小野梓87回忌法要:昭和47年10月

”早稲田の母“小野梓の生家は高知県宿毛市にあり【紺碧の空なほ青く:近代日本の早稲田人550人】昭和52年(1977)

【紺碧の空なほ青く:近代日本の早稲田人550人】昭和52年
著者    早稲田学生新聞会 編
出版者   早稲田大学出版部
出版年月日 1977.11
▲小野梓 生家
▲小野梓が使用した井戸
▲小野梓 記念碑
「一国の独立は国民の独立に基いし、
 国民の独立は其の精神の独立に根ざす。
 而して国民精神の独立は、
 実に学問の独立に因る」
”早稲田の母“小野梓の生家は高知県宿毛市にあり、
その碑は清宝寺に建っている。
「早稲田の学生さん1人も来てくれないんで、
 小野さん泣くゥ思うヮ」
と熱烈に彼を慕う
清宝寺のおばさんの言葉は私達を恐縮させた。
p162【紺碧の空なほ青く】1977
〔画像〕p162【紺碧の空なほ青く】1977
https://dl.ndl.go.jp/pid/12192937/1/162
紺碧の空 なほ青く(近代日本の早稲田人550人)
昭和52年11月1日発行
編集・早稲田学生新聞会
発売所・早稲田大学出版部
    東京都新宿区戸塚町一ノ一〇三
    電話〇三(二〇三)一五五一
    振替東京三ノ一一二三
印刷・早稲田大学印刷所、凸版印刷(株)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12192937/1/262
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月09日09:32
小野梓87回忌法要
建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
清宝寺
高知県宿毛市中央1-1-24

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年05月11日09:37
村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛
《村井資長 早稲田大学 第10代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《斉藤一寛 早稲田大学 名誉教授》
[早稲田学報]1972年12月号
小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛

村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛

《村井資長 早稲田大学 第10代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《斉藤一寛 早稲田大学 名誉教授》

[早稲田学報]1972年12月号

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
―略―
二 建墓・除幕式 p27-28
―略―
昭和四十七年十月七日 清宝寺 釋省三
この墓地は緩やかであるが斜面になっていて、
多数の人々が一箇所に集まることが出来ないので、
総長の辞の後、焼香を終えた人人はさんさんごご
再び清宝寺の本堂に帰った。
それは精進落を本堂で行うことになっていたからである。
ほぼ三時過ぎ本堂に於ける精進落が始まった。
その前に総長はじめ大学側、親族の方々との相互紹介が行われた。
この時は法要の時と違って、気分が和らいだためか、
親族の方々にとっては
梓が故郷に帰って来たと思っているように窺われた。
施主早稲田大学は、釋省三師の表白文にある通り
「為すべき程の事を為し終えて」
還り来た小野梓を迎えた感じがしたと思う。

村井総長、阿部先生から筆者に
挨拶をするようにと強く言われたので
心なくもマイクの前に立った。
今は何も言うことはない。
大学、市、親族の方々、
その他の多くの人々の御協力があって
今日の日を迎えることが出来たので、ただ
「素志が貫かれて有り難うございました、の
 一語しか申上げる言葉はありません。」と言った時、
胸せまって不覚にも絶句してしまった。
満堂の人々から拍手があったと後で聞いたが、
自分には何も判らなかった。

次いで清家省三師からの挨拶があったのだが、
これも表白文にあるように、
昭和四十二年八月二十日の黄昏時に旅姿の筆者が
小野家の菩提寺清宝寺境内に建てられている
大隈侯篆額の「小野梓君碑」の前に佇んでいたのが、
筆者が梓と至近距離での出会いであった。

その時素衣の端をまくり上げて
境内の落葉を掻き集めている者がいた。
僧かと思えばさに非ず、
さりとて寺男にしては気品が高い。
俗人とも定めかねる人物であった。
この人が清宝寺の住職清家省三師であった。

来意を告げると、彼は衣服を改めて本堂に案内し、
御本尊の前で小野梓の位牌と過去帳とを取り出して、
「よく訪れてくれた」と、
敬意をこめて労ってくれた。
これが、今日このように結実するとは思わなかった、
表白文に「知る人ぞ知る」とある通りである。
次いで清家省三師の挨拶があって、五時前に精進落は終った。
―略―
(昭2仏文・名誉教授)

