個人別・資料

菅沼元之助(夫)メリー・エ・ゴウルト(妻)明治26年3月8日国際結婚【近代日本研究 (11)】1995

【近代日本研究 (11)】1995
出版者   慶応義塾福沢研究センター
出版年月日 1995-03
 明治前期国際結婚の研究
  ―国籍事項を中心に―
       小山 騰
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423952/1/66

  国際結婚リスト
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423952/1/87

番号     136
許可の年月日 明治26年3月8日
夫の氏名   菅沼 元之助
夫の国籍   日本
妻の氏名   メリー・エ・ゴウルト
妻の国籍   米国
p89【近代日本研究 (11)】1995
〔画像〕p89【近代日本研究 (11)】1995
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423952/1/89
『近代日本研究』第11巻(1994年)
1995年3月31日 発行 非売品
発行者 慶應義塾福澤研究センター
    西川俊作
製 作 〒108 東京都港区三田2-19-30
    慶應通信株式会社
    振替口座 00190-8-155497
    TEL 03-3451-3584
印刷所 図書印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/4423952/1/141
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月20日05:15
《菅沼メリー》米國種の婦人開業醫免許:
明治26年9月【新聞集成明治編年史 第8巻】昭和10年
【日本杏林要覧】明治42年
 長崎市
菅沼メリー【ドクトル廿六年八月】長崎士族、
      文久二年(1862)生
      ◎十善寺中野平町三六
菅沼元之助 ◎中野町三六 △七九六
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《菅沼メリー 菅沼元之助》長崎市十善寺字中之平【基督教名鑑 明治31年調査】

【基督教名鑑 明治31年調査】
出版者   教文館
出版年月日 明30-32

菅沼メリー (醫士)(美以)
長崎市十善寺字中之平

菅沼元之助 (通譯官)(美以)
長崎市十善寺字中之平
獨逸領事館
 p46【基督教名鑑 明治31年調査】
〔画像〕p46【基督教名鑑 明治31年調査】
明治三十二年三月十五日印刷
明治三十二年三月十八日發行
編纂者兼 堀田達治
發行人  東京市京橋區銀坐四丁目二番地
印刷人  山崎久吉
     東京府豐多摩郡澁谷村字上澁谷一番地
發行所  敎文館
     東京市京橋區銀坐四丁目二番地
印刷所  靑山學院實業部
     東京府豐多摩郡澁谷村元靑山南町
     七丁目一番地
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【官報 1911年12月14日】明治44年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 明治44年
長崎基督敎靑年會
理事 エー、ワルヴルト、山本靜也、
橫山愛吉、菅沼元之助
任期滿了ニヨリ左ノ通選任
長崎市十善寺中野三十六番戶   菅沼元之助
同市浦上淵岩瀨道郷百三十八番地 横山 愛吉
同市十善寺中野九番地      川崎  升
同市袋町十三番地        塚本久太郎
同市大村町八番地        手島惣太郎
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《菅沼メリー》米國種の婦人開業醫免許:明治26年9月【新聞集成明治編年史 第8巻】昭和10年

