[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]

長谷川勤ブログ<幕末・維新期の私塾教育者>『幕末・維新のヒーローたち』大東文化大学講座

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『幕末・維新のヒーローたち』大東文化大学講座

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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ
『幕末・維新のヒーローたち』大東文化大学講座
【2022/05/27 15:25】 エッセイ
2022年春期大東文化大学オープンカレッジ
【幕末維新のヒーローたち】補助資料
2022年5月28日は、第三回目の講座
<幕末・維新期の私塾教育者>
※幕末維新期のヒーローでは地味ながら、
私塾を開き多くの人材を育てた
「教育者たち」も取り上げなければならない。
上の写真は、左から
緒方洪庵(大阪・適塾)、
吉田松陰(長州・松下村塾)、
酒井南嶺(宿毛・望美楼)、
枝吉神陽(佐賀・義祭同盟)などの優れた教育者がおり、
国家に貢献する人材を育てた。
このほか、「咸宜園」の広瀬淡窓も私塾としては
大規模で全国から入塾している。

緒方洪庵:大村益次郎、大鳥圭介、福澤諭吉、長与専斎、
     佐野常民、橋本左内他。(門人入門帳あり)

吉田松陰:高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、
     山田顕義、品川彌二郎他

酒井南嶺:岩村通俊・林有造・高俊の三兄弟、
     竹内綱・竹内明太郎・吉田茂(親子)、
     小野義真、小野梓他

枝吉神陽:佐野常民、大隈重信、江藤新平、大木喬任、副島種臣等
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年03月23日
「大隈さんの早稲田」と「慶應の福澤先生」
:長谷川勤のインフォメーション・ブログ

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月25日
《土佐宿毛の教育者 酒井南嶺》
『酒井南嶺伝』昭和63年発行
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「大隈さんの早稲田」と「慶應の福澤先生」:長谷川勤のインフォメーション・ブログ

「大隈さんの早稲田」と「慶應の福澤先生」:
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「大隈さんの早稲田」と「慶應の福澤先生」
【2011/01/12 09:29】 エッセイ
 -略-

今度は「佐賀偉人伝叢書」の『大隈重信』が我が家に郵送されてきた。
送って下さったのは、早稲田大学の島善高教授

私の恩師の著書である。
1月10日に刊行される予定と伺っていたが、
その翌日に到着とは感動。
100頁余りの本だが、魅せられて一気に読了。
 -略-
福澤諭吉が「筆まめ」なら大隈は「講演まめ」と云ってよいだろう。
明らかに正反対の表現方法をとったわけである。
しかし、大隈さんは福澤諭吉より三年遅い1838年に誕生している。
そのためもあってか、生涯福澤を尊敬し続け、
大変深い親交があったとのことである。
その大隈さんが朱子学一辺倒の藩校の学問に不満をおぼえ、
洋学の「致遠館」で猛烈に勉強した秀才だったのである。
読んでいながら、大隈さんは、
福澤諭吉の後を追いかけているのでないかと、
錯覚を起こしそうになるのである。
この二人の異同は、実に興味深く、
「ジェファーソン」の独立宣言を一生懸命勉強したのも、
神の導きがあったのではないか?と思わせるのである。
そして、大隈さんが勤皇思想に入り込んでいくきっかけは、
「枝吉神陽」(佐賀藩の藩校の教官で、副島種臣実兄)の主宰する

「義祭同盟」に参加したことからである。
この枝吉神陽は、長州の「吉田松陰」と同様、
門下から多くの有能な人材を育てたのである。
明治新政府の司法卿を務めた、江藤新平もそうである。

「政治は我が命」といった大隈さんだったが、
生涯で総理大臣を二度、
外務大臣に至っては五度も就任したのだそうである。
世間一般には「大隈侯」とか「大隈老侯」と呼称されることが多いが、
これは「侯爵」だったことからの尊称である。
実は「幻の公爵」の挿話が51頁から54頁までに克明に書かれている。
公爵の推薦状(大正11年)が写真で掲載されていて、
大変興味深く見られるのである。
事情は、この時の宮内大臣・大久保利通の2男である牧野伸顕

「過分である」として申請を握り潰したようである。
ここにも薩摩・長州ではない大隈さんの出自がからんでいたのだろう。
世に「薩長土肥」といわれるが、その「薩長」と「土肥」の間には、
越えがたい大きな溝といえるハードルがあったようである。
その証拠に、大山巌のように軍人としての功績だけでも「公爵」である。
彼は、西郷隆盛の従兄弟であるから薩摩なのだ。

そうして、この両巨人の出会いが、32頁に大変感動的に書かれている。
少し長いが、そのまま書いてみる。
「大隈の立憲思想の深化に大きな影響を与えたのは、
大隈よりも四、五歳年長の福澤諭吉であった。
明治六年(1873)に初めて会った二人は、
西洋文明を日本に注入するという点では「一心両体」で、
大隈は福澤の人格に惚れ込み、
また福澤の学問的素養に深く感銘を受けた。
大隈は、また福澤から紹介された門下生の矢野文雄、中上川彦次郎、
小泉信吉、犬養毅、尾崎行雄、牛場卓蔵らを適宜、官庁に配し、
彼らからも西洋思想を存分に吸収した。
福澤は大隈に、
「憲法政治を起すなら己れも力を添える」と言ってくれた。」と。
また、「学問の独立」の項では、
福澤と大隈の思想が相重なる部分が非常に多いのである。
この「独立」なることばは、福澤の金看板のイメージがあるが、
実はこの本を読んでみると、
大隈もこれを非常に大切にしていたことがわかるのである。
「独立自尊」、「学の独立」は
早稲田、慶応の建学精神または理念である。
驚くほどに、
早稲田、慶應は相通ずる思想の下での学問観があるようである。

