小野義真:資料

《小野義眞》大藏省判理局の長官、後に日本鐵道に…【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年

【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
著者    白柳秀湖 著
出版者   千倉書房
出版年月日 昭和6
p3【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
〔画像〕p3【日本富豪発生学 下士階級革命の巻】昭和6年
  第一二 判理局設置の事情、諸難件の解決
   『五八』七件の難訟に玉乃世履宣誓を拒む話
初め、廢藩置縣の布告が發せられ、
大藏省がいよいよ各藩の外債を引うけることゝなると、
横濱、神戸、長崎等各地の外國人はそれぞれ
領事の手を經てその債權を申出た。
この債權は領事の手から更に各公使の手を經て
外務省に持込まれた。

外務省では順序であるから、
その債權の申告を取まとめて司法省に廻す。
司法省でしらべて見ると、
證文はいづれも歷としたものである。
正式に裁判をすればどうしても
政府で引受けて償還しなければならぬ。

處がそれを證文通り支拂ふと
いふことになると大變である。
何がさて各藩とともに
焦眉の急にさし迫つて借りた金であるから、
金主のいひなり放題な條件になつてゐる。

二割三割といふ高利が普通であつて、
それを證文通り支拂ふことゝなると、
大變な金高になる。

それを司法官が値ぎつて
話しをつけるといふことは出來ぬ。
また前に述べたやうに、
中には政府で引きうけて
支拂ふべき性質でないものもある。
それらの話しをつけるにも、
司法官では甚だ都合がわるい。

それやこれやで司法省と大藏省との間に打合せがあつて、
外債に關する一切の疑義を解決する爲に、
大藏省の中に判理局といふものが設けられ、
そこで檢査と裁判とを兼ね行ふことゝなつた。

この判理局の長官に任じたのが、
後に日本鐵道に入つた小野義眞で、
初めの官が大藏少丞であつた。

小野の下に佐伯惟馨、北村泰一、
桃井直德、河村選などといふ人が居り、
主として尾去澤銅山のことに干與したのが
河村選であつた。

小野はその頃よくガタ馬車で横濱に出かけ、
外國商人に會つて利息を負けさせたり、
公債、私債の區別をつけたりしたものださうである。

それで大抵話はついたものであるが、
その中にアメリカ人か、イギリス人で
恐ろしい手強いのが居た。
そのことを佐伯が次のやうに話して居る。

『アメリカ人か、イギリス人か、
 その邊の事はどうも覺えぬが、
 小野義眞が再應ならず、
 三應も四應も談判をせられたけれども、
 どうしても一人強情にして、
 一厘一毛も負けぬ奴があつた。
 その時に始めて、
 私は成程帳簿といふものは、
 さうした大切なものかと思うたが、
 それがいふには、
 何とお引きなさいといはれても、
 一厘一毛もお引き申すことは出來ぬ。
 大概の者は見逃してくれたが、
 それ一人が、
 どうしても一厘一毛も負けぬ。
 それは私が負けぬといへば、
 まことに私は吝嗇で強欲のやうに
 お思ひなされようが、
 私は先達て(明治)五年の銀座の大火の時分に、
 二萬弗か、三萬弗の金を持たして、
 三人の番頭を直ぐ東京へ出して、
 さうして困難の者や何かを救ひました。
 それは私が慈善の方からやつたので
 ございまするが、
 これは卽ち私の店の方の帳簿に、
 ちやんと記してある利息でございますから、
 一厘一毛も負けませぬといつて、
 どうしても承知せぬ。
 ツヒとうとう全額拂つたことがございます。
 その餘のものは大抵利息を引きましたがネ。』

こんな次第で公債か私債かに關する
外國人との爭議も大かたは片づいたが、
その中にイギリスの商人にかゝるもので
どうしても折合はぬものが七件あつた。
この後に殘つたのが『七件の訴訟』といつて
その頃大へん喧しくいはれたものであつた。
結局この七件は、
日本とイギリスと雙方から
裁判官を出して關係者一同を召喚し
立會裁判を開くことゝなつた。
その時外務省から通譯として派出せられたのが、
澁澤子爵の推薦で舊靜岡藩から出仕して居た
鹽田三郎であつた。

