向島八洲園・小松島

《小松島庭園》庭園の中央には瓢箪池。見晴台があり、こゝからの隅田川の眺望は実によかった。【歩道】野村秋光子 著 昭和61年

【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
著者    野村秋光子 著
出版者   せ丶らぎ
出版年月日 1986.10
p4【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
〔画像〕p4【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/4

  渓水はお茶の化粧水
そのころの隅田川は、
清冽な岩清水そのまゝのように
美しい姿で流れていた。
川畔の料亭をはじめ、
遠くからも
「隅田川の水はお茶の味がよい」
と中瀬の水を渡しの船頭さんに、
頼んで汲んだものだ。

だが、毎年六月ころ雨季に入り、
秩父の嶺々に雨が降りつゞくと、
雲取、武甲の群峰から、
落ちてくる流れが、
赤土色に変貌して、
奔流となって、
一挙に川は怒り狂うのである。

この兆候を知ると、
父母は『床(ゆか)を吊ろう』と畳を上げ、
軒下に対処してある角材を取り
一日かゝりで床(ゆか)作りの作業が初まるのである。
水魔に対する、
小松島住人の年中行事のならわしであった。

明治四十二年(1909)だと思う、
床(ゆか)の上にまで浸水して、
家に住むことが出来ず、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/11

隣の河原さんの渡船で、
水の引けるまで寝起さして貰ったことは忘れない。

この洪水は、隅田川だけでなく、
利根川の権現堂堤が決壊して、
葛飾、向島、本所一帯の浸水で幾多の犠牲があった。
私の聞かされた話の中で、
次のような事を今も思い出となる。

寺島村字玉の井にあった大倉牧場、
多くの牛が水を潜って、
隅田の土手にて助かった。
しかし方向違いに水中を歩いた牛は
皆んな死んだそうである。
とにかく未曾有の大洪水であった。
(この年荒川放水路の開発となった)

  丘の上から眺むれば
家の前通りを境に広大な屋敷があった。
当時小松島庭園といわれていた。
隅田区史(昭和三十四年(1959)五月発刊)によると、
次のように記されている。
「白鬚神社の北西、堤外の地で
 水田であったのを
 明治十一年(1878)に田を埋め、
 池を掘って庭園をつくり、
 明治十二年(1879)に落成した。
 小野義真の別荘で、
 園内に松、桜、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/12

 そのほかの樹木を植えてかたどり、
 さらに築山に上れば関八州を見渡して、
 風景絶景なところから八洲園ともいった。
 その後、奥州松島の景にならって改造し、
 小松島と称し、
 明治十七年(1884)一般に公開したが、
 明治三十年(1897)閉鎖した」とある。

私の育つころは、
小松島庭園といふて、
カブトビールの所有と云われていた。
周囲を竹垣でめぐらし、
花見時だけ、
三ヶ所に木戸をもうけ入園料を取って公開していた。

庭園の中央には瓢箪池があり、
小橋がかけられてあった。
隅田堤寄りに、
見晴台があり、
隅田川畔よりの小丘には
稲荷神社が祀られていた。

こゝからの隅田川の眺望は実によかった。
言問あたりから、
待乳山、吾妻橋が展望され、
高瀬舟、伝馬船、白帆の舟や
一銭蒸気が蛇行の如く、
ゆとりのある素朴な風景であった。

私たち子供の群は時季が終ると
竹垣をもぐり栗を拾ったり、
ネッキリ棒になる茶の木を切ったものだ。
こうしたところで私は育った。
今は日本電気精器株式会社となっている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/13

著者 小伝
明治三十九年(1906)十月十七日
東京府下南葛飾郡寺島村大字小松島二八一一番地に生まる
(現 隅田川白鬚橋畔 墨田区堤通り二丁目)
十八歳より父、姉より俳句指導をうけ、
昭和十八年(1943)、俳誌「せゝらぎ」を防空壕にて発行。
昭和二十六年(1951)七月、
墨田区俳句連盟を当時の区長
勝田菊蔵先生(俳号筑峰)
久村錦朗先生、伊野東尋先生らと結成。
昭和三十一年(1956)開都五百年の祝典。
大東京祭を契機に東京都俳句連盟を主軸として結成。
初代会長(十年)現在顧問。
俳誌せゝらぎ。
東京極楽会の会長として
江戸観音の復興に全力投球している。
(満八十歳)

