《小津圭次郎(酔園)》小出信濃守侯 淺草中屋敷林泉全圖
【丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図】天保13年(1842)
【丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図】
小出侯淺草別業圖 完 p1/3
丹波國園部藩主 髙二万六千七百十一石余
小出信濃守侯 淺草中屋敷林泉全圖
此邸地ハ。老中水野越前守カ。天保度改革ノ時ニ。
上地ヲ命セラレテ。其家屋ヲ毀撤シ。
林泉ヲ廢絶シ。茲ニ三座ノ大芝居。并ニ操芝居ヲ遷シテ。
新ニ町名ヲ下シ。
猿若町一丁目二丁目三丁目ト稱セラレタリ。
(武江年表巻八ニ曰ク、
天保十三年(1842)壬寅、○去年十月、堺町葺屋町の芝居焼失後、
両座、并ニ操(アヤツリ)人形座、淺草山之宿、
小出侯御下屋敷の地へ、引移るべき㫖の公命ありし■、
當二月三日、同所■■替地を下り賜ハる、
〔四月廿八日より、町名を猿若町と■■、
木挽町の芝居も、遷てハ、■■引移るべき由■■、
三町■替地、惣坪壹万七千八坪餘と聞ゆ、
此庭中は、昔の一里塚の跡と■■の、
五間に十間、高さ一丈餘の山あり、
又姥可池の舊地と称■■者有り、池を埋めて、小祠を建る、
小出家の下屋舗を、鼠山へ移させらる、
是より後、歌舞伎役者、他町の住居を禁せられて、
此三町の内■、住居せしめらる、又途中、編笠を可むる〕
■ちこちの誰もむきくる山の宿さるわ可まちとよふ子鳥可南)
爾来日月
昌盛。頗ル■閙ヲ極メテ。江戸市中ノ三大繁榮地ト成リケルカ。
明治維新後ニ及ヒテ。三座芝居ハ漸次他方ニ移轉シテ。
其跡ハ一時茫々タル草原ニ變シタリ。
此圖ハ特ニ小出侯カ園池光景ノ何如ヲ。
今日ニ徴ス可キノミナラスシテ。
地理ノ沿革ヲ資考スルニモ。
亦裨益スル所淺鮮ナラストス。
洵ニ希丗ノ珍圖ト稱スヘキ者也。
明治廿六年(1893)春三月 醉園居士識
〔画像〕[明治廿六年春三月 醉園居士識]
天保十三年(1842)壬寅 春三月
[芝居替地小出信濃守殿中屋敷之圖]
玉岩地藏石之像
孔子之像ハ文覺上人之作
一里塚ハ六字之名号アリ
法念上人之真筆
姥供養爲ニ建之
池之内片葉葭アリ
此外所々ニ木々多有■
圖ノサマタケニナル故
コレヲ略ス
北新町通御旗本
小出永之進殿御屋敷
新設猿若町ノ地圖ヲ
此処ニ張込ム事
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[猿若町]
奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、
一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)
にあった丹波国園部藩の下屋敷を収公。
翌天保13年 (1842年) 2月にはその跡地一万坪余りを代替地として
中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。
「国立国会図書館デジタルコレクション –
丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図」
(収公前の園部藩庭園画)
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気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録
[旧浅草猿若町(浅草界隈4 大江戸散歩)]
天保13年正月には、
浅草にあった
丹波園部藩小出伊勢守英発(ふさおき)の下屋敷を収公して、
一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
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夢七雑録
夢まぼろしの鼠山感応寺
2012-04-07 09:59:00
感応寺の跡地のうち東南側には、
浅草の花川戸にあった小出伊勢守の屋敷が移され、
小出伊勢守の屋敷跡には境町や葺屋町の芝居小屋が移転させられている。
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小津圭次郎(酔園)の東京府立関芸学校に於ける造園教育について
誌名 ランドスケープ研究
ISSN 13408984
著者 小板橋, 二三男
進士, 五十八
巻/号 73巻5号
掲載ページ p. 786-795
発行年月 2010年3月
農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波産学連携支援センター
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小沢圭次郎
小沢 圭次郎(おざわ けいじろう、
天保13年4月2日(1842年5月11日) -
昭和7年(1932年)1月12日)は、
日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。
近代初の造園研究者。酔園と号した。
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