医師・歯科医師・看護師

瑞慶覧(ずけらん)"難読姓の"きわめつき【沖縄姓名と風土】1983

【沖縄姓名と風土】1983
著者    多和田真助 著
出版者   沖縄タイムス社
出版年月日 1983.10
p1【沖縄姓名と風土】1983
〔画像〕p1【沖縄姓名と風土】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12209060/1/1

  瑞慶覧……"難読姓の"きわめつき
沖縄の姓は、「門中を重んずる傾向」が強いようである。
たとえば、石川市山城部落の一門中が、
そっくり「山城さん」だったり、
玉城村の尚泰久の末裔である
屋良門中の「安次富さん」など、
このほかいくつかの例がある。

この門中を重んずる傾向は、
それだけ祖先を尊ぶということの
証明とも受けとれるものだが、
こと「姓名」に限って見ると、
多くの「同姓同名」者が続出している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12209060/1/38

これなど、沖縄ならではの現象といえる。

大里村の銭又部落には「瑞慶覧さん」がいっぱいいる。
同部落の世帯数が三十六戸で、
表礼はどこもかしこも「瑞慶覧」。

案の定、同姓同名が何組かあった。
最も多いのが「瑞慶覧長仁さん」で、
同部落内に十二人。
三十余戸数のなかから十二人ということだから、
相当の割合で同姓同名者が出たことになる。
次いで、「瑞慶覧長徳さん」が七人、「長吉さん」五人。
この三つが集中してあった。

沖縄の場合、同一門中における
「同姓同名」はさして珍しいことでもない。
どの門中でも、何組か抱えているものだが、
銭又の「瑞慶覧さん」のケースはきわめて
まれといえるのでは。

どうして「長仁さん」がこんなに続出したのか。
地元の人たちの話を聞いて納得。
部落の大長老的存在の人物にならって
命名したことが理由だった。
この大長老の名が「長仁さん」。
四年前に九十七歳で他界したが、
がん強な体の持ち主で、
戦後の荒れ果てた畑を開墾、財を築いた。
その働きぶりから
「ブルドーザー・タンメー」とも呼ばれ、
部落の人たちの模範となり、
並々ならぬ尊敬の念が寄せられたという。

同村の瑞慶覧一族は、いわゆる居留民。
とはいっても、大里村に住みついてから
二百年の歴史を持つ。
県会議員だった瑞慶覧長方さん(四九)も同部落の出身。
同氏によると、一族の先祖は首里の士族。
二百年前に都落ちをして、
銭又の屋取(ヤードゥイ)をつくった。
ちなみに同門中は、
氏が「寵」(チョウ)、名乗頭が「長」ということだ。

したがって、同門中の場合も、
沖縄の他の氏門中の例にもれず、
「瑞慶覧」と「長」までは同一。
名の下の一字で区別しているにすぎない。
同姓同名の続出は当然予想されたことであったが、
名乗頭の「長」に対する愛着は断ち難く、
また根強い門中志向があった。

この門中に対する意識も、
一時期とは事情がちがってきているようである。
四十歳以上の人たちは、
名乗頭「長」の一字を用いた名を持っているが、
若い世代では少なくなりつつある。

瑞慶覧さんは
「時代の流れでしょう。
 かといって全く絶やしてしまうわけにはいかない。
 長男だけは『長』の字をつけて、
 門中をはっきりさせないといけない。
 二男、三男はやむを得ないのでは……」と語る。

ところで、この「瑞慶覧」の姓、
他県に行くと"難読姓の"きわめつき。
それだけ沖縄固有の姓ということになると思うが、
本土の大学で学ぶ県出身のいかつい男子が
「瑞」(ズイ)、「慶覧」(ケイラン)と読まれ、
見目うるわしき中国女性にまちがわれた珍談もある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12209060/1/39

  バラエティに富む多良間の姓
https://dl.ndl.go.jp/pid/12209060/1/122

多和田 真助(たわた しんすけ)
1943年生。
1968年、沖縄タイムス入社、
現在本社社会部員。
その間、中部支社、学芸部
糸満支局をそれぞれ勤務。
現住所 宜野湾市字野嵩549番地

