うと、
 遠いところにいたように見えた二人だけど、
 実際には近いところにいたんだよね」

山口らが参加する前の出来事だが、
村八分の母体となった
裸のラリーズの初期のメンバーのひとりは七〇年三月、
よど号をハイジャックして北朝鮮に渡っていた。

頭脳警察が、
赤軍派の上野勝輝が書いた
「世界革命戦争宣言」をシャウトして
新左翼のアイドルになるのもこの頃だ。

六ページに亘り当日の模様を
イラスト入りでルポしていた。

そこでは沢田や萩原のファンを
異物として描写してあり、
PYGが野次られる様子もあったが、
総じて好意的な評価だった。

タンクトップにストライプのパンタロン姿の
ジュリーが座り込んでカンカラを叩き、
上半身裸のショーケンがマラカスでリズムをとり、
二人の間で井上堯之がギターを弾くイラストが載っていた。
ジュリーがいたp126-127
〔画像〕ジュリーがいたp126-127

山口冨士夫も、自著でその日のことを書いている。
〈岸部のベースはいい音出してたなあ、
 井上堯之とか大野さんはもちろんよ。
 それで、
 客席の後ろ半分はド汚い村八分を見に来た客。
 若い女の子たちはジュリーやショーケン見て
 キャーキャー言うんだけど、
 PYGの演奏が始まると、
 後ろからは罵声なんだよね〉

〈でもそのジュリーを、
 まるで美空ひばりでも見るような感じで、
 チャー坊は惚れ惚れして見てたけどね〉
(『村八分』)

木村はステージに出て、
「PYGかて、音楽やってんねん。
 聴いたらんかい!」
と怒鳴った。

「よく覚えてないけれど、
 その類のことは言ったのかな。
 音楽を放って殴り合いしていたから。
 あの時代、
 ことに西部講堂は野次ってるやつの方がカッコよくて、
 PYGは標的になりやすかった。
 もうひとつは、
 沢田とショーケンのファンが牽制しあって、
 中に入らずに表にいた人たちもいたわけ。
 だからほとんどが村八分のファンだった。
 そうしたことは全国を回った時にも起こって、
 PYGは全国ツアーが成り立たなかったんやね」
  ―略―
一年たたずに形骸化したPYGに対して、
村八分は七三年五月に
西部講堂で開いたコンサートを収録した
「ライブ」を出した後、解散。
その後何度か再結成の動きはあったものの、
PYGと同じステージに立ってからの
約二年が実質の活動期間であった。

九四年、チャー坊はオーバードーズにより死去。

二〇一三年、喧嘩を止めに入った
山口冨士夫は路上で頭を打って亡くなった。

ドラッグバンドだった村八分だが、
その理由を山口はこう書いた。
当時のミュージシャンの言である。
〈オレたちがドラッグに魅力を感じたのは、
 やっぱりいつもストリートにいられる、
 路上にいられる、
 要するに社会の枠からはみ出ること。
 そこに魅力があった〉
(『村八分』)
ジュリーがいたp128-129
〔画像〕ジュリーがいたp128-129

本書は「週刊文春」
二〇二一年四月十五日号から
二〇二三年一月二十六日号まで掲載した
「ジュリーがいた」に、
新たな取材と大幅な加筆をしたものです。

島﨑今日子(しまざき・きょうこ)
1954年、京都市生まれ。
ノンフィクションライター。
著書に、『森瑤子の帽子』
『安井かずみがいた時代』
『この国で女であるということ』
『だからここにいる』などがある。

ジュリーがいた
沢田研二、56年の光芒
2023年6月10日 第1刷発行
2023年7月5日 第3刷発行
著 者 島﨑今日子
発行者 大松芳男
発行所 株式会社 文藝春秋
    〒102-8008
    東京都千代田区紀尾井町3-23
    電話 03-3265-1211
印 刷 図書印刷株式会社
製 本 図書印刷株式会社
組 版 株式会社 明昌堂
ジュリーがいた-奥付
〔画像〕ジュリーがいた-奥付
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《高間明子》チャー坊と小野さんが御一緒のとき…なつかしく思い出します2024/11/15


