飛脚船「アメリカ号」関連
西郷菊次郎に関する特別展示が開催されていた。
【国民過去帳. 明治之巻】昭和10年
《アメリカ號》 p118/740
米國郵船にして
明治五年(1872)七月廿一日
神奈川沖に於て焼失沈没す
(郵便報知新聞)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271/118
昭和十年十二月 二十日印刷
昭和十年十二月二十五日發行
定價 金拾圓
送料不要
編纂兼發行者 大植四郎
大阪府泉南郡八木村大字大町三六七番
印刷者 桃谷印刷株式會社
末吉一郎
大阪市東成區鶴橋南之町一ノ五七八五
發行所 尚古房
大阪府泉南郡八木村大字大町三百六十七番地
振替口座 大阪六四九五八番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271/736
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
[岩倉使節団と久米邦武]
漢文で学んだ科学技術
―久米邦武の研鑚とその背景―
高田誠二
(田中彰校注、岩波文庫判(一)、42ペ-ジ、左から五行目)
此回ニ発スル飛脚船ハ「アメリカ」ト号ス、
太平会社飛脚船ノ内ニテ、
第一ナル美麗ノ船ナリ、
長サ三百六十三「フイト」(約我七十間半)、
幅五十七「フイト」、
深サ二十三「フイト」、
甲板ヨリ上ノ高サ八「フイト」、
蒸気ノ力一千五百馬力
(此馬力ハ実馬力ヲ云フニ似タレトモ噸数ニ比スレハ甚弱シ、
恐ラクハ聞誤リアラン)ニテ、
四千五百五十四噸ヲ積ム…
同じ日の記録の書き始めは
「此朝ハ暁ノ霜盛ンニシテ、扶桑ヲ上ル日ノ光モ、イト澄ヤカニ覚エタリ」と
漢文名句のスタイルで綴られているが、
それに比べると「飛脚船」の段は散文的で技術レポートの印象がある
(なお「飛脚船」とは時代劇の響きを伴う語だから大槻『大言海』を調べたら、
「時日を定めて急航する蒸気船」と、見事な解釈が与えられていた)。
―略―
「実馬力」の話に戻れば、
2書とも「求実馬力法」など詳述し例を挙げている。
答を先取りすると、
「容積噸数」4050ほどの汽船2例の
「実馬力」は3704馬力、4234馬力である。
岩倉使節団を運んだ「アメリカ」号は、
「噸数4554」に対し「蒸気の力1500馬力」だと聞かされた。
これを「実馬力」と解して他船と比較すれば、
なるほど「甚弱シ」と言わざるを得ない。
―略―
総括すれば久米は、
アメリカ号の1500馬力が「号」馬力なら納得もできるが、
当節の通念である「実」馬力と解すれば「甚弱シ」だから、
「聞誤リアラン」と注記せざるを得なかったのであろう。
―略―
「アメリカ」号後日談
以上、局所的な詮索だが、
久米の文献博捜の学風と批判精神の強固さとを、一例について示した。
以下は余談に近いが、
久米手稿『環瀛筆記』には
「コノ蒸気ノ力ヲ算スル、蓋シ2000馬力ヲ具ス」とある。
この「アメリカ」号は1865~66年に建造され名声高かったのだが、
そのデータは『汽機発靭』、『汽機必以』には見えない。
原(英)著が1860年代半ばの本だから、それは止むを得ないのだけれども、
後の船舶技術史書に
「アメリカ」号のデータが登場しないのは不思議だと私は感じていたが、
その謎は、最近、『実記』英訳版で解かれた―
この船は、使節団を載せた翌年、火災で失われたのだそうだ。
現地の新聞によってこの出来事を英訳に注記して下さった
M.コルカット教授に深謝しなければならない。
(たかだ せいじ 久米美術館)
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I6802468-00
【西洋旅案内】[第1冊]巻之上
附録萬國商法
福澤諭吉著
慶應三年 丁卯初冬 ※1867年
慶應義塾出版局
明治六年(1873)五月再刻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761258/1
余輩のこのたび乘て
亜米利加(あめりか)へ行きし
コロラドと云る大船なり
このたびアメリカにて打建たる船の數五艘
「コロラド」
「ゲレイトレポブリク」
「セレスチヤルエムパイル」
「ニホン」
「アメリカ」
と名を附けたり
右五艘とも何れも三千トン余の大船なり
一体 亜米利加(あめりか)にて
太平海の飛脚船を
目論見し趣意は… p11/46
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761258/11
【西洋旅案内】[第2冊]巻之下
西洋旅案内 巻の下
福澤諭吉著
太平海飛脚船の立寄場所
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761259/1
