満州飛行機製造株式会社

《柯子彰1940年橋本鶴代(柯秀鳳)結婚》(圖文:柯美伊)《台灣史料研究 第53期》2019年6月出版

[呉三連臺灣史料基金會]
《台灣史料研究 第53期》
2019年6月出版
主  編:戴寶村
執行編輯:陳朝海
定  價:250元
柯子彰【1910(明治43)〜2001(平成13)】
出生於臺北大橋頭基督教長老會家庭。
1918年(大正7)隨父經商前往中國福州生活。
1924年(大正13)負笈日本,進入同志社中學就讀,
加入橄欖球隊,從此與橄欖球運動結下不解之緣。
1929年(昭和4)加入早稻田大學橄欖球隊。
1930年(昭和5)獲選日本第一屆橄欖球國家代表選手,
赴加拿大比賽。
1933年(昭和8)柯子彰擔任早稻田大學橄欖球隊隊長,
帶領球隊獲得冠軍。
1934年(昭和9)擔任國家代表隊隊長,率領日本與澳洲對戰。
1934年(昭和9)柯子彰自早稻田大學業。
前往滿洲國南滿鐵道株式會社任職,
參加南滿鐵道株式會社橄欖球隊,
曾代表大連滿鐵、奉天滿鐵及滿洲國參加比賽。
也在「滿洲橄欖球蹴球協會」擔任理事一職,
在滿洲各地推動橄欖球運動,
是目前所知在日治時期唯一進入體育行政體系任職的臺灣人。
1940年(昭和15)柯子彰與日人橋本鶴代結婚。
1942年(昭和17)柯子彰派調上海滿鐵事務所。
中日戰爭結束前,他辭去滿鐵工作,
在父親介紹下於汪精衛政府做事,
短暫工作後以不適合為由而辭職。

 1934年早稻田大學獲得全國橄欖球比賽二連霸,
1934年(昭和9)早稻田大學獲得全國橄欖球比賽二連霸,
柯子彰擔任隊長(第二排右二手持獎盃者)

終戰後,柯子彰偕妻小回台定居,
先後在臺灣鐵路局和臺灣省合會任職。
回台之初,柯子彰積極參與公眾事務,
擔任臺灣鐵路局工會理事。
只是,經歷過二二八事件、
臺北市議員選舉失利和鐵路局人事改組等等挫折後,
柯子彰轉而將心力傾注於臺灣橄欖球運動的發展上。
對內,與一些志同道合之士成立臺灣橄欖球協會、
在臺灣各地、各級學校指導橄欖球隊伍、
書寫及翻譯橄欖球相關文章與書籍、
舉行研習活動培養橄欖球相關人才等。
對外,邀請外國隊伍來臺交流、
與日韓等國籌組「亞洲橄欖球聯盟」,
舉行第一屆亞洲盃橄欖球賽,
將臺灣的橄欖球運動與國際接軌。
(圖文:柯美伊)
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個人新聞台
愛玉香菜子的家
2022-05-30 13:04:11| 
新書發表會《TRY!柯子彰》
新書發表會“TRY!柯子彰”
橄欖球王子柯子彰大前輩的橄欖球人生,
由孫女柯美伊寫來特別有感情!
柯子彰校友的夫人柯秀鳳(橋本鶴代)於同志社台湾校友會時,
經常帶她折的紙鶴來送給我們這些後輩學弟妹們,
本書末頁也以此來做呈現,真是太有意義了。
當然更要謝謝柯美伊老師這麼多年的辛勤編輯撰寫。
 柯子彰校友的夫人柯秀鳳(橋本鶴代)
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《柯子彰:夫人 柯秀鳳は日本人》【日本ラグビー史】昭和39年(1964)

【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
出版者   日本ラグビーフットボール協会
出版年月日 1964
《柯子彰》 なつかしの背番号13
天才的なプレーを謳われた柯子彰は、
同志社中学時代、
C・T・Bに張万玉と列び、
W・T・Bに江原、吉田を配して、
その黄金時代を作り、
昭和5年(1930)から
5シーズン早大のC・T・Bをやり、
その間 加奈陀遠征に加わり、
早大主将もつとめた。

