教育

《山内孫太郎・久豊》《山内但馬守・盛豊・猪助:橋爪城生》【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】1976

【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】1976
著者    編集委員: 平尾道雄 [等]
出版者   高知県立図書館
出版年月日 1976
 p3【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
〔画像〕p3【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/3

     第五章
   一 系 譜
 一 御當家御系譜一
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/15
 《行 方》
山内孫兵衛
丹波国橋爪城主代家系 於丹州爲兵火消失 云々

 《久 豊》
山内孫太郎 大永中卒
仕足利義晴 河州赴令
五味久庵 而 橋爪城 爲留守 後赴 尾州
〇久豊 大永元年七月朔日卒
 諡 方廣院華兵嚴相 又於阿洲卒云
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/16
 《盛 豊》
山内但馬守 幼名 猪助
明應九年庚申 於丹波国橋爪城生
母 二宮修理亮俊宗 女 
弘治三年丁巳七月十二日卒 五十八
法性院逸溪光秀 葬墨田法蓮寺
※法性院殿逸溪光秀
      イ 刈安賀要法寺葬
 室 梶原氏女
   ―略―
〇異本 丹波国三宮城主
    山内日向守盛通 御子トス
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/17

  五 御家御正統御院号 附 畧記御夫嬪
一 法性院殿逸溪光秀 山内但馬守盛豊公
  山内中興之祖 孫太郎久豊公
  御嗣君産
  丹波国橋爪城
  弘治三丁巳七月十二日
  尾州黒田於土居爲夜討
  御戦死御享年五十八
  同所 法蓮寺御送葬 日蓮宗也
     ―略―
一 盛豊
  大職冠 藤原鎌足公 三十代
  山内孫太郎久豊 長男
  明應九庚申年 月日不詳
  於 丹波国橋爪生
  幼名 猪助
  母 二宮修理亮俊宗 女
  後 織田伊勢守信安之幕下
     ―略―
一 一豊 ―略―
p63【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
〔画像〕p63【皆山集:土佐之国史料類纂 第3巻 】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/63
土佐之国史料類纂
皆山集 第三巻(第五回配本>
    歴史(2)篇
    定価 五、九〇〇円
昭和五十一年二月二十九日印刷
昭和五十一年二月二十九日発行
編集委員 平尾道雄
     山本 大
     横川末吉
     弘田 競
     示野 昇
発行所  高知県立図書館
     高知市丸の内1-1-10
     電話72-6307
印刷所  関西謄写堂
     高知市北本町2-6-5
     電話83-6070
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山内一豊の祖父久豊の居城、橋爪城【遠州松下加兵衛之綱とその一族】冨永公文1984

【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
著者    富永公文 著
出版者   樹海社
出版年月日 1984.9
p3【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
〔画像〕p3【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/3

 松下加兵衛、丹波国船坂城主六千石
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/62
さらに、
加兵衛がその一部を領していた
丹波町の豊田、
上豊田付近には松下氏と縁の深い
山内氏の旧領があり、
又、この丹波町に隣接する瑞穂町橋爪は、
山内一豊の祖父久豊の居城、
橋爪城のあった地である。

城地は鼓山の東方(現在寺がたっている)、
山陰道を見おろす好立地にあり、
付近には山内姓の家も多い。

同氏は当地に早くから勢力を有し、
山内伊豆守憲邦(弘安五年・一二八二没)、
山内越後守憲方
(元弘元年―南朝・元徳三年―北朝=一三三一没)
などの居城は三ノ宮城で、
城跡には井戸、濠を残している。
p65【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
〔画像〕p65【遠州松下加兵衛之綱とその一族】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12193934/1/65
著者<とみなが・こうぶん>
一九五六年生まれ
立命館大学産業社会学部卒業
現在、浜松市立与進中学校教諭
遠州 松下加兵衛之綱とその一族
発 行 1984年9月1日
著 者 冨永公文
発行者 那須田浩
発行所 樹海社
    浜松市富塚町209-15
    電話 0534-53-4511
    振替 名古屋7-31304
印刷所 桐屋印刷株式会社
定 価 1500円
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《橋爪城》船井郡京丹波町橋爪の常照寺の卵塔場の東側【日本城郭大系 第11巻】1980