【新聞集成明治編年史 第8巻】昭和10年
著者    明治編年史編纂会 編
出版者   財政経済学会
出版年月日 昭和10

明治二十六年九月(皇紀二五五三 西曆一八九三)
米國種の婦人開業醫免許
〔九・二〇、毎日〕
北米合衆國オハイオ州
私立クリーヴランド・ホメオバー醫學校卒業生、
當時 大阪府士族 菅沼メリーと云ふ婦人は、
内務大臣より開業免許狀を得たれば、
近々長崎市十善寺郷十人町にて
開業する筈なりと云ふ。
 p255【新聞集成明治編年史 第8巻】昭和10年
〔画像〕p255【新聞集成明治編年史 第8巻】昭和10年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1265113/1/255
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【醫海時報 (583)】明治38年(1905)
出版者   醫海時報社
出版年月日 1905-08-19
 醫海時報 第五百八十三號
 明治三十八年八月十九日
◎本邦内地に於て開業の外國醫師
 去る(明治38年)七月末日迄の
 現在内地開業を許され居れる、
 外國醫師數及び、其開業府縣は左の如し。
 東 京 八人 神奈川 十二人
 兵 庫 六人 長 崎  四人
 大 阪 二人 福 岡  一人
 北海道 一人
◎外國修業の女醫
 本年(明治38年)七月一日迄、本邦婦人にして、
 各諸外國に於て修業後、
 我が醫籍に登錄せられたる、
 女醫は左の四名なり、
 尤も此外尚ほ二名の登錄ありたる筈なり。
 阿部ハナ
 後藤カク ※須藤カクの誤植
 井上トモ
 菅沼メリー
 p6【醫海時報 (583)】明治38年(1905)
〔画像〕p6【醫海時報 (583)】明治38年(1905)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11183141/1/6
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【日本杏林要覧】明治42年
著者    日本杏林社 編
出版者   日本杏林社
出版年月日 明42.12
 長崎市
菅沼メリー【ドクトル廿六年八月】長崎士族、
      文久二年(1862)生
      ◎十善寺中野平町三六
菅沼元之助 ◎中野町三六 △七九六
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【職員録 明治42年現在(乙)】
出版者   印刷局
出版年月日 明治42
◎高等女學校
 長崎縣西彼杵郡上長崎村
學校長 溝口鹿次郎
敎授囑託 菅沼メリー(手當月一八)
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《須藤かく 95歳》日系最初の女医【歩みの跡:北米大陸日本人開拓物語】1957

【歩みの跡:北米大陸日本人開拓物語】1957
著者    藤岡紫朗 著
出版者   歩みの跡刊行後援会
出版年月日 1957
  日本最初の女医 須藤かく
奥平氏のフロリダ植民の話から
フト思い浮かんだことがある。
ソレは日本移民史に特筆されてよいと思う逸話なのだ。

話題の主は須藤かくという九十五歳の老女医。
今はフロリダ州のセントクラウドで
姪の夫
吉田源五郎氏一家と同居、
静かに余生を楽しんでいる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3039124/1/37
須藤さんは文久二年(1862)
津軽藩士の家に生れ、
明治維新の廃藩置県と同時に
父君は青森県庁に奉職された。

十三歳の折、
一家皆弘前から青森に移り、
また間もなく東京に転じた。
学問好きで向上心の盛んな女史は、
その頃東京にもまだ女学校が無かったので、
よんどころなく男装して中学校へ入ったが、
性別が判って退校を命ぜられた。

その後、横浜に出て
アメリカン・ミッション・スクールに入学、
女医兼キリスト教伝道師ケルシイ嬢について
普通学科の外に医学を学び、
一八九一年(明治24)同嬢に伴われて渡米、
サンフランシスコ上陸後
ニューヨーク州フェヤポートの
同嬢の親戚に寄寓して勉強したものだ。

さらに同嬢の勧めによって
フィラデルフィヤの電気治療学校に学び、
卒業後、クリーブランド市に開かれた
世界基督教伝道師大会に出席、
その際シンシナチ市の一代表者に紹介され、
その手蔓で同市の
ローラン・メモリアル女子医科大学に入り、
一八九六年(明治29)優等の成績で卒業、

その翌年ケルシー嬢とともに帰朝し、
直に ※明治31年(1898)4月

  blog[小野一雄のルーツ]改訂版
  2014年04月22日08:20
  「明治31年~35年」『日本女醫五十年史 年表』
  (草稿):昭和12年
  明治31年 4月 外國醫學校 出身の
           須藤カク、阿部ハナ、日本醫籍に登録。

内務省から医術開業免状を受けて
五年間横浜で開業した。

そのころでは女医師などいかなるものか
一般には知られていない。
あたかも香具師ででもあるかのように思われ、
患者は一人も寄りつかず、
門前雀羅を張る状態であった。
さしも男勝りの須藤さんもついに辛抱しきれず、
再渡米したのが一八八六年 誤記:1886⇒1902

超えて一九〇二年(明治35)
ケルシー嬢に伴われて再渡米、
ニュージャーシー州
西カムデン市なる同嬢の宅に同居中、
ケルシー嬢の健康勝れず、
よって一九二三年(大正12)
フロリダ州セントクラウド市に
一緒に移転して今日にいたっている。

