人物

藤井豁爾の長女和子が岩崎平造家へお嫁に・福田英子の媒酌1915(大正4)年5月【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986

【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
著者    海軍大将藤井較一没後60周年記念誌刊行会 編
出版者   海軍大将藤井較一没後60周年記念誌刊行会
出版年月日 1986.11
p1【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
〔画像〕p1【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/1

p4【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
〔画像〕p4【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/4

対談 人間・藤井較一を語る
   娘 中野房子
   孫 藤井達也
   1986(昭和61)年5月30日

藤井 おじいさまのご兄弟は三人?

中野 そう、お姉様のカツという方、
   この方は霜山家へお嫁に行って
   四十歳でなくなられました。
   弟の豁爾様は教育者で、
   岡山黌という当時の中学校を創立され
   経営なさっていました。
   豁爾叔父様の長女(和子)が
   岩崎(平造)さんという家へお嫁に行って、

   注:1915(大正4)年5月 福田英子の媒酌により
     長男平造、藤井豁爾(岡山黌中学校長)の
     長女和子と結婚(戸籍上は11月2日)
     【岩崎革也年譜】p23-24
     https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/23

   現在、九十歳過ぎで
   お元気でいらっしゃいます。

中野 そうね。おじいさまは、※藤井較一
   幼いころ、なんでも、
   山を越えて私塾に勉強に
   いらっしゃっていたようです。
   そこの先生が景山という方です。
   その景山家に五つ位の
   おかっぱの娘さんがいらして、
   おじいさまの勉強中によく背中にもたれて
   「あたし、較一さんのお嫁さんになる」
   といったそうです。
   この娘さんが、後に、
   婦人解放運動で活躍した福田英子なんです。
   これにまつわる話を、
   草柳大蔵さんが、
   何かの雑誌に書いていらっしゃいました。
   福田英子の「妾(わらわ)の半生涯」という
   自叙伝からの引用ですけれど――。
   私の知っているころの福田英子っていう人は、
   もう晩年でしたが生活が厳しかったようです。
   私たちの青山の家へよく見えました。
   小間物や衣類の行商をなさっていたようで、
   おばあさまがその都度、
   何かを買ってあげて、
   お昼と夕ご飯をご馳走していたのを覚えています。

   この英子という人を、
   総理大臣をした犬養さんとおじいさまが
   取りっこしたとかいう話がありますけれど、
   これはおかしいと思います。
   おじいさまは十五、六歳で上京して
   いらっしゃるし、
   犬養さんとでは年代も少々違いますもの。
   この福田英子さんとは、
   大きなテーブルで一緒に食事をしたものです。
   目の玉のギョロットとした人だという記憶があります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/22

<写真>
岡山黌(旧制中学)創立者 藤井豁爾胸像の前にて
前列中央 藤井豁爾 右 政代
  左へ 岩崎和子 赤木裕子(ひざの上 始子)
後列右端 藤井芳雄(較一の長男)
  左へ 藤井如夫(ゆきお)(豁爾の長男)
  ひとりおいて 岩崎平造
p26【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
〔画像〕p26【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/26

 心の中の大きな宝 おばあ様
     下釜和子
<写真>
故 藤井較一10年祭(於・駒場)
※昭和10年(1935)7月 較一没後、
 十年祭を駒場にて挙行。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/60

前列右より 横田秀野  岩崎和子 藤井重子 横田秀雄
      藤井豁爾  三好嶺子 藤井和子
中列右より 藤井ふみ子 藤井嘉子 赤木裕子
      津田雅子  小宮久子 中野房子 藤井茂代
後列右より 藤井静雄  藤井如夫 佐藤 享
      冨士田次郎 中野 惇 栗田万次郎
p40【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
〔画像〕p40【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/40

藤井家縁戚図 ※岩崎平造関連
 豁爾=米子(津枝)
 和子=平造(岩崎)※岩崎革也の長男
    注:1891(明治24)年5月2日生
    兆民    ※岩崎平造の長男
     注p24:1918(大正5)年12月10日生
    (民本から民也)岩崎平造の次男
     注p24:1919(大正8)年2月6日生
    淑子    ※岩崎平造の長女
     注p25:1920(大正9)年12月12日生
    長     ※岩崎平造の三男
     注p25:1922(大正11)年5月26日生
     注:【岩崎革也年譜】p24-25
     https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/24
p65【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
〔画像〕p65【藤井大将を偲ぶ:没後60周年記念誌】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/13295259/1/65
藤井大将を偲ぶ  没後60周年記念誌
1986年11月25日発行  非売品
編集・発行 海軍大将藤井較一
      没後60周年記念誌 刊行会
連絡場所  横浜市緑区しらとり台11-11-2-506
      藤井孝興
      電話045-983-6018
印刷製本  (有)クリタ印刷
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須知町の岩崎秋月(岩崎革也)君に連れられて美女山といふ山の麓の小さい料理屋で酒を飲んだ【堺利彦全集 第四卷】1933