【日本城郭大系 第11巻】1980
著者    平井聖 [ほか]編修
出版者   新人物往来社
出版年月日 1980.9
 p3【日本城郭大系 第11巻】1980
〔画像〕p3【日本城郭大系 第11巻】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12206441/1/3

橋爪城 160
①船井郡瑞穂町橋爪
②③④-
⑤山城
⑥本丸・土塁・穴濠・井戸跡
⑦一四一m×一四m、標高二四〇m、比高七〇m
⑧―
⑨『丹波志』

橋爪城は瑞穂町(京丹波町)橋爪の常照寺の
卵塔場の東側の坂道を上った所にあった。

『丹波志』には、
「山内但馬守盛豊、
 法名、法性院殿道溪光秀、
   ※法性院殿逸溪光秀
   【皆山集 : 土佐之国史料類纂 第3巻 (歴史(2)篇)】
    https://dl.ndl.go.jp/pid/9769763/1/63
 盛豊嫡子同紀三郎、其子善右衛門、
 其子山内加賀守政俊、
 船井郡橋爪城廃城の後
 檜山に蟄居す」
とある。

本丸は二四m×一四mの規模で、
高さ一m、長さ一八m、幅二mほどの土塁が
北端を限っている。

本丸の上に一四m×六mの高台があり、
この高台の北側にも
高さ五m、長さ二m、幅二mほどの土塁がある。

この高台が最高所の居館跡とすると、
天守台の祖形とも考えられる。

本丸には井戸跡らしい凹地があり、
本丸の南側の一団下った郭にも
池か泉の跡と思われる六か所の凹地がある、
また南郭には三方に土塁がめぐらされていた痕跡があり、
また南郭の東南には城戸口があって、
下方の数郭にも同方向に入口の門が認められる。

なお、中世の道としては
水呑本谷より和知町に入るものと、
当城麓の谷から三峠山を越えて
和知町に入る二つの道があった。
p63【日本城郭大系 第11巻】1980
〔画像〕p63【日本城郭大系 第11巻】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12206441/1/63
日本城郭大系 第11巻
京都・滋賀・福井
昭和55年9月10日 初版第1刷印刷
昭和55年9月15日 初版第1刷印刷
発行所      株式会社 新人物往来社
         郵便番号100
         東京都千代田区丸の内3-3-1
         新東京ビル
         電話 東京(03)212-3931(代)
         振替 東京6-151643
発行者      菅 英志
編集所      株式会社 創史社(代表 菅 住江)
         郵便番号101
         東京都千代田区神田神保町1-12
         電話 東京(03)233-4546(代)
装 幀      日本デザインセンター
口絵カラー印刷  株式会社 東京印書館
口絵モノクロ印刷 株式会社 光村原色版印刷所
本文・目次印刷  凸版印刷株式会社
折込地図印刷   株式会社 東京印書館
用 紙      三菱製紙販売株式会社
クロース     ダイニック株式会社
製 本      小泉製本株式会社
製 函      凸版印刷株式会社
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「累世丹波国橋爪の城に住す」山内氏は代々橋爪城に居住【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966

【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
著者    山本大 著
出版者   人物往来社
出版年月日 1966
p3【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
 〔画像〕p3【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/3

  山内氏のおこり  p8/167
   山内氏の系図と遠祖
山内一豊といえば、
われわれはすぐ、
妻の持参金で名馬を購入した話を思いだす。
一豊の立身出世のかげには、
この話に象徴される妻の献身があったことは
よく知られている。
それでは、
一豊とはどのような武将であるか、
また妻女はいかなる経歴の人であるか、
これから考えていこうと思う。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/8
   山内氏の発祥と山内経俊
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/10
   山内重俊と宗俊
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/11
 [山内系図] p13/167
(尊卑分脈・寛政重修諸家譜)
(山内家諸系図による   )
 p13山内系図【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
〔画像〕p13山内系図【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966

   丹波への定住
訴訟に敗れた俊家(能俊)は、
丹波国三宮(京都府船井郡瑞穂町)に移ったが、
この俊家(能俊)が一豊を藩祖とする
土佐山内氏の先祖となったと伝えられている。
いわゆる山内氏家系の丹波説のもととなっている。
そして俊家(能俊)以後、
代々丹波の三宮に居城し、
一豊の祖父久豊にいたったという。

