写真:小野梓・墨・安

《小野安子》福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

《小野安子》
(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
福岡大學に入學を志願、小兒科敎室に於て研究
【小野梓】早稲田大學佛教青年會1926

※福岡大学
 (正式名)京都帝国大学福岡医科大学
 (現)  九州大学医学部

【小野梓】早稲田大學佛教青年會
著者    早稲田大學佛教青年會 編纂
出版者   冨山房
出版年月日 1926.6(大正15年)
p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p1【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/1

表題『小野梓』の三文字は
同氏が國憲汎論發行の際
其の書に題筆せる所のもの、
印顆三個は
同氏が存稿議案批評の題辭に捺せるを
寫したるものにして
氏は之を以て常に其雄墨に用ゐたるものなり。
p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p2【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/2

 小野梓先生肖像
p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p3【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/3

 先生曾つて小野義眞氏の妹利遠子を娶り、二男三女を生む。
義男、鐵麿其二男及び橡子嬢は夭折せられ、
安子嬢は(明治)三十五年十九歳にして開業醫たるの資格を得、
それより福岡大學に入學を志願し、
破格を以て小兒科敎室に於て研究せられ後
神戸に於て開業せられたりと云ふ。
p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p14【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/14

大正十五年六月十七日印刷
大正十五年六月十九日發行 (非賣品)
編纂者 早稻田大學佛敎靑年會
    右代表者 木山十彰
    東京市牛込區岩戸町二十六番地
發行兼 合資會社 冨山房
印刷者 東京市神田區神保町九番地
    右代表者 坂本嘉治馬
p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
〔画像〕p47【小野梓】早稲田大學佛教青年會
https://dl.ndl.go.jp/pid/1909566/1/47
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野安子(祖母):西太后の主治医にという話
◎同仁會會長大隈重信伯の演説
これは早稻田大學の創立者の一人たる
小野梓といふ名高い人のお嬢さん
殊に今より二十五年前
早稻田大學創立のときに生れたお嬢さん、
今二十五歳になる其のお嬢さんが
福岡大學に於て醫學を研究した
全体醫科大學に於てさふ云ふ婦人を入れることは
規則が許さぬと云ふやうなことで、
餘程面倒であつたが
さう云ふ熱心なる人の事であるからと云ふので
特殊の法を設け
漸く許されたと云ふのである
故に婦人の醫學を修むのは
目下の急務であると信ずるのであります
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[小野安(安子)]明治39年(1906)頃:九州大学医学部聴講生
小野安子 談
昔、九州大学だけが女性の聴講生を受け入れていた。
※ 明治39 年(1906) 頃 福岡大学で聴講生(小野一雄 調)
※ 九州大学大学文書館 折田悦郎教授に調べて貰いましたが、
  正式な記録は残っていなかった。平成21年(2009)10月8日
  もし、記録が残っていたら、日本で女性・第一号の聴講生です。
※ 福岡大学
 [(正式名)京都帝国大学福岡医科大学 (現)九州大学医学部]
※ 当時、女性に大学入学は認可されていなかった。
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小野梓の開校演説-創立記念コラム-早稲田ウィークリー2017/10/17

小野梓の開校演説-創立記念コラム-早稲田ウィークリー2017/10/17

早稲田ウィークリー
17 OCTOBER 2017
小野梓の開校演説-創立記念コラム-
東京専門学校(※早稲田大学の前身)創設の功労者・小野梓は、
今も小野梓記念賞、小野梓記念奨学金、小野記念講堂等にその名を残し、
日々、早大生とともにある。
その心血を注いだ業績は
『小野梓全集』全五巻(早稲田大学出版部)等で読むことができる。
創立記念日を機に小野梓の開校演説資料を改めて読んでみる。
「祝東京専門学校之開校」の画像は
早稲田大学図書館のWebサイト
古典籍総合データベース」で閲覧でき、
「東京専門学校」(『東洋論策』)は、
『小野梓全集』第四巻に収められている(46-53頁)。
 ―略―
学生部長 政治経済学術院教授 齊藤 泰治(さいとう・たいじ)
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   東洋遺稿
 東洋遺稿:小野梓_page001
〔画像〕東洋遺稿:小野梓_page001

故小野梓先生遺墨  故小野梓先生肖像
 東洋遺稿:小野梓_page002
〔画像〕東洋遺稿:小野梓_page002

「祝東京専門学校之開校」にある小野梓(後)の肖像写真
※小野 安(左)小野一雄・雄二の養祖母
 松村 墨(右)小野一雄・雄二の実祖母
故小野梓先生肖像
〔画像〕故小野梓先生肖像
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年02月28日
<小野梓家系譜>(わが家の歴史とルーツを求めて)〔1-15〕頁200229
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《北庭筑波》父子三人の記念寫眞[小野梓傳]西村眞次著 昭和10年

《北庭筑波》父子三人の記念寫眞[小野梓傳]西村眞次著 昭和10年

[小野梓傳]西村眞次著 昭和10年11月20日発行
 末子である安子の生れたのは(明治)十六年九月十二日で、
それはちやうど專門學校の新築講堂を開いて、
彼れが『侍少年』と題する演説をした日であつた。
 -略-
小野が此安子を抱き、姉の純子を側に立たせて
筑波で撮らせた寫眞は、
小野の撮影として唯一無二のものであるといふ(第三十二圖版)。

 第三十二圖版 父子三人の記念寫眞
 小野梓 安子 純子(墨子)
 小野梓 安子 純子[小野梓傳]p334-1
〔画像〕小野梓 安子 純子[小野梓傳]p334-1
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
北庭筑波(浅草公園)撮影:
墨子(明治14年)鉄麿(明治15年)[小野梓全集]第五巻

