飛脚船「アメリカ号」関連

1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,アメリカ号日本人渡航者の調査:塩崎 智(原稿受付2020年6月23日)

1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,
アメリカ号日本人渡航者の調査
―先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―
アイテムタイプ 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper
言語 日本語
キーワード 1872年, 日本人米国留学生
種別 研究ノート / Study Note
著者 塩崎 智   /  シオザキ サトシ
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拓殖大学
演習指導内容
 ミクロの専門分野は、
幕末維新期の米国日本人留学生研究です。
彼らが日本、米国でどのような英語教育を受け、
帰国後、日本の近代化にどのように
貢献したかを調査しています。
 マクロの専門分野は、比較文化、
日米文化交流史になります。
英語教育とは直接関係は無いのですが、
言語と文化の関係は切っても切れないものがあります。
英語教育と英語圏文化の関係な等を探る研究にも
関心があります。
拓殖大学 言語教育研究科 英語教育学専攻 塩崎 智 教授
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人文・自然・人間科学研究 No.44,pp.75-107 October 2020
1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,
アメリカ号日本人渡航者の調査 
―先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―
著者 塩崎 智 Satoshi SHIOZAKI

PDF:アメリカ号日本人渡航者の調査 塩崎 智

② 大関増勤一行  p7-11/33
宿毛藩出身の小野梓は
1870年(明治3年)に上海に渡航し西洋留学の志を得て、
帰国後1871年(明治4年)春頃から横浜の修文館で
宣教師ブラウンから英語を習い、
パーレーの『万国史』の翻訳に励んでいた、という(10)。
大関は、出航前の横浜(と)滞米中
ブラウンの世話になったので、
大関と小野はブラウン繋がりだった可能性が高い(11)。
大関は小野の英語力とその留学欲を買って、
留学1年分と渡航費用を提供するという条件で
小野を同行者にスカウトしたと考えられる。

大関一行は、渡米後、
マサチューセッツ州で学んでいたことが、
史料から判明している(12)。

コネチカット州都ハートフォードの
デイリー・クゥラント(Hartford Daily Courant)
1872年(明治5年)6月5日によると、
大関、唐橋、瀬谷、小野、児玉の5人が
マサチューセッツ州イーストハンプトン(Easthampton)
の学校に最近入学した。
つまり、
1871年(明治4年)9月から6月の年度の最後に、
ぎりぎりで入学したということだろうか。
 ―略―
この学校は、荒船の研究から、
ウィリストン・セミナリー(Williston Seminary)
という私立アカデミーであることが分かっている。
 ―略―
コネチカット州ノーウィッチのオーロラ
(Norwich Aurora)の
1872年(明治5年)9月25日の紙面、
同じくコネチカット州ミドルタウンの
デイリー・コンスティチューション
(Daily Constitution)の
1872年(明治5年)9月21日の紙面には、
大関一行が、
ウィリストン・セミナリーで下宿しながら
学んでいる様子を示す記事が出ている。
 ―略―
この記事では、
日本人留学生が4人となっているが、
おそらく児玉が抜けたからだろう(16)。
瀬谷が病気になったので、
大関が同じベッドで寝るわけにはいかない、
どうか大関のために別のベッドを用意してくれないか、
と小野が手紙で学校関係者に頼んでいる(17)。

大関はやがて病気になり、
滞米1年ほどで瀬谷と帰国するが、
スポンサーを失った小野は、
ニューヨーク市の隣のブルックリンに単身移動し、
ジョンソンという人物から法学の個人指導を受けた。
小野は1873年(明治6年)夏頃までブルックリンに滞在し、
イギリスに留学の場を移した。

小野は1872年(明治5年)の10月か11月に、
イギリスに留学していた同郷の宿毛藩出身の
伊賀陽太郎(1851-1897)に、
イギリスの議会政治について書かれた
How are we governed という英書を
送ってくれるように頼んでいる(18)。
小野がジョンソンという米国人と共に
読んでいた本の1冊かもしれない。
この本に関連した内容と思われるが、
小野は、滞米中、ニューヨークとシカゴの新聞に、
How we ought to be governed という題の
英文を寄稿したという(19)。

唐橋に関しては、史料が発見できていない。

(9)荒船俊太郎「資料紹介 小野梓留学関係資料」 p24-25/33
  (『早稲田学報』)1179号、2010年2月、p50-53)。
   瀬谷に関しては以下の記述がある。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月19日05:40
[資料紹介 小野梓 留学関係資料]『早稲田学報』荒船俊太郎

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年01月01日04:00
[小野梓 留学関係資料]1/2
【大関文書 御願届留録】御留守心得 大野尚絅:黒羽芭蕉の館

