[明治時代の女医:250名]:≪書籍別・資料≫

《河村悦子》京都市に於ける最初の女醫【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《河村悦子》京都市に於ける最初の女醫
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 目 次           p8/506
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
《河村 悦子》        p385/506
 京都市木屋町
明治四年愛知縣勝川町に生る、
戸主河村富正氏の令姪にして、
東京濟生學會に産科婦人科を專攻の後
東京・京都の各病院に於いて四ケ年實習研究し、
現在の場所に産婦人科醫院を開業
以來二十五年の歷史を有し、
京都市に於ける最初の女醫として最も評判よく、
永年の實地的經驗と學理的研究による
堅實なる手腕は斯界に定評あり、
高潔なる人格と親切丁寧なる
診察治療をもつて
持まへの快濶磊落とともに大いに人望を得、
斯界の成功者と謂ふべし、
産婆希望の助手二名と共に
患者本位の繁忙なる長月日を終始一貫
クリスチヤンとして愛と平和に滿ちた
精神的日常を送る、
自己の本分を守ること堅實にして
餘暇を謡曲に親しむ。
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
「明治31年~35年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
明治35年 ?月 小野安子、幣原節子、岡村松、白石すて、
         河村悦子、村上琴子、福井榮子、河村瀧野、
         醫師となる。
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《杉田つる子》女醫會の評議員 杉田玄白先生は女史の祖先なり【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

《杉田つる子》女醫會の評議員 
杉田玄白先生は女史の祖先なり
【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年

【日本婦徳の鑑:昭和大典記念】昭和6年
 日本婦德の鑑刊行に就て   p6-7/506
 昭和六年十二月十五日
 東京婦人新聞社々長 藤廣憲藏
 目 次           p8/506
續篇第五篇 現代婦人錄    p251/506
《杉田つる子》        p275/506
 東京市本郷二丁目一四
明治十八年十二月東京に生る、
杉田家は代々醫を業とし、
西洋醫學を日本に輸入せる
杉田玄白先生は女史の祖先なり
父君は醫學士、
神戸にて内科病院を開き有名なり、
五十歳頃より病床に臥すこと十數年、
女史が醫學に志したる動機も
病父の業を手助けせんと
發奮したるによる、
神戸湊東女學校を出で
大阪關西醫學院に數ケ月通學して
前期に合格、
更に東京日本醫學校(日本大學前身)に學び
後期に合格、
今や東京に於て小兒科醫院を經營し聲望あり、
吉岡彌生女史を會長とする女醫會の評議員、
日本小兒科學會東京地方幹事、
竹田宮大妃殿下を總裁と仰ぐ
育兒會幹事等を勤め、
婦選獲得同盟會員としても活動す、
幼少より文學を好み
獨佛文學書を渉猟す、
和歌、俳句、油繪に堪能、
白樹社同人たり、
基督敎を信ず。
現代婦人錄索引        p492-504/506
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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大阪慈惠病院【大阪実業人名鑑】明治29年

大阪慈惠病院【大阪実業人名鑑】明治29年

【大阪実業人名鑑】明治29年10月
  私立病院ノ部 p69/173
 東 區    名  稱
北久太郎町一  大阪慈惠病院
今橋四丁目   緒方病院
今橋一丁目   小笠原病院
北濱三丁目   山縣病院
博勞町西横堀  小林眼科病院
南久太郎町二  司馬眼病院
明治廿九年十月廿三日印刷
明治廿九年十月三十日發行
正價 金八拾錢
著作兼編輯人 山添德藏
       大阪市北區木幡町百八十四番屋敷
編輯兼著作
   發行人 太田幾太郎
       大阪市南區高津四番町百七十六番屋敷
發行所    大阪廣告商報社
       大阪市南區高津四番町鐘筋
印刷者    加賀和兵衛
       大阪市西區北堀江下通一丁目十八番邸
印刷所    集文舎活版部
       大阪市西區北堀江下通一丁目百四十六番屋敷
賣捌所    松村九兵衞
       大阪市心齋橋鰻谷南ヘ入
賣捌所    博文舘
       東京日本橋區本町三丁目
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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當時多數の男生の中に交った女醫學生:その後①
[日本女医会雑誌]第73号:昭和11 年
<大阪慈惠醫院醫學校と關西醫學院>
 明治廿七八年頃、大阪東區粉河町に、
〔大阪慈惠醫院醫學校〕が創立され、
校長には緒方正淸氏、講師としては、
高安通成、松本需一郎、鬼束益三、岩崎寛治、
田中祐吉、下方正則、白金某等の先生方が居られた。
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[東京慈恵醫院:幹事]【華族名鑑. 明治23年版】