 高間明子:書-1
〔画像〕高間明子:書-1

 高間明子:書-2
〔画像〕高間明子:書-2
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御沙汰しております
暑い暑い夏でしたが
ご体調いかがでございますか
お伺い申し上げます

気まぐれに買い求めました本に
こんな本はお読みにならないのかとも思いましたが
気分転換にと送附いたします

チャー坊と小野さんが御一緒のとき
お目にかかりました事
なつかしく思い出します

私達バスケ同期は再々寄り合っては
助けられたり 助けられたり で
楽しく仲良く過しております

どうぞお身体おいとい下さいますように
返送にはおよびませんので
よろしきように願います
 高間明子241115
〔画像〕高間明子241115
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年08月25日04:35
【三浦卓先生】
《深草中学校バスケットボール部員》昭和30年~41年
昭和35年度
(男)   川口(兄)  柴田次男  細谷(弟)
(女)   倉瀬直子  永井恵子  箕輪    翁
昭和36年度 
(男)   尾崎潔和  大庭憲雄  小野一雄  小坂真一
       駒井貞夫  洲見 薫  長谷川保  宮村一己
(女)   島川久枝  出野美恵子 大橋幸代  平井光代
       吉田正子
昭和37年度
(男)   佐野    浜中昭雄  広田 要
(女)   中村    佐々木明美 坂部清子
昭和38年度 
(男)   大森充久  杉村政夫  中村哲郎  松村憲次
       水谷澄夫  杖野隆英  森 隆夫
(女)   渡辺三千子 村中よし子 岡本初津美
       高間明子  菅原喜美子 金山春子
       川勝久美子 茗原道子  吉田照子
昭和39年度
(男)   青山俊夫  上谷光博  小野雄二  加藤伸二
       武田雅年  石村哲夫
(女)   島川葉子  石田旬子  池田安江  寺坂治子
       瀬戸口徳江 小村広子
昭和40年度 
(男)   柴田和志  島 幸隆  金谷 信  木下
       久保田清  藤沢    田中    南
       山本    山本
(女)   小西左江子
昭和41年度
(男)   吉内 修   堤    田中
(女)   山中優子(松本) 2023/06/06追記
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[篠原会]博徒 中島会(いろは組):全国博徒、的屋、不良等の団体名簿(昭和26年3月31日現在)【任侠百年史】昭和55年(1980)

【任侠百年史】昭和55年(1980)
著者    藤田五郎 著
出版者   笠倉出版社
出版年月日 1980.10

 二代目 会津小鉃 事 上坂卯之松
     京都黑谷ニテ撮影ス
     大正十三年三月十九日
p171【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p171【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/171

昭和二十六年十一月
 全国博徒、的屋、不良等の団体名簿
(昭和二十六年三月三十一日現在)
 法務省特別審査局
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/172

  近畿支局 京都府
[篠原会]
博徒 中島会(いろは組)
昭和二十二年二月
西陣太秦方面一円(特に西三条一円)
京都市中京区西ノ京中合町
(靴修理業)
篠原梅松(四八)
中京区西ノ京中合町三四
矢野一男(二六)
石田繁春(二九)
中京区西ノ京南原町
中村竹一(三九)
右京区安井馬場町
三宅正一
中京区西ノ京中合町
津村清一 六〇名
p183【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p183【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/183

[中島組]
博徒 吉村仙助と兄弟分
昭和十三年 東七条一円
京都市下京区東七条川端町七
(前科四)
中島源之助(五八)
七条新地十二軒町(図越組)
図越利一
中京区西ノ京中合町(篠原会)
篠原梅松 五〇名

