ノートルダム女学院

《鈴木庸輔》島津製作所社長:自在と爐【洛味 52】1956-02

【洛味 52】1956-02
出版者   洛味社
出版年月日 1956-02
 自在と爐 鈴木庸輔
 (カット 福田翠光)
 p26【洛味 52】1956-02
木曾路の入口に生まれた私は、
炉辺に深い愛着を感じて育つて来た。
今ガスストーブの赤い焔に暖をとりながら、
自在と炉のことについて
乞われるままに放談をするか。

今から二十数年前、
民芸品の収集愛好熱というのが
私達の仲間で盛んとなつて、
河井寛次郎君や岩井武俊君、
中村直勝先生などが
燒物、木工品、染物、織物等を
いろいろ集めては楽しんでいた。
天邪鬼なところのある私は
何か一つ諸君の集めていないものを集めようと、
ムラムラと謀叛気を起した。

どこえ行つてみても燒物、織物の類はあるけれど、
炉にかける「自在」は見受けなかつた。
ようし、これだと手当り次第集めまくつた。
郷里の木曾路のものから始めて、
北陸、飛騨方面へと手を伸した。

自在というのは、
いうまでもなく炉の上にかけて
物を煮たきする家庭用品の一種だから、
主に寒い地方のものだろうという想像をして、
旅行のたびごとに二つ、三つと持ち帰つていた。
ところが案外にも鹿児島、琉球あたりでも
立派な自在にお目にかかつて
ちょつと驚いたものだ。

北陸から東北地方にかけて、
自在に使われている金物は、
例外なしに立派な鉄で出来ているが、
海を渡つて北海道に行くと、
それが真鍮になつている。
恐らく北海道に移民がどんどん行われて、
あとにニシン大盡なんていうのが、
そんな派手好みをしたためだろうかと思つた。
素朴でゆかしい生活感情の現れが、
深くこの自在に残つているのだと考えていたのに、
真鍮のピカピカと磨きのかかつたのに出会つて
失望してしまつた。
このような私の自在探しの行脚は、
ほとんど全国にまたがつたので、
その数も百数十本以上にはなつたろうか。

あちこちに出歩き、
どうやら収集の形が整つて来ると、
今度は少し自在を研究してみようと、
いろんな文献を漁つて見た。
しかし、家庭の炊事用具の中で
大事なものだということは、
よほど古くからいわれているものらしいが、
これが拠り所のある文献となると、
とうとう一つも見当らず仕舞だつた。
一体いつ頃からわれわれ日本人が
自在を使い始めたのかということも、
古いものだろうという以外、
とんとハツキリしない。
自在という用語についても全く同じで、
いつ頃から、誰が、
どういう意味で用いたものかもわからないが、
この自在という言葉は、
誰が耳にしても感じがいい。

「じざい」は
観自在菩薩というところから出たのか、
あるいは千鈞の目方をかけても
絶対に下にさがらないし、
留を少しゆるめれば上げ下げに何の抵抗もなく、
上下自由自在というところから
つけられたのかもしれない。
ともかくこのように摩擦の原理を利用して巧妙な機械を、
よくもまあ、われわれの祖先は作つたものだと
一人興味を持つていた。

私の集めたものの中では、
北陸、飛騨あたりのものが
全国で最も美しく使用されており、
立派なものも多い。
なぜだろうかと、
その地方の人情、風習等を調べてみると、
どうやら信仰にその原因があるようだ。
この地方は真宗の熱心な信者の住む地方で、
朝炉に火を入れお湯を沸して、
仏様にお茶を供えるという風習が
今もなお続いている。
その炉に火を入れるとき
自在を清めるために濡れ雑巾で、
すつかり昨日のよごれを拭い去る。

このことが、
前日に下から燃え上つたすすを
少しづつであるけれど、
竹の肌に拭き込んで行くことになつて、
竹に非常に落着のある光沢を添えるのだ。
手の届く限りは竹の節なども
すつかり磨りへつて、
するするしているのを折々見付けた。
これを茶人たちが好んで使つているが、
もとをただせば、
ただのお台所用品というわけである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3565673/1/26
火を大切にする古来の民族意識の上に、
信仰の面からの火を神聖視するというのが、
一緒になつて自在を美しくしているのであろう。