【堺利彦全集 第四卷】1933
出版者   中央公論社
出版年月日 1933
p3【堺利彦全集 第四卷】1933
〔画像〕p3【堺利彦全集 第四卷】1933
https://dl.ndl.go.jp/pid/1912744/1/3

   鬼ころばし
  大山元帥の忠魂碑

  美女山下の歌
須知町の岩崎秋月君に連れられて
美女山といふ山の麓の小さい料理屋で酒を飲んだ。
其晩出來た歌。

 既に四年、白髪ぬきつゝ文を賣る
    十二の骨を葬りしより後

 鬼がすみし丹波の山に客となりて
    都の人と藝妓に持てる

 鮎うまし鰻もうまし若栗の
    蓮の實の味に似たるもうまし

 松茸も栗もまだ出ず早稻の穗の
    わづかに黄ばむ丹波の初秋

 鬼ころばし、丹波の酒の強きに堪へず
    朝日ビールの淡きを撰ぶ

 急行列車、あわたゞしげに新橋を出でし人
    ランプと蠟燭の芝居に一夜を過す

 雜樹密生の庭、洞然として物なき室
   其の眞中にころがつて晝寝をすれど
   起す人もなし

  上田屋藥局のオヤヂ
丹波の歸りに京都三條は富の小路の上田屋藥局を
ちよと覗いて見た。
こゝの主人は上田蟻善君といふ藥劑師で、
「勞働者諸君」の爲に「實費投藥」といふ事をやつて居る。
「施藥と云ふ事」は迚(とて)も出來るものでないが、
「場合に依つては無期限貸與を致します」
と云つて居る。
p125【堺利彦全集 第四卷】1933
〔画像〕p125【堺利彦全集 第四卷】1933
https://dl.ndl.go.jp/pid/1912744/1/125
昭和八年八月 十日印刷 堺利彦全集第四巻
昭和八年八月十六日發行 非賣品
著 者 堺 利彦
發行者 木田 開
    東京市麴町區丸ノ内二丁目二ノ一
印刷者 秋葉 信
    東京市牛込區市谷加賀町一ノ一二
發行所 中央公論社
    東京市麴町區丸ノ内二丁目
    丸ノ内ビルデイング五八八區
    振替口座東京三四番
    電話丸ノ内五三五~五三七番
印刷所 株式會社秀英舎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1912744/1/284
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堺利彦の掛軸(1911(明治44)年4月、1914(大正3年)9月)【岩崎革也資料の発掘】1994

【岩崎革也資料の発掘】1994
著者    太田雅夫 [著]
出版者   [Assosiation for Asia Studies at Boston Marriott]
出版年月日 1994.3
p1【岩崎革也資料の発掘】1994
〔画像〕p1【岩崎革也資料の発掘】1994
https://dl.ndl.go.jp/pid/13307208/1/1

堺利彦は1911(明治44)年4月に
秋水の墓参のあと革也宅に一泊し、
「行春の青葉の底に生残る」(資料⑦)と揮毫し、
また6つの短冊に短歌や俳句等を残したが、
その一つの短冊には、
「幸徳秋水獄中最後の語」とし、
「一塵一毫の生滅も無意義に非ず」
(資料⑧) と揮毫したのである。

さらに、
1914(大正3)年9月には数日間
革也宅を訪れ客となり、
「娘十五にして我よりも丈高き春 
 白髪やうやく抜をちせさる秋」
 (資料⑦)と揮毫した。

そして、帰京後、堺はお礼として
秋水の所有であった遺物の詩箋に
「大正三年(1914)初秋
 丹波須知岩崎秋月兄の家に客となること数日 
 偶成数首を得たり 貝塚渋六」として、
「既に四年白髪ぬきつつ文を売る 
 十二の骨を葬りしより後」など
7首の短歌を書き送っているのである(資料⑨)。
p5【岩崎革也資料の発掘】1994
〔画像〕p5【岩崎革也資料の発掘】1994
https://dl.ndl.go.jp/pid/13307208/1/5

(資料⑦)
⑦▼堺利彦の掛軸
 (1911(明治44)年4月、1914(大正3年)9月)
堺利彦は1911(明治44)年4月に
秋水の墓参のあと革也宅に一泊し、
「行春の青葉の底に生残る」(資料⑦)と揮毫し、