[図越組]
博徒 中島組舎弟
昭和二十年十月 七条新地及東七条一円
京都市下京区上ノ口通菊岡町三六九
図越利一(四二)
下京区幸町通七條上ル
吉村長
東高瀬上ノ口下ル
星野利一 二〇名
p184【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p184【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/184
任侠百年史
定価 35,000円
昭和55年10月1日 発行
著 者 藤田五郎
発行者 笠倉操六
発行所 株式会社 笠倉出版社
    東京都千代田区三崎町3-10-15
    郵便番号(101)
    電話03(263)6282(代)
印刷所 凸版印刷株式会社
製本所 株式会社 三森製本所
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/448
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月28日 07:24
《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
洛西ニュータウンのマンションで、
お母さん(柴田つぎ)の話。
※お父さん(柴田金三郎)が元気な頃、
 向日町競輪場で、騒ぎがあった。
 誰かが、「柴金」が来てると叫び、一騒動、
 一件落着と云っても二日かかった。
 お父さんが、新聞紙で包まれた束を、
 紐にぶら下げて帰って来た。
 中を開けると、百円札が一杯、入っていた。
 お父さんは、その時、初めて向日町競輪場に行った。
 その後、そのお金は、全部、競輪に使った。
この話は、お母さんから、私が直接、聞きました。
 お父さんの歿後何年も送られていた。
※お母さん(柴田つぎ)の葬儀
 (伏見区向島庚申町・昭和58年(1983)4月)に、
 篠原組の供花があり、若い衆が数人、参列していた。
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[国民運動社]主幹 柴田次男(別名 柴田顕正):柴田金三郎(父)が結成した団体【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 p3【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p3【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/3
  五七 国民運動社
結成年月日 昭和二十六年七月
事務所所在地 京都市伏見区向島庚申町八九
       柴田方
主要役員
 主 幹   柴田 次男
      (別名 柴田顕正)
 組 織   下部組織数 なし
 機関誌紙 「国民運動」(休刊中)
 塾・道場、青年隊等 なし
 目 的
国体維持と反共を標榜し、
天皇元首、再軍備を内容とする
憲法改正を主張している。
 性 格
前主幹 柴田金三郎が結成した団体で、
博徒中島会との関係が深い。
昭和四十一年一月 同人の死後、
その子 次男が継承したが、
現在は同人の一人一党となっている。
 主要活動
昭和四十三年五月二十八日、
柴田次男は、
右翼運動等に熱意がないとして
「今後二、三年は運動しない」と表明し、
その後は活動がない。
 主要関係団体
主幹 柴田次男が三曜会に加盟しているほか、
傘下に民族運動社、救国時報社、
救国青年隊がある。
 p798【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p798【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/798
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日07:50
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、
〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月27日05:00
[柴田家之墓]《柴田金三郎・つぎ・次男・和志=チャー坊》
小野雄二:平成30年5月26日
   平成二十八年十月六日
俗名 柴田次男 納骨
   行年 七十一歳
釋 浄 剛
昭和41年1月22日歿 俗名 金三郎 行年 63才
釋 尼 妙 春
昭和58年4月14日歿 俗名 つぎ  行年 73才
春光院法音日和居士
平成6年4月25日歿  俗名 和志 行年 43才
 df5f5a00
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日本国家主義団体-右翼団体の現勢力「京都府」昭和三十八年現在【大右翼史 増補】1974

【大右翼史 増補】1974
著者    荒原朴水 著
出版者   大日本一誠会出版局
出版年月日 [1974]
 時世に媚びず
 俗に流れず
 権に屈せず
 利に走らず
 虚名を追わず
 悪名を甘受し
 起つては斬奸の剣を振ひ
 漂々孤高の祖国愛に生きるもの
 これを真の右翼と云ふ

 三浦義一先生と御色紙
 p4【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p4【大右翼史 増補】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/4