付属品に留(とめ)があるが、
留は多くは魚の恰好を木で造つてあるもの、
水という文字を形どつたもの、
水の中へ魚が頭を突込んだもの、
また菊水など種類は多いが、
どれもこれも魚とか水とかに関係している。
火の上にかけるものだから
過ちがあつてはならぬというので、
水のデザインを施したものと思われるが、
土藏の端壁に水という字が書いてあるのと
同じ意味合からであろうか。
しかし想像をたくましくすれば、
こんなことも考えられると思う。

自在を発明した当時の人々は、
恐らく野外で火を焚き
獲物をあぶつて食べるという
原始生活を営んでいたのだろう。

その獲物の中の代表的な魚を火の上にぶら下げて
燒くという生活樣式の名残かもしれないと。
多くの自在では留に使われている魚の恰好は
泳いでいるのが大部分だが、
中には魚を横にころがしているもの、
すなわち魚の首とシツポのつけ根とを
繩の両端で結んで釣つてあるのを見受けるが、
これなど昔、
火の上に魚をあぶつて食べた風習の遺物かも知れない。

最近までこの自在を発明した日本民族はさすがだと、
いささか誇りにしていた。
終戦後進駐軍の人々が私の家に遊びに来たときなど
自在を見せては物理的に摩擦の説明まで付け加えて、
祖先のすばらしさを彼等に自慢したころが度々あつた、

ところが昭和二十二年の夏に
中国に出征していた次男が、
※鈴木義輔(大正八年生)
偶然無事に帰つて来た。
彼は雲南のあたりまで行つていたらしい。
帰還の挨拶の第一声がなんと、
「自在なんて、駄目だよ」という。
なぜだと反問すると、
雲南地方に使われているのと、
かねがね私の集め歩いた自在とは、
全く構造も同じだという。

それどころか、
どうもゆつくり聞いてみると、
どうやらあつちのほうが本場らしい。
啞然として、
それ以後はわれらの祖先の発明品などと
一切言わぬことにした。
全く恥入つてしまつた。

もう一つ忰の話によると、
中国の奥地には日本と同じように炉があつて、
自在をかけ煮たきに使つてゐるが、
その炉が日本のとは少々違う。
われわれが炉というと長方形のものか
正方形を思い浮かべるが、
雲南地方では六角、八角の炉があるそうだ。
もつとも多角形になれば四角の炉よりも
周囲にたくさんの人が集るのに都合がいい。
日本人はなぜ考えが及ばなかつたんだろうと
河井君に話すと、
負けず嫌いの同君は、
「じや私や、円形のを作りましよう」
といつたが、
未だに見せてもらつていない。

しかし聞いてみると
茶人の間では丸炉と称して
丸い炉が使われているという。
勝手許までは進出しなかつたと見える。
まあ、いずれにしろ人が炉辺に集つて
自在を使用する風習は、
どうやら日本独特のものではないらしく、
大陸から伝来して来たものかと思うと、
たつた一つの自慢の種を失つてしまつた恰好で、
今更乍ら日本文化の底の浅いのに
さびしさを覚える。
(島津製作社長)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3565673/1/27
洛味 第五十二集・百円
昭和三十一年二月十一日発行
編集発行人 宮崎小次郎
印刷人   上田 隆之
発行所   洛味社
      京都市左京区北白川久保田町一
https://dl.ndl.go.jp/pid/3565673/1/69
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年06月15日04:00
《鈴木庸輔》島津製作所 取締役社長【日本会社史総覧】昭和29年
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シスター・メリー・キャサリン(皆福芳江) ノートルダム女学院中・高校長【京都年鑑 1972年】昭和47年

シスター・メリー・キャサリン(皆福芳江)
 ノートルダム女学院中・高校長
【京都年鑑 1972年】昭和47年

【京都年鑑 1972年】昭和47年
出版者   夕刊京都新聞社
出版年月日 1971
 p1【京都年鑑 1972年】昭和47年
〔画像〕p1【京都年鑑 1972年】昭和47年
https://dl.ndl.go.jp/pid/9568909/1/1
シスター・メリー・キャサリン(皆福芳江)
昭和6年(1931)2月28日生 東京都
職 ノートルダム女学院中・高校長
住 左京区鹿ケ谷桜谷町
  ノートルダム修道院内 〒606
歴 上智大学
  ノートルダム学院小学校校長
趣 読書
 p297【京都年鑑 1972年】昭和47年
〔画像〕p297【京都年鑑 1972年】昭和47年
https://dl.ndl.go.jp/pid/9568909/1/297
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日 12:23
小野文子:ノートルダム女学院・副舎監
小野文子 大正10年(1921)6月5日 生
母    昭和51年(1976)5月16日 歿 55歳
昭和49年(1974)頃
 2-小野文子:ノートルダム女学院・副舎監
〔画像〕2-小野文子:ノートルダム女学院・副舎監
右から
小野文子(母)
シスター・メリー・キャサリン
シスター・ナタリ
シスター・ジュディス
シスター・メリー・ドロレス
鴛渕??