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年01月01日05:50
[小野梓 留学関係資料]2/2
【大関文書 御願届留録】御留守心得 大野尚絅:黒羽芭蕉の館

   なお、インターネットで検索すると、
   次のブログで大関一行に関する種々の史料の
   閲覧が可能である。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
cat-瀬谷小次郎:安藤小次郎:大関増勤

   同ブログの作成者は、
   小野梓の子孫にあたる方のようだ。
   膨大な史料が収集され、
   記述も正確である。
p24-js0044_04
〔画像〕p24-js0044_04

(15)以下の史料は、・・・で発見した。 p25/33
   国会図書館が閉鎖中で確認できていない。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年08月17日07:28
《瀬谷小次郎》[安藤小次郎君 畧傳]【栃木県人物編】明治28年

   福澤研究センター編『慶應義塾入社帳』(1986年)を
   確認したが、
   瀬谷小次郎、安藤小次郎ともに名前を発見できなかった。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年07月02日10:36
《鮫島武之助》《瀬谷小次郎》[慶應義塾 卒業生]
【慶応義塾総覧. 明治41年】
p25-js0044_04
〔画像〕p25-js0044_04

   【インターネット上のURL、ブログ等】 p33/33
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日16:08
[小野梓:明治5年2月18日
 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]01~05
p33-js0044_04
〔画像〕p33-js0044_04
(原稿受付 2020年6月23日)
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西郷菊次郎の次男・隆治の長女諌山喜久子氏「諌山喜久子氏寄付資料」

  令和5年3月
 京都市上下水道局
諌山喜久子氏寄付資料目録
〔画像〕諌山喜久子氏寄付資料目録

「諌山喜久子氏寄付資料」
(寄付資料、資料点数48点)
本資料群は、第2代京都市長を務め、
京都市三大事業を推進した
西郷菊次郎の関係資料である。
菊次郎は、西郷隆盛が
奄美大島に流されていた時期の子であり、
9歳の時に父の元に引き取られた。
明治17(1884)年、外務省に入省し、
米国公使館勤務や外務省翻訳官、
台湾の宜蘭庁長等を歴任。
こうした経歴を買われて、
同37年に内貴甚三郎の後任として
京都市長に就任した。
当館は、
菊次郎に関する2つの資料群を所蔵しており、
その1つである 「諌山喜久子氏寄付資料」は、
菊次郎の次男・隆治の長女に当たる諌山喜久子氏が、
拓殖大学百年史編纂室に寄贈した資料のうち、
主に京都市に関係する資料を
当館に移管・寄付されたものである。
資料の内容は、北垣国道や石本新六からの書簡のほか、
辞令類(含台湾関係)、本人や家族の写真等である。

資料番号   3
史料の名称 〔書簡〕
点数     1
作成年月日  明治41年12月17日
形状     切紙
作成者   〔北垣〕国道
名宛者    西郷〔菊次郎〕
法量     190mm×455mm
備考     内容:大野盛郁 高等助役決定につき慶賀。
       封筒入。
       封筒 表書「西郷菊次郎殿 親展」、
          裏書「北垣国道」。
       展示中。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年05月12日16:35
《西郷菊次郎 宜蘭廰長》
宜蘭濁水溪・西郷堤防・憲德政碑
【皇国新地誌:教育資料 3 (台湾・南洋)】昭和14年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年07月06日05:38
《大野盛郁》日本製布株式會社【京都商工大鑑】昭和3年
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《西郷菊次郎 宜蘭廰長》宜蘭濁水溪・西郷堤防・憲德政碑【皇国新地誌:教育資料 3 (台湾・南洋)】昭和14年

