◆小川清秀

《小川清秀》上海税關(江海關)勤務【支那在留邦人人名録 11版】大正9年

【支那在留邦人人名録 11版】大正9年
著者    島津長次郎 編
出版者   金風社
出版年月日 大正9
上海 海關帮辦
金子 四郎(東京府)東和洋行内   電話北 七六三番
猪熊 隆三(神奈川)赫司克路三七號
紅松 雄二(千葉縣)豐陽館内    電話北二三二〇番
赤谷 由助(千葉縣)赫德路二四號  電話西一五二三番
由布鎌太郎(福岡縣)卡德路四〇號  電話西一四九七番
西郡宗三郎(東京府)赫德路二三號
森本 實樹(岐阜縣)豐陽館内    電話北二三二〇番
山口  昇(千葉縣)新閘路三七號
https://dl.ndl.go.jp/pid/1704081/1/291
  黄浦灘路
税關(江海關)勤務
外班
上村 重傳(高知縣)東有恒路三六號
和田忠二郎(兵庫縣)楊樹浦路一二號
白井 柳次(廣島縣)文路二九號   電話北 七六二番
印藤 義一(京都市)文路二九號
荒木宇三郎(長崎縣)文路二九號
西田 茂雄(長崎縣)崑山路二八號
小川 準太(長崎縣)文路二九號
小川 清秀(長崎縣)文路二九號
唐私 新吾(山口縣)文路二九號
p293-1【支那在留邦人人名録 11版】大正9年
p293-1【支那在留邦人人名録 11版】大正9年
p293-2【支那在留邦人人名録 11版】大正9年
p293-2【支那在留邦人人名録 11版】大正9年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1704081/1/293
初  版 大正二年一月 十日印刷發行
 ~
第十一版 大正九年六月廿六日印刷發行
第十一版 定價 銀三弗 日本金 四圓二十錢
郵税 日本  五十五錢
   朝鮮   四十錢
   支那内地 三十錢
   香港   五十錢
發行兼 島津長次郎
編輯人 上海北四川路長安里二號
印刷所 蘆澤印刷所
    上海崑山路OA一號
發行所 金風社
    上海北四川路長安里二號
    振替口座 大阪四四六六五番
賣捌所 上海 靑島 各書店
賣捌所 香港 吉岡旅館
賣捌所 柳屋書店
    大阪市東區平野町三丁目
https://dl.ndl.go.jp/pid/1704081/1/401
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年06月20日04:11
[支那傭聘本邦人名表]大正1年(1912)~大正8年(1919)
[外報(7)]支那傭聘本邦人名表 大正7年12月末日現在
レファレンスコード C08021491500
【 画像数 】64
上海 小川常是夫 ※小川清秀 海關兩九十兩 p23/64

