満州飛行機製造株式会社

河合敦夫・森本兵太郎・長井孝太郎・田賀喜一・中島穆:旧制 大阪高等学校【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972

【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
出版者   旧制大阪高等学校同窓会
出版年月日 1972
p1【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p1【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/1

 第9回 昭和5年~昭和8年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/79
 9理甲  河合敦夫
p83【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p83【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/83

 第10回 昭和6年~昭和9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/87
 10理甲  森本兵太郎
p91【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p91【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/91

 第11回 昭和7年~昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/95
 11理甲  長井孝太郎
p99【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p99【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/99

 第12回 昭和8年~昭和11年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/103
 12理甲  田賀喜一
p107【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p107【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/107

 12理乙  中島 穆
p108【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
〔画像〕p108【紅顔五千:ローレルの葉蔭に】1972
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/108
   恩師名簿
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/261
 大高同窓会名簿
https://dl.ndl.go.jp/pid/12110162/1/263
   昭和47年4月29日
発行 旧制 大阪高等学校同窓会
   会長 熊野啓五郎
   大阪市浪速区新川2丁目698 葵ビル9階
   ローレルクラブ内 TEL06-641-4454
印刷 ダイコロ株式会社
   大阪市北区空心町1-72
   TEL(06)352-0371(代)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年06月25日14:19
《中島 穆》[東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業]
《中島 穆》 大阪府立 高津中学校 卒業
       大阪高等学校 昭和 8年4月 入学
       大阪高等学校 昭和11年3月 卒業
       東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和11年4月入学
       東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業
       満洲飛行機製造株式会社 昭和20年当時
                  南機械製作処 製作部
                  第一工場  中島 穆
       平成21年(2009)4月~平成22年(2010)3月 歿
       ※正確な歿年月日は不明。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年04月13日05:10
《田賀喜一》《長井孝太郎》《河合敦夫》《森本兵太郎》
[汽車製造株式会社]【東洋経済会社人事録 1963年版】昭和38年
《田賀喜一》
ボイラ化工機
研究部長
大正5年生 大阪
昭和14年京大
昭和14年入社
豊中市桜塚下原 府営住宅252
《長井孝太郎》
東京製作所
製作部長
大正3年生 大阪
昭和14年京大
昭和22年入社
東京都世田谷区経堂町480
《森本兵太郎》
東京製作所
設計部長
大正2年生 東京
昭和13年東大
昭和13年入社
船橋市前原町二の301-5
《河合敦夫》
大阪製作所
製造管理部長
明治44年生 大阪
昭和13年京大 昭和13年入社
茨木市大字上中条77-5

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年04月13日08:45
《田賀喜一》【大高:それ青春の三春秋】昭和42年(1967)
田賀喜一(12理甲・汽車製造大阪製作所技師長)
田賀 船場生まれで家は呉服屋。
   これが裏書なしの手形を出して失敗したので、
   長男には学問をということで大高へ入った。
   戦時中にはジェットエンジンの設計にタッチ。
   最近ではパナマ運河向け電気機関車をつくった。
   汽車会社には大高同窓の取締役副所長が3人いる。
   9回理甲の河合敦夫氏(大阪製作所)、
   10回理甲の森本兵太郎氏、
   11回理甲の長井孝太郎氏(何れも東京製作所)で、
   さきのパナマ向け電関は森本氏の設計である。
【京都帝国大学一覧 昭和14年度】
〇卒業生姓名 p216/322
 工學部 機械工學科
昭和十三年三月学士試驗合格
河合 敦夫  大阪
昭和十四年三月学士試驗合格
小野 又一  高知
小野榮一郎  岡山
椹木 義一  京都
田賀 喜一  大阪
長井孝太郎  大阪
【東京帝国大学一覧 昭和13年度】
〇卒業生姓名
工學部 機械工學科
昭和十三年三月卒業
森本兵太郎 大阪
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《灘波清一》満州飛行機製造(株)設計部試作課長:昭和19年【稲門紳士録】1980

【稲門紳士録】1980
著者    稲門紳士録刊行会 編纂
出版者   稲門紳士録刊行会
出版年月日 1980.10
p3【稲門紳士録】1980
〔画像〕p3【稲門紳士録】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/3

