小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]

《福地悟朗=小野十五郎》芸能界はもとより各方面に博識の紳士だった【国民文化 (439)】1996-06

【国民文化 (439)】1996-06
著者    国民文化会議 編
出版者   国民文化会議
出版年月日 1996-06
 国民文化 439
 1996年6月25日発行
p1【国民文化 (439)】1996-06
〔画像〕p1【国民文化 (439)】1996-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1757437/1/1

国民文化会議の40年⑫
2 発足当時  その⑥(山部芳秀)
 福地悟朗氏のこと
事業部活動といえば、
一時期夢声氏のもとからきておられた
漫談家で無声映画の弁士だった
福地悟朗氏がなつかしい。

すでに娘さんが嫁いでアメリカにおられたから
五十代半ばにみえたが、
皮ジャン(とは当時は言わなかったが)に
皮のハンティングといったスタイルで、
芸能界はもとより各方面に博識の紳士だった。

やがて氏は、
大隈重信とともに立憲改進党の指導者で、
法学者、政治学者として知られ、
東京専門学校(早稲田大学)を創設する
小野梓の孫にあたり、
※小野梓の甥
 小野義真の子:小野十三郎・小野十五郎(福地悟朗)
 小野義真の妹:利遠の夫が小野梓

夢声氏がさきにきていたマネージャーにかえて
文化会議向きに派遣された人だとわかった。

氏は、思想の科学研究会の
『夢とおもかげ』(中央公論社刊)などを紹介したり、
講談、落語、浪曲などの声帯模写をきかせてくれたり、
ほとんどが四谷駅近くの大衆酒場でのことだったが、
虎造、米若、勝太郎、綾太郎、友衛、梅鶯、武蔵、雲など、
下町の商店街育ちの筆者にはラジオでなじみの
浪曲師たちのサワリをきかせてくれ、
近くにいた客をおどろかせたりした。

国民会議の大衆芸能部会には漫談の稲岡進、
漫才の大空ヒット・ますみ氏らから
正岡容、小池夢坊、宇井無愁ら
実に多彩な名が並んでいたが、
そういう人々に登場してもらう場も
なかなか作れなかった。

ある時福地氏に、
戦後すぐの日本共産党の大衆路線のなかで
「小林多喜二の母」などの浪曲をつくり、
徳田球一書記長が大感激して
演台にかける大きな飾り布(独特の言い方がある)を
贈ったといわれた浪曲師のことや、
そうした試みについて意見を聞いたことがあったが、
新しい思想は新しい形式でなくては、
といったふうなことを、
慎重に考えつつ言われたようだった。

福地氏が来ておられたのは
半年ほどにすぎなかったが、
のちずいぶんたって
村山知義原作・山本薩夫監督の映画
『忍びの者』をテレビでみていて、
城中の不寝番が拍子木を打ち
「火の用心」を唱えて歩くシーンになったとたん、
鍛えあげた見事な声にハッとした。

まちがいなく、福地氏であった。
すばらしいバイプレヤーだったと、
のちに映画関係者から聞かされた。
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として⑥〔完〕【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

―― トーキーになってくるころはどんなでしたか。

福地 最初は、ディスク式トーキーといいまして、
ワーナーブラザーズ、
機械場へレコードテーブル置いて、
映画のスピードと合わせて
レコードで音楽を出してやっていた。
すぐダメになる。
磨滅しますから一週間もたないですよ。
ラブシーンに雑音が出たりなんかして問題にならない。
ソーレみろ、そんなトーキーなんてダメだよ、
音が出るときだけで一週間もたないんだから、
映画説明は永久にわれわれの仕事として続くんだ、
大部分そういう意見だった。

そのうちにフォックスの『進軍』『マーチング・オン』
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/165

という二巻ものの映画がまいりました。
これがフィルムトーキーなんですよ。
これはえらいことになったなと思いましたら、
夢声が
「あきらめなよ、
 どう頑張っても人力車がタクシーに
 かなうわけないんだから」
「じゃ、われわれ失業者ですね。
 ルンペンインテリだ」
「バカなこと言うんじゃない、
 失業者じゃない。
 失業というのは事業そのものはあるんだよ。
 クビになったのが失業者だ。
 われわれは事業そのものが滅びちゃったんだから、
 失業者じゃない。
 滅業者だ。
 胸を張って歩けよ」
そういって励ましてくれましたが、
お互い悩んだですな。

―― 当時の同僚、いっぱい弁士がおられて、
日本ものなんかをやる人と全然違いますね、
徳川夢声、福地さんなんかは。

福地 まるっきり違う。
たとえば下町ふうの、
浅草ふうという邦画の方がいます。
浅草ふうというのは、歌うと言いまして、
全部しゃべるんでございます。
映る前から前説(まえせつ)をやって、
終わりまで。
終わりのマークが出るまで、
「ナントカナントカで、
 円満なる解決をつけるに至ったという、
 これをもって全巻の終わりであります」、
全部しゃべる。