振替口座 東京7-170064 俳誌せゝらぎ
 歩道
昭和六十一年(1986)十月 十日 印刷
昭和六十一年(1986)十月十七日 発行
頒 価 一五〇〇円
著 者 野村秋光子(本名 一正)
    131東京都墨田区東向島一ノ二ノ十二
    電話(六一一)五七五五
印刷所 (有)鋭文社
    123東京都足立区西新井栄町一ノ六ノ四
発行所 俳誌 せゝらぎ
    131東京都墨田区東向島一ノ二ノ十二
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/64
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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小松島庭園の留守番(木下さん)橋場の渡の汀(みぎわ)建具屋(石川さん)と八百屋(鈴木さん)【歩道】野村秋光子 著 昭和61年

【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
著者    野村秋光子 著
出版者   せ丶らぎ
出版年月日 1986.10
p4【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
〔画像〕p4【歩道】野村秋光子 著 昭和61年(1986)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/4

   故郷は愛の匂いがする
大正二年(1913)、
その年に私は当時
南葛飾郡寺島村の尋常高等小学校に入学した。
白鬚橋が、木橋で架け初められていた。
このあたりは、隅田川の出洲のところで、
寺島村の片田舎である。

一寒村であった。
私の家の前は、河向ふの橋場から、
小松島・隅田堤へと通ずる、
橋場の渡の往還であった。

朝夕は殷賑(いんしん)をきわめるが、
その時間以外は、まったくの閑寂で、
寥々(さびしさ)の底に、沈むようなところであった。

家からは、隅田川が樹間(このま)がくれに見え、
隅田川の土手の桜が近くに眺められた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/8

北側から東へ、一帯の葭田が、
家を囲繞(いじょう)し、
食用蛙が奇妙な声で鳴いたり、
獺(かわうそ)が、また、
裏戸を叩きに来たとかの
話題のあるところだった。

家は白鬚橋へ、呼べば応へられる、地点であった。
墨田区史(昭和三十四年三月発刊)の
「橋」の沿革の項について、
次のように白鬚橋のことが記されてある。

”株式会社組織によって、
大正二年(一九一三)九月着工し、
翌三年(1914)五月完成した。
木造橋であった。
これは、東京市会において、
大正二年(1913)七月に、
吾妻橋から千住にいたる間、
橋がないのは不利。
不便であるとの理由から、
適当な場所に架橋すべきであると、
可決されたが、実現にいたらず、
有料橋が架設されたものである。
その後大正十四年(一九二五)に、
東京市に移管されて、無料となり、
昭和三年(一九二八)新らたに、
鉄橋にかけ換えられることになり、
同年(1928)九月着工し、
昭和六年(1931)六月完成した。
すなわち現在の白鬚橋である。“
とある。

この橋が工事中の、ある夕暮であった。
友達四、五人で、従業員の帰ったあと、
橋材を運ぶトロッコを起し、
レールで遊ぼうとしたとき、
あやまって、右の人差指を潰し、
泣きながら我が家に駆けもどった。
「いたずらの罰(ばち)があったのね」
と叱りながら、
包帯をしてくれたやさしい亡母と、
指のいたさは今も橋を渡るたびに思い出すのである。

私の隣家は、河原さんといふ、
六十に近い好々爺夫妻で、
橋場の渡の責任者であった。
私は可愛いがられ、
よく渡舟に乗せてくれた。
そのうちに見よう見真似で棹も、櫓も、
自然と覚え、
船を漕ぐことが出来るようになった。
後日、私の生活行路の上に、
幸をもたらしたことはいふまでもない。

河原さんには、孫が居た。
梅子ちゃんといふ女の子だった。
母親が五才のとき亡くなった。
私より二つ年下で、
色の白い明るい子であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/9