《西郷菊次郎 宜蘭廰長》
宜蘭濁水溪・西郷堤防・憲德政碑
【皇国新地誌:教育資料 3 (台湾・南洋)】昭和14年
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2019年08月03日
西郷菊次郎:宜蘭設治紀念館(台湾):
小野雄二撮影2019/07/27
DUKE Train
台湾・京都中心に最新のニュースをお届けします
初代宜蘭庁長・西郷菊次郎愛用の掛け時計
ひ孫女性が県史館に寄贈
2019年06月12日 | 台湾ニュース
(宜蘭 10日 中央社)日本統治時代に宜蘭庁(現宜蘭県)の
初代庁長を務めた
西鄉菊次郎のひ孫に当たる諫山尚子さんが9日、
宜蘭県史館を訪れ、菊次郎愛用の掛け時計を同館に寄贈した。
諫山さんは、菊次郎が愛した宜蘭の土地に掛け時計が
いつまでも残されるように願った。 
同館によれば、掛け時計は菊次郎が米国に留学していた
1887年から1890年の間に購入したものだという。
諫山さんは、3年前に亡くなった母親が
菊次郎の掛け時計を宜蘭に贈ることを望んでいたと明かし、
寄贈は母親の生前の願いを叶えることにもなると話した。
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【皇国新地誌:教育資料 3 (台湾・南洋)】昭和14年
著者    北垣恭次郎 著
出版者   明治図書
出版年月日 昭和14(1939)
宜蘭濁水溪 は南湖大山の北西麓地方に發源して
先づ北東に向ひ、
宜蘭平野に下るや、
本流は東方に、
派流宜蘭河は宜蘭街方面に流れる。
本、派
兩派共に一時は數多の派流を分岐するが、
下るに從つて各々一流に収容し、
更に東港に至つて相合し、
直ちに太平洋に注ぐ。
本流の長さは凡そ十六里餘(六五粁二)。
灌漑にも、發電にも利用せられる
重要な川であるが
(天送埤に水力發電所がある)、
洪水の害も少くない。
宜蘭河の右岸に沿へる宜蘭街の如くも、
洪水の場合には浸水に惱まされた處であるが、
明治三十四年(1901)九月竣工の
西郷堤防と其の延長工事によつて、
其の害を免れることが出來るやうになつた。

西郷堤防は時の宜蘭廰長
西郷菊次郎
(昭和三年(1928)十一月二十七日卒す)
の計畫に成るもので、
其の長さは約一粁六九八米
卽ち十五町三十四間(工費四〇九六九圓)。
之によつて
同街は殆んど浸水を免れることが出來た爲、
街民は之を德とし、
大正十三年(1924)堤上に
憲德政碑といふ記念碑を建てた。
其の後大正十五年(1926)同堤の上流に
長さ約七五九米(六町五十八間)、
下流に約一粁二七一米(十一町四十間)の
延長工事(工費三萬圓)が施行せられた爲、
同街は全く水害を防ぐことが出來た。
併し宜蘭平野全部の水害を防止する爲には、
更に大規模の治水工事を施さなければならなかつた。

そこで臺灣總督府は、
其の直營事業として、
根本的の治水工事を施すことゝした。
其の工事は昭和四年度の起工で、
昭和十一年度(1936)完成したのであるが
(工費約四百四十六萬圓)、
派流宜蘭河を締切り、
幹川を整理して
延長約四四粁(約十一里)の
堤防を築いたのである。
其の受益面積は一萬一千餘甲で、
農産物の年增収價額は
約五十萬圓を下らないのである。

大濁水溪はパトツノフ山及び
南湖大山方面の諸溪流を集め、
南東に流れて海に注げる川で、
長さは凡そ十一里餘(約四五粁九)。
其の下流は臺北州と花蓮港廰との
界(さかい)になつて居る。
昭和十四年十月二十日初版印刷
昭和十四年十月廿五日初版發行
敎育資料 皇國新地誌 臺灣・南洋
定價 金貳圓九拾錢
著作者 北垣恭次郎
發行者 藤原惣太郎
    東京市京橋區入船町三丁目三番地
印刷者 芦田 數夫
    東京市京橋區入船町三丁目五番地
發行所 明治圖書株式會社
    東京市京橋區入船町三丁目三番地
    振替東京一八五一三番
大賣捌所 東 京 林平書店  東京堂
         北隆館   東海堂
         文林堂   文盛堂
     大 阪 合志會社 柳原書店
     名古屋 川瀨書店
     久留米 菊竹金文堂
     福 岡 大坪惇信堂
     金 澤 宇都宮書店
     長 岡 覺張書店
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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日華(台)親善友好慰霊訪問団
西郷廳憲徳政碑
住所    宜蘭縣宜蘭市西門外 宜蘭河畔堤防上
当初訪問日 平成30年11月26日(2018年)
エピソード - 西郷隆盛の子・菊次郎の「郡守徳政碑」
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台湾を変えた日本人シリーズ:
宜蘭を救った西郷隆盛の長男・西郷菊次郎
文化 2017.11.26 古川 勝三 【Profile】
米国留学から台湾へ
常に持ち続けた父・西郷隆盛の教え
〔写真〕施工時の「西郷堤防」(提供:古川 勝三)
戦後も地元住民に愛されている
『西郷庁憲徳政碑』
〔写真〕「西郷堤防」に移築された石碑(提供:古川 勝三)
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明治18年(1885)、留学先の米国で撮影
南海日日新聞 5/9(火) 13:01配信
 西郷菊次郎青年期の写真見つかる明治18年
明治18年(1885)に米国ワシントンで撮影された
青年期の西郷菊次郎らが写る写真。
右から菊次郎、三崎亀之助(推定)、
隆準、九鬼隆一、寅太郎
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年07月05日
〔写真〕[開拓使海外派遣留学生]
米・仏・露国に派遣された15人の留学生と監督の大鳥圭介:
明治5年2月 (1872年2月)
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發動器製造會社 社長 由良守應【新撰東京実地案内】明治26年(1893)