三宮城址
土佐山内の祖と伝えられる俊家(能俊)が築いた
三宮城址は綾部街道沿いにある。
京都府船井郡瑞穂町(京丹波町)所在
 p13三宮城址【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
〔画像〕p13三宮城址【山内一豊 (日本の武将 ; 70)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/13

   祖父久豊と父盛豊
さて『寛政重修諸家譜』には、
久豊の項に
「今の呈譜久豊につくり、
 万松院義晴にしたがひ
 阿波国に至り、
 後尾張国におもむく。
 大永中死すよいふ」、
 ※大永(1521年8月23日〜1528年8月20日)
「久豊旧領を捨てて彼地を去り、
 武者修行して尾張国にいたり」
と書かれてあって、
久豊の時代に丹波から尾張に移ったとしてある。
そして盛豊の項には
「累世丹波国橋爪の城に住す」
と書いてある。
これによると、
山内氏は代々橋爪城に居住していたことになる。
橋爪城は現在の京都府船井郡京丹波町桧山の地で、
山陰線園部駅から西北へ国道九号線を
福知山に向かって進むと檜山の町にはいるが、
いまも橋爪の字が残っている。

さらに別の山内系図では、
三宮城が山内の居城であったと書かれている。

三宮城は橋爪城の北約八キロの地にあるが、
久豊は橋爪城に移っていたともいわれている。

そうだとすれば、
山内氏は代々、
近距離にあるこの両城を持城としていたのであろうか。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/14
ところで、
『寛政重修諸家譜』や
『皆山集』所収の山内系図によれば、
足利義晴に仕えていた久豊は、
橋爪城を五味久菴という者に託して留守を守らせ、
丹波を去って阿波から尾張に赴いたというが、
足利義晴は大永元年(一五二一)の段階では
播磨の赤松義村に養育されており、
当時十一歳であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/15
日本の武将70 山内一豊
<著者略歴>
山本 大(やまもと・たけし)
大正元年生まれ。
昭和十二年東京大学文学部国史学科卒業。
栃木師範学校教授を経て、
現在高知大学教授。
昭和四十一年十月二十五日 初版発行
定価480円
著 者 山本  大
発行者 八谷 政行
発行所 株式会社 人物往来社
    東京都千代田区丸ノ内三丁目二番地
    (新東京ビル)
    電話(212)三九三一(代)
印 刷 三秀印刷工業株式会社
    東京都文京区関口水道町四六
製 本 土開製本株式会社
    東京都千代田区神田三崎町一ノ三
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984172/1/164
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京丹波町 教育委員会 社会教育課
〒629-1192 京都府船井郡京丹波町本庄ウエ16番地
電話番号:0771-84-0028
ファックス:0771-84-2100
更新日:2024年10月15日
日時
令和6年11月25日(月曜日)午前9時集合、
午前9時30分開会、正午終了予定
会場
橋爪城(京丹波町橋爪)
集合場所
森のふれあい広場(サンダイコー瑞穂店様向かいの広場)
定員 20名
参加費 無料
対象 町内在住、在勤者、出身者
講師 福島克彦氏(城郭談話会、大山崎歴史資料館館長)
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「ケントババ」淡水魚「オヤニラミ」クローバーだより2024年7月号