《灘波清一》
 日本工機株式会社 代表取締役専務
 昭和14年理工学部機械工学科卒
 大正3年12月12日生
 香川県高松市出身
勤務先 東京都港区西新橋2-36-1
    電話03-436-1221
現住所 神奈川県藤沢市片瀬山1-14-13
    電話0466-26-6969
昭和14年・満州飛行機製造株式会社入社
昭和19年・同社設計部試作課長
昭和20年・同社退社
昭和21年・早稲田大学理工学研究所所員
昭和25年・第一物産株式会社入社
昭和33年・三井物産に社名変更
昭和38年・同社ロンドン支店長代理
昭和40年・同社ドイツ物産有限会社副支配人
昭和46年・三井物産航空機部役員待遇参与
昭和47年・日本工機株式会社取締役に就任
      現在に至る
特 体育会山岳部出身、稲門体育会代表委員、
  稲門山岳会幹事長
家 妻 富美子 大正7年生
p270【稲門紳士録】1980
〔画像〕p270【稲門紳士録】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/270
稲門紳士録 定価金参万八千円
昭和五十五年十月 十一日 印刷
昭和五十五年十月二十一日 発行
編纂者 稲門紳士録刊行会
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
発行者 稲門紳士録刊行会
    船津庄次郎
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
印刷所 倉敷印刷株式会社
    東京都千代田区飯田橋3-4-6
発行所 稲門紳士録刊行会
    東京都千代田区神田小川町3-20(越後屋ビル)
    電話03-291-3251番(代表)
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花園会会長 村田篤彦[機体の富永五郎、発動機の江沼孝太郎、設計の林 元、の三羽烏]【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)

【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
出版者   おおとり
出版年月日 1988.10
旧満州飛行機製造(株)(昭和40年7月24日)
市ヶ谷私学会館にて
p8【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p8【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/8

   花園会会長 四十年
       村田篤彦
昭和二十年八月十五日、
富永五郎氏はハルピン市にあった
満洲飛行機製造株式会社
北製作処の副処長の職にあった。

八月九日、
不可侵条約を破って満州に侵入してきたソ連軍は
八月十二日にはハルピン市内に姿を見せはじめていた。

頼みの関東軍は、
将校とその家族は一夜の内に移動して、
飛行場には満飛の社員だけが残された。

軍の命令により書類の焼却と、
機械工具の破損は終えたが、
従業員の不安はたかまるばかりであった。

従業員は飛行機材料の
ジュラルミンパイプを削って槍をつくったり、
手榴弾を二個、
腰にぶらさげて対戦車用と自爆用に備えたりもした。
軍からの指令だった。

富永さんの緊張は続いた。

富永さんは、
大日本航空輸送株式会社から
満洲航空株式会社に出向され、
昭和十三年、
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/131
満洲航空の航空工廠を中心として、

満航航空工廠技術部員(昭和11年)
奉天市内中華料理店にて、中央 富永氏、
p6【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p6【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/6

満洲飛行機製造株式会社が設立されるや、
その設立に参加、
「キ-七九」「キ-二七」などの生産に大活躍、
機体の富永五郎、
発動機の江沼孝太郎、
設計の林 元、
の三羽烏と呼ばれた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/132
富永五郎氏追悼録
発 行 昭和63年10月2日
発行者 野田親則、平沢秀雄、山田 晋、十時 覚、
    松尾芳郎、宮崎 勇、茂呂 豊。
編集・発行所 (株)おおとり 小寺正義
    東京都港区芝2~6~15
    TEL 03-798-2687
    ファックス 03-778-2788
印刷所 (株)ふそう美術印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/159
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[満飛と日航]野田親則・中嶋穆・小野又一・中島桂太郎・灘波清一【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)

【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
出版者   おおとり
出版年月日 1988.10
満飛幹部(昭和一四)満飛本館前にて、
右端 富永氏
p7【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
〔画像〕p7【富永五郎氏追悼録】昭和63年(1988)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/7

  満飛と日航  p96-104/164
   野田親則
富永さんとの御縁は昭和十四年頃に始まる。
現在まで約五十年の永い間お世話になった。

永いだけでなく私が社会人になりたての、
満洲飛行機と、
現在の日本航空とに入社するときに
特別の御厄介になった。
そして、私の社会人生活約五十年のうち、
三十年の間、
富永さんと職場を共にさせていただいた。