發動器製造會社 社長 由良守應【新撰東京実地案内】明治26年(1893)

【新撰東京実地案内】明治26年(1893)
發動器製造會社 p99/119
芝區愛宕下町三丁目一番地
社 長 由良守應(ゆら もりまさ)
資本金 廿万圓
一 株 金五十圓
創 立 明治廿年
營 業 發動器の製造及び販賣事務
明治二十六年十月二日印刷
明治二十六年十月七日發行 金二十五錢
發行者 東京市京橋區南紺屋町一番地
    井上勝五郎
印刷者 東京市京橋區弓町五番地
    木元新太郎
發兌元 東京市京橋區南紺屋町一番地
    薫 志 堂
印刷所 東京市京橋區加賀町十三番地
    新橋印刷所
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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市來宗介宛・西郷菊次郎宛 明治五年八月十日(東京より米國へ)【西郷南洲選集. 下】昭和19年

市來宗介宛・西郷菊次郎宛 明治五年八月十日(東京より米國へ)
【西郷南洲選集. 下】昭和19年

【西郷南洲選集. 下】昭和18年
 市來宗介宛  明治五年八月十日(東京より米國へ)p89/185
 ※市來宗介(一)
度々御書翰忝ク拜誦いたし候。
彌以テ御壯健御勉強の由、大慶此事に御座候。
御家内中皆々御元氣、殊に此度は、
主上の御巡幸被爲在候處、
野生にも供奉被仰付、
卒度罷歸候故、
御逢申上候處、 ※(二)
至極鹽梅宜敷、
野生の宅迄も歩行にて御入來有之、
私宅迄は初めての由に御座候。
養生方は不相變餘程御勤相成候由、
御方抔もアメリカ迄被參候て御修行有之の儀に候間、
是非養生方なり共不相負との噂にて、
御方の修行方が却て御親父樣の御勵に相成、
皆々嬉び居候仕合に御座候間、御安心可被成下候。
隨て野生を始メ一族中皆々元氣在候間、
御掛念被成間敷候。
此節七之丞殿洋行相調御出掛相成候故、 ※七之丞(三)
いづれ御面會も可有之候。
此幸便に任せ、
御註文の書物差上候間、
御落手可被給候。
何にても御入用の品は御申遣可被成候。
菊次郎え一封差遣候間、  ※菊次郎(四)
御届被下度、何篇宜敷御賴申進候。以上。
    八月十日   西郷吉之助
  市來宗介樣
    要 詞
一、市來六左衞門の長男で、その頃、米國に留學してゐた。
  母は隆盛の妹お琴である。          ※市來宗介(一)
二、六左衞門に逢つたこと、病氣療養中であつた。 ※(二)
三、岸良七之丞で、司法省から留學を命ぜられ、
  米國から英國に行くのである。        ※七之丞(三)
四、隆盛の嫡男、わづかに十二歳であつたが、
  宗介と一緒に米國に留學してゐた。      ※菊次郎(四)

 西郷菊次郎宛 明治五年八月十日(東京より米國へ)p89/185
度々の御紙面披見いたし候。
至極元氣にて勉強の由、大慶此事に御座候。
次に拙者も無異罷在候間、少しも御懸念有之間敷候。
陳ば英和字書差出候間御落手可被成候。
此度任幸便荒々一左右迄如此候。已上。
    八月十日   西郷吉之助
  西郷菊次郎殿
一、前書の宗介への書狀に同封したものである。p90/185
  (前書の註(四)參照)
p89【西郷南洲選集. 下】
〔画像〕p89【西郷南洲選集. 下】

西郷家系圖 p175/185
p175【西郷南洲選集. 下】
〔画像〕p175【西郷南洲選集. 下】
昭和十九年四月十五日印刷
昭和十九年四月二十日發行(三千部)
  停 定 價    二圓五十錢
    特別行爲税相當額 十二錢
    賣 價   二圓六十二錢
著 者 谷口 武
發行者 森  前
    東京都麴町區一番町十五(元園會館)
印刷者 桐谷 綱
    東京都本郷區駒込上富士前町二八
配給元 日本出版配給株式會社
    東京都神田區淡路町二ノ九
發行所 讀書新報社出版部
    東京都麴町區一番町十五(元園會館)
    振替 東京一五八三九
    電話 九段二七八六・四三一九
日本出版會會員番號120118號
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[岸良兼養]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸良 兼養(きしら かねやす、
天保8年8月(1837年)- 明治16年(1883年)11月15日[1])は、
幕末の薩摩藩士、明治時代の司法官。元老院議官、大審院長。
通称・七之丞[2]。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日 11:16 ◆小野梓 明治5年洋行
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02
皇国人乗込人名(五十名)    〔THE JAPAN WEEKLY MAIL〕Apr.6.1872
市来 宗助            Ichike Sosuke
西郷 菊次郎           Saiyo Kikuyso
小野 梓             Ono
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[由良守応、十余名諸職業研究]学資 洋銀800弗/年:明治5年2月