柯と並んだことのある川越藤一郎が述懐して曰くに
「柯さんはパスを受ける前からピョンピョン、
 ギャロップしていて、
 球を手にしてから、
 一瞬にモーションを
 二通りにも三通りにも使い分けました。
 1シーズンにいっぺんでも
 綺麗にかれをタックルすることが
 わたくしどもの念願でした」と。
かれは人のきらう13番の背番号を気にもせず、
かえって誇りにしていた。
掲出のバッジは昭和34年(1959)、
裁判員(レフリー)の資格で、
全台湾ラグビー大会で優勝した
台南市橄欖球隊を率いて来日した時の記念バッジ。

夫人秀鳳は日本人で、
和歌をよくし、
これらの作品は昭和39年(1964)春
南米へお嫁にゆく愛嬢の渡航の途に託して
機関誌”ラグビーフットボール“に寄せたもの。

  ラグビーによせて
   柯秀鳳
雨晴れしグランド駈ける 縞馬の
  転びつ 蹴りる 泥と汗とに

どしゃ降りに 泥まみれたる 選手等の
  ドリブル前進 球の重げに

ラグビーのキックの球に 観衆も
  一つになりて 空を仰げり

夕迫り立つグランドに 賞受くる
  悲喜交々の顔の並びて

初めての試合にのぞむ 吾子の背に
  見守る吾の 心ときめく

学友の夫にと土産はユニホーム
  ラグビー背番の十三懐かし

雨の日も試合あるとか レフリーに
  出立つ夫を ひそか嘆かむ

異なりし国に育てし ラグビーの
  術(わざ)に繋(つなが)る 精神(こころ)貴し
 p97【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
p97【日本ラグビー史】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/97
日本ラグビー史 頒布価格 ¥2200 送料¥150
昭和39年11月20日 発行
発行者版権所有者
    財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    会長 香山 蕃
印刷者 桜井文雄
発行所 財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    東京都港区赤坂青山北町3の68
印刷所 株式会社 桜井広済堂
    東京都港区芝三丁目24番地5号
    電話(453)0551(代表)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2505473/1/198
主要ラグビー試合戦績及出場者氏名一覧表
昭和39年11月20日 発行
発行者版権所有者
    財団法人 日本ラグビーフットボール協会
    会長 香山 蕃
印刷者 桜井文雄
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早稲田大学ラグビー蹴球部
商学部/年
最近の出場試合
1934/2/7 早大VSオーストラリア学生代表
1934/1/3 早大VS同大
1933/12/3 早大VS明大
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台湾ラグビーの星・柯子彰、
日本代表キャプテンを務めた台湾人選手の軌跡
スポーツ 歴史 2019.11.02
一青 妙 【Profile】
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《柯子彰》早大伝統の技術的にすぐれたラグビー
【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
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《正岡 正》昭和14年高商卒【同志社ラグビー七十年史】昭和53年

【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
出版者   同志社ラグビークラブ
出版年月日 1983.12
  学生諸君と語らう
  昭和14年 高商卒
  正岡 正
私達ラガーは、
今だに毎年秋になると苦しかった
夏の合宿を思い出します。