   河のほとり
    川のほとり
小松島には、橋場の渡の汀(みぎわ)に、
建具屋(石川さん)と八百屋(鈴木さん)が、
親戚で並んで住んでいた。
その前に、川に面して、
ボートの艇庫が低い棟だが大きく建てられていた。
艇庫の裏手に細い道を挟んで、
河原さんと私の家がある。

すこし離れて、
小松島庭園の留守番(木下さん)と
隅田川を運行している。
当時の交通機関の先端をゆく、
一銭蒸気、小松島発着所(藤井さん)の人々が、
大正五年(1916)五月、
この地と別れる迄の思い出の人々であった。

私には、二つ年上の姉と妹が二人いた。
私たちを入れて、十五人ほどが遊び仲間であった。

ベイゴマ・竹馬・ネッキリ棒・めんこ・縄とび・
綾とり・まりつき・石けり・
それに、かくれんぼ・草履かくし等、
男・女の差異なく、
学校から帰るとよく遊んだものだ。

男の子には、魚取りの楽しみがあった。
満潮の時を待って、
川岸の笧(しがらみ)によってくる、
鮒・海老・鯉・オボコ・白魚・泥鰌・鰻・鯰など、
手網でも掬ふことが出来た。
引汐ともならば、
隅田川に中洲が現れ、蜆がよくとれた。
その蜆汁は忘れられない味だ。

そのころ白鬚橋(隅田区側)より、
二〇〇米ほどの上流に、
日本最初の撮影所が竣工された。
日活向島撮影所である。
二千坪ほどの地内に、
百坪弱(長方形)の建物、しかも、
四面硝子張りで、
白亜の殿堂といわれた。
夜間の電光はあたりを風靡(ふうび)したものだ。
縁高の平屋で、よく縁の下にもぐりこんで、
フイルムを友達と拾った。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/10

小松島には、よく撮影に来た。
亡母(はゝ)はお茶を出す役で、
エキストラに頼まれたものだ。

このあたりは、冨士と筑波の遠望美と
隅田の清流と和し、
繁茂した森のたゝづまいが良かったのであろう。

白鬚橋が架橋されてから、
驚異(きょうい)な現象が起きた。
橋の開通を待っていたのか、
あまりに身投げが多き事であった。
市井間では身投げ橋とも宣伝されたほどであった。

今日は、橋場方に、土左ェ門が流れていた。
とか、言問に浮いていたと、
二六時中のことだ。
その度に一銭蒸気が、
或は小舟で曳いてくるのが小松島が多い。

それには、艇庫の片側が、芦の茂みで、
上汐になると入江のように水が差してくるので、
水死人を引上げるによき地形をもっていたからである。
こゝから、堤内にある寺院に
遺族のわかるまで埋葬したものだ。

私は、落語の『野ざらし』を聞くと、
芦の入江の様相が心の奥に去来してくるのである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12546525/1/11

著者 小伝
明治三十九年(1906)十月十七日
東京府下南葛飾郡寺島村大字小松島二八一一番地に生まる
(現 隅田川白鬚橋畔 墨田区堤通り二丁目)
十八歳より父、姉より俳句指導をうけ、
昭和十八年(1943)、俳誌「せゝらぎ」を防空壕にて発行。
昭和二十六年(1951)七月、
墨田区俳句連盟を当時の区長
勝田菊蔵先生(俳号筑峰)
久村錦朗先生、伊野東尋先生らと結成。
昭和三十一年(1956)開都五百年の祝典。
大東京祭を契機に東京都俳句連盟を主軸として結成。
初代会長(十年)現在顧問。
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東京極楽会の会長として
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(満八十歳)

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 歩道
昭和六十一年(1986)十月 十日 印刷
昭和六十一年(1986)十月十七日 発行
頒 価 一五〇〇円
著 者 野村秋光子(本名 一正)
    131東京都墨田区東向島一ノ二ノ十二
    電話(六一一)五七五五
印刷所 (有)鋭文社
    123東京都足立区西新井栄町一ノ六ノ四
発行所 俳誌 せゝらぎ
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<続く>
《小松島庭園》庭園の中央には瓢箪池。
見晴台があり、こゝからの隅田川の眺望は実によかった。
【歩道】野村秋光子 著 昭和61年
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/46206146.html
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槐南の「墨水嬉春絶句」詩の八洲園は小松島の庭園【師と友 30(11)(345)】1978-11