1914(大正3)年9月には数日間
革也宅を訪れ客となり、
「娘十五にして我よりも丈高き春 
 白髪やうやく抜をちせさる秋」
 (資料⑦)と揮毫した。
(資料⑦)
〔画像〕(資料⑦)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13307208/1/6

(資料⑧) 
⑧▲幸徳秋水 獄中最後の語
  堺利彦の揮毫(1911(大正3)年4月)
その一つの短冊には、
「幸徳秋水獄中最後の語」とし、
「一塵一毫の生滅も無意義に非ず」
(資料⑧) と揮毫したのである。
(資料⑧)
〔画像〕(資料⑧)

(資料⑨)
⑨▲幸徳秋水の遺した詩箋に記した
  堺利彦の短歌(1914(大正3)年9月)
「大正三年(1914)初秋
 丹波須知岩崎秋月兄の家に客となること数日 
 偶成数首を得たり 貝塚渋六」として、
「既に四年白髪ぬきつつ文を売る 
 十二の骨を葬りしより後」など
7首の短歌を書き送っているのである(資料⑨)。
(資料⑨)
〔画像〕(資料⑨)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13307208/1/7
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美女山といふ山の麓で、岩崎秋月(岩崎革也)君と小酌す<堺利彦君より>高島米峯【新仏教 15(10)】1914-10-01

【新仏教 15(10)】1914-10-01
出版者   新仏教徒同志会
出版年月日 1914-10-01
p1【新仏教 15(10)】1914-10-01
〔画像〕p1【新仏教 15(10)】1914-10-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/10986940/1/1

 ◎私信の公開  米峯(※高島米峯)
  (二)堺利彦君より
第一信
  美女山といふ山の麓で、
  岩崎秋月君と小酌す
  俳句の樣なものが二つ出來た。
    美女山下二人と共に虫を聞く
    栗未だ出でず丹波の秋淺し
第二信
  昨日園部で晝飯を食うた、
  其時、女中の話に、
  此町の小麥山といふに忠魂碑がある、
  其の筆者は、
  外ならぬ大山元帥だといふ、
  特に吾兄に注進す。
p54【新仏教 15(10)】1914-10-01
〔画像〕p54【新仏教 15(10)】1914-10-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/10986940/1/54
大正三年九月三十日印刷納本
大正三年十月 一日發行
發行兼編輯人 境野 哲
印刷人    高島大圓
印刷所    株式會社 秀英舎第一工場
       東京市牛込區市ケ谷加賀町一丁目
發行所    新佛敎徒同志會
       東京市本郷區駒込片町十六番地
發賣所    鷄聲堂
       東京市小石川區原町六番地
大賣捌所   東京堂
       東京市神田區表神保町
       東海堂
       東京市京橋銀座四ノ一六
       北隆館合資會社
       東京市京橋元數寄屋町
廣告取次所  博報堂
       東京神田區三河町一ノ一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/10986940/1/59
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[岩崎革也略伝]5. 地方政治家と教育への情熱:元祇園の芸者の妻 山瀬富【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

5. 地方政治家と教育への情熱
1923(大正12)年6月5日に
日本共産党執行委員長であった堺は、
第1次共産党事件で検挙され、
市ヶ谷の獄中にいた。
また、かつて面識のある大杉栄は、
関東大震災のあと、
9月16日に憲兵大尉甘粕正彦の手で扼殺されていた。

このとき、革也は
京都府府会議員選挙に政友会から立候補し、
選挙戦を戦っていたのである。
船井郡選挙区は定員1名で、
革也の対立候補として、
山内寛治郎が憲政会から立候補していた。
山内は、かつて1908(明治41)年に革也が衆議院議員に
立候補しようとしたときの参謀であった。
船井郡の府議選は、
京都府下各郡のなかでも最激戦地で最も注目されていた。
革也は犬養とも親交が深いため、
国民党系とみなされていたので、
「無理矢理に輸入した公認候補」と
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/15

いわれ苦戦を強いられた。
しかし、京大教授市村光恵博士の応援を求めて
各村で演説会を開き気勢を挙げた。
9月25日の投票の結果、
革也3326票、山内候補3167票、
その差159 票という僅差で、革也は当選した。

革也は、府議当選前に郡立須知農学校が乙種であったため、
郡制が廃止され郡立から府立に移管されるにさいし
甲種への昇格を、中心になって働きかけ、
1923(大正12)年4月に甲種に昇格させ
地元のために貢献していた。