[由良守応、十余名諸職業研究]学資 洋銀800弗/年:明治5年2月


[勧業助由良守応牧畜研究ノ為メ米国ヘ差遣月給三分一下賜附外十余名諸職業研究]

二月 五年 ※明治5年2月(1872年3月)  p1/5
勸業助 由良守應等 十餘名 諸職業研究ノ為
米國ニ留學セシム
   大蔵省伺
 勸業寮事務ノ儀ハ牧畜生産等専務ニ候處
 牧畜ハ牛馬羊豚雞飼立方ヲ始メ
 牛乳製法筋生産ハ麥酒其他諸酒造
 ガラス製作羅紗■呂服等
 総テノ織物未タ御國於テ十分不相開別テ
 毛織物ガラス等ノ品ハ悉ク舶来品ヲ仰キ候儀ニテ
 此儘ニ捨置候テハ日用必需ノ品柄
 莫大ノ御國損ニモ立至リ可申哉乍去
 別紙科目ノ通リ何レモ大事業ノ儀ニテ
 實際ニ就キ研究不致候テハ
 迚(とて)モ成業無覺束存候間
 此度人數人撰致其器用材能ニ應シ
 夫々事業ヲ分チ凡ソ二ヶ年ノ期限
1439-1
〔画像〕1439-1

 ヲ以テ米國ヘ差遣シ
 親シク同國人ヘ隨從ノ上 實地修行為仕度
 追テ歸朝ノ上ハ右ノ者共ヲ師表ト致シ
 諸人ヘ傳習為致
 古ノ事業 闔國一般相開候樣仕度
 依テ科目書相添申上候間
 至急御差圖可被下候
 此段候也   二月十二日 大蔵
       ※明治5年2月12日(1872年3月20日)
 伺之通

  農 業
 農業ニ從事スルハ素ヨリ文學ニ關渉ナシト雖モ
 開化有禮ノ諸邦農業ヲ勸奨シ
 物品ヲ増殖シ富盛ヲ企ント要スルモノ
 先ツ化學・地質學・動植學等ノ如キ
 諸科ヲ兼學セサレハ
 其立論ト實際ニ於テ充分ナル見込ヲ主張シ
 其順序次第ヲ失サルヿ難シ

 故ニ化學ニツキテハ菜殻ノ性分ニ要スル
 糞肥ノ元質ヲ彈明シ

 地質學ニ依リテハ地球ノ創立ヲ剏(はじ)メ
 地層ヲ察シ
 土質ノ植物ニ適スルヤ否ヲ考加之
 金属・石炭・泥炭・膏風等ノ所在ト良否ヲ知リ

 動學ニヨリ牧畜其他諸獸稟質
 或ハ乳汁・皮革・角骨ノ利用ヲ詳カニシ

 植學ニヨリテ草木自然ノ機關其他品類
 天然ノ區別及ヒ繊根皮ノ利用
 或ハ顔料・藥劑ヲ辨識スヘシ

 方今此數科ヲ合同シ一箇ノ學科ヲ増シ
 此科ヲ農學ト云フ
 今日世用ニ要須切實ナル政學ヲ除キ
 此右ニ出ル學科ナシト云ヘリ

  玻 璃
 玻璃ハ各般ノ種類アリテ其利用モ亦大ナリ
 其各種區別スレハ
 其一ハ 瓶壜ニ造ルヘキモノヲ瓶玻璃ト云フ
 其二ハ 窓■ニ嵌スヘキモノヲ窓板玻璃ト云フ
1439-2
〔画像〕1439-2