沖縄 姓名と風土 定価1,500円
初 版 昭和58年7月25日
第2刷 昭和58年10月20日
著 者 多和田 真助
発行人 玉城  義弘
発行所 沖縄タイムス社
    沖縄県那覇市久茂地
      2丁目2番地の2
    電話(代)67-3111
印刷・製本 南西印刷(株)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12209060/1/129
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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沖縄県立宮古病院附属多良間診療所(令和7年4月現在)診療所スタッフの紹介

沖縄の離島医療を支援していただく
医療人を募集
多良間診療所多良間島 (令和7年4月現在)
〒906-0601
沖縄県宮古郡多良間村字塩川162-3
TEL:0980-79-2101
FAX:0980-79-2103

多良間島は宮古島と石垣島の中間に位置する島で、
宮古島からの飛行機とフェリーが運航しています。 
人口は1000人程で、
島唯一の医療機関は多良間診療所になります。
診療所では成人の慢性疾患、小児診療、外傷、救急などを含め、
あらゆる疾患に対応しています。

診療所スタッフの紹介(令和7年4月現在)
医師:瑞慶覧 聡太
温かく、フレンドリーな島民の方々に支えられながら
毎日楽しく診療を行っています。
患者様一人一人の背景を理解し、
患者中心の医療の実践を心がけていきます。

看護師:知念 玲
産休・育休を経て、2025年度より戻ってきました。
子育てしながらの仕事に、毎日が大忙しです。
仕事復帰して、島の皆さんに助けられてばかりです。
初心を思い出し、一人一人の思いに寄り添えるような
看護が出来たらと思っています。

補助員:羽地 節子
患者様、仕事関係者の方々への心配りを忘れずに
相手の立場になって考え行動できるように
頑張っていきたいと思います。
多良間診療所多良間島 (令和7年4月現在)
〔画像〕多良間診療所多良間島 (令和7年4月現在)

沖縄県立宮古病院附属多良間診療所長
〔画像〕沖縄県立宮古病院附属多良間診療所長

那覇空港から多良間島まで 所要時間  約1時間30分
※ルートおよび交通状況により異なります。
那覇空港から飛行機で宮古空港(宮古島)へ行き、
さらに飛行機で多良間島へ
※宮古島から船で多良間島へ 約2時間
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総合診療医 瑞慶覧聡太(ずけらん そうた)京丹波町病院 医師(副院長):総合医療と地域のつながり2026/04

いきいき健康術
総合診療医
瑞慶覧 聡太(ずけらん そうた)
医師(副院長)
国保京丹波町病院
和知診療所

京丹波町の皆さん、はじめまして! 
この度、京丹波町病院に赴任いたしました、
瑞慶覧聡太と申します。
私はこれまで、
沖縄本島や京都府丹後地域をはじめとする各地で
「総合診療医」として地域診療に携わり、
先月まで沖縄県宮古島の西側に位置する
人口約千人の多良間島(たらま じま)で
離島診療所医師として働いておりました。
 -略-
京丹波町でも、まずは皆さんとのつながりを大切に、
誠心誠意取り組んで参ります。
ゲートボールのお誘いがあれば
いつでもお待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
瑞慶覧聡太医師 京丹波町病院
〔画像〕瑞慶覧聡太医師 京丹波町病院
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瑞慶覧聡太先生 瑞慶覧友香先生:新しい常勤医師に赴任いただきました【京丹波町病院】2026年4月1日

国保京丹波町病院
新しい常勤医師に赴任いただきました
【京丹波町病院】2026年4月1日

本日から当院に”常勤医”として着任いただいた
お二人の瑞慶覧(ずけらん)医師、
姓を同じくするお若いご両名はご夫婦です。

勤務初日は、午後1時30分からオリエンテーションが行われ、
院長はじめスタッフから業務に関するレクチャーを受け、
最後は撮影機器、検査機器の操作方法の説明を受けました。