クローバーだより 2024年7月号
 クローバーだより202407p1
法人名 特定非営利活動法人 クローバー・サービス
所在地 京都府船井郡京丹波町橋爪桧山53
〔画像〕クローバーだより202407p1
  編集後記 <編集子>
「ケントババ」「まんじゅうくい」と聞いて、
それぞれ何のことかわかる方はいらっしゃいますか?
私と同じ年代を過ごし、
同じ地域で育った方なら、
すぐにわかるかもしれません。
「ケントババ」は、
関西から西日本に生息する淡水魚
「オヤニラミ」のことです。
なぜこの地域で「ケントババ」と呼ばれているのかは不明。
確か祖父から教わった気がします。
えらの部分に大きな目のような模様があるのが特徴。
日本固有の在来種で京都府の絶滅危惧種にも指定されています。
子供のころよく川で見かけたのですが、
動きが俊敏で触ることすらなかなかできず、
運よく捕まえた時はヒーローのようになれました。
 クローバーだより202407p4
〔画像〕クローバーだより202407p4
http://www.cloverservice.or.jp/dayori/cd2024-07.pdf
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【原色日本淡水魚類図鑑 (保育社の原色図鑑 ; 32)】1963
著者    宮地伝三郎, 川那部浩哉, 水野信彦 共著
出版者   保育社
出版年月日 1963
【第33図版】 オヤニラミ属(Coreoperca)
 p115【原色日本淡水魚類図鑑】1963
〔画像〕p115【原色日本淡水魚類図鑑】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/1380141/1/115
120. オヤニラミ
カワメバル(長崎)・
ミズクリセイベエ(筑後川)・
ヨツメ(関西・中国・九州)・
ミコドン・ミコシンダイ・ケントババア(関西)
分布 京都府桂川、淀川の支流と由良川以西の本州・
   香川県・熊本県菊池川と
   大分県今川以北の九州・朝鮮の一部に分布し、
   水のすんだ流れのゆるい小川や溝にすむ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1380141/1/112
オヤニラミの卵と仔稚魚(今井・中原)
利用 日本産淡水魚中、
   もっとも美しいものの1つである。
   比較的飼いやすいから、
   観賞用として適当であろう。
 p113【原色日本淡水魚類図鑑】1963
〔画像〕p113【原色日本淡水魚類図鑑】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/1380141/1/113
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《質美尋常高等小學校》創立以來ノ學校管理者・首座敎員並學校長【船井郡教育沿革誌】昭和5年

【船井郡教育沿革誌】昭和5年
出版者   船井郡校長会
出版年月日 昭和5
p2【船井郡教育沿革誌】昭和5年
p2【船井郡教育沿革誌】昭和5年
  二九、質美尋常高等小學校
一、所在地 質美村字上野四一番地
一、創立  明治六年六月
一、勅語謄本下賜 明治二十四年一月
一、創立以後名稱ノ變更
創立當時船井郡十二區日進校質美分校ト稱シ
明治九年質美校ト改メ
明治十八年再ビ舊名ニ復ス
明治二十二年質美村立質美尋常小學校ト改稱ス
大正九年質美村立質美尋常高等小學校ト改ム
一、學校設置區域ノ變動 ナシ
一、校地移轉、校舎增改築ノ狀况
明治六年ヨリ明治九年マデ
質美村社八幡宮祠官宅ニ開校シ、
明治九年質美村小字田中地八番ノ一ニ移轉ス。
明治十三年ニ一校舎增築シ
明治二十九年ニ校舎ヲ解キ一校舎ニ改築建坪九十八坪、
明治三十五年修補ニヨリ面白一新ス。
明治四十三年現地ヘ移轉、建坪一八五坪。
大正十年講堂兼雨天體操場增築、
建坪一一四坪附屬建物二三坪。
以上經費ハ村民ノ指定寄附ニヨリ醵出セリ
大正十年校舎南面ノ地ニ大運動場ヲ設置
此擧村民ノ貴キ勞役奉仕ニ依ル。
一、學級編制ノ變遷
  ―略―
一、加設敎科目ノ變遷
昭和三年四月ヨリ尋常科一、二年ニ圖畫手工ヲ加ヘ
三年以上ニ手工ヲ加フ。
一、學校經費ノ狀况
  ―略―
一、創立以來ノ學校管理者
  初期年次不詳ナルモ
澤田藤一郎  和田良助 林角左衛門
山田丈右衛門 山内忠兵衛ノ諸氏就任
就職年月     退職年月     村長氏名
明治二二年 三月 明治二七年 三月 林九左衛門
明治二七年 三月 明治三〇年 三月 林良左衛門
明治三〇年 三月 明治三四年 三月 谷  守義
明治三四年 三月 明治三八年 三月 大西 秀吉
明治三八年 三月 明治四二年一一月 竹村 正夫
明治四二年一一月 大正 二年一二月 三好 彌藏
大正 二年一二月 大正 八年 五月 大西 藤馬
大正 八年 五月 大正一二年 五月 大西傳次郎
大正一二年 五月 昭和 二年 五月 林  兼次
昭和 二年 五月 現任       澤田又左衛門
一、創立以來ノ首座敎員並學校長
就職年月     轉退職年月    首座敎員學校長氏名
明治二二年 四月 明治二四年一二月 新江田重吉
明治二四年一二月 明治二六年 三月 小泉菊治郎
明治二六年 四月 明治二八年一〇月 谷浦 愛次
明治二八年一一月 明治三〇年 六月 山内孫之助
明治三〇年 七月 明治三〇年一〇月 稻垣  匡
就職年月     轉退職年月    首座敎員學校長氏名
明治三一年 六月 明治三三年 四月 高田  @
明治三三年 四月 大正 七年 三月 水島延之助
大正 七年 四月 大正一三年 三月 大槻 直一
大正一三年 四月 大正一五年 三月 細見淸一郎
大正一五年 四月 昭和 二年 五月 近藤仙太郎
昭和 二年 五月 現任       藤田與太夫
一、臨時ノ敎員
訓導兼校長 藤田與太夫
訓導    山藤治右衛門 訓導 藤本 活道
訓導    齊藤  照  訓導 藤井 義一
訓導    古津 淺次  訓導 大西つゆ子
一、小學校以外ノ敎育
  ―略―
一、敎育狀况一覽表(昭和三年九月三十日現在)
戸數 二一三戸
人口 男 五五九人 女 五〇三人 計 一、〇六二人
 學  校 學級數 兒童生徒數 就學入所歩合 前年度出席歩合
小學校 尋常 五   一五一  一〇〇・〇〇  九八・三四
    高等 一    三二          九九・一七
實業補習學校 二  男 二六  一〇〇・〇〇  七二・二〇
          女 一七  一〇〇・〇〇  四九・六〇
靑年訓練所  一    二〇  一〇〇・〇〇  六〇・六二
敎化團體 創立年月日      團員數
靑年團  明治四一年二月一一日  四一
處女團  大正一三年一月一五日  二五
婦人會  大正一四年一月二四日 一九八
昭和五年一月三十日印刷
昭和五年二月 四日發行
編輯兼 森 新之助
發行者 京都府船井郡園部町字小山小字西山拾四番地
印刷者 西田 傳吉
    京都府船井郡園部町字本町
印刷所 園部印刷合資會社
    京都府船井郡園部町字本町
發行所 船井郡校長會
    京都府船井郡園部第一尋常高等小學校内
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《丹波全國の中央に近き船井郡大久保村》國繪圖並に村繪圖の事:元禄10-13年【氷上郡志 上巻】昭和2年