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年08月30日07:52
《小川清秀》[朝鮮元山小學校:海星學校:英米煙草會社:
佐世保重砲隊:中國海関…]
    <履歴書>
本 籍 長崎縣長崎市酒屋町三〇番地
現住所 福岡縣福岡市鳥飼町四丁目三〇一番地
戸主  小川清秀
    明治二十五年(1892)十一月十六日生
[學 業]
明治三十二年(1899)四月 朝鮮元山小學校 入學
明治三十四年(1901)四月 海星學校    轉校
明治四十四年(1911)三月 同校      卒業
[職 業]
明治四十四年(1911)三月 英米煙草會社ニ入社
大正元年(1912)十二月  佐世保重砲隊ニ入營
同 四年(1915)十二月  上海 中國海関ニ採用サレ
昭和七年(1932)八月迄  上海・營口・青島・海南島・
            大連・各税関ニ勤務ス
昭和七年(1932)八月   一等副監察長ニ任命
同   (1932)八月   大連税関接収後 残留
同 十二年(1937)七月  薦任官三等事務官 退職
同 十三年(1938)十月  於 大連 貸家業ヲ營ム
同二十二年(1947)二月  終戰ニヨリ大連ヨリ引揚
同二十二年(1947)四月  九州地區 軍政本部 管理人トシテ勤務
            現在ニ至ル
右之通相違無之候也
昭和二十二年(1947)十一月
            小川清秀
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《西田喜美子》大連市光風臺一八九:夫君は西田善藏氏:同文書院商科出身【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《西田喜美子》大連市光風臺一八九:
夫君は西田善藏氏:同文書院商科出身
大連古河電氣工業會社支店長
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 凡 例           p7-8/506
昭和大典記念 日本婦德の鑑  p8-12/506
 目 次
《西田喜美子》        p394/506
 大連市光風臺一八九
明治二十九十月、
故渡邊己之次郎氏の長女として
大阪市東區櫻の宮に生る、
大阪府立大手前高等女學校を卒業し、
夕陽丘高等女學校補習科に入り同校を卒業、
西田善藏氏に嫁す、
夫君は同文書院商科出身にて目下
大連古河電氣工業會社支店長を勤む、
夫人は大連に居住以前は英領香港、
上海北京を巡り海外生活を續けて今日に至る、
幼少より母堂の感化を受け、
信仰心厚く、
日本基督敎會々員として
敎會のためにも大に力を注ぐ、
常に不滿を去り、
感謝の生活を捧げ、
家庭極めて圓滿
萬事に理解ある同情深き婦人として評判よし、
二女あり、
共に大連嶺前小學校に在學中なり、
夫人は二兒の將來に就ても大に考慮し、
よりよき感化を與へんものと
敎養にも福心の注意を拂へり。
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
(記事内容は豫約當時調査現在とす。)
(索引巻末に附す。)
現代婦人錄索引        p492-504/506
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《ノット(Knott)》税関吏として[メーレンドルフとその補助者]明治16年(1883)朝鮮政府税関【朝鮮近代外交史年表】1987.6

《ノット(Knott)》税関吏として
[メーレンドルフとその補助者]明治16年(1883)
朝鮮政府税関【朝鮮近代外交史年表】1987.6

【朝鮮近代外交史年表】1987.6
著者    H.N.アレン 著 [他]
出版者   国書刊行会
出版年月日 1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/3


一八八二年 一二月 明治一五年 李大王一九年
メーレンドルフ
メーレンドルフ(P.G.Von Moellendorf)
外務顧問として招聘を決定した。
これは朝鮮政府から中国政府に懇請したもので、
税関事務を掌る。