【師と友 30(11)(345)】1978-11
著者    全国師友協会 [編]
出版者   全国師友協会
出版年月日 1978-11
p1【師と友 30(11)(345)】1978-11
〔画像〕p1【師と友 30(11)(345)】1978-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/1804463/1/1

国分青厓と明治大正昭和の漢詩界(二十四) 
  木下 彪
https://dl.ndl.go.jp/pid/1804463/1/22

次に槐南の「墨水嬉春絶句」の一を掲げて、
墨水に関する詩話を終ることゝする。
 横塘人散欲黄昏。
 深柳煙藏月一痕。
 好與擕壺登岸去。
 亂鴉啼繞八洲園。

 横塘人散ジテ黃昏ナラント欲ス。
 深柳煙ハ蔵ス月一痕。
 好(ヨ)シ与(トモ)ニ壺ヲ携ヘ岸ニ登リ去ラン。
 乱鴉啼キ繞ル八洲園。

私は少年の頃浅草を過ぎ、
吾妻橋の下から一銭蒸気に乗って、
川をゆっくり遡り、
言問、橋場、小松島を経て千住まで
行ったことを記憶してゐる。

詩の八洲園は小松島の庭園である。
此地は昔八島の郷といひ、
明治の初め小野某なる者、※小野義真
此の地を開拓して庭園を築き、
八洲園と称した。

芳塘を繞らし花木を植ゑ、
花時一般に公開した。

後、奥州の松島に擬して園を改修し小松島と称し、
一時向島の名所であった。

日は暮れ塘(つつみ)を行く人も無く、
煙れる柳に一痕の月影がかすんでゐる。
さて酒壺を携さへ、
小松島の渡し場から岸に上らうとすれば、
八洲園を繞って盛んに鴉が啼(な)いてゐる。

八洲園は幾度か主人を換へ、
大正の頃は全く荒廃してゐた。
聞けば今は鉄工場になってゐるとか。
世は走馬燈の如く移り変って行く、
隅田川の流れは万古に改まらぬであらうとも、
岸には工場が立ち並び、
水は汚染してどす黒く、
魚も棲みかねて都鳥は姿を消した。

もう昔の濹堤を偲ぶことは出来ない。
明治の面影はおろか、
大正から昭和の面影さえ、
既に震災に失はれ、
又戦火に滅び、
今は何一つ見出すことも出来ないのである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1804463/1/25
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八洲園ト申ス庭ヘ參リタリ。切符二錢。明治21年4月12日【榊田翁の上方見物日記】昭和9年

【榊田翁の上方見物日記】昭和9年
著者    榊田清兵衛 著
出版者   榊田翁記念会
出版年月日 昭和9
p2【榊田翁の上方見物日記】昭和9年
〔画像〕p2【榊田翁の上方見物日記】昭和9年

  榊田翁の上方見物日記
明治二十一年四月一日
大曲發シ角間川ヲ經
午後一時横手平源ヘ投宿。
道路ハ泥雪相半ス。
 一金 二錢  茶屋ヘ遣ス
 一金 二十錢 岩松雪車一個代遣ス
 一金 四十錢 ビール

▲四月十二日
午前七時 腕車ヲ以テ
向島ニ行キタル處
櫻花滿開咲キモ
殘ラス散リモ
不始ト云
好時機
殊ニ本朝ハ風ナク雨ナク又天氣ナラズ
秋田ヨリ花見ニ出掛ケタル亦
無益ニ非ラザリし。