 其三ハ 色玻璃 各般ノ采色ヲ備フルモノ
 其四ハ 堅固玻璃 透明清浄ニシテ毫モ■眼添色ナキモノ
     眼鏡・望遠鏡其他 照身鏡子等ニ用ユル
 玻璃ハ大都珪土及ヒ
 「ポツトアレ」諸般酸化金属ヨリ成ルモノニテ
 烈火ノ勢ヲ假リ其性質ヲナス
 玻璃ヲ造ルニ其最用ナルモノハ玻質ヲ熔化スヘキ火爐
 次ニ玻璃ニテ諸般ノ器皿ヲ造リ
 特ニ瓶子等ヲ吹キ作リ其形状ヲ造ルヘキ暖室
 或ハ玻器ヲ冷シ十分色澤ヲ與フル火爐 其餘玻器ヲ磨キ
 其表面ニ鐫花ヲナスヘキ器械
 或ハ人力ニヨリ或ハ水力滊力ヲ以テ
 各種ノ形態ヲ造リ
 磨琢メ光采ヲ得セシムヘシ
 玻璃ノ利用モ亦大ナレハ
 其製煉スヘキ方法モ小ナリトセス
 前條其概畧ヲ擧ルカ如ク
 火爐及ヒ其他玻璃ヲ治シ器具一々記載スルモ
 萬一ヲ盡スニ足ラス

  織 物
 羅紗羽紗棉布麻布其他綿毛 莫大小ノ如キ
 其ノ利用洪大ナルヿ
 普ク世人ノ通知スル所ナレドモ 其質料大抵
 草木繊維毛羽等ニ出ツ
 其織成スヘキ器械多ク人力・滊力ニヨリ
 紡車機車數等ノ圖式アルモ
 一見其運用ヲ察知スルヿ 易カラス
 多年職業トセル專匠ノ教習ヲ經サレハ熟練セサルヘシ

  附  染 物
 此業ハ布匹紙毛蠶絲 其他木材等ニ各種ノ采色ヲ與フヘキ術ニシテ
 其采色ヲ與フル料草木ヨリ得ルモノ
 靛(あい)、蘇、木、茜根等ノ如キモノ
 其動物ヨリ得ルモノハ
 「ケルメス」「コチニール」洋紅ノ如キモノ
 或ハ酸化金属
1439-3
〔画像〕1439-3

 ヨリ得タルモノ等ニ属ス
 其染方ノ精脂ヲ究ムルヿハ 化學ノ方法ニ依ル
 然レドモ 職工ノ經驗慣用ニ依リテ 工拙ヲナスヘシ
 凡テ染色ハ布匹ヲ■藥液ニ腐蝕セラシス
 色澤■ヲ經テ■セサラシムルニアリ
 故ニ其十全ヲ要セハ專匠ニ依テ
 其指示練習ヲ受ケサレハ精到ニ至リカタシ

  諸 酒
 飲料ニ供スル諸酒 數品アリ
 就中 麥酒・葡萄酒・杜松子酒(ジン)・ポノト、
 苦酒・桃櫻酒・林檎酒等
 其中 麴蘗ヲ用テ造釀スルモノアリ
 或ハ 葡萄林檎酒ノ如キ葡萄林檎子ヲ採リ
 麴蘗ヲ借ラス桶中ニ於テ發酵造釀スルモノナリ
 或ハ釀後蒸溜シ火酒トナシ
 他ノ香竄苦味ノ藥劑ヲ入レ
 飲料ニ供スルモノアリ
 大凡 酒ハ釀出ス地方ノ名産トナリ
 世人ハ賞用セラレ諸酒造法ノ如キ
 其大畧ヲ記セシ書冊アレドモ
 釀造ノ粗惡諸酒ノ良否ハ
 書冊上ニ悉スルヿ 易カラス

  大蔵省届
 牧畜  由良勸農助  同   山澤靜吉  礦物  井上幾太郎
 同   吉田慶蔵   塗物  山本彌吉  農業  田代靜之助
 染物  入江音次郎  織物  梶山鼎助  同   柳中譲蔵
 酒造  出島松蔵   ガラス 白根貞蔵
 右ノ通 今般諸職為修行 米國留學申付
 尤 何レモ職業研究ノ譯ニ付
 於當省辭令 相渡申候 依之此段御届申進候也
    二月十三日
   ※明治5年2月13日(1872年3月21日)

  大蔵省伺
 勸農助由良守應   山澤静吉    井上幾太郎
1439-4
〔画像〕1439-4

 吉田慶蔵      田代静之助   入江音次郎
 白根貞蔵      赤羽四郎    梶山鼎蔵
 柳井譲蔵      山本彌三    小谷静三
 池田猪之助     平澤太助⇒※平原太作:別稿に記載

