【京都府町村会七十年史】平成3年(1991)
著者 京都府町村会 編
出版者 京都府町村会
出版年月日 1991.11
第12回京都府町村長OB懇親会(平成3年6月7日 楠荘)
瑞穂町 畠中正二
第12回京都府町村長OB懇親会(平成3年6月7日 楠荘)
瑞穂町 畠中正二
https://dl.ndl.go.jp/pid/12739852/1/13
産業廃棄物処理場の建設・瑞穂町(現・京丹波町)
昭和五十四年(1979)七月、
京都府農業開発公社が
船井郡瑞穂町に所有している山林を、
京都産業サービスに転売する話が持ちあがる。
京都産業サービスは、
昭和四十九年(1974)七月
京都の主要企業三七社が
産業廃棄物の処理を目的に設立した会社で、
昭和五十二年(1977)三月には
株主が三社増えて四十社になっていた。
京都府農業開発公社が所有している山林は、
瑞穂町鎌谷奥の二〇・七三五ヘクタールと
天田郡三和町に近い
瑞穂町戸津川地内の三五・九二ヘクタールで、
これらの土地はかつて
地元の梅田財産区と三ノ宮財産区が
所有していたものであるが、
小学校の改築や公民館の建設などに
資金が必要となり、
昭和四十八年(1973)春
京都府農業公社への売却話がまとまった。
しかし、その直後におきた石油ショックで
土地ブームが終わり、
公社側が正式契約の調印に難色を示したため、
瑞穂町が五年を期限に公社が農業用地として
開発できない場合には
財産区が損失補償をするという内容の契約を交わし、
翌昭和四十九年(1974)九月にそれぞれ
一億二五〇〇万円と一億七五〇〇万円で
公社に売却した。
地元ではこの山林を公社が茶畑や桑畑として
開発してくれるものと期待していたが、
もともと農地に不向きな土地であった上に、
売却価格が当時としてはかなり高い値であったから、
その後の不況で転売先も見つからなかった。
昭和五十四年(1979)五月、
公社は長期保有地の売却を決定し、
産業廃棄物処理場用地の確保に苦心していた
京都産業サービスが買い取り相手として
浮上したわけであった。
当初、転売話が進んだのは、
梅田財産区が所有していた
鎌谷奥の二〇ヘクタール余であった。
町内に産業廃棄物処理場が建設されれば
環境が汚染される心配があり、
それを拒めば先の損失補償契約により
京都府農業開発公社から利子をふくめた
多額の金で土地の買い戻しを迫られる。
地元が得た土地代金は一部を残して
既に施設の建築費に消えていたので、
この問題の対応に苦慮した。
こうしたことから、
昭和五十四年(1979)十月二十日
鎌谷奥地区で、町、財産区、農業開発公社、
府の担当者が出席して説明会が開かれたのをはじめ、
関係する八つの地区でも順次同様の会合が催された。
町では問題の解決には処理場の建設を
受け入れるしかないとの方針でのぞんだが、
鎌谷奥は土師川の最上流にあって
梅田財産区全域がほぼその流域になることから
地元住民が建設反対期成同盟を結成したほか、
下流の三和町でも反対運動に火がついた。
昭和五十五年(1980)九月、
三ノ宮財産区の公社問題対策委員会から
産業廃棄物処理場用地として、
町内の三地区を候補地とする案が提示され、
畠中正二町長はそのうちの猪鼻地区が
適地であるとの意向を表明した。
これによって問題が急転回し、
猪鼻地区ではたびたび区民集会を開いて
対応を協議した結果、
昭和五十六年(1981)一月二十一日夜の区民総会で、
産業廃棄物処理は京都府が公社を設立して行う、
冠石峠の鉛工場問題を解決する、
指定品目以外は搬入禁止にする、
輸送道路の全面拡幅改良、
水質や土質の恒久的な検査、
地域の振興に協力する、
など八項目の条件付きで、
処理場の建設を認める方針をかためた。
同月(昭和56年1月)二十三日の
瑞穂町臨時町議会でもこれを可決した。
昭和五十六年(1981)三月十九日、
地元と町、府、京都産業サービスの四者間で、
八項目の建設受け入れ条件について
大筋で合意した内容の確認書を交わし、
(昭和56年)四月十四日
予定地内でボーリング調査が始まった。
この間、三和町町議会は、
昭和五十五年(1980)九月二十五日、
産業廃棄物処理場設置反対請願を
全員一致で議決している。
昭和五十五年(1980)十二月二十四日には
三和町の町長と町議会議長が、
同町民から町長に提出された
三九〇〇人の反対署名を
林田由紀夫知事に手渡した。
また、瑞穂町の反対派住民が
梅田・三ノ宮両財産区と府農業開発公社が交わした
損失補償契約に関する訴えを起こしたり、
反対署名活動を展開した。
昭和五十六年(1981)五月、
京都産業サービスは、
京都府と京都市から出資と役員を受け入れて、
京都環境保全公社と社名を改めた。
同年(昭和56年)八月
三和町は産廃問題対策協議会を発足して、
処理場建設反対の態度をやや軟化させる。
一方、瑞穂町と三和町の反対派住民ら五〇〇人は、
同年(昭和56年)九月十二日