小野先生の生地を訪ねて p29-31
阿部賢一
創立九十年記念行事の一つとして
小野梓先生八十七回忌法要と墓碑除幕式が先生出生の地
土佐の宿毛市清宝寺で行われた。
その式に参列し、また一般市民に対する講演を頼まれて
村井総長一行に加わって私も出かけた。

土佐は曽遊の地であるが宿毛は始めてである。
時あたかも南方からの台風来の気象予告があったので、
一行諸君より一日早めに
総長、田古島君と羽田から飛び立って高知に行った。
空港では若き校友田村信孝君に迎えられ、
郊外山上の清風荘に落ついた。

台風はどこへいったのか、
ここまでくると大気も海洋も碧く澄みきっている。
名物の鰹のたたき、伊勢エビのさしみなど
味のよささはいうまでもないが、
若き校友の心づくしがうれしかった。
同君はかつての紛争にまきこまれながら
敢然スト反対に立ち上った経験をもつ青年であった。
同君の車でよく舗装された国道を
海風を浴び山並をぬって高知に入り、
桂ヵ浜の渚に立つホテルニュー高知に投じ、
ここで大学から来られた諸君と落合った。
近くにある坂本竜馬の巨像を久しぶりにみて、
同時代に生れ、大望を夢みたにそういない
少年小野梓のことを考えてみた。
―略―
翌朝(七日)早く一行と汽車で中村駅に着、
ここで車をつらねて約一時間で宿毛に行き秋沢別館に投じた。
街はずれの旅館で、
窓を開いて下をみると実る稲穂が無惨に倒れている。
台風通過の跡だと聞いた。
宿毛市は人口二万八千、いとも静かな市で、
その一角に小野先生出生の屋敷があったが、
その跡は全然変っている。

昼食後、清宝寺に行く。
門内に一歩はいると木犀の芳香が漂うている。
秋晴の境内で洗心の境に在るの感じがした。
式場に行く。
式その他の催について
心ゆくばかり細かな配慮をしてくれた
清宝寺住職清家導師や
京都から来られた小野家の遺族の方々に会う。

式は本堂で行われた。
祭壇には小野先生の遺影を中心として花が飾られ、
遺族と大学側が向いあって席が設けられ、
満堂粛然として読経の中に式次第が進められた。
清家導師が表白文で先生の略伝と遺業をたたえ、
村井総長は大学として先生に
大学今日あるは一に先生の献身的努力に由ることを
切々と感謝をこめて申上げた。
さわやかな秋風につれて流れこんでくる木犀の香りをかぎながら
私は瞑目して思考に沈んだ。
次いで遺族はじめ大学側の焼香、会衆一同の焼香が行われた。

次いで寺内裏山の小野家墓地に一同登り、
新たに大学建立の「小野梓先生墓碑」の除幕式に臨んだ。
先生父君の墓石より低きをよしとした墓碑で、
形は小さいが感銘深い永遠の生命をもつ墓碑である。
読経の中に一同焼香して先生を偲んだ。

式一切はかくて終り、山を下って本堂に帰り
いわゆる精進落のくだけた会合となった。
なごやかな話が数氏から行われたが、

ご本人が躊躇したのを無理に引出して挨拶してもらったのは
斉藤一寛君であった。
同君は教育学部教授当時から
小野先生の魅力に引かれたか格別の感興を覚え、
しばしば宿毛に旅して先生の旧跡を尋ね、
縁者を尋ねて旧縁古話を探り、
その成果を数々のパンフレットにして知友間に報告されている。
自然清家導師とも親しくなり、
今度の行事万端について陰で苦心してくれている。

同君の熱心な小野先生崇拝と探究心が、
先生の法要と墓碑建立を実現させた大きい推進力であったことを
忘れてはならぬと私は思うている。

そんな因縁をもつ斉藤君だから、
この機会に一言挨拶あって然るべきものと
総長と私も考えて無理に引出した。

控え目の同君も已むをえず立ったが、
感慨無量で最初はいささか絶句したようだが
淡々として小野先生にひかれた自己を少しく語り、
清家導師との出合いの面白さを話し、
導師の熱心な配慮を感謝したが、
これに応じて導師も立って丁重な感謝をこめて話された。