瑞慶覧聡太先生は、
地域包括ケアシステムになくてはならない
”総合診療科”の医師で、
京都府立医大総合診療科の次世代の旗頭です。

瑞慶覧友香(ともか)先生は、
循環器内科がご専門ですが、
当院では総合内科として幅広い診療をされます。
質美診療所の所長としてもお世話になります。

今日は新任の看護師や事務職の3名も同席しました。

いよいよこの時が来たか・・・という印象です。
当院にも新しい風が吹く予感しかありません。

当院一筋で来られ、
慕って来て下さる患者様も多い垣田院長ですが、
いつも以上に力が籠ったレクチャーだったように感じました。
だからなのか、なんだかいつも以上に早口でした(;^_^A
(↑それ、あかんやつちゃう?!)。
新しい常勤医師赴任【京丹波町病院】20260401
〔画像〕新しい常勤医師赴任【京丹波町病院】20260401
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仕事初め式を行いました【京丹波町病院】2026年4月2日
今日は令和8年度の初日となる4月1日の火曜日でした。
瑞慶覧(ずけらん)聡太副院長:
「京都では北部医療センターにも勤めたりしましたが、
直近は沖縄の離島、多良間で”ひとり医師”をしていました。
よろしくお願いします。」

参加したスタッフの一部は、
瑞慶覧先生の”格好良さ”と、あいさつに含まれる
”情報量の多さ”の両方にキャパオーバーしたかもしれません(笑)

(瑞慶覧(ずけらん)友香医師は、
子育て真っただ中のママさん先生です。
本日は、早退されたため式は欠席でした。)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《前田武一》長岡町議会 副議長(京都府乙訓郡) 【長岡町二千年】昭和45年(1970)

【長岡町二千年】1970
著者    山本治 著
出版者   長岡町史編集委員会
出版年月日 1970
p3【長岡町二千年】1970
〔画像〕p3【長岡町二千年】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/3

  合併実現同志会を結成
知事の合併反対態度の表明、
長岡町議会の合併促進派の後退などから、
京都市と長岡町の合併問題は
一頓挫をきたした形となった。

京都市と長岡町の合併に指導的立場にあった
京都市合併促進協議会は(昭和36年)十月、
さらに有効な運動を展開するため発展的解消するとして、
新たに長岡町、京都市合併実現同志会を結成し
会長に中野種一郎、
副会長に山下良太郎、前田武一、
幹事長に足立政男の各氏を選んだが、
その後、
合併についての実現同志会の活動は弱まっていった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/105

  町議会議員
   定員二十六人 欠員 一人
   昭和四十五年十月一日現在二十五人
議 長 梅野五郎太
副議長 前田武一
議 員 -略-
p143-1【長岡町二千年】1970
〔画像〕p143-1【長岡町二千年】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/143

  町議会歴代議長、副議長
議 長 -略-
副議長 前田武一
就任年月日
昭和二八・ 二・二三
昭和三一・ 九・一七
昭和四三・ 五・ 七
昭和四四・一二・ 九
p143-2【長岡町二千年】1970
〔画像〕p143-2【長岡町二千年】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/143

  町史編集委員会の打ち合わせ
長岡町史編集委員会
編集委員 中山 修一(長岡京調査員)
 〃   岩城弥一郎(行政相談委員)
 〃   小山 寛一
 〃   湯川市之丞(元長岡町教育委員長)
 〃   菱田斉治郎(長岡町教育長)
 〃   前田 照男(長岡町総務部長)
編集委員 筆者 山本 治
p176【長岡町二千年】1970
〔画像〕p176【長岡町二千年】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/176
長岡町二千年(非売品)
昭和四十五年十二月一日発行
発行者 長岡町史編集委員会
印刷者 奥田印刷株式会社
    京都市上京区油小路通下立売下ル
発行所 長岡町史編集委員会
    京都府乙訓郡長岡町大字開田小字上新田一二番地
    長岡町役場内
https://dl.ndl.go.jp/pid/9572470/1/177
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【京都年鑑 昭和25年版】
著者    都新聞社 編
出版者   都新聞社
出版年月日 1949
 町村關係 昭和廿四年八月現在
[乙訓] ▼新神足村
村会議員
(議員)前田武一
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988157/1/210

【京都年鑑 昭和26年版】
著者    都新聞社 編
出版者   都新聞社
出版年月日 1950
 町村 昭和二十五年九月現在
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988158/1/124
[乙訓郡] 長岡町
町会議員
(議員)前田武一
各種委員(農地)
〔神足地區〕
前田武一
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988158/1/125
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 京丹波町病院 外科 前田武昌
京丹波町病院・外科 前田武昌
〔画像〕京丹波町病院・外科 前田武昌
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《藪本花子=吉田花子:船井郡須知町》令兄《藪本唯男》【日本医事年鑑 昭12年度版】【日本醫籍録 昭和15年版】