それ以来ずっと米国で生活しているが、
その歩みの一足ごとに苦難克服の涙ぐましい波紋が
縦横に織り込まれていて、
聞く者をして感激せしめずには措かない。

この人こそは恐らく
日本最初の女医だったと思われる。
まことに在米十余万の日系人中
特異な存在といい得るであろう。
 p38《須藤かく》【歩みの跡】1957
p38《須藤かく》【歩みの跡】1957
https://dl.ndl.go.jp/pid/3039124/1/38
  歩みの跡 (非売品)
昭和三十二年八月十五日印刷
昭和三十二年八月二十日発行
著 者 藤岡 紫朗
    1400 Gordon St., Hollywood 28,
    Calif., U.S.A
発行者 仲村権五郎
    歩みの跡刊行後援会代表者
    258 E.First St., Los Angeles 12,
    Calif., U.S.A.
印刷者 小山 恵市
    千代田出版印刷株式会社代表者
    No. 8, Tsukudo-Hachiman chou,
    Shinjuku-ku, Tokyo, Japan
発行所 歩みの跡刊行後援会
    c/o RAFU SHIMPO,
    242 So. San Pedro St.,
    Los Angeles 12, Calif., U.S.A.
Printed in Japan
https://dl.ndl.go.jp/pid/3039124/1/382
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【アメリカ移民百年史 下 (時事新書)】1962
著者    加藤新一 著
出版者   時事通信社
出版年月日 1962
セントクラウド市に青森県弘前市出身、
当年百歳でしかも在米日系最初の女医
須藤かく老女史が健在である。
一八九一年に渡米、東部で勉学、
女医となり日本をたびたび訪問、
一九〇七年に渡米して以来、
ずっとフロリダ州に住みついた。
そのとき弟
成田一家を伴ない渡米、
その子供五人を全部養子として育て、
長女ジーンと結婚した吉田源五郎と同居し、
他の子女はアメリカ各地で一家をなしている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3018785/1/142
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《菱川ヤス》第一回の生徒として入學した人たち【横浜共立学園六十年史】昭和8年

【横浜共立学園六十年史】昭和8年
著者    横浜共立学園六十年史編纂委員 編
出版者   横浜共立学園六十年史編纂委員
出版年月日 昭和8
 最初ノ渡米留學婦人(明治四年)
上田 てい(本校生徒)
永井 しげ(瓜生男爵夫人)
山川 捨松(大山公爵夫人)
津田  梅(津田英學塾創立者)
吉松りよう(本校生徒)
p18【横浜共立学園六十年史】昭和8年
〔画像〕p18【横浜共立学園六十年史】昭和8年

 第四編 共立學園略史談  p100-108/212
  共立女學校創立六十年記念に際し
  創立當時の前後事情を偲ぶ追想記
   昭和六年七月  山本秀煌
共立女學校の創立は明治四年で、
昭和六年十一月は創立六拾周年に相當するので、
之れが記念の爲め、
關係者諸氏より創立以來の歷史、
沿革、感想等の寄稿を集めて
發行せらるゝ御計畫の由、
誠に結構なる御催である。
又  p106/212
最初の女生徒の方々はよく知られて居ないが、
北村耕霞(コウアイ)、※武村耕靄
西田けい子、福澤きよ子、
菱川やす子、北川春子の方々は
本校が創立早々まだ四十九番館にあつた時
(明治四年の秋から同五年の秋まで)
からの通學生であつたといふ事である。
北村耕霞女史は ※武村耕靄
有名なる女流畫家であることは
世間周知の事だが、
彼女が東京日本基督公督創立者七人の中の
一人であつたことは
あまり知られて居ないやうだ。

西田けい子は現在の岡見千太郎夫人で、
敎育傳道に盡しつゝ
五拾有餘年の信仰生活を送つて今尚健在で、
基督敎會の發展に努力しつゝある方である。
 横濱山手二百十二番の思い出 p108/212
   井深梶之助
  思ひ出を語る  p137-138/212
  (元北川)小島淸子
私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、
ミツショヨンホームが
山手四十八番に開設された
最初の生徒として入學したものでした。

私たちの外に
第一回の生徒として入學した人たちには
福澤先生のお孃さん達が三人、
又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、

井上馨(後の侯爵)さんのお孃さんが二人、

木脇お園さん。
この人のことを伯爵夫人と綽名して居ました。

中尾さん、名は何と言つたか覺えて居ませんが
何でも藝者をして居たとか云ふ事でした。

苗字は忘れましたが
お米さんと云ふ三十歳位の人も居ました。

菱川お安さん、
この人は後
醫師となつた。

更木お梅さん、
更木お金さん、
おひささん
などでした。

間もなく二百十二番に移りましたが、
移つてから入學した者のうちには
毛色の變つた人たちが居ました。

跛者のナイナと云ふ子、
顔は白人のやうであつたが
どうも外の血が混つて居たやうだつた。
この子はびつこだつたので、
何でもそのびつこを癒してやるんだと言つて
ミス・クロスビーは
ナイナを寝臺に縛りつけるとか
時々悲鳴を擧げて泣いて居たのを聞いた。