夢声は逆なんです。
よけいなことをしゃべるな、
映画あっての解説者なんだから。
一番いけないのは、ドア説明だ。
ドア説明というのは何ですかというと、
廊下があるだろう、
向こうから男性と女性が歩いてくる。
女性がドアをあけて中へ入る、
続いて男性が入る、
こういうシーンがあるとすると。
と、
「先に立っているメリーは、
 扉に手をかけて開くと中へ入る。
 後から彼は続く」
こういうことをしゃべる、
これがドア説明。
そんなもの見ていればわかるじゃないか。
何のためにそれをしゃべらなければいけないか。
何か特別な意義のあるアクションならば、
それはしゃべらなければいけない。
さもないことはしゃべる理由がないと、
私に懇々と教えてくれました。

私が夢声に、ドア説明をやめろといわれたこと、
これがああそうかとは思って聞いていたんですが、
一番ショックを受けて、
はっきりしたのは、
武蔵野館時代に説明者室御中という
無名のはがきがまいりまして、
僕はこの一年間あなた方の説明ぶりを研究してきたが、
石野馬城氏は七〇%しゃべっている。
山野一郎氏は五〇%しかしゃべらない。
徳川夢声氏に至っては三〇%しかしゃべらない。
しかも最もこの三〇%が印象的である。
これだと思った。
つまり夢声が一番はっきりつかんでいたんですね。

夢声は僕らに、
お客の側になって見た場合に、
見終わった後で、はてな、
いまの映画には弁士がついていたかしらんと、
自問自答するという場合が一番成功したときである。
あすこでうまいこと言ったぜなんて、
そういうものじゃないんだ、
ということを繰り返し言ってました。
あくまでも映画あっての弁士だと。

―― その後はどうされましたか。

福地 で、夢声は結局浅草へいって、
古川緑波と一緒に喜劇の「笑いの王国」をやった。
そのうちに放送のほうも、
JOAKが「映画物語」というのをやった。
「宮本武蔵」のずっと前ですが。
「サロメ」だとか、
「ジークフリード」というのを
夢声に三〇分ぐらいやらしている。
それで声優に彼はなった。
われわれもおかげでNHKへ出入りができて、
一週間に一回ずつ漫談を自分たちで考えだして
ずっとやりました。
それで糊口をしのいだわけです。

そのうちにP・C・L映画。
そうするといままでの俳優さん、
スター連中はダメ、しゃべれない。
いままではこれでパッと消えると
字幕が出て弁士がやっていた。
自分でしゃべらなければ
いけないということになると、
大変ですよ。
そこへいくと、
徳川夢声とその一門はしゃべることは平気だ。
とにかく入ってほしいというので、
凖専属というので、五〇円、拘束料。
優先的に撮影所の仕事をする。
あとは、一本幾らという手当を出すというので、
『唄の世の中』(一九三六)というのを
P・C・Lが撮りまして、
私は、はじめてその中でチンドン屋をやりました。
その次に『東京ラプソディ』、
主題歌が「花咲き花散る宵も……」というやつ。
藤山一郎主演で、伏水修という監督。
これで私は抜擢されて、
レコード会社の宣伝部長の役をやりました。

それから映画にちょいちょい出るようになった。
一回出ますと三〇円から五〇円、
十分めしが食える。
そのころ夢声が一五〇円かな。

凖専属料、何もしないでも。
そのうちに『彦六大いに笑ふ』という三好十郎の。
あのシリーズで夢声は一躍スターダムに上がった。
それにつれてわれわれも映画に出る。

映画の仕事のないときは、
そのころ映画館でアトラクションというのがはやりまして、
俳優がごあいさつに出る。
歌を歌ったり、踊ったり、その司会者。
私は歌うたいの人たちとも知り合いになり、
ずっと長いことやりました。

戦後になって、東宝の大争議、
このときにこっちは旗を振ったほうです。
それから今日に至っている。
俳協というところに所属しまして。

 福地悟朗(1985年)
 p166【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p166【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/166
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印刷・凸版印刷 製本・永井製本
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として⑤【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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 p165-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p165-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― 福地さんは武蔵野館に五〇円の給料で入られますね、
それからだんだん
どこか館を移っていくわけですか。

福地 武蔵野とパレスかけもちから
シネマパレス専属になりましたときは、
一二〇円になりまして……。

―― それが何年ごろですか。

福地 昭和四年。
それでその年の暮れに、
高知の高等学校が、
大変映画熱の盛んなところでして映画観賞会をやる。
去年ドイツもののフランク・ムルナウの
『ラストマン』『最後の人』という
無字幕映画をやった。
夢声さんにきてもらおうと頼みにきたが、
忙しくて行かれない、
そのかわり代理として弟子の山天をさし使わす。
山天というのは山形天洋。
これはそもそもどういう人かというと、
夢声が葵館におりますときに、
臨官席にきていた警官なんです。
山形県の生まれなんです。

