小野梓:資料

《謹辤一等撿査官 從五位 小野梓 内閣書記官 御中》明治14年10月21日

明治十四年十月廿二日
大臣  内閣書記官
 一等撿査官小野梓辞職願之儀
  叅議
3653911-1
〔画像〕3653911-1

  辞令案
   一等撿査官 小野 梓
 依願免本官
  十月廿五日

   辤 表
 謹辤一等撿査官
明治十四年十月廿一日 從五位 小野梓
  内閣書記官 御中
3653911-2
〔画像〕3653911-2

一 一等𢮦査官小野梓辞職願ノ儀
右 謹テ奏ス
 明治十四年十月廿四日
    太政大臣 三條實美
    左大臣  熾仁親王
    右大臣  岩倉具視
    叅 議  大木喬任
3653911-3
〔画像〕3653911-3

    叅 議  山縣有朋
    叅 議  伊藤博文
    叅 議  黒田清隆
    叅 議  西郷従道
    叅 議  井上 馨
    叅 議  山田顯義
3653911-4
〔画像〕3653911-4
件名 一等検査官小野梓免官ノ件
階層 行政文書 *内閣・総理府太政官・内閣関係
   第一類 公文録
   公文録・明治14年
   公文録・明治十四年・第二百六十七巻・
   明治十四年・公文録官吏進退太政官一月~十月
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年12月18日03:40
明治14年の政変における
小野梓の決定的役割を描く:姜範錫1991

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年05月07日06:07
《小野梓=士族から平民》「明治14年の政変」
姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年
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あなたは人の體と植木鉢とドチらが大切だと思召すのですか【大隈熊子夫人言行録】昭和9年

【大隈熊子夫人言行録】昭和9年
著者    堀部久太郎 編
出版者   伝紀刊行会
出版年月日 昭和9
 若き日の刀自(二十六歳)
     其二(三十三歳)
 【大隈熊子夫人言行録】昭和9年p4
〔画像〕【大隈熊子夫人言行録】昭和9年p4
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/4
  大隈熊子刀自小傳
大隈熊子刀自は文久三年十一月十四日、
      ※1863年12月24日
(註、戸籍には十二月十四日とあり誤りなり)
郷里佐賀に生る。
故重信侯の長女にして、
母美登は江副氏廉造の姉なり。
幼名を犬千代といひ、
後熊子と改めたり。
幼時、母は故ありて大隈家を離別す。
明治四年(1871)(歳九歳)、
祖母三井子と共に東都に移り、
爾來、兩親(父重信侯、母綾子夫人)の
膝下に愛育せらる。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/19
寛大の事
筆者
『先日、植木屋の源老人が申せる話に
 「先の殿樣(故老侯爵なり)は偉い人だ、
 此の庭にある彼の大きな五葉松の大鉢は
 三代將軍の御愛藏だといはれたもので。
 アレの葉苅を園丁の誰かがやつて居ると、
 梯子をふみはづして落ちた途端に
 梯子が倒れて鉢を壊はしたが、
 その頃には只今のやうな
 支那式の器用な繕ひが出來ぬので、
 皆の者が靑くなつて心配して居ると。
 其處へ殿樣が庭を廻つておいでになつたので
 やむを得ず怖々親方がお詫びを申上げると
 殿樣がウン、そうか、
 怪我せんかつたか。
 とだけ云はれて
 兎ても氣の毒でたまらなかつた」
と申し居たるが、
普通の者ではかかる場合に
かく云はんと思ふとも、
さて其の場に臨むと言へぬことなり』
刀自
『當りまへぢやございませんか。
 あなたは人の體と植木鉢とドチらが
 大切だと思召すのですか』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/65
〔其八〕 中嶋みす
私は御隱居樣(刀自の祖母三井子刀自なり)が
御逝去遊ばしました
(註、三井子刀自は
 明治二十八年(1895)一月一日逝去せられたり)
前年から十年間奥樣の御側で御奉公致しました。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/118
〔其一七〕 成蹊學院 敎諭  神 義鐵
私は昭和元年(1926)、
光吉氏(母堂在世中より祐筆を勤めし人なり)の
歿後八月から早稻田御別邸で
奥樣の御書翰を代筆することになつたのである。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/129
昭和九年二月三日印刷
昭和九年二月七日發行 〔定價一圓五十錢〕
編 者 堀部久太郎
發行者 堀部彌二郎
    神奈川縣高座郡茅ヶ崎町上町一二、四〇八番地
印刷者 渡邊 一郎
    東京市小石川區西古川町二十五番地
發行所 傳紀刊行會
    東京市牛込區市ヶ谷加賀町二丁目八番地
    振替口座東京七七六九七番
    (中外印刷株式會社印刷)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1027195/1/167
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《小野梓》谷中霊園(甲6号10側)【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年

