小野梓先生七十周年記念祭:昭和30年11月

[小野梓先生七十年記念祭 演劇]《小野梓》野澤英一 作

[小野梓先生七十年記念祭 演劇]《小野梓》野澤英一 作

四幕 及 エピローグ
昭和三十年十一月十八日(金)二時 五時
於  大隈講堂
主催 早稲田大學

<この人を見よ>
およそ早稲田人で小野梓の名を知らぬものはあるまい。
今から七十三年前の明治十五年の秋、
大隈侯を助けてわが學園の創立に與った第一人者が
實に小野梓その人だからだ。
建學の基本として先生が堅持したのは
學問の獨立、研究の自由であった。
これこそ傳統的精神として早稲田大學の生命をなすものである。
意志は剛健でも先生の身は病弱であった。
學校の經營、講義、著述、さらに政治的活動に、
わが身を顧みなかった先生は
三十五歳の若さで血を吐いて倒れた。
それから歳月は無心に流れて七十年、
先生の蒔いた種子は年毎に成長して
今や天に冲する巨木になった。
大學創業の恩人として先生を偲び、
學園の傳統として築かれた不滅の精神をさらに深く學び取らう・・・。
小野先生七十年記念行事が企てられたのもこの理由からで、
その一コマとして劇《小野梓》が
校友及び學生諸君の手によって上演される。


《小野梓》 四幕 及 エピローグ
第一幕 夜明け
  第一場 土佐國幡多郡宿毛村 小野梓生家
      ―明治二年十一月中旬―
  第二場 支那太平洋汽船客船「バンクーバー號」
      ―明治七年五月―
第二幕 立憲改進黨
      墨田川畔淺草 橋場村 小野梓邸
      ―明治十四年十月―
第三幕 東京専門學校
      早稲田東京専門學校普請場
      ―明治十五年八月―
第四幕 東洋館
      神田小川町 東洋館書店
      ―明治十六年九月―
エピローグ
    早稲田大學大隈會館内庭園
      ―昭和三十年十一月―

スタッフ
製 作   河竹繁俊
作     野澤英一
演 出   加藤長治
装 置   遠山静雄
照 明   小川 昇
舞臺監督  稲垣 勝
出 演   加藤精一
      近代劇場
      早大藝術科學生

配  役
小野 梓  原 孝之
兄 稠松  根岸定生
馬場辰猪  根本 茂
高田早苗  八代青樹
岡山兼吉  寺田彦右
小川為次郎 田中 香
大隈重信  加藤精一
天野為之  法尢堯次
砂川雄俊  田村 洋
金子堅太郎 林 正
山田一郎  青木亮一郎
山田喜之助 矢部 恒
市島謙吉  椿 恭造
生田二郎  青木克博
坪内雄藏  小谷 清
坂本嘉治馬 岸啓次郎
左官 佐平 根本 茂
   留吉 奈良 和
   源造 坂田光夫
  吉五郎 有馬裕人
大隈邸書生 萩原 光

東洋館店員原田  東 一壽
客(書籍小賣商) 法尢 堯次
東京専門學校入校志願者
       A 時枝國文
       B 山内康治
       C 濱ノ上猛
       D 又吉康廣
早大生沼田耕治  田中 香
早大生高村良太郎 林 万夫

梓の母 助野       園田昌子
  妹 廉子       村山喜三子
立田利遠子(後に梓の妻) 美柳光子
小野安子(梓の娘)    淺川裕子
小野家女中        山田佐智子
早大生河上元子      古川咲子

≪梗概≫
土佐藩の輕格の家に生れた小野梓は、
十八歳のとき勉學のため上京したが、
藩の學校に入らず昌平校の學んだため、
藩のきらうところになり郷里に呼びかえされた。
梓にしてみれば、一國一藩のことしか考えぬ
藩の人達の固陋さが我慢がならなかった。
そこで梓は自由な勉學の出來るよう、
武士を捨てて平民になる決意を固め、
その旨を家老まで届け出た。
母の助野、兄の稠松、妹の廉子らは
梓の氣持を十分に理解してくれた。
また梓の許婚者の利遠子も賛成してくれる。
梓は洋行して世界の生きた學問を研究しようという決心である。

明治七年、小野梓は親友の馬場辰猪とともに英國留學から歸國した。
その船上で二人は若々しい理想に燃え、新日本の建設の抱負を語りあう。
折から、洋上に日の出を望んで二人は日本の夜明けを思う。