此大洋を真直に乘切て
直にサンフランシスコへ着て
渡海二十二三日の間は… p2/41
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761259/2
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
【国民過去帳. 明治之巻】
明治十九年(丙戌) p206/740
《南 保》 p206/740
非職
農商務權大書記官 正六位
靑森縣士族
舊岩代會津藩士にして
弘化三年生れ ※1846年
明治維新の變
廣澤安任、大場恭平等と獄に下り
五年(1872)頃 大藏大錄と為る
七年(1874)頃 租税寮八等出仕に補し
九年(1876)頃 陸軍少佐福島九成、
和蘭國人 ヱーヱフパウドウイン等と領事に任じ
倫敦領事館在勤を命ぜらる
十年(1877)頃 從六位に叙し
十四年(1881) 農商務權大書記官に轉じ
商務局長心得に補し正六位に進む
十九年(1886)一月十四日 肺患に因り歿す
年四十一
現俸三ケ月分を賜ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271/206
昭和十年十二月 二十日印刷
昭和十年十二月二十五日發行
定價 金拾圓
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編纂兼發行者 大植四郎
大阪府泉南郡八木村大字大町三六七番
印刷者 桃谷印刷株式會社
末吉一郎
大阪市東成區鶴橋南之町一ノ五七八五
發行所 尚古房
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
blog[小野一雄のルーツ]改定版
2012年02月01日(水)
[小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02]
皇国人乗込人名(五十名)〔THE JAPAN WEEKLY MAIL〕
吉田大蔵少輔 Yoshida
大鳥大蔵少丞 Otori
本田租税中属 Honda
南大蔵大録 Minami ※南 保
―略―
小野 梓 Ono
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2096366.html
blog[小野一雄のルーツ]改定版
2013年07月05日(金)
[南清ヨリ 兄 大藏大録 保 洋行中 月給ノ儀 申請]
明治六年(1873)八月三十日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2559924.html
【人事興信録. 初版(明36.4刊)】
【人事興信録. 初版(明36.4刊)】
明治36年4月18日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/663
《大關增勤》 p205-206/670
正四位 勳四等 子爵
舊 野州 黒羽藩主
養祖父 增武 天保十年九月生 ※天保10年9月(1839年10月)
子爵 青山忠允
五代前 忠良 五男
男 增輝 明治十二年四月生 ※明治12年(1879)
養叔父 鈔 明治七年五月生 ※明治7年(1874)
同 寛 明治十三年四月生 ※明治13年(1880)
養叔母 銑子 明治三年十月生 ※明治3年(1870)
女 鐵子 明治七年八月生 ※明治7年(1874)
同 增子 明治八年十一月生 ※明治8年(1875)
同 鑛子 明治二十一年十月生 ※明治21年(1888)
養女 董子 明治十三年七月生 ※明治13年(1880)
當家は多治比古王の裔なる
黒田久留里諸家の祖なる
長房の次男恒房の後なり
それより數代高淸大關と稱す後
十三代高增の三男資增德川氏に屬し功あり後
十五代增裕に至る
世々黒羽一萬石の城主たり
君は其後にして
實は子爵松平頼孝の大叔父たり
嘉永五年一月五日を以て生る ※嘉永5年1月5日(1852年1月25日)
※嘉永2年1月5日(1849年1月28日)
慶應三年先代增裕の養子となり ※慶應3年(1867)
明治元年三月封を襲ぎ ※明治1年(1868)
同二年六月黒羽藩知事に任じ ※明治2年(1869)
同五年米國へ遊學 ※明治5年(1872)
同七年七月大講義に補せらる ※明治7年(1874)
同十七年七月子爵を授けられ ※明治17年(1884)
同十八年七月勳四等に ※明治18年(1885)
同三十年七月正四位に叙せらる ※明治30年(1897)
家族は前記の外
男 春雄 (明治二十年二月生) ※明治20年(1887)
女 銀子 (同二十五年十月生) ※明治25年(1892)
同 鈴子 (同二十七年七月生) ※明治27年(1894)
