斉藤一寛 早稲田大学名誉教授

《斉藤一寛》小野梓先生の故郷を訪ねて(昭和42年8月)【早稲田大学史記要】1969-03

【早稲田大学史記要 = 
Transactions of Waseda University Archives 2(3)】
出版者   早稲田大学大学史資料センター
出版年月日 1969-03
【早稲田大学史記要】1969-03

 p1【早稲田大学史記要】1969-03
p1【早稲田大学史記要】1969-03
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945147/1/1
 小野梓先生の故郷を訪ねて p12-16/77
        斉藤一寛
小野梓先生の人物、識見、  p15/77
早稲田大学の前身
東京専門学校創立者としての功績については、
多くの人々によって語り尽されているので、
ここに語る要はない。
ただ先生のご遺族のその後のことについては、
あまり知られていないので、
私は私の知った限りのことを書いて紙面を埋めたいと思う。

小野梓先生の妻となられた[利遠(りえ)子]
(以下敬称を省かせていただく)は
先生との間に二男三女をもうけたが、
二男、一女は早逝し、
次女[すみ]、三女[安]が成人した。
谷中の墓地にある童子二基、童女一基の墓は、
長男[義男]、※明治9年(1876)5月20日歿(0才)
長女[とち] ※明治11年(1878)3月1日歿(1才)
(谷中霊園事務所の墓地台帳には「登ち」とある)
二男[鉄麿] ※明治15年(1882)6月6日歿(1才)
のものである。

先生他界の後[利遠子]は坂本鼎の後妻となって
小春、リンの二児をもうけたが、
リンは早逝した。
※大正10年(1921)11月22日歿(30才)
そして[利遠子]は、
坂本鼎よりも先きに
大正二年(1913)十一月十五日鬼籍に入った。
その墓は宿毛の城山墓地の最南端にあって、
墓石には、正面に
利順院妙遠日経大姉、
側面に
大正二年十一月十五日歿、
妻利遠子、
享年六十一才と刻まれている。

「妻」とあるのは、
昭和十二年(1937)秋に
坂本善次郎が坂本鼎の墓を建てた時、
※坂本鼎:昭和3年(1928)5月14日(80才)
同じ墓石にその戒名を刻したからである。
菩提寺は宿毛の日蓮宗妙栄寺である。

二女[すみ]は他家に嫁し、
そこでもうけた子、[又一]が、
三女[安]の養子となった。
というのは三女の[安]は終生嫁せず、
女医となっていた事情からである。
その[安]は数年前他界したが、
※昭和41年(1966)4月1日歿(83才)
従って小野梓先生の家系は
この[又一]が継いだことになる。

小野又一は、※昭和47年(1972)1月31日歿(56才)
今は京都市伏見区深草正覚町九に住んでおられる。
※小野又一の長男:小野一雄(京丹波町在住)
      二男:小野雄二(京都市右京区在住)
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945147/1/15
(昭和四十三年十二月記)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945147/1/16
昭和四四年三月三一日 発行
頒布価格 三五〇円
発行者 早稲田大学・大学史編集所
    濱田健三
印刷者 株式会社早稲田大学印刷所
    葛城照三
発行所 東京都新宿区戸塚町一ノ六四七
    早稲田大学内 大学史編集所
    〒一六〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/7945147/1/76
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年02月13日07:00
《鈴江言一》母方の従兄(いとこ)
松村仙造の妻すみ子(小野梓の娘)
【教養学科紀要 (7)】昭和50年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年10月08日06:27
《大隈侯の思い出:小野安》
[巨人の面影]丹尾磯之助/大隈重信生誕百二十五年記念

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年06月17日05:30
《東洋ミネチュアベアリング(株)》
【日本機械工業名鑑. 1959年版】昭和34年
昭和34年(1959)
小野一雄
稲荷小学校卒業  3月
深草中学校入学  4月
小野雄二
稲荷小学校四年生 4月
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《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》ネット資料

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》ネット資料

[財団法人 山人会]
―会員の横顔―
1978年(昭和53)山人会報41号より
斎藤 一寛
胆石の摘出手術から退院して約20日、
順調な回復の日々を送っている。
77歳にして、ますます気力充実。
57年10月、早稲田大学は創立百周年を迎えるが、
その記念事業の一環として、
同大学生みの母といわれる小野梓の全集出版を提唱し、
自ら編さんに取り組んでいる。
八ヶ岳山ろく大泉村生れ、
零歳で両親とともに北海道は旭川へ、
日露戦争後に南樺太へと渡った。
大正9年上京して早稲田大学へ進学し、
前田晁氏や中村星湖氏らとの出会いとなる。
「私はいわば"多国籍住民"でして実は山梨はそう知らない」という。
しかし、山人会には創立後、
2回目の会合から出席したというから最長老である。
「山人会も戦後随分変わった。
会員が増えて゛家庭的゛な雰囲気から社会的になったが、
原点の良さは忘れず受け継いでいってほしい」としみじみ言う。
山人会を大事にする気持が伺える。
仏文学者で早稲田大学名誉教授、
48年に勲三等瑞宝章受章、
現在は昭和女子大で週3回の講義をしている。
著書に「坪内逍遥と比較文学」「フランス演劇発達史」など。(桂田記)
http://www1.odn.ne.jp/sanjinkai/syoukai/yokogao/yokogao47.html