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月04日
写真[小野梓・墨・安][林譲治・坂本恭啓・坂本佳記]
[中西清二 前宿毛市長]
小野梓 34歳
生 嘉永5年(1852)3月10日生 旧暦 嘉永5年(1852)2月20日
歿 明治19年(1886)1月11日
小野(松村)墨 69歳
生 明治11年(1878)10月18日
歿 昭和22年(1947)2月14日
小野安 83歳
生 明治16年(1883)9月12日
歿 昭和41年(1966)4月1日

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年07月24日
《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校
 明治二十九年本科卒業者【創立五十年】昭和7年
《写真》左 安 右 墨
〔画像〕小野梓 墨 安[小野梓傳]
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《江崎礼二》撮影 墨子・安子(明治16年12月)[小野梓全集]第五巻

《江崎礼二》撮影 墨子・安子(明治16年12月)[小野梓全集]第五巻

[小野梓全集]第五巻 昭和57年3月31日発行
 留客斎日記 首巻  p331
  (明治十二年一月一日より始む)(己卯)

四巻 1883(明治16)年12月
十九日        p478
使 江崎某撮二児影。 ※江崎礼二

念三日(23日)    p478
致 両児之撮影。   ※撮影(明治16年12月23日)
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小野墨子(小野一雄・雄二の実祖母)
松村墨子(松村仙造の妻)
生 明治11年(1878)10月18日
没 昭和22年(1947)2月14日

小野安子(小野一雄・雄二の養祖母)
生 明治16年(1883)9月12日
歿 昭和41年(1966)4月1日
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【大日本商工名鑑】明治32年
江崎禮二 浅草、公園五區、六四 寫眞業 p279/577
【東洋実業家詳伝. 第3編】明治27年12月23日発行
江崎禮二君  p68-79/116
居宅店舗 東京市淺草區公園第五區六十四番地
別  邸 本所區小梅瓦町六十八番地
營  業 寫 眞
電  話 百八十二番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江崎 礼二(えざき れいじ、1845年 - 1910年)は、
明治時代の写真家、政治家。本姓は塩谷。
1874年(明治6年)に当時盛り場だった浅草奥山に写真館を移転、
10年余の間に奥山でも1、2を争う写真師となった[1]。
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江崎 礼二(えざき れいじ)
明治 5 年(6 年とも)、浅草奥山に移った。
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北庭筑波(浅草公園)撮影:墨子(明治14年)鉄麿(明治15年)[小野梓全集]第五巻

北庭筑波(浅草公園)撮影:
墨子(明治14年)鉄麿(明治15年)[小野梓全集]第五巻

[小野梓全集]第五巻 昭和57年3月31日発行
 留客斎日記 首巻  p331
  (明治十二年一月一日より始む)(己卯)

首巻 1881(明治14)年6月
念二日(22日) p356
携 墨子 入 浅草公園撮影。
※墨子(小野一雄・雄二の実祖母)
※小野墨子:明治11年(1878)10月18日生
 松村墨子 昭和22年(1947)2月14日歿

二巻 1882(明治15)年1月
十六日 p382
午後携 内子両児、游 浅草公園。 ※利遠(妻)・鉄麿と墨子
訪 北庭筑波、撮鉄麿之影。    ※小野鉄麿の撮影。
筑波巧撮影者。          ※筑波 撮影 巧者。
※小野鉄麿:明治14年(1881)9月10日生
      明治15年(1882)6月6日歿
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野すみ》女子高等師範學校 附屬高等女學校
 明治二十九年本科卒業者【創立五十年】昭和7年
[写真]左 安 右 墨
小野安 83歳
生 明治16年(1883)9月12日
歿 昭和41年(1966)4月1日
〔画像〕小野梓 墨 安[小野梓傳]
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北庭 筑波(きたにわ つくば)
明治 5 年頃、浅草公園で写真館を開業。
明治 9 年、浅草に写真塾を開設。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年09月03日
《北庭筑波》父子三人の記念寫眞
[小野梓傳]西村眞次著 昭和10年
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写真[小野梓・墨・安][林譲治・坂本恭啓・坂本佳記][中西清二 前宿毛市長]

写真
[小野梓・墨・安]
写真[小野梓・墨・安]
小野梓 34歳
生 嘉永5年(1852)3月10日生 旧暦 嘉永5年(1852)2月20日
歿 明治19年(1886)1月11日

小野(松村)墨 69歳
生 明治11年(1878)10月18日
歿 昭和22年(1947)2月14日

小野安 83歳
生 明治16年(1883)9月12日
歿 昭和41年(1966)4月1日

[林譲治・坂本恭啓・坂本佳記]
写真[林譲治・坂本恭啓・坂本佳記]
前列右から
林譲治 71歳
生 明治22年(1889)3月24日
歿 昭和35年(1960)4月5日

小野安 83歳
生 明治16年(1883)9月12日
歿 昭和41年(1966)4月1日

坂本春喜 87歳:坂本恭啓(公文牛松)の養母
生 明治6(1873)116
歿 昭和35(1960)114
※追記:平成28年(2016)9月4日 


坂本恭啓
生 明治31年(1898)1月6日
歿

後列右から


坂本佳記 70歳
生 昭和10年(1935)
歿 平成17年(2005)9月1日

坂本恭啓夫人

撮影場所
京都市北区出雲路俵町4
坂本恭啓 邸

[中西清二 前宿毛市長]
写真[中西清二 前宿毛市長]
中西清二 前宿毛市長
小野一雄
小野喜代子

高知県宿毛市
林有造・林譲治邸
平成19年(2007)3月10日

[Wikipedia]
[林譲治 (政治家)]
林 譲治(はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、
日本の政治家、第41代衆議院議長、厚生大臣、内閣官房長官。
位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。
 ―略―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%AD%B2%E6%B2%BB_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
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