小野義真:資料

林有造、和氣宥雄、小野義眞、高山紀齋【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年

【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年
著者    浜口熊岳 著 [他]
出版者   浜口熊岳事務所
出版年月日 明43.10
p1【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年
〔画像〕p1【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年

明治二十七年ヨリ和歌山裁判所ヲ始メトシ卅六年迄デ
四十七回トモ公明正大ナル辯論ノモトニ
何レモ無罪ノ判決ヲ受ク
尚裁判所法廷ニ於テ實地施行ノ試驗ヲ受ク

證人
(元農商務大臣)林有造、
(眞言宗管長)和氣宥雄、
(日本鐵道社長)小野義眞、
(齒科醫學博士)高山紀齋
ノ諸氏
有益ナル證言ヲ爲シタリ
p8【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年
〔画像〕p8【摩訶不思議:浜口熊岳自叙伝 2版】明治43年

  東京朝日新聞記事 (明治36年十一月二十日)
東京地方裁判所成規則により宣誓をなし後
熊嶽にホクロを取る依賴をせしや林有造氏
之れに答へ
私は實兄岩村光俊方にて面部に有りたる
   ※岩村通俊
大きなホクロ取(とつ)てもらいました
九字を切りて呪文を唱(とな)へ
やつと聲を出したらばコロリと落ちました
別にいたみも有りません
唯だ私も不思議妙で有ると感じたり

翌一月二日小野義眞方へ來(きた)り
不思議の話をしたる後から聞(きけ)ば
小野の家でも澤山イボホクロ
齒を取(とつ)てもらへし人有り
之も不思議大妙じゃと云(いひ)居れり

明治三十五年東京區裁判所にて辯護士の參考として
余の眞言秘密を以て齒を抜かしめられき其際
判官等も私服にて實見せられしが
辯護士岸本博士鈴木充美
其他十數名の辯護士より呼賞を博したり
明治四十二年六月二十日印刷
明治四十二年六月廿五日發行
明治四十三年十月十五日再版發行 定價金五拾錢
發行兼 北川米太郎
編輯者 名古屋市東區葵町三十五番戸
    濱口熊嶽別邸方
印刷者 小池  淸
    名古屋市東區針屋町二丁目三十一番戸
印刷所 三益社
    名古屋市東區針屋町二丁目三十一番戸
發行所 濱口熊嶽事務所
    名古屋市東區葵町三十五番戸
    電話一三七四番
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小野義真は陶工ではない アマチュアの最高峰とでも云う存在か【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974

【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
著者    日本盆栽協会 編
出版者   三省堂販売
出版年月日 1974
175 蕎麦釉丸(小野義眞作)
   14×8.3
p34【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
〔画像〕p34【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/12439944/1/34

〇小野義真
名品とされ珍重されている小野鉢のほとんどは丸鉢です。

しかし、そのロクロの技術、釉薬の特殊さは
他の鉢の追従を許さない厳しさを持っていると云えます。

元来 日本鉄道の社長の重任を負い、
人格、名声共に知名な人のわりに、
その経歴等余りにも不明な点が多かったのですが

もちろん小野義真は陶工ではない、
アマチュアの最高峰とでも云う存在か。

前述したように国鉄の前身である
日本鉄道株式会社の三代目の社長を勤められた人で、
天保十年(1839)土佐幡多郡宿毛(現宿毛市)に
士族 小野安兵衛義信の子として生れ、
四人兄弟の長男であります。

三十才の頃、しばらくの間、
官界に身を置いて土木事業にたづさわったが、
その後官界を去り三菱会社に入り
財閥 岩崎弥太郎の股肱となり、
その手腕を縦横に振るい、
大隈重信侯とも昵懇の間柄だったようで、
東京橋場の本邸のほか、
向島の別邸、
関屋の別荘があったようです。