 右ハ先般伺濟ニ依テ諸職業研究ノ為メ
 米國ヘ被差遣候儀
 其節御届申上置候者共ニテ
 彼地滞在中外 留學生ト違ヒ
 學資ノ儀ハ 一人ニ付 一ヶ年 洋銀八百弗
 外ニ往返舩車賃トモ被下候樣仕度
 右御金ノ儀ハ牧畜御益金并官林御拂代等ヲ以
 仕拂候積リ御坐候
 此段相伺候也  四月二日
        ※明治5年4月2日(1872年5月8日)
 伺之通
1439-5
〔画像〕1439-5
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簿冊名:太政類典・第二編・明治四年~明治十年・
    第二百四十八巻・学制六・生徒三
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日 11:16 ◆小野梓 明治5年洋行
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02
皇国人乗込人名(五十名)    〔THE JAPAN WEEKLY MAIL〕Apr.6.1872
由良 勧農助  和歌山      14 Japanese Students
山澤 静吾   鹿児島県     14 Japanese Students
山本 弥三            14 Japanese Students
井上 幾太郎  山口県      14 Japanese Students
吉田 慶蔵            14 Japanese Students
田代 静之助           14 Japanese Students
入江 音二郎           14 Japanese Students
梶山 鼎助            14 Japanese Students
柳井 譲蔵            14 Japanese Students
白根 鼎蔵            14 Japanese Students
小谷 静二            14 Japanese Students
赤羽 四郎   青森       14 Japanese Students
池田 猪之助           14 Japanese Students
高木 貞作            14 Japanese Students
※高木貞作に代り《平澤太助⇒※平原太作》14名の官費留学生
 平原太作、当初は自費留学。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日 15:08 ◆小野梓 明治5年洋行
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-05
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<桑名市>
[桑名史上の人たち(8) -高木貞作(たかぎ ていさく)-]
明治3年にアメリカへ行きました。高木はいったん帰国して、
明治5年に大蔵省派遣留学生として、再びアメリカへ行きました。
アメリカでは商業学校で運上所(税関)事務を学び、
明治8年に帰国しました。
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[米国自費留学 平原太作ヲ勧農寮官費生トス]明治5年4月

[米国自費留学 平原太作ヲ勧農寮官費生トス]明治5年4月

[米国自費留学 平原太作ヲ勧農寮官費生トス]
四月二十四日 五年 
※明治5年4月24日(1872年5月30日)
 外務省ヘ達 史官
山口縣 農 平原平右衛門 倅 太作
自力ヲ以 米國ニ農學修行罷在候處
當年ヨリ勸農寮官費ヲ以被差遣候内ニ被加候樣
大蔵省ヨリ申出御許可相成候間為
御心得此段申入候也
   大蔵省伺
 山口縣農平右衛門倅 平原太作
 右ハ昨未年 ※明治4年(1971)
 農學為修行自力ヲ以米國ヘ罷越候處
 其後 父 平右衛門 所帯及難澁 學費仕送リ難出来ニ付
 呼返ノ都合ニ相成■候由
 御國内種藝培養等ノ儀 不相開ニ付テハ
 自力ヲ以 留學罷越候
 心底有志ノ者ニテ■ニ一ケ年未満ニテ呼歸シ候儀
 歎敷次第ニ候
 諸職研究ニ付テハ勸農
133607431444-1
〔画像〕133607431444-1

 寮ヨリ官費ヲ以 拾四名 差遣候事ニ付
 右ノ内ヘ被差加 當年ヨリ官費ヲ以
 米國留學被仰付候樣仕度奉存候
 此段相伺候也 四月
 伺之通
133607431444-2
〔画像〕133607431444-2
簿冊名:太政類典・第二編・明治四年~明治十年・
    第二百四十八巻・学制六・生徒三
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[山口藩 平原太作 英国ヘ留学ヲ許ス]明治4年2月

[山口藩 平原太作 英国ヘ留学ヲ許ス]明治4年2月

四年二月晦日
※明治4年2月30日(1871年4月19日)
山口藩管下 農 平右衞門 三男 平原太作
高法修業トシテ英國ヘ留學

  山口藩願 弁官宛
 当藩 南吉敷郡 百姓 平右衛門 三男 平原太作儀
 高法修業トシテ自費ヲ以テ
 英国差越度奉存候間被遂御許容被下候様
 奉願候以上 四年二月晦日
 願ノ通

  外務省ヘ通牒 弁官
 山口藩南吉敷郡 百姓 平右衛門 三男 平原太作儀
 高法修業トシテ 英国行相願候ニ付
 願ノ通御聞届相成候間
 免状渡方例ノ通 御取計可有之候也
 四年三月二日
 ※明治4年3月2日(1871年4月21日)
A15070933000-1
〔画像〕A15070933000-1
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件名標題(日本語) 山口藩平原太作英国ヘ留学ヲ許ス
階層 国立公文書館 内閣 太政類典
   太政類典・第1編・慶応3年~明治4年
   太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・
   第百二十巻・学制・生徒第二
レファレンスコード A15070933000 【画像数】1
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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[大蔵省之部]明治5年4月:開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件

