小野十三郎・小野十五郎[福地悟朗]

《小野十三郎》東京市神田區駿河臺鈴木町五【東京市及接続郡部地籍台帳・地図】1912

《小野十三郎》東京市神田區駿河臺鈴木町五
【東京市及接続郡部地籍台帳 1】明治45年(1912)
【東京市及接続郡部地籍地図 上卷】大正1年(1912)

【東京市及接続郡部地籍台帳 1】明治45年
出版者   東京市区調査会
出版年月日 明45
東京市神田區
駿河臺鈴木町
地番   所有者氏名  坪 數
一    淺田 正文  二〇〇・〇七
二    井上 達一  三一九・八〇
三    井上 達一  二一二・二四
四    井上 達一  二五〇・四三
五    小野十三郎  二一八・〇四
六    服部 親民  五〇二・三二
七    服部 親民  四五四・四〇
八    谷森 眞男  三九九・一三
九    岩崎 久彌  五〇九・一〇
一〇   岩崎 久彌  四七四・三五
一一   平田 東助  二四四・一二
一二   松崎 純男  六五〇・六二
一三ノ一 薩摩 ハル  三〇〇・〇〇
一三ノ二 薩摩 スミ  三〇三・七二
地番   所有者氏名  坪 數
一四   曾我 祐準  七二三・七七
一五ノ一 坊城 俊德  四〇二・一五
一五ノ二 曾我 祐準   六一・一二
一六ノ一 坊城 俊德  九七六・二七
一六ノ二 宮部  久  五四四・〇〇
一六ノ三 宮部 敏切  二〇七・六五
一七ノ一 日下部志勇  一一七・一九
一七ノ二 日下部志勇   九三・一八
一七ノ三 五味卯三郎  一三二・〇四
一八   原田 熊雄  一八六・四〇
一九   原田熊雄   二七八・三〇
二〇   薩摩治兵衛  六八〇・四〇
二一   薩摩治兵衛  八三八・四一
二二   箕田長三郎  八〇〇・五四
二三   服部 親民  二九三・一九
二四ノ一 高津 善紹  一二四・〇〇
二四ノ二 境野 五郎   七八・四二

【東京市及接続郡部地籍地図 上卷】大正1年
出版者   東京市区調査会
出版年月日 大正1
東京市 神田區 駿河臺鈴木町、同袋町(神田13)
※赤枠:五  小野十三郎  二一八・〇四
※緑枠:九  岩崎 久彌  五〇九・一〇
    一〇 岩崎 久彌  四七四・三五
p79【東京市及接続郡部地籍地図 上卷】大正1年
〔画像〕p79【東京市及接続郡部地籍地図 上卷】大正1年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野十三郎》磐城炭礦株式會社 大株主【銀行会社要録 : 附・役員録 第三版】明治32年5月

《小野十三郎》磐城炭礦株式會社 大株主
【銀行会社要録 : 附・役員録 第三版】明治32年5月

【銀行会社要録 : 附・役員録 第三版】明治32年5月
出版者   東京興信所
出版年月日 明30-45
 磐城炭礦株式會社
明治卅一年十二月卅一日決算
東京市 京橋區本湊町九番地
電 話 新橋二六八番八三〇番
資本金 400,000
設 立 明治廿六年十二月
總株數 8,000.
株主人員  69.
役員并ニ使用人 33.
取締役會長   澁澤 榮一
專務取締役   唐崎 恭三
取締役     淺野總一郎
仝       渡邊治右衛門
仝       久米 良作
監査役     西園寺公成
仝       佐久間精一
副支配人兼   萩原 久徴
經理部主任
販賣部主任   尾川 友輔
  大株主氏名及持株
淺野總一郎   1,996.
澁澤 榮一   1,518.
唐崎 恭三     400.
渡邊治右衛門    386.
小野十三郎     328.
川崎八右衛門    286.
大倉喜八郎     276.
内國通運會社    276.
西園寺公成     200.
  派 出 所
(北豐島郡南千住町)
(日本鐵道會社 隅田川貨物取扱所構内)
開設 明治卅年四月
主任 稻葉俊之助
  礦 業 所
(福島縣石城郡湯本村字三函二一六番地)
開設 明治廿九年九月
技監兼所長 相河保四郎
事務長   落合 良明
技 士   倉田 龜吉
小野田採炭係主任 安井和太郎
運輸係主任 角地勝太郎
器械係主任 葛岡 文治
經理係主任 生駒 東一
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[宿毛小野銀行の開業]小野十三郎(故小野義眞氏の令息)の手に買収せられ【銀行通信録 62(371)】大正5年