【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年
著者    竹橋事件の真相を明らかにする会 [編]
出版者   昭和出版
出版年月日 1984.10
  小野 梓(甲6号10側)
小野梓(一八五二~八六・嘉永五年~明治十九年)は
土佐宿毛の人、号を東洋。
一八六九(明治二)年、上京、昌平黌に学ぶ。
一八七一年(※1872(明治5)年)、
アメリカに留学、
法律学を学び、
のちロンドンで財政学などを学ぶ。
一八七四(明治7)年帰国し
「共存同衆」を結成、
ヨーロッパ思想の啓蒙に努力した。
一八七六(明治9)年以後官途につき、
司法少丞・元老院会議書記官・会計検査官などに歷任。
一八八一(明治14)年鴎渡会を設立。
同年(明治14)政変に際し下野、
一八八二(明治15)年
大隈重信の立憲改進党の結成に参加し、
同年(明治15)東京専門学校(早大)創立に参画、
翌年(明治16)には東洋館(のちの冨山房)をひらき、
洋書の取次、政経書の出版をはじめる。
モンテスキュー、ベンザム、オースチンなどの
諸学説の影響をうけたが、
一方、日本・中国の古典にも通じ、
著書は『国憲汎論』『民法の骨』をはじめ
政治・法律・財政など多方面におよぶ。
(『小野梓伝』西村真次)
p48【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年
〔画像〕p48【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229493/1/48
  谷中霊園案内図
p70【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年
〔画像〕p70【自由民権・東京史跡探訪】昭和59年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229493/1/70
自由民権・東京史跡探訪
1984年10月31日 初版第1刷発行
著 者 絲屋寿雄・麻生三郎
    野村正太郎・中林茂夫
発行者 吉富達彦
発行所 株式会社 昭和出版
    東京都千代田区神田神保町2-36
    <鈴木ビル>郵便番号 101
    電話 東京(03)264-8591
    振替 東京8-158396
秀栄社・東洋社印刷
定価1,000円
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229493/1/71
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《小野梓》民法之骨【明治協会雑誌 (6)】1883-03~【明治協会雑誌 (14)】1883-05

【明治協会雑誌 (1)】1883-01
出版者   明治協会
出版年月日 1883-01
 明治協會雜誌 第壹號
 明治十六年一月廿日
 明治協會雜誌局
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583759

【明治協会雑誌 (6)】1883-03
出版者   明治協会
出版年月日 1883-03
 明治協會雜誌 第六號
 明治十六年三月十日
 明治協會雜誌局
 p1【明治協会雑誌 (6)】1883-03
〔画像〕p1【明治協会雑誌 (6)】1883-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583764/1/1
〇民法之骨 p2-7/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 小引
本書ハ明治八年(1875)ノ春
其稿ヲ起シ
中コロ筆ヲ止メテ之ヲ續カス
十年(1877)ノ冬
再ヒ其緒ヲ繼キ
又故アリテ之ヲ止メ
今將サニ三タヒ其緒ヲ繼カントス
其説タルヤ淺薄卑近
固ヨリ大方ノ笑ヲ免レス
敢テ本誌ノ紙面ヲ瀆スニ足ラスト雖モ
若シ會員諸君ノ批評ヲ得テ
自カラ益スルヲ得ハ
余カ本會ニ加入スルノ意ニ合フヲ知ル
故ニ今之ヲ本會ニ請ヒ
追章之ヲ掲ケ以テ會員諸君ノ斧鉞ヲ乞ハントス
某々ノ會員ハ疑ヲ質シテ
會員タルノ利益ヲ収ム
余今我カ鄙説ノ批評ヲ請ヒ
以テ其利益ヲ収メントス
顧フ會員諸君ハ余ノ請ヲ容ルヽヤ否
癸未之歳三月初六 東洋學人 小野梓 謹識
※明治16年(1883)3月6日
〇第一章 第一節
 法制ノ意義。
 法制タルニ必須ナル六事。
 p2【明治協会雑誌 (6)】1883-03
〔画像〕p2【明治協会雑誌 (6)】1883-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583764/1/2

【明治協会雑誌 (7)】1883-03
出版者   明治協会
出版年月日 1883-03
〇民法之骨卷之一 (接前號) p2-5/11
 第一章 第二節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583765/1/2

【明治協会雑誌 (8)】1883-03
出版者   明治協会
出版年月日 1883-03
〇民法之骨卷之一 (接前號) p2-5/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第二章 第一節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583766/1/2

【明治協会雑誌 (9)】1883-04
出版者   明治協会
出版年月日 1883-04
〇民法之骨卷之一 (接前號) p5-6/12
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第二章 第二節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583767/1/5