その時日本側の裁判長に任ぜられたのが、
有名な玉乃世履で、
英國側からはマンネンといふものが
裁判長として出廷した。

いよいよ開廷となつて
マンネンは一同に宣誓をしろと命じた。
處が玉乃はそれを支へて
『イギリスの裁判にはさういふ習慣があるか知らぬが、
 日本にはさういふことはない。
 日本人といふものは昔から宣誓などといふことをせんでも、
 法廷へ出て嘘はつかぬことになつて居る。
 日本人は宣誓せぬでもよい』
といひ出した。

マンネンは大いに憤つて
『宣誓をせぬやうな日本人ならばもう裁判はせぬ』
といふ。
すると玉乃は
『裁判をせぬならせぬでよろしい。
 此方は原告ではない。
 原告の方で裁判せぬといふに
 何も御願ひ申して裁判をしてもらふ必要はない』
といふので、
サツサと法廷を引揚げてしまつた。

玉乃といふ人は實に偉い見識家であつた。
果せるかな、
イギリス側は間もなく折れて來た。
日本の習慣に宣誓といふことがないのなら、
宣誓はせぬでもよいといふことになり、
再び裁判が開かれることゝなつた。
昭和六年九月廿五日印刷
昭和六年九月 卅日發行
「日本富豪發生學」(下士階級革命の巻)奥附
定價 一圓六十錢
著 者 白柳秀湖
發行者 千倉 豐
    東京市京橋區南傳馬町三ノ五
印刷者 山縣精一
    東京市神田區今川小路一ノ一
發行所 東京・京橋 第一相互館
    千倉書房
    電話京橋(56)二一八一・二一八七・二五五六
    振替東京九七八
山縣製本印刷株式會社 印刷
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年10月25日10:46
《小野義真》[職員録]明治3年9月~6年11月
『アジア歴史資料センター』
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【日本富豪発生学 閥族財権争奪の巻】昭和6年
著者    白柳秀湖 著
出版者   千倉書房
出版年月日 昭和6
  第五 尾去澤銅山疑獄事件の結著
   『一七』大山鳴動して鼠一疋の尾去澤銅山
       疑獄事件判決
   從五位 小野義眞
其方儀、
大藏省在職中、
村井茂兵衞ヨリ取立ツベキ金圓、
河村選誤テ多収セシ一件、
且 茂兵衞稼ギ尾去澤銅山附屬品買上代價、
承諾ノ證券不取置一件、
及ビ今田紋十郎身代解放處分一件等、
夫々遂吟味候處、
不束ノ筋無之ニ付無構候事。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年08月09日08:25
《從五位 小野義眞》[尾去澤銅山疑獄事件]
【資料近代日本史】昭和8年
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《小野義臣》父 百川と其の交友―杉山千和―依田美狹古【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09

【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
出版者   政教社
出版年月日 1939-09
 父 百川と其の交友
   ―杉山千和―
    依田美狹古
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/114
雨晴れて秋の氣分の好き
(明治13年)九月七日、
父(學海)は千和翁と、
勝部五松に誘れて、
その知人小野義臣の橋場の別業に往つた。
主人の義臣は、
刀劍を好み、
郷義廣、正宗、貞宗、兼氏など、
名人の製作を、
席上に陳列して、
來客に品評させた。
父はあまり刀劍を好まないので、
その園中を遊覽したのであつたが、
千和翁は仔細に見て七絶があつた。
  九月七日游小野義臣別墅
      杉山千和
 欲壓風流一世豪。
 芙蓉晴雪入軒高。
 怪來忽地神龍現。
 晴壁光飛日本刀。
p116【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
p116【日本及日本人 (9月號)(376)】1939-09
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/116
昭和十四年八月廿日印刷納本
昭和十四年九月一日發  行 定價金五十錢
發行兼編輯 入江種矩
兼印刷人
發行所   政敎社
      東京市麴町區麴町一丁目八番地ノ五
      電話九段(33)三二一一番
      振替貯金口座東京壹壹八四四番
印刷所   政敎社 印刷所
      東京市芝區久保巴町七十番地
大賣捌   東京 九段 東京堂
      同  京橋 東海堂
      同  京橋 北隆館
      同  神田 大東館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1597311/1/144
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《小野義眞銅像》[建設者]小野十三郎[所在地]高知縣幡多郡宿毛町宿毛【偉人の俤】昭和3年