あの充実した体力と気力で、
シーズンに突入して行った
若い時代が思い浮かんで参ります。
又戦死して行った先輩学友も
眼に浮かんで来ます。

ともかく青春を無条件に
ラグビーにブッツケて行ったものです。

夕暮比叡の山が見えなくなる迄
お互いにドナリ合ってスクラムを
何本も組まされた。

生タックル50本と
又「ピーッ」と終了の笛が鳴り。

ボロ風呂に入って出町迄帰るあの気分、
たまにおでん屋で一杯傾け
怪しげな人生論を論じ合った友達
一人一人が昨日の如く浮かんできます。

懐かしさの余り駄言お許し頂き
拙文致しましょう。
p142【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
p142【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/142
同志社ラグビー70周年史
1983年11月20日印刷
1983年12月3日4発行
編集 同志社ラグビー70周年史
   編纂委員会
印刷 株式会社 図書印刷 同朋舎
   京都市下京区壬生川通五条下ル
発行 同志社ラグビークラブ
   京都市東山区東大路新橋林下町437
   福住荘 中村公紀 気付
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/237
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《正岡 正》満飛ラグビー部のことども
【満洲飛行機の思い出】昭和57年
私の満飛ラグビー部の歴史は
昭和十四年(康徳七年)より
終戦までの昭和二十年までとなる。
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《多田常喜》松村さんは2年生のくせにキャップテン【同志社ラグビー七十年史】昭和53年

【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
出版者   同志社ラグビークラブ
出版年月日 1983.12
  あの頃の同志社高商ラグビー部
  多田常喜 ※下記
  昭和12年高商卒(昭和15年 大学卒)
あの頃(昭和9年頃)は、
満州事変からやがて支那事変へと
突き進んで行く時代の風潮から、
何となく殺伐とした雰囲気の時代でありました。

その様な世相を反映して、
同志社高商も蛮カラが巾をきかせたもので、
蓬髪に紋付の木綿羽織、
素足に駒下駄のいでたちの学生が数多く、
比叡山の麓岩倉に独特な校風が
出来ていた様に思います。

然しラグビー部だけは、
キャップテンの松村さんが
※松村:下記 満洲飛行機製造(株)
仲々ウルサクて、
制服に下駄ばきででも登校しようものなら、
「お前、それは何や」
とジロリと睨まれるので、
割合いキチンとした服装で
学校へ通っていたものです。

監督の鳥居のボン、
村井の弥太はんは
同じ頃の先輩松見の孝ちゃんと共に、
颯爽としたダンディ振り、
松村さんは2年生のくせに
キャップテンとして、
むっつり屋さんで頑張っており、
3年生に学者然とした理事の西原さん、
優しくて親切であった竹内さん(竹はん)、
スクラムセンターの加藤さん、
フロントローの村瀬淳平さん、
2年生には暴れん坊の倉橋オネさん、
牧師の様な大森フランケンさん、
ポパイの富永さん、
p141【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
p141【同志社ラグビー七十年史】昭和53年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/141
良いオッチャンの榊原さん(通称サッカン)、
胸毛がふさふさととても立派であった林さん、
唄が上手の北川さん等々、
それぞれ個性的な先輩がいて、
私達の同輩は、
山崎、島峯、長橋、岡田、近藤、上原(今の秋田君)
高山、辻、飯田、滝野、半田、山田、木全、
の面々で総勢25人、
臙脂と紺のユニフォームで
石ころだらけのグラウンドを
走り廻っておりました。