[宿毛小野銀行の開業]
小野十三郎(故小野義眞氏の令息)の手に買収せられ
【銀行通信録 62(371)】大正5年

【銀行通信録 62(371)】大正5年
出版者   東京銀行集会所
出版年月日 1916-09
 ◎宿毛小野銀行の開業
信濃國南安曇郡明盛村に本店を有せし
株式會社明盛銀行は
東京神田區駿河臺鈴木町に本宅を有する
小野十三郎(故小野義眞氏の令息)の手に買収せられ
昨年十二月同氏の郷里高知縣幡多郡宿毛町に移轉し
本年四月現今の商號に改稱し行舎新築中の處
漸く落成を告げたるを以て
七月二十五日より一般の營業を開始せり
資本金は十五萬圓全額拂込にして
積立金二萬圓あり
營業部長として
土佐銀行計算課長
前高知銀行宿毛支店長たりし
臼井耕治郎氏就任せり
https://dl.ndl.go.jp/pid/1586989/1/55
大正五年九月二十日發行
發行人兼編輯人 鶴岡 伊作
發行所 東京銀行集會所
    東京市日本橋區坂本町四十番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1586989/1/117
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《幸德駒太郎(新聞發行人)》「南國新聞」大正6年9月24日經營發行【特別要視察人状勢一斑】

《幸德駒太郎(新聞發行人)》
「南國新聞」大正6年9月24日經營發行
【特別要視察人状勢一斑】

【特別要視察人状勢一斑 第五】1959
出版者   近代日本史料研究会
出版年月日 1959
極秘
特別要視察人狀勢一班 第五
  絲屋 壽雄藏
  原本活版印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/9548015/1/5

  (4)京都
當府在住者ハ概シテ平靜ノ狀態ヲ持續シ
上田蟻善(藥種商)ハ引續キ言動ヲ謹ミ
https://dl.ndl.go.jp/pid/9548015/1/187
雑誌「へいみん」モ大正四年六月一日發行
第二巻第四號限廢刊シテ專心業務ニ從事シ
偶々同志ノ訪問ヲ受クルコトアルモ
這ハ單ニ從來ノ關係上面接スルニ
止マルモノト認メラレ。
岩崎革也(銀行頭取)ハ大正五年三月中
高知在住 幸德駒太郎ヘ宛
(陰謀事件刑死者幸德傳次郎ノ義甥「高知(B)ノ部參照」)
電報爲替ヲ以テ金百圓ノ送付リ
同人ノ保存セル故中江兆民カ幸德傳次郎ニ與ヘシ
「經國大要普及政事 贈 幸德秋水、兆民浪人」ト
書シアル軸物ヲ購求シタル外
時ニ同志ノ訪問ヲ受ケ
又大正五年十二月長男平造ノ妻カ男子ヲ分娩シタルヲ
「兆民」ト命名シタルカ如キコトアルモ
其ノ他ニ於テ主義上特記スヘキ行動ナク。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9548015/1/188

  (11) 高知
(B)幸德駒太郎ハ
  (藥種商・新聞發行人・陰謀事件刑死者幸德傳次郎ノ義甥)
  大正五年三月中
  京都在住 岩崎革也(京都ノ部参照)ヨリ
https://dl.ndl.go.jp/pid/9548015/1/194
  電報爲替ヲ以テ金百圓ノ送付ヲ受ケ
  自己ノ保存セル故中江兆民カ幸德傳次郎ニ與ヘシ
  「經國大要普及政事 贈 幸德秋水、兆民浪人」ト
  書シアル軸物ヲ同人ニ賣渡シタリ
  本人ハ又其ノ發刊ニ係ル「土南新聞」ヲ
  大正五年五月發行第二十二號ヨリ
  「土豫新報」ト改題シ之カ發行ヲ繼續シ居レルモ
  近時主義上ニ關シ別段ノ行動ナシ
https://dl.ndl.go.jp/pid/9548015/1/195
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《幸德駒太郎(新聞發行人)》
「南國新聞」大正六年九月二十四日ヨリ新ニ經營發行
【特別要視察人状勢一斑 続2 (日本社会運動史料 ; 第2集)】
出版者   明治文献資料刊行会
出版年月日 1962
極秘
 大正七年五月一日調
特別要視察人狀勢一班 第八
  絲屋 壽雄藏
  原本活版印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/9525034/1/5