【偉人の俤】昭和3年
著者    二六新報社 編
出版者   二六新報社
出版年月日 昭和3

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市高知後援追手門
[建設月日]大正十四年十二月五日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 板垣伯銅像記念碑建設會
[銘 記] ナシ

林 有造銅像[偉人傳第八二頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町片島
[建設月日]大正六年一月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

片岡健吉銅像[偉人傳第八一頁參照]
[所在地] 高知縣高知市帶屋町縣公会堂内
[建設月日]大正五年十一月七日
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

板垣退助銅像[偉人傳第七一頁參照]
[所在地] 岐阜縣岐阜市公園内
[建設月日]大正七年四月二十一日
[原型作者]畑 正吉
[鑄 造] 畑 正吉
[構 造] 像ノ高サ八尺 臺石高サ一丈四尺
[工 費] 二千三百圓
[建設者] 發起人 ―略―
[銘 記] ―略―

岩村通俊銅像[偉人傳第八三頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設月日]明治四十二年四月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 有志者
[銘 記] ナシ

小野義眞銅像[偉人傳第一八七頁參照]
[所在地] 高知縣幡多郡宿毛町宿毛
[建設年月]大正五年三月
[原型作者]本山白雲
[建設者] 小野十三郎
[銘 記] ナシ
 p218【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p218【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/218
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/219

 p220-1【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-1【偉人の俤】昭和3年

      小野義眞銅像
 p220-2【偉人の俤】昭和3年
〔画像〕p220-2【偉人の俤】昭和3年
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/220

小野義眞 (第六〇頁寫眞參照)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/667
昭和三年十月 廿四日印刷
昭和三年十月二十八日發行 定價金四拾圓
編輯兼 新居房太郎
發行者 東京市芝區芝口二丁目七番地
印刷者 三井壽衞九郎
    東京市芝區神明町二十一番地
印刷所 三井寫眞製版印刷所
    東京市芝區神明町二十五番地
發行所 二六新報社
發賣元 北隆館
    東京市京橋區元數寄屋町三ノ七
    電話京橋一七八八・一七八九
        一七九五・一七九六
https://dl.ndl.go.jp/pid/8311205/1/805
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大隈重信書翰(小野義真宛)明治36年12月27日義真の夫人が他界した時の大隈重信の弔詞【早稲田大学史記要 7(11)】

【早稲田大学史記要 = 
Transactions of Waseda University Archives 7(11)】
出版者   早稲田大学大学史資料センター
 【早稲田大学史記要 7(11)】p1
〔画像〕【早稲田大学史記要 7(11)】p1
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/1
出版年月日 1974-03
早稲田大学関係文書(1)大隈重信書翰・小野梓原稿 
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/121
  二 大隈重信書翰(小野義真宛)
この書翰は明治三六年(一九〇三)十二月二十七日
小野梓の義兄小野義真の夫人が他界した時の
大隈重信の弔詞である。

受信者の小野義真は天保十年(一八三九)
土佐国幡多郡宿毛に生れ、
明治三年(一八七〇)四月工部省に出仕、
四年十月大蔵少丞に任じ、
五年十一月土木頭に至り、
七年一月に退官した。
後、三菱商会に入り、
岩崎弥太郎の股肱として活躍した。

また、日本鉄道株式会社を設立して社長となり、
東北本線の敷設に尽力し、
明治三十八年五月八日に六十七歳で没した。
一、大隈重信書翰(吉田清成宛)で述べた如く、
大隈重信は明治六年十月に
大蔵卿に任じられているので、
義真は大隈重信の属僚であったことがわかる。
これ以後においても、
大隈重信と密接な関係であった
岩崎弥太郎の下で活躍したので
大隈重信とも親近な関係が続いた。
付記すれば、
義真は明治七年に梓を大隈重信に紹介している。