一八八三年 一月 七日 明治一六年 李大王二〇年
メーレンドルフとその補助者
メーレンドルフの補佐
ハース(Haas)
ストリップリング(A.B.Stripling)
ライト(T.W.Wright)
ロバット(W.N.Lovatt)
税関吏として
ラポルト(Laporte)
マクベット(Mackbet(?))
メルセル(Moersell)
シュルツ(Schultz)
アルナアス(Arnous)
サバチン(Sabatin)
ベコウスキー(Bekofsky)
ボリオニー(Borioni)
ウーリタン(Woolitang)
トング(S.Y.Tong)
禹(Woo)
周(Chow)
良(Liang)
ウエルヒ(Welch)
グランフィールド(Glanfield)
ローゼンバウム(Rosenbaum)
ラデーヂ(Ladage)
p22【朝鮮近代外交史年表】1987.6
〔画像〕p22【朝鮮近代外交史年表】1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/22
一八八三年 一月 七日 明治一六年 李大王二〇年
ノット(Knott)
ダンカン(Duncan)
クロフォード(Crawford)
クレップス(Krebbs)
中林(Nakabayasi)
ラウヒト(Laucht)
ニッフラー(Kniffler)
ら来鮮。
これらの人びとは清国税関にならい
税関事務組織をつくった。
p23【朝鮮近代外交史年表】1987.6
〔画像〕p23【朝鮮近代外交史年表】1987.6
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/23
一九〇一年 七月一二日 明治三四年 光武五年
税関の移動
元山税関弁務官代理
ウェークフィールド(C.E.S.Wakefield)は
弁務官に任命された。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/66
ノット Knot,  36頁
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/86
朝鮮近代外交史年表
1987年6月  5日印刷
1987年6月10日発行 定価2,000円
著 者 H・Nアレン
訳 者 櫻井 義之
発行者 佐藤今朝夫
発行所 株式会社 国書刊行会
    〒170 東京都豊島区巣鴨3-5-18
    電話(917)8287(代表)
    振替・東京5-65209
印 刷 セイユウ写真印刷(株)
製 本 青木製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/11923511/1/88
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【親和 (147)】1966-02
出版者   日韓親和会
出版年月日 1966-02
前天津駐在ドイツ領事
ドイツ人
パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ
[Paul Georg Von Molleh dort]
(漢字名「穆麟德」、一八四七年二月生)
(H・Nアレン著、桜井義之 訳)
 『朝鮮近代外交史年表』
p21【親和 (147)】1966-02
〔画像〕p21【親和 (147)】1966-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252000/1/21
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月16日05:15
[税関吏:ノツト]明治18年9月
元山居留地ニ悪疫避病院建設費用補助在同所領事ヨリ願出ノ件
金弐拾六圓
  内
  金拾五圓 税関長    ライト     英人
             ※ライト(T.W.Wright)
  金 五圓 税関吏    ローセンハーム 米人
             ※ローゼンバウム(Rosenbaum)
  金 弐圓 同      米田五郎
  金 弐圓 同      ノツト     英人
             ※ノット(Knott)
             ※母方の曽祖父
  金 弐圓 同      マンヘーマ   独人
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2012年05月03日17:17
母方の曽祖父:イギリス人[ジョージ・ノット?]―01
[George Nott または Knott]  正確な名前は不明。
[Yoshiiwa Notuto] 小川清久(母の弟)家の過去帳に記載。
[ジョージさん・元山(韓国)税関長] 
母(小野文子)が話していた。
2ad60d50
小野雄二(弟) 談
生年月日 不明
歿年月日 明治34年(1901)4月27日
歿 場所 元山(現 北朝鮮)?
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《信濃丸》舞鶴入港(昭和22年2月13日)引揚者数【舞鶴市史 現代編】1988.9

《信濃丸》舞鶴入港(昭和22年2月13日)引揚者数
【舞鶴市史 現代編】1988.9

【舞鶴市史 現代編】1988.9
著者    舞鶴市史編さん委員会 編
出版者   舞鶴市
出版年月日 1988.9
 舞鶴入港引揚者数  p140/573
入港月日  昭和22年2月13日
船 名   信濃
出港地   大連
乗船人員  3,052
引揚者
 陸軍   253
 海軍    5
 一般邦人 2,784
  計   3,042
 その他   10
摘要    船内死亡 5
p141【舞鶴市史 現代編】1988.9
〔画像〕p141【舞鶴市史 現代編】1988.9
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576477/1/141
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2020年11月14日05:52
【満州引揚】《小川清秀》《小川 梅》《小川清澄》
[乗船者名簿 信濃丸]舞鶴上陸 昭和22年2月15日
 名簿番号 第57号
 乘船者名簿
上陸年月日 昭和22年2月15日
船   名 信濃丸
出 港 地 大連
乗船人員  三、〇四七名
 舞鶴地方 引揚援護局
 DEBAKATION  ROSTER
   (引揚名簿)
氏  名   年令 在留地
小川清秀 男 56  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇
小川梅子 女 55  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇
小川清澄 男 22  大連
     行先地 京都市左京区下鴨松ノ木町四七番地
     原籍地 長崎市酒屋町三〇
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《小川清秀》税關監視官、大連税關勤務【満洲紳士録 第1版】昭和12年(1937)

《小川清秀》税關監視官、大連税關勤務
【満洲紳士録 第1版】昭和12年(1937)