高知では徳川さんがやった通りやってくださいよ、
よけいなこと言わないようにと
釘をさされて非常に侮辱を感じたらしいけど行った。

それで今年は『ラ・ルー』というフランス映画、
これは日本名『鉄路の白薔薇』、
アベル・ガンスの長い名画なんです。
これが一本、もう一本は、
デンマークのホームドラマで、
『あるじ(ホスト)』これは一時間ぐらいの二本立て。
弁士は二人ほしいんだけれど、
高知に縁のある人はと調べてみると、あるある。
徳田秋声という文士のニセモノみたいな名前の男がいるが、
これは馬場弧蝶のせがれだ。
これは徳川夢声に憧れて徳田秋声なんていう名前をつけた。
これを呼ぼうじゃないか。

もう一人、福地悟朗がいい。
あれの親父は土佐の宿毛というところの出身らしい。
君行くかね。
行ってみよう、
高知っていいところらしいから
行きたいと思っていたから行きます。
じゃ、二日間だから行ってごらん。
二日間で一五〇円だった。
君は『あるじ』、
馬場君はアベル・ガンス、
『ラ・ルー』をやる。

で、行きまして、各女学校も観覧随意、この映画に限り。
ふだんは映画館には出入り禁止のころです。
それで二日やったわけです。
最初に私がずうっと『あるじ』をしゃべり、
あと二時間半ぐらいの長丁場を
徳田君がしゃべることになっていた。
しゃべれなくなった。
声が出なくなった。
彼はついことしの三月二三日に死にました。
私より若いんですよ。

これが声が出なくなったから
少し助けてくれというので、
私が少ししゃべった。
とうとう二日目は、二本とも私が全部やっちゃった。
私は不思議な弁士がいるもんだと思われたようです。
向こうの映画館のは皆関西式ですからね。
「東山三十六峰静かに眠る……」
ばっかりだから、
そこでそれこそ座談的な説明をする僕が受けました。

帰ってくると、高知へ一年でいいから
きてくれないかということになった。
夢声に相談したら、
一年ぐらいならいいだろう、
行っておいでよ、いいところだぜ、
カツオのたたきはうまいし、というんで、
幾らで雇うかというと、
二五〇円出させるという。

それで前金一つ。
こういうならわしがございまして、
新しいところへ雇われるときは前金というのがある。
それが給料と同じ。
二五〇円一つといえば二五〇円だけ。
三つといえば七五〇円になる。
これはバリュウによって違うわけです。
私に二月出すからきてくれ。
貧乏小屋だけどしんぼうしてくれというので、
昭和四年の暮れに向うから金を送ってきまして、
私はもう女房もっておりましたけれど、
一人で向こうへ行った。

一年で帰してくれるかと思ったのが
そうはいかないで、
フォックスから『進軍』というフィルム式トーキーが
やってくるまで向こうで。
いよいよ弁士のストライキです。
私が旗を振りまして、
争議をやっている最中に劇場が燃えてしまいました。

―― 何という映画館ですか。

福地 大山館。高知市内で
すぐ前に世界館というのがありまして、
これがライバルで、
向こうは金がうんとあるから
いい映画をどんどん入れるんですよ。

こっちはインチキ政治家が道楽に映画館をやっている。
金を出さないから、
パラマントにしても、
フォックスにしても、
いい映画を回してくれない。
火事になって大山館は焼けてしまい、
下足番に至るまでみんな警察に調べられました。
私だけ調べられなかったけれど、
仕方なく武蔵野館へ帰ったわけです。

帰ってきてびっくりしたのは、
トーキーの音の出ているところへ、
夢声と山野一郎氏が掛け合いで映画をやっているんです。
泣いても泣ききれなかったですね。
夢声はそのあと武蔵野をやめまして、
日本劇場でチャップリンの『街の灯』をやりました。
どういうわけか夢声が声をつぶしてしまって
ダメになりました。
吸入をかけたりして一生懸命しゃべったんですが、
うまくいかないので、
夢声を出しておいて、
声の出ないところを私がごまかして、
夢声の声帯模写でうまく切り抜けたことがございます。
それがもう映画とわれわれとの最後でしたな。
昭和九年一月でございます。

 旧武蔵野館の内部
 p165-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p165-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として➃【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
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〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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夢声が出てきまして、
事務所で話したら、
あんたよけりゃここで働いてくれって、
映画の弁士になるならば、
五〇円出すというけど、どう?
そのころ東大出が四〇円でしょう。
「あんたミリオネアーの息子かなんか知らないけど、
 どうせいまは あまり金は持ってないだろう。
 五〇円あげるから、部屋を借りて、
 福神漬で三度三度めしを食えば生きていけるよ、
 しっかりやりたまえ」。
それが始まりです。

それで新春大興行、
福地悟朗という名前で出たわけです。
その時、私がしゃべったのは『特製鋼鉄人形』、
ワーナー・ブラザーズ作品、
主演マット・ムーアとマリー・プレボーでございます。
大正一五年、正しくは昭和元年一二月三一日。