なお、
この書翰は小野義真の孫小野富美子氏により
当編集所に寄贈され、
その寄贈に当って、
本大学教授大野実雄氏および
同客員教授福島正夫氏に仲介の労を頂いた。
ここに以上の方々に対して深甚の謝意を表したい。

令夫人御病気之処
 p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p124-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/124

御療養無御叶遂ニ
御逝去之段訃音ニ接シ
驚愕哀悼之至ニ不
愖御愁傷之極深察
致候右謹テ御吊詞
申進候也
 十二月廿九日 大隈重信
 小野義真殿
追啓乍輕微生花料
別包御霊前ヘ相供候
 p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
〔画像〕p125-g【早稲田大学史記要 7(11)】1974-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/125
昭和四九年三月三一日発行
頒布価格 三五〇円
発行者 早稲田大学大学史編集所
    小松芳喬
印刷者 株式会社早稲田大学印刷所
    宇野政雄
発行所 早稲田大学大学史編集所
    東京都新宿区戸塚町一ノ六四七
    〒一六〇
(第七巻 通号第一一号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945152/1/129
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横濱富貴樓(明治10年4月5日)小野義真送別の宴【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】

【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年
作成者 岡本健三郎(高知県士族)
年月日 明治11年4月18日~8月7日
 p1【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年-30
p1【銃器一件口供書 一 岡本健三郎口供】明治11年
第壹号
明治十一年四月十七日申立
  神田東松下町三十八番地
  寄留
    高知縣士族
     岡本健三郎
第六条
明治十年四月下旬カ五月初旬カノ此
ヨリ自分ハ上総ノ方ニ至リシユヘ
自分不在中ハ
《小野義真》カ山ノ代金御下渡ノヿヲ周旋シ居タリ
己前ヨリ自分ト《小野》トニテ山ノ一条ニ関係セリ
 ―略―
右之通相違無御座候
            高知縣士族
 明治十一年四月廿六日 従五位 岡本健三郎 拇印
第貳号
明治十一年四月十八日申立
    高知縣士族
     岡本健三郎
第八條
自分ハ明治十年四月頃
横濵ノ富貴樓ヘ至リタルヿアリヤト
御尋アレ@
自分ハ(明治)十年中横濵ヘ至リシヿナシ
其故ハ(明治)十年四月頃ハ
自分母ヲ失ヒシニ付
木挽町ノ製茶場ヘモ出兼子巳ニ
《平岡熈一》ヘ依頼シテ
製茶場事業ノ代理ヲモ致サセタル位ニ付
中々外出抔(など)ハ出来サル場合ナリシナリ

第九絛
只今(明治)十年中
富貴樓ヘ至リタルヿハナキ㫖申立シ@
(明治)十年四月五日富貴樓ニ於テ宴會セシ費用
金貳拾五円ヲ自分ヨリ拂入レシ事
アルハ如何トノ御尋問ニ依リ
不図存付甚恐入ルナリ
右ハ(明治)十年四月頃
《小野義真》カ大阪ヘ至ルニ付
送別ノ為メ富貴樓ヘ會シタルヿアリタリ
全體《小野》ニハ山ノヿニ付
彼御世話ニモナリ居ルトキ
《中村貫一》ヨリ誘引アリシニ付
即チ送別ノ為メ至リタルナリ
尤其時ノ入費ハ立志社ヨリ出金スル㫖
《中村》申聞シニ付
自分一時立替タリ其費用ハ貳拾五円余ト存スルナリ

第十條
右富貴樓ヘ集會シタル人數ハ
電信局大書記官《芳川顕正》
鐵道局長《井上 勝》
《後藤象次郎》
《岩崎弥之助》
《川田小一郎》并
自分(岡本健三郎)ニテ
即チ《小野義真》ト別杯ヲ酌シタルナリ
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《小野義眞》要路に立てる土佐人【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)