橋場の本邸に窯を築き
瀬戸の陶工、加藤正吉を従いて
この小野鉢が生れた訳で、
その釉薬などには並なみならぬ苦心があったようです。

小野鉢には[ひらがな]、
或は
[片カナ]などの符合が見られますが、
これは何のために入れたものかよく判っていません。

尚[どくろ]の中に正の字を入れた落款がありますが、
これは加藤正吉のものとされています。

明治三十八年(1905)五月胃癌のため他界されました。
p59【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
〔画像〕p59【盆栽水石の鉢・水盤・卓】1974
https://dl.ndl.go.jp/pid/12439944/1/59
盆栽水石の 鉢・水盤・卓
定価2900円
発行所 社団法人 日本盆栽協会
    東京都台東区上野公園3番42号
発売元 三省堂販売株式会社
    代表者 亀井 要
    〒101 東京都千代田区神田神保町1の41
    電話03-292-1481(代)
    振替口座 東京9390
製 作 大塚巧藝社
印 刷 昭和49年1月 9日
発 行 昭和49年1月10日
https://dl.ndl.go.jp/pid/12439944/1/65
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《小野義真=小野義臣》盆栽界で人気の高い鉢に小野窯がある【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976

【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
著者    忍田博三郎 著
出版者   三友社
出版年月日 1976
 p3【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p3【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/3

上 16 真葛香山合作金波絵丸
    小野義真
    口径17.5cm 高さ7.5cm
中 17 曙釉袋式丸
    小野義真
    口径15cm 高さ10cm
下 18 小豆釉鉄鉢
    小野義真
    口径12cm 高さ6cm
 p14【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p14【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/14

《小野義真》 p36-39/130

尚、現在大宮の清香園主の先代山田初五郎氏が
小野家のお出入りであり、
陶工の加藤正吉氏とも昵懇の間柄だったと聞き、
色々お尋ねして見たり、……。

「しゃれこうべ」の落款
 95 加藤正吉の落款
 p36【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p36【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/36

 96 小野窯花瓶の底にある符合「むぎほし」
 p37【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p37【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/37

小野梓は小野義真にとって義理の弟です。
もともと遠縁であった両者でしたが、
梓が義真の妹利遠(りお)と結婚したからです。
(明治七、八年頃と推測されます)。
 ・・・・・・
宿毛市では明治百年を記念し、
宿毛十傑と称して、
宿毛の生んだ偉人の遺跡に標柱を建てました。
義真の旧居は宿毛市の東北隅にあり、
その建物の一部は今も残され、
その屋敷を囲む土塀の如きは、
今は往時の宿毛を偲ぶ唯一の文化遺産であり、
ここに「小野義真邸跡」と標柱が建てられました。
庭なども数寄を凝らしたもので、
往時の主を偲ぶが如く、
現在なお当時のまま残っていて、
大正九年夏、
大町桂月はここに約四十日間も滞在し、
その庭の趣きを賞して「休翼庭」と
名付けたと言われています。
それは、流れの中にしばしば
翼を休めている鳥の姿をした岩が
あったからだと云います。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/38

花は朝顔を愛し、書をよくし、
桃斉の号は老鼠堂永機につけてもらったもので、
俳句は永機門下の逸材であったと云います。
  朝顔の つぼみ数えつ 宵寝かな
  長き夜や 偕に楽しむ 酒の味
  寝ながらに 見るも驕りや 庭の雪
などの秀逸が残され、
最後の句は明治三十八年一月より胃癌の為
病床にあって作ったもので、
はしなくも義真の辞世の句となりました。

とにかく義真には、
東京に三ヶ所の住所があった事は確実で、……。

つまり移転前の真先稲荷の隣接地に小野義真の本邸と、
尚その隣りに、
小野梓と利遠(妹)の新家庭を作り住まわせ、
自らも又ここに定住したと考えられます。

本邸の川向うに向島の別邸があったが、
ここは小松島と呼ばれ(現在の白髭橋の東詰)
その広さは三千平方メートルにも及ぶ
宏大な規模のものだったと云われ、
この外に関屋に別荘があったが、
その地は現在のどの辺に当るのか確証もなく、
定かではないので
今後の研究課題にしたいと思います。