 『武蔵野周報』7巻1号 福地悟朗の名が見える
※『武蔵野週報』
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〔画像〕p164-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― 当時、暗くなったときに話を始めて、
引っ込んでしまうから、顔は見えないですか。

福地 見えません。まるっきり見えません。
後ろにカーテンがありまして、
カーテンをあけたときに薄く光線が入るんです。
その光線によって、夢声は蓬髪だったんです。
これがまことに芸術的に見えるんですよ。
もじゃもじゃの毛が。
それで大喝采があるわけですね。
長いシャシンですと三人でやる場合がある。
夢声とかわるときにも、
スッとカーテンをあけて説明台へ入ったときに、
そのカーテンの気配でお客は拍手を送るんです。
顔は全然見えない。

―― それの説明は全く即興といいますか、
原稿があったりなんかはしないのですか。

福地 タイトル・シーツというのをフィルムと一緒に、
各映画会社、フォックスとか、
パラマウントとかつけてくる。
そのタイトル・シーツを、
いまでいうアルバイト、
東大の英文科の学生諸君で
しょっちゅう遊びにきている連中が、
仲間を集めて翻訳している。
それをつけて、タイプで打ったやつをもってくる。
それをわれわれ一通り見て、
三階の小さなスクリーンで、
普通のスピードの三倍ぐらいの速さで
ブルルルルッと回す。
楽士さんと、私がしゃべるなら私と、
二人で見るわけです。
それで楽士と相談する。
このラブシーンはセレナーデの何を入れる、
ここは何を入れる、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/164

いいでしょう、
というようなことで選曲をする。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/165
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として③【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

―― 結構遅いみたいな感じですね。

福地 ですから、
もう遅いかなと思ったんですけれど、
別に夢声は遅いとも言いませんでした。
じゃ、武蔵野館へ遊びにいらっしゃい
というので行くときに、
年の暮になりまして、
大正天皇が崩御ということになった。
そのころ、一週間ごとに映画は
かわるんでございますが、暮は変えない。
その年の統計をとって、
一番大入りのレコードをつくったフィルムを蒸し返しで、
思い出のためにというので暮にやって、
そのかわりいい説明を必ずつけるというのを
やるならわしがあった。
夢声はそのときに
『救ひを求むる人々』という、
これはしかるべき大きな会社で
つくったんじゃないんです。
ジョセフ・フォン・スタンバーグという
当時無名の監督の『サルベーション・ハンターズ』。
夢声が大変好評だった。
それを暮にやったわけです。
 p163-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p163-2【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
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 福地悟朗(昭和初年)
 p164-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p164-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

その時の夢声というのは、愛酒家だとか、p163/189
豪酒家だといっているけれど、
私にいわせると暴酒家ですな。
くさってくると飲む。
ウィスキーであっても、焼酎であっても、
アブサンでアッテも、何でもいい。

寝られないから、
アダリン、カルチモン、ゼルナール、
ベロナール、劇薬をボリボリやりながら飲む。
そして指を突っ込んで吐く。
吐いた後、またラッパ飲みをする。
これを繰り返していました。

その『サルベーション・ハンターズ』を
やりましたのが大正一五年、
昭和元年になろうとする境目の日でした。
二五日。
初日に私遊びに行ってました。
「この名画をこの名説明で」と、
いっぱいの入りなんです。
私、一回目を見ていまして、
新聞には、「日本に初めてきたプロレタリア映画」と
――プロレタリア映画じゃないですよ。

弱虫だった青年が恋人をとられそうになって、
憤然として喧嘩をする、相手をのしちゃう。
何だ、おれ強かったのだ、というだけの映画です。

それを夢声がしゃべっている。
よけいなことしゃべらないで、
実にうまいなあ。
「とある港、別に変わったことのない、
 不思議のない港、
 太陽と泥と漂流する木切れ、
 猫、骨をしゃぶる」
と小さな声でやって、
「飢えたる者」と力を入れる。
これは効くんですね。
これを夢声がやって大喝采。

ベロベロに酔っぱらって、酒をもってこい。
見習い君に酒をもってこさせて、
「もうダメだ、きょうは。帰る」
「帰るって、先生」。
次席に山野一郎という人気のあった人です。
「僕はこれはやらないよ、徳川さんでなきゃ、
 この映画はもつ映画じゃないよ」
その次に石野馬城という人がいた。
これは浅草からきた人だった。
この人も「いや、私もご辞退いたします」。

それは辞退をするわけなんですよ。
それぞれ一城の主なんですね。
夢声と比較されるわけです。
こんなに違うのかなと思われたら
やりきれないですよ。

先生困りますよと、
支配人が泣きそうな顔をして、
どうしてくれるんだといったんです。

夢声は、「小野君、あんたやれ」
「エエッ」
「あんた、やれるよ。
 さっき見ていただろう。
 やれる。
 やってごらん。
 あの息なんだ。
 最後だけなんだ、力を入れるのは。
 『ウォッチ・ゼア・ウォーク』と
 タイトルが出てるだろう。
 『見よ、彼らが歩み行く姿を』
 あそこだけなんだ。
 あとはサラサラとやっておけばいい。
 やってごらん。
 とにかく帰る」と帰っちゃった。
みんな真っ青になりました。