【日本医事年鑑 昭12年度版】
著者    日本医事新報社 編
出版者   日本医事新報社
出版年月日 昭和12
p4【日本医事年鑑 昭12年度版】
〔画像〕p4【日本医事年鑑 昭12年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1048203/1/4
《藪本花子》
大阪市 西淀川區 海老江中一ノ一八
《藪本唯男》
大阪市 西淀川區 海老江五ノ一八
p503【日本医事年鑑 昭12年度版】
〔画像〕p503【日本医事年鑑 昭12年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1048203/1/503
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【日本醫籍録 昭和9年版】
出版者   醫事時論社
出版年月日 1934
《藪本唯男》
大阪市西淀川區 海老江中一ノ一八
内小兒科 外科 花柳病科 藪本病院
明治卅七年七月卅日生
和歌山縣出身
昭和五年 愛知醫大卒業
登録 六二八二一號
卒業後 愛知醫大 勝沼内科ニ勤務
昭和六年七月 現地開業
《的場克己》
大阪市西淀川區 海老江中一丁目
内小兒科 外科 花柳病科 藪本病院
明治卅八年十二月十七日生
三重縣出身
愛知醫大卒業後 愛知醫大ニ研究
昭和六年七月 現地 藪本病院ニ勤務

【日本醫籍録 昭和15年版】
出版者   醫事時論社
出版年月日 1941
《吉田花子》
京都府船井郡 須知町三日市
小兒科 内科 吉田醫院
明治四四年三月十一日生
大阪市出身
昭和八年 大阪女子高等醫專卒業
卒業後 神戸市市立市民病院 内科ニ入リ
二ケ年在職後
大阪市西淀川區 藪本病院ニ歸宅
令兄ノ醫業ヲ補佐シ
昭和十一年 現在處 開業
須知町 町醫
趣味 讀書・渉獵・旅行

《藪本唯男》
大阪市西淀川區 海老江中一ノ一八
内外兒科 花柳病科 藪本病院
明治卅七年七月卅日生
和歌山縣出身
昭和五年 愛知醫大卒業
登録 六二八二一號
卒業後 愛知醫大 勝沼内科ニ勤務
昭和六年七月 現地開業
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生6二つの知識

【学友会同窓会名簿 : 同志社女学校専門学部・
 同志社女学校高等女学部 昭和3年6月10日調】
出版者   京都同志社女学校学友会
出版年月日 昭和3
p1【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
〔画像〕p1【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
明治三十九年普通學部卒業生(二一名)
吉田(船越)里
京都府船井郡須知町
p39【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
〔画像〕p39【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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桜子先生 6 二つの知識
花子
2024年12月13日 11:16
国道沿いの家に私は父や母、私たち子供、
お手伝いさんや看護婦さんと住んでいました。
祖父や祖母は、田畑が広がる在所で、
江戸時代から続く、大きな家に住んでいました。
父は9人兄弟で、父の一番下の妹は、
私の姉と6歳しか離れていませんでした。

祖母は、京都の同志社大学の前身で、
新島襄が京都で英語の学校を
始めた頃に学んだ卒業生でした。
つまり祖母は、
その時代の最先端の知識、
英語を身に着けた女性でした。
私の高校のころ、
「おばあちゃん、まだ英語覚えている。これ読んで」
と、高校の英語の教科書を渡しました。

祖母の時代から、
20年ほど遅れて生まれた母の『生き方』の違いに、
今更驚きます。
祖母は京都の田舎育ち、
母は大阪育ちで、
二人の育った環境も違いました。
母と祖母は、正反対でした。
二人とも若いとき、
当時の最先端の知識、医学や英語を学びましたが、
祖母はそれを恥のように隠し、
母は一生涯それを学び、活用した人でした。
祖母が本や新聞を広げているのを見たことありませんでしたが、
母は暇があると、取り寄せた専門書を読んでいました。
「ちょっとでも知ってると、
 一人でも患者さんを助けられるから」
「知らんということは、怖いことや」
と、母はいつも言っていました。

母の医院は、
祖父母の家から歩いて10分ほどの所でしたが、
祖母は、母に協力したり、
助けたりすることもありませんでした。
その必要もありませんでした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生2田舎