シスター・メリー・ドロレス
(当時 ノートルダム修道院 院長)
石崎保子 2000年(平成12年)12月18日 帰天
シスター・メリー・キャサリン
(当時 ノートルダム女学院中・高校長)
皆福芳江 2001年(平成13年)1月31日 帰天
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◇第8回ラグビー日本選手権大会
(46・1・15 東京)
学生チャンピオン・早稲田大学と
実業団1位の新日鉄釜石の間で、
ラグビー日本一を争った。
バックスが走り勝った
早稲田大学が後半になって
ペースに乗り30対16と快勝。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9568909/1/84
京都年鑑 1972年版(昭和47年)
©1971  定価2,000円
昭和46年10月25日印刷
昭和46年11月1日発行
編集兼発行人 矢野彌三郎
発行所    株式会社 夕刊京都新聞社
       京都市中京区烏丸通二条上ル
       電話(075)231-1101(代)
       振替口座京都25916
印刷所    株式会社 石田大成社印刷所
https://dl.ndl.go.jp/pid/9568909/1/388
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日 10:47
小野又一 納骨 昭和47年(1972) 衣笠墓苑
小野又一 大正5年(1916)7月11日 生
父    昭和47年(1972)1月31日 歿 56歳
シスター・メリー・キャサリン
(当時 ノートルダム女学院中・高校長)
皆福芳江 2001年(平成13年)1月31日 帰天
【写真】
前列 右 シスター・ジュディス
後列 右から
   シスター・ヴァージニア?
   シスター・???
   シスター・メリー・キャサリン
(当時 ノートルダム女学院中・高校長)
   シスター・カーラ
   小野文子(母)
   西村四郎
   神父
   小野雄二(弟)
   小野一雄
   松村正子(伯母)
   シスター・クラリア
   シスター・マリス・ステラ
中列 小川清久(小野文子の弟)
ノートルダム女学院の生徒達
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足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)【道標八十年】昭和42年

【道標八十年】1967(昭和42年)
著者    村上謙次郎 著 [他]
出版者   村上謙次郎
出版年月日 1967

  喜寿を祝して
昭和三十七年十月十三日は、
私の喜寿の日であるが、
芝蘭会香川本部では、
一ケ月おくれの十一月十三日の夜、
高松市内第一生命ビル内の交蘭クラブで、
喜寿祝賀会を開かれた、
集まった会員約四十名が、
たのしく、なごやかにすごしたが、
会員からあった述懐、
追慕のかずかずの言葉は、
なつかしい思い出を残した。
この稿は昭和三十八年一月発行の
芝蘭会香川支部会報の記念号に集録された
当夜の談話を要約再録したものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/31

足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
 私ごとを申し上げて、
はなはだ失礼なんでございますが、
私、実は長く捕虜になっておったものですから、
  ※捕虜:昭和20年8月~昭和28年8月

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  『追悼 故 足立道五郎先生 ご略歴』
  [左京医報2011年12月号(548号)]
  昭和15年 旧陸軍軍医(満州)~20年8月
  昭和28年 京大病院外科副手助手~ 31年1月
  昭和31年 香川県 高松赤十字病院外科部長
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
  叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
  昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ
  同船の団長:足立道五郎先生
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  【満州引揚】《小川清久》
  [高砂丸帰還者名簿]舞鶴入港 昭和28年8月11日

芝蘭会の支部に属したというのは、
この高松が初めてでございまして、
芝蘭会に関係した何事かありますと、
すぐに村上先生のところへ持ち込みまして、
無理難題を申し上げるんですが、
いつもスラスラと解決していただけますし、
また先生ご自身にご厄介を非常にかけております。
先生は、私のずっと前に、
日赤におきまして外科の医長もされておられますので、
直接手をとって、
ご指導はいただかなかったんでございますけれども、
ほんとうに道士と申しますか、
ほんとうの人生の先生だというふうに
感じておる次第でございます。
今後も何とぞよろしく
御指導のほどをお願いいたします。
先生のご健康を心からお祈りいたします。
 足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
〔画像〕足立道五郎先生(日赤高松病院外科部長)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/34