めくらヘビという心理でしょうかね。
ええい、やっつけちゃえと。
それで真っ暗の中へ出まして
しゃべり出したところが、
説明台の下へかじりついて見ているファンがいるんですよ。
不思議な顔をして見ていましたがね。
むこうから顔は見えないから。

ところが、夢声だと思ってお客は聞いてくれて、
大喝采。
それで一日三回ですから、
あと二回またやったわけです。
それが第一回のお目見えです。
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日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として②【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

私は実はまず咄家になろうとして、
柳家三語楼、談州楼燕枝、四代目柳家小さん、
この三人を順々に訪ねまして
「師匠、お弟子にしていただきたい、
 住み込みで一生懸命やりますから」
「おまえさん咄家になるというのは
 寄席は好きか?」
「大好きです」
「いま幾つだ」
「いま一三になりました」
「小咄ぐらいやったことあるだろう。
 しゃべってみろ」
「はい」。
それで小咄をちょっとやりました。
三語楼という人だけは、
手にストップウォッチを持ちまして
「『穴子でからぬけ』知ってるね」
「ええ」
「あれ、しゃべってみろ。
 いいね、おまえ。
 普通ね、これ八分ぐらいかかるんだよ、
 うちの前座は。
 おまえさん六分でやっちゃったよ。
 六分でやれるんだ。
 おいで、あしたから」
うれしかったですがね。
「ええ、伺いますから、よろしく」
「うん。で、親御さんはむろんご承知だな」。
私、そのとき家出していたのです。
「それが具合が悪いんです」
「あっ、それは残念だが、ダメだ。
 そういう人を引き取って
 ひでえ目にあった仲間がいる。
 誘拐罪になる。ダメだ」
どこへ行ってもダメ。
テストは受かるんですが、ダメ。
それであきらめました。

ところが、
私の母というのは江戸っ子で、
いまの日本橋の三越の前に植木棚と称する
町人の町があって、
その袋物問屋の娘だった。
嫁入り支度に踊を踊ったり、
三味線を習った、長唄を。

それで耳は私できていたものですから、
もうしようがない、
長唄やってやろうと思って、
吉住小三郎の弟子で
小桃次という人が小石川におりまして、
これはビクターで赤盤を出した達人で、
師匠には遠く及ばないけれども、
なかなか大家だった。

ここへ頼み込んで、弟子入りしました。
頼み込んでといっても、
これは咄家の世界と違いますから、
束脩、金拾円也を包んで持っていった。

吉住派はお座敷長唄。
謡がかりの芝居長唄とは発声が違う。
吉住のほうは言文一致なんです。
三年やりました。
朝十時から夕五時まで弁当持参、
ほかのお弟子の稽古まで聴く。
いわゆる盗みげいこ。

いよいよおさらいをして
テストを受けまして、
「官女」を唄って小源次という名前をもらい、
帝国ホテル演芸場でやることになっていたときなんです、
その『キイン』を見たのは。
顔が見えない、これだと思いましたね。
 p163-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p163-1【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

そのころ、親譲りの小金が少し残っておりました。
芝に私の親父が関係しておりました
紅葉館という非常に高級な料亭がございました。
明治三二年、
日本人による活動写真製作のはじめといわれる
『紅葉狩』、市川団十郎と尾上菊五郎出演が、
ここをセットとして撮影されたと、
古くからの女中からききましたが、
たしかめるすべはございません。

私のところへ東大英文科で、
川端康成、今東光らの
『新思潮』を出したいんだけれど、金がない。
三〇〇円要る、出してくれないか、
という話が知人からもちこまれました。
こっちは長唄を一生懸命やっているときで、
これという金も要りませんでしたから、
三〇〇円出したんです。

身もちが悪くて困っているという
仲間うちの評判だった今東光が、
袴をはいて私の家まで挨拶に来たことを覚えています。

その連中が武蔵野館で夢声の友達になって
しょっちゅう遊びに行っていた。
だから、話をしてくれと頼んだところが、
いいという。

夢声を紅葉館へ呼んで、
飲んでいる最中でした。
そこで私、夢声に初めて会って、
弟子入りを頼んで、オーケー。
これが昭和元年、正しくいいますと
大正一五年の一一月でございます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/163
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
印刷・凸版印刷 製本・永井製本
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《福地悟朗=小野十五郎》徳川夢声の弟子として①【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
著者    今村昌平 [ほか]編
出版者   岩波書店
出版年月日 1985.10
p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p3【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/3

