2015年08月24日(月)
[大河内傳次郎の青春]<別府祐弘>
『土佐すくも人』第30号(2014年版)
[大河内傳次郎の青春] p10-19
<別府祐弘>
生い立ち
秀吉の軍師黒田官兵衛が
自らの居城として築造した
水城の「扇城」(幕末の中津は奥平藩)の
御殿医大辺晋を父とし、
藩学大久保麑山(注)の四女アキを母として
明治三十一年(1898)に生れた、
末っ子の大辺男(おおべ ますお)は
大のチャンバラ好きで、
従兄で明治二十八年(1895)生れの
別府祐六(私の父)に
チャンバラの相手ばかりさせて遊んでいたそうだが、
祐六は実社会で弱きを助け
チャンチャンバラバラの弁護士
(東京弁護士会所属五十年表彰)に、
男(ますお)は剣劇俳優になったのだから真に
「三つ子の魂死ぬまでも」である。
その後、男(ますお)は室町次郎なる芸名で
「河原乞食」になったことで、
厳父の逆鱗に触れ、勘当されてしまう。
この男(ますお)を必死に庇ったのが
慈母アキであった。
そして彼女の父麑山(げいざん)を葬った
中津の大法寺に頼み込んで、
彼を佛門に入らせてもらったのである。
しかし、男(ますお)は初心忘れがたく、
生家のあった大河内村への強い望郷の念も抑えがたく、
「大河内傅次郎」なる新芸名で再起をはかった。
そのとき
「職業に貴賤はない。何でも一流になればよいのだから」
と男(ますお)を励まし、さらに援助しつづけたのもまた、
佛門を後にされて面目丸潰れの慈母アキであった。
作家富士正晴が風変りな俳優として、
大河内傅次郎に強い関心を寄せたのは、
まさに彼のこのような生い立ちによるのであろう。
(注)
宿毛の清宝寺にある
「小野梓君碑」
(中村正直撰・明治二〇年(1887))と
中津(城址)公園にある
「大久保麑山先生紀念碑」
(中村正直撰・明治二一年(1888))と
「独立自尊碑」の関係、
したがってまた
早稲田大学と慶應義塾大学との関係等については、
別府祐弘稿「小野梓君碑と大久保麑山紀念碑① ② ③ ④」
ブログ[小野一雄のルーツ]改定版を参照されたい。
俳優、大河内傅次郎の誕生
二十世紀前半に、ようやく形だけは安定した
日本の銀幕の時代劇に最初の魂を吹き込んだのが、
伊藤大輔監督と名優・大河内傳次郎のコンビであった。
それまでの講談や浪曲の二番煎じの時代劇ではなく、
不遇な人生の旅に疲れ果てた人間の姿、
虚無と絶望に共通する反逆児といった
現代人の共鳴する魂の声を、
あの傳次郎の
(演技に併せた弁士の)ドスの利いた、
腹から搾り出すような台詞まわしで
吹き込んだのである。
こういうニヒリズムと一種の反骨精神を、
巧妙なサイレント話術で展開した代表作
『御誂治郎吉格子』が、
平成二十四年(2012)七月三〇日、
現代の名弁士・澤登翠師の熱演により再現され、
門天ホール(東京メトロ門前仲町駅前)
満席の観客を沸かせた。
傳次郎と縁続きのものとして
同ホール末席で同夜の演目を
鑑賞させていただいていた私の目は、
主演の傳次郎にではなく、
やっとこさ会えた美しい相手役
帝国キネマの看板女優
霧島直子こと日活の伏見直江に、
終始釘付けにされていた。
私の誕生前に繰り広げられた
ご両人の悲恋の物語に思いを馳せながらである。
なお文化勲章受章の大女優
山田五十鈴の銀幕デビューは、
この傅次郎・直江の
「剣を越えて」(日活・昭和五年(1930))であった。
看板女優との恋
先人のデリカシーに
私見を差し挟むような野暮はしたくないので、
以下は公刊された引用文を繋げるだけに留めたい。
「…(前略)…大河内の母は直江の噂(競馬好きなど)を
耳にすればする程、
…(中略)…直江についての知識を得れば得る程、
(子役育ちで読み書きソロバン、家事万般全部ダメ)、