支那の金持ちの子で
アネーと云ふ子も來て居た。
金持ちと云ふ事は
その母親が學校を訪問する時には
きつと馬車に乘つて來るし、
着物が大層よかつたやうに見へたから、
皆金持ちと言つて居た。

アリスとミネと云ふ姉妹も居た、
姉妹でもアリスの眼はブルーで
ミネの眼はブラツクだつたので
今でもこの兩人の事をよく覺へて居る。

おりようさん(後栗岡氏に嫁す)
加藤おまささん(後東京帝大の看護婦長となつた)
櫻井おちかさん(櫻井女塾を開いた)
井深おせきさん(井深梶之助博士の夫人)
おとりさん、
お角さん(後醫師になつた)

お貞さん、
おりやうさん
などであつた。
この二人は明治の初年
最初の女子海外留學生として米國に往つた。
上田てい子、吉松りよう子さんたちで
渡米後間もなく歸朝して共立に入つたのでした。

これらは開校當時の事で
明治四、五年頃の話ですが
それでも當時の社會に於ては
相當の身分のあ
る人たちの子供たちが入學したのです。

その頃入學者がなくて困つたと
云ふやうな話はきゝませんでした。

私の父は横濱の税關につとめて居たのですが
何でも長野縣の權參事とか
何とか云ふ役になつて轉任することになつたので、
私たち三人を連れて行つては敎育に困ると云ふ考で、
ちやうど當時開校されたばかりの
ミツシヨンホームに入れて
ピアソンやクロスビーさんに託して行つたのです。
長野に居ること僅か一、二年で
東京に轉任となつたので
私たちは共立から一つ橋の女學校に轉校しました。
之は明治六年のことでした。

晴子姉さんなどは
英語は一つ橋女學校の先生たちよりも
上手だと言ふ譯で、
先生のお手傳ひをさせられて居ました。
昭和八年八月三十日印刷
昭和八年九月 十日發行 非賣品
發行兼  横濱共立學園
編輯者  六十年史編纂委員
     横濱市中區山手町二一二番地
右代表者 宮崎小八郎
     堀内 眞澄
印刷所  横濱活版舎
     横濱市中區住吉町五丁目五十八番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《菱川篤三・菱川ヤスの父》寺子屋 青雲堂【よこはま教育時報 (32)】1956-07

【よこはま教育時報 (32)】1956-07
出版者   横浜市教育委員会事務局
出版年月日 1956-07
 横浜教育史(その三)
  寺子屋余談
   横浜市歴史編さん室
    石井光太郎
 寺子屋一覧表
名  称 青雲堂
授業課目 習字、読書、算術
期  間 万延一年~明治六年
所在地  元町
生徒数  男八七 女三八
(調査年)菱川篤三(文久三年)
 p16【よこはま教育時報 (32)】1956-07
〔画像〕p16【よこはま教育時報 (32)】1956-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/2242782/1/16
昭和三十一年七月十五日印刷
昭和三十一年七月二十日発行
編輯兼 横浜市教育委員会
発行人 高村利義
印刷所 善友印刷株式会社
    横浜市南区宮元町四ノ八三
    電話長者町九〇二七番
発行所 横浜市教育委員会事務局
    横浜市神奈川区反町二六
    電話神奈川④一四四一番一五五一番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2242782/1/20
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ドクトル 菱川ヤス【京華要誌 上】明治28年4月【新撰京都叢書 第3巻】1987.1