府会では、10月に郡部会参事会員に就任し、
通常府会が11月24日から開会されたとき、
革也は郡部会で、下山停車場道路の敷設に関して、
郡内町村の強い要求をバックに、
府の土木行政に対する批判を展開し、
不急の事業に多額の府費を支出しているから、
緊急を用する土木事業が圧迫させていると痛論した。

その結果、下山駅が設置されると
それに通じる道路が認められた。

そして、1925(大正14)年10月10日、
山陰線下山駅が設置され下山停車場線も完成して、
地域住民の期待に応えたのである。

革也は、大滝ダムの建設にも力を注いだ。
須知町は、瀬戸内海斜面と日本海斜面の分水嶺であるため
一たび大きな旱魃に見舞われると大被害をもたらす。

1924 (大正13) 年の夏は、
丹波地方は末曾有の大旱魅で大きな被害を蒙った。
府議在任中のことであり、
革也は大滝ダム建設に尽力し、
1930(昭和5) 年に完成を見ることとなった。

また、1926(大正15)年3月に、
発起人の1人となり
須知農業学校正門建設の寄付を集め推進し、
花崗岩造りの立派な正門を設立した。

このような府会議員としての実績を残して、
1927(昭和2)年9月、任期満了で府会議員を辞したのである。
なお、再度立候補のすすめもあったが
府会は「腐会」だといって再び立候補しなかった。

まさに、中江兆民が帝国議会を「無血虫の陳列場」と
ののしって議員を辞職したのと、
一脈相通じるものがあるといえよう。

この間、国内政治では、
1924(大正13)年1月に第2次憲政擁護運動が開始され、
5月10日の第15回総選挙では、
護憲三派が圧勝し護憲三派内閣が成立した。
1925(大正14)年5月5日に普選法が成立し、
無産政党の結党が認められ、
1928(昭和3)年2月20日の第16回総選挙では、
無産政党系代議士が8人出現するのである。

第一次共産党事件で入獄していた堺は、
出獄後、革也との文通が再開された。

1929 (昭和4)年3月16日、
堺は東京市会議員選挙に日本大衆党公認として立候補し、
最高点の1275票を得て当選した。
その際、堺は革也に選挙費用の援助を要請するが、
この時点では、思想的・政治的立場の違いがあっても、
革也の友情は変わらず、
100円の資金カンパをして堺を感涙せしめているのである。

そして、革也は還暦を迎えたこの年の4月、
3度目の須知町長に就任するのである。

金融恐慌から世界大恐慌で不況の最中、
町財政の困難のなかの町長である。

町長在任中の大きな事業は、
府道桧山丹波線の椿切下げ工事に農村医救事業として
1931(昭和6)年1月に着工し、
1932(昭和7)年3月に完成させている。

当時人々はこの街道を革也道路と呼んでいた。
革也は、完成記念に椿坂の石を自宅の庭石に敷き、
今なお岩崎邸の庭園にその名残りを見ることができる。

革也は、この椿坂工事の完成を見て、
1932(昭和7)年3月24日に
須知町長を辞任するのである。
なぜなら、不況の嵐は、
革也が頭取をしている須知銀行にも波及し、
町長を続けながらの銀行経営が困難になってきた。

この辞任の経緯は、
今なお残る次の文書が明らかにしてくれる。
「現町長岩崎革也氏ハ一方
 須知銀行ノ頭取ヲ務メラルル処ナルガ、
 近時地方財界混乱ノ際、是レガ安全ヲ計ルタメ、
 一意専心経済界ニ没頭センガタメ町長ノ職ヲ辞セントス
  昭和7年3月24日
    須知町長代理 田端長久郎」

町長を辞任した革也は、
須知銀行の業務を一時閉鎖して、
私財70万円を投じて整理に没頭した。

大きな犠牲をはらって再建に努力したが、
ついに1937(昭和12) 年7月に、
優良資産だけ中丹銀行に買収され、
1942 (昭和17)年に須知銀行は解散となるのである。

革也の生涯を見るとき、
その活躍分野は、思想・政治・経済に及ぶが、
もう一つ教育分野での活躍を見逃すことはできない。

須知では自由民権運動時代、
すでに新聞縦覧所や以文舎が開設されており、
革也の少年時代これらを利用したことは充分考えられ、
さらに井上堰水の発蒙館での生活などの経験から、
革也は少年・少女の教育に対する熱意は強烈なものがあった。