【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
出版者   伊野部勝作
出版年月日 昭和4
  第二六 門閥打破の失敗
斯る要路に立てる土佐人は
  板垣 退助  後藤象次郎  佐々木高行
  齋藤 利行  福岡 孝悌
一段下て
  谷  干城  土方 久元  田中 光顯
にて脱藩の土方、田中以外は悉く上士出身であつた。
明治三年末頃の顔振れによれば
中央政府にては其下に
  第一、上士出身
  神山 群廉  毛利 恭助  林  龜吉
  本山唯一郎  吉井 源馬
  (附記)神山は最初地位高かりしも
     後は左程にあらぬ故茲に記入す。
  第二、英學者
  細川潤次郎
  第三、宿毛系(大部分上士)
  岩村 通俊  岩村 高俊  竹内  綱
  大江  卓  小野 義眞
  第四、在藩瑞山系下士出身
  安岡 良亮  北代 正臣  島本 仲道
  河野 敏鎌  小畑 美稻
  第五、脱藩瑞山系下士出身
  淸岡 公張  中島 信行  岡内 重俊
  長岡謙吉(死) 南部 甕男  片岡 利和
  石田 英吉  黑岩 直方  平川 光伸
  第六、下士出身
  岡本健三郎
  海援隊の面々と共に寫眞を取て居るも
  脱藩にも非らざる模樣、
  履歷不明故別記
等土佐にては
 一、政治方面
  片岡 健吉  寺村 左膳  林  有造
  大脇 順若  伴 權太夫  谷  重喜
 二、軍事方面
  山地 元治  八木 礀作  北村 重賴
  長屋 重名  吉松 秀枝  秋澤 淸吉
  山田平左衛門 別役 成義  島地 正存
  坂井 重季  大石彌太郎  土屋 可成
等が居た。
中央に出仕せる神山以下の面々には
概ね佐官乃至大尉であつた。
板垣は土佐の大參事にもなれば中央にも出仕した。
p71【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
〔画像〕p71【近藤勇ト土佐勤王党】昭和4年(1929)
昭和四年五月一日印刷
昭和四年五月五日發行
發行者 伊野部勝作
    高知縣土佐郡朝倉村甲千三百二十五番地
印刷者 山縣 秀助
    東京市芝區田村町十八番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《鬼塚敬靜》鬼塚通理の子:第十五國立銀行・丁酉銀行取締役(明治38年2月13日歿)

《鬼塚敬靜》鬼塚通理の子:
第十五國立銀行・丁酉銀行取締役
(明治38年2月13日歿)

日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
鬼塚敬靜 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
爵位・身分・家柄 東京府士族
職業 株式會社丁酉銀行取締役兼日本橋支店長
性別 男性
生年月日   文久元年七月十七日 (1861)
親名・続柄  鬼塚通理の子
家族 母 芳 天保十年十月生 熊本縣士族 丸山氏女
妻  うの  明治元年八月生 熊本縣士族 鵜殿基直女
女  長   明治二十年八月生
男 通德   明治二十七年四月生
記述部分(略伝)
君は東京府士族鬼塚通理の男にして
文久元年七月十七日を以て生れ
明治十七年七月家督を相續す
甞て第十五銀行役員たりしが
明治二十九年丁酉銀行創立に與り
現に其取締役兼日本橋支店長たり
家族は前記の外
男通正(明治三十一年一月生)あり
住所・電話番号
東京市小石川區小日向臺町一ノ一 
電話 番町五六五
【人事興信録 初版(明36.4刊)】1903年
出版者   人事興信所
出版年月日 明36-44
鬼塚通理

【日本全国諸会社役員録 明治26年】1893年
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
◎日本鐵道會社   p30/183
社  長 小野 義眞
理事委員 池田 章政
https://dl.ndl.go.jp/pid/780108/1/30
◎第十五國立銀行  p49-50/183
頭  取 池田 章政
世話役  淸田  直
四等役  鬼塚 敬靜