夢声の弟子として
福地悟朗
ふくちごろう
一九〇〇年東京に生まれる。
咄家にあこがれ修業中、
たまたま聞いた夢声に感激、
さっそく弟子入りし映画説明者となる。
洋画中心の知的な語りには定評があった。
トーキー以後、P・C・Lに入り、
脇役として活躍。
戦後の東宝争議では文工隊として全国をまわる。
以後、俳協に所属し現在に至る。
無声映画の鑑賞会などで、
洋画の名作を一晩でも語る貴重な弁士経験者である。
(インタビュー 一九八五年六月二四日)
 p162【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985
〔画像〕p162【講座日本映画 1 (日本映画の誕生)】1985

―― お生まれは何年ですか。

福地 明治三三年、一九〇〇年一〇月五日生まれ。
本名を小野十五郎と申します。

―― 小野梓の身うちだとか。

福地 親父が土佐の宿毛の出身で、
小野義真といいまして、
東北本線、上野から青森までの私鉄、
日本鉄道を創設いたしまして、
その社長をやっておりました。

井上勝、岩崎弥太郎の弟弥之助、
この二人と、手を組んで始めたらしい。
たまたま盛岡の郊外、
岩手山麓の原野二六〇〇余町歩に
非常にうたれたものがあった。
何かここでやろうじゃないかというんで、
三人で金を出し合って買収した。
これが小岩井農場なんです。
小野の「小」と岩崎の「岩」と
井上の「井」を組み合わせた。
そういう男でございました。

弟の梓のほうは、ロンドンへ行きまして、
もともと蒲柳の質であったのが、
たちまちに
コンサンプション(肺結核)にやられまして、
三五歳で死んだんでございます。

彼は大隈重信と協力、
早稲田大学を創設しました。
旧制中学もロクに出ていない私が
早稲田大学に入りましたのも、
このおじの縁故でございました。

今でいう「裏口入学」、
金は使っておりませんが
頼みこんで入学できたわけです。

ミルクホールに入りびたりの
けしからん学生生活でしたな。
まあ、私は芸事の方が好きだったんです。

―― シネマパレスに行かれて
初めて夢声をおききになったとおっしゃいましたが、
最初、咄家になりたかったというお話から、
そのへんの事情をお話していただくと……。

福地 向島で私生まれたものですから、
浅草へ行きまして、映画ばかり観ていました、六区で。
そのころ染井三郎とか、生駒雷遊とかいう、
いわゆる下町ふうの美文麗句で歌い上げる、
これよりうまい弁士はないと思っていた。

ところが小野梓が始めた冨山房に勤めている、
やはり土佐からきておりました人が、
「小野さん、あんた弁士、弁士というけれども、
 弁士は浅草だけではない、神田にもいますよ」
「どこにいる」
「淡路町のパレス」
「何という弁士?」
「徳川夢声」
「聞いたことないな」
「一ぺん聞いてごらんなさい」。
そのときにやっておりましたのが、
『キイン』というフランスの映画。
エドマンド・キイン。

シネマパレスで、
浅草とはまるで雰囲気の違う、
お客は咳払いする人もほとんどないくらいで、
小さな小屋でドームの形で、
こういう下へ下がっていて、
スクリーンが見えて、
その前に小さなボックスがあって、
トリオぐらいで演奏している。
やがてブザーが鳴りまして暗くなる。
真っ暗の中に音楽が流れる。
しずかにカーテンが上がる。
そうすると何かささやくような声で、
「無名の青年から名をおこして
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/162

 一躍演劇団の花形となりました
 エドマンド・キイン、
 その青春時代の華やかさに比べ、
 最後は暗澹たるものでございました」。

こういうしゃべり方なんですね。
洗練されたバリトンで
ちょうどこうやってお話しているのと同じようだ。
はてな、これが活弁かな、
こんなしゃべり方でどうなるのかな、
と思って見ているうちに、
うまいんですね、性格描写が。
それから失恋をする、
伯爵夫人に恋をしてボロボロになっていく、
何もそういうことの説明はしないんだけれども、
ときどき吐息をつくようにしゃべっていく
彼のしゃべり方。

これに付き添いのニコラス・コリンという
老優がおりまして、脇役が。
これがうまい。
主人公が倒れてしまったところで
カーテンが落ちる。
「お客さま、芝居はおしまいでございます」
という一言。
見ていてハッと泣きたくなる。
これはすごいなあ、なるほど。
何よりも私がうれしかったのは、
真っ暗で顔が見えない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437354/1/163
日本映画の誕生
講座 日本映画1(全7巻・第1回配本)
一九八五年一〇月二三日 第一刷発行
定価二八〇〇円
発行者 緑川 亨
発行所 株式会社 岩波書店
    〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
    電話03-265-4111
    振替東京6-26240
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《小野十三郎》日記 十九 蔦溫泉のつゞき甲州ゆき:大正14年5月30日午後52分大阪驛【桂月全集 別巻 上】1980

【桂月全集 別巻 上】1980
著者    大町桂月 著
出版者   日本図書センター
出版年月日 1980.1.
p3【桂月全集 別巻 上】1980
〔画像〕p3【桂月全集 別巻 上】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/3