大学は私共の期まで僅か九人の定員が続いていて、
航空学科の卒業生の就職には全く問題がなかった。
何時でも希望の所に就職できると思っていた。
二年生の頃から、
会社の先輩から勧誘があり、
卒業近くなると、
母校に残る気はないかとの恩師のお話もいただいた。

ところが卒業が迫ってきたときに、
突然技術系学生の就職統制の制度が施行されて、
就職事情が一変した。
それまで漫然と、
自宅が東京に在ったから立川飛行機にでも入ろうか、
と考えていたものが御破産となった。
われわれ学生の希望と、
採用側に割当てられた採用枠とを整合する必要が起こった。

割当は、政府の方針上の優先度と、
採用者が過去に獲得している
技術系学卒者の人数をもとに、
必要個所に新卒者が合理的に分布するように
決められたとのことだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/96

  満飛入社
富永さんにはじめてお目にかかったのは、
このような情況のもとであった。
富永さんは卒業後十年、
満洲航空から満洲飛行機が分離独立して、
そちらに移られて間もない頃のことであった。

会社の将来のこと、
奉天での生活の模様などいろいろ説明をいただいた。
国策の最前線にあって、
前途に明るい希望を懐いて、
満洲の新天地に根をおろして、
存分に活躍しておられる様子がよくわかった。

一度は芝公園近辺の料亭で御馳走にあずかったことがある。
料理のメニューのほかに、
食器のメニューが出るという、
貧乏学生の私にとっては夢のような高級な所だった。

富永さんは当時中島の飛行機を、
満洲飛行機で転換生産する関係の仕事のために、
時々内地と往復しておられる模様だった。

満飛は三菱、中島、立川、昭和、愛知などと同様に
一人分の採用枠を与えられていた。
同級の中嶋穆君がそれによって、
満飛に入社することとなった。

官庁、大学、陸軍などの採用枠は余っていたが、
それらはボイコットした。

就職統制が気に喰わない私は、
所詮ごまめの歯ぎしりに過ぎないけれども、
いささか反抗の心情で、
満飛を志願した。
採用枠がないのは承知の上で、
無理な願いである。
富永さんは、
関東軍の力添いで採用枠は何とかなるだろうが、
時間がかかるから、
それまで待機するように云われた。

卒業してから、
採用通知を待つ生活は、
楽なものではなかった。
学校にも勤めにも行かず、
ぶらぶらと時間をつぶすのに苦しみ、
例えようのない虚脱感に苛まれる日々であった。
幸なことに東大航空研究所の恩師、
谷一郎先生が、遊んでいるのは無駄だから、
航研に来て手伝うように云われたのは、
大いに助かった。

航研に通う間に、
やがて赴任する奉天の地を理解するために読んだ
クリスティー著「奉天三十年」(岩波新書)は、
希望と勇気を与えてくれるものだった。

卒業後に徴兵検査を受けたところ、
意外にも甲種合格になった。
時節柄召集令状が来るのは必至なので、
海軍と陸軍の短現を受験した。

海軍は、私が満飛入社予定であるためか不合格だった。

陸軍は面接のときに、
満飛に入社するつもりと述べたところ、
航研から満飛に移るとは
「大馬鹿者」とか「国賊」とか
口を極めて罵倒された覚えがある。
後になって、
これは試験官が人物を試めす
企みだったと思うようになった。
陸軍の短現の試験は合格だった。

 ※短期現役兵制度ノ廃止
  昭和十四年三月二十四日
  勅令第七十五號
  御署名原本・昭和十四年・勅令第七五号・兵役法施行令中改正
  レファレンスコード A03022342200

満飛の採用が決まって赴任したのは(昭和14年)八月で、
遅れ馳せながら満飛創立第一期の新卒、
康徳六年(昭和十四年)組の末尾に加わった。

奉天に着いて駅前広場に降り立った第一印象は、
煉瓦造りの建物の色彩のない灰色と、
寒冷地に特有の入口や窓の狭い閉鎖的な商店街だった。

街にはノモンハン事件末期なので、
やや緊張の色が漂っていた。

一人だけ四ヶ月半も遅れて入社するためには、
さぞ面倒な手続を要しただろうと想像する。
とにかく富永さんの尽力がなければ、
満飛入社もなく、
私の人生は全くちがったものに
なっていたにちがいない。