長堤ヲ過ギ
八洲園ト申
庭ヘ參リタリ。
切符二錢。
同庭ハ芝ヲ植
處々ニ松ヲ以テ景ヲ取リ
中々大ナル沼アリ
鴨鷗浮沈セリ。
花屋ヲモ見物セリ。

見終リテ梅若神社を一見シタルニ
成嶋柳北川柳等ノ碑アリ。

其レヨリ南葛飾郡堀切村
武藏屋瀧藏ノ庭ヲ一見セリ。
同庭ハ花菖蒲ヲ以テ名アル處ナリト雖トモ
時候違ヒ故
一人ノ觀客ナシ。
昭和九年三月十五日 印刷
昭和九年三月二十日 發行 非賣品
編纂兼 榊田翁記念會
發行人 田口謙藏
    秋田縣大曲町
印刷人 佐藤欣一郎
    秋田縣大曲町
印刷所 株式會社 仙北印刷所
    秋田縣大曲町
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[小松島・八州園]明治11年上野・青森間鉄道会社社長小野義真が築いた別荘【下町の思い出】1988

【下町の思い出】1988
著者    杉村利一郎 著
出版者   杉村利一郎
出版年月日 1988.6
p3【下町の思い出】1988
〔画像〕p3【下町の思い出】1988
https://dl.ndl.go.jp/pid/13136281/1/3

 [小松島]
明治十一年上野・青森間鉄道会社社長
小野義真が築いた別荘で、
橋場から白鬚橋を渡ると右側一帯が、
隅田川に添って広い庭園があった。
庭園の築山は関八州が、
一望出来ると云われ八州園と称した。
仙台の松島の風景を模して池に島が造られ
「小松島」と称した。
明治三十年に廃園になった。

その年末にカブトビール株式会社が買収した。
子供の頃白鬚橋の上から眺めると、
小松島に紅白の幕を張って、
大勢の人が集っていたのを見たのは、
ビール会社が、招待でもしていたのかも知れない。

橋場・今戸通りにあった
当時有馬伯爵邸の前の右手の交番の隣り
小穴製作所(現日本電気精機の前身)が買収したと
「墨水流燈会之記」にあったが、
昔のことが判ってうれしかった。
併し現在は何もない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13136281/1/132

1911年(明治44年)淺草橋場に生れる
日本大学専門部経済科卒業
日本新水墨派展出品4回 授賞2回
著書 かっぱの回想

下町の思い出
発行日 昭和63年6月26日
著者・発行者 杉村利一郎
    東京都立川市西砂町2-7-7
    電話0425(31)2909
印刷所 (有)星友印刷
    東京都立川市柴崎町2-6-5
    電話0425(22)5821
https://dl.ndl.go.jp/pid/13136281/1/168
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【墨水流灯会之記】1987
著者    横田貢, 織田邦夫 編
出版者   言問
出版年月日 1987.8
 八洲園(原文中「墨堤名所案内」)
明治一一年、当時の上野・青森間鉄道会社社長
小野義真がしつらえた、別荘の別称。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13256331/1/96
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東京團體の春期親睦會を隅田川のほとり小松嶋の八洲園に開かれ:明治29年5月2日【継興医報 (29)】1896-05

【継興医報 (29)】1896-05
出版者   継興医報社
出版年月日 1896-05
p1【継興医報 (29)】1896-05
〔画像〕p1【継興医報 (29)】1896-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473219/1/1

   ◎小松嶋宴會の席にて  東京 喜多見深造
若葉さす小松の嶋にうちよりて
   めくりめくらす千代の盃

   ◎東京團體の宴會にて  東京 木村 龍淵
打よりてくめは心の花さくすたの
       堤は若葉させとも
   ◎五月二日東京團體の春期親睦會を隅田川のほとり
    小松嶋の八洲園に開かれけれは
    森田・曲直瀬の君たちは
    とくより來給ひて人を待間とて
    碁をそかこみける
    其碁を淺田ぬしの見て
    負し人には酒のませしといはれ
    なれは狂歌を
呑むのまぬさかひなりけり
  此圍碁はとにもかくにも
      けふは負るな
   ◎人々あまた集ひけれは
    酒をくみかはしつゝよめる
園はみな靑葉なれとも
  まといせし人こそ
  花の色になりけれ
   ◎同し園に少女子の數多遊ふを見て
花のなき園とないひそたはむれて
   遊ふ少女のかけそ見えける
   ◎同し園の池のほとりの藤の花を見て
p19【継興医報 (29)】1896-05
〔画像〕p19【継興医報 (29)】1896-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473219/1/19