この島善高教授の本は、大変に歯切れのよい文で綴られているので、
非常に読みやすいし、わかりやすい。
早稲田・慶應にご縁のある方々には必読の書であると思う。
読後感の何と爽やかなことか、一気に読了してしまった。
読んでいくうちに、あれよ、あれよと魅せられてしまうのです。
筆力のなせる業だと、感じ入ってしまったのである。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2014年05月25日
《土佐宿毛の教育者 酒井南嶺》『酒井南嶺伝』昭和63年発行
1. Posted by 長谷川勤   2021年03月10日 18:39
5 小野梓(早稲田大学人物叢書)の評伝を読んでいたら、
酒井南嶺の薫陶を受けたことを知りました。
私は吉田松陰の研究をしております。
宿毛出身の明治期の活躍者達は、
殆どが酒井南嶺の影響・薫陶を受けたと知り、感動しております。
高杉晋作や伊藤博文等を育てた吉田松陰と重なります。
さらに、大隈重信、副島種臣等を育てた、
枝吉神陽に比肩される教育者と理解しました。
『酒井南嶺伝』を読む機会を渇望しております。
私家本らしく、購入の機会が困難とのことで残念です。
よいブログに出逢えて感激しております。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ②
   別府祐弘
したがって私には早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているように思われるのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
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小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ④
  別府祐弘
4 むすび
早稲田大学創立者小野梓も熱烈なる仏教徒で
早稲田仏教青年会の創設者としても有名である。
彼の葬儀・法要の営まれた築地本願寺と早稲田大学とのご縁は
今日でも引き継がれているし、
慶応義塾大学創立者の福澤諭吉の最終講義も
「(親鸞聖人の)御文章について」であったと伝えられている。

菩提寺は共に西本願寺末寺の
清宝寺(宿毛)と明蓮寺(中津)・善福寺(東京麻布)である。

人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの信念を抱いていた
後藤環爾の考えに従えば、
早稲田大学と慶応大学の両創立者は共に敬虔な仏教徒であり、
然も同じ西本願寺の浄土真宗によって
人格形成された人々であったことになる。

つまり倫理と人格形成の基盤が同一なのである。

また両者共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に彼が撰した顕彰碑文にあることになる。

つまり早慶両校の校風はその根底の理念において繋がっているのである。

創立115周年の扇城学園においてをや。

注記

広瀬淡窓⇒恒遠醒窓(別府直夫の紹介で入門した)
⇒小笠原藩藩校明親館藩学(醒窓次男の恒遠精斎)と繋がっており、
名字帯刀を許されていた家の子弟は藩校で学んだから、
淡窓の直弟子・別府直夫(一九郎)の
長男又十郎と次男梅高秀山は
広瀬淡窓の曾孫弟子ということにもなる。
しかし両人は近くの恒遠醒窓の私塾でも学んでいるから
孫弟子ともいえる。

秀山は1年だけ日田で学んでいるので、直弟子かもしれない。
このような形で扇城学園創立者の血の中に
淡窓のDNAが入っていたものと思われる。
また藩学恒遠精斎の弟子でその私塾の師範代
鬼木柳緑が家庭教師として
別府家の六男で私の父祐六(当時9歳)の手をとって
三毛門公園の左右の門石柱の碑文
「遺徳照千秋・別府祐六謹書」
「芳名轟萬古・明治三十六年十一月吉旦建」を書かせ、
刻んで下さったわけである。

 三毛門公園の左右の門石柱の碑文

[別府祐弘稿]
「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、200210月、6頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)

そしてこの亡父の遺碑に込められた
別府家のDNAを確っかりと受継いでいかなければと
私は心に決めている。

⑮ 別府又十郎君 築上郡三毛門村
君は淡懷宏量なる老紳士、家世々大庄屋を勤め、
郡内有数の門閥家を以て推され、
鄕黨の歸嚮崇敬するところとなる久し矣。
君卓識を以て夙に其の名を知られ、
毎に郡村を代表して縣會議員外諸多の公職に服し、
論理正々、態度公明、熱心地方の發展に力め頗る令聞あり。
又政界の重鎭として同志の糾合、
黨勢の振張に與り貢獻するところ尠からず。
往年同志と共に株式會社吉富銀行を創設して財界に資し、
實弟故梅高秀山師、外二三特志家と
中津町に佛教主義の扇城女學校を設立し、
女子教育の鼓吹に力むる等、
時代の趨勢に伴ふ社界事業に力を臻し、
地方先覺者を以て許さる。
近年職に三毛門村名譽村長に從ひ、
鋭意自治の進展に努力するところありしが、
齡漸く老境に進みて昨年退職し、
爾來閑雲野鶴を侶とし專ら老を養ふ。
君特に意を子女の教育に用ひ孰づれも能く成功し、
目下長男敏治氏は
(創立募金に375円を寄付した)早稲田を出て
門司貯蓄銀行(吉富銀行の後身)を主宰し。