[斎藤一寛](さいとう かずひろ)
明治33年(1900)年7月25日―昭和53年(1978)年4月16日)
フランス文学者、早稲田大学名誉教授。
山梨県生まれ。
昭和  2年:1927年早大仏文科卒、日本女子高等学院教諭。
昭和  4年:1929年早大出版部入社、
昭和  5年:1930年退社し著述に専念、
昭和  9年:1934年日本電報通信社入社、
昭和22年:1947年第二早稲田高等学院講師、
昭和24年:1949年早大講師、
昭和25年:1950年教育学部教授、
昭和31年:1956年から昭和32年:1957年までパリ留学、
昭和35年:1960年から昭和37年:1962年まで教育学部長、
昭和41年:1966年から昭和43年:1968年まで早大理事、
昭和46年:1971年早大を定年退任、名誉教授。
フランス演劇を専攻し、晩年は比較文学にも手を染めた。
「著書」
佛蘭西語發音五時間 大学書林 1930
フランス語会話 大学書林、1932
フランス語動詞変化表 大学書林、1934
フランス語基礎1500語 大学書林、1948
フランス基礎単語2000 第三書房、1949
フランス思想劇の成立 早稲田大学出版部 1954
フランス語24講 第三書房、1957
舞台の鬼アントワーヌ-フランス自由劇場の歩み 早稲田大学出版部、1964
坪内逍遙と比較文学 二見書房 1973.11
小野梓の人と思想 校倉書房 1973
フランス演劇発達史 カルチャー出版社 1976.9
「翻訳」
居酒屋 エミール・ゾラ 春陽堂、1932-1933
永遠の処女 シャトーブリアン 進行社、1946
もの言ふかしの木 ジョルジュ・サンド 愛育社、1949
捨子フランスワ サンド 大学書林、1949
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80%E5%AF%9B

[創部90周年記念 早稲田大学競走部年譜]
※ 斉藤一寛(昭和36年~44年)
競走部歴代部長
山本忠興(大正12年~19年)
野村平爾(昭和21年~25年)
末高 信(昭和26年~32年)
中村佐一(昭和33年~35年)
斉藤一寛(昭和36年~44年)
織田幹雄(昭和45年~48年)
竹内常行(昭和49年~52年)
木村時夫(昭和53年~平成2年)
榎本隆司(平成2年~10年)
濱口晴彦(平成10年~16年)
野嶋栄一郎(平成16年~ )
http://www.waseda-ac.org/history/rekidaibucho.html

斉藤一寛教授・書簡:昭和47年7月13日(木)

斉藤一寛教授・書簡:昭和47年7月13日(木)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

小野文子様
斉藤一寛
謹啓
いよいよ御健勝の御事と推察申上げます
今秋、早稲田大学創立九十年を迎えるに当り、
寸暇を得て小野梓について、若干の記憶を喚び起こすために
次のことについて?しく調べてみました
(1) 梓の言う「学問の独立」の意味
    (「早稲田学報・四六年一〇号」)
(2)著書「国憲汎論」の上表文却下の経緯(「早稲田大学史記要第五号」)
(3)早稲田大学と小野義真との関係(同右、別冊)
(4)東京在住地の確認(同右)
(5)小野家の略系図
以上はすでに発表しましたので、
御高覧を得た方もあると思いますが、
今回(2)の抜刷が出来ましたのでお届けいたします
なお、不備の点など御教示頂ければ幸甚に存じます
敬具
七月十三日
小野文子様
斉藤一寛
※ 昭和47年(1972)7月13日(木)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和47年
[小野梓著『国憲汎論』の上表白文について
斉藤一寛
早稲田大学史記要 第五巻 抜刷
四 『上国憲汎論表』について p158-159
筆者は昭和四十六年五月上旬、
宿毛時代の小野梓の生活や小野家の家系などを確かめるために、
彼の故郷宿毛を訪れた。
予定は十日間、折りからの霖雨で行動は拘束され、
小野梓の遺族の方々、土地の古老、遺跡、
墓地などを廻るだけで相当の時間を費した。
幸い宿毛市役所、市教育委員会、公民館、
特に菩提寺清宝寺を守る住職清家省三氏の御尽力により、
遺族および関係者の方々が、
一堂に集会して資料を照合したり、記憶を喚起したり、
古文書の被見、その複写など、作業は徐々に進展した。
梓の生れた宿毛の自然である背景もまた見逃してはならなかった。
「預言者は故郷に入れられない。」
と言われているが梓の場合はそうではなかった。
梓を敬慕する人々の助力によって
辛うじて初期の目標はほぼ達せられた。
五月六日の午後、
清宝寺の庫裡を訪れた際、
清家氏と談たまたま梓の『国憲汎論』に及んだ。
清家氏は別棟の建物から一巻の軸を持って来た。
それは梓の「手写」になる
「上国憲汎論表」を表装したものであった。
天地約一五〇センチメートル、
巾約七〇センチメートルの
古色蒼然とはしているが損傷のない一軸であった。
軸を掲げて清家氏と共その一字一字を拾うようにして読み下した。
それには楷書で次のように書かれていた。
―略―
※ 昭和46年(1971)5月6日(木)
2斉藤一寛教授・書簡:昭和47年