[東京慈恵醫院:幹事]
【華族名鑑. 明治23年版】

【華族名鑑. 明治23年版】
 内大臣
 從一位 大勳位 公爵 三條實美(サネトミ)
         天保八年二月八日生 ※1837年3月14日
  從一位 鷹司輔煕亡女 夫人 治子(ハルコ)
         嘉永元年六月十日生 ※1848年7月10日
  從五位 公美(キンヨシ) 實美 嫡男
         明治八年(1875)五月五日生
  住所 東京府麻布區市兵衛町一丁目十三番地 寄留
 舊公卿 舊高 四百七十二石 賞典 二百五十石
 禄券  六万五千圓
  世襲 銀行株式 七百六十九株
  財産 鐵道公債 三万五千圓
  外ニ 宅地一ケ所
 家扶  太田源二
『幹事 公爵夫人 三條治子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/95

 正四位 公爵  鷹司煕通(ヒロミチ)
         安政二年二月十六日生 ※1855年4月2日
         夫人 順子(  )
         明治四年五月十三日生 ※1871年6月30日
  住所 東京府麹町區上三番町二十五番地
 舊公卿 舊高 千五百石 賞典 二百石
 禄券  一万八千四百五十九圓余
『幹事 公爵夫人 鷹司順子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/53

 從二位 勳一等 伯爵 黒田清隆(キヨタカ)
         天保十一年十月十六日生 ※1840年11月9日
         夫人 瀧子(タキコ)
         文久三年八月十五日生  ※1863年9月27日
 新家 舊薩州鹿児島藩士
  住所 東京府芝區三田一丁目三十七番地
     東京府麹町區永田町二丁目十二番地 官舎
『幹事 伯爵夫人 黒田瀧子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/70

 從二位 勳一等 伯爵 西郷從道(ツグミチ)
         天保十四年五月四日生 ※1843年6月1日
         夫人 清子(キヨコ)
         安政元年四月十六日生 ※1854年5月12日
 新家 舊薩州鹿児島藩士
  住所 東京府芝區三田一丁目三十七番地
     東京府麹町區永田町二丁目二番地
『幹事 伯爵夫人 西郷清子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/96

 從二位 勳一等 伯爵 大隈重信
         天保九年二月十六日生  ※1838年3月11日
         夫人 綾子(アヤコ)
         嘉永三年十月二十五日生 ※1850年11月28日
 從五位 英磨  重信 嗣子
         安政三年九月十一日生  ※1856年10月9日
  夫人 熊子  文久三年十二月十四日  ※1864年1月22日
 新家 舊肥前佐賀藩士
  住所 東京府南豊島郡下戸塚村七十番地
『幹事 伯爵夫人 大隈綾子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/42

 從三位 勳一等 伯爵 寺嶋宗則(ムネノリ)
         天保三年五月廿三日生   ※1832年6月21日
         夫人 茂登子(モトコ)
         天保十三年十二月十八日生 ※1843年1月18日
 新家 舊薩州鹿児島藩士
  住所 東京府芝區白金猿町六十七番地寓
『幹事 伯爵夫人 寺島茂登子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/87

 宮内大臣兼議定官
 從二位 勳一等 子爵 土方久元(ヒサモト)
         天保四年十月十六日生  ※1833年11月27日
         夫人 亀子(カメコ)
         天保九年十一月十二日生 ※1838年12月28日
     從五位 久明(ヒサアキラ) 久元 嫡男
         文久二年十一月廿三日生 ※1863年1月12日
 新家 舊土佐高知藩士
 家扶 矢野定成
『幹事 子爵夫人 土方亀子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/111

 正三位 勳一等 子爵 吉田清成
         弘化二年二月十四日生  ※1845年3月21日
         夫人 貞子
         安政三年八月三日生   ※1856年9月1日
 新家 舊薩州鹿児島藩士
  住所 東京府白金志田町十五番地
『幹事 子爵夫人 吉田貞子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/50