 第八項 日本国家主義団体-右翼団体の現勢力
     国家主義団体(順序不同)
    (昭和三十八年現在)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11924877/1/447
京都府
 団体名       主宰者
国民運動社(死亡) 柴田金三郎
    京都市伏見区深草東藪ノ内四六
日本国策研究会   中川  祐
    京都市上京区室町通武者小路上ル
立憲民主党     市村平太郎
    京都市中京区四条大宮西入ル更雀寺
救国時報      川添 正人
    京都市深草十九軒五五一ノ一七
抗共民主同盟    水田 昇三
    京都府久世郡宇治郷東内
日本国民党     宮崎  修
    京都市左京区吉田橘町三〇
革新同盟      林  友一
    京都市中京区金座夷川上ル
国民会議同志会   大野 熊雄
    京都市中京区金座通リ森川上ル
民族運動社     加藤 矩敏
    京都市東山区福稲高原町五
日本新生会     松川 武市
    京都市下京区仏光寺猪熊西入ル西田町
民族青年隊     藤田 昌治
    京都市東山区福稲高原町五
生産党京都中京支部 瀬川幸之助
    京都市中京区三条通大宮東入姉小路九一
生産党京都北支部  小泉 勝則
生産党京都右京支部 藤井 勝利
生産党京都伏見支部 藤岡 次郎
生産党京都中京支部 下田 正人
生産党京都東山支部 柴田賢二郎
生産党京都左京支部 三木未太郎
生産党京都左京支部 溝口 藤吉
生産党京都上京支部 木島 末二
生産党京都上京支部 井上 政一
生産党京都左京支部 居場金次郎
生産党京都東山支部 山川 清治
 p455【大右翼史 増補】1974
〔画像〕p455【大右翼史 増補】1974
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 p456【大右翼史 増補】1974
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著 者 荒原 朴水
    東京都板橋区常盤台四ノ七ノ十二
    電話(九三三)三〇四五番
発行人 万年 東一
    高橋 金治
    東京都千代田区内神田三ノ三ノ二
       互光ビル二階
    電話(二五二)五六一二番
発行所 大日本一誠会出版局
印刷所 セイユウ写真印刷株式会社
    東京都豊島区巣鴨三ノ五ノ十八
    電話(九一七)一三一一番
定 價 五萬圓
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“あれが村八分のチャー坊と冨士夫よ”【ワイルド・サイドを歩け】1987

【ワイルド・サイドを歩け】1987
著者    鳥井賀句 著
出版者   講談社
出版年月日 1987.2
 p3【ワイルド・サイドを歩け】1987
〔画像〕p3【ワイルド・サイドを歩け】1987
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/3

 危険なロックン・ローラー  村八分
僕が奴ら”村八分“のメンバーの姿を初めて目にしたのは
確か京都のロック喫茶”ダムハウス“でだったと思う。

当時高校3年か浪人をしていたはずの僕は、
京都に行くと必ず”ダムハウス“に行っていた。

その店は昔、
僕の大阪にあった実家の向かい側に住んでいた
僕よりひとつ歳上のヒロ子から教えてもらったのだ。

彼女とはお互いにロック好きということで、
よく家に遊びに行ってはレコードの貸し借りをしていた。

彼女はジェファーソン・エアプレインと
マザーズ・オブ・インヴェンションや
アル・クーパーなどの
アメリカのニュー・ロックが好きで、
僕はストーンズやジョン・メイオール、
ブラインド・フェイスなどにイカれていた。

ヒロ子はちょっと
グレース・スリックに似た美人だった。

彼女は浪人をしている僕より
一足先に同志社大学に現役で入ってしまった。

大学に入ってから彼女はより深くロックに
のめり込んでいくようになり、
京都の女子寮に下宿しながら
夜は”ダムハウス“に入りびたり、
大学の男友だちと
ジェファーソン・エアプレインもどきの
バンドを結成して、
リード・ヴォーカルをやるようになっていた。

自分より一足先に”自由の身“となった
彼女が羨ましくもあり、
また密かに彼女に惚れていた僕は、
ヒマを見つけては京都に行き、
“ダムハウス”で彼女を待っていた。
1971年(昭和46)頃のことだ。