明治十四年十月、小野梓は參議大隈重信の引きたてによって
會計検査員になっていたが、
大隈が薩長の藩閥政府と意見があわず、
野に下るときいて、自ら辭表を提出した。
その歸途大隈邸を訪ね、
大隈の下で新政黨立憲改進黨を組織する決意を固めた。

墨田川にのぞむ小野梓邸では、娘の安子を圍んで、
高田早苗、岡山兼吉らが陽氣に談笑していたが、
歸宅した梓の決意を聞いて欣然これに参加することになった。

小野梓にはもう一つ大きな仕事があった。
それは大隈の下で私立專門學校を設立することである。
梓がかねがね抱いていた學問の自由と獨立とを確立し、
政府權力に縛られない人物養成の機關としての學校の設立について、
大隈と全く意見が一致したのである。

この學校には高田早苗らが積極的に協力することになった。
彼等が勇躍して座を辭したあと、
自由黨の馬場辰猪が訪れ、入黨を勸めた。
しかし小野は斷乎これを斷り、
またも二人の間に政治のあり方について激論がたたかわされた。

この頃から小野は次第に病勢が進んでいた。
激しく咳込む小野の姿をみて、
利遠子や娘の安子の心は痛む。
しかし小野は國家のため、
學校のため自分の身をいとってはいられなかった。

明治十五年、東京專門學校の普請は急テムポで進んだ。

折から、ここを見廻りにきた大隈と小野は
氣輕く職人達の仲間に入り
學校の抱負や心境を語る。
高田、岡山、市島、山田らも校舎の竣工を待ちかねてやってきた。
ここでもまた學校に對する政府の干渉が話題となって
その固陋ぶりが大笑いになった。

ところへ、
金子堅太郎が訪れた。
金子は伊藤博文の内意をうけて
小野に駐米特命全權公使の依頼に來たのである。
小野は「ロッキー山の雪見は眞平だ」と笑うのであった。

明治十六年、
小野梓は神田小川町に東洋館という書店をひらいた。
その目的は西洋の知識を廣く紹介したいためで、
この點普通の書籍商とは異なっていた。

一方小野の著わした『国憲汎論』は、
政敵である伊藤參議さえも感心させたものだったが、
これに感激した若人は小野を慕って入校志願者も多く
今日も小野に激勵されて歸ってゆく。

ここへ、坪内雄藏が高田にともなわれて訪れた。
坪内は專門學校の講師を豫定されていたが、
シェークスピヤの最初の翻譯『該撤奇談(シーザルきだん)』が
この東洋館から出版されることになり、
その相談に來たのだった。

二人が歸ったあと、
安子が馬場から贈られた「天賦人權論」を携え、
馬場が日本を捨てて國外に去る話をもたらした。
馬場の心境を思って小野は深い感慨にひたる。

この東洋館の繁榮を祝しに大隈が訪れ、
小野との間に條約改正問題が論じられる。

小野はすでに條約改正論を草し、
出版許可を内務省に申請していた。
ところが、その出版が不許可になったという報せが來た。
小野は興奮して學校に行き、
直接自分の主張を學生に訴えようといきまく時、
喀血して倒れる。

小野梓歿して七十年、
大隈會館庭園内にある胸像の前で、
三人の早大生が語りあう。
學校のため、學問のため、學問の獨立のため
自身を犠牲にした小野先生の意氣と精神を
われわれはもっと體得しなければならない、
現代には特にこの小野精神が必要なのだ。
そう三人が決意を新たにする時、
時計台では自由の鐘が高らかに鳴り響く。
1[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
2[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
3[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
小野梓(原 孝之) 小野安子 小野又一
4[小野梓先生七十年記念祭 演劇]
「蘆原生」は小野梓の筆号
[明治前期演劇論史]松本伸子 著
演劇出版社
坪内逍遥の『該撤(シーサル)奇談』が登場するのだが、
東洋館発行のこの翻訳書については読売新聞、
明治十七年(1884)六月六日付で蘆原生(藤田鳴鶴)が
「日本始めて訳書あり」という一文で絶賛している。
―略―
これは、「蘆原生」が小野梓の筆号であることの確証といえるであろう。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2216898.html