 『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』

 『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』
(第2列右から8人目が夏目漱石、
 この年9月に英国に向けて出発した。
 4列左から二人目の左腕で書類を抱えているのが、
 別府三穂三郎) p54
 [明治大正図誌 第15巻 九州]
(イギリス留学へ渡航直前の
 夏目漱石先生と一緒に五高卒業写真を撮った)
次男三穂三郎氏は
夙に赤門を出でゝ法學士となり
(共著【日英同盟】)、
門司興業株式會社の重役に在職し。
(篤姫の従妹の娘遠山常子と結婚)

三男醇氏は學を慶應義塾に修めて、馬關の名門伊藤家を嗣ぎ。
(坂本龍馬が暗殺されたとき、
 夫人は龍馬定宿の伊藤家で龍馬の帰りを待っていた)

四男賢吉氏は東京法科大學出身の法學士たり。
(旭川信用金庫創立者、弁護士)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/128
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行 p128/166
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

毳門生「感化講習会雑感」『扇城の友』
78頁、
明治42年(別府又十郎の上京レポート)。

筆者の父祐六は、六男で京都帝国大学法学部出身の弁護士
(東京弁護士会所属)であった。
但し、長男の十九郎が18才で没したので、
上記に従えば、五男で末子ということになる。

「同窓生対談―第
1
回生後藤要子・第4回生梅高蓮子」
『扇城の友』70周年記念号、3040 頁、
1970年で代表される4人の叔母達と母・別府ヨシ子は、
全員が扇城女学校卒であった。
なお四女ウラは大谷光瑞探検隊長・渡辺哲信氏夫人である。
扇城女学校創立の当面の目的は
別府家の子女の教育であったのかもしれない。

[資料③ 福沢諭吉 白石照山 大久保麑山 小野梓]
【大分県六大偉人綜合年譜】

 小野梓と中津の関係を探る手がかり?
 兄弟の一人が中津で亡くなっている

 1【大分県六大偉人綜合年譜】

2【大分県六大偉人綜合年譜】
明治16年10月3日 白石照山歿  六九(福澤諭吉 50才) 
p64/73
明治18年8月18日 大久保麑山歿 六〇(福澤諭吉 52才) p64/73
明治19年1月11日 小野梓歿   三三(福澤諭吉 53才) p64/73
【大分県六大偉人綜合年譜】昭和3年11月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/64
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑
      平成26年(2014)5月7日
         〒180-0001
東京都武蔵野市吉祥寺北町5-1-27
  電 話 0422-54-8800
  FAX 0422-54-6200
              別府祐弘

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html



[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
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小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ③
   別府祐弘
 3 中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園
 東京女子師範(御茶ノ水女子大学)
初代摂理(学長)・中村正直の教育理念は、
当時としては極めて進歩的なものであった。
それは今日の男女共同参画社会の先駆けをなすものであった。
しかも親交のあった
「大久保麑山先生紀念碑」に顕彰碑文を撰した直前(約2週間前)に、
それは公刊された。
 「男女同権ノ弊ヲ気遣フハ教育ノナキ婦人ノ
 亭主ヲ尻ニシクヲ怕ルルニ過ス
 天道ヲ畏レ眞神ヲ敬シ技芸ヲ好ミ学術ヲ嗜ミ
 ソノ夫ノ輔助トナリ相愛シ相敬スルヤウニナリタラハ
 此等ノ心配ハナカルベシ
 サテ又男女ノ教養ハ同一ナルヘシ、
 二種ナルヘカラス
 苟クモ人類總躰ヲシテ極高極浄ノ地位ヲ
 保タシメント欲セハ
 宜シク男子婦人共ニ皆一様ナル修養ヲ受シメ
 其ヲシテ同等ニ進歩ヲナサシムベシ
 純情ナル婦人ハ純情ナル男子ニ伴ナハサルベカラス
 蓋シ善徳ノ律法ハ男子婦人ノ差別ナク
 共ニ遵用スヘキハ勿論ナリ」
[善良ナル母ヲ造ル説]p18-20/82
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/808657/19
【敬宇中村先生演説集】編輯者 同人社社員 木平譲
 明治21年4月2日出版
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

別府家は豊前国の小倉・小笠原藩において
代々・手永[てなが]大庄屋を務めた家柄であった。
しかし江戸末期の先覚者高野長英や大村益次郎をはじめ
多方面の人材を輩出し、
頼山陽も交わりを求めて訪ねて来たといわれている
硯学広瀬淡窓の豊後日田の咸宜園の
「学問は終生の業であり、自己の長所をもって時代に適応した
 社会有用の実践的人物を育成する」と言う教育理念は、
 ここに学んだ直弟子で家長の別府一九郎(直夫)により、
 もともとその子別府又十郎・梅高秀山にビルトインされていた。」注記⑭

このような
DNA
のある別府家において、
御茶ノ水女子大初代校長として上記のごとき
当時としては極めて進歩的な女子教育論を主張していた
中村正直の撰文になる『大久保麑山先生紀念碑』の建立から
10年の準備期間を経て、
同じ扇城内でこの碑から目と鼻のところの三ノ丁にあった自邸に、
中村正直の女子教育に対する考え方と
岳父の学風による
扇城女学校を創設したいという強い思いが、
麑山の長女セツ・別府又十郎〔祖父母〕夫妻にはあった。 注記⑮
彼らはまた親鸞聖人の敬虔な信徒であったところから、
別府家菩提寺・善正寺住職の実弟・梅高秀山師と手を携えて
扇城女学校を創設し、
秀山の浄土真宗による人格教育を中心にすえた上で、
この中村正直の女子教育理念と
大久保麑山の学風の実現を夢みたのであろう。