私設の図書館をつくったり、
有為な子弟に学資を出したりしたことはすでに知られている。

すでに、政治・経済界から引退した革也は、
その晩年を自分の出身校、
須知小学校の全面的な大改築に、
その情熱を燃やしたのである。

1933 (昭和8)年から、
須知小学校の大改築と大講堂の建設が始まるが、
革也は町当局を抜けて参画した。

とくに革也は大講堂の建設にその熱情を傾注した。
用材はすべて大和吉野から吟味して調達し、
階段の手摺りにも、
色んな造形を施し
そのまま生きた教材に使えるよう工夫をこらしている。

革也にとって講堂は、
将来、道義の殿堂であり、議政壇場であり、
文化芸術の温醸所でなければならないと考えていた。

そのため、二面の大額を掲げ、
その揮毫は女婿岩崎吉勝を通じて、
明治神宮々司有馬良橘海軍大将・
井上哲次郎博士に依頼して掲げたのである。

須知小学校の大改築は、
総工費85,660余円を投じ
1935 (昭和10)年5月に竣工した。

京都府下でも類をみない
立派な小学校の校舎であった。
竣工した大講堂をみた
革也の喜びと期待は如何ばかりであったろう。
建築後58年を経た現在でも、その雄姿を誇っている。

さらに、成安女子高等学校幹事・
勤労女学校長などを歴任した
女婿の教育者岩崎吉勝は、
1939(昭和14)年、
早稲田社会学会時代からの友人、
時の通信大臣永井柳太郎に、
須知小学校玄関の額面に
「協力」の揮毫を依頼したのである。

また革也は、1943(昭和18)年に
須知町・竹野村・高原村の
組合立蒲生野青年学校が開設されたとき、
校舎建設のために酒庫を提供している。

そのとき交渉に当った当時
青年学校教諭であった田畑長夫は、
革也は
「よし、よく判った。
 さっそく明日、つぶして持って行け、
 今日の青年の教育は極めて大事だ。
 御苦労だが、きばってくれ」
と、余分のことは何も言わず、
たった一言で承知してくれた。
さすが大人物だと心から敬服したと述懐している。

交渉に行ったのは8月頃だとのことだから、
革也の死の2カ月前に当る。

まさに終焉の直前まで、
「教育は極めて大事だ」といわしめた、
革也の教育熱には敬意を払わざるをえない。

革也の晩年においては、
彼の生涯にわたって関わりがあり、
交友のあった多くの人々はすべてこ
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/16

の世を逝っていた。

中江兆民・井上堰水・川合清丸・田中正造・福田英子・
幸徳秋水・森近運平・久板卯之助・大杉栄・
高畠素之・犬養毅・堺利彦・西川光二郎
などの名が浮かぶであろう。

革也の晩年は、
「充棟の書に埋まって読書三昧の生活」
を送っていたといわれる。

そして、1943(昭和18)年10月13日、
尿毒症で療養中
自宅で74歳の生涯を閉じたのである。

最後まで病床の革也の世話をしたのは、
大正の初め以来、入籍はしていないが、
結婚生活を続けてきた
元祇園の芸者の妻 山瀬富であった。

[参考文献] 
「岩崎革也年譜」の「出典」および
「岩崎革也研究文献目録」参照。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/17
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[岩崎革也略伝]4. 大正デモクラシーと社会主義者【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

4. 大正デモクラシーと社会主義者
吉野作造が1916 (大正5)年1月、
『中央公論』 1月号に
「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」
という民本主義論文を発表してから、
大正デモクラシー運動が盛り上がってきた。

そして、国内的な政治上のデモクラシーだけでなく、
国際上のデモクラシーが生じ、
次第に社会的デモクラシーが主張され、
一方では、大正期の文化主義・教育主義・人道主義を
かもしだす風潮を築いていったのである。

国外からは、
「すべての階級のデモクラシー」という
ウイルソンの声と
「無産階級の解放」というレーニンの叫びがきこえてくる
1918 (大正7)年の夏、
日本近代史上、
空前絶後の民衆運動といわれる米騒動がおこった。

そして、新聞の世論と米騒動の民衆運動によって、
9月に寺内 “非立憲”内閣は退陣し、
政友会総裁原敬による
わが国はじめての政党内閣の誕生となったのである。

米騒動のあとデモクラシー潮流は急速に増していき、
黎明会・労学会・新人会・民人同盟など
思想啓蒙団体が生まれ、
出版ジャーナリズも急速な発展をみせ、
『我等』『改造』『解放』などが続々と創刊され、
「改造」「解放」という言葉が
民衆の合言葉となりつつあった。

