小川清久・小川清澄

《福元 清》福徳相互銀行アイスホッケー部[明治大学昭和15年卒業]

《福元 清》福徳相互銀行アイスホッケー部
[明治大学昭和15年卒業]

【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
著者    明治大学校友名簿編纂委員会 編
出版者   明治大学校友会本部
出版年月日 1959
校 友   p24/641
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/24
氏 名   福元 清   p394/641
職 業   福徳相互銀行 境川支店
住 所   豊中市小曽根1285
本 籍   愛媛
年 卒   昭和15年政治
 p394【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
〔画像〕p394【校友名簿】明治大学・昭和34年(1959)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/394
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月26日 14:16
《小川清久》<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部
【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月19日 11:43
小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
大正12年(1923)3月29日生
平成8年(1996)12月25日歿 73歳
生誕:支那奉天省営口綏定門第15号海関官舎
   大連市山縣通205番地 海関官舎
   大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
   大連高等商業学校 アイスホッケー部
読売新聞 朝刊
昭和31年(1956)2月23日
※ 小川清久 記
第2回関西実業団アイスホッケー選手権大会
福徳のメンバーの中、
FW福元は戦前の明大のキャプテン、 ※上記
小川は大連高商OB,
DF木村は明大のキャプテン、
水沼は同志社大のキャプテン、
水倉だけが昭和29年(1954)卒関学大のキャプテン。
準決勝迄は速成のメンバーも使ったが、決勝では使えず、
FW・DFともオールラウンドプレイヤーで死闘。
決勝の第3ランドはやっと動いているというところ、
それにしても、
あと23秒で同点にされた時はガックリ来た。
延長のラウンドは精神力で動いていたのだろうが
0点に抑えたのは立派。
引分けは、
もう動けない福徳のメンバーに対する同情?で、
再試合はせず、準優勝となった。
私は33才だった。
この大会の結果、
それまで同好会だったものが、
銀行のアイスホッケー部となり、
翌年には関大や大商大の選手、
翌々年には明治大等の関東の選手が入り、
福徳が優勝するようになった。
私は、昭和34年(1959)36才で退部した。
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《小川清久》<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)

《小川清久》
<写真>福徳相互銀行アイスホッケー部
【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)

【福徳相互銀行十年史】昭和36年(1961)
著者    福徳相互銀行十年史編集委員会 編
出版者   福徳相互銀行十年史編集委員会
出版年月日 1961
<写真>アイスホッケー部 p244/344
p244-1【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-1【福徳相互銀行十年史】昭和36年

《小川清久》前列左から三人目
p244-2【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-2【福徳相互銀行十年史】昭和36年

p244-3【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-3【福徳相互銀行十年史】昭和36年

p244-4【福徳相互銀行十年史】昭和36年
〔画像〕p244-4【福徳相互銀行十年史】昭和36年
https://dl.ndl.go.jp/pid/9524894/1/244
福德相互銀行十年史 (非売品)
昭和三十六年二月八日
著作兼 福德相互銀行十年史編集委員会
発行者 大阪市南区長堀橋筋一丁目二四番地
印刷者 株式会社 金星堂
    大阪市南区千年町三番地
印刷所 凸版印刷株式会社
    大阪市大淀区大仁西二丁目二番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/9524894/1/341
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月19日 11:43
小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部
叔父:小川清久(母 小野文子の弟)
大正12年(1923)3月29日生
平成8年(1996)12月25日歿 73歳
生誕:支那奉天省営口綏定門第15号海関官舎
   大連市山縣通205番地 海関官舎
   大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
   大連高等商業学校 アイスホッケー部
昭和28年(1953) 中国より、引き揚げ。
同船の団長(足立道五郎先生)
福徳相互銀行 アイスホッケー部
読売新聞 朝刊
昭和31年(1956)2月23日
 ―略―
私は、昭和34年(1959)36才で退部した。
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《三船芳郎》兄 三船敏郎(映画俳優)【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)

《三船芳郎》兄 三船敏郎(映画俳優)
【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)