実習期間を経て、
満州各地に視察旅行に出してもらい、
実務に着く間もなく、
短現に入隊するため奉天を離れることとなった。

 ※短現(短期現役兵):野田親則氏の記憶違いで、
  陸軍航空兵科技術候補生
  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  陸軍航空兵科技術候補生採用・51名
  【官報. 1939年10月21日】昭和14年

入隊は各務原の教育隊で、
幸にも満飛での同期、
中嶋穆、小野又一、中島桂太郎の諸君と合流した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/97

二ヶ月の教育を終えて年末には見習士官となり、
立川の部隊に移り、
技術将校の見習期間をつとめた。
明くる昭和十五年二月に任官と同時に、
それぞれの任地に散った。
私は立川の陸軍航空技術研究所に配属された。

  召集解除
戦局が悪化しているのに意外に早く
昭和十八年二月に召集解除となった。
 ※現 役  昭和15年2月
  予備役  昭和17年2月
  召集解除 昭和18年2月

中嶋穆、小野又一両君も同様だった。

 ※小野又一 昭和19年2月(召集解除)
  現 役  昭和15年2月
  予備役  昭和17年2月
  召集解除 昭和19年2月
 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 [小野又一の兵籍簿]高知県地域福祉政策課援護調査

短現の同期では、
われわれ満飛社員以外に召集解除となった人はなく、
全くの特例であった。

 ※短現(短期現役兵)⇒陸軍航空兵科技術候補生
  予備役:昭和17年2月~昭和18年2月
  野田親則氏のみ特例?

これは藤原銀次郎査察使に要請した結果だと記録されている。
 ※藤原銀次郎査察使:満洲査察 昭和20年4月(初夏)
  上記、時期が合わない。

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 藤原銀次郎閣下の航空機緊急増産命令に基づく査察<2/3>
 [満洲飛行機の思い出]昭和57年
 日本人と満人との精神的緊密化と指導
 並に作業の円滑化からして、
 この際に満洲飛行機技術社員にして応召している
 中堅幹部社員の復帰こそ必要喫緊事であると具申し
 その引戻しを願い出たのである。
 (后に之が実現して
 小野又一氏、頼富竜太郎氏、灘波清一氏等の将校が帰社した。)
 ※小野又一:召集解除 昭和19年2月
  灘波清一:昭和19年 設計部試作課長⇒別稿に記載
  頼富竜太郎:?

私自身については、
それまで陸軍自身が進めていた、
キ93の設計班の一員だったので、
仕事が一段落するまで、
留まるよう要請があり、
会社が同意したので、
召集解除につづいて嘱託の身分となって
同じ仕事を続けた。

(昭和18年)十一月下旬には、
その任務も終って、
奉天に帰任した。
同月には関釜連絡船の崑崙丸が潜水艦の餌食となって、
多数の犠牲者が出た。

 崑崙丸[wikipedia]
 最後 1943年(昭和18年)10月5日被雷沈没

満飛入社後はじめての職場は設計部(林元部長)だった。
設計部には試作工場、設計課、研究課があり、
私は研究課長を命ぜられた。
試作工場長は同期入社の灘波君であり、
そのほかにも軍隊がえりの同僚が各所に居て、
心強かった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13258135/1/98
富永五郎氏追悼録
発 行 昭和63年10月2日
発行者 野田親則、平沢秀雄、山田 晋、十時 覚、
    松尾芳郎、宮崎 勇、茂呂 豊。
編集・発行所 (株)おおとり 小寺正義
    東京都港区芝2~6~15
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年06月14日07:01
〔挨拶状〕日本航空株式会社
 常務取締役 整備本部長 野田親則様

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年06月25日14:19
《中島 穆》
[東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業]
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《住川逸郎》満洲飛行機製造(株):京大経済学部卒業:奈良県吉野郡川上村在籍【人事興信録 第22版 上】1964