この結婚は全然問題にならないと考えたと思われる。
おそらく大河内も、
兄の弘も母の説得に努めた時があるに違いない。
母は頑として承知せず、
これはどうしても説得不可能だとそのことに絶望したが、
さりとて直江を思う情は絶望によって尚更つのる。
そこでその抜け道のごとき蒲郡の口説き文句、
(「新聞に書かれてしまった以上、
どう振舞おうが、
もう世間のわれわれを見る目は同じだから」)
大津での結合、浜坂(温泉)へのデート、
そして一軒ひそかに家を借りての同棲があったわけになる。
夜間撮影があるという言い訳には
母としても妨げの仕様がなかったらしい。
母は自分の好みの女性を探し出して
大河内と結婚させねばならないと、
大河内と直江が同棲生活に疲れと倦怠を覚える時期を
ゆっくり待っていたであろう。
何しろマスオの親孝行、
母の意見に対して絶対服従であることは、
マスオ自身新聞や雑誌にもしばしば書いているし、
インタビューにもそう答えている。
母は同棲をしってはいても
知らぬ顔で平然とかまえていたらいいわけである。
二人で駆け落ちしてどうこうする勇気は
マスオにはないと見越していたに
ちがいなさそうである。
佛と母とを引き去ったら、
大河内傳次郎はゼロとなると、
本人が言っているのだ。
こんなことを宣言して
直江との結婚を許してもらえるわけはない…(後略)…」
(富士正晴著「大河内傅次郎」
中央公論社・昭和53年(1978)・172-3頁)
お見合い
年が明けて昭和七年(1932)、
傅次郎は、
直江や世間の目を避けて
虚無僧姿に変装して別府に向かった。
母の顔を立てようとしたのであろう。
しかしこれが返って仇となった。
道中、移動警察の刑事に怪しまれ連行されて取調べを受け、
大スター・大河内傅次郎が
単身別府へ向かっていることは白日の下に
晒されてしまったのである。
しかも見合が終わると
親戚の記者が大特ダネと腕まくりし
待ち構えていた。
ここに至って流石の「丹下左膳」も所詮は人気稼業、
「寄らば切るぞ」ともいえず、
佛と母の両面からの話で引導を渡されることとは相成った。
『大河内傅次郎におめでた話。
相手は映画も知らぬお寺のお嬢さん』
「伏見直江との結婚話以来噂の無かった
大河内傅次郎に年が明けると早々
おめでたい結婚話が訪れた。
相手は意外にも無名の田舎のお嬢さんだ
~大河内は旧臘からこっそり
別府温泉鶴水園ホテルに滞在してゐたが、
三日午後郷里福岡県築上郡から尋ねて来た
従姉梅高蓮子(私の伯母)に伴はれ
豊前宇佐郡の名刹で八幡村森山の教覚寺へ車を走らせた。
これが彼と同寺当主の姉にあたる
平田妙香さんとの見合ひであった。
妙香さんはことし二十四歳、
大分県中津の扇城女学校を優等で卒業後、
京都女子専門学校の家政科に学んだ近代女性、
同地方で生き佛といわれた父の許で
映画などは見たこともない
淑やかさに育てられてゐるので
俳優に嫁ぐなどとは思いもよらなかったが、
スクリーンを離れた大河内の真面目さを知る
東京築地本願寺の後藤環爾
(傅次郎の母アキの姉、別府セツの長女要子の夫、
つまり私の伯父)氏が
斡旋して話を進めたもので、
大河内は、八日親戚の末松代議士の来別を待ち
※(注)末松偕一郎:下記
日取り等を相談するはずである。
大河内は別府の宿で語る。
私も三十五歳、一通りの修行は了えましたから
結婚して母を安心させたいと思います…」。
(大阪朝日新聞 昭和七年(1932)一月九日夕刊)
メランコリー
直江にとってこの大スクープは、
青天の霹靂、驚天動地であったであろう。
「不幸な伏見直江はどうしているか、
コスモスの茎のように、
折れ易い気持ちを
じっと抱きしめて暮してゐる
彼女を見るものは、
その以前の彼女の勝気さを知ってゐるだけに、
気の毒に思わないものはない。