小野十五郎=福地悟朗

カラー写真No.16 真葛香山合作金波絵丸
カラー写真No.17 曙釉袋式丸
カラー写真No.18 小豆釉鉄鉢

 97 カラー写真No.16
 真葛香山合作金波絵丸の鉢の箱書。
 p39【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p39【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/39

 p119-1【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p119-1【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/119

 p119-2【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
〔画像〕p119-2【盆栽小鉢の面白味:日本の小鉢と陶工】1976
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/119
日本の小鉢と陶工
盆栽小鉢の面白味 定価 三五〇〇円
昭和五十一年五月十五日初版発行
著 者   忍田博三郎
発行人   北村 卓三
企画編集人 清水  明
発行所   株式会社 三友社
      東京都練馬区石神井六丁目一番二十五号
      電話(〇三)九九七ノ五一三一(代表)
      振替東京五ノ四八七八九 (〒一七七)
      印刷・製本 凸版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12709788/1/127
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年06月06日05:13
《小野義真(義臣)》自宅の庭に窯を築き
尾張の名陶工・加藤正吉を抱え、
多くの名品をプロデュースした稀代の趣味人

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2025年04月26日06:05
《小野銀行頭取 小野十三郎》黑岩(小野家執事)
土佐日記(二) 宿毛:大正九年六月七月
【桂月全集 別巻 上】1980
七月三日 朝くもる
 小野氏と共に「コウゾノ」堰にかほ あらひにゆく
 一宮神社のあとに上る、
 老松二抱半おこんば淵(村役場)
 樹しげりて眺望なし東福寺ノ畔、
 伊賀氏の墓地に上る
 宿毛一目の下、休翼園
 午前 小學こうえん
 夜 淸寶寺こうえん
 とうふくじの側の小山 伊賀氏の墓地也
七月四日
 宿毛のわらぢは ちぼ一つ也
 篠山ノ神社ふきん檜多し、
 上はつゝじ、どうだん、小笹一面也
   鯤化作鵬々作石
   悠然休翼小池邊
   池中一任鯉魚躍
   梅雪松風幾萬年
   題休翼園 小野氏
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《小野義眞》大藏省判理局の長官、後に日本鐵道に…【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年

【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
著者    白柳秀湖 著
出版者   千倉書房
出版年月日 昭和6
p3【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
〔画像〕p3【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
  第一二 判理局設置の事情、諸難件の解決
   『五八』七件の難訟に玉乃世履宣誓を拒む話
初め、廢藩置縣の布告が發せられ、
大藏省がいよいよ各藩の外債を引うけることゝなると、
横濱、神戸、長崎等各地の外國人はそれぞれ
領事の手を經てその債權を申出た。
この債權は領事の手から更に各公使の手を經て
外務省に持込まれた。

外務省では順序であるから、
その債權の申告を取まとめて司法省に廻す。
司法省でしらべて見ると、
證文はいづれも歷としたものである。
正式に裁判をすればどうしても
政府で引受けて償還しなければならぬ。

處がそれを證文通り支拂ふと
いふことになると大變である。
何がさて各藩とともに
焦眉の急にさし迫つて借りた金であるから、
金主のいひなり放題な條件になつてゐる。

二割三割といふ高利が普通であつて、
それを證文通り支拂ふことゝなると、
大變な金高になる。

それを司法官が値ぎつて
話しをつけるといふことは出來ぬ。
また前に述べたやうに、
中には政府で引きうけて
支拂ふべき性質でないものもある。
それらの話しをつけるにも、
司法官では甚だ都合がわるい。

それやこれやで司法省と大藏省との間に打合せがあつて、
外債に關する一切の疑義を解決する爲に、
大藏省の中に判理局といふものが設けられ、
そこで檢査と裁判とを兼ね行ふことゝなつた。