【明治協会雑誌 (10)】1883-04
出版者   明治協会
出版年月日 1883-04
〇民法之骨卷之二 (接前號) p2-5/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第三章
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583768/1/2

【明治協会雑誌 (11)】1883-04
出版者   明治協会
出版年月日 1883-04
〇民法之骨卷之二      p2-4/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第四章 第一節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583769/1/2

【明治協会雑誌 (12)】1883-05
出版者   明治協会
出版年月日 1883-05
〇民法之骨卷之二 (接前號) p2-5/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第四章 第二節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583770/1/2

【明治協会雑誌 (13)】1883-05
出版者   明治協会
出版年月日 1883-05
〇民法之骨卷之二 (接前號) p2-5/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第四章 第三節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583771/1/2

【明治協会雑誌 (14)】1883-05
出版者   明治協会
出版年月日 1883-05
〇民法之骨卷之二 (接前號) p2-4/11
 會員 東洋學人 小野 梓撰
 第四章 第四節
https://dl.ndl.go.jp/pid/1583772/1/2
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《小野梓と井上毅》【日本の思想家 第1】昭和37年

【日本の思想家 第1】昭和37年
著者    朝日新聞社朝日ジャーナル編集部 編
出版者   朝日新聞社
出版年月日 1962
 井上 毅 《国家機構の制作》 神島二郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/81
井上毅自身が憲法起草に参画できるか
いなかの分れ路にたったこのとき、
かれはプロシャ主義をもって
起草方針とすることを主張し、
イギリス主義をとる福澤諭吉および
その余流を排撃すべく決心した。

そこで、井上毅としては、
かれらとむすびついている
参議大隈重信が憲法起草を担当することを
極力妨害しなければならず、
したがって、
半面には伊藤博文を扇動して
大隈重信との対立を激化し、
みずから伊藤博文とむすびつき、
同時に伊藤博文を岩倉具視とむすびつけ、
かれを憲法起草の担当者とすべく鋭意努力した。

一八八一年(明治一四)七月
大隈重信の憲法意見密奏にいきどおって
辞表を提出してひきこもった
伊藤博文におくった十二日付の手紙に、
かれはつぎのようにかいている。
「・・・・・・」
p86【日本の思想家 第1】昭和37年
〔画像〕p86【日本の思想家 第1】昭和37年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/86
井上毅は、
福澤諭吉の存在を誇大に宣伝することによって、
あんに大隈重信排撃の必要を示唆したのである。

なぜ大隈重信を排撃しなければ
ならなかったかといえば、
かれはすでに小野梓という有力なブレーンが
ついていたからである。

小野梓はイギリス的立憲主義をとり、
この春から大著『国憲汎論』の執筆にとりかかり、
三月には意見書「今政十宜」を大隈重信に呈しており、
大隈重信の憲法意見は矢野龍溪の起草にかかるが、
※下記参照願います
小野梓の意見書も参考にされたはずであり、
小野梓は、病弱の身にむちうち、
血を吐きながら執筆をつづけ、
大隈重信のブレーンとして
精力的に活動していたからである。
p87【日本の思想家 第1】昭和37年
〔画像〕p87【日本の思想家 第1】昭和37年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/87
日本の思想家1
定価 四百二十円
昭和三十七年九月三十日第一刷発行
編 者 朝日ジャーナル編集部
発行人 朝日新聞社 伴 俊彦
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 東京 小倉 大阪 名古屋
    朝日新聞社
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/174
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年05月07日
《小野梓=士族から平民》「明治14年の政変」
姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年
「大隈奏書の起草者=矢野文雄」という図式は間違った説であり、
正しくは「大隈奏書の起草者=小野梓」
という説であることを理解して初めて、
明治14年の政変の全容が掴めるのである。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年12月18日 03:40
明治14年の政変における
小野梓の決定的役割を描く:姜範錫1991
池田信夫 blog
万年野党の起源
2014年04月19日00:30
「明治14年の政変」について補足。
この事件は、名前も地味なのでほとんど知られていないが、
『福翁自伝』にも出てくる重要な政変である。
この保守派と急進派の利害が一致し、
井上毅は板垣などと連携して
福沢・大隈グループを政権から追い出し
プロイセン型の明治憲法を起草した。
これは政変としては大した事件ではないが、
その後100年以上にわたって
日本の「国のかたち」を決める出来事だった。
このとき交詢社グループの考えたように
議会が実権をもつイギリス型の憲法をつくっていれば、
予算が際限なく膨張することを阻止して
愚かな戦争も防げたかも知れない。
また天皇のご決断を仰がずに終戦の決定を下せたので、
原爆投下やソ連の参戦・満州や
樺太・千島への侵攻を防げたでしょう。
この「政策を決める官僚機構と国民に迎合する議会」
という組み合わせが明治時代に定着し、今も続いている。
自民党でさえ、政策立案は議会の仕事だとは思っていない。
すべての政党が万年野党になる拒否権型議会主義は、
明治14年に生まれたのである。
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小野梓の民法改正論【自由民権運動とその発展】平野義太郎 昭和52年