その夕刻四時半から宿毛市と早稲田大学主催の
小野先生記念の文化講演会が中央公民館で行われた。
かたくるしいこの種の会にどの位の人が集まるだろう、
と思うたが、
講堂は満員で三百名以上ということであった。
公民館の方の挨拶があって
宿毛市史編纂委員長橋田庫欣氏が幻灯を用いて
小野家の系譜を綿密に説明され、
前もって用意して渡されていた系譜と照らしながら拝聴して
私はさすがによく調べられているものと敬服した。
―略―
私は「小野梓先生の教育思想」という題で講話をした。
―略―
小野先生の高邁卓識さをみると
真に明治時代最高の知識人である。
その教育思想はいまは誰も彼も容易に口にする。
しかし、実践は容易ではない。
混沌としている現在のわが教育界にとって
最も斬新かつ緊要な問題である。

それを九十年以前に教育の指針として説かれた先生こそ
一大先覚者といわねばならぬ。
早稲田学園は先生を師と仰ぐことを誇りとする。
先生を生んだ宿毛の市民各位も誇りをもって
永く先生を追憶されるだろう、と述べた。
―略―
翌朝早く宿毛を立って海岸沿いに車を駆って宇和島に、
そこで電車に乗りかえて松山に、
そこから空路帰京した。
今度の旅は天候に恵まれ、
海山の秋晴をほしいままに楽しむことができた。
これも小野先生につながるご縁で感謝の旅であった。
(十月二十八日)
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定 価 八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
振 替 東京 八九八六
1《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
小野梓先生の教育思想
2《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》

小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2248352.html

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

[早稲田学報]1972年12月号

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛

一 八十七回忌法要
昭和四十七年十月七日、
宿毛は朝から晴れ上がった爽やかな日を迎えた。
この日は標題に示した通り、
小野梓の故郷高知県宿毛市において、
梓の八十七回忌法要を営み、
かつ建墓・除幕式の行われる日であった。

周知の通り早稲田大学は本年建学九十周年を迎えた。
この九十周年を記念するためにいろいろの行事が催されたが、
建学の母ともいうべき小野梓の墓を、小野家の墓地内の、
彼の遺髪の埋葬されている跡に建立することが
記念事業の一つとして企画された。
この企画は昭和四十六年五月から着手され、
村井総長の指示で浜田総長室長、元施設部長の杉浦巴氏、
それに筆者が現地に赴いてつぶさに現場を視察し綿密な計画が進められた。
筆者はさらに旬日を重ね宿毛に滞在して、
小野梓の系図を、親族をはじめ、土地の古老、郷土史家、
図書館などで若干の資料を得て、
「小野家略系図」の作成に当り、
本年三月未定稿として刊行した。
爾来一年五か月にして、
この年、この月、この日に建墓・除幕式が行われることになったのである。

墓は左に父義與、母助野の墓石、
右に養子義実(梓の義兄)の墓石の間の中央、
少しく後方に下った個所に建てられた。
墓石はスウェーデン産のブルー・パールblue pearl と呼ばれるもの、
白味がかった地に薄い青色を掃いた、高貴、純潔な色調を帯びている。
墓の高さ八一センチ、幅八五センチの横墓で、
表面には横書きで「東洋小野梓之墓」、
裏側には梓の信念を表わした彼の銘句
 一国の独立は国民の独立
 に基し、国民の独立はその
 精神の独立に根ざす 而して
 国民精神の独立は実に
 学問の独立に由る
 早稲田大学総長 村井資長書
と刻まれている。〔以下字配りによらず〕
向って右側面には
「早稲田大学創立九十周年の歳
 昭和四十七年十月 早稲田大学 建立」
と刻まれ、
左側面には
「収遺髪 願入院釋東洋居士
 嘉永五年二月二十日生 明治十九年一月十一日歿
 行年三十五才」
と彫られている。
これらの文字は村井資長総長自らの揮毫になるものである。

式に先立って午後一時、
小野家の菩提寺清宝寺本堂で八十七回忌の法要が営まれた。
参列者約八十五名、
むろん梓の直系、
第三代の一雄氏、
故二代又一(昭和四十七年一月三十一日歿)の未亡人文子夫人、
次男の雄二氏はじめ親族の方々、
近県から馳せ参じた校友、知人、
それに大学側村井総長、阿部元総長、
増田・清水両常任理事、浜田総長室長以下十二名が着座した。
型の如く開会の辞から、清家省三師が導師となり読経に入る。
嗚咽がそこかしこから聞える。
同氏は次のような表白文を読み上げる。