総決起集会を開いた。
同年(昭和56年)十一月二十二日と二十三日には、
反対派による初の環境アセスメントが実施された。
昭和五十六年(1981)十二月七日に開かれた
猪鼻区の区民総会で、
瑞穂町と京都環境保全公社が
公害防止協定を締結することに合意し、
これを受けて
同月(昭和56年12月)十日
府庁会議室で林田由紀夫知事、
野中広務副知事が見守る中、
畠中正二瑞穂町長と坂部社長が
一七条からなる協定書に調印した。
そして翌五十七年(1982)一月十二日には
林田由紀夫知事、坂部三次郎社長、
滝本三和町長の三者が、
六項目の協定書に調印し、
産業廃棄物処理場の建設に
大きく道が開かれた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12739852/1/236
同月(昭和57年1月)中、
京都環境保全公社は府園部地方振興局に
処理場の開発許可申請を、
府八木保健所(現園部保健所)に
産業廃棄物投棄申請をする。
その計画によると、
同公社は猪鼻地区の谷間
約二九ヘクタールのうち
約六・五ヘクタールに、
中間処理後の産業廃棄物を八年間で
約九万トン埋め立てるというものであった。
昭和五十七年(1982)三月十五日、
福知山、三和、瑞穂の一市二町の住民六一二人が、
処理場建設計画は事前調査が不十分で
公害の発生と住民の生命や財産に
重大な危険をもたらす恐れがある、
として公社を相手に、
建設差し止めを求める仮処分申請を
京都地方裁判所に提出した。
その審理の過程で、
公社側が提出した地質調査資料から
埋め立て予定地内に
四カ所の断層があることが判明する。
しかし公社側は危険性はないと主張し、
用地買収などに充てた
借入金の金利負担がかさむことを理由に、
同年(昭和57年)十月二十五日
「瑞穂環境保全センター」の起工式を行った。
反対派住民は抗議集会やデモ行進で対抗、
同年(昭和57年)十二月二日には
四五八人が公社を相手に、
処理場の建設差し止めを求める
第二次仮処分申請をした。
昭和五十八年(1983)二月から裁判所の調停で、
原告団と公社側が和解交渉を開始するが、
両者の主張には大きな隔たりがあり、
失敗に終わる。
その間にも工事は続行されて、
処理場の完成が近づいたため、
同年(昭和58年)七月五日
原告側は仮処分申請の内容を
「建設の差し止め」から
「工事の続行と完工後の操業開始の差し止め」
に変更する申し立てをした。
高さ一四・五メートル、
長さ七八メートルの埋立て用ダムは、
総工費約一〇億円(用地買収費を除く)をかけて、
同年(昭和58年)九月中にほぼ完成し、
公社は(昭和58年)十月八日に完工式を行うと発表。
ところがその矢先(昭和58年)九月二十八日、
台風一〇号が降らせた大雨で、
処理場の貯留槽から雨水が
あふれ出たことに反対派が反発し、
完工式と操業開始を中止して
施設の安全性について再点検せよと府に求めた。
しかし公社は
「瑞穂環境保全センター」の完工式を予定どおり行い、
その後、
雨水が処理場へ流入するのを防ぐ側溝の設置や
府道側のフェンスの取り付け工事を実施した。
年末から翌昭和五十九年(1984)一月にかけて、
京都地方裁判所で原告側及び公社側双方の代理人らが
再度和解交渉を進めた。
その結果、
①公社は同処理場の安全性確保のため
科学的な地下水調査を実施し、
そのデータを公表する、
②異常が認められれば公害などのため
万全の措置をとる、
③埋め立てる廃棄物は安全無害なものに限る、
➃以上を条件に反対派住民側は
処理場の設置と操業に同意する、
など四項目からなる和解条件で双方が合意に至った。
反対派住民側は
昭和五十九年(1984)一月三十日の総会で
この和解案を承認し、
翌(昭和59年1月)三十一日
京都地方裁判所で和解が正式に決まった。
同年(昭和59年)二月二日、
大雪の影響で予定より一日おくれて
「瑞穂環境保全センター」が操業を開始した。
当日に運び込まれた産業廃棄物は一一件、
一三〇トンであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12739852/1/237
京都府町村会七十年史
平成三年十一月一日 発行
編集発行者 京都府町村会
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京都府自治会館内
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(四五一)四一五六
印刷 株式会社ぎょうせい
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https://dl.ndl.go.jp/pid/12739852/1/447
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