練習の帰り道では、
皆ユニフォームと同じ色のマフラー
(当時1円50銭でした。)
を首に巻いて、
比叡颪に吹かれ乍ら山端まで歩いたものです。

岩倉気質の楽しいチームでありました。

昔の仲間の人達も幾人かは戦死し、
その後病気で亡くなった人も幾人か。

懐かしい若き日の追憶は、
何時までも私の瞼から消えません。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/142
同志社ラグビー70周年史
1983年11月20日印刷
1983年12月3日4発行
編集 同志社ラグビー70周年史
   編纂委員会
印刷 株式会社 図書印刷 同朋舎
   京都市下京区壬生川通五条下ル
発行 同志社ラグビークラブ
   京都市東山区東大路新橋林下町437
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《多田常喜》
【東洋経済会社人事録 1963年版】昭和38年
出版者   東洋経済新報社
出版年月日 1963
[大阪商船 株式会社]
 大阪市北区宗是町1
 電話(441)1731
 設立 明治17年5月
 東京支社 東京都千代田区内幸町2-1
      電話(591)9111
https://dl.ndl.go.jp/pid/2473861/1/539
同(東京支社)次長:多田常喜
東京都渋谷区大山町27
大正4年生 大阪
昭和15年卒 同志社大 法学部
昭和15年入社
p540【東洋経済会社人事録 1963年版】
p540【東洋経済会社人事録 1963年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2473861/1/540
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
ラグビー部の歴史と私①
(満洲航空から満洲飛行機製造)金江圭太郎
【満洲飛行機の思い出】昭和57年
(昭和14年)
春のラグビー部の第一戦は四月下旬奉満と対戦した。
 満航ラグビー部 篠原顧問歓迎会
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/218
然しその技量の差は如何とも仕難いと思っている時に
倉庫課に
松村君が入社直ぐ入部した。
彼は同志社の名センターだ。
彼の入部により練習方法も一変し
六月の満洲電々と対戦一八対六と
部創立二年目にして初勝利を得た。
その日のジョッキ程うまいものはなかった。
今日の勝利を得るのに
一年半の練習の毎日は大変なもの、
之れを機会に沢柳主将は現役を去り
松村主将にバトンタッチした。
鈴木、建部両氏も仕事の関係で退部した。
東田監督も現場多忙で退いたので
松村新主将が兼任した。
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《長繩勝己君逝去》平成8年3月12日)【偕行 (545);平成8年5月号】

【偕行 (545);平成8年5月号】
出版者   偕行社
出版年月日 1996-05
 いちご会(少候15期)
     担当者 栗原岩三
訃報 長繩勝己君逝去
君は永らく闘病生活を営んで居たが
3月12日病院にて逝去。
享年85歳であった。
長縄君は航空の出身で終戦時の官職は
飛行第50戦隊長であった。
戦後は東京の自宅にて
電気器具関係の仕事を手広く行い、
特にカメラマニヤであった。
いちご会は副会長の要職を務め、
会長を補佐しその功績は偉大なものがあった。
自宅の住所は東京都文京区千駄木5-6-9
長縄満江様
電話03-3828-3326。
告別式には会長栗原が弔電を以って哀悼の意を捧げ、
鈴木康倫君が参列して告別した。
p33【偕行 (545);平成8年5月号】
p33【偕行 (545);平成8年5月号】
https://dl.ndl.go.jp/pid/11435627/1/33
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【電波総鑑 1965年版】昭和40年(1965)
著者    電波新聞社出版局 編
出版者   電波新聞社
出版年月日 1965
(資)三陽電気商会 長縄勝巳
東京都文京区 森川町89
(811)5936
ナショナル,ビクター,富士,ソニー,三菱
松下電産
p615【電波総鑑 1965年版】昭和40年(1965)
p615【電波総鑑 1965年版】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8312463/1/615
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《長縄勝己:テストパイロット》検査部飛行課 指宿鶴雄【満洲飛行機の思い出】1982.6

【満洲飛行機の思い出】昭和57年(1982.6)
著者    満洲飛行機の思い出編集委員会 編
出版者   満州飛行機の思い出編集委員会
出版年月日 1982.6
 検査部飛行課 指宿鶴雄(旧姓 日高)
この度「満洲飛行機の思い出」発刊の由承り、
誠になつかしく結構な御企画と期待致して居ります。
飛行課は小世帯で左の如き構成でした。
終戦直前に配属になった若い三名の操縦士や
一、二名の庶務を除き現在健在者は、
長縄勝己さんと小生だけとなりました。
当時を追憶して全く淋しい限りであります。
操縦士 課長 河野 キ-79操縦中
          飛行場南端で墜死
 〃     長縄 キ-84満飛製第一号機
          テストパイロット
 〃     常盤 引揚直前パラチフスで死亡。
          知人等三、四名で
          花園街西社宅と
          中社宅間の空地に埋葬
 〃     野口 テスト後二三七部隊に空輸中、
          新市街上空にて事故墜死
機関士    樋口 引揚後病死
〃      日高 指宿と改姓
庶 務    坪井 他一、二名
操縦士 一条、同小川、同武田、等は
二二、三歳の若い人達でしたので
健在と思われます。
現在の航空機には余り興味を感じませんが、
矢張りあおの頃までの飛行機に
今でも限り無きノスタルジャがつのります。
やはり豪華客船や、
SLをなつかしがる共通の心情でしょうか、
以上暇をもて余して居りますので
書かずもがなの余計な事を……
「思い出」のスムーズな完了を祈り申し上げます。
p77【満洲飛行機の思い出】1982.6
p77【満洲飛行機の思い出】1982.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/77
満州飛行機の思い出
定価 五千円 〒 五百円
昭和五十七年六月一日   印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行  満州飛行機の思い出編集委員会
       代表 澤柳誠四郎
       〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
       電話  0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
       〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
       電話  0482-52-2370
印   刷   船舶印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/11952761/1/254
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《長縄勝巳少佐 飛行第70戦隊》昭和19年9月【偕行 (451);7月号】1988-07

