【美術史論叢:東京大学大学院人文社会系研究科・
文学部美術史研究室紀要 (1)】1984-03
著者 東京大学大学院人文社会系研究科・
文学部美術史研究室 編
出版者 東京大学大学院人文社会系研究科・
文学部美術史研究室
出版年月日 1984-03
川村清雄についての二、三の考察 / 高階秀爾
たまたま仲間の一人に、
大久保一翁の息子三郎がいたので、
大久保、勝海舟などの奔走により、
徳川家留学生として五人の「洋行」が決った。
このようにして、
もうすぐ満十九歳になろうという
明治四年(一八七一年)三月、
河村清雄(※川村清雄)は、
四人の仲間とともに、
アメリカに向けて出発したのである。
註(6)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423910/1/53
註(6)
『唾玉集』収載の「洋画上の閲歴」のなかに、
「私が西洋に立ちましたのは明治三年三月でした」
(前掲書、一五九頁)とあり、
川村清雄の渡米は長いこと
明治三年(一八七〇年)と考えられていたが、
尾崎尚文氏による外務省所蔵文書
『本官勘合帖 外国官一号』および ※下記記載
の調査により、
実は翌年の明治四年三月三日であることが
明らかとなった。
(尾崎尚文「国沢新九郎・本多錦吉郎手沢の洋画技法書」
『参考書誌研究』国立国会図書館参考書誌部編、
第一五号、昭和52年10月、二六頁の注(1)参照。)
なお、同行の仲間は、
竹村謹吾(二十五歳)、
大久保三郎(十六歳)、
小野彌一(二十五歳)、
浅野辰夫(十六歳)の四名。
ほかに、静岡県庁から、
林研海の弟の林糾次郎(十六歳)と
名倉納(十八歳)が加わった。
なお、川村清雄の渡米、
およびアメリカでの生活については、
清雄が寄宿した米人からの手紙の翻訳(中村正直訳)や、
津田梅子との交遊などを含めて、
荒井義雄「梅子と清雄―
明治初期英学少女と画学青年川村清雄――」(上、下)
『明治村通信』昭和54年11月、12月号に紹介されている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423910/1/60
東京大学文学部美術史研究室紀要
美術史論叢1
昭和六〇年三月五日 発行
編集・発行 東京大学文学部美術史研究室
〒113 東京都文京区本郷七ノ三ノ一
印 刷 ヨシダ印刷両国工場
〒130 東京都墨田区亀沢三ノ二〇ノ一四
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423910/1/81
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月08日10:16
[本官勘合帳 外国官一号]原本:
第259号 二木彦七~第318号 山口 武
第貳百八十八号 静岡藩知事家従
竹村謹吾 米國 未 廿五歳
九年八月三日
第貳百八十九号 静岡藩知事家従
大久保三郎 未 十六歳
第貳百九十号 静岡藩知事家従
川村清雄 未 二十歳
第貳百九十一号 静岡藩知事家従
小野彌一 未 二十五歳
第貳百九十一号 静岡藩浅野權太夫参事男
浅野辰夫 未 十六歳
第貳百九十三号 静岡藩
林 糾次郎 未 十六歳
第貳百九十一号 静岡藩
名倉 納 未 十八歳
弥五郎 忰
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