【京華要誌 上】明治28年4月
著者    京都市編纂部 編
出版者   京都市参事会
出版年月日 明28.4
p1【京華要誌 上】明治28年4月
〔画像〕p1【京華要誌 上】明治28年4月
 醫 師 p146-147/222
上京區室町通廣小路下ル
ドクトル 菱川ヤス
p147【京華要誌 上】明治28年4月
〔画像〕p147【京華要誌 上】明治28年4月
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【新撰京都叢書 第3巻】1987.1
著者    新撰京都叢書刊行会 編著
出版者   臨川書店
出版年月日 1987.1
京華要誌(明治28年刊) p30/249
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576254/1/30
 医 師  p86/249
上京区室町通広小路下ル
ドクトル 菱川ヤス
p86【新撰京都叢書 第3巻】1987.1
〔画像〕p86【新撰京都叢書 第3巻】1987.1
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576254/1/86
『新撰京都叢書』第三巻
昭和六十二年一月 十日印刷
昭和六十二年一月二十日発行
    定価 九、四〇〇円
編著者 新撰京都叢書刊行会
    代表 野間光辰
発行者 片岡英三
印 刷 亜細亜印刷株式会社
製 本 新生製本株式会社
発行所 株式会社 臨川書店
    京都市左京区今出川通川端東入
    電話(〇七五)721-7111
    振替 京都7-800番
    (〒606)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576254/1/246
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2014年04月21日 08:13
「明治23年~26年」
『日本女醫五十年史 年表』(草稿):昭和12年
明治24年 ?月 菱川ヤス(外國醫學校出身)醫籍登録
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菱川巳之子刀自(菱川安子の母)米壽祝賀會紀念【銕城記寿録】昭和17年

【銕城記寿録】昭和17年
著者    村居銕次郎 著
出版者   銕城記寿録刊行会
出版年月日 昭和17
 中村不折先生書
 p3【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p3【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/3
《菱川安子先生》
菱川安子先生は
横濱二百十二番女學校の出にして
其の敎授たりし人なり。
後年醫學に志し米國に修業す。
歸朝して京都に病院を開きたり。
蓋し日本最初の女醫學士であつた。
(八一頁參照) p66/218
其の父 菱川篤三先生
(八一頁參照) p66/218
其の母 菱川巳之子刀自
(一九頁參照) p35/218
 p21【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p21【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/21

大正九年 菱川巳之子刀自 米壽祝賀會紀念
(於 鶴見 總持寺)
(一四八頁參照) p108/218
僧服の大江天也師
 天也、大江卓氏は不幸の民を救はんが爲め
 出家して庵居をなし
 石川素堂禪師によつて得度したる僧服姿なり
(一五四頁參照) p111/218
大正九年帝國公道會正副會長と幹事
(一五二頁參照) p110/218
 p81【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p81【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/81
  菱川巳之子刀自米壽祝賀會 p108/218
 私が明治十一年横濱修業中に於ける
牛ソバ問題の恩人巳之子老媼が、
米壽に達したから一族寄つて、
鶴見の諸嶽山總持寺に其の祝賀會を擧げたのは
大正九年二月八日だ。
來集ま者三十有餘名で記念の撮影をした。
尚明後年は九十歳に付
改めて祝賀會の擧式することの
協議を進めて置いた處、
大正十一年、
櫻時分の陽氣をもまたず、
三月二十二日歸するが如く
逝かれたのは遺憾であつた。
其の來會者を擧ぐれば
菱川巳之子  菱川加根子  片山 關彌
牧野鉄次郎  牧野 俊子
牧野 元隆  牧野 秀雄  鈴木鐵治郎
鈴木 花子  鈴木 初枝
鈴木  博  鈴木 松代  渡邊 兵藏
渡邊  實  岩田 勝子
吉村 夏子  鳥越 富喜  鳥越 正己
磯崎八十八  村居鐵次郎
村居  錠  村居 忠江  渡邊 次郎
橋川  淸
等の諸子であつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/108
昭和十七年五月 十五日印刷
昭和十七年五月二十三日發行 非賣品
著 者 村居銕次郎
    東京市蒲田區女塚四丁目十八番地
發行者 銕城記壽錄刊行會
    堀野 良隆
    東京市芝區西久保巴町七十番地
印刷者 福井安久太
    東京市芝區西久保巴町七十番地
發行所 銕城記壽錄刊行會
    東京市芝區西久保巴町七十番地
    電話 芝(43)二二五七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/216
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通稱ケチ助の由來と菱川篤三先生【銕城記寿録】昭和17年