[扇城高校(現東九州龍谷高校)]

 [扇城高校(現東九州龍谷高校)]
 「扇城女学校(現東九州龍谷高校)は
1899(明治32)年三ノ丁で創立。
扇城内(中津城 3の丸 、現3ノ丁)で創立されたので、
この名前がついたのでしょう。
大正11年中殿町に移転。
この写真(前頁)は三ノ丁時代のもの。
(明治)44年10月22日のスタンプあり。
場所はマンション「サーバス中津城内」か
その東隣付近と思われます。
古い絵葉書の写真は加来さんの提供です。」
http://uchio.sakura.ne.jp/nakatsu/school/nakatsu-senjyou.html
現在の法人の名称   扇城学園
住      所   大分県中津市一ツ松211番地
創      立   1899年(2014年現在創立115周年)
沿革 1899年から1世紀以上続く教育の伝統がここにある

東九州短期大学〔大分県中津市一ツ松211番地〕
食物栄養学科・幼児教育学科
http://www.higashikyusyu.ac.jp/

 東九州短期大学

 [東九州龍谷高等学校]
平成9年(1997)  男女共学となり、高校名を「東九州龍谷高校」に変更する。

 1[東九州龍谷高等学校]

 2[東九州龍谷高等学校]

東九州龍谷高等学校〔大分県中津市中殿527番地〕
普通科・特別進学コース(男子・女子)
普通科・普通コース(男子・女子)
食物科(男子・女子)
衛生看護科(女子)
http://hk-ryukoku.ed.jp/gakkou-annai/

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html
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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

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論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html

 

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
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 小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ②
   別府祐弘
 2 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)

 小野 梓

 [早稲田の建学者たち]
 小野 梓 (1852-1886

後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山(げいざん)について、  注記④
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社から、
若干引用して紹介しておきたい。

「先生の始祖は諱は重敬、大久保右京亮教隆の孫で、
 小田原藩主加賀守忠朝の甥であるが、
 江戸で奥平家に仕え、食禄六百石。
 〔有名な大久保彦左衛門忠教の長兄が忠世といい、
 その孫が大久保右京亮教隆で、
 その子の忠朝が伯父忠常の養子となった。
 それが小田原藩主加賀守忠朝で、
 忠朝の兄の子が重敬であり、
 その重敬が奥平家に仕えて、
 大久保麑山の始祖となるわけである。
 重敬が奥平家(中津藩)に仕えるようになったのは
 大久保彦左衛門の口ききなどの伝説もあるらしいが、
 叔父加賀守忠朝の口ききだったのだろう。
 口ききする者がいいから、食禄もよく、
 奥平家において客分待遇であったと、
 子孫は言い伝えている。〕
 …君は…
 幼いころからかしこく学問好きで、
 母方の伯父野本真城     注記⑤
〔同藩の儒者であろう〕について学んだ。
 はやくから忠孝の大節を全とうすることを志し、
 武芸では剣・槍・鉄砲・騎馬、学ばぬものはなかった。
 …維新で藩校の文学助教となり、新たに家塾を設けた。
 四方から来塾する者、前後数千余人だった。」 (14-16頁)

 大久保麑山紀念碑

(資料①)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p57
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12
  正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた
福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。
『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた
白石照山のみが福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、      注記⑥
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていたのだから、 注記⑦
下記の講座概要を
「…最大の師とも言うべき野本真城と甥で
 師範代の大久保麑山に触れていない」とすれば、
 より正確になるのではないだろうか。

「平山洋講師(静岡県立大学助教):『福翁自伝』を読む
 諭吉には隠し事が多すぎる!
 早稲田大学〈エクステンションセンター八丁堀校〉
 講座コード:8204122008年、
 講座概要:
●自分で言っているからといって、それが真実と考えるのは早計で、
 自分の過去について隠したい事は、
 山ほどもある、というのが人間というものです。
 福澤諭吉についてもそれは言えて、
 彼は自伝で意図的な嘘を吐かないように心がけてはいたものの、
 最新の調査によって、ずいぶん黙っていたことが多かった、
 ということが分かりました。
 本講義では、『福翁自伝』を読みつつ、
 実は…、という具合にその裏の事情を明かします。
●第1回 中津にて:
 中津藩大阪蔵屋敷で生まれた諭吉は、
 三歳から二十歳まで過ごした豊前中津での就学について、
 最大の師というべき野本真城に触れていない。
 その理由は…。」
 講義内容については平山洋著
 『福沢諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』
 ミネルヴァ書房に譲っておこう。

 [福澤諭吉]

[福澤諭吉]
明治20年(1887)頃の肖像

「佐藤能丸 早稲田大学教授:
 『早稲田の校風』:2009年10月18日、
 早稲田大学第44回ホームカミングデー、ミニ講義の概要
●創立125周年の早稲田と創立150周年の慶応
●日本の私学の雄としての早慶の関係は
 双方の創立者の大隈重信と福澤諭吉との極めて緊密な交流から始まる
●福澤の慶応門下を大隈の配下に
●早稲田の「学問の独立」と慶応の「独立自尊」「一身独立」
●明治14年(1881)の政変と大隈・福澤提携陰謀説
●明治15年(1882)東京専門学校(早稲田大学)の創立」