【日本全国諸会社役員録 明治35年】1902年
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 明26-44
◎株式會社 丁酉銀行  p75-76/910
取締役   鬼塚 敬靜
日本橋支店
支店長兼務 鬼塚 敬靜
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【実業評論 (69)】明治37年(1904-09)
出版者   実業評論社
出版年月日 1904-09
人物寸評(四百三) 鬼塚敬靜君
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507792/1/20

【実業評論 (74)】明治38年(1905-02)
出版者   実業評論社
出版年月日 1905-02
 鬼塚敬靜氏逝く  p18/30
氏は文久元年肥後熊本に生る。
幼より學を好み藩侯の愛顧深く、
十五六歳頃より召出さる、
長ずるに及んで漢學を元田翁に、
英學を富岡氏に遊ぶ、
明治廿二年五月銀行業研究の爲め
英米に遊び
明治廿四年四月在倫敦市
キヤピタル・エンド・カチンチース銀行に入り
實務練修
明治二十五年九月歸朝、
十五銀行に執務す、
其後 丁酉銀行の重役となりて手腕を揮ひ、
忠實なる銀行家、
善良なる紳士として令名を博しつゝありしに、
(明治38年2月)
去十三日突然吐血して終に易簀されたり、
享年四十五、可惜哉。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507797/1/18

【銀行通信録 39(233)】明治38年(1905-03)
出版者   東京銀行集会所
出版年月日 1905-03
 ◎組合銀行通牒
一 株式會社丁酉銀行より
  同行取締役兼日本橋支店長
  鬼塚敬靜君
  死亡に付
  取締役淸水宜輝君同支店長兼任
  相成りたる旨
  二月十三日を以て通知ありたり
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《鬼塚通理》細川侯爵家の財政顧問・第十五銀行の世話役・日本鐵道(株)の准創立委員:明治17年7月1日病死

《鬼塚通理》細川侯爵家の財政顧問・
第十五銀行の世話役・
日本鐵道(株)の准創立委員:
明治17年7月1日病死

【高橋長秋伝】昭和13年
著者    千場栄次 著
出版者   稲本報徳舎出版部
出版年月日 昭和13
  細川家の財政顧問
之より先き、明治十年戰役の翌年、
細川侯爵家の經濟機關として、
第一類地方用、第二類運用金があつた。
地方用は不動産、特に田畑開墾地を取扱ひ、
運用金は東京・大阪(御蔵屋敷)、
熊本の三箇所に『經産方』を置き、
一ヶ所の運用金十二萬五千圓宛、
合計三十七萬五千圓を以て、
銀行向の資金運用が行はれてゐた。
この發案者は、有名な侯爵家の家令、
鬼塚通理氏である。
同氏は明治維新の元勳岩倉具視卿から、
『細川家には過ぎた人物だ。』と、
賞賛されてゐた位の大財政通で、
名君護久公を扶けて、
よくその敏腕を揮つた人であつた。
西洋簿記の出納簿を、
大福帳式に日本化し、
出納のバランスを採り、
郵便爲替にも、
この日本式簿記法を利用して、
全國にその範を示したものである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1106634/1/70
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【華族諸家伝 上巻】明治13年
著者    鈴木真年 著
出版者   杉剛英
出版年月日 明13.5
從三位 細川護久(モリヒサ)
明治三年庚午五月八日家督
内室 從二位中納言鍋嶋直正 女
邸 東京日本橋區濱町二丁目十二番地
家令 鬼塚通理
家扶 淸田 直
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《鬼塚通理》第十五國立銀行開業
【新聞集成明治編年史 第3巻】明治10年
著者    明治編年史編纂会 編
出版者   財政経済学会
出版年月日 昭和10
華族銀行と云ひ囃された
第十五國立銀行開業す
資本金壹千七百八十餘萬圓
明治十年五月(皇紀二五三七 西暦一八七七)
(五・二二、東京日日)
細川家より鬼塚通理
p131【新聞集成明治編年史 第3巻】明治10年
〔画像〕p131【新聞集成明治編年史 第3巻】明治10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1265004/1/131
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《鬼塚通理》鬼塚敬靜の父 明治十七年七月一日病死
【国民過去帳 明治之巻】昭和10年
著者    大植四郎 編
出版者   尚古房
出版年月日 昭10
《鬼塚通理》
鬼塚敬靜の父にして
明治十七年七月一日病死す
北品川宿元東海寺境内 共同墓地に埋葬す
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【解散慰労金分配顛末報告書】1907
出版者   日本鉄道清算事務所
出版年月日 [1907]
解散慰労金分配顛末報告書
日本鐵道株式會社
淸算事務所
  解散慰労金
 舊 重役
金 壹千圓   兼 准創立委員
故 鬼塚通理 遺族 鬼塚うの
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《小野義眞氏》鬼塚通理(鬼塚敬靜の父)備前長船住景光の七字在銘【日本刀講座 第9巻】昭和10年(1935)