 從三位 勳二等 子爵 杉 孫七郎
         天保六年正月十六日生  ※1835年2月13日
         夫人 千世子
         天保十二年八月十九日生 ※1841年10月3日
     從五位 五一 孫七郎 嗣子
         元治元年四月廿七日生  ※1864年6月1日
      夫人 美代
         明治六年八月十八日生  ※1873年8月18日
 新家 舊周防山口藩士
  住所 東京府麹町區平河町五丁目二十二番地
 家扶 飯島和一
『幹事 子爵夫人 杉 千世子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/114

 正五位 子爵  大村純雄(スミヲ)
         嘉永四年四月廿七日生  ※1851年5月27日
         夫人 憲子(ケンコ)
         安政六年五月廿三日生  ※1859年6月23日
 舊肥前大村藩主 舊高 五万七千九百七十三石 賞典 七千五百石
 禄券 二十七万五千圓
  住所 東京府麻布區市兵衛町一丁目十六番地
 家令  児玉九左衛門
 葬地  二本榎 承教寺
『幹事 子爵夫人 大村憲子』※別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/35

版権所有
明治 二十年  四月  六日 版権免許
明治 二十年 十一月     出版
明治二十三年  八月 二十日 印刷
明治二十三年  八月二十五日 増補出版
御書籍 正價 三十五戔
著作兼發行者 彦根正三
       東京府士族
       京橋區八官町十三番地
印刷者    青山長格
       東京府士族
       下谷區長者町二丁目四番地
發行所    博公書院
       京橋區八官町十三番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780632/118

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


※別稿に記載
《岡見ケイ子:岡見京子》
[東京慈恵醫院]
【東京医事一覧. 明治23年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659860.html

《有栖川一品親王妃董子》
[東京慈恵醫院:幹事長]
【[皇族明鑑]】明治23年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659861.html

《有栖川一品親王妃董子》[東京慈恵醫院:幹事長]【[皇族明鑑]】明治23年

《有栖川一品親王妃董子》
[東京慈恵醫院:幹事長]
【[皇族明鑑]】明治23年

【[皇族明鑑]】明治23年
 御稱號
 有栖川宮 東京麹町區霞ゲ關町一丁目貳番地  p3/96
      御賄料 參萬圓
  仁孝天皇御猶子 故一品 大勳位 熾仁親王 第一子
  陸軍大將兼參謀總長議定官
   大勳位 熾仁親王(タルヒト)
    御誕生 天保六年乙未二月廿五日 ※1835年3月23日

  熾仁親王御息女
   源董子(タダコ) 故從四位 溝口直博 第三女
    御誕生 安政二年乙卯六月廿五日 ※1855年8月7日
『幹事長 有栖川一品親王妃董子』別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084577/3

  今上天皇御養子 故一品 大勳位 熾仁親王 第四子
   海軍少佐
 御繼嗣 大勳位 威仁親王(タケヒト)
    御誕生 文久二年壬戌正月十三日 ※1862年2月11日
  威仁親王御息女
  菅原慰子(ヤスコ) 故從三位 前田慶寧卿 第二女
    御誕生 元治元年甲子二月八日  ※1864年3月15日
    御入輿 明治十二年十二月十三日 ※1879年12月13日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084577/4
明治 十七年十一月十四日版權免許
明治二十三年 三月 三日印刷
明治二十三年 三月十三日增補再版
定價 九十五錢
編纂者 鈴木眞年
    和歌山縣士族
    牛込區箪笥町拾六番地
發行者 彦根正三
    東京府士族
    京橋區八官町拾三番地
印刷者 青山長挌
    東京府士族
    下谷區長者町貳丁目四番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084577/94

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

[Wikipedia]
本多 忠穆(ほんだ ただひこ)
(天保元年(1830年)9月20日
- 安政3年(1856年)9月22日)は、
伊勢神戸藩の世嗣。
越後国新発田藩主溝口直諒の六男。
子は大給松平乗恵(長男)、
董子(有栖川宮熾仁親王妃)
広子(徳川茂承継室)。
安政3年(1856年)8月28日、
神戸藩第6代藩主本多忠寛の養子となる。
しかし、同年9月22日、家督相続前に早世した。享年27。
代わって、出羽国新庄藩から忠貫が養子に迎えられ、嫡子となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E7%A9%86