『大河内さんの今度の件どう思います』
と何の気なしに彼女に聞いてみた或る人の前で、
彼女は、何も言えずに泣き出したことがある。
弱い女、伏見直江の淋しい姿を、
私たちはこれから、
何時まで見なければならないのであろうか」
(「映画の友」昭和七年(1932)五月号)
しかし直江は傅次郎の許をキッパリと去り、
慰謝料も受け取らなかったそうである。
結 婚
「その見合いの相手である
平田妙香はまさしく寺の娘(二女)で、
その時、門司市大里(西本願寺)別院の
鎮西女学校の教師をしていたが、
冬期休暇で生家の(西本願寺末寺)
教覚寺へ帰って来ていた。
大河内の母がこの人をと心に決めた女性である。」
(富士正晴著前掲書179頁)
「昭和七年(1932)五月一九日、
京都錦小路西洞院 丹栄で
芽出度く大辺・平田ご両家の結婚式が挙行された、
新郎新婦はその日新婚旅行に出発した。
…(後略)…」
(御園京平編著『畫譜大河内傅次郎』「年表」
立命館大学図書館 昭和五一年(1976)九月 186頁)
私の母、別府ヨシ子扇城女学校OG談。
「それ以来扇城女学校では、
理事長兼校長梅高普行・茶道教諭蓮子夫妻が
すっかり大ファンになってしまい、
大河内傅次郎の映画に限り、
映画鑑賞が解禁になった」。
その後六人の子宝に恵まれた
この仲睦まじい二人の結婚が、
妙香の弟、崇徳前住職と傅次郎の姪、
※崇徳の父=崇鎧:祖父=琢勇
昭代(あきよ)様のご縁に繋がった。
そしてそのご子息の教覚寺
平田崇英現住職の主催する
大河内傅次郎映画鑑賞会で、
青春時代の彼の勇姿が現在なお健在なのである。
時たま古いシャンソン
「愛の賛歌」「メランコリー」
などを口ずさんでは、
なぜか
“大河内傅次郎の青春”伝説の
思い出される今日この頃である。
メランコリー
やるせなく しのびよる淋しさ
酒と煙草に 溺れて
涙ぐむ 女ごころ
夜毎に しのびよる
はてなき かなしさ
酒をくみかわしながら
夜明けまで 狂う
恋人も明日も いらぬ
なんにも いらない
酔いしれては 飲み明かそう
気の狂うまでは
メランコリー
おそいくる 心のむなしさ
ひとり涙をこぼして
酒を飲む夜よ
(越地吹雪ビッグプレゼント・岩谷時子作詞)
生涯青春の傅次郎
嵯峨野の竹林のなかの静寂の蹊(こみち)を彷徨(さまよ)った。
それはやがて山裾にひっそり佇む木戸門に突き当たる。
そこから中に入りだらだらとした坂道を暫く登ると視界が開け、
見事な日本庭園の中にお寺のように古風で瀟洒な建物が現れるが、
これが大河内傅次郎別邸であった。
そして徒然草にゆかりの双ヶ岡につらなる古都を眼下に一望できる
お座敷に和服姿で両手をついて挨拶に出られた、
在りし日の上品な妙香夫人から、
小粋な京懐石を振舞って頂いた
若き日の自分を思い起こし、暫し追憶に浸った。
ところで傅次郎没後、
ここは「大河内山荘」として一般公開され、
今日では国際観光客で賑わう京都名所の一つになっている。
傅次郎が晩年読経三昧の毎日を送った御佛堂を中心に、
嵐山と保津川渓谷も借景として取り込み、
百人一首で著名な小倉山南面の一木一石に至るまで、
三十四歳の昭和六年(1931)ごろから
六十四歳で逝去するまでの長年月をかけて、
彼自身が禅の境地の究極美を求め
吟味を重ねて作り上げたこの回遊式名園は、
彼の渾身のライフワークといえよう。
かくて大河内傅次郎は、
生涯青春の人生劇場を演じきった
偉大な俳優であった。
没後五十年、衷心よりご冥福をお祈りしたい。
またチャンバラの腕白仲間であった
亡父浄正院釈祐法三十三回忌に合掌。
◆本稿は「活カツキチ狂」No.150
二〇一二年一〇月一日の拙稿を元に加筆し、
改めて書き下ろした。
会報からの転載を快諾して下さった
(株)マツダ映画社・無声映画鑑賞会に感謝の意を表したい。