この判理局の長官に任じたのが、
後に日本鐵道に入つた小野義眞で、
初めの官が大藏少丞であつた。

小野の下に佐伯惟馨、北村泰一、
桃井直德、河村選などといふ人が居り、
主として尾去澤銅山のことに干與したのが
河村選であつた。

小野はその頃よくガタ馬車で横濱に出かけ、
外國商人に會つて利息を負けさせたり、
公債、私債の區別をつけたりしたものださうである。

それで大抵話はついたものであるが、
その中にアメリカ人か、イギリス人で
恐ろしい手強いのが居た。
そのことを佐伯が次のやうに話して居る。

『アメリカ人か、イギリス人か、
 その邊の事はどうも覺えぬが、
 小野義眞が再應ならず、
 三應も四應も談判をせられたけれども、
 どうしても一人強情にして、
 一厘一毛も負けぬ奴があつた。
 その時に始めて、
 私は成程帳簿といふものは、
 さうした大切なものかと思うたが、
 それがいふには、
 何とお引きなさいといはれても、
 一厘一毛もお引き申すことは出來ぬ。
 大概の者は見逃してくれたが、
 それ一人が、
 どうしても一厘一毛も負けぬ。
 それは私が負けぬといへば、
 まことに私は吝嗇で強欲のやうに
 お思ひなされようが、
 私は先達て(明治)五年の銀座の大火の時分に、
 二萬弗か、三萬弗の金を持たして、
 三人の番頭を直ぐ東京へ出して、
 さうして困難の者や何かを救ひました。
 それは私が慈善の方からやつたので
 ございまするが、
 これは卽ち私の店の方の帳簿に、
 ちやんと記してある利息でございますから、
 一厘一毛も負けませぬといつて、
 どうしても承知せぬ。
 ツヒとうとう全額拂つたことがございます。
 その餘のものは大抵利息を引きましたがネ。』

こんな次第で公債か私債かに關する
外國人との爭議も大かたは片づいたが、
その中にイギリスの商人にかゝるもので
どうしても折合はぬものが七件あつた。
この後に殘つたのが『七件の訴訟』といつて
その頃大へん喧しくいはれたものであつた。
結局この七件は、
日本とイギリスと雙方から
裁判官を出して關係者一同を召喚し
立會裁判を開くことゝなつた。
その時外務省から通譯として派出せられたのが、
澁澤子爵の推薦で舊靜岡藩から出仕して居た
鹽田三郎であつた。

その時日本側の裁判長に任ぜられたのが、
有名な玉乃世履で、
英國側からはマンネンといふものが
裁判長として出廷した。

いよいよ開廷となつて
マンネンは一同に宣誓をしろと命じた。
處が玉乃はそれを支へて
『イギリスの裁判にはさういふ習慣があるか知らぬが、
 日本にはさういふことはない。
 日本人といふものは昔から宣誓などといふことをせんでも、
 法廷へ出て嘘はつかぬことになつて居る。
 日本人は宣誓せぬでもよい』
といひ出した。

マンネンは大いに憤つて
『宣誓をせぬやうな日本人ならばもう裁判はせぬ』
といふ。
すると玉乃は
『裁判をせぬならせぬでよろしい。
 此方は原告ではない。
 原告の方で裁判せぬといふに
 何も御願ひ申して裁判をしてもらふ必要はない』
といふので、
サツサと法廷を引揚げてしまつた。