村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
 村上博士喜寿祝賀会に出席の医師会員
※前列 左から三人目 足立道五郎先生
 撮影:昭和37年(1962)11月13日(火)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/44
道標八十年 (非賣品)
昭和四十二年九月二十日発行
発行者 村上謙次郎
    高松市幸町七六ノ四
編集者 後藤 通久
印刷者 香川印刷株式会社
    杉山 桂三
    高松市鍛冶屋町
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984672/1/216
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【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
著者    帝都教育会 編
出版者   帝都教育会
出版年月日 昭14
 參列者名簿   p243/393
京都帝國大學   p244/393
配屬將校
 歩兵大尉 櫻井 忠記
 引卒者  長崎 太郎
  〃   豐田 多八
 學 生  島  義之
      木村  博
      淺田  茂
        ―略―
      足立道五郎
        ―略―
p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
〔画像〕p244【御親閲拝受記念写真帖】昭和14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1685252/1/244
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【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
著者    医学公論社 編
出版者   医学公論社
出版年月日 昭和32年
◇高松赤十字病院   p393/643
足立道五郎 外科医長
兵庫県出身 大5.10.31生
昭和15年京大卒 登録番号94304号
昭和31年1月現職
p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
〔画像〕p393【日本医籍録 第25版(昭和32年)西日本版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/8798105/1/393
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《鈴木庸輔》島津製作所 取締役社長【日本会社史総覧】昭和29年

《鈴木庸輔》島津製作所 取締役社長【日本会社史総覧】昭和29年

【日本会社史総覧】昭和29年(1954)
株式會社 島津製作所  p443/991
〔設 立〕大正六年九月一日
〔本 社〕京都市中京區河原町二條南
     電話上局(六八八〇)
〔資本金〕六億圓
〔事 業〕略
〔支店・營業所・工場〕略
〔役 員〕
社 長 鈴木 庸輔
常 務 島田  秀
〃   菅井 龍馬
〃   三浦 隆治
取締役 上西 亮二
〃   島津 新一
〃   島津 一郎
〃   奥田謙次郎
〃   藤本 慶治
取締役 高嶺 朝慶
〃   吉田 正直
〃   三代 敏夫
〃   松浦 彌平
〃   島津 良藏
監査役 山川 英藏
〃   村上  恒
〃   平塚源三郎
〔社 史〕
 島津製作所【日本会社史総覧】昭和29年
〔鈴木社長略歷〕 p444/991
明治二十年七月三日生。
明治四十三年 東京高等商業學校卒業。
明治四十四年 入社、歐米歷訪、
大正六年   當社本店支配人、
大正十三年  當社常務取締役、
昭和二十年  當社取締役社長就任。
 〔鈴木社長略歷〕
日本會社史總覽  定価金五千円
昭和二十九年八月二十五日印刷
昭和二十九年九月 五 日發行
編集兼發行人 下村 亮一
印刷所    株式會社 佐藤印刷所
       東京都中央區築地二ノ三
       電話 築地三三九六
發行所    株式会社 經濟往來社
       東京都中央區京橋三ノ十一
       電話 京橋五〇四八・六三八六
       振替一二九五二一
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

【東京高等商業学校一覧. 明治44-45年】
明治四十三年卒業(二百四十六人) p102/173
島津製作所  鈴木庸輔 岐阜
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年09月28日
[(株)島津製作所]【日本全国銀行会社録. 第46回(昭和13年)】
社   長 島津 源藏
常務取締役 島津 源吉
      島津常三郎
      鈴木 庸輔
取 締 役 藤井 善助
      内貴淸兵衛
      松浦 彌平
監 査 役 稻畑勝太郎
      河崎助太郎
      平和長之助

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月20日
鈴木信輔氏:[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
謹んで今は亡き親友小野又一君の御霊に捧げます。
特に近年鈴木信輔氏の主宰する事業の協力者としての情熱は
君をして京都大学の田中教授の門をたたかせ、
その専門外とも云うべき電気材料の研究に没頭されました。
 わが愛する父(鈴木義輔)/
 父にささぐ(鈴木悦子)/
 ある日曜日(鈴木信輔)/
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衣笠墓苑 法面崩落(写真3枚)令和3年(2021)8月11日

衣笠墓苑 法面崩落(写真3枚)令和3年(2021)8月11日

mail 2021/08/13(金)11:33
一昨日(令和3年(2021)8月11日)、
墓参に行ってきました。
奥の方が、こんなになっていました。
法面崩落です。
               小野雄二