【偕行 (451);7月号】1988-07
出版者   偕行社
出版年月日 1988-07
[本土防空作戦]⑰
 51期 辻 秀雄
◎はじめに
本土防空陣は、
外征作戦軍の防壁下にあるもので
あることを屢述した。
(昭和)19年6月16日早朝
支那派遣軍(第五航空軍)首脳が、
成都基地のB-29が北九州を爆撃したという、
大本営の電報を受領したときの
苦悩は絶大であった。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/11435533/1/9
〔第一次成都基地攻撃 (昭和19年)9月8日〕
 (第二次鞍山防空戦闘)
◎B-29、鞍山に向う
(昭和19年)9月8日、華中一帯は雨であった。
〇七五〇成都基地B-29出撃の報があり、
第五航空軍司令部は俄然緊張した。
11時やや前から
洛陽、郟県、開封等から80機以上
北東進の報告があり、
敵機は鞍山方面の攻撃に向うものと判断された。
これらの情報は、
第二航空軍(在満洲)にも伝達され、
やがて大連の電波警戒機が、
黄河河口付近に大型機編隊を捕捉し、
次いで鞍山の警戒機がこれを引き継いだ。

◎強化された鞍山防空戦力
鞍山の防空に任ずる第15飛行団は、
去る(昭和19年)7月29日の
鞍山第一次空襲の結果にかんがみ
独立第15飛行団(長、土生秀治少将31期)に
改編強化されていた。
その隷下の
飛行第70戦隊(長縄勝巳少佐、二式戦約30機)
及び
独立飛行第81中隊(長、大和田進大尉、百武司偵)が
鞍山に位置し、
また集成戦闘中隊を基幹として編成された
独立飛行第25中隊
(長、池田忠夫大尉、二式戦及び二式復戦)が
遼陽に展開していた。
 ―略―
なお、第70戦隊は松戸において、
関東地区の防空に任じていたが、
(昭和19年)7月31日急遽満州に派遣された部隊である。
p10【偕行 (452);7月号】1988-07
p10【偕行 (451);7月号】1988-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/11435533/1/10
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《野田親則氏》当時立川の米軍で人事部に勤務[ある航空機整備士の生涯]著者:藤浪修

06-野田 親則 鹿児島
  満州飛行機製造株式会社 設計部 研究課
  陸軍航空技術研究所
  平成18年(2006)1月18日 88歳 歿
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[空へのチャレンジ:ある航空機整備士の生涯]
著 者:藤浪修
出版社:文芸社 (2005/02)
当時立川の米軍で人事部に勤務していた
野田親則氏(のち日本航空専務取締役)は
訓練係として浅倉と対面している。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
amazon.co.jp
単行本 – 2005/2/1
藤浪 修 (著)
空へのチャレンジ―ある航空機整備士の生涯
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
日本の民間航空界裏面史。
一整備士から日本の空を制した
元全日空副社長浅倉博氏の苦難の道のりを
感動的に描いた好著。
ヘリコプターからジェット機まで
整備一筋に歩んだ飛行機屋の技術魂を伝える。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤浪/修
昭和17年9月21日、東京都生まれ。
昭和38年3月、東京都立航空工業短期大学原動機科卒業。
昭和38年~平成13年、全日本空輸株式会社勤務。
英国ロールスロイス社に技術駐在として派遣、
技術部原動機技術課長、
成田整備工場生産管理部長、
整備本部管理室(IHI社との合弁会社設立準備室責任者)、
(株)ANA・IHI Aero‐Engine総務部長(出向)、
広島空港所所長、
社団法人日本航空技術協会常務理事(出向)を歴任。
平成13年、有限会社エアロテクノ・リソーセス設立、
代表取締役
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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《野田親則》(株)日本航空技術協会元会長【Green port report 7/8月(54)】1996