《吉田花子・吉田五三子・中島襄》吉田医院 丹波町蒲生
【医籍総覧 西日本版】昭和46年(1971)
コメント一覧
1. 藤岡真知子 2026年01月14日 19:18
医籍総覧に、吉田花子の事を書いていただき
ありがとうございました。
吉田花子は、私の母です。
昨年、ネットnoteに、
花子のペンネームで、
母の昔話を書きました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜子先生 2 田舎
花子
2024年11月21日 14:38
「お母さん どうしてこんな田舎に御嫁入したの」
ある日、潜り込んでいる布団の中で母に聞きました。
母の嫁入り先、つまり私の実家は、
山陰線の鈍行で京都駅から一時間以上汽車に揺られて、
下車した駅からバスで、今度は峠道を延々と上り、
頂上近くの隧道、つまりトンネルを超えて、
またどんどん下って行った、
日本海に通じる国道沿いの町で、昔は小さな宿場町でした。
あちこちの山間に田畑があり、
そこに小さな集落が点在している田舎でした。

「父の知り合いのお坊さんが、
 『よい話』と言ってね、
 わての嫁入り先の話をもってこられたんや」

母の父親は、すぐ現地に調べに行ったそうです。
まずその町の役場に、町の事情を聞くために入りました。
驚いたことに、
母の結婚相手の親が、
その町の町長だったのです。
二人は、話しているうちに意気投合して、
息子と娘の縁談を決めて帰って来たのでした。

国道沿いに二人の家を建て、
母が開業できるように、
待合室や診察室、薬局などを作ったそうです。
「わては、医者以外は何にもできないから、
 お手伝いの『ゆきちゃん』と一緒に嫁入りしたんや」
と、母が当たり前のように言ったのには、
びっくりしました。
私の小さい時の、
やさしい『ゆきちゃん』は、
母の嫁入りについてきた人だったんだ、
とこの時初めて知りました。

父は柔道、剣道7段の強者だったのです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月02日17:29
[077]〔吉田九一郎君〕p103-104[現代船井郡人物史]
[077] 〔吉田九一郎君〕p103-104
    前船井郡會副議長
    船井郡須知町字蒲生
殊に君は雄辯家にて
辯論と劍道は其長所とする所にて
普通は人一倍の吝者たるも
政治運動
特に論壇と劍術には多少時間と黄金を犠牲に供せり、

一年三百六十五日
一日も欠さず早朝床を離れて
分家せる吉田兵進氏を相手に
擊劍を練磨せる其膽力に徵して明かなり、
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月02日09:16
[101]〔吉田兵進君〕p134-135[現代船井郡人物史]
[101] 〔吉田兵進君〕p134-135
    須知町長
    船井郡須知町
氏は明治十六年二月二十一日生にて
同村吉田九一郎氏の實弟なり、
p1【現代船井郡人物史】大正5年
〔画像〕p1【現代船井郡人物史】大正5年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生1試験

《吉田花子・吉田五三子・中島襄》吉田医院 丹波町蒲生
【医籍総覧 西日本版】昭和46年(1971)
コメント一覧
1. 藤岡真知子 2026年01月14日 19:18
医籍総覧に、吉田花子の事を書いていただき
ありがとうございました。
吉田花子は、私の母です。
昨年、ネットnoteに、
花子のペンネームで、
母の昔話を書きました。
母が82才のころ、骨折して寝ている時、
面白い話をきき、それを思い出して、
書いてみたくなったのです。
マガジンに、出しました。
いつか読んでいただくと、
医者になったいきさつや、
エピソードを、書いています。
お暇がございましたら、読んでみてください。
母の事書いていただき、嬉しい事でした。
ありがとうございました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
note 花子
私は子育ても仕事も終わり、残りの命を楽しんでいます。
お金も家も定職もない人が大好きになって結婚し、
忙しかったけれど幸せでした。
そして面白い楽しい人生でした。
もう86歳超えました。
今は海を見て飛び出す魚に感動し、
空飛ぶ飛行機を見て、
その下にすいすいと飛ぶ鳥にあこがれ暮らしています。