《小野義眞氏》鬼塚通理(鬼塚敬靜の父)
備前長船住景光の七字在銘
【日本刀講座 第9巻】昭和10年(1935)

【日本刀講座 第9巻】昭和10年(1935)
著者    雄山閣 編
出版者   雄山閣
出版年月日 昭和10
 名士と名劍 小倉惣右衞門 著
https://dl.ndl.go.jp/pid/1265852/1/160
  小野義眞氏
故小野義眞氏は其御遺物を先年拜見しましたが、
大多數大磨上げ無銘で、
平十郎師の鞘書付則重が七刀、
左文字が六刀、志津五刀、安綱三刀と云ふ樣に
一作を數刀宛御集めになりました。
拜見致しました丈けでも三百餘刀有りましたが、
概して相州黨の樣でありました。
此の中では新藤五在銘、
冠落し寸延びの直刃の短刀が
一番結構なものと記憶して居ります。

此の小野氏に就て面白い事があります。
明治二十年前後の頃だと思ひますが、
十五銀行に細川家の代理に出て居られました
鬼塚某と云ふ人がありました。
※鬼塚通理(鬼塚敬靜の父):別稿に記載
常に人に話されましたのは
『自分も武士の家に生れた甲斐に、
 子孫に一刀名劍を遺したい』
といふ事でありました。
此の事を小野氏が聞かれまして
『自分の處には多年蒐集した刀があるので、
 其中に御氣に入るのがあらば差上げよう』
と云はれました。

蓋し小野氏の腹の中では、
素人の事(こと)故(ゆえ)
名刀を選抜かれる氣遣いはないと
思はれたのであります。
然るに鬼塚氏は是を聞き非常に悦ばれまして、
日を約して小野氏の邸へ藏刀を拜見に行かれました。
其の日には細川家の家扶にて、
其頃刀劍鑑定の巧者として知られたる
樋口老人を伴はれました。

小野氏はそんな事とは知らずに、
所藏の刀劍を全部見せられ
『何れなりとも御氣に叶ひたる刀を
 御持歸りになる樣に』
と云はれましたので、
鬼塚氏は樋口老の云ふ儘に、
其中の備前長船住景光の七字在銘、
磨上げ、鎬造、表裏樋、身巾廣く、地鐵精美に、
直刃ホツレ足入り小亂交り、帽子丸く返り、
刃中小錵を持ち匂ひ如何にも深い名刀を選抜かれました。

流石の小野氏も心中驚かれましたが、
今更異議の申樣もなく其儘進上されました。

鬼塚氏は大に悦ばれ早速
西恒四郎作氏に依託され、
蠟色鞘、菖蒲革巻柄の拵を付けられ
秘藏して居られましたが、
鬼塚氏が他界後
※鬼塚通理:明治17年7月1日病死
御子息が丁酉銀行日本橋支店長をして居られ、
私も屢々御目に懸りましたが、
此の人も若くて遠逝され、
※鬼塚敬靜:明治38年2月13日歿
其後同藩の愛刀家淸田直先生に
此の刀の評價を託されました處、
淸田先生は中身五百金、拵五拾金と云はれました。