【自由民権運動とその発展】昭和52年
著者    平野義太郎 著
出版者   新日本出版社
出版年月日 1977.11(昭和52年)
 家族制度、長男による家督相続廃止論
 民法の改革案
自由民権運動の名だたる指導者たちは、
封建的家族制度および長子による家督相続に対して、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229155/1/116
いずれも批判の矢を向けている。
大井憲太郎・植木枝盛・馬場辰猪、
とくに民法家の小野梓がそうであった。

 小野梓の民法改正論
小野梓は、
その著『羅馬律要』において、
明六社の人びと
(森有礼の妻妾論、福沢諭吉の男女同権論、
 津田真道の廃娼論、植木枝盛の公娼廃止、
 貧農の娘の身売り・前借の廃止)
をひきつぎ、
いっそう熾烈な砲火を浴びせかけ、
これらの男女平等の問題について、
民権運動中の先駆者になった。
さらにこの論旨は、
小野の名著『民法の骨』でくりかえされた。

小野梓は、婚姻は相愛する男女・自由意志の合致、
一夫一婦(妾制度の反対)、
婚姻の公示の原則を立てた。
そしてかれは婚姻年齢の規定の必要を説き、
男二十歳、女十七歳の適齢に達して、
婚姻の契約をなしうべきことを主張した。

「按ずるに、
 アジアの東部には婿を撰び、
 婦を撰ぶの権をもって、
 全く父の手に帰するものあり。
 これ、アジア東部に離婚、
 紛々続き出で、
 甚だしきに至っては、
 相奔情死多からしむる
 ゆえんとする」。

小野梓は、
イギリスのジェレミー・ベンタムの諸法書を
日本に導入した学者(早稲田大学)だったが、
ベンタムはもちろん婚約する各個人の
自立・独立を旨とし、
家族制度に反対し、
したがって相続においても男女の平等、
夫が死亡したとき、
その遺産を半ばは妻にあたえ、
他の半ばは子女間に均分相続させる
諸原則を立てていたのであった。
p117【自由民権運動とその発展】昭和52年
〔画像〕p117【自由民権運動とその発展】昭和52年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229155/1/117
平野義太郎
1897年3月5日生
現在 法学博士、
   フンボルト大学名誉法学博士
   日本平和委員会名誉会長
   国際民主法律家協会副会長
自由民権運動とその発展
1977年11月25日 初版 1800円
著 者 平野義太郎
発行者 松宮 龍起
発行所 株式会社 新日本出版社
    郵便番号112
    東京都文京区大塚3の3の1
    電話 東京(945)8511
    振替番号 東京3-13681
印 刷 亨有堂印刷
製 本 古賀印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/12229155/1/123
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《小野梓》「家」廃止や家長(戸主)の廃止論者【近代日本の家庭 (市民新書)】昭和41年

【近代日本の家庭 (市民新書)】昭和41年(1966)
著者    外崎光広 著
出版者   高知市立市民図書館
出版年月日 1966
 自由民権期の家庭改革論
次に、明確な「家」の廃止論は、
明治一四年(1881)にはじめて登場する。
雑誌「法律志叢」がこの年に連載した
「相続論」のなかの
「社会ノ組織ハ一箇人ヨリ成立ツ者ナルヲ以テ
 一箇人ノ性質完全ナルトキハ
 一社会ノ体面モ自ラ善良ナルヘシ
 之ニ反シテ一家ヲ本トスルモノハ
 其外形ハ美ナリト雖トモ
 其内部或ハ醜穢不規見ルニ忍ヒサルモノアリ」
(一一月二七日発行第八一号)
との一節こそ、
「家」廃止の先駆的主張であるが、
「家」の廃止を説いたこの筆者が
家長(戸主)の廃止論者でもあった。