【満洲紳士録 第1版】昭和12年
著者    満蒙資料協会 編
出版者   満蒙資料協会
出版年月日 昭和12
《小川淸秀》 p439/816
税關監視官、大連税關勤務
【本籍】
長崎市酒屋町三〇
【生年月日】
明治 廿五年(1892)十一月十六日
【學歷】
明治四十三年(1910)長崎海星學校三年修學
【經歷】
明治四十三年(1910)五月
英米煙草會社元山出張所に就職
次で
佐世保重砲兵大隊 入隊
除隊後
上海・營口・靑島・瓊州(海南島)・大連
各海關巡役に歷任
累進 二等副監察長となる
昭和七年(1932)六月
滿洲國税關官吏拜命
康德元年三月 ※昭和9年(1934)
現官職に就く
薦任三等たり
【家族】
妻  梅子
長女 文子
長男 淸久
二男 淸澄
【住所】
大連市光風臺五三
p439【満洲紳士録 第1版】昭和12年
〔画像〕p439【満洲紳士録 第1版】昭和12年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1687711/1/439
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《福元 清》福徳相互銀行アイスホッケー部[明治大学昭和15年卒業]

《福元 清》福徳相互銀行アイスホッケー部
[明治大学昭和15年卒業]

【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
著者    明治大学校友名簿編纂委員会 編
出版者   明治大学校友会本部
出版年月日 1959
校 友   p24/641
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/24
氏 名   福元 清   p394/641
職 業   福徳相互銀行 境川支店
住 所   豊中市小曽根1285
本 籍   愛媛
年 卒   昭和15年政治
 p394【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
〔画像〕p394【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/394
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月26日 14:16
《小川清久》<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部
【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月19日 11:43
小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
大正12年(1923)3月29日生
平成8年(1996)12月25日歿 73歳
生誕:支那奉天省営口綏定門第15号海関官舎
   大連市山縣通205番地 海関官舎
   大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
   大連高等商業学校 アイスホッケー部
読売新聞 朝刊
昭和31年(1956)2月23日
※ 小川清久 記
第2回関西実業団アイスホッケー選手権大会
福徳のメンバーの中、
FW福元は戦前の明大のキャプテン、 ※上記
小川は大連高商OB,
DF木村は明大のキャプテン、
水沼は同志社大のキャプテン、
水倉だけが昭和29年(1954)卒関学大のキャプテン。
準決勝迄は速成のメンバーも使ったが、決勝では使えず、
FW・DFともオールラウンドプレイヤーで死闘。
決勝の第3ランドはやっと動いているというところ、
それにしても、
あと23秒で同点にされた時はガックリ来た。
延長のラウンドは精神力で動いていたのだろうが
0点に抑えたのは立派。
引分けは、
もう動けない福徳のメンバーに対する同情?で、
再試合はせず、準優勝となった。
私は33才だった。
この大会の結果、
それまで同好会だったものが、
銀行のアイスホッケー部となり、
翌年には関大や大商大の選手、
翌々年には明治大等の関東の選手が入り、
福徳が優勝するようになった。
私は、昭和34年(1959)36才で退部した。
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《小川清久》<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)

《小川清久》
<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部
【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)

【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)
著者    福徳相互銀行十年史編集委員会 編
出版者   福徳相互銀行十年史編集委員会
出版年月日 1961
<写真>アイスホッケー部 p244/344
p244-1【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-1【福徳相互銀行十年史】昭和36年

《小川清久》前列左から三人目
p244-2【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-2【福徳相互銀行十年史】昭和36年

p244-3【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-3【福徳相互銀行十年史】昭和36年

p244-4【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-4【福徳相互銀行十年史】昭和36年
https://dl.ndl.go.jp/pid/9524894/1/244
福德相互銀行十年史 (非売品)
昭和三十六年二月八日
著作兼 福德相互銀行十年史編集委員会
発行者 大阪市南区長堀橋筋一丁目二四番地
印刷者 株式会社 金星堂
    大阪市南区千年町三番地
印刷所 凸版印刷株式会社
    大阪市大淀区大仁西二丁目二番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/9524894/1/341
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2012年04月19日 11:43
小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
大正12年(1923)3月29日生
平成8年(1996)12月25日歿 73歳
生誕:支那奉天省営口綏定門第15号海関官舎
   大連市山縣通205番地 海関官舎
   大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
   大連高等商業学校 アイスホッケー部
昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ。
同船の団長(足立道五郎先生)
福徳相互銀行 アイスホッケー部
読売新聞 朝刊
昭和31年(1956)2月23日
 ―略―
私は、昭和34年(1959)36才で退部した。
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《三船芳郎》兄 三船敏郎(映画俳優)【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)