【大衆人事録 第23版 東日本篇】昭和38年(1963)
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1963
《三船芳郎》 p330/
 三進工業(株)社長
 横浜市中区本牧三ノ谷二三八
 電話(20)一四八三
[歷]大正10年11月14日生
横浜市出身
昭和18年 明大法科卒 入隊
昭和20年 復員
昭和23年 金星工業常務
昭和29年 現社を設立 社長に就任
現在に至る
[趣]柔道(六段)ゴルフ狩猟
[家]
妻  弥恵子(大正14年生)
   錦城女専卒
長男 洋  (昭和23年生)
二男 真  (昭和25年生)
長女 恵  (昭和27年生)
[親]兄 三船敏郎(映画俳優)
 p330【大衆人事録 第23版 東日本篇】1963
〔画像〕p330【大衆人事録 第23版 東日本篇】1963
https://dl.ndl.go.jp/pid/3012270/1/330
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[明治大学 昭和18年法科卒業]
【校友名簿】昭和34年(1959)
著者    明治大学校友名簿編纂委員会 編
出版者   明治大学校友会本部
出版年月日 1959
《三船久藏》板橋区常盤台1~69 岩手
      昭和7年推薦
《三船芳郎》三進工業所 社長
      横浜市中区打越76~2 秋田
      昭和18年法科
p433【校友名簿】昭和34年(1959)
〔画像〕p433【校友名簿】昭和34年(1959)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9580701/1/433
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《三船芳郎》三進工業株式会社取締役社長【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)

《三船芳郎》三進工業株式会社 取締役社長
【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)

【横浜商工名鑑 昭和34年版】昭和34年(1959)
著者    横浜商工会議所 編
出版者   横浜商工会議所
出版年月日 1959
鉄鋼業   p73/211
取扱品目  各種貯槽、溶接鉄管、鉄骨製作建設工事
名  称  三進工業 株式会社
所在地   横浜市中区本牧三ノ谷町238
代表者   取締役社長 三船芳郎
資本金   200万円
従業員数  162名
電話番号  (2)1483
創業年   昭和23年(1948)
取引銀行  三菱(川崎) 富士(川崎)
 p73【横浜商工名鑑 昭和34年版】
〔画像〕p73【横浜商工名鑑 昭和34年版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/2488430/1/73
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《三船芳郎》金星鉄工常務【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)

《三船芳郎》金星鉄工常務【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)

【人事総覧 第1集】昭和26年(1951)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1951
《三船芳郎》 p255/301
 金星鉄工常務
 大正10年11月生
 昭和18年 明大卒
 横浜市中区打越町76
7寸5分、柔道5段の巨体をゆすり乍ら、
「吾々カジヤはカジヤと」
これから伸びる会社に絶対必要な細心大胆な
斗志万々居士。
工場と事務所、
販路拡張と年中無休で馳け廻つて居るが、
これも氏の若さを物語つて居る。
大いに皆に可愛がつてもらいたいのが
モツトーだそうだが、
答える時に「ハツ」「ハイ」と入れる当り、
好ましい靑年重役、
押一方では駄目だと退くことも御存知の樣子。
酒は余り好まず、
たまに自動車を乘り廻す位が楽しみの一つだとか。
映画の三船敏郎氏は実兄だが、
映画も殆ど見ず、
話は造船ヤ、土建ヤの下ウケでも――、
と商売のことで頭の中が一杯だ。
しかし戦争中社長の息子と一諸で、
帰つて来てから少し厄介になつたことを、
非常に多として話す所、
彼のフアイトの向け方と考へ合わせ、
戦後派に見られぬ、
体に似合わぬ温みのある人だ。
 p255【人事総覧 第1集】1951
〔画像〕p255【人事総覧 第1集】1951
https://dl.ndl.go.jp/pid/3026576/1/255
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《三船芳郎》三船敏郎の弟【柔道 11(3)】昭和15年(1940-03)

《三船芳郎》三船敏郎の弟【柔道 11(3)】昭和15年(1940-03)

【柔道 11(3)】昭和15年(1940-03)
出版者   講道館
出版年月日 1940-03
 滿 洲  p43/51
△貳 段  三船芳郎
 p43【柔道 11(3)】1940-03
〔画像〕p43【柔道 11(3)】1940-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/6073119/1/43

【柔道 12(4)】昭和16年(1941-04)
出版者   講道館
出版年月日 1941-04
 參 段  p42/45
關東州 三船芳郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/6073132/1/42

【柔道 12(7)】昭和16年(1941-07)
出版者   講道館
出版年月日 1941-07
 三段の部 p14/45
 下ノ部
 紅 軍    白 軍
三船芳郎〇  中村武次
https://dl.ndl.go.jp/pid/6073135/1/14