  (11) 高知
(B)幸德駒太郎(新聞發行人)ハ p74-75/244
   大正六年六月十八日「浮世新聞」ヲ創刊シ
   豫テ經營セル「土豫新聞」
   大正六年六月二十八日發行
   第五十七號ニ浮世新聞ニ於テ無報酬ヲ以テ
   人事百般ノ難事ヲ解決スル「浮世顧問」ヲ爲シ
   又「萬文社」ヲ設置シ賣文業ヲ經營スル旨ノ
   廣告ヲ掲載セリ
   越ヘテ大正六年九月二十四日ヨリ新ニ
   「南國新聞」ヲ經營發行シタリシカ
   前記「土豫新聞」ハ大正六年十月十八日
https://dl.ndl.go.jp/pid/9525034/1/74
   又「浮世新聞」ハ大正六年十月二十九日
   何レモ之ヲ廢刊シタリ
   先是大正六年八月十七日
   愛媛在住西田正義
   (大正六年八月一日(準)ニ編入シ
   同月二十七日特別要視察人ニ編入ス)
    ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/9525034/1/75
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《幸德駒太郎 大正2年8月19日死亡》
【南海句集 第1輯】大正2年11月
著者    高知新聞編輯局 [編]
出版者   高知新聞社
出版年月日 大正2-5
橘公子
幸德駒太郎 幡多郡中村町
大正二年十一月一日印刷
大正二年十一月五日發行
編纂兼 中島 成功
發行者 高知縣長岡郡介良村百四拾五番地
印刷者 小笠原與太郎
    高知市本町上壹丁百四番邸
發行所 高知新聞社
    高知市本町
印刷所 高知活版印刷所
    高知市本町
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《南国新聞 幸徳駒太郎(富治)》幸德駒太郎(大正2年歿)長男 富治

《南国新聞 幸徳駒太郎(富治)》
幸德駒太郎(大正2年歿)長男 富治

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
南國新聞社の幸德駒太郎
《宿毛:淸寶寺・大井田正行・林譲治・小野十五郎》
【金の船・金の星 5(6)】大正12年
□中村町から三里手前の入野といふ町まで、
 南國新聞社の幸德駒太郎氏等が
 ※幸德駒太郎(幸德富治):別稿① 別稿②
 出迎へて呉れました。
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幸德駒太郎 大正2年8月19日死亡
【官報 1913年09月12日】大正2年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正2年
合名會社 幡多商船組社員 幸德駒太郎ハ
大正二年八月十九日死亡セリ
同社ハ社員 幸德駒太郎死亡シ
社員一名トナリタルニヨリ
大正二年八月十九日解散セリ
右大正二年九月二日登記
中村區裁判所
p16【官報 1913年09月12日】大正2年
〔画像〕p16【官報 1913年09月12日】大正2年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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幸徳富治(後の南国新聞主幹)
南国新聞(幸徳富治主宰)
【中村市史 続編】1984
著者    中村市史編纂委員会 編
出版者   中村市
出版年月日 1984.3
その組織を母体として翌四十三年
弘田伸雄(町助役) 高添仁兵衛(元町長)
幸徳富治(後の南国新聞主幹)
上岡保次郎(演芸研究家)等が
中村町演芸会を組織した。
p510【中村市史 続編】1984
〔画像〕p510【中村市史 続編】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774914/1/510
なお南国新聞(幸徳富治主宰)は
大正九年(一九二〇)一条神社大祭に
郡内小学校尋常科・高等科別の相撲大会を主催して
以後戦争激動期迄続き幡多相撲興隆に大きな影響を与える。
p513【中村市史 続編】1984
〔画像〕p513【中村市史 続編】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774914/1/513
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【全国印刷業者名鑑 1922】大正11年
著者    印刷材料新報社 編
出版者   印刷材料新報社
出版年月日 大正11-15
高知縣 幡多郡 中村町四丁目 p267/346
活版 幸德駒太郎 新南國舎印刷所
p267【全国印刷業者名鑑 1922】大正11年
〔画像〕p267【全国印刷業者名鑑 1922】大正11年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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幡多と中村から
幸徳駒太郎の生家長尾家について(1)