松か枝にのみと思ひし藤の花
    夏にかりゝて咲匂ふか那
   ◎宴會はてゝかへる道すから
隅田川堤にしける葉櫻を見めくりかへる
      けふそ樂しき
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473219/1/20

◎東京團體は 本月二日
 向島小松遊園に於て定期總會を開かれ
 例により幹事の投票を行ひしに
 大多數を以て
 淺田恭悦・岡正吉の二氏再撰せられたり
 其より春期懇親會を開き
 酔の酣(たけなわ)なるに至るや
 歌を詠するあり
 碁を圍むあり
 何れも胸襟を開き
 話熟し耳熟し
 十二分の觀を盡して
 黄昏頃散會せられたるよし
 而て次回秋期懇親會の擔當者を置く方可然との動議出て
 滿場之を可とし乃ち次回懇親會の幹事は
 松島美實・飯田隆安
 二氏を指名し萬事一任することに確定したり
 本年は近年稀なる盛會にて
 會員諸氏も豫想の外なりしと云ふ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473219/1/22

明治廿九年五月廿三日印刷
明治廿九年五月廿七日發行
發行所    繼興醫報社
       京橋區大鋸町四番地
發行兼編輯人 西川八十八
       東京市牛込區原町一丁目六十三番地
印刷者    堀内誠次郎
       東京市芝區烏森町二番地
       堀内活版所 印行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1473219/1/28
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《小野義人=小野義眞:小野梓の義兄》小松島遊園【幕末明治女百話 前編】昭和7年

【幕末明治女百話 前編】昭和7年
著者    篠田鉱造 著
出版者   四条書房
出版年月日 昭和7
p3【幕末明治女百話 前編】昭和7年
〔画像〕p3【幕末明治女百話 前編】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1213568/1/3

  言問の有德梅鳥松
一時白髭手前に、
遊園の(小松島)といふのが開園され、
お花見の頃は、
座敷を貸し、庭園を開放し、
賑やかなものでしたが、
小野義人といふ人の企みでした。
義人さんは
小野梓さんの兄さんだといふことでした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1213568/1/144
昭和七年九月二十六日印刷
昭和七年十月 一 日發行
定 價 壹圓五拾錢
著作者 篠田鑛造
發行者 四條輝雄
    東京市神田區駿河臺袋町一六番地
印刷者 高田邦夫
    東京市神田區駿河臺袋町一六番地
發行社 四條書房
    東京市神田區駿河臺袋町一六番地
    電話神田(25)三八〇番
    振替東京一〇三八番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1213568/1/187
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小松島と呼ばれ浮世絵にもしばしば描かれた庭園が天女の園に見えた【浅草橋場・すみだ川】水野明善 著1986

【浅草橋場・すみだ川】1986
著者    水野明善 著
出版者   新日本出版社
出版年月日 1986.11
p3【浅草橋場・すみだ川】1986
〔画像〕p3【浅草橋場・すみだ川】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12539281/1/3

木母寺、梅若塚、水神の森は、
当時の私らにとって異国同様だった。
第一、白鬚橋を渡ってすぐ右にある
小松島と呼ばれ浮世絵にも
しばしば描かれた庭園が天女の園に見えた。

小松島を中心に、
いくつかの小島が浮き島のように
水の庭に浮かんでいた。

今はNECの子会社日本電気精機の工場になっている。
p27【浅草橋場・すみだ川】1986
〔画像〕p27【浅草橋場・すみだ川】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12539281/1/27
淺草橋場・すみだ川
1986年11月15日 初版 定価2500円
著 者 水野明善
発行者 松宮龍起
発行所 株式会社 新日本出版社
    郵便番号151
    東京都渋谷区本町1の8の7
    電話 東京(320)7111(代表)
    振替番号 東京3-13681
印 刷 亨有堂印刷
製 本 小泉製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12539281/1/170
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《八洲園》番町學校故友親睦會:明治20年4月17日【芳賀矢一文集】昭和12年

