【国民文化 (439)】1996-06
著者 国民文化会議 編
出版者 国民文化会議
出版年月日 1996-06
国民文化 439
1996年6月25日発行
https://dl.ndl.go.jp/pid/1757437/1/1
国民文化会議の40年⑫
2 発足当時 その⑥(山部芳秀)
福地悟朗氏のこと
事業部活動といえば、
一時期夢声氏のもとからきておられた
漫談家で無声映画の弁士だった
福地悟朗氏がなつかしい。
すでに娘さんが嫁いでアメリカにおられたから
五十代半ばにみえたが、
皮ジャン(とは当時は言わなかったが)に
皮のハンティングといったスタイルで、
芸能界はもとより各方面に博識の紳士だった。
やがて氏は、
大隈重信とともに立憲改進党の指導者で、
法学者、政治学者として知られ、
東京専門学校(早稲田大学)を創設する
小野梓の孫にあたり、
※小野梓の甥
小野義真の子:小野十三郎・小野十五郎(福地悟朗)
小野義真の妹:利遠の夫が小野梓
夢声氏がさきにきていたマネージャーにかえて
文化会議向きに派遣された人だとわかった。
氏は、思想の科学研究会の
『夢とおもかげ』(中央公論社刊)などを紹介したり、
講談、落語、浪曲などの声帯模写をきかせてくれたり、
ほとんどが四谷駅近くの大衆酒場でのことだったが、
虎造、米若、勝太郎、綾太郎、友衛、梅鶯、武蔵、雲など、
下町の商店街育ちの筆者にはラジオでなじみの
浪曲師たちのサワリをきかせてくれ、
近くにいた客をおどろかせたりした。
国民会議の大衆芸能部会には漫談の稲岡進、
漫才の大空ヒット・ますみ氏らから
正岡容、小池夢坊、宇井無愁ら
実に多彩な名が並んでいたが、
そういう人々に登場してもらう場も
なかなか作れなかった。
ある時福地氏に、
戦後すぐの日本共産党の大衆路線のなかで
「小林多喜二の母」などの浪曲をつくり、
徳田球一書記長が大感激して
演台にかける大きな飾り布(独特の言い方がある)を
贈ったといわれた浪曲師のことや、
そうした試みについて意見を聞いたことがあったが、
新しい思想は新しい形式でなくては、
といったふうなことを、
慎重に考えつつ言われたようだった。
福地氏が来ておられたのは
半年ほどにすぎなかったが、
のちずいぶんたって
村山知義原作・山本薩夫監督の映画
『忍びの者』をテレビでみていて、
城中の不寝番が拍子木を打ち
「火の用心」を唱えて歩くシーンになったとたん、
鍛えあげた見事な声にハッとした。
まちがいなく、福地氏であった。
すばらしいバイプレヤーだったと、
のちに映画関係者から聞かされた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1757437/1/8
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