【銕城記寿録】昭和17年
著者    村居銕次郎 著
出版者   銕城記寿録刊行会
出版年月日 昭和17
 p2【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p2【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/2
《菱川安子先生》
菱川安子先生は
横濱二百十二番女學校の出にして
其の敎授たりし人なり。
後年醫學に志し米國に修業す。
歸朝して京都に病院を開きたり。
蓋し日本最初の女醫學士であつた。
(八一頁參照) p66/218
其の父 菱川篤三先生
(八一頁參照) p66/218
其の母 菱川巳之子刀自
(一九頁參照) p35/218
 p21【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p21【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/21
  通稱ケチ助の由來
 警視局での失敗では、
目から火の出る程おこられ、
非常に親から叱られ、
今度は懲罰修養の意味もあつてか、
横濱元街學校の先生菱川篤三氏の家に
預けられる事となつた。
 家からは米代少々送られてゐたが、
先方からは時々一錢二錢とお小使を貰つた。
處が當時私には仲々金を費はぬ性癖があり、
右のお小使は悉く溜めこんで、
人が何と言つても
めつたに使ふなどゝいふ事はなかつた。
 忽ち通稱をケチ助と呼ばれる仕儀に立到つた。

  一錢は風呂、一錢はそば
 當時はつきりと殘つた記憶の中でも
特に殘つてゐる一事がある。
 夜になつて、用がすむと、
先生の奥樣(九十歳で亡くなられた巳之子刀自)から、
サーお湯に往つておいでと
其の都度必ず金二錢也を頂いた。
其の一錢は湯錢で
他の一錢は蕎麥代(牛そば)である。
そば代一錢の付いた所に何とも言へぬ
滋味と興味を感じた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/35
昭和十七年五月 十五日印刷
昭和十七年五月二十三日發行 非賣品
著 者 村居銕次郎
    東京市蒲田區女塚四丁目十八番地
發行者 銕城記壽錄刊行會
    堀野 良隆
    東京市芝區西久保巴町七十番地
印刷者 福井安久太
    東京市芝區西久保巴町七十番地
發行所 銕城記壽錄刊行會
    東京市芝區西久保巴町七十番地
    電話 芝(43)二二五七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/216
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《菱川安子先生》日本最初の米國歸りドクトル【銕城記寿録】昭和17年

《菱川安子先生》日本最初の米國歸りドクトル
【銕城記寿録】昭和17年

広瀬院長の弘前ブログ
2023年8月6日日曜日
菱川やす 5
以前、このブログで取り上げた
“菱川やす”に関する新しい情報を、
多岐亡羊さんという方からコメントいただいた。
アメリカの女子医科大学に留学して、
女医となった菱川やすについては、
何度かブログで取り上げたことがあるが、
その背景がわからなかった。
お教えいただいた情報から少しわかったので、
報告したい。
鐵城記寿録(村居鐵次郎、昭和17年)という本の中に、
「維新後最初の女ドクトル菱川安子」という章がある。
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【銕城記寿録】昭和17年
著者    村居銕次郎 著
出版者   銕城記寿録刊行会
出版年月日 昭和17
《菱川安子先生》
菱川安子先生は
横濱二百十二番女學校の出にして
其の敎授たりし人なり。
後年醫學に志し米國に修業す。
歸朝して京都に病院を開きたり。 ※別稿に記載
蓋し日本最初の女醫學士であつた。
(八一頁參照) p66/218

其の父 菱川篤三先生 ※別稿に記載  
(八一頁參照) p66/218

(一九頁參照) p35/218
 p21【銕城記寿録】昭和17年
〔画像〕p21【銕城記寿録】昭和17年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/21
  維新後最初の《女ドクトル菱川安子》 p66-67/218
 明治の中期まで女醫なんどと云ふものは見なかつた。
然るに明治四年横濱山手の二百十二番館に、
女子共立學校なるものが出來て、
其の生徒の中、
菱川安子と云ふ可憐な女子があつた。
出身地は名古屋で、
菱川篤三と云ふ人の二女であつた。
安子さんは學業の成績至つて良く、
明治十一年に學校を卒業すると同時に、
母校の敎師となつた。
明治十四五年の頃
東京の大倉と云ふ人の所へ嫁したが、
呑兵衞で家庭的に惠まれず、
本郷の敎會等に牧師として働いた事などあり、
不幸二三年にして横濱に戻る事となつた。
明治十八年中、
芝愛宕町の慈惠醫院に、
看護婦養成問題が擡頭して、
同院の院長高木兼寛を初め、
上流夫人側では、
伊藤、山縣、大山等の奥樣連が世話役になつて、
馬力を掛けたので、
義金(六千四百七十八圓)が立所に集り、
米國から、
ミス・リード云ふ女博士を招聘したが、
博士サツパリ日本語が通じない。
そこで見出されたのが、
菱川安子さんで、
慈惠醫院へ賴まれて來たが、
其の年(明治18年)の八月であつた。
準備萬端整へて、
其の十月に開所式が擧げられ、
爾來多くの看護婦が養成される樣になつた。
日本看護婦の濫觴である。
   東京慈恵会と慈恵高等看護学院 p397-398/453
  明治十七年十月
  アメリカ人リード女史を招へいし
  看護婦の教育にあたらせ、
  看護婦教育所取締りに任じた
  (明治二十年帰米)