かくして、大正デモクラシー運動として
象徴的な普選要求の民衆運動が、
1919 (大正8)年には展開され、
大正デモクラシーも最高潮に達するのである。

このようなときに、
1919(大正8)年2月6日、革也に孫が誕生した。
平造の次男である。
革也は、その孫に民本と命名した。
まさに、大正デモクラシーの申子ともいうべき名前であった。

革也は一旦、民本と命名して届を出したものの、
それでは余りにも……という周囲の声もあり、
民也という改名届を出さざるをえなかったのである。

革也の、デモクラシー運動によせる期待の大きさを示す
エピソードでもある。
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[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち➃【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち➃
「状勢一斑第七」に、
「岩崎革也(銀行頭取)ハ大正五年三月中
 高知在住幸徳駒太郎へ宛電報為替ヲ以テ金百円ヲ送り、
 同人ノ保存セル故中江兆民カ幸徳伝次郎ニ与へシ
 『経国大業不朽盛事、贈幸徳秋水、兆民浪人』
 ト書シアル軸物ヲ購求シタル外
 ……同五年十二月長男平造ノ妻カ男子ヲ分娩シタルヲ
 『兆民』ト命名シタルカ如キコトアル」と記録されている。

この書は正しくは、
「文章経国大業不朽盛事 為幸徳秋水兄 兆民老人」で、
兆民が死亡する10日程前に病床で揮毫し
秋水に贈った色紙である。
秋水はこの色紙をこよなく愛し、
平民社の編集室に掲げ、
また兆民居士追悼会には持参して
参会者に披露したものである。
『状勢一斑第七』では、
革也が講求したかのようにとれるが、
実際には革也の手許には入らなかった。

すでに、幸徳駒太郎から、
1915 (大正4)年7月に、
「土南新聞」発刊のため
その創業費として購入して欲しいと依頼があった。
翌年3月5日に、
革也は駒太郎宛に兆民絶筆の書を購入するため、
駒太郎の要求に応じて前金100円を送金したが、
これらはすべて警察により視察されていた。

しかし、駒太郎は創業費の一部として、
堺を通じて
「実業之世界社」社長の野依秀一から50円を借入し、
兆民の書は野依の手中にあった。

そのため駒太郎は革也の前金より50円を堺に送金したが
なかなか返却せず、
堺もその50円を経営難の『新社会」に借用してしまった。

結局、兆民の書は革也には渡らず、
野依がもったまになってしまったのである。

12月10日に、長男平造の長男が誕生し、
革也は孫に兆民と命名したが、
12月は丁度、兆民の13回忌に当る。
革也にとって、
兆民絶筆の書が手に入らなかったことは
残念なことであったことだろう。

このような革也を、
当時の地元の人はどのように見ていたのであろうか。
藤本薫編『船井郡人物史」(1916年9月)によれば、
「氏は守産者にて藁の上へからの坊稚育ちなれども
 普通学は勿論漢籍をも修めて
 読書家として称せられ長ずる及び
 才智縦横、頭脳明晰にし
 弁論亦確かる為め忽ち名声を博し」とし、
町長など名誉職の数々を歴任して、
ついには
「代議士候補者たに及びたるが
 中途にして旗を巻きたるが如き思志薄弱、
 冷熱秋天の如くなるを惜むべし、
 斯る有様なれば清濁併呑の雅量に乏しき感あり
 之れが君が短所として修養を要する所なり」ともいう。

そして、
「殊に先年幸徳秋水一派の社会主義者と同視せられ
 警察の視察は善悪の別なく君に集中し
 君をして窮地に陥入れたる感あうしめたるは同情に堪へず、
 今や須知銀行頭取と云ふ大責任を荷ひ
 地方経済界の重鎮として他を顧みず奮闘せり」と、
大逆事件の影響を卒直に認めている。

さらに続けて、
「君は手腕卓越、資産豊にして他の羨む処なれども、
 家庭に風波絶えざるは遺憾なり、
 されど今や嗣子平造氏早稲田大学を卒へ
 郷にありて家事を助し、
 岩崎家は鬼に金棒、益々隆盛を期待すべきなり」と、
革也の家庭生活まで披露している。
すでに、長男平造が結婚してからの革也評であった。

なお、革也の長男平造は、
1917(大正6)年に南満州鉄道入社のため、一家で渡満し、
1920(大正9)年に帰国したのである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/14
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち③【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち③
『状勢一斑第四』には、
革也は昭憲皇太后の大喪中も喪章は一切付けないとし、
その理由として
「吾人ハ形式的ノコトヲ好マサルカ故ナリ」
と口外したと記されている。