幡多と中村から
幸徳駒太郎の生家長尾家について(2)
4.「義兄」ではない駒太郎
 ―略―
こうした中、今回の調査で改めて確認をしたのは、
駒太郎は秋水の「義兄」と書かれることが多いが、
戸籍上では秋水の「義従兄(いとこ)」であるということ。
 ―略―
駒太郎は秋水刑死二年後の
大正二年、五十八歳で没している。
夫婦の墓は秋水墓の左隣にある。
5.その後の幸徳家
 ―略―
実質幸徳家を継いだ富治は
南国新聞を立ち上げるなど自由人的に生きた。
武次郎も入野村で酒造業を始め村長にまでなった。
ともに根を守った。
武次郎の子は男二人(勇、正三)で正夫さんは正三の次男。
(富治の一人娘三春は別姓池に)
 ―略―
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[土佐より(第二信)]講師 沖野岩三郎【金の船・金の星 5(7)】1923-07

[土佐より(第二信)]講師 沖野岩三郎
【金の船・金の星 5(7)】1923-07

【金の船・金の星 5(7)】1923-07
出版者   ほるぷ出版
出版年月日 1923-07
 金の星 第五巻 七月号 第七号
大正十二年六月六日印刷納本
大正十二年七月一日發  行
p1【金の船・金の星 5(7)】1923-07
〔画像〕p1【金の船・金の星 5(7)】1923-07

 [土佐より(第二信)] 講師 沖野岩三郎
 沖野先生の四國の講演旅行は大成功で、
 高知市などではこれまでに
 こんな盛んな會はなかつたといはれました。
 この通信は前號の『土佐より』のつゞきです。
◎廿四日に高知市の第三小學と土佐女學校で
 話したのをお名殘りに、
 直ちに神戸大阪へ來る筈でありましたが、
 赤岡町から是非と申されたので、
 廿五日は宿に引籠つて
 『金の星』へ送る原稿を書いて、
 同日の午後五時から自動車で
 赤岡町へ行く事にしました。
 これは武田徹意といふ
 可愛い子供さんの御手紙が
 私を主として引張つて行つたのでした。
◎廿五日の午後七時から赤岡町の公會堂で
 童話についての講演を三時間に亙つて話しました。
 一里の遠き所から來られたお方もありました。
◎廿六日午前十時から、赤岡町と岸本町との
 兩小學の上級生六百名にお話しをしました。
 武田徹意といふお子さんに逢つて見ると、
 尋常三年の女生でした。
 午後一時から、城山高等小學、女子實業學校・
 富家小學・德王子小學・赤岡小學、五校の生徒
 千餘名を集めて話しましたが、
 尋常科の初級生があつたので、
 最後の五分間を一寸騒がれましたが、
 それも直ぐ納まつて、無事に演了しました。
 それから豆自動車に乘つて高知市へ歸りました。
◎十四日に幡多郡中村町へ着いてから
 十二日間に十四回の講演をして
 壹萬五千三百人の大小人に話します間に
 病氣にかゝらず無事であつた事を喜びながら、
 廿七日には高知市から自動車で
 高知縣、德島縣、香川縣の三縣を横斷して、
 高松市に出ました。
 大歩危・小歩危の難所、
 猪の鼻峠の險路を幾度か
 膽(きも)を冷しながら自動車で走つた事も、
 吉野川の急流に沿うて、
 躑躅(つつじ)の眞盛りを眺めながら走つた事も、
 一生忘られない面白い事でした。
◎廿八日は岡山市の山長旅館に一泊して
 岡山公園を見て、
 それから歸京の途につきました。
 今度の旅行は季候もよし、景色もよし、
 萬事が愉快でした。
 殊に高知市での集會が、
 同市空前の好集會であつた事は最も嬉しい事でした。
◎到る處、好意を以て歡迎された人々に
 厚く御禮を申上げます。
 (をはり)
(高知市講演會場堀詰座に於ける
 沖野先生と出演の諸嬢)
p49-1【金の船・金の星 5(7)】1923-07
〔画像〕p49-1【金の船・金の星 5(7)】1923-07
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月05日 06:38
南國新聞社の幸德駒太郎
《宿毛:淸寶寺・大井田正行・林譲治・小野十五郎》
【金の船・金の星 5(6)】大正12年
 [土佐より] 講師 沖野岩三郎
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南國新聞社の幸德駒太郎《宿毛:淸寶寺・大井田正行・林譲治・小野十五郎》【金の船・金の星 5(6)】大正12年

南國新聞社の幸德駒太郎
《宿毛:淸寶寺・大井田正行・林譲治・小野十五郎》
【金の船・金の星 5(6)】大正12年

【金の船・金の星 5(6)】大正12年(1923)
出版者   ほるぷ出版
出版年月日 1923-06
 金の星 第五巻 六月号 第六号
大正十二年五月六日印刷納本
大正十二年六月一日發  行
p1【金の船・金の星 5(6)】1923
〔画像〕p1【金の船・金の星 5(6)】1923