【氷上郡志 上巻】昭和2年
著者    丹波史談会 編
出版者   丹波史談会事務所
出版年月日 昭和2
昭和二年二月十一日
男爵 田 健治郎識
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259180/1/7
   第三節 國繪圖並に村繪圖の事
本郡内に存する最古の地圖と思はるゝは、
谷川村の池谷に存する
延寶七年(1679)の村地圖なり。
此は其の當時撿地の必要に因りて
調製せしものならむも、
今審ならず。
其の後
元禄十年(1697)
幕府より地圖改正の事を命ぜらる。
德川實記
元禄十年四月廿八日の條下に
※1697年6月16日
 けふ令せらるゝは、
 三たび地圖改正せらるゝにより、
 其事つかさどるものより
 萬事尋問ふ事あらば、
 たがはざるやうにし、
 改正する輩の指揮にまかすべし、
 大身小身にかゝはらず、
 國郡村各しるし、
 萬石以上並に
 寺社領は寺社奉行 井上大和守正岑、
 其れ以下は大目付 安藤筑後守重玄、
 勘定奉行 松本美濃守重良へ出すべし。
 所屬ある輩は其の官長よりしるし出すべし、
 官庫の地圖しばらくの中
 かしあたへらるゝにより、
 一閲して返納すべしとなり。(日記、年鑑)
とあり。

右の記事によれば、
官庫の地圖を貸與する旨記せるが、
其は恐らく
正保二年(1645)のものなるべし。
其の地圖を根據として、
其の後或は公事訴訟等によりて
其の主管を變じたるもの、
或は一村二つに分れて其の支村となりしもの等を
悉く改正增補せしものなるべし。

此の時は丹波六郡を二郡宛に頒ち、
氷上 多紀を織田近江守、
桑田 船井を小出伊勢守、
天田 何鹿を朽木伊豫守の調査に附し、
各々其の下圖の成るに及んで、
全部の淨寫を小出伊勢守に一任し、
其の會合の場所を
丹波全國の中央に近き
船井郡大久保村に定め
【地図】旧丹波国の位置-下大久保
幕府の地圖作製の規定に遵據し、
約四ケ年の年子と百餘両の經費とを費し、
拮据經營
終に元禄十三年十二月を以て竣成を告げ、
  ※1701年1月
江戸に奉りて其の撿閲を受け、
無事に上納濟となれり。
而して之に關係の諸役人は
悉く褒賞を與へられし事、
詳細に柏原藩の日記にあり。
左の如し。
〇元禄十丁丑年六月廿三日
 ※1697年8月9日
 ―略―
p522 【氷上郡志 上巻】昭和2年
p522 【氷上郡志 上巻】昭和2年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259180/1/522