なお、「家」廃止や家長(戸主)の廃止論者として
小野梓をあげなければならない。
明治四年(※明治5年)から四年間
米英に留学し、
当時のもっともすぐれた
法学者の一人であった小野梓は、
「民法の骨」のなかで、
「一国の基礎を一団の家族に取る非」
を明らかにした上で、
p15【近代日本の家庭 (市民新書)】1966
〔画像〕p15【近代日本の家庭 (市民新書)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029699/1/15
戸主の制のもとでは、
家族は既に成年に達して
自治能力を持っていても、
なお戸主の
「統御を免るゝを得ざれば、
 内に自から不満の心を抱き、
 家庭の交通依て以て和同せざるべく、
 又之にして自主たるを得ず、
 随て其労力の結果を自得するを得ざれば、
 其所有の権利自から鞏固ならず、
 遂に其力を生業に用ゐるの意を薄からしむ」
るものであり、
したがって、
「戸主の制は人間交際の宜しきを失し、
 生民経済の術に背く」
ということで、
戸主制に廃止を力説した。

小野は明治一七年(1884)に単行本として出版した、
「此書は明治八年(1875)其筆を始むと雖も、
 中ごろ国憲汎論の著作に際し之を止め、
 十五年(1882)汎論の書成るや又之を続ぎ、
 近日漸く其の稿を落成す」
といっているから、
彼の「家」廃止論や家長廃止論は、
さきの「法律志叢」の「相続論」に
先立つ労作だったかとも考えられる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029699/1/16
外崎光広
1920年に生れる
1951年同志社大学法学部法律学科卒業
1953年同志社大学大学院にて法学修士
近代日本の家庭 市民新書19
昭和41年8月25日印刷
昭和41年9月1日発行 定価230円
著 者 外崎光広
発行者 渡辺 進
印刷者 有限会社 土電印刷
発行所 高知市立市民図書舘
    高知市帯屋町
    振替徳島15276
    電話②2501
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029699/1/102
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野梓》自由民権運動の指導的法学者の家族制度改革論【家族制度からの解放】昭和31年

【家族制度からの解放 : 
 家庭の幸福と民主主義を守るために (市民新書)】
著者    外崎光広 著
出版者   高知市立市民図書館
出版年月日 1956(昭和31)
 二 自由民権論家の家族制度改革論
人間の自由平等を高く掲げ
民主主義的国家社会の建設を絶叫して、
明治前半期の日本を震撼せしめた自由民権運動が、
家族制度と真向から衝突したのは当然である。

自由民権運動の指導的法学者小野梓
(一八五二年土佐国幡多郡宿毛村に生まれ
 一八八六年東京に死す)は、
明治一七年「民法の骨」を書いて
家族制度を厳しく批判した。
その所論をみよう。

家族制度の支配的な社会では、
個人が直接国家を構成する単位になるのではなく、
家族団体が国家を構成する基礎であり、
個人は家族団体の構成員として
家長を通じてのみ国家組織に参加するものである。

小野梓は家族制度をこのような
公法上の制度とすることに真向から反対して、
個人を以て国家の構成単位とする、
個人制度の採用を力説する。

公法上の家族制度の否定は当然
戸主制度の廃止という
第二の主張となる。

すなわち、
一人の戸主が成年の家族を支配、
統率することは、
その家族の自治の能力を抑制し、
その人の幸福を左右することになる。

既に成年に達し、
自治の能力を有しながらも、
なお戸主の統御を受けるならば、
自から不満の心を抱き、
家庭の親和が破壊されるばかりでなく、
独立できぬために
その労力の結果を自から所有することができず、
したがって、
その力を生業に用いる熱を欠くに至る。

かく、戸主制は、人間交際の宜しきを失し、
生民経済の術に背くものだと結論し、
わが国では戸主制度は上代に始まり、
以来、今日まで及んでいるのだが、
維新後既にその基礎は半ば崩壊し、
わずかにその余影を止めるに過ぎないから、
今後ますますこの傾向を拡げ、
完全に払拭すべきだという。

第三は、
父母が子を恃むの悪弊と題する家族制度的
親子関係の批判である。
古来、東洋では親が子を養育するのは、
子女を成長せしめ、
自分の老後の用に充てる為だと考えているようである。

しかし、親がその子を養育するのは、
父母の尽すべき当然の義務である。

ところが東洋では子の養育は
子に貸与したものように考えて、
子が生長するや自分はまだ若いのに
子の扶養をうけ遊惰安逸に流れ、
無為に徒食する弊風がある。

そのために子は経済的負担大きく、
遠大の事業に尽し、
大利を永久に謀ることができない。

これは、社会の発展にとって
まことに大きな弊害だ、
というのである。

小野の右の批判は、
家族制度の精神的支柱である
孝道に対する批判であると共に、
家族制度に随伴する隠居制度に対する批判であり、
家族制度的親権制度に対する批判でもある。