[大蔵省之部]明治5年4月:開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件

古沢迂郎 p1/6
平原平作 ※平原太作
白根鼎蔵
B16080849300-1
〔画像〕B16080849300-1

在英国  p2/6
 大蔵省出仕
  古沢迂郎
右出仕ため英国留学申付候旨為御心得此旨相達候也
 未正月二十四日 弁官
※明治4年1月24日(1871年3月14日)
    外務省 御中
B16080849300-2
〔画像〕B16080849300-2

山口県 農 平原平右衛門倅 太作 p3/6
自力ヲ以 米国ニ農学修行罷在候処
当省ヨリ勧農寮官費ヲ以
被差遣候内ニ被加候様
大蔵省ヨリ申出御許可相成候間為
御心得此段申入也
 壬申四月二十四日 史官
※明治5年4月24日(1872年5月30日)
   外務省 御中
B16080849300-3
〔画像〕B16080849300-3

    山口県管内農  p4/6
     平右衛門倅
      平原太作  ※別稿①  別稿②
右ハ昨未年 農学修行として自力ヲ以米国ヘ罷越
  ※明治4年(1871年) ※下記
当時彼地滞在中ニ候処
今般伺済之上農学研究之ため官費ヲ以
同国在留之儀 彼地江申達し申候
就而ハ先般 勧農寮より諸職研究之為メ
生徒十四名 ※別稿に記載
差遣し御振合と同様取扱可申越ニ付
左様御承知有之度
尤免状之義ハ前初自費ヲ以渡航之節
御渡し相成御分ニ而差支無之儀と存候へ共
 ―略―
 壬申四月二十八日  大蔵省
※明治5年4月28日(1872年6月3日)
     外務省 御中
 ―略―
B16080849300-4
〔画像〕B16080849300-4

 ―略― p5/6
米国留学生 白根鼎蔵・・・
 ―略―
 壬申六月十八日 外務省
※明治5年6月18日(1872年7月23日)
     大蔵省 御中
 ―略―
B16080849300-5
〔画像〕B16080849300-5

 ―略― p6/6
米国留学生 白根鼎蔵・・・
 ―略―
 壬申六月十九日 大蔵省
※明治5年6月19日(1872年7月24日)
     外務省 御中
B16080849300-6
〔画像〕B16080849300-6

件名標題(日本語) 大蔵省之部
階層 外務省外交史料館>戦前期外務省記録>6門 人事>
   1類 官制及官職>7項 試験、留学生>
   開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件
レファレンスコード B16080849300 【 画像数 】6
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月08日 10:33 ◆[本官勘合帳 外国官一号]原本
[本官勘合帳 外国官一号]原本:
第319号 上坂多賀之助~第378号 駒留良蔵
第三百三十一号 周防國南吉敷部
百姓 平原太作 未 二十歳
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[工部省之部]明治5年4月:開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件

[工部省之部]明治5年4月:開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件

多賀章人 p1/5
熊谷直敏
寺崎少属
岡崎重陽
三井資源
飯塚義光
B16080849200-1
〔画像〕B16080849200-1

灯台技術一等見習 p2/5
  多賀章人
同下級
  熊谷直敏
  寺崎電信少属
電信技術二等見習下級
  岡崎重陽
測量技術一等見習下級
  三井資源
  飯塚義光
右六名三ヶ年之間 英国江留学トして被差遣致旨
工部省より伺出候処
御許可相成候間
此段及御達候也
B16080849200-2
〔画像〕B16080849200-2

壬申四月十二日 史官 p3/5
※明治5年4月12日(1872年5月18日)
  外務省御中
B16080849200-3
〔画像〕B16080849200-3

別紙之通り工部省より p4/5
届出候間御廻り候也
 壬申四月二十日 史官
※明治5年4月20日(1872年5月26日)
  外務省御中
B16080849200-4
〔画像〕B16080849200-4

今般英国留学被仰付候@@ p5/5
技術一等見習下級熊谷直敏
俄実家引@杉重敏与ゟ改姓名
仕度候届出候間
此段外務省江モ御達有之度
仍而御届申進候也
  壬申四月二十日 工部少輔 山尾庸三
※明治5年4月20日(1872年5月26日)
    正院 御中
B16080849200-5
〔画像〕B16080849200-5

件名標題(日本語) 工部省之部
階層 外務省外交史料館>戦前期外務省記録>6門 人事>
   1類 官制及官職>7項 試験、留学生>
   開拓使工部省大蔵省留学生関係雑件
レファレンスコード B16080849200 【 画像数 】5
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『国立公文書館・アジア歴史資料センター』
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