日記 十九
 蔦溫泉のつゞき甲州ゆき
  大正十四年五月十四日
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/481
 五月二十九日午後十時半發東京驛、
 五月卅日午後二時五十二分大阪驛へつく
 松本光三、小野十三郎、田所貢、
 (京都、竹村、貞恒、妻、二子、)
 大阪毎夕新聞社、白神邦二、古島一雄 友人 主筆 鷲谷武
 大阪毎日  奥村不染信太郎
 大阪朝日  天野德三(下村宏 代表)
 關西日報  齋藤弔花
 大阪都新聞 原成吉
 大阪時事  福田寅治
 (今西旅館、
  北區曾根崎町中二丁目一八七 電北(長)一五八七
  米田旅館
  夜 弔花氏しやしん師をつれて來る

五月三十一日
 大阪毎日新聞 平田外喜二郎
 大阪都新聞  知久政太郎
 小野十三郎  自働車
 秋琴樓
  小野十三郎、樋口櫻五。
  大東塗料會社 兵庫縣尼崎市外
  小田村長洲、竹村、田所、

六月一日 松本、竹村、三人
 森勘七、今北治作 小野十三郎 濱口駒次郎
 上村政吉  鈴木商店
 眞野多喜造 大日本製糖會社
 坂本重英
 ルス 長田正淸 東區本町一丁目橋詰
 ルス 龜谷伴吉 遼東新報支局
 ルス 西山延樹
 ルス 川崎齊一郎 板野友造
 ルス 傍士定治
 ルス 三谷軌秀 三宅辰次郎
 八代法學士 住友銀行
 北澤敬二郎 住友合資會社代理 同學
    小倉 庶務課長
 田所美治 奥戸善之助 淸瀨一郎 伊藤鐵五郎
 自動車にて訪問
 夜 田所美治 森勘七 奥戸善之助
   齋藤弔花 野本稔尋
 田所美治ノ共同火災保險會社にて
 伊丹圖書館長 小林杖治にあふ
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/483
桂月全集  14,000
昭和55年1月10日 印刷
昭和55年1月25日 発行
著 者 大町 桂月
発行者 高野 義夫
印刷所 株式会社 誠進社
発行所 株式会社 日本図書センター
    東京都文京区大塚3-4-13
    電話(03)947-9387
    振替東京2-8206
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《小野十三郎》土佐日記(三) 宿毛:大正九年七月【桂月全集 別巻 上】1980

【桂月全集 別巻 上】1980
著者    大町桂月 著
出版者   日本図書センター
出版年月日 1980.1.
p3【桂月全集 別巻 上】1980
〔画像〕p3【桂月全集 別巻 上】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/3

土佐日記(三) 大正九年七月十九日より
        八月十日迄
 中村 南國日報社 峯金太郎
    同     幸德駒太郎
    土陽支局 弘田伸雄 西村愿
    世わ 福島利馬 世わ 渡邊芳之助
    老醫 土谷宗明
    築山
    小學校  小野信次郎
    郡視學  佐野友次郎
    第三中學 横山市治郎
    町長 島崎正勝
    郡長 乾光暉
 下加江 溝淵政次郎
 松尾 校長 沖良貞
    局長 田中康男 局長 岡林音五郎
    宿  小松瀧治
 淸水(一) 土陽 町田林太郎
    松尾にても中内秀吉 區長 吉福義吉
    淸松の村長代理 上原壽
 三崎 矢野川金兵衞 矢野川正修 熊野丑太郎、
    助やく 堀萬次
 淸水(二) 村長 岡野喜十郎 尋長 橋本政衞
       高長 近藤善吉  區長 上原稔、
 宿毛  小野十三郎 大井田正行 高橋嘉吉(兄)
 片しま 局長 山縣省三 大隅勉
     谷太郎 もとふざんぼう
     佐田佐いちろう もとふざんぼう
 中市村 坂本金太郎 藤田昌世 高橋重次(弟)
     蜷川小學校 下村矢水
 須崎  土陽 安田憲一 僧 佐藤龍洞 西田誠喜
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/343
 窪川 多田寅吉 同 稻吉 書會世わ 吉本倉次
    久禮校長 西 恭翁 大谷茂樹 諏訪賴水
    助役 濱田稔 町長 日林陽明
 戸波 醫、廣賴虎彦 村長 矢野銘吉 横田彦太郎 神山誠意、
 高岡 小笠原長太郎(助やく) 橋田良實(土陽)
    廣田耕作、紅雪 野田淸壽 敎員
 前濱 大原里賢 八井田耕吉(醫)
    村長 岡本久萬衞 校長 濱田適
 三島 村長 濱田政太郎 校長 島村玄學
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/344
桂月全集  14,000
昭和55年1月10日 印刷
昭和55年1月25日 発行
著 者 大町 桂月
発行者 高野 義夫
印刷所 株式会社 誠進社
発行所 株式会社 日本図書センター
    東京都文京区大塚3-4-13
    電話(03)947-9387
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《小野銀行頭取 小野十三郎》黑岩(小野家執事)土佐日記(二) 宿毛:大正九年六月七月【桂月全集 別巻 上】1980