第四は、
一夫一婦制をとなえ、
妾制度の廃止を叫んでいる。

第五は、
相続制度について諸子分割相続制度を提唱している。
これは戸主制度廃止の主張と共に、
家族制度の最も基本的な支柱に対する一撃である。

第六は養子廃止論である。
養子制度は家系の継続をはかることを目的とする
家族制度の随伴的制度である。

家族制度の廃止を叫ぶ小野が養子制度を
p27【家族制度からの解放】昭和31年
〔画像〕p27【家族制度からの解放】昭和31年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/27
とりあげたことは当然である。

彼は束縛圧制、
人の権利を妨害するもの養子より甚しきはなし、
といって、
そのすみやかなる廃止を説く。

第七は、
男女を区別して位置を与奪するの非、
といって両性の平等の実現を説いた。

ところが、
男女の平等の実現については
小野は意外にもきわめて
微温的であり不徹底なものであった。

彼は、
男女の権利義務を差別することについては、
きびしい世論の非難があるけれども、
国事上差別を設けることは、
今日の事情からまことに止むを得ないものがあるし、
また、
女子の貞心を全うせしめるためにも
差別を設けざるを得ないようである。

しかし、
民事上の権利義務に男女の優劣をおくことは
まことに失当である、と説く。

公法上では両性の不平等もやむを得ないが
民事上では平等でなければならない、
というのが彼の主張である。

ところが、
民事上では男女は平等でなければならないといっても、
それは未婚の女子についてのことであって、
夫婦間の権利義務については
再び夫妻の不平等をやむを得ないものとする。

彼が私淑するベンタムの説くところを援用して、
夫婦を平等にすれば、
琴瑟の和せざる、
鐘鼓の調わざる、
世上終に夫妻の交際を空うし、
人間社会是より絶ゆるに至らんとまで言って、
彼の主張は夫婦婦随の域に低迷していた。

小野梓は、
両性の平等については
このように徹底を欠くけれども、
維新後いまだ民法典をもたなかった当時、
以上みたような
すぐれた家族制度改革論を発表していたことは
注目に値することである。

次に、自由民権運動の立役者であり、
最高の理論家であった植木枝盛
(一八五七年土佐国土佐郡井口村中須賀に生まれ
 一八九二年東京に死す)
の家族制度廃止論にすすもう。

植木の家族制度についての主張は、
小野の「民法の骨」の刊行に一、二年おくれ、
明治二〇年前後の土陽新聞に矢つぎばやに発表された。
p28【家族制度からの解放】昭和31年
〔画像〕p28【家族制度からの解放】昭和31年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/28
外崎光廣
1920年生まれる
1951年同志社大学法学部法律学科卒業
1953年同志社大学大学院にて法学修士
家族制度からの解放 市民新書6
1956年10月25日印刷
1956年11月1日発行 ¥120
著 者 外崎光廣
発行者 渡辺 進
印刷者 谷内印刷工業株式会社
発行所 高知市立市民図書館
    高知市帶屋町
    振替徳島15276
    電話2501
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/137
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白皙痩身の小野梓:国憲汎論、日本財政論、その講義は火をはくような熱弁で専制政府を批判し【大山郁夫伝 本編】1956

【大山郁夫伝 本編】1956
著者    大山郁夫記念事業会 編
出版者   中央公論社
出版年月日 1956
 p4【大山郁夫伝 本編】1956
p4【大山郁夫伝 本編】1956
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/4
  二 早稲田大学時代  p23-45/216
 1 早稲田建学の理想と政治経済科の性格 p23-26/216
開校式の日、※明治15年(1882)10月21日
大隈にかわって式場にたった小野梓は、
次のように建学の抱負を述べた。
「一国の独立は国民の独立に基き、
 国民の独立はその精神の独立に根ざす。
 そして国民精神の独立は、
 実に学問の独立に由るのであるから、
 その国を独立せしめんと欲するなら、
 必ずまずその民を独立せしめねばならぬ。
 その民を独立せしめんと欲すれば、
 まずその精神を独立せしめざるをえない。
 その精神を独立せしめんとすれば、
 その学問を独立せしめねばならぬ。」
白皙痩身の小野梓は、満身の熱情を傾けて、
このように演説した。

当時は不平等条約の改正と自由民権運動が、
全国民的運動として日程にのぼりつつあった。
不平等条約の改正は外国の隷属的地位から
日本を解き放つことであり、
自由民権運動は藩閥の専制支配から
国民を解き放つことであった。
小野が建学の理想として示したものも、
この二つの解放、
二つの独立を達成するために、
学問の独立を早稲田の学園に実現することであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/23
かくて「学の独立」は、
早稲田建学の最も重要な主題となったのである。

小野は国憲汎論、日本財政論などを講じたが、
その講義は火をはくような熱弁で、
専制政府を批判し、
国民の自覚をうながす高い識見につらぬかれていた。
学生に対する感化力は、
まことに大きかったといわれている。