【Green port report 7/8月(54)】1996
出版者   成田国際空港広報部
出版年月日 1996
 ザ・講演 航空機とマーフィーの法則
 日本航空協会・月例後援会より
(株)日本航空技術協会元会長
  野田親則
  PROFILE
大正6年東京生まれ。
昭和14年、東大工学部航空学科卒。
第2次世界大戦中は短期現役、
予備役即日召集、
嘱託として陸軍航空研究所に勤務。
昭和18年末、
満州飛行機製造(株)に復帰
昭和21年内地に引き揚げ。
昭和32年日本航空に入社、
昭和58年専務取締役任期満了。
平成5年まで常勤顧問。
昭和52年~64年の間、
(株)日本航空技術協会の会長職を務める。
 《野田親則》(株)日本航空技術協会元会長
 発端は米空軍のエド・マーフィー大尉
  ―略―
 軍用滑空機のテストで過誤の例
  ―略―
 愛国九州号に披露飛行に同乗
  ―略―
 満洲飛行機製造(株)での経験
陸軍から解放されて、
奉天の東方の郊外にある
満州飛行機製造(株)に帰任したのは
昭和18年11月のことであった。
設計部(林元部長)所属となった。
小生の職は研究課長だった。

生産ラインでは97式戦闘機(キ27)が
新鋭機の座から降りて、
同じ生産ラインを使用して
2式高等練習機(キ79)が流れていた。
次期の新鋭戦闘機の生産も計画中であった。
キ79はキ27のエンジンを小型のものに換装し、
重量が減ったために、
前方に移動して重心位置を維持するなどが
主要な変更で、
日産5機、月産150機程度の量産が行われた。

使用エンジンのハ-13甲も自社生産であった。
キ79甲は単座、
キ79乙は複座で従来の操縦席の後方に
第2の操縦席を増設したものであった。

トラブルはキ79乙の試験飛行の際に起こった。
複座の前席に最年長のテストパイロットが乗り、
後席は空席として飛行中に操縦桿が何物かに
引っかかったようになって
十分手前に引くことができなくなった。
片手で操縦桿を握って位置を保ちながら、
もう一方の手を下方から後席へと伸ばして
探ってみると、
後席の背当てが前方に倒れて、
後席の操縦桿の動きを
邪魔していることがわかった。
倒れた背当てを上方にはね上げると、
背当てはしばらくの間
後席後席の操縦桿を邪魔しない状態となるが、
やがてまた倒れかかると
操縦桿を手前に引けない状態に戻るのである。

結局、パイロットは2本の手で自分の席の
各種のコントロールを操作しながら、
片方の手で後席の背当てを巧いタイミングで
はね上げながら、着陸を果した。

問題の原因は、
後席の背当ての上部を
胴体のフレームに固定するのが
不完全であったのか、
飛行中の振動でボルトが緩んで抜け落ちたか、
などが想像できる。

 B-29によって工場群が爆撃
奉天の東飛行場地区に集中していた
満州飛行機製造の工場群は、
終戦の前年昭和19年12月7日の昼間に
中国の奥地から出発した
数十機のB-29隊に爆撃された。
12月7日は米国のパールハーバー記念日である。
工場は大至急各地に疎開した。

検討されていた新鋭機の生産は
キ84(4式戦闘機)と決まり、
会社はハルピンの工場で生産を行うことを決めた。

昭和20年春
には完成機が生産ラインから
出る状態になった。
その後、
キ84の満州飛行機製造の4号機が、
キ116に改造され、
最初のテスト飛行には
設計部の一員として立ち会った。