[Wikipedia]
溝口 直溥(みぞぐち なおひろ)
(文政2年1月2日(1819年1月27日)
- 明治7年(1874年)4月26日)は、
越後新発田藩の第11代藩主。第10代藩主溝口直諒の長男。
幼名は錦之助。
官位は従五位下主膳正。
のち従四位下。
母は側室で福山氏の娘・稲美(慶寿院)。
正室は石見浜田藩主・松井松平康任の娘・愛姫(死別)、
継室は常陸土浦藩主・土屋彦直の娘・増姫。
子女[編集]
直溥には16男15女があり、
他に若年で没した弟・本多忠穆の娘を養女とした。
以下では早世の者を除き、成人した者のみを挙げる。
 ―略―
養女:栄姫 - 実弟・本多忠穆(溝口直與)の次女。
      有栖川宮熾仁親王の妃となり、董子(ただこ)と称した。
養女:広姫 - 実弟・本多忠穆(溝口直與)の三女。
      旧紀伊和歌山藩主徳川茂承継室となり、徳川広子と称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E6%BA%A5

《岡見ケイ子:岡見京子》
[東京慈恵醫院]
【東京医事一覧. 明治23年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659860.html

[東京慈恵醫院:幹事]
【華族名鑑. 明治23年版】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659862.html

[女醫史の編纂雑感]『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[女醫史の編纂雑感]
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編

[女醫史の編纂雑感]すみ子  p44
○日本女醫五十年史を作るに就いて、
 先輩女醫の方々に、
 往復ハガキや手紙で経歴を御尋ねして、
 出来るだけ正確なものをと思って骨を折って見ても、
 どういふものか大方は謙遜されて返事を下さらなかったり、
 「私などは何の價値も無い者だから」などと
 逃げて仕舞はれるので、
 編者にとってはどんなに失望させられるか分らない。

 當時の社會状態に於て、
 婦人の職業中でも最高の女醫になられたといふことは、
 女性史上からも抹殺すべからざる事實であり、
 又、今後益々進歩発展するであらうところの
 我が女醫界の爲めにも、
 この事實を出来得る限り明かにして置くことは、
 来るべきものに對する義務ではないかとさへ思ふ。

 それ故徒らに謙遜せらるゝ事を止めて、
 出来るだけ委しく、
 正確なる資料を、
 且つ御自身のことのみならず、
 他の人の事についても、
 御知らせ下さる事を切望して止まないのである。

○古参女醫の名簿を作る爲めに、
 内務省に赴いて『醫籍』を度々調べたのであるが、
 醫籍なるものが思ひの外お粗末なものであるのに驚いた。

 尤も震災前のものは焼失したので
 假のものであることは分ってゐるが、
 醫籍には、
 單に本籍地の縣名と、
 氏名、
 登録年月日と登録番號、
 醫術開業試験によるものか、
 醫大専門學校出身等の區別だけで、
 姓別も現住所も何も書いて無いのである。

 それで名前が女の様な男もあれば
 男の様な女もあって
 この區別が一向判然しない。
 從って、古い時代の女醫の名は、
 先輩の記憶と、
 他の書物の記録によるより外
 たよりにするものがないといふ、
 心細い次第である。

○古い時代の女醫は、
 其勉學に隨分苦心せられたばかりでなく、
 その地位を得られるにも
 餘程困難であったらしいが、
 その時分に於て、
 早く女醫に勉學の便宜を與へ
 且つ女醫を優遇せられた人に、
 故高木兼寛男爵がある。

 明治二十二年、
 岡見京子女史がアメリカの女醫學校を出て
 日本に歸朝せられたのを、
 東京慈恵醫院に招聘し、
 新設した婦人科の主任とし、
 その慈恵醫院學校に養成されて
 女醫となった本多せん子女史を
 その助手として用ひられた。

 岡見女史は其後二十五年迄継続勤務せられたが、
 同病院醫局員の名籍を見ると、
 院長を除き醫局員の次席に同女史が列せられてゐる。
 これを以て見ても高木院長が女醫をいかに優遇し、
 又女史もそれだけの地位に遇せられる
 人格者であったかといふことが
 窺はれるのである。