別府祐弘(べっぷ ゆうこう)
一九三六年、東京都港区に生れる。
一九六六年より、
成蹊大学大学院 経営学研究科教授、
帝京大学大学院 経済学研究科教授、
上武大学大学院 経営管理研究科教授、
早稲田大学・中央大学・青山学院大学・成城大学
講師等を歴任し、
現在 成蹊大学名誉教授。
スタンフォード大学、ペンシルバニア大学、
ワシントン大学、アメリカン大学、
コペンハーゲン大学、吉林財経大学で
客員教授・客員学者。
数社の役員・顧問を兼務した。
著書・論文多数。
詳しくは、「履歴と業績 別府祐弘」
(インターネット)参照。
「履歴と業績 別府祐弘」
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf
◆編集後記◆ p80
別府祐弘さんのご尊父祐六さんは弁護士で、
大河内傅次郎の従兄に当る方です。
大河内傅次郎は、大正十五年(1926)、新国劇から日活に入り、
昭和前期の映画界を代表する大スターで、
「丹下左膳」が当り役であった。
独特の台詞まわしで人気があり、
「姓(シェイ)は丹下、名は左膳(シャゼン)」は
当時の子供でも知っていた。
知らざる傅次郎、青春のエピソードを
別府さんに寄稿していただいた。
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「土佐すくも人」第30号(2014年版)
東京宿毛会
平成26年4月19日発行
編集・発行 三元社
東京都中野区野方1-56-2
津野輔猷方
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※(注)末松偕一郎
【実録 大河内傳次郎】著者 池永敬
ライオンズマガジン社 平成2年5月10日発行
室町次郎の大辺ますお(男)が本身の槍でケガをした
大正十五年(1926)のころ、
別府三穂三郎は京都市伏見区稲荷町に住み、
鉱山経営のほか、
京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)に
映画館二館を持っていた。 p97
経済界では、東京帝大卒の別府三穂三郎がいる。
大河内の母、アキの長姉、別府セツの三男で後藤要子、梅高蓮子の兄。
京都に住み鉱山などを経営し、
同郷の池永浩久に頼んで大河内を日活に入れた人物である。
アキは三穂三郎のことを「ミホさん」と呼んでいた。 p194
別府三穂三郎と末松偕一郎は親しかった。
別府は現在の福岡県立九州歯科大
(北九州市小倉北区真鶴町)の前身、
財団法人九州歯科医学専門学校が福岡市にあった昭和初年、
財政などで行き詰まったとき、資金援助などで立て直した。
昭和五年(1930)から同校の法人理事長に就任。
その後、校舎は小倉市(現・北九州市小倉北区)に移転した。
そのころから末松は同校の運営、経営面で別府を支援、
同十年(1935)二月、別府の死去で、
末松が同法人の理事長を受け継いでいる。 p194-195
結婚式の写真(前列中央が大河内と妙香) p202
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※一部、追加・訂正を行った。 小野一雄
平成27年(2015)8月24日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[大河内傳次郎の青春]
<傳次郎の従兄の倅 別府祐弘>
『活 カツキチ 狂』
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2142075.html
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