演講部の報告
 [土佐より] 講師 沖野岩三郎
◎四月十一日の晩に東京驛を立つた私は、
 翌日の十二時に神戸へ着きました。
 波が荒いので高知へは渡れないと思つて
 西村旅館に泊つて翌日の午後七時に、
 賀川豐彦さんに見送られ
 浦戸丸といふ大きな船に乗りました。
◎十四日の朝高知の港へ着いて、
 直ぐ自動車で幡多郡中村町へ行きました。
 高知から中村までは三十三里の山路です。
 それを自動車が八時間で突破するのです。
 東京を出る時、櫻がまだ滿開にならないから、
 高知へ行つて見ようと樂しんで來ると、
 高知縣の櫻は、もう半月も前に散つてしまつて、
 靑々とした葉が暖い潮風に吹かれてゐました。
 山といふ山は燃ゆるやうな新綠で、
 躑躅(つゝじ)も早や散り失せて
 藤の花が盛りでした。
 東京より確かに一月早く夏が來るらしい。
◎中村町から三里手前の入野といふ町まで、
 南國新聞社の幸德駒太郎氏等が
 ※幸德駒太郎(幸德富治):別稿① 別稿②
 出迎へて呉れました。
 それから永橋卓介さんといふ
 金の星の誌友の兄さん一郎氏の宅で
 厄介になる事になり
 十五日はゆつくり休んで、
 夜、小學校で大人三百人に對して話しました。
◎十六日の朝、中村小學校生徒一千人に話し、
 午後は中學校で四百人の生徒さんに話しました。
 愉快な集りでした。
◎十七日は幸德さん達に伴れられて
 宿毛といふ所へ行きました。
 其所の小學校で一千人の生徒に話し、
 夜は淸寶寺で二百人の大人に話しました。
 大井田正行といふお醫者さんが
 萬事のお世話をして下さいました。
◎十八日は
 林譲治さんと
 小野十五郎さんに見送られて、
 同郡の山奈小學校へ行きました。
 私共が行つた時は、
 もう中筋、平田、山奈の三學校の生徒が
 大きな樗(せんだん)の樹の下に集つて
 私達を待つてゐました。
 話の終つたのは恰度十一時でした。
 それから又た自動車で中村へ歸つて直ぐ
 二時から中村女學校へ話しに參りました。
 女學校には私の舊友桑原壽榮造さんが居ました。
 女學校の話が終つて、
 夜の八時から小學校で五十人の大人に
 特別の話を致しました。
◎十九日は午前から、
 中村町の隣村安並村の東山小學校で
 安並、古津賀の二つの學校を
 合併(あは)して話しました。
 尋常一年から高等二年まで一緒にしたのですが、
 高等科の生徒が尋常一年生の中に入つて
 監督してゐたので非常に靜肅(しずか)でした。
 午後一時から三里離れた入野小學校へ行きました。
 そこには入野尋常小學校と、高等小學と、
 加持小學と、浮鞭小學と、
 田ノ口第一、第二小學と、
 六ケ校の生徒が集つてゐました。
 大きな敎室四つを打抜いて、
 張裂けるやうな盛會でした。
 最初一時間話したが、
 折角遠くから集つたのだからといふので、
 尋常五年以上が殘つて更に一時間話しました。
 それが濟んだあとで、
 折角小學の先生達が
 五六十人集つたのだからといふので、
 更に先生達の爲に一時間餘り話しました。
 中村町へ歸つたのは七時でした。
 七時から有志の人達に送別會をして戴いて
 寝(やす)んだのは十二時頃でした。
 寝(やす)む前に私は喉へ塗附(しつぷ)する藥を
 眼藥だと思つて、眼につけて、
 眼が開(あ)かなくなつて大笑ひでした。
 《十九日記す。》
◎廿日には朝八時の自動車に乘つて、
 また三十三里の山路を走つたのですが、
 前晩に睡眠不足だつたので、
 自動車の中で坐睡(ゐねむり)をして、
 帽子を風に吹飛されたのを知らないで
 寝てゐました。
 暫くして氣付いて、
 運轉手さんがわざわざ拾つて來て呉れましたので、
 私は私の帽子を金壹圓に買ひました。
 自分の所有品を自分がお金を出して買つたのは、
 これが最初でした。
 そして高知の町へ戻つて來たのは午後四時でした。
 あんまり疲れたので、三十分程寝(やす)んで、
 お風呂に入つて、それから縣公會堂で
 八時から十時半まで大人五百餘名に話しました。
 高知市に於(おけ)る第一夜の集會は
 先づ先づ成功でした。
◎四月廿一日は朝九時まで寝(やす)んで、
 起きてみますと、
 香美郡赤岡小學校の武田徹意といふ
 坊ツちやんから
 『おぢさん、ごきげんですか、
  私も赤岡でべんきやうをしてをります。
  おぢさん赤岡へおみあげとして、
  お話をどつさり持つて來て下さいませ、
  まつてゐますから、』
 といふ手紙を受取りました。
 けれども赤岡まで行くと一日かゝるので、
 可愛いお招きを斷る事にしました。
 午後一時前に劇場堀詰座へ行つてみますと、
 もう滿員でした。
 最初前田照惠さんといふお嬢さんが、
 柿谷華王子さんの作つた『床屋のおぢさん』を
 美しい聲で歌ひました。
 次に童話劇の花咲爺がありまして、
 三番目に土屋小糸さんが、
 西條八十さんの『風』を獨唱しました。
 其のあとで私は一時間のお話を致しましたが、
 二千餘人の子供達に一人の監督者も無いので、
 終りの方で少々ダレて來ました。
 しかし一生懸命に話して最後は緊張しました。
 大きな劇場が張さけるやうな騒(さわぎ)でした。
 午後七時半から縣公會堂で前夜の續きを話しました。
 今夜は前晩よりも更に聽衆が多くて六百名程ありました。
 三時間話して十時半に閉會いたしました。
 《廿一日記す》
◎四月廿二日の朝は高知敎會の禮拜に出席しました。
 それから一時前に會場の堀詰座へ行つてみますと、
 もう滿員で入場謝絶でした。
 講師の私も閉め出されて、