確かに大逆事件とのかかわりで、
天皇制批判の抵抗という意味のもつ面もあるものの、
革也の形式的なことにこだわらない性格的な側面でもある。

近親の法事をやめてその費用を
ルソー生誕 200年記念会に寄付したり、
これは後述する長男平造の結婚式にも如実にあらわれてくる。

この頃から岩崎家では、おめでたが続くことになる。
すなわち、革也が3回目の結婚生活に入る。
再婚相手の登美子といつ別れたかは定かでないが、
おそらく大逆事件のかかわりで、
万一のことを考えての別れではなかったろうか。

今度の相手は、祇園の芸者であったという山瀬富で、
富は革也の死にいたるまで生活を共にし
世話をすることになる。
しかし、今度も入籍はしていない。
これも革也の
「形式的ナコトハ好マナイ」ということであろうか。

1914(大正3) 年になると、
7月に長男平造が、
早稲田大学政治経済学科を卒業し帰郷して家業を継ぎ、
8月には、長女きぬが、
福田英子の媒酌で小野吉勝(成女高等女学校幹事)と結婚し、
小野を婿養子として迎え分家を嗣がせている。

吉勝は、有香と号し、奈良県吉野郡出身で、
1903(明治36)年4月に早稲田大学高等予科に入学し、
早稲田社会学会に入会し、
永井柳太郎・白柳秀湖ととも幹事をつとめ、
社会主義協会・直行団にも加入し、
「直言」 記者として、
『平民新聞』 「直言」「火鞭」「新紀元」『世界婦人』などに
詩歌を度々発表している。

キリスト教社会主義者で「新紀元」「世界婦人」で
福田英子・石川三四郎・安部磯雄・田中正造・木下尚江などと
昵懇の間柄であった。

早稲田大学政治経済学科を卒業後、
成安高女の幹事兼教師をしていたのである。

次に長男平造は、1915(大正4)年5月に、
これまた福田英子の媒酌で、
藤井豁爾(岡山 中学校校長)の長女和子と結婚した
(戸籍上は11月2日)。

藤井豁爾は、福田英子が最初の結婚話のとき、
軍人は嫌いだといって断った藤井較一の弟である。
吉勝は、福田の世話で早稲田大学時代、
藤井較一の子弟の家庭教師もしていたことがあるという。

結婚式は、岩崎吉勝の東京の寓居で行なわれ、
藤井家親族は藤井較一海軍大将夫人重子、
大審院長横田秀雄夫妻、
控訴院長霜山精一などが列席したが、
岩崎家は岩崎吉勝夫妻のみが参列し、
披露の宴もなく、
翌日に記念品贈呈というものだけであった。

革也は出席せず、「平和の結婚を祝す」
(平造の平と和子の和の結婚で平和) と打電したという。
まさに、革也の「形式的ナコトハ好マナイ」という
仕業というべきであろうか。

ところで、1914年の革也宛年賀状に堺は、
「又々ペンとパンとの新年を迎へ申候、
 それも早やグズグズの中に1日を費し申候」と書いていたが、
1月27日に「へちまの花」を売文社から創刊した。

そして、9月になると数日間、革也宅を訪れ客となり、
「娘十五にして我よりも丈高き春
 白髪ようやく抜をちせさる秋」
と揮毫した(口絵写真参照)。

帰京後、堺は礼として秋水の所有であった遣物の詩に
「大正三年初秋 丹波須知岩崎秋月兄の家に客たること数日
 偶成数首を得たり 貝塚渋六」として、
「既に四年 白髪ぬきつつ文を売る一二の骨を葬りしより後」
など7首の短歌を書き送っている(口絵写真参照)。

1915 (大正4)年3月17日に、
革也は須知町会の一致で第3回目の町長に選挙された。
しかし、
特別要視察人を知事としても
町長にすることはできなかったのであろうか。
4月9日、京都府知事
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/13

大森鐘一は、
「大正4年3月17日付甲第23号 請
 岩崎革也ヲ須知町長二選挙ノ件認可セス」という、
不認可の京都府通知が須知町役場に届けられた。

『へちまの花」5月号には、
この件についての革也の便り
「迂生今回須知町会の一致を以て町長に選挙致され候処、
 京都府知事大森の翁より不認可の達し有之、
 ……前代未聞の出来事、
 此間の消息真に面黒きもの候」を掲載した。
『状勢一斑」にはこの件は触れられていない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/14
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月14日
[岩崎吉勝:岩崎革也 養子:希望社 經營 勤勞女學校 校長]
【早稲田大学紳士録】
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[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち②【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち②
1911(明治44年)
9月には長男平造は、
早稲田大学政経学科に入学したが、
現住所福田英子方、保証人逸見斧吉は変っていない。
しかし、間もなく、
石川三四郎が横浜市根海岸芝生に転居することによって、
福田英子一家も横浜に石川と共に住むことになり、
平造は牛込区市ヶ谷薬王寺前町に下宿することになった。