【柔道 46(7)】昭和50年(1975-07)
出版者   講道館
出版年月日 1975-07
 八段、七段昇段者候補者内定 p14/42
▼七段
関東・神奈川 三船芳郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/6073499/1/14

【柔道 51(6)】昭和55年(1980-06)
出版者   講道館
出版年月日 1980-06
そして、朝飛先生の徳というものか、 p31/46
友人の、三進工業社長(明大OB)、
三船芳郎先生、
 p31【柔道 51(6)】1980-06
〔画像〕p31【柔道 51(6)】1980-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/6073558/1/31
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大連市内の写真:小川清久(叔父)から:平成4年(1992)

大連市内の写真:小川清久(叔父)から:平成4年(1992)

a01-大連市

a02-大連市
a03-大連市
a04-大連市
a05-大連市

a06-大連市
a07-大連市
a08-大連市
a09-大連市
a10-大連市

blog[小野一雄のルーツ]改訂版

2013011709:32

小川清久(叔父)から小野一雄への手紙:平成4年(1992)6月5日

一雄君

ごぶさたしましたが、元気な声を聴いて安心しました。

(平成4年)5月23日から5日間

大連へ行き念願の写真をとって来ました。

http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350941.html

 

[横濱:レンクルホールド]【スポーツ生活六十年】昭和18年

[横濱:レンクルホールド]
【スポーツ生活六十年】昭和18年

【スポーツ生活六十年】昭和18年7月20日発行
 著 者  平沼亮三

アイスホッケーの皮切り  p70-71/199

アイスホッケーも自分達がやつたのが初めだと思ふ。
スティックも何もないから、
大工さんが使ふ手斧の柄、
あれを荒物屋から買つて行つて、

球も今使ふパックといふやうなものはないので、
ベースボールの球の古いの、
これを持つて行つた。

そのうちに本物はかういふものだといふことが解つて、
木で作りそれを黒く塗つて使つた。

ゴールキーパーのネットなどもない。
ただ枠を張つて眞中に板が張つてあつて、
その板に鈴がつけてある。
ボールが入ると、
リーンと鈴が鳴る仕掛けだ、

當時、
横濱にレンクルホールドといふ
非常に贅澤な百貨店があつたが、
これはデパートメントストアの最初であらう。

そこに陸上のホッケーのスティックが澤山あつて、
それを買つて諏訪湖へ持つて行つた。

そのスティックを手に入れたいきさつが面白い。
その店が整理の賣出し見たいなことをやつたときに、
これを一打、一束にして賣つてゐた。

たしか藤原銀次郎さんだと覺えてゐるが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125807/70
それを見て、
一本の値段を一打と間違へて、
これは安いと注文した。

さて、
届けられたのを見ると
高價なので困つてゐるといふことを耳にして
「それだは此方へ貰ひませう」
と全部引受けた。

冬になるのを待ちかねて持つて行つたが、
陸上用のスティックであるから、
今度は兎に角本格である。
しかし、
今のやうなものではなかつた。

仕度は此方がいゝが、
土地の子供とやると敵はなかつた。

下駄を履いてやつてゐるけれども、
素晴らしく素速つこい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125807/71

昭和十八年七月十二日初版印刷
(五〇〇〇部)
昭和十八年七月二十日初版發行
停   定 價 二圓 六十錢
  特別行爲税相當額 十五錢
  合 計   二圓七十五錢
(出文協承認)
(あ400836號)
著 者  平沼亮三
發行者  新關庄藏
     慶應出版社
     東京都芝區三田二丁目一番地
印刷者  白井赫太郎
     東京都神田區錦町三丁目十一番地
     (東東 四一番)
     精興社印刷
發行所  慶應出版社
     電話 三田(45)二七九一番
     振替 東京 一五八一八〇番
會員番號 一〇九五一二
配給元  日本出版配給株式會社
     東京都神田區淡路町二丁目九番地
(田中製本)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125807/198

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 


[小川清久:福徳相互銀行アイスホッケー部]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2236666.html

大連市光風台:静ヶ浦海水浴場:老虎灘海水浴場[關東州略圖]

大連市光風台:静ヶ浦海水浴場:老虎灘海水浴場[關東州略圖]