桜子先生 1 試験
花子
2024年11月18日 10:56
あらすじ
 母は明治44年うまれの女医でした。
当時大都会である大阪商人の娘で、
思いがけず女医になってしまいました。
当時の女性の理想像である良妻賢母と全くかけ離れた、
珍しい職業を持った女性でした。
そんな母が、京都の山奥の村で
一開業医として一生を終えたのです。
  -略-
 「お母さん、どうして医者になったの」
母は大阪の街で生まれました。
そして大阪女子医学専門学校(現代は関西医科大学)
第一回卒業生でした。
  -略-
「わては夢は、英語の先生やった。
 でも女学校卒業の時、
 大阪に女のお医者の学校ができると聞いて、
 友達みんな、
 その大阪女子医専を受験するというねん。
 自分一人だけ英語の学校へ行っても面白くないから、
 仕方なしに、みんなと一緒に大阪女子医専の試験をうけた」
「びっくりした」
「その時、合格した者は、わて一人だけだった。※下記
 わて困って、お父さんに相談したら、
 これから日本は戦争して、女はみな未亡人になる。
 医者になっておいたら、一生食うのは困らん」

平川先生やいろいろな先生などは…
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大阪女子高等医学専門学校 第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数  80名(女)
【関西医科大学四十年の歩み】1968
出版者   関西医科大学
出版年月日 1968
p1【関西医科大学四十年の歩み】1968
〔画像〕p1【関西医科大学四十年の歩み】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/1
  教授會顧問
京都帝國大學教授 醫學博士
前田 鼎
  豫科教職員
倫理 豫科教務課 主務・教授
コロンビア大學卒業
平川寛三
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/31
  卒業生数表
大阪女子高等医学専門学校
第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数  80名(女)
p154【関西医科大学四十年の歩み】1968
〔画像〕p154【関西医科大学四十年の歩み】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/154
関西医科大学四十年の歩み
昭和四十三年十月十九日刊行
発行者 学校法人 関西医科大学
    大阪府守口市文園町一番地
印刷所 洋洋堂
    大阪市城東区蒲生町一ノ二五
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/172
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【醫海時報 (2026)】1933-06-24
出版者   醫海時報社
出版年月日 1933-06-24
  女醫會關西支部總會
日本女醫會關西支部總會は去る
(昭和8年)六月十八日
大阪市北區中之島田襄橋
大阪ビル八階に於て開會せられた、
(二)大阪女子高等醫學專問學校
第一回卒業生全部八十名に對する入會歡迎
 東京女醫 竹内茂代女史
 關西支部長 醫學博士 福井繁子女史
 東京より會長 吉岡彌生女史
        田川すみ子女史
        杉田つる子女史
 橘薫幹事の會務報告
大阪醫專の第一回卒業生八十名を
我が會員に迎へ得たことの喜びを報告し、
吉岡會長は登壇して
日本女醫會の創立沿革等を物語つて

此の日唯一人の男性來賓である
大阪女子醫學專門學校 醫學博士
前田鼎氏が登壇して祝辭を述べたが、

神戸の野間女醫
p20【醫海時報 (2026)】1933-06-24
〔画像〕p20【醫海時報 (2026)】1933-06-24
https://dl.ndl.go.jp/pid/11184611/1/20
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《北村笑子・内藤千代・豐本靜子:船井郡京丹波町》京都看病婦學校卒業生名簿【京都看病婦学校五十年史】昭和11年

【京都看病婦学校五十年史】昭和11年
著者    佐伯理一郎 著
出版者   京都看病婦学校同窓会
出版年月日 昭和11
 新島 襄先生 ドクトル・ベリー
 中村榮助翁  ミス・リチヤーヅ
 新島先生眞筆
 京都看病婦學校(烏丸上長者町南角)
p3【京都看病婦学校五十年史】昭和11年
〔画像〕p3【京都看病婦学校五十年史】昭和11年

  京都看病婦學校卒業生名簿
 第四十三回 昭和五年
北村 笑子(京都) 京都府船井郡高原村豐田
 第四十五回 昭和七年
内藤 千代(京都) 京都府船井郡須知町
豐本 靜子(京都) 京都府船井郡下和知村字中

昭和十一年十月一日印刷
昭和十一年十月七日發行 實費二十五錢
著 者 佐伯理一郎
    京都市上京區室町通中長者町
印刷者 内外出版印刷株式會社
    代表者 須磨勘兵衞
    京都市下京區西洞院七條南
發行者 京都看病婦學校同窓會
    代表者 佐伯理一郎
    京都市上京區室町通中長者町角
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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