【人事興信録 第22版 上】1964
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/12
《住川 逸郎》
 日本鉄化工業(株)代表取締役
 奈良県川上村長
 奈良県町村会副会長
 奈良県出身
 奈良県吉野郡川上村在籍
 妻  幸 枝 明治43年2月4日生
        丸利一郎 妹
        五条高女卒
 長男   中 昭和21年5月21日生
明治41年2月23日 奈良県 又造の二男に生る
昭和8年 京大経済学部卒業
満洲重工開発 庶務課
東辺道開発 人事課 各勤務
満洲飛行機製造
人事 労務 各課長 監察役を経て
戰後 現職に就く
趣味 スポーツ・剣道(五段)
宗教 曹洞宗
同胞 兄 竜 三(明治39年7月10日生、
         奈良県立農林卒、川上村森林組合長)
   弟 武兵衛(明治44年1月16日生、
         奈良県立農林卒、清光林業取締役)
住所 奈良県吉野郡川上村白川渡
電話 柏木五七
p956【人事興信録 第22版 上】1964
p956【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/956
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《北村洋二》満洲飛行機製造(株):高島屋飯田社長飯田藤二郎の二男【人事興信録 第22版 上】1964

【人事興信録 第22版 上】1964
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/12
《北村 洋二》
 日産建設(株)会長
 日本スケート聯盟評議員
 東京都千代田区在籍
 妻  英 子 大正4年2月生
        東京、飯田精太郎 長女
        東京女高師附属女学校専攻科卒
 長女 多江子 昭和13年10月生
        女子学院卒
 二女 紀久子 昭和15年9月生
        日本女子大卒
 三女 郁 子 昭和19年11月生
        東京芸大音楽学部在
明治36年12月21日
故 高島屋 飯田社長 飯田藤二郎の二男に生れ
母方 北村氏の家籍を継ぐ
昭和2年 東大機械科卒業
日本航空輸送勤務
満洲飛行機製造 企画部長 理事
日産輸送飛行機 社長
日産重工 取締役 吉原工場長
帝石 取締役
中小企業助成会社長を歴任す
昭和5年より7年まで米国に
昭和14年独逸に出張
航空機製造及び航空輸送を研究す
趣味 スケート・ゴルフ・自動車運転
宗教 真宗
同胞 兄 飯田東一(横浜高島屋社長)
   弟 飯田英三(丸紅飯田取締役名古屋支社長)
住所 東京都千代田区六番町七
電話 (331)〇二三五
p622【人事興信録 第22版 上】1964
p622【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/622
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《江沼孝太郎》満洲飛行機製造(株)発動機部長:日本ミネチュアベアリング副社長【人事興信録 第22版 上】1964

【人事興信録 第22版 上】1964
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/12
《江沼孝太郎》
 ビューテイカメラ(株)取締役工場長兼電機部長
 富山県出身
 東京都杉並区在籍
明治42年5月17日生る
昭和6年 物理学校 数学科卒業
満洲飛行機製造発動機部長
日本ミネチュアベアリング副社長
富士精機工業副社長
アスノー技術顧問を経て
現職に就く
趣味 音楽・読書
住所 東京都杉並区上高井戸三ノ六六九
電話 (398)二七五七
p325【人事興信録 第22版 上】1964
p325【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/325
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《有賀正直》満洲飛行機製造(株)勤務:東京都立大学工学部教授【人事興信録 第22版 上】1964

【人事興信録 第22版 上】1964
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/12
《有賀 正直》
 工学博士
 東京都立大学 工学部教授
 長野県上伊那郡南箕輪村在籍
 妻  妙子 大正11年9月15日生、
       芝田修一 長女、
       東京女学館卒
 長男 正憲 昭和22年3月13日生、
       雪谷高校在
大正3年10月8日
長野県 実直・ふさゑの長男に生る
昭和14年 東京工大 電気工学科卒業
満洲飛行機製造勤務
東京工大助手を経て
昭和20年 東京工大附属専門部教授
昭和23年 東京工大講師となり
昭和31年
「水晶の断熱弾性定数とその温度特性について」
により学位を受け
昭和32年3月 防衛大教授に就任
昭和35年7月より一カ年
ジョージア工大の招請により渡米
研究に従事
昭和38年4月 現職に就く
趣味 旅行・釣・テニス
宗教 曹洞宗
住所 東京都大田区上池上町四六
電話 (729)二〇一七
p128【人事興信録 第22版 上】1964
p128【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/128
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《荒尾進一》満洲飛行機製造(株)機体第一工場長:三荒商会(株)社長【人事興信録 第22版 上】1964