 [若き日の大隈重信]
福澤諭吉(中津)と大隈重信(佐賀)は共に九州北部の出身で、
生い立ち教育の基盤と考え方が近かった為に肝胆相照らす間柄であった。
明治14年薩長藩閥政府と対立して大隈が野に下ると、
翌明治15年に創立された東京専門学校は
明治政府から“謀反人”の学校として警戒され弾圧されることになる。
西郷が征韓論に敗れて下野し、
薩摩各地の学校が西郷隆盛反乱軍の拠点になった
西南戦争から未だ日の浅いため、
東京の早稲田大学を拠点とした大隈クーデターを
時の明治政府は極度に警戒したのである。
大隈は福沢の出席した創立祝賀会にも出られないし、
その後10年くらいは早稲田のキャンパスに
一歩も足を踏み入れることができないような有様であった。
懐刀の小野梓なかりせば今日の早稲田大学はなかったのである。
そこで苦境の大隈・小野を有能な慶応義塾門下生を送り込んで
全面支援したのが福澤であった。
まず慶応義塾大阪分校長・徳島分校長を歴任した
高弟・矢野文雄を大隈のブレインとし、
早稲田大学創立者・小野梓が33歳の若さで夭折したため
初代学長・第3代総長を務めて
早稲田の育ての親と称される高田早苗、
早稲田大学教旨を起草した前島密(日本郵便の父)などがそれである。

したがって私には早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているように思われるのである。

[2007年10月21日
早稲田大学創立125周年記念式典 祝辞]
 慶應義塾長 安西 祐一郎
早稲田大学創立125周年記念式典 安西塾長祝辞
“このたび早稲田大学が創立125周年を迎えられ、
本日ここに盛大に記念式典が開催されますことを、
心からお祝い申し上げます。
とりわけ、白井克彦総長をはじめ早稲田大学関係者すべての皆様に、
心よりお慶びを申し上げますとともに、
125年の誇るべき伝統と実績を築いてこられたことに、
深い敬意を表する次第であります。
 ―略―
125年前、早稲田大学の開校式において、
建学を担った小野梓先生は次のように説かれています。
「一国の独立は国民の独立に基ひし、国民の独立は其精神の独立に根ざす。
 而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、
 其国を独立せしめんと欲せば、必らず先ず其民を独立せしめざるを得ず。」

ここに、私学としての早稲田大学の精神が凝縮されています。
その精神と誇りは、現在に至るまで決して絶えることなく受け継がれ、
尊敬されているものであります。

慶應義塾にも、創立者福澤諭吉が遺した
「一身独立して一国独立す」という思想が脈々と波打っていますが、
早稲田大学と慶應義塾は、「日本のオックスブリッジ」とも称されるように、
良き友、良きライバルであり続けてきました。

それは、両校の創立者大隈重信先生と福澤諭吉の、
明治の初め、1870年頃からの親しい関係に始まるものであります。
大隈先生のもとで多数の慶應出身者が積極的に活動いたしましたし、
早稲田大学開校式には福澤が出席したと言われています。
1907年の慶應義塾創立50年記念式典で励ましの祝辞を述べられたのも、
大隈先生でありました。
学問における切磋琢磨のみならず、
卒業生同士の交流、早慶戦をはじめとする学生間の交流もまた、
長年にわたる両校の絆を象徴するものであります。
 ―略―
http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/now_and_future/speech/2007/kr7a43000

 平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

ベストセラー『西国立志篇』などを公刊した文明開化の旗手として、
また東大教授・初代東京女子師範(現在のお茶の水女子大)校長として
日本を代表する当代屈指の知識人であった
東京人・中村正直がその人生の最晩年に、
何故に遠隔地の
宿毛(小野梓・明治20年)と             (資料②参照)
中津(大久保麑山・明治21年)の碑に顕彰銘を刻んで (資料①参照)
直後の明治24年に旅立って行かれたのであろうか?
それは少なくとも、
小野と大久保の両者が中村と基本的な考え方を同じくし、
理想を共有する同志との思いがあったからであろう。
事実中村は、若き日の麑山とは幕府学問所で一緒であったし、 注記⑧
福澤とは明六社同人、                    注記⑨
小野梓とは斯文学会同人であった。              注記⑩
そして福澤諭吉の慶応と小野梓の早稲田という
自主独立の「志立」大学の創設と発展に            注記⑪
日本国の文明開化の未来を託して
この世を去っていかれたのではなかったのか?

そして模範国民の造就・良民
(大事にたえるには篤実でなければならぬ)・
学問の独立・独立自尊・一身独立
(基礎が堅固で家が築けるようなもの)・
実学尊重・学問の活用
(実行を重んじかくて弟子を教えた)なる
両校の建学の精神の原点を大久保に見出して、
大久保麑山の学風をそのようなものとして
顕彰碑文に刻んだものと思われる。 

 小野梓君碑

(資料②)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p56
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