小川清久(叔父)からの手紙・写真に同封のもの。

[關東州略圖]光風台  静浦町 海水浴場  老虎灘海水浴場
1[關東州略圖]光風台
2[關東州略圖]光風台
小川清久(叔父)から小野一雄へ
[大連:小川清秀邸の写真]平成4年(1992)6月5日
住所:大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
⑦は二階のベランダから見た正面の景色です。
右側の山裾が静ヶ浦海水浴場、
左側の山裾が老虎灘(ロウ コタン)海水浴場で、
その間に島が二ツ見え、よい景色でした。
写真の両側に見える高い建物はすべて戦後の建物です。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350942.html

[關東州略圖]A-1
3[關東州略圖]光風台
向陽台 松風台 櫻花台 青雲台 文化台
光風台 長春台 晴明台 桃源台 臥龍台 鳴鶴台
平和台 秀月台 春陽台 香月台 見晴台

[關東州略圖]A-2
4[關東州略圖]光風台
ゴルフ場 ゴルフ倶楽部
小松台
星ケ浦公園 ヤマトホテル ヤマトホテル分館
たそがれの濱 海水浴場
あけぼのの濱 海水浴場
大連驛 大連港
常盤小学校 春日小学校  弥生女学校 満鉄本社
中央公園

[關東州略圖]B-1
5[關東州略圖]光風台
大連病院 大連神社 満鉄本社 大連実業 スタンダード石油会社

[關東州略圖]B-2
6[關東州略圖]光風台
芙蓉高女 大連経専 光明台 昭和高女 大連商業 羽衣女学校

小川清久(叔父)から小野一雄へ[大連:小川清秀邸の写真]平成4年6月

小川清久(叔父)から小野一雄へ
[大連:小川清秀邸の写真]平成4年(1992)6月5日

住所:大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19

No.①
1[大連:小川清秀邸の写真]
二階のベランダの右はサンルーム
(屋根はガラスがこわれてから屋根瓦になっていました)
一階のベランダの上は夏〈ヨシズ〉を張っていました。

No.②
2[大連:小川清秀邸の写真]

No.③
3[大連:小川清秀邸の写真]
③の右側に見える庭は
もと池で石の橋がかかっていましたが、
埋めてしまって子供の遊び場になっていました。

もと池の周辺と塀の内側は
京都から連れて来た職人さんが築いたもので、
乱れ積みと云っていたように覚えています。

No.④
4[大連:小川清秀邸の写真]

No.⑤
5[大連:小川清秀邸の写真]
⑤の中央と⑧は同じ場所で
上から水が流れて滝となっており、
(君にあげた写真で)  ※下記、No.⑧の下。
君のと祖母が立っていた場所ですが、
埋めてしまったので、高さの実感がないですね。

No.⑥
6[大連:小川清秀邸の写真]
⑥は表門ですが、門柱も塀(門柱の両側に見えます)も、
やたら高く煉瓦を積みあげてありました。
住宅に使用した頃にそうしたようです。
門は外から庭が見える形の
よい鉄柵の門でしたが、ごらんの通りです。
道をはさんでの家三軒は昔のまゝの家でした。

No.⑦
7[大連:小川清秀邸の写真]
⑦は二階のベランダから見た正面の景色です。
右側の山裾が静ヶ浦海水浴場、
左側の山裾が老虎灘(ロウ コタン)海水浴場で、
その間に島が二ツ見え、よい景色でした。
写真の両側に見える高い建物はすべて戦後の建物です。

No.⑧
8[大連:小川清秀邸の写真]
⑤の中央と⑧は同じ場所で
上から水が流れて滝となっており、
(君にあげた写真で)
君の母と祖母が立っていた場所ですが、
埋めてしまったので、高さの実感がないですね。
9[大連:小川清秀邸の写真]
No.⑨
10[大連:小川清秀邸の写真]
 ⑨は③にも写っていた(もと池の傍にあった)亭です。
四角いコンクリートは補強のためのものと思われ、
柱は中国式の赤が塗られていました。
11[大連:小川清秀邸の写真]
家の裏門と勝手口は煉瓦でふさがれてしまってました。
裏に続いて建てられていた貸家14軒は
(当時、満鉄や三井物産等の課長クラスが入っていましたが)
そのまま健在でしたが、
いずれも一戸に二所帯が住んでいるようでした。

小川清久(叔父)から小野一雄への手紙:平成4年(1992)6月5日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350941.html

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