【人事興信録 第22版 上】1964
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
p12【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/12
《荒尾 進一》
 三荒商会(株)社長(日本セメント全製品特約販売)、
 アサノ運輸(株)社長(アサノコンクリート運送)、
 サンコーパイル(株)社長
 広島県出身
 母  高 子 明治21年5月21日生、
        広島、佐々木高栄 姉
 妻  千鶴子 大正11年8月15日生、
        田子勝也 三女、
        お茶の水大附属高女卒
 長女 博 子 昭和20年5月1日生
 長男   一 昭和23年7月28日生、
        学芸大附属 竹早中学在
大正2年2月21日
広島県 文雄の長男に生る
昭和15年 早大機械工学科卒業
昭和19年 満洲飛行機製造機体第一工場長となり
昭和24年 三荒商会社長に就任
昭和26年 アサノコンクリートミキサーを考案し
生コンクリート運搬特定運送業を営む
趣味 ボート・ゴルフ
宗教 真宗
同胞
姉  美家子
同夫 山根信太郎(満洲医大卒、山根病院長)
妹  寿家子
同夫 山中 秀宜(東亜同文書院卒、日本火災海上部長)
妹  太家子
同夫 佐藤 章三(東大工学部卒、日産技師)
親戚
妻の兄 吉田富三(東大医学部長)
妻の兄 田子勝彦(東京医大教授)
住所  東京都文京区小日向台町一ノ七六
電話  (841)〇三三一
p121【人事興信録 第22版 上】1964
p121【人事興信録 第22版 上】1964
https://dl.ndl.go.jp/pid/3025538/1/121
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《秋山 邦》満州飛行機製造(株)発動機工場長【農協人事録】1963

【農協人事録】1963
著者    農協人事録編纂会 編
出版者   農協人事録編纂会
出版年月日 1963
 p3【農協人事録】1963
p3【農協人事録】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697685/1/3

《秋山 邦》あきやま くに
現職 茨城県経済農協連 農業機械課長
勤先 水戸市黒羽根町三〇〇・同本所
電話 水戸(代)③一一三一
出身 茨城県
生  大正五年九月二〇日
学歴 昭和一三年 米沢高等工業学校機械科
職歴 戦時中 満州飛行機製造(株)発動機工場長
   茨城経済農協連 石岡農機具販売所主任
   昭和三七年 現職
趣味 カメラ 旅行
家族 妻 子三人
住所 石岡市香丸町一〇六一
電話 石岡三四三九
 p275【農協人事録】1963
p275【農協人事録】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697685/1/275
 名簿編 京都府
 ◎船井郡(現 京丹波町のみ)
竹 野 丹波町高岡   小林  実
須 知 丹波町須知   林  寛一
高 原 丹波町富田   畑中 良一
質 美 瑞穂町質美   石田  淑
檜 山 瑞穂町大朴   中村 一夫
梅 田 瑞穂町水原   谷垣 正男
三ノ宮 瑞穂町三ノ宮  宇野重太郎
和 知 和知町本庄   下林 俊一 p898
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697685/1/897
農協人事録
一九六三年八月一〇日 初版発行
定価 五、〇〇〇円
編集兼発行人 農協人事録編纂会
印刷者    大星 義明
印刷所    日本文化印刷株式会社
       東京都新宿区若松町一二番地
発行所    農協人事録編纂会
       東京都港区芝琴平町
       不二屋ビル四階
       振替東京四二三一二番
       電話(501)五七五七・〇九二〇番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697685/1/941
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年01月05日14:59
『満洲飛行機製造株式会社調査資料:⑫』昭和27年(1952)1月
[中機械(公主岺)製作處 編成人名表] p10/22
處 長 西村源與茂
 部       課           係
製作部 中川 智 生産課   道地三應  工具係  蜂谷
         検査課   山脇幸雄  機体係  横田悠作
                     発動機係
         第一工場  頼富竜太郎 主翼係
                     胴体係
                     接合係  栗林
                     備装係
                     整備係
         第二工場  若林菊次郎
         第三工場  秋山 邦  設計班
                     修理班  蜂谷賢三
                     第一職場
                     第二職場
                     第三職場 田中
                     第四職場
                     第五職場 田中
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