〇元禄十二年十月晦日 ※1699年11月21日
 一、御國繪圖方、
   福知山、園部此方
   御三方之御役人
   大久保村にて出合可申由此頃申來る、
   今日より御役人 藤田六郎左衞門、
   中川小左衞門罷越
〇元禄十三庚申正月廿日寅 晴
 ※1700年3月10日
 一、船井郡大久保江御國繪圖之御用に付
  朽木樣、小出樣御役人集會、
  依之爰元よりも兩人罷出候樣申來に付
  今朝より
   藤田六郎左衞門   御足輕二人、道具持一人
          罷越 供        宛遣
   瀧  三郎兵衞   挾箱持一人、駕御用一人
 一、朽木樣御役人中より去冬出合之節、
   六郎左衞門、小左衞門方へ音物有之に付、
   此度も其通に有之候而、
   御返答可被成候に付、
   雉子二持參之、
   大久保宿 五郎助方へ持參候
〇元禄十三年正月廿二日
 ※1700年3月12日
 一、船井郡大久保へ御國繪圖之御用に付、
   朽木樣、小出樣御役人參會、
   依之爰許よりは
   藤田六郎左衞門、瀧三郎兵衞、
   廿日より罷出
   今日罷歸る
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259180/1/525

是れ所謂當時のお國繪圖なり、
其の作製は一里を六寸の割合となせり、
されば假に一郡の縦横を各十里とすれば、
方六尺の面積を有するものにして、
之を六倍して丹波一國とすれば、
優に六坪以上の面積を有せしなるべし。
而して村繪圖は是を基礎として、
其の郷村限り幾倍かの大きさとなし、
中に田畑の反別、
筆數等をも悉く記載せり。
天保九年(1838)
江戸より巡檢使視察の際、
特に國繪圖、村繪圖の差出し方を下命せしが、
是は御領、私領、寺社朱印地の區別を
一見明瞭ならしむる爲に作りしものにして、
今各村に保存せるものゝ
多くは此の時に製作せしものなり。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1259180/1/526
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《山下天海》MF副将(スポ3=京都・須知)第31回早慶定期戦2023年11月23日:早稲田大学女子ホッケー部

早稲田スポーツ新聞会
ホッケー部
2023.11.29
第31回早慶定期戦 11月23日 
駒沢オリンピック公園第1球技場

吉野主将PS弾など4発で慶大撃破! 
2023シーズン、笑顔で締めくくる!
早稲田大学 4:0 慶應大学

MF山下天海(スポ3=京都・須知)
MF山下天海(スポ3=京都・須知)
――今日の試合を振り返っていかがですか

 今日で4年生が最後ということで
いつも以上に雰囲気も良かったですし、
4年生が引っ張ろうという気持ちと、
私たちが最後だから頑張ろうという気持ちが合わさって、
試合を戦うことができたと思います。

――得点シーンをそれぞれ振り返っていかがですか

 1点目に関しては自分が決めたいという思いと、
自分が決めることでチームの流れをもってこられるな、
エースとして決め切ろうと思っていました。
2点目は私が決めたというよりは
バリエーションでいこうとしていて、
結果的にポンポンとこぼれて決まったという感じでした。
ただ練習の成果が出て良かったと思います。

――秋季リーグ対戦時は1-0でしたが、
どこが一番改善したところですか

 最初に言ったような気持ちの部分が大きかったのと、
秋で1-0で追いつかれているな、
とみんな感じていたと思うので、
その中で今日までの練習は
「チャレンジャーの気持ちでやろう」
というふうに話していたので、
そこがこの結果につながったのかなと思います。

――今季1年間振り返ってどんなチームでしたか

 副将という立場で1年間やらせてもらったのですが、
主将が本当に絶対的で頼れる方だったので、
そこについていこうという私自身の思いと、
チームを引っ張っていこうという目標でやってきました。
最終的には早慶戦で勝利という成績を納められましたし、
本当に良いチームでシーズンを終われて良かったと思います。