 やつと賴んで入れて貰ひました。
 入つてみますと、午後一時の開場を
 朝の七時から詰めかけて、
 係の人を弱らせたさうです。
 で、十時過ぎに開場すると十一時前に
 もう二千六百人も入つたのださうでした。
 劇場が張り裂けさうな騒ぎ、
 前田照惠さんと土居小糸さんが
 可愛い歌を歌つて、
 それから私は力一杯話しました。
 今日は話す私は聽く三千の子供さん達との心が、
 ぴつたり合ひました。
 話のあとで唱歌劇があつて大喝采で閉會しましたが、
 閉め出しを食つた人達にお氣の毒だからといふので、
 午後七時から更に開會する事にしました。
 午後七時開會間際に雨が降り出しましたので、
 子供さん達は少なくて、大人が七分ありました。
 そして五百人餘りが、靜に聽いて下さいました。
 こんなに多勢子供さん達の集つたといふ事は
 高知市空前の事ださうです。
 (写真:高知市に於ける講演會の盛況)
 これで、高知市を引揚げる筈でしたが
 まだ私を離して下さいません。
 《廿二日記す》
高知市に於ける講演會の盛況
〔画像〕高知市に於ける講演會の盛況
 <編輯室より>
▽雜誌が發展すると共に編輯部の方も
 なかなか多忙でございます。
 沖野先生も野口先生も講演旅行で
 各地を歩いていらつしやいます。
 沖野先生は高知を中心に四國の各地を
 廻つておいでですが、
 高知新聞や土陽新聞や、婦人矯風會が
 主催や後援をして下さるので大層な盛況です。
 二萬枚のヱハガキが足りないで
 後から送るやうな有樣です。
野口雨情先生は信越方面を作曲家の中山晋平先生と
 ご一しょでお歩きになりましたが、
 これまた大好評で、
 各地で非常な歡迎を受けられました。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月05日 11:08
[土佐より(第二信)]講師 沖野岩三郎
【金の船・金の星 5(7)】1923-07
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《小野十三郎》富山房書店員【東京紳士録. 昭和9年版】

《小野十三郎》富山房書店員【東京紳士録. 昭和9年版】

【東京紳士録. 昭和9年版】
 東京之部苗字頭索引目次  p4/449
《小野十三郎》       p82/449
富山房書店員
豐島區目白、三ノ三五七二
◎(所得税) 八八