【敬宇文集
. 巻6】明治36年4月30日発行
 著者 故 中村敬宇(中村正直)
[小野梓君墓銘] p4-5/66
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/893604/4
 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と説く
水島銕也も、 注記⑫
大久保麑山の門下生で
中津藩士、水島六兵衛(均)の長男である。
野本真城(師範代・麑山)門下の福澤諭吉が関係し、
しかも、第一次・第二次長州征伐に大久保麑山隊長のもとで
武勲を挙げ藩費で福澤の慶應義塾門下生になれた
中津藩士・甲斐織衛が支配人(校長)を勤める
開校間もない神戸商業講習所に入り、
大久保麑山の学風を源流とする実学を学んだ。
その学風はその後彼の歩んだキヤリアーに色濃く反映されている。
明治14年 3月(18歳)神戸商業講習所に入学する。
明治17年 6月(21歳)中津開運社の給費生に選ばれる。
明治17年 9月(21歳)東京外国語学校付属高等商業学校に入学。
明治20年 3月(24歳)東京商業学校(高等商業学校)を卒業する。
明治20年 4月(24歳)東京高商(現在の一橋大学)教員を嘱託さる。
明治21年 4月(25歳)大阪府立商業学校校長心得となる。
明治22年10月(26歳)大阪藤田組に入社する。
明治24年 6月(28歳)横浜正金銀行に入り、横浜本店に勤務する。
明治26年 6月(30歳)横浜正金銀行ニューヨーク出張所詰となる。
明治29年 9月(33歳)東京高商(現在の一橋大学)教授となる。
明治32年 9月(36歳)東京高商附属商業教員養成所初代主任となる。
明治36年 9月(40歳)神戸高商(現在の神戸大学)を開設する。
そして初代の校長となり、
東京高等商業学校 (現・一橋大学)
学理を中心にした教育を行ったのに対して、
実践を重視して実務中心の商業学校卒業生に門戸を開放。
同時に国際商業人育成を掲げて
大正14年までの22年にわたって校長を務めた。

「近代経済界に新しい息吹→商業教育の基礎を築いた」
、 注記⑬
中津が生んだ実業教育のこの大先覚者を顕彰して
「水島公園」が造られている。

 〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕

 [神戸大学大学院経営学研究科]
[神戸大学経営学部]
〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕
http://www.b.kobe-u.ac.jp/info/news/2012/03/199.html

 

学風を後に伝えてきわまることはない」と中村正直が撰文した
『大久保麑山先生紀念碑』は、
扇城(中津・奥平城)の本丸にある
奥平神社本殿の参道に面して建設されている
本丸上壇唯一の紀念碑である。
(独立自尊碑は最初は三の丁、現在は二之丁)

[中津城内広場]
※『大久保麑山先生紀念碑』:左端

『大久保麑山先生紀念碑』:左端

http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/nakatujyoukara.html
http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/siro3.html


明治維新を挟んだ近代日本の黎明期に、
彼が奥平藩や中津の人々にとって如何に愛され
尊敬を集めた重要人物であったかを示す何よりの証左であろう。
そしてその学風は、
慶応義塾大学、早稲田大学、神戸大学(一橋大学専門部)の
建学の精神の中に生かされ、
現在に伝えられているのである。

注記

④ 《大久保麑山》p386-387
大久保麑山諱は教之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり。
麑山は其の號、中津侯の世臣なり。
考諱は教連(のりつら)、
文政八年(1825)十二月十一日を以て生る、
麑山幼より慧敏、學を好み業を其の叔父野本白厳(真城)に
宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以て名あり、又剣馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月考教連歿し麑山匇々國に帰る。
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ。
中津藩亦徴に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、
又進修館助教と為る。
廢藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中學校教授と為る。
翌年文部省より特別功労者として
六国史及び硯石を賜與せらる。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り豐碑を公園に建つ。
その撰文は中村正直なり。
麑山、人と為り温厚篤實、親に事(つか)へて至孝なり。
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ。
其の子弟に接するや、常に温顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く。
子弟深く麑山の學徳に服せり。
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、
長男恂は早死し、
次男慎次家を繼ぎ新聞業を営めり。
【豊前人物志】著作兼発行者 山崎有信
 旭川市六条通8丁目左10号
 昭和14年3月25日発行
 ⑤ 原文では、母方のおじの野本伯美(本名)になっている。
 ⑥ Sent Wednesday, April 22, 2009 9:25AM
  Subjrct: お答えします(平山洋)
  Re 質問「福澤諭吉の兄の先生は、大久保蔵之助と思います。
      …大久保蔵之助は大久保麑山と思います。」
 ⑦ 土地の古老(故別府満寿人氏)よりの伝聞。
 ⑧ 日本教育史資料、第7冊。
 ⑨ 戸沢行夫著『明六社の人びと』築地書館、1991年。
 ⑩ 【斯文六十年史】昭和4年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177169/122
 ⑪ 佐藤能丸教授の造語である。
 ⑫ 水島『学の人脈』神戸新聞 昭和52122328
 ⑬ 水島銕也 略年譜
http://fukuda.lib.hit-u.ac.jp/activity/workshop/PDF/20100614uemura.pdf

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html


[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④

[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
 20140320()
※画像をクリックすると拡大されます。

[表紙]要旨・キーワード・目次

 p00-28-要旨・キーワード・目次

一 はじめに

 p01-28-一 はじめにp1/28

 p02-28p2/28

 p03-28p3/28

 p04-28p4/28

 p05-28p5/28

 p06-28p6/28

 p07-28p7/28

 p08-28p8/28

小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ①
   別府祐弘
 要旨:
福沢諭吉と小野梓共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に
彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているのである。

そして文明開化の大日本帝国の未来を
その旗手であった中村正直は、
両「志立」大学・「日本のオックスブリッジ」に託し、
「小野梓君碑と大久保麑山(げいざん)先生紀念碑」の撰文をして、
直後の明治24年にその生涯を終えた。