キ116は離陸後
飛行場から離れて機影も見えず
爆音も聞こえない状態だったが、
やがて工場のかげの辺りから爆音が
かなり大きく聞こえた。

そして、
突然工場のかげから機影が現われると、
エンジンが止まって着陸滑走となった。
テストパイロットの長繩さんは
※長縄勝巳少佐:別稿① 別稿② 別稿③
落ち着いた顔つきで
プロペラの停まった機から降りて、
エンジンのスロットルレバーが無反応となって
独りでにエンジンが全力運転になるので、
点火スイッチを切って、
しばらくすると速度が落ちるので
また点火スイッチをオンにする、
エンジンがすぐ全力運転になる、
ということを繰り返していたことを告げた。

調べてみると、
推定のように
エンジンの気化器の入力レバーの結合部で、
操縦席のエンジンレバーからの機構が外れて、
気化器側はフリーの状態となっていた。
気化器レバーは出力を上げる方向に
スプリングが作用しているので、
出力は上がる。
出力を下げる手段は
点火系統の電気を切ることが唯一の方法となる。

トラブルの要点はなぜ、
どのように気化器入力レバーの部分で
結合が断たれたかである。
気化器レバーとパイロットの操作系との結合部は、
気化器がエンジンに固定されており、
エンジンは緩衝装置がゴム類を介して
機体に対して若干の相対運動があり、
そのためにボールジョイントを介して
相対運動を逃がしている。

ボール状の頭にボルトのネジ部が
一体となったような部品を、
気化器入力レバーの頭部の孔に挿入する方向が
逆であったのが、
連結を分離した理由であった。

正規の方向に挿入して組み立てれば、
ネジ込みの球面(凹面)の蓋が取れても
関係が断たれることはなく、
若干のガタが生ずるに
とどまるはずである。

このテスト飛行の後に、
ソ連(当時)が宣戦布告して
ソ満国境を突破するまで
あまり日数はなかった。
どのような飛行試験が行われたか
知らされていなかった。

  最 後 に
前述のJ.P.スタップ大佐の記者会見での言、
すなわち
「マーフィーの法則を固く信じて、
 不可避とされる過誤が発生しないよう
 防ぐ努力を粘り強く実行する」
に尽きる。
どのような過誤が発生の可能性を持つかを
網羅的に洗い出すのが第1歩となる。
次に過誤を防ぐ方法を考える。

一般的には、
間違えることができないようにできないか、
途中で正しいことを確認することができるか、
などを検討して
過誤を防ぐ方法がないという部分を
狭めていくことを意味していると思われる。
”誰かが間違いを犯すことは、
 防ぐことができない“
と諦めることを勧めているのではない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2889217/1/10
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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《灘波清一・早大理工學部出身》灘波良藏の長男【人事興信録 第12版 下】昭和14年

【人事興信録 第12版 下】昭和14年
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 昭12至14
第十二版 人事興信錄 下
昭和十四年十月刊行
株式會社 人事興信所
灘波 良藏
 正五位勳四等
 判事、大審院判事
 香川縣在籍
 妻  喜多 明治二四年一一月生
       香川、山本定次郎 二女
 男  淸一 大正 三年一二月生
       早大理工學部出身
 男 健次郎 大正 五年一二月生
       浪速高校出身
香川縣 灘波淸五郎の長男にして
明治十六年十一月出生
明治三十二年
家督を相續す
明治四十三年
東京帝大法科を卒業し
司法官試補となり
判事に任じ
神戸區裁判所判事
前橋地方裁判所長を經て
昭和十年十一月
大審院判事に任ぜられ
今日に至る
趣味 運動
宗敎 眞言宗
家族 尚ほ
四男 四郎(大正一五年 三月生)
五男 昭五(昭和 四年 二月生)
長女 富子(明治四五年 五月生)
     (大阪府夕陽丘高女出身)は
      大阪府 奥戸大藏 弟
          法學士 新三に嫁す
(東京市大森區田園調布四ノ一九二)
p458【人事興信録 第12版 下】昭和14年
p458【人事興信録 第12版 下】昭和14年
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