【芳賀矢一文集】昭和12年(1937)
著者    芳賀檀 編
出版者   富山房
出版年月日 1937
明治二十年(1887)
四月十七日 快晴 九時 林來る
共に八洲園に赴く
番町學校故友親睦會に臨まんが爲なり
十時 八洲園に至る
已に十人餘來集せり
互にむかしを語り樂しき事かぎりなし
十二時頃に至りて
柳谷、後藤、有馬等の演説あり
女子の方にては野村ひさ子が祝文あり
中々見事なり
已にして校長 丹所啓行氏來會せらる
氏職を敎育に奉ずること茲に十有餘年、
鬚眉漸く白し
其勞思ふ可し
此日女子も打ち交りて居りしかば
酒は飲まぬがよし
さりとて其にては祝の心ならずとて
ベルモツトを三本ばかり飲みしが
校長氏は更に數本のビール等を贈られたり
二時頃宴を終へ或は競争を試むるものあり
此日風あり
園裡落花紛霏景色尤も奇なり
已にして復た座にかへり
幹事を選擧し一年兩度開會に決す
幹事は柳谷、有馬、木村及び
神田くま千代、野村ひさ、齋藤ゆり、
の六人なり
六時散會せり
余は林と車に乘じて歸宅す
時に晩七時頃なり
此日男子の出席者は十六人あまりあり
女子は大凡十五人程なり
殊に可笑しきは相別れにし日には
十二三の乙女なりける人の
今は皆な人の母となりて
二人三人の小兒を携へ來るなど
よろづに付きて昔をしのぶ種となりぬ
四月十九日 晴
四月二十日 曇
p310【芳賀矢一文集】1937
〔画像〕p310【芳賀矢一文集】1937
https://dl.ndl.go.jp/pid/1882652/1/310
昭和十二年二月一日印刷 『芳賀矢一文集』
昭和十二年二月六日發行  定價參圓五拾錢
編纂者  芳賀  檀
發行所  合資會社 冨山房
     東京市神田區神保町一丁目三番地
右代表者 冨山房社長
     坂本嘉治馬
印刷者  白井赫太郎
     東京市神田區錦町三丁目十一番地
發行所  合資會社 冨山房
     東京市神田區神保町一丁目三番地
     振替東京五〇一番
     電話神田(25)二、一七一番
         (25)二、一七八番
     精興社印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/1882652/1/545
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小野義眞翁遺芳【富山房五十年】昭和11年(1936)

小野義眞翁遺芳【富山房五十年】昭和11年(1936)

【富山房五十年】昭和11年(1936)
著者    富山房 編
出版者   富山房
出版年月日 昭11
向島の別邸小松園は一萬坪餘りの大庭園で、
鹽釜の小松島に模したものと聞いてゐる。
いはゆる平庭式のもので、
池あり、丘あり、所々に小橋を架し、
池には水鳥の遊ぶあり、
殊に季節には鴨の群を成して集ると言ふ樣な
廣大豪華を極めたものであつた。

小野義眞翁遺芳
上は小野義眞翁に宛てた岩崎彌太郎氏の書翰
中は明治三十六年四月二十一日、同二十二日
  兩日の小野義眞翁の日記
下は小野義眞翁によつて創められた小野燒。
  俳句は翁の餘技 桃齋
p358【富山房五十年】昭和11年
〔画像〕p358【富山房五十年】昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1257473/1/358
昭和十一年三月 一日印刷 『冨山房五十年』
昭和十一年三月十五日發行  非賣品
編輯兼  合資會社 冨山房
發行者  東京市神田區神保町一丁目三番地
右代表者 坂本嘉治馬 冨山房社長
印刷者  白井赫太郎
     東京市神田區錦町三丁目十一番地
發行所  〔明治十九年三月設立〕
     合資會社 冨山房
     東京市神田區神保町一丁目三番地
     振替東京五〇一番
     電話神田(25)自二一七一番 至二一七八番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1257473/1/451
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