革也は、10月15日に隠居届出をし、
大学生になった平造に家督相続を行なっている。

翌年の1912(明治45・大正1)年に特記すべきことは、
6月28日に、
堺・高島米峰らが発起人になって
「ルソー生誕 200年記念会」が行なわれ、
記念晩餐会は約40名の有志が集まり
神田淡路町の料亭多賀羅亭で開催され、
会費は無料でこの費用130円は
革也が拠出したものであった。

後年、発起人の1人高島米峰は、
「革也さんのお陰で、
 初めて高級なフランス料理を食べさせてもらった。」
と語っている。
記念講演会は神田美士代町青年会館で開催され、
三宅雪嶺ら 500人が参加し、
ルソー生誕の記念を兼ね兆民・秋水幸徳を偲ぶ会ともなり、
多くの社会主義者たちも参加した。

革也にとって、
1912(明治45・大正1)年
6月9日は父藤三郎の17回忌、
6月25日は母くまの7回忌、
さらに祖父儀左ヱ門の37回忌にあたるが、
この法事をやめて、費用を提供したのである。
当時の「読売新聞」(1912年6月29日)には、
「200年の後に日本人の法事の費用で
 自分の記念会が催されるとは定めてルソーも
 思ひ及ばなかった事であろう。」と報じられている。

この年は、明治天皇の「崩御」と大正天皇の「即位」という
歴史的なエポックにおいて、
わが国の民衆はなんとはなしに
新しい時代の潮流を感じとっていた。

大正と改元された年の12月に
第2次西園寺内閣が総辞職に追い込まれ、
第3次桂内閣が成立することに端を発して
第1次憲政擁護運動が展開された。

民衆の力で桂内閣を倒したという点で、
日本の近代政治史上に特筆すべき事件であった。
その中心人物が犬養毅・尾崎行雄で、
当時憲政の神様といわれた政治家である。

その犬養毅が、再び革也宅を訪れたのは、
1913 (大正2) 年の秋であった。
そのとき、
犬養は革也宅の寄書帳の表題に
「情往興来帖」と名付けて揮毫する。
さらに革也の求めに応じて、
公会堂のために、
「題須知公会堂壁」と為書きして揮毫した。
その掛軸は今なお公民館に掲げられているが、
その由来を知る町民は今では数少ないであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/13
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2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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[岩崎革也略伝]3. 特別要視察人と家族たち①丹波町是五則【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993

【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち①
1909(明治42)年3月、革也は2回目の須知町長に就任した。
革也は町長就任に当り、4月3日に次の町是五則を制定したが、
発蒙舘時代の恩師井上堰水に相談したものと見られる。

1. 本分を自覚して職業に勤勉す。
1. 文教を振興して知徳を増進す。
1. 質素を体守して風儀を高尚す。
1. 自治を愛重して町源を涵養す。
1. 進取を目的として守成を領持す。

革也は、40歳という不惑を迎えて町是五則のもとに
須知町政に全力を傾注していた。

奇しくも同じ年に、
船井郡園部町長に30歳の中山伝之丞(九天)が就任した。
中山は革也とは10歳年下であるが、
発蒙館で堰水に学んだ門下生でもあった。
慶応義塾大学理財科を父の病気のため卒業間際に退学。
在学中に社会主義に関心をもち、
矢野文雄の影響をうけ、
園部に帰郷してから執筆にかかり、
「社会主義提要」(京都文港堂、1904(明治37)年8月刊) を
25歳のとき出版していた。

かねてより革也とは親交があり、
革也と同じように犬養毅などとも交友関係をもっていた。

中山の三男が1910 (明治43)年4月24日に生まれたときは、
革也が名付親となって「章」と命名している。

革也の長男平造は、
1910(明治43)年5月に
早稲田大学高等予科政治学科に入学した。
学籍簿によれば、
現住所は東京府豊多摩郡淀橋町角筈7の38 福田英子方、
保証人は東京市日本橋大伝馬町1の25 逸見斧吉で、
『世界婦人」のネットワークである。

『世界婦人」編集兼発行人として石川三四郎が入獄しており、
革也は福田英子に対する経済的な援助も兼ねて
平造を下宿させたものと思われる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/12
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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