玉乃といふ人は實に偉い見識家であつた。
果せるかな、
イギリス側は間もなく折れて來た。
日本の習慣に宣誓といふことがないのなら、
宣誓はせぬでもよいといふことになり、
再び裁判が開かれることゝなつた。
昭和六年九月廿五日印刷
昭和六年九月 卅日發行
「日本富豪發生學」(下士階級革命の巻)奥附
定價 一圓六十錢
著 者 白柳秀湖
發行者 千倉 豐
    東京市京橋區南傳馬町三ノ五
印刷者 山縣精一
    東京市神田區今川小路一ノ一
發行所 東京・京橋 第一相互館
    千倉書房
    電話京橋(56)二一八一・二一八七・二五五六
    振替東京九七八
山縣製本印刷株式會社 印刷
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年10月25日10:46
《小野義真》[職員録]明治3年9月~6年11月
『アジア歴史資料センター』
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【日本富豪発生学 閥族財権争奪の巻】昭和6年
著者    白柳秀湖 著
出版者   千倉書房
出版年月日 昭和6
  第五 尾去澤銅山疑獄事件の結著
   『一七』大山鳴動して鼠一疋の尾去澤銅山
       疑獄事件判決
   從五位 小野義眞
其方儀、
大藏省在職中、
村井茂兵衞ヨリ取立ツベキ金圓、
河村選誤テ多収セシ一件、
且 茂兵衞稼ギ尾去澤銅山附屬品買上代價、
承諾ノ證券不取置一件、
及ビ今田紋十郎身代解放處分一件等、
夫々遂吟味候處、
不束ノ筋無之ニ付無構候事。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年08月09日08:25
《從五位 小野義眞》[尾去澤銅山疑獄事件]
【資料近代日本史】昭和8年
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《小野義臣》父 百川と其の交友―杉山千和―依田美狹古【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09

【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
出版者   政教社
出版年月日 1939-09
 父 百川と其の交友
   ―杉山千和―
    依田美狹古
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/114
雨晴れて秋の氣分の好き
(明治13年)九月七日、
父(學海)は千和翁と、
勝部五松に誘れて、
その知人小野義臣の橋場の別業に往つた。
主人の義臣は、
刀劍を好み、
郷義廣、正宗、貞宗、兼氏など、
名人の製作を、
席上に陳列して、
來客に品評させた。
父はあまり刀劍を好まないので、
その園中を遊覽したのであつたが、
千和翁は仔細に見て七絶があつた。
  九月七日游小野義臣別墅
      杉山千和
 欲壓風流一世豪。
 芙蓉晴雪入軒高。
 怪來忽地神龍現。
 晴壁光飛日本刀。
p116【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
p116【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/116
昭和十四年八月廿日印刷納本
昭和十四年九月一日發  行 定價金五十錢
發行兼編輯 入江種矩
兼印刷人
發行所   政敎社
      東京市麴町區麴町一丁目八番地ノ五
      電話九段(33)三二一一番
      振替貯金口座東京壹壹八四四番
印刷所   政敎社 印刷所
      東京市芝區久保巴町七十番地
大賣捌   東京 九段 東京堂
      同  京橋 東海堂
      同  京橋 北隆館
      同  神田 大東館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/144
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《小野義眞銅像》[建設者]小野十三郎[所在地]高知縣幡多郡宿毛町宿毛【偉人の俤】昭和3年

【偉人の俤】昭和3年
著者    二六新報社 編
出版者   二六新報社
出版年月日 昭和3

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市高知後援追手門
[建設月日]大正十四年十二月五日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 板垣伯銅像記念碑建設會
[銘 記] ナシ

林 有造銅像[偉人傳第八二頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町片島
[建設月日]大正六年一月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

片岡健吉銅像[偉人傳第八一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市帶屋町縣公会堂内
[建設月日]大正五年十一月七日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 岐阜縣岐阜市公園内
[建設月日]大正七年四月二十一日
[原型作者]畑 正吉
[鑄 造] 畑 正吉
[構 造] 像ノ高サ八尺 臺石高サ一丈四尺
[工 費] 二千三百圓
[建設者] 發起人 ―略―
[銘 記] ―略―

岩村通俊銅像[偉人傳第八三頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設月日]明治四十二年四月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