小野は明治十九年、肺患でたおれたが、
彼の理想は早稲田に生きつづけた。
藩閥政府は陰に陽に早稲田を迫害したが、
官憲の圧迫はますます早稲田を鍛えあげたのである。

大山は早稲田時代を回顧して、
「私は小野梓、浮田和民の両先生から、
 大きな感化をうけた」
と語ったというが、
大山が入学したときは、
むろん小野は現世の人ではなかった。
大山が感化を受けたのは、
小野がうえつけた早稲田魂、
ことに大学における学問の独立を
重しとする精神だったのであろう。

早稲田大学教授時代の大山は、
「学問の独立、研究の自由」
のために何人よりも勇敢にたたかった。
そういう意味で、
大山が小野梓の発展的継承者であったことは、
何人も異論のないところであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/24
  2 学生としての大山郁夫
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/25
早稲田が青年大山にあたえたものはなにか。
「小野梓と浮田和民に感化された」
と大山が述懐したことは前に述べた。
小野の感化はいわゆる
早稲田精神であったと思われるが、
大山が浮田から学んだものは、
進歩的自由主義者としての節操と、
キリスト者としての熱いヒューマニズム
だったのではあるまいか。
大山は『浮田和民先生追懐録』
に次のような感想を寄せている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/26
  2 政治学的思惟の形成
大山が学んだ早稲田大学では、
前身東京専門学校の開学当初から、
小野梓の学風を伝統とする
実証主義的政治学が継承されていた。
小野梓は、
大隈重信を助けて東京専門学校の創立に参画し、
『国憲汎論』(一八八二年)を公刊して、
啓蒙期の政治思想に大きな影響を与えた。
その思想はモンテスキュー、ベンタム、
オースチン(J.Austin,1790-1859)
などの影響をうけ、
とりわけベンタムの功利主義の思想を
取りいれたものであるが、
しかし彼の本領は、
日本の諸事情の歴史的特殊性を明らかにし、
その理法を知り、
これに適応する政治形態を求めんとするにあった、
したがって、彼の態度は、
歴史的現実性のなかにその実体を求めようとする
実証主義的傾向を多分に有していた。
彼がこのような立場を
啓蒙期の日本において取ったことは、
たしかに異とすべきである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/72
監修 北沢新次郎
   末川  博
   平野義太郎
昭和三十一年十一月二十五日印刷
昭和三十一年十一月 三十日発行
定価 六〇〇円
発行者 栗本和夫
    東京都中央区京橋二ノ一
印刷者 曾根盛事
    東京都品川區大井寺下町
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ一
    電話(56)代表五九二一(一〇)
(扶桑印刷)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/211
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年04月21日04:15
大山郁夫先生の京都における主治医:
安井信雄(京都・医博・安井病院長)
【大山郁夫伝 別冊付録】1956
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月06日04:28
[東京すくも人]第2号:
《小野梓先生を知るために》兵頭武郎
 結 び
大正から昭和にかけて、
大山郁夫という梓の孫弟子に当る教授が早稲田にいた。
彼は根っからのリベラリストで学生にも相当人気があった。
私も戦後大隈講堂で先生の講演を聞いたことがあるが
超満員で押しつぶされそうになったことを覚えている。
 ―略―
小野梓の『国憲汎論』が日本の新憲法に脈々と入り
生かされていることを知っている人は少ない。
この偉大な先駆者、
小野梓を早稲田当局も
ますます大切に扱っているのであるが、
われわれ、宿毛人も小野梓をもっとよく知り、
その偉業を顕章する必要があるのではないだろうか。
 (日本文芸社 社長)
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『小野梓全集』全五巻完結と二つの記念行事:昭和57年(1982)3月【早稲田大学史記要 15(19)】1982-09

