【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
著者 野村秋光子 著
出版者 せ丶らぎ
出版年月日 1986.10
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/4
渓水はお茶の化粧水
そのころの隅田川は、
清冽な岩清水そのまゝのように
美しい姿で流れていた。
川畔の料亭をはじめ、
遠くからも
「隅田川の水はお茶の味がよい」
と中瀬の水を渡しの船頭さんに、
頼んで汲んだものだ。
だが、毎年六月ころ雨季に入り、
秩父の嶺々に雨が降りつゞくと、
雲取、武甲の群峰から、
落ちてくる流れが、
赤土色に変貌して、
奔流となって、
一挙に川は怒り狂うのである。
この兆候を知ると、
父母は『床(ゆか)を吊ろう』と畳を上げ、
軒下に対処してある角材を取り
一日かゝりで床(ゆか)作りの作業が初まるのである。
水魔に対する、
小松島住人の年中行事のならわしであった。
明治四十二年(1909)だと思う、
床(ゆか)の上にまで浸水して、
家に住むことが出来ず、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/11
隣の河原さんの渡船で、
水の引けるまで寝起さして貰ったことは忘れない。
この洪水は、隅田川だけでなく、
利根川の権現堂堤が決壊して、
葛飾、向島、本所一帯の浸水で幾多の犠牲があった。
私の聞かされた話の中で、
次のような事を今も思い出となる。
寺島村字玉の井にあった大倉牧場、
多くの牛が水を潜って、
隅田の土手にて助かった。
しかし方向違いに水中を歩いた牛は
皆んな死んだそうである。
とにかく未曾有の大洪水であった。
(この年荒川放水路の開発となった)
丘の上から眺むれば
家の前通りを境に広大な屋敷があった。
当時小松島庭園といわれていた。
隅田区史(昭和三十四年(1959)五月発刊)によると、
次のように記されている。
「白鬚神社の北西、堤外の地で
水田であったのを
明治十一年(1878)に田を埋め、
池を掘って庭園をつくり、
明治十二年(1879)に落成した。
小野義真の別荘で、
園内に松、桜、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/12
そのほかの樹木を植えてかたどり、
さらに築山に上れば関八州を見渡して、
風景絶景なところから八洲園ともいった。
その後、奥州松島の景にならって改造し、
小松島と称し、
明治十七年(1884)一般に公開したが、
明治三十年(1897)閉鎖した」とある。
私の育つころは、
小松島庭園といふて、
カブトビールの所有と云われていた。
周囲を竹垣でめぐらし、
花見時だけ、
三ヶ所に木戸をもうけ入園料を取って公開していた。
庭園の中央には瓢箪池があり、
小橋がかけられてあった。
隅田堤寄りに、
見晴台があり、
隅田川畔よりの小丘には
稲荷神社が祀られていた。
こゝからの隅田川の眺望は実によかった。
言問あたりから、
待乳山、吾妻橋が展望され、
高瀬舟、伝馬船、白帆の舟や
一銭蒸気が蛇行の如く、
ゆとりのある素朴な風景であった。
私たち子供の群は時季が終ると
竹垣をもぐり栗を拾ったり、
ネッキリ棒になる茶の木を切ったものだ。
こうしたところで私は育った。
今は日本電気精器株式会社となっている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/13
著者 小伝
明治三十九年(1906)十月十七日
東京府下南葛飾郡寺島村大字小松島二八一一番地に生まる
(現 隅田川白鬚橋畔 墨田区堤通り二丁目)
十八歳より父、姉より俳句指導をうけ、
昭和十八年(1943)、俳誌「せゝらぎ」を防空壕にて発行。
昭和二十六年(1951)七月、
墨田区俳句連盟を当時の区長
勝田菊蔵先生(俳号筑峰)
久村錦朗先生、伊野東尋先生らと結成。
昭和三十一年(1956)開都五百年の祝典。
大東京祭を契機に東京都俳句連盟を主軸として結成。
初代会長(十年)現在顧問。
俳誌せゝらぎ。
東京極楽会の会長として
江戸観音の復興に全力投球している。
(満八十歳)
振替口座 東京7-170064 俳誌せゝらぎ
歩道
昭和六十一年(1986)十月 十日 印刷
昭和六十一年(1986)十月十七日 発行
頒 価 一五〇〇円
著 者 野村秋光子(本名 一正)
131東京都墨田区東向島一ノ二ノ十二
電話(六一一)五七五五
印刷所 (有)鋭文社
123東京都足立区西新井栄町一ノ六ノ四
発行所 俳誌 せゝらぎ
131東京都墨田区東向島一ノ二ノ十二
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/64
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