小野義眞銅像[偉人傳第一八七頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設年月]大正五年三月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 小野十三郎
[銘 記] ナシ
 p218【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p218【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/218
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/219

 p220-1【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-1【偉人の俤】昭和3年

      小野義眞銅像
 p220-2【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-2【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/220

小野義眞 (第六〇頁寫眞參照)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/667
昭和三年十月 廿四日印刷
昭和三年十月二十八日發行 定價金四拾圓
編輯兼 新居房太郎
發行者 東京市芝區芝口二丁目七番地
印刷者 三井壽衞九郎
    東京市芝區神明町二十一番地
印刷所 三井寫眞製版印刷所
    東京市芝區神明町二十五番地
發行所 二六新報社
發賣元 北隆館
    東京市京橋區元數寄屋町三ノ七
    電話京橋一七八八・一七八九
        一七九五・一七九六
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/805
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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大隈重信書翰(小野義真宛)明治36年12月27日義真の夫人が他界した時の大隈重信の弔詞【早稲田大学史記要 7(11)】

【早稲田大学史記要 = 
Transactions of Waseda University Archives 7(11)】
出版者   早稲田大学大学史資料センター
 【早稲田大学史記要 7(11)】p1
〔画像〕【早稲田大学史記要 7(11)】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/1
出版年月日 1974-03
早稲田大学関係文書(1)大隈重信書翰・小野梓原稿 
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/121
  二 大隈重信書翰(小野義真宛)
この書翰は明治三六年(一九〇三)十二月二十七日
小野梓の義兄小野義真の夫人が他界した時の
大隈重信の弔詞である。

受信者の小野義真は天保十年(一八三九)
土佐国幡多郡宿毛に生れ、
明治三年(一八七〇)四月工部省に出仕、
四年十月大蔵少丞に任じ、
五年十一月土木頭に至り、
七年一月に退官した。
後、三菱商会に入り、
岩崎弥太郎の股肱として活躍した。

また、日本鉄道株式会社を設立して社長となり、
東北本線の敷設に尽力し、
明治三十八年五月八日に六十七歳で没した。
一、大隈重信書翰(吉田清成宛)で述べた如く、
大隈重信は明治六年十月に
大蔵卿に任じられているので、
義真は大隈重信の属僚であったことがわかる。
これ以後においても、
大隈重信と密接な関係であった
岩崎弥太郎の下で活躍したので
大隈重信とも親近な関係が続いた。
付記すれば、
義真は明治七年に梓を大隈重信に紹介している。

なお、
この書翰は小野義真の孫小野富美子氏により
当編集所に寄贈され、
その寄贈に当って、
本大学教授大野実雄氏および
同客員教授福島正夫氏に仲介の労を頂いた。
ここに以上の方々に対して深甚の謝意を表したい。

令夫人御病気之処
 p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/124

御療養無御叶遂ニ
御逝去之段訃音ニ接シ
驚愕哀悼之至ニ不
愖御愁傷之極深察
致候右謹テ御吊詞
申進候也
 十二月廿九日 大隈重信
 小野義真殿
追啓乍輕微生花料
別包御霊前ヘ相供候
 p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/125
昭和四九年三月三一日発行
頒布価格 三五〇円
発行者 早稲田大学大学史編集所
    小松芳喬
印刷者 株式会社早稲田大学印刷所
    宇野政雄
発行所 早稲田大学大学史編集所
    東京都新宿区戸塚町一ノ六四七
    〒一六〇
(第七巻 通号第一一号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/129
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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横濱富貴樓(明治10年4月5日)小野義真送別の宴【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】