その夜その店に、
ドカドカと人相の良くない長髪の男たちが入ってきた。

デーンとテーブルに足を投げ出し
何やらマスターとブツブツ喋っていた。

“あれが村八分のチャー坊と冨士夫よ”
ヒロ子がそっと耳元に囁いた。

僕にはあの時初めて観た、
彼らの姿が今も鮮明にまぶたの奥に焼きついている。

本物のアンファン・テリブル、
不良少年の臭いがした。

当時の僕らみたいに学生やりながらロック、
長髪でイキがってる奴等にはない、
何か得体のしれない悪意と孤立感を漂わせていた。

そんな彼らに対する想いは、
実際の彼らのステージを体験することで
より鮮明なものとなっていった。

京都円山音楽堂、京大西部講堂、慶応大学三田祭……
その他にも何度か村八分が出演するという
噂を聴きつけて出かけていったが、
彼らは出演しなかった。

ある時はヴォーカルのチャー坊が
“今日の客はアホばっかりや”と吐き捨てて、
1曲で帰ってしまったとか、
PAが気にくわないとアンプを蹴っとばし、
ギャラを放り投げて帰っていったとか、
彼らに対する逸話、
伝説の類(たぐい)には事欠かない。

村八分は1970年(昭和45)に京都で結成された。

当時の村八分のステージで鮮明に覚えているのは、
ニューヨーク・ドールズまがいのドギツイ化粧、
やはりヴォーカルのチャー坊の挑発的で攻撃的、
意味不明の投げやりなヴォーカル、
そして後方で黙々とギターを弾き続けている
山口冨士夫のギターが弾き出す、
圧倒的なリズム感と、
ソリッドかつスリリングなフレーズだった。

“チャー坊はいつもクスリを決めて歌ってるんだぜ”、
“冨士夫には1/4黒人の血が入ってるんだ”
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/96

等の噂は幾つも耳にしたが、
その真相はともかく、
やはり村八分は他の日本のロック・バンドとは
はっきりと一線を画した位置に立っていた。

それはロックを演奏するという行為以前に、
自らの存在そのものがロックであるという
彼らの妥協のなさと、
現実のしがらみやへつらいなど
意にも介さないという徹底した孤立無援の
アウトサイダーとしての姿勢であったのだと思う。

72年(昭和47)1月号の
「ニューミュージック・マガジン」に
当時の彼らへの短いインタビューが載っている。

青木真(ベース)、
カント(ドラムス)、
山口冨士夫(ギター)、
柴田和志(ヴォーカル)、
浅田哲(ギター)の5人の
村八分のポートレートはまるで
ストーンズの『ビッグ・ヒッツ』の
裏ジャケットの写真のように
凶々しい目付きをしている。

「俺たちの演奏を聴ける奴がどこにいる!?
 いないじゃないか」
当時の青木真(現青木真一)の発言だ。

その時、彼らはこうも語っている。
「俺たちは村八分の演奏を満足に聴けないような
 日本の奴らを軽蔑している。
 だが日本を軽蔑している日本人をもっと軽蔑している。
 俺たちは日本人だ。
 だからこそイギリスに行くんだ。
 日本人として行くんだ」と。

73年(昭和48)に入る頃には
日本のロック・ジャーナリズムでも
ぼちぼち
“日本のローリング・ストーンズ”という
“村八分伝説”が囁かれるようになっていた。

当然レコード会社の中にも彼らの存在に注目し、
彼らのレコードを出そうとした人達がいた。

その橋渡し的存在となったのが
あの加藤和彦であったというのは興味深い。

京都出身の加藤はチャー坊とは昔から
旧知の関係にあったらしい。

フォーク・クルセダーズ、
ソロでも東芝と付き合いの深かった彼は
東芝EMIで当時
T・レックスや
シルバーヘッドを担当していた
敏腕ディレクターの石坂敬一氏にハナシを持ち込み、
村八分のライヴを観て関心を持った
石坂氏は彼らと何度か交渉を持ち、
村八分のデビュー・アルバムは
ロンドン・レコーディングで
東芝から発売になるという噂が拡まった。

が結局、村八分の最初で最後の
デビュー・アルバムは73年6月25日、
2枚組のライヴ・アルバムとして
エレック・レコードから発売された。

吉田拓郎や泉谷しげる、ケメ……といった
フォーク系の会社であったエレックから
村八分が出たというのも面白いが、
当時エレックは例のフォーク・ブームで金があり、
また社長の浅沼勇氏も加藤和彦とは
親しい間柄にあったというのが理由のようだ。