※ ただお嬢さんの安子さんの年齢を
  大きくしたような潤色はありましたが、

《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240147.html

本年は小野先生逝去七十年にあたるので、
學園においては十一月十七、八、九の三日間
盛大な記念祭をおこなった。
以下はその概況である。
―略―
なお、演劇終了後、加藤長治氏は以下のような感想を語った。
「人格識見ともにすぐれた學園創設の大恩人である小野先生を、
大學の立場で劇化するのはむずかしいことだとまず感じました。
―略―
野澤君が資料を刻明に調べ、
小野先生の全貌を一應本筋にあやまりなく書いてくれました。

ただお嬢さんの安子さんの年齢を大きくしたような潤色はありましたが、
これはむしろ作者の手柄といっていい位でしょう。
演出に當っては大隈老候を背景に東洋先生という先覺者の性格、
正しい姿を見失わないように心がけました。・・・」
―略―
(落合 記)

[麒麟兒=小野梓:獅子兒=馬場辰猪]
【維新から今日までの青年学生史】大正7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659878.html

[明治十四年の政變]
【維新から今日までの青年学生史】大正7年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2659879.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[東洋 小野梓先生七十年記念祭]昭和三十年十一月:早稲田大學

[東洋 小野梓先生七十年記念祭]昭和三十年十一月:早稲田大學

『小野梓先生七十年記念祭式典』
日時 十一月十八日(金)午前九時三十分
場所 本大學共通教室講堂
式典次第
一 總長式辭
二 遺族挨拶
三 記念講演
  衆議院議員 林 譲治氏
  文部大臣  松村謙三氏
四 映畫 「早稲田大學」

《記念祭を行うにあたり》
總長 大濱信泉
小野梓先生の名を始めて聞く學生諸君も多い事であろう。
しかし、その名を聞いた以上は、
どうかわが學園の恩人として記憶していただきたい。
なぜなら、小野先生こそ大隈侯の右腕としてわが學園の創立に當り、
學園の魂ともいうべき
「學問の獨立、研究の自由」を吹き込み、
遂に學園の人柱として壮年三十五歳
血を吐いて倒れられた方である。
先生逝かれていまや七十年になる。
回顧すると明治十年代、今から七、八十年前の日本は
明治維新の後を受けて謂ゆる疾風怒濤の時代であった。
封建制度は崩れ去ったが、
思想は混沌として新制度は確立しない。
先生は年少にして欧米に渡り、
獨自の眼光をもって
各國の法制、教育、財政の制度を審さに比較研究したが、
その結論として得た確信は、
學問の獨立によらねば獨立の精神は興らず、
獨立の精神がなければ國の獨立は達成せられない、
ということであった。
この確信に基いて先生の活動範圍は幅廣く
政界に、學界に、言論出版界に亘った。
が、當時大學生であった高田早苗など
七名の同志を率いて大隈侯を助け、
若々しい青年の協力をもって
わが學園の創業を完うしたことは、
われわれ早稲田人が常に感恩の情をもって
先生を偲ばざるを得ないところである。
先生が建學の精神として強調されたのは、
學問の獨立、研究の自由であるが、
それはわが早稲田大學の傳統的精神として傳えられ、
集まり散ずる數多くの學生の間に
知らず識らず深い感化を與えている。
人呼んで小野先生を早稲田の「守本尊」といったが、よい表現である。
先生の七十年記念式典を擧げ、
先生にちなむ諸行事を行うに當って、
われわれの願いは先生の精神が
わが學園において一層旺盛に溢れんことである。

『祭典行事一覧』
十一月十七日(木) 午前十一時
  小野梓先生之墓所參拜
十一月十八日(金) 午前九時
  小野梓胸像禮拜
  記念祭式典
    於 共通教室講堂
十一月十八~二十日 午前九時~午後五時
  小野梓先生回顧展
    於 圖書館
十一月十八日(金) 午後二時~四時 午後五時~七時
  劇 〔小野梓〕
    於 大隈講堂

『東洋 小野梓先生 ―略傳―』
早稲田大學創立の恩人
小野梓先生は、嘉永五年二月土佐の宿毛(高知縣)に生れた。
―略―
さらに同年(明治15年)、先生が、
わが東京專門學校の創立に當り、
文字通り一世を風靡したその博識と雄辯をもって、
よく大隈を扶け、私學早稲田の基を築いたのは、
實に先生三十一歳の秋であった。
―略―
しかし天は遂に齢を藉さず、
先生待望の國會開設を見ることなくして、
明治十九年一月十一日、遽かに卒した。
享年三十五歳であった。
1『小野梓先生七十年記念祭式典』
2『小野梓先生七十年記念祭式典』
3『小野梓先生七十年記念祭式典』
4『小野梓先生七十年記念祭式典』