【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年
作成者 岡本健三郎(高知県士族)
年月日 明治11年4月18日~8月7日
 p1【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年-30
p1【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年
第壹号
明治十一年四月十七日申立
  神田東松下町三十八番地
  寄留
    高知縣士族
     岡本健三郎
第六条
明治十年四月下旬カ五月初旬カノ此
ヨリ自分ハ上総ノ方ニ至リシユヘ
自分不在中ハ
《小野義真》カ山ノ代金御下渡ノヿヲ周旋シ居タリ
己前ヨリ自分ト《小野》トニテ山ノ一条ニ関係セリ
 ―略―
右之通相違無御座候
            高知縣士族
 明治十一年四月廿六日 従五位 岡本健三郎 拇印
第貳号
明治十一年四月十八日申立
    高知縣士族
     岡本健三郎
第八條
自分ハ明治十年四月頃
横濵ノ富貴樓ヘ至リタルヿアリヤト
御尋アレ@
自分ハ(明治)十年中横濵ヘ至リシヿナシ
其故ハ(明治)十年四月頃ハ
自分母ヲ失ヒシニ付
木挽町ノ製茶場ヘモ出兼子巳ニ
《平岡熈一》ヘ依頼シテ
製茶場事業ノ代理ヲモ致サセタル位ニ付
中々外出抔(など)ハ出来サル場合ナリシナリ

第九絛
只今(明治)十年中
富貴樓ヘ至リタルヿハナキ㫖申立シ@
(明治)十年四月五日富貴樓ニ於テ宴會セシ費用
金貳拾五円ヲ自分ヨリ拂入レシ事
アルハ如何トノ御尋問ニ依リ
不図存付甚恐入ルナリ
右ハ(明治)十年四月頃
《小野義真》カ大阪ヘ至ルニ付
送別ノ為メ富貴樓ヘ會シタルヿアリタリ
全體《小野》ニハ山ノヿニ付
彼御世話ニモナリ居ルトキ
《中村貫一》ヨリ誘引アリシニ付
即チ送別ノ為メ至リタルナリ
尤其時ノ入費ハ立志社ヨリ出金スル㫖
《中村》申聞シニ付
自分一時立替タリ其費用ハ貳拾五円余ト存スルナリ

第十條
右富貴樓ヘ集會シタル人數ハ
電信局大書記官《芳川顕正》
鐵道局長《井上 勝》
《後藤象次郎》
《岩崎弥之助》
《川田小一郎》并
自分(岡本健三郎)ニテ
即チ《小野義真》ト別杯ヲ酌シタルナリ
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《小野義眞》要路に立てる土佐人【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)

【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
出版者   伊野部勝作
出版年月日 昭和4
  第二六 門閥打破の失敗
斯る要路に立てる土佐人は
  板垣 退助  後藤象次郎  佐々木高行
  齋藤 利行  福岡 孝悌
一段下て
  谷  干城  土方 久元  田中 光顯
にて脱藩の土方、田中以外は悉く上士出身であつた。
明治三年末頃の顔振れによれば
中央政府にては其下に
  第一、上士出身
  神山 群廉  毛利 恭助  林  龜吉
  本山唯一郎  吉井 源馬
  (附記)神山は最初地位高かりしも
     後は左程にあらぬ故茲に記入す。
  第二、英學者
  細川潤次郎
  第三、宿毛系(大部分上士)
  岩村 通俊  岩村 高俊  竹内  綱
  大江  卓  小野 義眞
  第四、在藩瑞山系下士出身
  安岡 良亮  北代 正臣  島本 仲道
  河野 敏鎌  小畑 美稻
  第五、脱藩瑞山系下士出身
  淸岡 公張  中島 信行  岡内 重俊
  長岡謙吉(死) 南部 甕男  片岡 利和
  石田 英吉  黑岩 直方  平川 光伸
  第六、下士出身
  岡本健三郎
  海援隊の面々と共に寫眞を取て居るも
  脱藩にも非らざる模樣、
  履歷不明故別記
等土佐にては
 一、政治方面
  片岡 健吉  寺村 左膳  林  有造
  大脇 順若  伴 權太夫  谷  重喜
 二、軍事方面
  山地 元治  八木 礀作  北村 重賴
  長屋 重名  吉松 秀枝  秋澤 淸吉
  山田平左衛門 別役 成義  島地 正存
  坂井 重季  大石彌太郎  土屋 可成
等が居た。
中央に出仕せる神山以下の面々には
概ね佐官乃至大尉であつた。
板垣は土佐の大參事にもなれば中央にも出仕した。
p71【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
〔画像〕p71【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
昭和四年五月一日印刷
昭和四年五月五日發行
發行者 伊野部勝作
    高知縣土佐郡朝倉村甲千三百二十五番地
印刷者 山縣 秀助
    東京市芝區田村町十八番地
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《鬼塚敬靜》鬼塚通理の子:第十五國立銀行・丁酉銀行取締役(明治38年2月13日歿)