1-小野家の墓
〔画像)1-小野家の墓

2-モルガンお雪の墓
〔画像)2-モルガンお雪の墓

3-法面崩落
〔画像)3-法面崩落
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日
小野又一 納骨 昭和47年(1972) 衣笠墓苑
〔写真4葉)昭和47年(1972)当時の法面
小野又一 大正5年(1916)7月11日 生
父    昭和47年(1972)1月31日 歿 56歳
シスター・メリーキャサリン
(当時 ノートルダム女学院中・高校長)
皆福芳江 2001年(平成13年)1月31日 帰天
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日
[墓参り 衣笠墓苑]
昨日(平成24年(2012)3月15日)、
墓参りに行きました。
テレジア ユキ モルガン(墓)
1881年(明治14年)11月7日生
1904年(明治37年)ジョージデニソン
           モルガンと結婚
1963年(昭和38年)5月18日帰天
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[墓参り 衣笠墓苑]令和2年(2020)3月23日(月)

[墓参り 衣笠墓苑]令和2年(2020)3月23日(月)

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医療法人清仁会
シミズ病院 麻酔科
令和2年(2020)3月23日(月) 10時
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年03月25日 06:00 ◆病院 シミズ病院グループ
《シミズ病院 麻酔科 奥野隆司 部長・医局長》
[シミズの風]2018.03.01Vol.66 2017.05.01Vol.56
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月17日 09:36 ◆小野又一 ノートルダム女学院
[墓参り 衣笠墓苑]
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大原儀作教授 略歴(東北大学記念資料室)・田中哲郎(京都大学教授)・小野又一(一雄・雄二の父)

大原儀作教授 略歴(東北大学記念資料室)・
田中哲郎(京都大学教授)・
小野又一(一雄・雄二の父)

 大原儀作教授20200131
※左から
田中哲郎(京都大学教授)・大原儀作教授・小野又一(一雄・雄二の父)
 大原・田中教授-1

 大原・田中教授-2

 大原・田中教授-3

 大原・田中教授-4

東北大学機関リポジトリ 著作目録(大原儀作) p1/19
著者  東北大学史料館
号   28   発行年 1968-03

 大原儀作教授著作目録 昭和43年3月      p2/19
 東北大学記念資料室
大原儀作教授 略歴              p3/19
明治37年(1904) 4月7日生
昭和 2年(1927) 3月  東京物理学校 理科学部卒業
昭和 2年(1927)11月  浦和高等学校 助教授
昭和14年(1939) 3月  仙台高等工業学校 助教授
昭和17年(1942) 5月  仙台高等工業学校 教 授
昭和19年(1944) 4月  仙台工業専門学校 教 授
昭和23年(1948) 9月  東北大学 助教授 電気通信研究所
昭和24年(1949)11月  工学博士
昭和30年(1955)12月  東北大学 教 授 電気通信研究所
昭和43年(1968) 3月  停年退官
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【東京物理学校一覧. 昭和11年度】
第七十六回 昭和二年三月卒業 p64/97
理科學科  大原儀作 新潟
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[同窓会便り]発行:東北大学・電気・通信・電子・情報同窓会
 昭和60年(1985)2月6日発行
《大原儀作先生を偲んで》坂田好一郎(昭和32年電通修士卒)
 大原儀作先生には昭和五十九年(1984)九月二十二日
脳梗塞のため大宮中央病院で逝去されました。
 ―略―

第3章 快適な社会を支える圧電デバイス
2007年3月4日(加筆)池田宏明
2007年2月18日 日本電波工業(株) 竹内敏晃
3 人口水晶の開発 ―人口水晶の工業化②― p20/47
戦後;日本の人工水晶育成研究では,
東北大学の大原儀作教授が初めて成功した。 
その人工水晶はクッキー程度の大きさの物であった。
日本での人工水晶の工業化においては,
添加不純物の研究に時間が掛かり,
育成成功から工業化成功まで数年を要した。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月20日 09:08 ◆小野又一 ノートルダム女学院
田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
※君をして京都大学の田中教授の門をたたかせ、
左から
田中哲郎(京都大学教授)
大原儀作(東北大学教授)
小野又一(父)
 大原・田中教授-1

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年01月16日 09:51 ◆小野又一 ノートルダム女学院
《田中哲郎》[小野又一][陶磁器試験所]京都市伏見區深草正覺町
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小野又一〔歿後48年〕衣笠霊園:小野雄二より