――4年生にどんなことを伝えたいですか

 4年生は経験者が1人であとは
大学から始めた選手だった中で、
それでも引っ張ろうという気持ちを出してくれていたのと、
4年生だからと上からくるのではなく、
一緒に頑張ろうという感じで引っ張ってくれました。
それが良い結果にもつながりましたし、感謝しかないです。
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《福永梅芳師》京丹波町安栖里 龍心寺幼稚院:明治8年10月26日【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03

曹洞宗ナビ 龍心寺
〒629-1141 京都府船井郡京丹波町安栖里堂ノ成11
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【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
著者    中国四国教育学会 編
出版者   中国四国教育学会
出版年月日 1996-03
中国四国教育学会 教育学研究紀要
第41巻 第1部(1995年)
 p6【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
p6【教育学研究紀要 41[(1)]】1996-03
  明治,幼稚園草創期の幼児教育方法
 京都府安栖里村龍心寺幼稚院・
 京都市柳池幼稚遊嬉場を中心に 
   桒原昭徳(山口大学)
はじめに
1. 龍心寺幼稚院における幼児教育方法
a. 開設の経緯
  安栖里の地に「幼稚院」との名称を掲げて、
  我が国最初の村立(公立)の幼児教育施設が開校された。
  教師は龍心寺住職の福永梅芳であった。
b. 教育の内容と方法
  明治9年3月になって、
  京都府はドイツ語雇教師レーマンを通して
  「小児遊戯器具」の購入を契約し
  翌10年2月には模造のうえ販売を試みている。
  子どものおもちゃに類する道具などは、
  玩具ないしは小児遊戯器具と呼ばれているので、
  この場合の龍心寺幼稚院の「器械」とは、
  机や椅子などの学校用具を指していると考えてよい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/276
2. 柳池幼穉遊嬉場における幼児教育方法
a. 開設の経緯
b. 教育の内容と方法
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/277
3. おわりに
a. 龍心寺幼稚院は明治8年10月26日に、
  柳池幼穉遊嬉場は同年12月1日に開設されているが、
  その違いはわずかに36日である。
  京都府内の互いに60km離れた
  丹波の僻遠の地と京都市内で、
  東京の女子師範学校附属幼稚園開園の
  約1年前に開かれている。
  しかも、いずれの場合も、
  西洋の施設の存在を知ったうえで、
  作られていることに着目しなくてはならない。
  当時の京都府政の進取的な風潮の表われの一つである。
b. 龍心寺幼稚院の教師の役には、
  僧職にあった男性が当たり、
  柳池幼穉遊嬉場は、小学校教育法に通じた
  老実の教師を起用している。
c. 龍心寺幼稚院の単語図を用いたり、
  いろは図・五十音図などの習得は、
  当時の小学校の入学時の教材として
  広く用いられていた掛図を用いた教育方法である。
  したがって、室内においては、
  教師と子どもたちが対面する教授的方法が
  用いtられたと推察できる。
d. どちらの施設においても、
  言葉の上では遊びや遊歩への着目がなされている。
  龍心寺幼稚院の場合には、
  「児童と遊びて導けば良い」、あるいは
  「イロハ五十音、
   単語図等を遊歩旁々修業致させ度いから」
  と表現されている。
謝辞
本論執筆の直前の中国四国教育学会第47回大会
(岡山大学)幼児教育部会の発表において、
山陽学園大学教授・秋山和夫先生、
広島大学教育学部教授・森楙先生の
貴重な助言をいただいた。
記して、心よりの感謝を申し上げたい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/278
平成8年3月20日 印刷
平成8年3月21日 発行
教育学研究紀要 第41巻
編集兼発行者 中国四国教育学会
印    刷 株式会社 ニシキプリント
       広島市西区商工センター7丁目5-33
       〒733 電話(082)277-6954
https://dl.ndl.go.jp/pid/6035972/1/289
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【日本教育史資料 八 再版】明治37年
著者    文部省[総務局 編]
出版者   富山房
出版年月日 明治37
名 称   ……
學 科   讀・算
舊管轄   ……
所在地   安栖里村
開 業   天保二年(1831)
廢 業   慶應三年(1867)
敎 師   男一
生 徒   男二五 女
調査年代  慶應二年(1866)
身 分   僧
習字師氏名 福永梅芳
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《福永梅芳師・京丹波町安栖里 龍心寺》わが国最初の保育施設「幼穉院」明治8年10月【保育の友 28(11)】1980-11