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行
 〔非賣品〕
 編輯者   多川澄子
       東京市芝區白金三光町二七三
 発行者   杉田鶴子
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
 印刷者   谷本 正
       東京市芝區愛宕町二丁目一四
 発行所   日本女醫會雑誌発行所
       東京市本郷區本郷二丁目三ノ六
       電 話 小石川 五七六六番
       振替口座 東京 三一九〇〇番
 廣告申込所 大矢雅美
       東京市目黒區鷹番町三十九番
 印 刷   常磐印刷株式會社

※「京都府立医科大学附属図書館」所蔵の原本をコピー。
  平成21年(2009)10月 小野一雄

《岡見ケイ子:岡見京子》
[東京慈恵醫院]
【東京医事一覧. 明治23年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659860.html

「明治40年~45年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治40年~45年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治40年 ?月 越沼フジ(油田)、二宮澄江(仁保)、
         玉川よの(本村)、
         桑原りうほう(平山)、中山スミ(正井)、
         岡田つる、田添ヨシ、
         林イワ、采睾トク、
         高橋小丈、内田松(晴代)、
         小早川トクヨ(池田)、
         醫師となる。

明治41年 6月 ドイツに留學なりし福井繁子、
         ドクトルメヂーネの學位を得て歸朝す。

明治41年11月 荻野吟子、夫と死別後 數年 北海道に止まり
         夫の遺業を継承せしが此年歸國し、
         本所區小梅町に醫業を營む。

明治41年  末 大阪関西醫學院 廢校となり   p12
         茲に學びたる女醫學生は東京の日本醫學校 及
         東京女醫學校等に轉學す。

明治41年 ?月 山尾うら、左座かねを(春日)、
         井出茂代(竹内)、堀ちよ、
         中川だい、高須いま、 ※高須克弥の祖母“高須いま”
          杉田つる、川崎とも、
         富原ゆく(木阪)、諸石トキ(緒方)、
         菅野イチ(島峰)、原トリ(道子)、
         桑原うめ枝(林)、
         醫師となる。

明治41年    杉田鶴子 東大 小兒科 介補となる。
         女醫にして小兒科 介補の最初なり。

明治42年 1月 菊地ゑい、醫師となる。

明治42年 3月 私立日本醫學校 卒業試験 施行の際、
         受験生62名中 及第者28名、
         しかもその第一位は石川松枝にして
         他は悉く男子にて顔色なし、
         卒業生を代表して答辭をよむ、
         女史は當時二十二三歳の妙齢
         然も勉學後 日浅く此榮譽をうく。
         校中の評判たり。

明治42年 ?月 第一回(春)に土田せん、宮田邦子、
         第二回(秋)に善行地玉與(後 山田)、江間貞子、
         石川まつ枝(後 鈴木)、
         神山超子、
         醫師となる。

明治42年  末 東京醫師倶楽部 醫學講習會なるもの
         神田區美土代町に明治34年来開講せられ、
         勉學の時間少なき醫學生の爲
         約十年間便宜を與へ居たるが、
         醫術開業試験廢止の期迫れるにつき
         本年度限り閉講す。
         此處にも男學生に交り數名の女醫學生學ぶ。

明治42年12月 大阪緒方病院 學術研究會にて
         福井繁子「會陰保護術について」演説す。

明治42年 ?月 藤田みつ、北京に於て上流婦人に   p13
         衛生思想を普及し傍ら診療に従事す。

明治43年 ?月 本郷壱岐坂尋常小學校内に
         「中央醫學研修所」なるあり。
         數名の女醫學生在學す。
         一二年継続の後 閉鎖す。

明治43年    婦人共立育兒會病院なる小兒施療病院
         麹町區飯田町に設立、
         院長 弘田長博士の下に女醫のみ採用、
         初代には、山尾うら、杉田鶴、町田満、内田節の
         四女醫勤務、
         爾来代々女醫のみ勤務す。

明治43年    東大 小兒科教授 弘田長博士の
         薫陶をうけし女醫のみにて
         都香草會なる會生まる、
         師を中心として年二三回親睦と知識の交換をなす。

明治43年    文部省 醫術会合試験 及第者 激増し
         二十二名の女醫出づ
         (これより以後は
          醫術開業試験及第者の氏名を略す。
          詳細は後日發表の古参女醫表を見よ。)