同 千代子 (同三十年四月生) ※明治30年(1897)
同 鉎子 (同三十三年八月生) ※明治33年(1900)
あり
養叔母 珪子(同五年三月生)は ※明治5年(1872)
男爵 大沼盾雄に
同 雪子(同十年一月生) ※明治10年(1877)
同縣士族 風野光四郎に
女 榮子(同十三年八月生)は ※明治13年(1880)
男爵 三浦權五郎 孫 英太郎に
女 ?子(同十年十月生)は ※明治10年(1877)
長崎縣士族 西禎藏に
同 增子(同八年十一月生)は ※明治8年(1875)
男爵 平野長祥に嫁せり
(東京市本郷區駒込追分町三一)
参照=子爵 青山忠允、子爵 松平頼孝、男爵 三浦權五郎、
男爵 平野長祥、男爵 大沼盾雄の項
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/205
《青山忠允》 p524/670
子爵
舊 丹波篠山藩主
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/524
《松平頼孝》 p458/670
正五位 子爵 主獵官
舊 常州 石岡藩主
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/458
《三浦權五郎》 p583/670
從五位 男爵
舊 和歌山國老
妻 はな 天保七年九月生 ※天保7年9月(1836年10月)
子爵 木下利玄 養大叔母
孫 英太郎 明治十一年六月生 ※明治11年(1878)
婦 榮子 明治十三年八月生 ※明治13年(1880)
英太郎 妻
大關增勤 女
孫 正次郎 明治十三年三月生 ※明治13年(1880)
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/583
《平野長祥》 p628/670
正五位 男爵 貴族院議員
舊 和州 田原本藩主
母 とく 嘉永二年四月生 ※嘉永2年4月(1849年4月)
男爵 山崎治敏 姉
妻 增子 明治八年十一月生 ※明治8年(1875)
男爵 大關增勤 三女
男 長克 明治二十八年三月生 ※明治28年(1895)
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/628
《大沼盾雄》 p189/670
從五位 勳五等 男爵 陸軍歩兵中尉
舊 黒羽藩士
祖母 ちか 文政元年三月生 ※文政1年(1818年4月)
妻 珪子 明治五年三月生 ※明治5年(1872)
子爵 大關增勤 叔母
男 帶刀 明治二十八年一月生 ※明治28年(1895)
妹 すま 明治二十年九月生 ※明治20年(1887)
養子 泰山 明治八年一月生 ※明治8年(1875)
栃木縣平民 高原泰温 長男
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810/189
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆-02
〔在欧吉田少輔往復書類〕 p265-268
[明治前期 財政経済史料集成]第十巻 大内兵衛 土屋喬雄 編
昭和54年4月20日発行 原書房(復刻版)
昭和10年8月19日発行 改造社
皇国人乗込人名(五十名) 〔THE JAPAN WEEKLY MAIL〕Apr.6.1872
大関 増勤 元黒羽県知事 Ozich
松平 忠和 元島原県知事 Matzudira
井上 三四郎 元島原県知事家扶 Enoeya
瀬谷 小次郎 元黒羽県知事随従 Sedzuma
小野 梓 Ono
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2096366.html
[小野梓:明治5年2月18日 飛脚船「アメリカ」横浜港出帆]01~05
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2099902.html
[Wikipedia]
大関 増勤(おおぜき ますとし)は、
下野黒羽藩の第16代(最後)の藩主。
来歴[編集]
嘉永2年(1849年)1月5日、
丹波山家藩主谷衛滋の庶子として生まれる。
一説に、常陸府中藩主松平頼説の三男・頼功の三男とする説もある。
慶応3年(1867年)12月に黒羽藩の第15代藩主大関増裕の死去により、
慶応4年(1868年)3月5日に養子として家督を相続する。
―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%A2%97%E5%8B%A4
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