【桂月全集 別巻 上】1980
著者    大町桂月 著
出版者   日本図書センター
出版年月日 1980.1.
p3【桂月全集 別巻 上】1980
〔画像〕p3【桂月全集 別巻 上】1980
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/3

土佐日記(二) 大正九年六月十二日より
        七月十七日まで
        幡多郡高岡町
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/332
六月二十二日
 二十二日 くもる 車にて八時發 路ほとゝぎす
 九時半 中村町 南國日報社 社長 岸金太郎 紅葉軒
 南國日報記者 幸德駒太郎
 土陽支局長 引田伸雄 西村愿 岸金太郎も來ル

 渡邊芳之助 冨山房外交員もと宿毛校長
 坂本氏より手紙來り世話せし由也——病氣なほる

 小學校長 小野信次郎 郡視學 佐野友次郎
 田ノ口村 第三中學校長 横山市次郎 千ばけん(文學士)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/334

六月三十日(晴)
 六時上陸、人力、片島、右手、川にのぞみ崖山、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/337
 林有造の銅像、
 六時半、宿毛ノ町につきて朝食す、
 米十(鹽田)旅館にやすむ、午食もす、
 二時自動車
 宿毛町 ◎高橋嘉吉 大井田正行
 逢難心不屈 當苦氣愈振
 君是眞男子 至誠泣鬼神 新作

七月二日 晴
 田中は昨日宿毛へゆけり
 老 西村愿 若 福島利馬 この二人せわ人也
 薄暮宿毛 橋まで小野氏高橋氏兄弟 田中むかふ、
 小野氏に投ず
 田中 近澤は宿毛館、
 夜、高橋兄弟 大井田正行
 片しま方面のせわせし人 山縣省三
 片しま郵便局長 高橋氏の弟と二番かこむ

七月三日 朝くもる
 小野氏と共に「コウゾノ」堰にかほ あらひにゆく
 一宮神社のあとに上る、
 老松二抱半おこんば淵(村役場)
 樹しげりて眺望なし東福寺ノ畔、
 伊賀氏の墓地に上る
 宿毛一目の下、休翼園

 午前 小學こうえん
 夜 淸寶寺こうえん
 とうふくじの側の小山 伊賀氏の墓地也
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/338
七月四日
 宿毛のわらぢは ちぼ一つ也
 篠山ノ神社ふきん檜多し、
 上はつゝじ、どうだん、小笹一面也
   鯤化作鵬々作石
   悠然休翼小池邊
   池中一任鯉魚躍
   梅雪松風幾萬年
   題休翼園 小野氏
 少しあるきて十時半
 小舟二艘(大隈氏はひとり提燈徒歩)
 月出づ、瀨の金波、
 月を後にし、左にし、前にし、右にす、
 川まがりまがりまがる、
 いくどもゆきつまるかと思はる、
 せき處々に多し、
 舟急に下る、水あさし、
 きけんならず川はゞ三十間内外
 本流に合して、間もなく、おこんば、
 小野、黑岩(小野家執事)大隈、田中、近澤 迎ふ
 同行十三人
 大隈勉 役ば 土居乙亥 和田校長 室山隆雄
 山本茂吉 菅原照淸 大井田正經 川島峯吉
 山岡淸  宮口 一 宮地 淸  林 區
 谷太郎—ふざん房にてしれり
 佐田佐一郎 桂月

七月五日 晴
 小野、黑岩、男、新地より舟、

 豫土眞珠株式會社 林有造社長
 大井田正行とりしまりやく
 技師長 藤田氏
 もと いよの平山、小西左金吾
 失ぱい、ひきうけて、
 こゝにうつす、
 中層は藤田昌世氏創む
 今は眞似するものあり

 十時半モーターボート
 藤田、小野、大井田、助手、

 六時三十分 片島さんばしにつく
 人力にて宿毛小野氏につく
 夜揮毫
 柏島にて敎員 田中恒治案内を成す
 柏島浦漁業組合理事 浦村直次に あふ
 和田屋に午食す 二人來る、
 高橋嘉吉(兄) 高橋重次(中) 北村久吉(弟)

 七月六日 午前揮毫 十二時半去小野氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/339
 小野銀行頭取 小野十三郎
 宿毛町 東京芝區三田松坂町十八番地
 電高輪一〇九六
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/340
桂月全集  14,000
昭和55年1月10日 印刷
昭和55年1月25日 発行
著 者 大町 桂月
発行者 高野 義夫
印刷所 株式会社 誠進社
発行所 株式会社 日本図書センター
    東京都文京区大塚3-4-13
    電話(03)947-9387
    振替東京2-8206
https://dl.ndl.go.jp/pid/12548305/1/603
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