小野 義一》       p82/449
拓大敎職員
麻布、材木、一一
◎(所得税) 一〇二一
▲(電 話)靑36〇〇七二
昭和九年四月二十六日印刷
昭和九年四月 三十日發行 定價 金拾五圓也
著作者 田島 南一
    東京市芝區西久保廣町三番地
發行者 渡邊健之助
    東京市芝區西久保巴町四二番地(國際公論社内)
印刷人 中島 豐治
    東京市芝區西久保巴町四十六番地
印刷人 國際公論社專屬印刷部 豐文堂
    東京市芝區西久保巴町四十六番地
發行所 國際公論社
    電話 芝(48)二八三九・四三二四番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
冨山房社員(昭和十一年三月末現在)
冨山房物故社員及び社友[冨山房五十年]昭和11年
     冨山房社員
  社長 坂本嘉治馬
坂本守正 坂本榮一
 ―略―
小野十三郎 ※父 小野義眞 母 くら
小野英夫
小野 忍
兼松 中  ※父 兼松 忠 母 すみ
松村一造  ※父 松村仙造 母 すみ
 ―略―
(昭和十一年三月末現在、入社順)

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野十三郎:母 くら》【人事興信録. 5版】大正7年
【人事興信録. 5版】大正7年9月15日発行
小野十三郎 株式会社 宿毛小野銀行 頭取 p332/1374
      東京府士族
 母 くら 慶應元年七月生
      ※慶應1年7月:1865年8月
      神定吉兵衞 長女
君は東京府士族 小野義眞の男にして
明治二十六年六月十三日を以て生れ
※明治26年(1893)6月13日
明治三十八年五月 家督を相續す
※明治38年(1905)5月
現時
株式會社宿毛小野銀行頭取として
經營の衝に當れり
家族は前記の外
弟 十五郎(明治三三年一〇月生)あり
  ※明治33年(1900)10月
(東京、神田、駿河臺鈴木町五)
(電話 本局 特長 九九九)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《小野十五郎〔福地悟朗〕》小野義真の二男

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
「オリンパスOM-1」1970年代国宝級カメラCM:
元弁士の【福地悟朗】[小野十五郎]
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《明盛銀行》長野縣南安曇郡明盛村【大日本紳士名鑑】大正5年

《明盛銀行》長野縣南安曇郡明盛村【大日本紳士名鑑】大正5年

【大日本紳士名鑑】大正5年
 長野縣    p479/1086
  南安曇郡  p498/1086
    面積  三九、二三
    人口 五五、二七七
 〇明盛村(四、〇三三) p499/1086
植原與喜彌  村長、農業、大正博銀牌
小林 廣助  温明尋高校長
柳澤 民吉  明盛銀行取締役
降旗 永一  明盛銀行支配人
降旗 澄藏  明盛銀行、梓橋銀行各取締役
二木知惠吉  明盛銀行、梓橋銀行各取締役
宮澤 織次  明盛銀行取締役、梓橋銀行監査役
白澤 鐵彌  明盛銀行取締役
百瀨亥三松  梓橋銀行頭取、信濃鐵道、安曇電氣各會社取締役
白澤 治一  養蠶業、郡會議員、郡參事會員、大正博銀牌
穂刈 永市  郡會議員
 〇烏川村(三、八三四)
佐々木源吉郎 明盛銀行頭取、南安銀行監査役
大正五年七月 十日印刷
大正五年七月十五日發行  定價金拾圓也
編輯兼 竹内伊四郎
發行者 東京市神田區西小川町二丁目三番地
印刷者 高木 酉三
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 秀英舎第一工場
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
製本所 牧製本所
    東京市神田區表神保町十番地
發行所 明治出版社
    東京市神田區西小川町二ノ三
    電話本局三七八〇番五四四〇番
    振替東京二五七〇番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[明盛銀行(宿毛小野銀行の前身)]
明治33年(設立)~大正5年(譲渡)
長野縣南安曇郡明盛村
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[明盛銀行(宿毛小野銀行の前身)]明治33年(設立)~大正5年(譲渡)長野縣南安曇郡明盛村

[明盛銀行(宿毛小野銀行の前身)]
明治33年(設立)~大正5年(譲渡)
長野縣南安曇郡明盛村

【日本全国諸会社役員録. 明治33年】
 長野縣之部     p532/804

【日本全国諸会社役員録. 明治34年】
 長野縣之部     p586/903
株式會社 明盛銀行  p593/903
 長野縣 南安曇郡明盛村
設 立   明治三十三年一月
資本金   拾五萬圓
一 株   五拾圓
拂込高   五千七百圓
積立金   壹千圓
預リ金   壹萬五千圓
利益配當  年壹割
 重 役  小松 眞三   安曇郡明盛村
 同    柳澤 民吉   安曇郡明盛村
 同    佐々木源吉郎  安曇郡烏川村
 同    宮澤 織治   安曇郡明盛村
 同    二木知惠吉   安曇郡明盛村
 同    加藤土岐二郎  安曇郡明盛村
 同    靑柳堯次郎   安曇郡烏川村