曹洞宗ナビ 龍心寺
〒629-1141 京都府船井郡京丹波町安栖里堂ノ成11
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【保育の友 28(11)】1980-11
出版者   全国社会福祉協議会
出版年月日 1980-11
若き保育者へ
保育施設発祥の地・京都
  園部 道(京都市・信愛保育園園長)
さて、その保育園の歴史も
また京都からはじまったことを伝えたい。

わが国最初の保育施設「幼穉院」は、
一八七五年十月(明治八年)
府下船井郡和知町の「龍心寺」に開設された。
日本幼児保育史第一巻には
「竜正寺」の名称が用いられているが、
これは京都府教育史(昭和十五年刊)に
記されたものである。
しかし京都市園長会の保育年表委員会が
実地調査して明らかにしたのは、
和知町安栖里村の「龍心寺」である。
この「龍心寺」境内が幼児保育発祥の地である。

当時農耕に忙しい家庭の幼児たち、
谷深い僻地で危険にさらされて日々をおくる
幼児を集めて保育をはじめたのである。
住職 福永梅芳師は五十音、
単語図などを内容としていた由、
時の戸長区長の届出書により
明らかにされている。

これより、二か月後に京都市内の柳池校内にも
幼穉遊嬉場(幼稚園)が開設された。
その後も就学が奨励され、
子どもをみながら字を覚えてよいという
告諭が発令された。

東京女子師範に付属幼稚園が開設されたり、
京都市内でも小学校に幼稚園が付設されたのも
その後のことである。
 p28【保育の友 28(11)】1980-11
p28【保育の友 28(11)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971848/1/28
保育の友 第28巻 第11号
定価 410円 〒33円
昭和55年11月1日発行
編集人 小林芳之
発行人 見坊和雄
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 社会福祉法人 全国社会福祉協議会
    東京都千代田区霞が関3-3-4
    〒100 電話03(581)9511
    振替 東京1-39265
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971848/1/30

【保育の友 7(4)】1959-04
出版者   全国社会福祉協議会
出版年月日 1959-04
講座・保育の歴史(その1)
 保育所の源泉を求めて
 それは民間が生み民間が育てた
    副島ハマ
  ―略―
明治八年十月二十六日、安栖里村、
静正寺境内で住職福永梅芳氏の手で
「生命ヲ保持セントスル博愛的ナモノ」
が始められています。
※船井郡和知町安栖里村「龍心寺」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971591/1/24
保育の友 第七巻 第四号
定価 七〇円 〒四円
前金 六ケ月 四二〇円
   一ケ年 八四〇円
昭和三十四年三月十日印刷
昭和三十四年四月一日発行
昭和二十八年十一月二五日第三種郵便物認可
編集人 河村 定治
発行人 木村忠二郎
発行所 社会福祉法人
    全国社会福祉協議会
    東京都千代田区三年町一番地
    電話(58)三七〇一~五番
    振替 東京三九二六五番
印刷所 文永社印刷株式会社
    東京都新宿区淀橋五二三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/7971591/1/29
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【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
出版者   京都教育大学教育研究所
出版年月日 1983-03
 京都教育大学教育研究科 所報第29号
 表1障害児者に関わった教育・福祉機関の
   設立年月日(戦前)
 福祉関係
機 関 名  開 院 年 月 日
安栖里幼稚院 明治8年10月12日
京都府船井郡第15区(現、和知町)安栖里(あせり)の
曹洞宗龍正寺(住職、福永梅芳)から
  ※龍心寺
明治8年10月12日付で
“幼稚児童を毎日出席させて受業させたい”
との届が提出された。
農林業で親が不在となる家庭から
子どもを守るためのものであったらしい。
明治8年10月21日開院。
現在、龍正寺(※龍心寺)には
当時使用の机が残っている以外に文献資料はない。
(和知町教育委員会 中井教育長談)
 p145【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
p145【京都教育大学教育研究所所報 (29)】1983-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/2268692/1/145
京都教育大学教育研究所・所報
昭和58年3月1日発行
発行所 京都教育大学教育研究所
    〒612 京都市伏見区深草藤森町1
印刷所 日本写真印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/2268692/1/183
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