【早稲田大学史記要 15(19)】1982-09
出版者   早稲田大学歴史館
出版年月日 1982-09
p1【早稲田大学史記要 15(19)】1982-09
〔画像〕p1【早稲田大学史記要 15(19)】1982-09
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/1
(彙報) 
  『小野梓全集』全五巻完結と
   二つの記念行事 p137-140/182
 『小野梓全集』全五巻完結
一九七七(昭和五二)年四月より
当所を所管個所として着手した
『小野梓全集』の編集・刊行事業は、
今春(一九八二年三月末)
全五巻の完結により、ようやく終了した。
これも関係者各位の懇篤な御尽力のたまものと
深く感謝申しあげる次第である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/137
 宿毛における『小野梓全集』
   完結記念講演会の開催
学外講演会は完結時の
今春=三月二七日(土)、
※昭和57年(1982)3月27日(土)
小野梓の生地宿毛市でおこなうことになった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/138
宿毛市文化財保護審議会副会長
橋田庫欣(くらよし)氏の「小野梓と宿毛」、
中村尚美氏の「近代日本と小野梓」の二題である。
橋田氏は、新しく作成した
小野家を中心とする詳細な系図、
安政の大地震前後における
宿毛町屋敷の変遷図などを駆使して、
梓をとりまく人間関係、
その生地と生育地の違いなどを述べられた。
このなかで、
梓の曾孫杉岡昭子氏が
兵庫県芦屋市に在住されていることを
はじめて紹介された。
同氏は梓の次女墨(スミ)の子である
兼松中(あたる)氏(故人)の娘。
なお当日の会場には、
実母の和田千枝氏(土佐清水市在住)とともに
姿をみせておられた。
 《懇親会》
午後五時より、同じ場所でテーブルを並べ、
懇親会を挙行。
司会は史編事務長の北川氏。
外木常任理事・林市長のあいさつの後、
淸宝寺住職の清家允氏の音頭で乾杯した。
スピーチでは、
福島清三氏(早稲田大学校友会高知県支部副支部長)
から校友の奮起を促す熱弁があり、
橋田庫欣氏からは、
同席されている
小野梓ゆかりの方がたの紹介があった。
それに応えて、
小野哲夫氏(梓の実兄作馬(稠松)の孫)
北村壮太郎氏
(梓の妹レンの孫、宿毛市商工会議所会頭)、
弘中敦子氏
(梓の師酒井南嶺の孫、兵庫県二宮市から御出席)、
杉岡昭子氏(前出)らの関係者が
つぎつぎにあいさつされた。
また酒井一氏(歯科医)のように、
梓と大江卓の業績の意義を滔々と話される方もおられた。
とても多くの方がマイクの前に立つ
賑やかな会であったが、
最後に、兼近輝雄氏があいさつし、
そのなかで全集の編集助手を勤めた
若手諸氏をはじめとする
早大側関係者を一人ひとり紹介し
労をねぎらわれた。
午後七時閉会。
参会者五五名。
 『小野梓全集』出版記念祝賀会
四月二四日(土)正午から
校友会館三階一、二号室で開催。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/139
このあと北川氏より来賓として
御招待した編集協力者一人ひとりを紹介し
謝意を表された。
その御芳名はつぎのとおり。
坂本起一氏(冨山房社長)
広瀬順晤氏(国立国会図書館憲政資料室)
大島達司氏(同支部法務図書館)
平岡泰之氏(校正家)
沢田冨美子氏(小野義真令孫、令息が代理出席)
小野鶴太郎氏(小野義真令孫)
斉藤カ子(ネ)氏(故斎藤一寛氏夫人)
佐久間英二氏(元読売新聞社監査委員)
林茂氏(東京大学名誉教授)
これをうけ来賓を代表して
林茂氏より御祝辞をいただいた。
林氏はこのなかで、
「この仕事はおそらく
 早稲田大学の近来の傑作の一つだろう」
と本事業の意義を称賛された。
ついで、元総長時子山常三郎氏の音頭で乾杯。
以後は参会者相互の歓談に移り、
和やかな雰囲気のうちに
午後二時散会した。
 出席者は、右掲出分のほか、
小松芳喬・洞富雄・入交好脩・中村吉三郎・
佐藤篤士・兼近輝雄・間宮國夫・由井正臣・
市川孝正・木村時夫・柏崎利之輔・佐藤能丸・
阿部恒久・大日方純夫・吉良芳恵・吉井蒼生夫・
松田義男(以上、編集関係者)
西原春夫・奥島孝康・矢谷憲一・中西敬二郎・
坂井秀春・高橋正明・松本康正・川口浩・
荻野いずみ・深野訓正
(以上、大学本部および史編関係者)の各氏。
 『小野梓全集』編集委員会の解散
『小野梓全集』編集委員会は、
四月一七日(土)、
本年度最初(通算第五七回)の会議を開き、
全集完結により任務を終えたので、
四月二四日の出版記念祝賀会をもって
編集委員会を解散することを決議した。
なお、本事業の後援組織である
「小野梓研究グループ」は、
四月二四日、
祝賀会の前に開かれた会議(通算第一八回)で、
収集資料の整理事業がおこなわれる
本年度中は存続することを申し合せた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/140
昭和五七年九月一五日 発行
頒布価格 一〇〇〇円
発行者 早稲田大学大学史編集所
    清水  司
印刷者 株式会社 早稲田大学印刷所
    西宮輝明
発行所 東京都新宿区西早稲田一ノ六ノ一
    早稲田大学大学史編集所
    〒一六〇
   (第一五巻 通号第一九号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945160/1/181
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