【日本全国諸会社役員録. 明治35年】
 長野縣之部     p589/910
株式會社 明盛銀行  p596/910
 長野縣 南安曇郡明盛村
設 立   明治三十三年一月
資本金   拾五萬圓
一 株   五拾圓
拂込高   五千六千貳百五拾圓
積立金   貳千七百圓
預リ金   五千七百拾五圓
利益配當  前期 年一割強 前々期 年一割
 頭 取  小松 眞三   安曇郡明盛村
 取締役  宮澤 織次   安曇郡明盛村
 同    佐々木源吉郎  安曇郡烏川村
 同    靑柳堯次郎   安曇郡烏川村
 同    加藤土岐二郎  安曇郡明盛村
 同    柳澤 民吉   安曇郡明盛村
 同    二木知惠吉   安曇郡明盛村
 監査役  布山與三衞
 同    白澤 右門
 同    野本小三郎
 同    嶺山 隆一
 同    降旗 周吉

【帝国銀行会社要録:附・職員録. 大正3年(第3版)】
 長野縣       p582/1128
株式會社 明盛銀行  p587/1128
 長野縣 南安曇郡明盛村
◎設 立   明治參拾參年貳月
△滿 期   廿ケ年
◎資本金   拾五萬圓
△拂込金額  五萬六千貳百五拾圓
△總株數   参千株
△決算期   六月、拾貳月
◎取締役頭取 佐々木源吉郎
△取締役   宮澤 織次
△取締役   靑柳堯治郎
△取締役   柳澤 民吉
△取締役   白澤 鐵彌
△監査役   野本 嘉七
△監査役   降旗 澄藏
△監査役   宮澤 三太
△支配人   降旗 永一

【帝国銀行会社要録:附・職員録. 大正4年(第4版)】
 長野縣       p594/1159
株式會社 明盛銀行  p587/1128
 長野縣 南安曇郡明盛村
◎設 立   明治三十三年二月
 滿 期   廿ケ年
 總株數   三千株
 決算期   六月、十二月
◎資本金   一五〇、〇〇〇
 内拂込額   五六、二五〇
◎取締役頭取 佐々木源吉郎
 取締役   宮澤 織次
 取締役   靑柳堯治郎
 取締役   柳澤 民吉
 取締役   白澤 鐵彌
 監査役   野本 嘉七
 監査役   降旗 澄藏
 監査役   宮澤 三太
 支配人   降旗 永一

【帝国銀行会社要録:附・職員録. 大正5年(5版)】
 長野縣目次      p669/1238
明盛銀行 記載なし   p678/1238
株式會社 明治商業銀行(本店 東京府)
◎松本支店 松本市本町一五
 開設 明治卅三年十月
 高知縣目次      p924/1238
株式會社 宿毛小野銀行 p926/1238
 幡多郡宿毛町
◎設 立  明治卅三年一月
 滿 期  廿ケ年
 總株數  三千株
 株主人員 七名
◎決 算  大正五年六月卅日(第卅三期)
 資本金(払込濟) 一五〇、〇〇〇
  -略-
◎取締役 頭取 小野十三郎
 取締役    立田 義文
 同      立田 義衞
 監査役    福井 信敏
 營業部長   白井耕治郎
◎大株主 二、〇〇〇 小野十三郎 ※小野義真の長男
       三〇〇 小野 クラ ※小野 倉(小野義真の妻)
       二〇〇 立田 義衞 ※小野義真の弟(立田)義敬の子
       一〇〇 小野十五郎 ※小野義真の二男
       一〇〇 小野 シン ※
◎沿 革 元明盛銀行ト稱セシヲ
     大正四年十二月長野縣ヨリ移轉シ
     大正五年四月現商號ニ改メタルモノナリ

【日本全国諸会社役員録. 第24回】大正5年
株式會社 小野銀行  p1051/1256
 高知縣 幡多郡宿毛町
設 立 明治三十三年一月
資本金 拾五萬圓(拂込濟)
一 株 五拾圓
取締役 小野十三郎  東京、神田、駿河臺、鈴木
同   立田 義衞  同  上
同   立田 義文  幡多郡宿毛町
監査役 福井 信敏  東京、下谷、箪笥
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月05日
《小野十三郎・小野倉(クラ)・小野十五郎》[宿毛小野銀行]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年09月22日
《明盛銀行》長野縣南安曇郡明盛村【大日本紳士名鑑】大正5年
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