キーワード:中村正直、大久保麑山、小野梓、
      福沢諭吉、大隈重信、水島銕也、
      早稲田大学、慶應義塾大学、神戸大学、扇城学園

 <目 次>
1  はじめに
2 [中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)]
  [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)]
  [慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学]
3 [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園]
4  むすび


 1 はじめに
 《成蹊と私》
 「…中津の町はまた、福澤諭吉生育の地として、
 中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
 しかし同じ公園の中に、
 私の曽祖父の
 『大久保麑山先生紀念碑』も建立されていることを知る人は、
 今日ほとんどありません。
 そこには次のような碑文が刻まれているのです。

 大事に堪へるには   欲任大事
 篤実でなければならぬ 須是篤実
 たとえば基礎が堅固で 譬之基固
 家が築けるようなもの 方可築室
 君は実行を重んじ   君重躬行
 かくて弟子を教えた  以誨弟子
 学風を後に伝えて   風軌伝後
 きわまることはない  罔有窮己
 明治二十一年四月二十日
 元老院議官従四位 中村正直撰 注記①

 元老院議官従四位 中村正直撰 

 [近代日本人の肖像]
 中村正直 (18321891)
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html?cat=18
 この碑文の現代語訳は、
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社、
昭和53年、18頁より。(資料①参照)

  [大久保麑山先生紀念碑]

  [大久保麑山先生紀念碑]
[別府祐弘稿]
履歴と業績」 p50
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

 〔独立自尊の碑〕

 [福澤諭吉旧居・福澤記念館]
〔独立自尊の碑〕
http://www2.ocn.ne.jp/~fukuzawa/yukari.html


文人風をきらって実学を尊重した
藩学・麑山のこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも
色濃く受け継がれていると土地の古老は申します。

そしてこの碑文を撰した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、
成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。

この碑文こそが、その後
実学としての経営学を
私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、
成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。

その間、経済学部経営学科、
大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」
[別府祐弘稿]
成蹊と私
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、200210月、3-7 頁。
早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
成蹊大学名誉教授称号授与一覧
 称号記番号106 別府祐弘 Beppu, Yuko 経済学部 200241

《早稲田と私》
早稲田大学殿
拝啓
創立125周年、第二の建学に当たる真にお目出度きこの年に
定年退職するに当たりまして、
(昭和44年以来実に半世紀に亘る)
職務 (政治経済学部・商学部・社会科学部の
    経営学、財務管理論、組織論と演習)を
最後まで全うさせて頂きましたことに、
私としましては特に次の二つの理由から
深い感慨を覚えております。

(1)大隈重信侯と祖父・別府又十郎
  (大庄屋、吉富銀行頭取、県議会議員)が
   親交のあった由にて、
   老侯より賜りました親書が家宝として、
   別府家に大切に受け継がれておりますこと。 注記②

 大隈重信侯と祖父・別府又十郎

 [別府祐弘稿]
「履歴と業績」 p48
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

(2)伯父の後藤環爾 注記③
  (「図録・小野梓」15ページ参照、武蔵野大学創立者)が、
   早稲田大学創立者小野梓先生の
   菩提寺・清宝寺(宿毛)の住職であったこと。
   この度は、来る3月28日に
   定年退職教員慰労親睦会にお招き頂きまして
   真に有り難うございます。
   喜んで出席させていただきます。

追記:中津・奥平藩の藩学であった
   曽祖父・大久保麑山の紀念碑が中津公園にございますが、
   これと小野梓先生の墓碑に碑文(資料③参照)を刻んでくださった
   中村正直の記念文庫のある成蹊大学に
   65歳定年まで奉職させて頂きました後、
   現在はお陰さまで元気に、
   帝京大学に勤務いたしております。

宿毛訪問中、奥島前総長はじめ先生方とご一緒に
3月10日の清宝寺における
小野梓先生122回忌法要及び
お墓にお参りさせて頂きましたこと、
小野梓公園での
小松製作所創業者竹内明太郎翁(理工学部創設に功労のあった方)の
胸像除幕式に参列させていただきましたことは光栄の極みであり、
生涯の思い出とさせていただきます。
末筆になりましたが、
先生方のご健勝とより一層のご活躍をお祈り申し上げます。
敬具
2007年3月17日」

注記
①[中村正直](なかむら まさなお)
  洋学者・教育家。文博。号は敬宇。
  東京の人。佐藤一斎に学び、慶応二年渡英。
  明六社を組織し、新文化の興隆に努力。
  学士院会員・東大教授。
  初代お茶の水女子大校長。貴族院議員。
  「西国立志編」「自由の理」などの訳著がある。(18321891
  『広辞苑』より。
②「福岡は進歩党に合流いたしました玄洋社系勢力を除いては、
  大隈系政党(改進党―進歩党―憲政本党)の
  地盤の弱い地域でございまして、
  大隈の福岡における地盤開拓の努力を物語る、
  興味深い書簡でございます。
  本書簡につきまして、更にご教示いただける点がございましたら、
  たいへんありがたく存じます」…
  (早稲田大学大学史資料センター担当研究調査員木下恵太氏よりの
   2003年1月29日付書簡)