明治43年    曽根操、中川もと、
         米國フイラデルフヰヤ、
         ウーマンスメヂカルカレツヂ、
         オブ ペンシルバニアにて
         ドクトル・オブ・メデイシンを得。

明治44年 4月 東大 整形外科 介補 北村静子、
         東京に開催の日本外科學會に於て
         女醫にして初めて演説をなす。
         演題「先天性足内飜症治療成績に就て」

明治44年 6月 大阪灘波病院學術集談會にて
         同醫局員 山中貞子
         「縫合糸の細菌學的研究」について報告す。

明治44年 8月 吉見こう子、東京市衛生試験所に勤務す。 p14
         女醫にして最初なり。

明治44年10月 幣原節子(大阪緒方病院醫員)
         同病院學術集談會にて
         「子宮腔固定術後に於ける分娩に就て」報告す。

明治44年    私立日本醫學校(明治37年創立)
         醫學専門學校となす爲め、女子の入學を拒絶す。

明治45年 3月 東京女醫學校(明治33年創立)
         文部省より財団法人組織の専門學校たることを認可され
         東京女子醫學専門學校と改稱さる。
         4月新入學者95名、
         專門學校第一回の入學生なり。
         尚 前 在學生より試験によりて56名を
         第二學年に編入す。

明治45年 ?月 藤田みつ子、支那より歸朝、池袋に閑居す。

大正 1年 1月 以降  ―略―

「明治36年~39年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治36年~39年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治36年 1月 日本女醫會 新年會 兼
         宇良田唯子 ドイツ留學 送別會
         九段 富士見軒に開く。
         出席十一名、幹事 鷲山、大八木。

明治36年 1月 宇良田唯子 ドイツ マルブルヒに留學す。
         曩に高橋瑞子(明治23年)留學の時
         許されざりし
         ドイツの大學も今や門戸を開放す。
         時勢なる哉。

明治36年 8月 濟生學舎 廢校となる。
         同校は明治9年
         長谷川泰氏の創立にかゝり、
         爾来今日迄私學の醫育機関として
         重きを爲せしものなり。
         同校創立以来
         明治35年6月まで
         醫術開業試験合格者
         實に九千六百餘名を算すと。
         明治30年頃迄の女醫は大方此學舎より出づ。

明治36年 9月 濟生學舎 廢校の爲
         困難したる醫學生の懇望により
         醫學士 丸茂文良氏 自己の病院内に
         「醫學温習會」なるものを起し
         臨床實地について指導す。
         女醫學生も數名あり。

明治36年11月 日本女醫會 秋季例會を上野東照宮内に開く。
         出席十九名、ドクトル柳澤米子の米國談あり。

明治36年 ?月 谷本薫、福間はる、中村あい、大政稻野、
         萩谷玉枝(藤村)、上羽しま、
         大井キヨエ、
         醫師となる。

明治37年 4月 私立日本醫學校、神田區淡路町に開校、  p10
         校長 山根正次氏、設立者 磯部検三氏、
         女醫學生は初め約二十名入學、漸時増加す。

明治37年 4月 野間菊子、明治35年以来
         ドクトル・グレジヤ、ドクトル・ラツクウード等に就き
         水治療法を研究し此年
         神戸市山本通り二丁目に専門開業す。

明治37年 5月 日露戦争軍事救護に来朝せるマギー夫人(米國)の
         歓迎會を日本女醫會にて開く。
         會場 九段 星ケ岡茶寮、出席十九名、
         井上友子 通譯の勞をとる。

明治37年 6月 東京女醫學校 牛込區河田町に移轉す。

明治37年 9月 井上友子 實践女學校 校醫となる。
         (39年10月より東京府立第三高女 校醫を兼任)

明治37年10月 塚原雄子 韓國宮内府に侍醫として招聘され、
         傍ら漢城病院に勤務す。

明治37年 ?月 文部省令により従来の醫術開業試験は、
         十年後に廢止せられ、
         醫學専門學校卒業生ならざれば
         醫師たるを得ざるに至る。

明治37年 ?月 合田成尾、坂本シヅ(田中)、花谷保枝、吉田千代、
         中川コト、越智俊子(小山)、鶴野恵美、高橋スヰ、
         富山やす、丹羽美知、三谷茂、
         細井八重、
         醫師となる。