小野又一〔歿後48年〕衣笠霊園:小野雄二より

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撮影:小野雄二 令和2年(2020)1月31日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年01月31日 05:37 ◆小野又一 ノートルダム女学院
[小野又一先生と御家族のみなさまに…]
ノートルダム女学院シスターメリーキャサリン
昭和47年(1972)1月31日
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[(株)島津製作所]【日本全国銀行会社録. 第46回(昭和13年)】

[(株)島津製作所]【日本全国銀行会社録. 第46回(昭和13年)】

【日本全国銀行会社録. 第46回(昭和13年)】
[(株)島津製作所] p393/1321
京都市中京區河原町二條南
設 立   大正六年九月
資本金   壹千貮百萬圓
一 株   五拾萬圓
拂込高   六百萬圓
決 算   第四十一期 昭和十二年十一月
      資産ノ部
       ―略―
      負債ノ部
       ―略―
      當期利益金處分
       ―略―
社   長 島津 源藏
常務取締役 島津 源吉
      島津常三郎
      鈴木 庸輔
取 締 役 藤井 善助
      内貴淸兵衛
      松浦 彌平
監 査 役 稻畑勝太郎
      河崎助太郎
      平和長之助
大株主氏名及持株數
            舊 株     新 株
島津 源藏      五、二〇〇   八、九〇〇
島津 源吉      五、一七〇   八、八七〇
島津常三郎      三、六〇〇   七、三〇〇
三菱重工業株式會社      ―  一〇、〇〇〇
島津 新一      三、〇六〇   三、〇六〇
島津 良藏      三、四〇〇   二、六八〇
◇東京支店  神田區錦町一丁目
◇福岡支店  福岡市上小山町
◇大阪支店  西區阿波堀通一丁目
◇大連出張所 大連市若狭町
◇京城出張所 京城府南大門通二丁目
◇臺北出張所 臺北市本町三丁目
◇工   場 中京區三條通西大路西
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[小野又一先生と御家族のみなさまに…]ノートルダム女学院シスターメリーキャサリン昭和47年1月31日

[小野又一先生と御家族のみなさまに…]
ノートルダム女学院 シスターメリーキャサリン
昭和47年(1972)1月31日

ヨゼフ
 小野又一先生と御家族のみなさまに
         お捧げします.
「もし一粒の麦が地に落ちて死なないなら
 たゞ一つのまま残る. しかし死ねば多くの
 実を結ぶ.」 ヨハネ十二章二十三節

 昭和四十七年一月三十一日
   ノートルダム女学院
     シスターメリーキャサリン

   口 語 訳
  旧 約 新 約
 聖       書
  ドン・ボスコ社
1-シスターメリーキャサリン
〔画像〕シスターメリーキャサリン

1964年10月24日 初版発行
1968年10月24日 4版発行
 訳 者 バルバローデル・コル
 発行者 ドン・ボスコ社
      代表者 D・ホルツナ
 印刷所 東京都千代田区内神田1-12-5
     株式会社 三秀舎
 発行所 東京都新宿区若葉町1-22
     ドン・ボスコ社
      電話351-7041
      振替 東京35271
      郵便番号160
 乱丁・落丁本はおとりかえいたします  駒崎製本
2-聖書 奥付
〔画像〕聖書 奥付
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  告別式 ミサ次第
入祭の儀  聖歌 443番「往にけるその霊」
      あわれみの賛歌
      集会祈願
ことばの儀
      書簡の朗読 テサロニケ人への前の手紙
              4章13、14、18
  (弔辞)友人代表  京都大学教授 椹木義一氏
      祈 願   詩編 103
      福音の朗読 マテオ 福音書25章31~46
      共同祈願
感謝の儀
      奉納 聖歌 442番「やさしきみ母」
      感謝の賛歌
交わりの儀
      主の祈り
      平和の賛歌
      聖体拝領
告別の儀
      祈願
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       弔電の御披露
       遺族御挨拶
       献 花
3-告別式 ミサ次第
〔画像〕告別式 ミサ次第
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2012年03月20日 08:22 ◆小野又一 ノートルダム女学院
[清流]第24号《小野先生を偲ぶ》
『シスターメリーキャサリン』p4
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176742.html

2012年03月20日 08:16 ◆小野又一 ノートルダム女学院
[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3

2012年03月19日 13:05 ◆小野又一 ノートルダム女学院
[NOTRE DAME TIMES]《小野先生を偲んで》
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