《鬼塚敬靜》鬼塚通理の子:
第十五國立銀行・丁酉銀行取締役
(明治38年2月13日歿)

日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
鬼塚敬靜 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
爵位・身分・家柄 東京府士族
職業 株式會社丁酉銀行取締役兼日本橋支店長
性別 男性
生年月日   文久元年七月十七日 (1861)
親名・続柄  鬼塚通理の子
家族 母 芳 天保十年十月生 熊本縣士族 丸山氏女
妻  うの  明治元年八月生 熊本縣士族 鵜殿基直女
女  長   明治二十年八月生
男 通德   明治二十七年四月生
記述部分(略伝)
君は東京府士族鬼塚通理の男にして
文久元年七月十七日を以て生れ
明治十七年七月家督を相續す
甞て第十五銀行役員たりしが
明治二十九年丁酉銀行創立に與り
現に其取締役兼日本橋支店長たり
家族は前記の外
男通正(明治三十一年一月生)あり
住所・電話番号
東京市小石川區小日向臺町一ノ一 
電話 番町五六五
【人事興信録 初版(明36.4刊)】1903年
出版者   人事興信所
出版年月日 明36-44
鬼塚通理

【日本全国諸会社役員録 明治26年】1893年
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
◎日本鐵道會社   p30/183
社  長 小野 義眞
理事委員 池田 章政
https://dl.ndl.go.jp/pid/780108/1/30
◎第十五國立銀行  p49-50/183
頭  取 池田 章政
世話役  淸田  直
四等役  鬼塚 敬靜

【日本全国諸会社役員録 明治35年】1902年
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
◎株式會社 丁酉銀行  p75-76/910
取締役   鬼塚 敬靜
日本橋支店
支店長兼務 鬼塚 敬靜
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【実業評論 (69)】明治37年(1904-09)
出版者   実業評論社
出版年月日 1904-09
人物寸評(四百三) 鬼塚敬靜君
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507792/1/20

【実業評論 (74)】明治38年(1905-02)
出版者   実業評論社
出版年月日 1905-02
 鬼塚敬靜氏逝く  p18/30
氏は文久元年肥後熊本に生る。
幼より學を好み藩侯の愛顧深く、
十五六歳頃より召出さる、
長ずるに及んで漢學を元田翁に、
英學を富岡氏に遊ぶ、
明治廿二年五月銀行業研究の爲め
英米に遊び
明治廿四年四月在倫敦市
キヤピタル・エンド・カチンチース銀行に入り
實務練修
明治二十五年九月歸朝、
十五銀行に執務す、
其後 丁酉銀行の重役となりて手腕を揮ひ、
忠實なる銀行家、
善良なる紳士として令名を博しつゝありしに、
(明治38年2月)
去十三日突然吐血して終に易簀されたり、
享年四十五、可惜哉。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507797/1/18

【銀行通信録 39(233)】明治38年(1905-03)
出版者   東京銀行集会所
出版年月日 1905-03
 ◎組合銀行通牒
一 株式會社丁酉銀行より
  同行取締役兼日本橋支店長
  鬼塚敬靜君
  死亡に付
  取締役淸水宜輝君同支店長兼任
  相成りたる旨
  二月十三日を以て通知ありたり
https://dl.ndl.go.jp/pid/1586844/1/36
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
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