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日(土)

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日(土)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

612
京都市伏見区深草正覚町九
小野又一様
折りまげないで下さい

〒167
東京都杉並区南荻窪二丁目26-16
斉藤一寛
電話(三三四)○六四七
前略
なかなか、すっきりしない天気です。
御健勝の御事と存じます。
先般 詩仙堂にお伴した時の写真 やっと、出来ました。
とても御笑覧願えるほどの出来ではないのですが、
写真屋が本職でないのでお許し下さい。
その時の思い出としてお送りいたします。
何卒御笑納願います。
では要用のみで失礼します。
七月二十四日  斉藤一寛
小野又一様
追伸 奥様、御令息にもよろしくお伝え下さい。
昭和46年(1971)7月24日(土)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
2斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
3斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
4斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
5斉藤一寛教授・書簡:昭和46年7月24日
詩仙堂  小野又一 小野雄二
 

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月11日(火)

斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月11日(火)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

612
京都市伏見区深草正覚町九
小野又一様

〒167
東京都杉並区南荻窪二丁目26-16
斉藤一寛
電話(三三四)○六四七

前略
先日、小野梓の事項を調査に四国を巡り、
京都に立ち寄った際は、旅行中のことで、
電話をかける??もなく、
そのまま京都に直行し、
お宅を訪ねる結果となり大変失礼いたしました。

ヤスのことについて、多くの知識を得、
かつ「民法之骨」の原稿
その他を実見し、
感銘著しいものがありました。

小生の不時の訪問で、
小野さんのスケジュールを乱したこととなり、
その点、同じ仕事をしている者として、
突然の訪問がいかに迷惑かは知っておりましたが、
何卒お許し願います。

翌日の日曜は、
御迷惑をおかけしないで済むと思っての行動でしたが、
その日曜を、
すっかり小生のためにつぶしてしまった結果になり、
本当に恐縮しています。

なお、一番有り難かったことは車を出して頂いたことでした。
厚く御礼申上げます。

これから、宿毛―京都間の調査事項を整理するわけです。
「大学史編集所」とも連絡して、
また、お願いする件が出ましたら、
よろしく、御助力のほどお願いします。

帰京の翌日は一日寝ていまして。

今日から又 仕事に入ります。
取りあえずお礼まで申上げます。

末筆ながら奥様、
車の運転して下さった雄二さんに
よろしくお伝え願います。

これを機縁に今後とも、
私的にもよろしく御指導下さるよう
お願いします。
とり敢えず御礼まで・・

五月十一日      斉藤一寛
小野又一様

※ 突然の訪問が・・・。昭和46年(1971)5月8日(土)
※ 翌日の日曜は・・・。昭和46年(1971)5月9日(日)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
2斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
3斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
4斉藤一寛教授・書簡:昭和46年5月
[小野梓著『国憲汎論』の上表白文について
斉藤一寛
早稲田大学史記要 第五巻 抜刷

四 『上国憲汎論表』について p158-159
筆者は昭和四十六年五月上旬、
宿毛時代の小野梓の生活や小野家の家系などを確かめるために、
彼の故郷宿毛を訪れた。

予定は十日間、折りからの霖雨で行動は拘束され、
小野梓の遺族の方々、土地の古老、遺跡、
墓地などを廻るだけで相当の時間を費した。

幸い宿毛市役所、市教育委員会、公民館、
特に菩提寺清宝寺を守る住職清家省三氏の御尽力により、
遺族および関係者の方々が、
一堂に集会して資料を照合したり、記憶を喚起したり、
古文書の被見、その複写など、作業は徐々に進展した。

梓の生れた宿毛の自然である背景もまた見逃してはならなかった。

「預言者は故郷に入れられない。」
と言われているが梓の場合はそうではなかった。

梓を敬慕する人々の助力によって
辛うじて初期の目標はほぼ達せられた。

五月六日の午後、
清宝寺の庫裡を訪れた際、清家氏と談たまたま梓の『国憲汎論』に及んだ。
清家氏は別棟の建物から一巻の軸を持って来た。

それは梓の「手写」になる
「上国憲汎論表」を表装したものであった。

天地約一五〇センチメートル、
巾約七〇センチメートルの
古色蒼然とはしているが損傷のない一軸であった。

軸を掲げて清家氏と共その一字一字を拾うようにして読み下した。
それには楷書で次のように書かれていた。
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2240152.html
※ 昭和46年(1971)5月6日(木)
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