とにかくこのエレックから
村八分がデビューするにあたり、
破格の契約金が支払われたというのが
もっぱらの噂だった。

レコード発売後、
以前からアムステルダムに行くと
発言していたチャー坊は、
アムスに行ったのかどうか知らないが、
アメリカに渡った。

余談だが、
69年(昭和44)にも渡米したチャー坊はオルタモントの
ローリング・ストーンズのコンサートに行ったらしい。

69年(昭和44)のストーンズ全米ツアーを収録したライヴ盤
『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』の
「ミッドナイト・ランブラー」の途中で、
日本語で“カッコイイ!?”と叫んでいるのは
実はチャー坊だ……というハナシは
村八分ファンの間ではマコトしやかに語りつがれている。

エレックから発売された
73年(昭和44)5月のライヴ時のメンバーは、
チャー坊(ヴォーカル)、
山口冨士夫(ギター)、
ヨーチャン(ギター)、
エーイチ(ベース)、
シゲト(ドラムス)である。

このライヴ盤は
エレック・レコードが倒産してからは
“幻の名盤”として、
最近までマニア向け中古レコード店で
サンハウスのデビュー・アルバムなどと共に
15,000円~20,000円の高値を呼んでいた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/97

80年(昭和55)頃、パンク・ブームのさ中、
“元祖パンク”として
この村八分のライヴを再発しようとした
大手レコード会社のディレクターがいたが
“村八分”というバンド名自体が
レコ倫に引っかかるとかで没になったらしい。

それがおよそ12年を経た今になって
ヴィヴィド・サウンドから再発売されることになり、
それでこんな原稿を書いている次第なのだが、
とにかくこれを機会に“幻”の村八分の音に
若い読者も是非触れて欲しいものだと思う。

その後の村八分のことをかけ足で書いておこう。

結局レコード・デビューはしたものの、
その後目立った活動は行われないまま、
いつしか村八分は解散してしまうわけである。

翌年(1974昭和49)に
山口冨士夫は先のエレック・レコードから、
ソロ・アルバム『ひまつぶし』を発表している。

これは冨士夫のヴォーカルとギターにベースとドラム、
それに女性コーラスを加えた
実にシンプルな編成で録音されたものだが、
山口冨士夫というひとりの
“さすらいのロッカー”としての心情が
とてもよく表れている作品だ。

キース・リチャーズやジョニー・サンダースにも
共通するルースでニヒルな冨士夫の歌いっぷりが素敵だ。

このアルバムも是非再発売してもらいたいものだ。
(現在ヴィヴィドより再発売されている)

その後チャー坊や冨士夫はドラッグ問題で
パクられたりしたらしい。

77年(昭和52)には現ピンク・クラウドの加部正義らと
リゾートというグループを結成したが
これも短命に終わっている。

77年(昭和52)1月28日
“新宿ロフト”のリゾートのライヴでは
「ムスタング・サリー」や
「スロー・ダウン」といった
R&Bのスタンダードを演奏している。

翌78年(昭和53)には冨士夫&フレンズとして
福生の”エレクトリック・ウズ“あたりで、
ストーンズの「ギミー・シェルター」
などを演奏していた。

79年(昭和54)7月15日、
70年代最後の夏に村八分は突如再結成され、
古巣の京大西部講堂で行われた
“西部宵々山”というコンサートに出演する。

チャー坊のヴォーカルに冨士夫のギター、
その他のメンバー名は不明だが、
ここでの彼らは過去のレパートリーから
ブルースぽいスロー・ナンバーを中心に
1時間あまり演奏したが、
改めて”再結成“をした意味は
その演奏の中にはなかった。