是は明治三十五六年頃だと思ひます。
然るに鬼塚氏の遺族の方が、
又深野卯四童君に見せました處、
三百圓位の價値だと云はれましたので、
鬼塚氏から其事を云ひまして
淸田先生に此景光を買つてくれと云ひ出しました。
淸田先生は頗る實直な人でありましたので、
私をよばれまして自分が買ふはいと安い事だが、
夫れでは嘘を云つた樣で面白くない、
何處にか世話して貰ひたいとの事でありました。
其頃には事實五百五十金は安い値段ではなかつたので
御世話をするとしましても、
深野
https://dl.ndl.go.jp/pid/1265852/1/163
氏とも御懇意の事故(ことゆえ)、
兩方に面白くない事になつてもと思ひ、
私が頂きまして、
高値の事でもあり
其儘三四年秘物として所藏して居りました處、
同藩の事とて龜井英三郎先生に嗅ぎ付けられ、
遂に其日庵杉山先生の知る處となつて、
何共云はずよこせとの事で差上げました處、
壹千圓下さいました。

高い物を買ひまして分外の利得を致しましたのは、
生涯是れが始めで、
又終りであらうと思はれます。
夫れも私よりは元値を御話し致しましたに對し、
千金で買はれたのでありますが、
今日では實に萬金に位する名刀で、
其後故(ゆえ)あつて現今では
赤星家の寶刀となり、
安親作眞鍮、角形、木賊刈の名鍔を掛け、
朱鞘菖蒲革柄の拵を付けられ、
又杉山家傳來の赤銅金葵紋綠頭、
鐔、三所付、金沃懸地葵紋散蒔繪鞘、
革柄の拵も添へられて卽ち
二つの拵の主となり愛藏せられて居ります。

まだ此の刀に就いては色々御話しもあり、
且つ杉山先生御藏刀の中に
寺内元帥、加藤正義先生との
三角關係の面白い事もありますが、
それは他日に譲る事に致します。
(大正十四年稿)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1265852/1/164
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《小野義眞》名刀の蒐集家として名高い【刀剣と歴史 (602)】平成6年(1994-11)

《小野義眞》名刀の蒐集家として名高い
【刀剣と歴史 (602)】平成6年(1994-11)

【刀剣と歴史 (602)】平成6年(1994-11)
出版者   日本刀剣保存会
出版年月日 1994-11
p1【刀剣と歴史 (602)】
〔画像〕p1【刀剣と歴史 (602)】
https://dl.ndl.go.jp/pid/7901296/1/1
《小野義眞》おの ぎしん
天保十年、幡多郡宿毛に生れる。
藩老伊賀氏に仕へ大庄屋を勤めた。
明治維新後、新政府に出仕し大蔵少丞となり、
ついで土木頭に進んだが、
その後、三菱会社に入り
岩崎の元にあって活躍、
三菱興隆の基礎を作った。

明治十年、日本鉄道会社を創立して社長となり
官線東海道線に対する私線、
東北線の敷設をなし、
日本鉄道交通に貢献した。
明治三十八年五月八日、没。
六十七才。

名刀の蒐集家として名高い。
大多数が大磨上無銘で、
本阿彌平十郎鞘書付き、
則重七振、
左文字六振、
志津五振、
安綱三振 と
同刀工を集めている。

新藤五在銘の短刀や、
備前長船景光二尺三寸八分も所蔵され、
その数三百余振と記録にある。
p22【刀剣と歴史 (602)】
〔画像〕p22【刀剣と歴史 (602)】
https://dl.ndl.go.jp/pid/7901296/1/22
刀剣と歴史 第六〇二号 隔月、会員頒布
平成六年十一月二〇日印刷
平成六年十一月二〇日発行
    会費(一年)(特別会員二万円)
         (普通会員八千円)
編集者 川本 桃李
発行者 吉川賢太郎
印刷所 小松印刷株式会社
    東京都港区東新橋一ノ三ノ五
発行所 日本刀剣保存会
    (〒157)
    東京都世田谷区粕谷四ノ九ノ一四
    電話東京(三三〇五)〇八四八番
    振替〇〇一四〇ノ八ノ四五四一五
https://dl.ndl.go.jp/pid/7901296/1/33
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