  大隈重信侯が、
  大久保麑山の長女・別府セツ・又十郎宅に逗留されたとも
  言い伝えられているが、
  10人の子全員が既にこの世の人でなくなった今、
  確かめる術もない。
  拙稿「成蹊と私」も参照されたい。

③《後藤環爾》(筆者の伯父で西本願寺総長・清宝寺住職)
『宿毛市立 宿毛歴史館』[宿毛人物史]より
教育事業界の英傑
東京千代田高等女学校と云えば都内でも有名な名門校で、
戦前にはその淑徳温雅な校風を慕って入学希望者が多い
まことに狭き門の学校であった。
しかし環爾が西本願寺東京事務所に職を奉じた明治38年頃は、
白蓮教会と云う築地本願寺の配下に当る一教会の営む、
ささやかな私塾的存在で、
その名も女子文芸学舎と云う生徒数も、
わずか50人前後のまことに貧弱な存在であった、
しかも事情により廃校寸前の状態にあった。
人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの考えを抱いている環爾は、
直ちにこの問題に取り組んだ。
殊に当時の我が国の女子教育は、
男子の教育に比して著るしく遅れており、
極めて不振の状態であることに強い関心を持っていた彼は、
この女子文芸学舎の廃止には絶対反対であるだけでなく、
これの発展策を図った。
そうして関係当局者の意見を強引にまとめ、
ついに白蓮教会と文芸学舎の全部を築地本願寺の直轄とし、
教会の堂宇は全部、築地本願寺境内に移転し、
その跡地を敷地として巨大な新校舎を建設した。
そうして名も女子文芸学校と改めて、
定員も300人に改め
女子教育界に新スタートを切ったのである。
その後大正年間になり更に千代田高等女学校と改称、
新たに千代田女子専門学校も併設して
生徒数、数千に及ぶ大校にまで発展した。
その間、環爾の学校に対する熱意は益々強く燃え
理事として直接、学校運営に貢献している。

次は武藏野女子学園(現在の武蔵野大学)の創設である。
大正12年9月1日の関東大震災により、
日本赤十字は難民救済の為
いち早く築地本願寺近くの焼跡に震災救護院を開設した。
しかもその建物は、半永久的な当時としては極めて立派なもので
9月14日に起工し、建築費数十万円を以て突貫工事を行なった。
数十万と云えば現在の数億円に相当するので、
応急建築とは云え近隣を圧する立派なものであった。
所が翌13年3月、
赤十字は計画変更でこの救護院を撤収することに決定した。
機を見るに敏な彼のことである。
俄然、彼の活動が開始された。
彼はこの建物を全部払い下げてもらって、
新らしい女子教育の殿堂とする大構想を描いたのである。
そうして例の通りの周到な計画と、
粘り強い交渉によりついに赤十字を動かして、
払い受けに成功して武蔵野女子学園の創立に成功したのである。

追悼録には、彼は仕事をつくり出す人だと述べている人があるが、
全くこの武蔵野女子学園の創設はその通りだと考える。
又彼は政治家肌で、交渉や談判が極めて巧みで、
政治的手腕に卓越していたとも述べている。
然しながら千代田高等女学校と云い、
又この武蔵野女子学園といい、
彼に教育に対する愛情と熱意が無かったら、
この2大事業も恐らく計画さえもされずに終った事だと考える。
その他彼がその生涯に関係した教育関係の公職の一部を挙げると次の通りで、
如何に彼が教育熱心であったかがわかる。
京都女子専門学校
(現在の京都女子大学)          理事長。
千代田女子専門学校
(現在の武蔵野大学・武蔵野女子学院に合併) 理事。
大分県扇城高等女学校
(現在の東九州短期大学・東九州龍谷高校)  理事。
龍谷大学                  理事。
東京市京橋区盲人技術学校        校長 等。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p015.html


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html


blog[小野一雄のルーツ]改定版
『改訂版』<別府又十郎 妻:セツ 10人の子>
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2377320.html
 

論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]

20140402()

論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
要 旨
福沢諭吉と小野梓共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に
彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているのである。

そして文明開化の大日本帝国の未来を
その旗手であった中村正直は、
両「志立」大学・「日本のオックスブリッジ」に託し、
「小野梓君碑と大久保麑山(げいざん)先生紀念碑」の撰文をして、
直後の明治24年にその生涯を終えた。

キーワード
:中村正直、大久保麑山、小野梓、
      福沢諭吉、大隈重信、水島銕也、
      早稲田大学、慶應義塾大学、神戸大学、扇城学園
※画像をクリックすると拡大されます。

[表紙]要旨・キーワード・目次

 p00-28-要旨・キーワード・目次

 一 はじめに

 p01-28-一 はじめに p1/28

 p02-28 p2/28

 p03-28 p3/28

 p04-28 p4/28

 p05-28 p5/28

 p06-28 p6/28

 p07-28 p7/28

 p08-28 p8/28
 ※横書き及び詳細な記事にリンクする。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html


二 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治二十年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治二十一年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)

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 p18-28 p18/28

 p19-28 p19/28
※横書き及び詳細な記事にリンクする。

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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html

 

 三 中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園

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 p21-28 p21/28

 p22-28 p22/28

 ※横書き及び詳細な記事にリンクする。

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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html

  

四 むすび

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 p24-28 p24/28

 p25-28 p25/28

 p26-28 p26/28

 p27-28 p27/28

 p28-28 p28/28

 奥 付

 p29-28-奥付

※横書き及び詳細な記事にリンクする。

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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

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