そして案の定、
この再結成ライヴはこれっきりのものであった。

一方村八分オリジナル・ベーシストの
青木真一は76年(昭和51)頃から東京で、
ヴォーカルのケンゴと共にスピードという、
イギー・ポップ&ストゥジスを彷彿とさせる
パンク・バンドのギタリストとして活躍し、
79年~80年の東京ロッカーズ全盛期には、
ミスター・カイトやミラーズと共に
精力的なライヴを展開していた。

スピードには一時、
後のEDPSのボーイとバニラも在籍していた。

スピードはシティロッカーから1枚アルバムを発表し、
81年(昭和56)末に解散。

青木真一はフルーズに参加。

80年(昭和55)に入ると
山口冨士夫はあの伝説のバンド、
裸のラリーズ
(メンバーのひとりに
 「よど号」ハイジャック犯がいた)
にギターで参加し、
1年あまり活動を共にする。

元々ラリーズが1967年(昭和42)に
京都で結成された時には、
冨士夫や青木真一もメンバーだったという。

ブルースや黒人音楽に根ざしている冨士夫だが、
このラリーズではかなりメタリックな
ギター・プレイを行なっていた。

しばらく沈黙を続けていた
冨士夫が帰ってきたのは83年(昭和58)。

テレグラフ・レコードから
『RIDE ON』の4曲入りのレコードを発表する。
 p35【Indies  世界自主制作レコードカタログ】1986
〔画像〕p35【Indies  世界自主制作レコードカタログ】1986

冨士夫のギター&ヴォーカルに、
フールズをやめた青木真一のギター、
元京都のトゥー・マッチのメンバーで
外道でも活躍した青木まさゆきのベース、
同じく元トゥ・マッチのドラマー小林秀也という編成で、
当初は山口冨士夫グループの名で、
都内のライヴ・ハウスを中心に精力的にライヴを行い、
84年(昭和59)には
バンド名を“タンブリングス”に改めている。

オリジナル曲に「ツイスト&シャウト」、
「イフ・ユー・ニード・ミー」
などのR&Bナンバーも交えながら
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/98

強力にロールする冨士夫の歌とギターは、
そこいらのチンピラ・ロッカーには
ちょっと出せない強烈な存在感がある。

その昔、
村八分とキャロルのジョイント・コンサートが企画され、
直前になってキャロル側がキャンセルしてきたとか、
あの鮎川誠が冨士夫をメンバーに誘ったとか、
村八分や冨士夫に関する伝説や逸話はまだまだ沢山ある。

あのGSのダイナマイツのギタリストとして
このロックの世界に足を踏み入れた冨士夫だが、
ただ上手にメジャーのレールの上に
乗っかっていくことを良しとはせずに、
ある意味で非常に不器用に
自分のポリシーを貫き通そうとしている。

日本のロックやロッカー達の多くが
次第に安全で軟弱な道へと流されていった中で、
村八分、そして山口冨士夫は、
本物のアンファン・テリブルとして、
危険なロックン・ロール・ライフを
生きぬいていったのだ。
(「MUSIC STEADY」1984・12)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12434238/1/99
定 価 九八〇円
昭和六十二年二月十日 第一刷発行
著 者 鳥井賀句
発行者 野間惟道
発行所 株式会社 講談社
    〒一一二
    東京都文京区音羽2-12-21
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編 集 株式会社 講談社出版研究所
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《吉村法俊》昭和維新連盟の関東本部長・ペンネームを新宮地義輝【特殊株主及び全国専門紙・雑誌紳士録 昭和46年度版】

【特殊株主及び全国専門紙・雑誌紳士録 昭和46年度版】
著者    経営者団体会議 編
出版者   [経営者団体会議]
出版年月日 [1970]
 【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p1
〔画像〕【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/11936997/1/1
《吉村法俊》
③ 昭和維新連盟 民政特報社 全アジア青年同盟
➃ 東京都中央区日本橋小舟町1~3 山粉ビル
⑥ 維新シリーズ 民生維新 民生特報
右翼。昭和維新連盟の関東本部長。
ペンネームを新宮地義輝という
 【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p216
〔画像〕【特殊株主・雑誌紳士録 昭和46年度版】p216
https://dl.ndl.go.jp/pid/11936997/1/216
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