《三船芳郎》兄 三船敏郎(映画俳優)
【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)

【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1963
《三船芳郎》 p330/
 三進工業(株)社長
 横浜市中区本牧三ノ谷二三八
 電話(20)一四八三
[歷]大正10年11月14日生
横浜市出身
昭和18年 明大法科卒 入隊
昭和20年 復員
昭和23年 金星工業常務
昭和29年 現社を設立 社長に就任
現在に至る
[趣]柔道(六段)ゴルフ狩猟
[家]
妻  弥恵子(大正14年生)
   錦城女専卒
長男 洋  (昭和23年生)
二男 真  (昭和25年生)
長女 恵  (昭和27年生)
[親]兄 三船敏郎(映画俳優)
 p330【大衆人事録 第23版 東日本篇】1963
〔画像〕p330【大衆人事録 第23版 東日本篇】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/3012270/1/330
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[明治大学 昭和18年法科卒業]
【校友名簿】昭和34年(1959)
著者    明治大学校友名簿編纂委員会 編
出版者   明治大学校友会本部
出版年月日 1959
《三船久藏》板橋区常盤台1~69 岩手
      昭和7年推薦
《三船芳郎》三進工業所 社長
      横浜市中区打越76~2 秋田
      昭和18年法科
p433【校友名簿】昭和34年(1959)
〔画像〕p433【校友名簿】昭和34年(1959)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/433
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《三船芳郎》三進工業株式会社取締役社長【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)

《三船芳郎》三進工業株式会社 取締役社長
【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)

【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)
著者    横浜商工会議所 編
出版者   横浜商工会議所
出版年月日 1959
鉄鋼業   p73/211
取扱品目  各種貯槽、溶接鉄管、鉄骨製作建設工事
名  称  三進工業 株式会社
所在地   横浜市中区本牧三ノ谷町238
代表者   取締役社長 三船芳郎
資本金   200万円
従業員数  162名
電話番号  (2)1483
創業年   昭和23年(1948)
取引銀行  三菱(川崎) 富士(川崎)
 p73【横浜商工名鑑 昭和34年版】
〔画像〕p73【横浜商工名鑑 昭和34年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2488430/1/73
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《三船芳郎》金星鉄工常務【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)

《三船芳郎》金星鉄工常務【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)

【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1951
《三船芳郎》 p255/301
 金星鉄工常務
 大正10年11月生
 昭和18年 明大卒
 横浜市中区打越町76
7寸5分、柔道5段の巨体をゆすり乍ら、
「吾々カジヤはカジヤと」
これから伸びる会社に絶対必要な細心大胆な
斗志万々居士。
工場と事務所、
販路拡張と年中無休で馳け廻つて居るが、
これも氏の若さを物語つて居る。
大いに皆に可愛がつてもらいたいのが
モツトーだそうだが、
答える時に「ハツ」「ハイ」と入れる当り、
好ましい靑年重役、
押一方では駄目だと退くことも御存知の樣子。
酒は余り好まず、
たまに自動車を乘り廻す位が楽しみの一つだとか。
映画の三船敏郎氏は実兄だが、
映画も殆ど見ず、
話は造船ヤ、土建ヤの下ウケでも――、
と商売のことで頭の中が一杯だ。
しかし戦争中社長の息子と一諸で、
帰つて来てから少し厄介になつたことを、
非常に多として話す所、
彼のフアイトの向け方と考へ合わせ、
戦後派に見られぬ、
体に似合わぬ温みのある人だ。
 p255【人事総覧 第1集】1951
〔画像〕p255【人事総覧 第1集】1951
https://dl.ndl.go.jp/pid/3026576/1/255
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