 通詞になつた安子さんは、
開所と共に慈惠醫院に在勤一年許りした時、
石川縣金澤の醫學校へ、
ミセス・ボートルと云ふ醫學博士が
敎師として招聘されて來た。
  明治19年(1886)11月  p44/109
  米人ミス・ボートルが広坂通に
  英和幼稚園を創設した。

  明治十三年米人ウヰンが金澤南町に創めたる
  私立愛眞學校ありしが、 p383/788
  明治十六年米人ポーテルの來るに及び、
  二人協力して廣坂通に私立北陸英和學校を設立せり。

矢張りリードさんと同樣、
日本語が少しも出來ない所から、
又も安子さんが通譯として招かれ、
赴任して一年許り、
其の博士に日本語を敎へ、
同時に安子さんは、
其の博士に醫學を習つた。
其の結果ボートル博士及びリード博士から、
亞米利加行を勸められ、
遂に決心して、
明治二十年の歳
兩者の推薦狀を持つて、
シカゴ市の醫學專門校へ留學し、
西暦千八百八十九(明治二十二年)
ドクトル・オブ・メジチーネの學位を得、
更に請はれて一年を看護婦校に學んで、
歸朝した。
時に明治二十三年十月の事である。
當時の寫眞及び卒業
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/66
證書が殘されてゐる。
歸朝後名古屋・京都を物色し
それぞれ準備をして、
病院開始を計劃し、
經濟上にも可成りの苦心をしたのである。

 幸に準備が成つたので、
位置を京都と定め、
明治廿四年の半に、
上京區新町通り上立賣に病院を開き、
多くの人を置いた。
拜外主義一點張りの當時としては
獨特の女醫として、
新歸朝の新式治療として盛況を見、
四十有餘の室で足らない位の患者があつて、
附近の病院から羨まれる程であつたが、
天、女醫に惠み薄きと、
元來蒲柳の性質とに禍ひされ
四年程の歳月を消費して、
停院の止むを得ざるに至つた。
是非なく、
明治二十九年に横濱に戻り、
父母の許で靜養に努めた。
而も只單に籠居するのも、
健康上如何と、
攝養旁々明治三十二年の中頃、
山手一般病院に行つて手傳つてゐたが
圖らず卒倒したので、
母校でも非常に心配し、
學園の校長室に引取り、
優遇靜養に努める事年餘、
不幸にも、
明治三十三年八月十日
享年四十一歳で、
敢なく世を去つた。
明治十六年迄女醫なく、
明治十七年頃届出での舊式女醫は
二三人あつたが言ふに足らず、
我が國明治維新後始めて此の人を見た。
蓋し日本最初の米國歸りドクトルである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/67
昭和十七年五月 十五日印刷
昭和十七年五月二十三日發行 非賣品
著 者 村居銕次郎
    東京市蒲田區女塚四丁目十八番地
發行者 銕城記壽錄刊行會
    堀野 良隆
    東京市芝區西久保巴町七十番地
印刷者 福井安久太
    東京市芝區西久保巴町七十番地
發行所 銕城記壽錄刊行會
    東京市芝區西久保巴町七十番地
    電話 芝(43)二二五七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/216
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年08月08日 08:52
<出身學校別女醫數>外國醫學校出身 約20名
〔外國醫學校出身〕約20名の内、大正11年迄。
[日本女医会雑誌]第80号・昭和12年8月30日発行
 日本女醫五十年史之内
 先輩女醫名簿(草稿)
 (初代ヨリ女子醫專指定以前)
  多川 澄 調
01《岡見 京(舊 西田)005》p1
  東京
  ペンシルヴニア女醫學校
  明治二十二年 登録
02《菱川ヤス019》p1
  神奈川
  外國醫學校
  明治二十四年 登録
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