明治38年 3月 宇良田唯子 一月
         ドイツにてドクトルメヂーネの學位を得、歸朝す。

明治38年 5月 藤田みつ子、
         清國 浙江省 南潯鎭濟生病院に奉職す。p11

明治38年 9月 福井繁子、宇良田唯子の學びたる
         ドイツ、マルブルグ大學に留學す。

明治38年 ?月 橘薫、河越まさよ、菊池鶴恵、日下サキ、山内ヨネ、
         北村シヅ(水江)、中山きん、眞中すず、
         醫師となる。

明治39年  春 日露戦争後 東京女醫學校 入學生激増し、
         校舎及寄宿舎の建増を行ふ。

明治39年 ?月 高橋喜代、油川太嘉、久恒静枝、田中ふさ、
         早坂千賀、伊藤てる、
         石津静衛、今村ウタ、
         醫師となる。

明治39年 7月 油川太嘉子、母校 日本醫學校より東大衛生學教室に
         一般細菌學講習法研究生を命ぜられ同教室に入る。
         後 母校 衛生細菌學教室主任となる。

明治39年11月 北村しづ(水江) 東大整形外科教室 介補となる。
         (教授 田代義徳博士)
         女醫にして最初なり。

※次稿に続く。

「明治31年~35年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治31年~35年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行
『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治31年 4月 外國醫學校 出身の
         須藤カク、阿部ハナ、日本醫籍に登録。

明治31年 4月 宇良田唯(中村)、醫籍に登録。

明治31年 8月 花谷安枝、醫籍登録。

明治31年  秋 久保サチ、醫師となる。

明治32年 2月 女醫 右田朝子の碑
         田端大龍寺に建立され遺髪をその地下に納む。
         女史は井上眼科病院に勤務中 病気に罹り、
         死に臨み
         その眼球を
         同病院に研究の資料として遺すことを遺言す。
         同院長 井上達七郎博士 主唱者となり
         有志者 醵金して此 石碑を建つ。
         題額 石黒悳子爵、
         選文 井上達七郎氏その閲歴を記す。 p7
         寄進者中には、
         女醫 前田園子(本吉)、賀川哲子の名あり。

明治32年  春 坂本ヤソ、塚原雄(高橋)、
         河野桃野、近藤キシヨ、醫師となる。

明治32年 9月 高田畊安氏 茅ヶ崎に結核療養所 南湖院を創立し、
         醫員として女醫を採用す、
         副長として在職せし女醫は
         初代より、石坂蓮子、河野桃野、前田園子、
         高野直子、中村愛子等あり、
         その外 醫局員として土岐みや子(高橋)、
         初め常に女醫就職す。

明治32年  秋 野間キク、鳥取アイ、浅海コト、醫師となる。

明治33年  秋 濟生學舎、女子學生の入學を拒絶す。
         但し當時在學中のものは未だ止まる。

明治33年    小林みよ、村田みつ、朝枝小春(近藤)、
         木下なみ、中島フサ、岩浅ワキ、
         前島ケイ(今村)、吉岡タダ、太田奈美、
         沖本幸、篠田せい、
         醫師となる。
        ※木下なみ=太田奈美
         木下奈美(舊 太田)「先輩女子名簿」p3
         [日本女醫會雑誌] 第80號
          昭和12年8月30日発行

明治33年12月 濟生學舎にて女醫學生の入學を拒絶したる爲、
         女醫志望の者方針に迷へるを察し、
         吉岡彌生夫妻、
         麹町區飯田町に私塾様の女醫養成所を造る。
         これ東京女醫學校、
         後の東京女子醫專の前身なり。
         初めは學生數名に過ぎず。

明治34年 3月 濟生學舎長 感ずる所あり
         遂に在學中の女醫學生も全部拒絶す。
         爲めに中途廢學するもの、
         或は一定の場所を借り   p8
         濟生學舎の講師に懇願して講義をきゝて
         受験勉強をするもの、
         女醫學校に入るもの等
         種々の方法をとる。