《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号

《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号

本年は小野先生逝去七十年にあたるので、
學園においては十一月十七、八、九の三日間盛大な記念祭をおこなった。
以下はその概況である。

小野梓先生の記念祭の準備なった十一月十六日夜、
今回の祭典にまねかれた先生の次女にあたる安子女史と、
女史の嗣子又一氏が京都より上京、
丹尾理事が東京驛に迎え宿舎にあてられた校友會館に案内した。

翌十六(※十七)日より祭典の行事がくりひろげられた。
この日午前十一時、學園當局を代表する各理事、部課長、遺族、
梓先生とゆかりの深い冨山房の代表者、
さらに學生を代表する雄辯會會員など
約三十名が、六臺の自動車をつらね梓先生が眠る谷中の墓地へ向った。
墓地は静寂そのものである。
雲のあいまからうす日が差し、
石碑や墓標や立木が淡いかげをつくって佇立するなかを一行は進んでいった。
おもいだすように街の喧噪が、この静かな空氣をふるわしている。
やがて一行は先生の墓の前にたった。
墓碑に刻まれている「東洋小野梓墓」の號と名前は
よくされた先生の直筆であるという。
香の紫の煙が石碑をつたってゆらゆらと立ちのぼる。
敬虔な祈りを捧げ、凝然と立つ人びとの脳裡に去来したものは
一體何んであったろうか。
暫時ののち記念寫眞をとり、一行が歸校したのは十二時過ぎであった。

十八日、九時半から始まる記念祭式典に先立ち、
大隈庭園で梓先生の胸像禮拝式がおこなわれた。
大隈講堂を背にし、立木に囲まれた胸像の両側には花輪がかざられ、
禮拝者は早朝から庭園につめかけた。

禮拝式がおわるころ、式場にあてられた共通教室の講堂は
教職員、學生でもう立錐の餘地さえなかった。

やがて安子女史、又一氏、學園各理事、林譲治氏らが中央に祭壇をしつらえ
梓先生の肖像をかざった檀上の席につき、ただちに式典に入った。
式は大塚庶務部長の開式の辭にひきつづき同氏の司會で、
全員起立の上、梓先生の業績に對して感謝の禮拝がおこなわれ、
次ぎに總長式辭に移ったが、總長の歸朝がおくれたため阿部常任理事が代理で
「學園にとっては大恩人である梓先生、先生も月日とともに忘れられていくが、
大學としてはことごとに先生を想い起し、みずからを鞭打たねばならない」と語り、
つぎに小野安子女史が
「このたびは思いがけないみなさまのおぼしめしによって、
このように盛んな祭典が催され、地下の靈はもちろんのことでありましょうが、
遺族のよろこびはこの上なく、お禮の申しようもありません」
とくりかえし感謝の言葉を述べた。

ついで衆議院議員林譲治氏と文部大臣松村謙三氏の記念講演に移り、
林氏は
「梓先生とは郷里が同じであるばかりではなく、多少緣がある。
先生の幼少の頃、若き日の俤」
を話してみたいと冒頭に述べ、さまざまなエピソードを話した。

松村氏は氏が大隈老候づきの記者であったころの思い出を淡々と語り、
話は老候と梓先生の關係また老候と梓先生の遺族の關係などに及んだ。

ついで校歌を齋唱し十二時十五分前式を閉じた。

正午から尾崎士郎原作の映畫「早稲田大學」が上演され、
人びとは畫面を通じてありし日の梓先生を偲んだ。

當日はまた演劇「小野梓」が二時より二回上演され多大な感銘を與えた。
劇の梗概については先月號の本誌に紹介しているので、
ここではスタッフを記するに止める。
製 作  河竹繁俊
作    野澤英一
演 出  加藤長治
装 置  遠山静雄
照 明  小川昇
舞臺監督 稲垣勝
出 演  加藤精一
     近代劇場
     早大藝術科學生
―略―
(落合 記) p21-23

[早稲田學報]昭和30年12月号
1《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
3《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
谷中墓地 小野安子 小野又一
4《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
小野梓胸像前 前列右から四人目 林譲治衆議院議員
5《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
大隈重信銅像前 中央 松村謙三文部大臣
6《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
總長代理 阿部常任理事
7《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
小野安子(小野梓 次女)
8《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
松村謙三文部大臣
9《小野梓先生七十周年:記念祭 記》

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