1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,
アメリカ号日本人渡航者の調査
―先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―
アイテムタイプ 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper
言語 日本語
キーワード 1872年, 日本人米国留学生
種別 研究ノート / Study Note
著者 塩崎 智 / シオザキ サトシ
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拓殖大学
演習指導内容
ミクロの専門分野は、
幕末維新期の米国日本人留学生研究です。
彼らが日本、米国でどのような英語教育を受け、
帰国後、日本の近代化にどのように
貢献したかを調査しています。
マクロの専門分野は、比較文化、
日米文化交流史になります。
英語教育とは直接関係は無いのですが、
言語と文化の関係は切っても切れないものがあります。
英語教育と英語圏文化の関係な等を探る研究にも
関心があります。
人文・自然・人間科学研究 No.44,pp.75-107 October 2020
1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,
アメリカ号日本人渡航者の調査
―先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―
著者 塩崎 智 Satoshi SHIOZAKI
PDF:アメリカ号日本人渡航者の調査 塩崎 智
② 大関増勤一行 p7-11/33
宿毛藩出身の小野梓は
1870年(明治3年)に上海に渡航し西洋留学の志を得て、
帰国後1871年(明治4年)春頃から横浜の修文館で
宣教師ブラウンから英語を習い、
パーレーの『万国史』の翻訳に励んでいた、という(10)。
大関は、出航前の横浜(と)滞米中
ブラウンの世話になったので、
大関と小野はブラウン繋がりだった可能性が高い(11)。
大関は小野の英語力とその留学欲を買って、
留学1年分と渡航費用を提供するという条件で
小野を同行者にスカウトしたと考えられる。
大関一行は、渡米後、
マサチューセッツ州で学んでいたことが、
史料から判明している(12)。
コネチカット州都ハートフォードの
デイリー・クゥラント(Hartford Daily Courant)
1872年(明治5年)6月5日によると、
大関、唐橋、瀬谷、小野、児玉の5人が
マサチューセッツ州イーストハンプトン(Easthampton)
の学校に最近入学した。
つまり、
1871年(明治4年)9月から6月の年度の最後に、
ぎりぎりで入学したということだろうか。
―略―
この学校は、荒船の研究から、
ウィリストン・セミナリー(Williston Seminary)
という私立アカデミーであることが分かっている。
―略―
コネチカット州ノーウィッチのオーロラ
(Norwich Aurora)の
1872年(明治5年)9月25日の紙面、
同じくコネチカット州ミドルタウンの
デイリー・コンスティチューション
(Daily Constitution)の
1872年(明治5年)9月21日の紙面には、
大関一行が、
ウィリストン・セミナリーで下宿しながら
学んでいる様子を示す記事が出ている。
―略―
この記事では、
日本人留学生が4人となっているが、
おそらく児玉が抜けたからだろう(16)。
瀬谷が病気になったので、
大関が同じベッドで寝るわけにはいかない、
どうか大関のために別のベッドを用意してくれないか、
と小野が手紙で学校関係者に頼んでいる(17)。
大関はやがて病気になり、
滞米1年ほどで瀬谷と帰国するが、
スポンサーを失った小野は、
ニューヨーク市の隣のブルックリンに単身移動し、
ジョンソンという人物から法学の個人指導を受けた。
小野は1873年(明治6年)夏頃までブルックリンに滞在し、
イギリスに留学の場を移した。
小野は1872年(明治5年)の10月か11月に、
イギリスに留学していた同郷の宿毛藩出身の
伊賀陽太郎(1851-1897)に、
イギリスの議会政治について書かれた
How are we governed という英書を
送ってくれるように頼んでいる(18)。
小野がジョンソンという米国人と共に
読んでいた本の1冊かもしれない。
この本に関連した内容と思われるが、
小野は、滞米中、ニューヨークとシカゴの新聞に、
How we ought to be governed という題の
英文を寄稿したという(19)。
唐橋に関しては、史料が発見できていない。
(9)荒船俊太郎「資料紹介 小野梓留学関係資料」 p24-25/33
(『早稲田学報』)1179号、2010年2月、p50-53)。
瀬谷に関しては以下の記述がある。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月19日05:40
[資料紹介 小野梓 留学関係資料]『早稲田学報』荒船俊太郎
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年01月01日04:00
[小野梓 留学関係資料]1/2
【大関文書 御願届留録】御留守心得 大野尚絅:黒羽芭蕉の館
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年01月01日05:50
[小野梓 留学関係資料]2/2
【大関文書 御願届留録】御留守心得 大野尚絅:黒羽芭蕉の館
なお、インターネットで検索すると、
次のブログで大関一行に関する種々の史料の
閲覧が可能である。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
cat-瀬谷小次郎:安藤小次郎:大関増勤
同ブログの作成者は、
小野梓の子孫にあたる方のようだ。
膨大な史料が収集され、
記述も正確である。
(15)以下の史料は、・・・で発見した。 p25/33
国会図書館が閉鎖中で確認できていない。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年08月17日07:28
《瀬谷小次郎》[安藤小次郎君 畧傳]【栃木県人物編】明治28年
福澤研究センター編『慶應義塾入社帳』(1986年)を
確認したが、
瀬谷小次郎、安藤小次郎ともに名前を発見できなかった。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年07月02日10:36
《鮫島武之助》《瀬谷小次郎》[慶應義塾 卒業生]
【慶応義塾総覧. 明治41年】
【インターネット上のURL、ブログ等】 p33/33
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月23日16:08
[小野梓:明治5年2月18日
飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]01~05
(原稿受付 2020年6月23日)
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