表白文
末燈鈔に曰く。
「ちかいのやうは、無上仏にならしめんと、ちかい給えるなり。
 無上仏と申すは、かたちなくまします。
 かたちましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。
 かたちましますとしめすは、無上涅槃とは申さず。
 かたちましまさぬやうをしらしめんとて、はじめて弥陀仏と申す」
恭々しくおもんみれば、阿弥陀如来は、罪劫深重の凡夫を救わんがために、
他力廻向の本願を成就し給い、釋迦如来出世の本懐を顕わして、
弥陀の本願を説き給う。
宗祖親鸞聖人、これを教行信証に顕わして、浄土真宗と名づけ、
弥陀仏の誓いの要を、末燈鈔に示し給う。
われ今、聖人の化導によって真実の教を聞き、大悲の衿哀を蒙って、
真の仏弟子となる。
しかれば、現生には、仏祖の宏恩を仰いで報謝の大道を歩み、
当来には往生の素懐をとげて涅槃の妙果を証せん。

本日、早稲田大学は、学祖東洋小野梓、法名、願入院釋東洋居士の、
東福寺山の旧墓を改修して、新たに一基を建立す。
村井総長自ら揮毫し、梓の辞を誌して、墓碑銘となす。
よって、有縁の人々相集まり、
梓八十七回忌法要、並びに墓碑除幕の儀を厳修す。

昭和四十二年八月二十日の黄昏時、当山の境内、小野梓の記念碑の前に、
学匠一人佇みてあり、齢、耳順うのころか、
長躯蓬髪、全身汗にぬるるも、あたかも、
遠きより慈父のもとに還り来たれるが如し。
早稲田大学教授斉藤一寛と知らる。

この日、この時、斉藤一寛の胸に、今日の盛儀を期して、
一つの念願、その火花をちらせしや、否や、知る人ぞ知る。
又、早稲田大学と縁深かりし小野義真の一寄進になる当山本堂に於て、
義真の最も愛厚かりし梓の法要を営む事を得たり。
われらの喜びこれに過ぐるものあらにゃ。

仏かねて知ろしめして、われらがために、
往く者、送くる者、来たる者、
皆倶に一処に相集う。
即ち、倶会一処の喜びを誓い給えり。
今日の盛儀、
これを倶会一処と言わずして何をもって仏の誓いとなす。
われら今、茲に、尊前を荘厳し、懇ろに聖教を読誦して、
大悲あまねき仏意に添いたてまつらん事を期す。
願くば、三宝哀愍して納受し給え。
昭和四十七年十月七日
清宝寺 釋省三

導師の表白文につづいて、早稲田大学総長が次のような辞を述べた。

早稲田大学総長 村井資長の辞
小野梓先生、
先生は早稲田大学の前身東京専門学校の創立から草創の期に、
その全身全霊を捧げて短い生涯を燃やし尽されました。
―略―
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定価八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
振 替 東京 八九八六
1建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
2建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
3建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
4建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
5建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
村井資長総長 小野雄二 小野一雄 小野文子

小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html

小野梓87回忌法要

小野梓87回忌法要
建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)

清宝寺
高知県宿毛市中央1-1-24
1-小野梓87回忌法要
2-小野梓87回忌法要
3-小野梓87回忌法要
4-小野梓87回忌法要
5-小野梓87回忌法要
6-小野梓87回忌法要
7-小野梓87回忌法要
村井資長総長 小野一雄 小野雄二 小野文子

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2248352.html

早稲田大学 第10代総長 村井資長 御夫妻

早稲田大学建学90周年記念に伴い、
小野梓87回忌法要・建墓・除幕式が、
昭和47年(1972)10月7日(土)
宿毛市で行われる為、
村井資長御夫妻が、
小野文子宅まで、訪ねて来られました。

昭和47年(1972)5月頃?
京都市伏見区深草正覚町9番地
小野文子宅
小野又一 歿
昭和47年(1972)1月31日

写真
左から
小野一雄
小野雄二(弟)
村井資長 御夫妻
小野文子(母)
撮影者 田古島伸浩様(総長秘書)
1-村井資長 御夫妻
2-村井資長 御夫妻
3-村井資長 御夫妻

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