         濟生學舎を出されし後期女性組は、十五六名にして、
         本郷區中央會堂にて濟生學舎講師を頼み聴講す。
         前期生は神田三崎町の歯科醫學校の一部を借り、
         濟生學舎の講師を依頼し三十名ばかりにて講義をきく。
         その内漸時生徒も増加発展し來り、
         「女子醫學研修所」と命名、
         石川清忠氏を校長とし、明治37年迄継続、
         後 男子の同系統のものと合同して
         「東京醫學校」となる。

明治34年 5月 柳澤米子 米國加州大學 醫學部卒業、
         ドクトルオブ、メデイシンの學位を受く。

明治34年 6月 吉岡彌生夫妻 設立の東京女醫學校、
         牛込區市谷仲ノ町に寄宿舎を設置す。

明治34年 9月 佐世保に開業中なりし
         今村ケイ子(後 前島)
         清國浙江省日支學校校醫として赴任す。

明治34年11月 前田園子 韓國 漢城病院に醫員として赴任す。

明治34年12月 井上友子 ドクトルとなり米國より歸朝。

明治34年 ?月 松尾千代、尾崎シヅ、巽たけへ、説田てる、
         細井シゲ、高野直、太田繁、醫師となる。

明治35年 1月 前田園子 日本女子大學校醫となる。
         爾来今日に至る迄継続す。

明治35年 4月 前田園子等の主唱により
         「日本女醫會」創立せられ、
         第一回會合を上野鶯谷
         このはな園に開く。
         幹事 前田園、塚原雄、以後毎年二、三回會合す。

明治35年 7月 東京女醫學校、在學生に三ツ巴の優美なる徽章を
         胸間に帯ばしめ校風を一層粛正せしむ。

明治35年10月 日本女醫會 第二回を上野公園 三宜亭に開く。
         幹事 前田園、塚原ゆう。

明治35年 ?月 小野安子、幣原節子、岡村松、白石すて、
         河村悦子、村上琴子、福井榮子、河村瀧野、
         醫師となる。

※次稿に続く。

日和下駄(掃苔:墓、舞台、ベイスターズ)
日本初の眼科女医「右田朝子(アサ)」記念碑
2006/5/27(土) 午前 0:27
一年以上前に「正岡子規」の掃苔の為に訪れた
大龍寺にて思わぬ出会いをした「右田朝子」について。
一般的には、殆ど無名と言ってもよいと思われる
「右田朝子」の碑文に偶然にも巡り逢えた。
 ―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/massy_ishikawa/37015010.html

「明治27年~30年」『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

「明治27年~30年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年

[日本女醫會雑誌] 第77號
 昭和12年3月 8日印刷
 昭和12年3月10日発行

『日本女醫五十年史 年表』 (草稿)
       多川澄子編
 年 表
明治27年 4月 福井繁子、醫師となる。

明治27年 ?月 大阪緒方病院(院長 緒方正清氏)にて
         初めて女醫 福井繁子を採用す。
         其外 同院には、
         幣原節、小野安、村上琴、橘薫(以下略)等、
         勤務す。
         ※幣原節 明治17年生
         ※小野安 明治16年生
         ※村上琴 明治15年生
         ※橘 薫 明治 7年生

明治27年 6月 荻野吟子 夫 志方氏の後を追ひ
         北海道後志國利別原野に赴き
         夫の事業の開墾と傳導を助け
         傍ら醫業を營む。

明治27年10月 小出峰、醫師となる。

明治27年    岡見京子、新宿角筈に衛生園を開き
         恢復期患者の入院治療を爲す。

明治28年 8月 井上友子 米國に留學し
         クリーブランド、ホメオパシツク醫學校 及
         ミシガン、シカゴ大學等に學ぶ。

明治28年 ?月 高田もと(5月)、新名たみ、增野八重の(乾)、
         醫師となる。p6

明治28年 ?月 大阪市東區粉川町 大阪慈恵病院醫學校 
         創立せらる。
         校長 緒方正清博士
         後に女醫學生 茲に修學す。

明治29年11月 山家たか(松本)、美甘光(内田)、醫師となる。

明治30年 3月 萩谷清江、醫師となる。

明治30年 6月 横山ジュン、醫籍登録。

明治30年  秋 市川田鶴、鈴木ケイ、若山とし(小川)、
         大八木幸、堀きん、中村菊、醫師となる。

※次稿に続く。
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