人物別

《小津圭次郎(酔園)》小出信濃守侯 淺草中屋敷林泉全圖【丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図】天保13年

《小津圭次郎(酔園)》小出信濃守侯 淺草中屋敷林泉全圖
【丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図】天保13年(1842)

【丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図】
 小出侯淺草別業圖 完 p1/3

丹波國園部藩主 髙二万六千七百十一石余
小出信濃守侯 淺草中屋敷林泉全圖
此邸地ハ。老中水野越前守カ。天保度改革ノ時ニ。
上地ヲ命セラレテ。其家屋ヲ毀撤シ。
林泉ヲ廢絶シ。茲ニ三座ノ大芝居。并ニ操芝居ヲ遷シテ。
新ニ町名ヲ下シ。
猿若町一丁目二丁目三丁目ト稱セラレタリ。

(武江年表巻八ニ曰ク、
 天保十三年(1842)壬寅、○去年十月、堺町葺屋町の芝居焼失後、
 両座、并ニ操(アヤツリ)人形座、淺草山之宿、
 小出侯御下屋敷の地へ、引移るべき㫖の公命ありし■、
 當二月三日、同所■■替地を下り賜ハる、
 〔四月廿八日より、町名を猿若町と■■、
  木挽町の芝居も、遷てハ、■■引移るべき由■■、
  三町■替地、惣坪壹万七千八坪餘と聞ゆ、
  此庭中は、昔の一里塚の跡と■■の、
  五間に十間、高さ一丈餘の山あり、
  又姥可池の舊地と称■■者有り、池を埋めて、小祠を建る、
  小出家の下屋舗を、鼠山へ移させらる、
  是より後、歌舞伎役者、他町の住居を禁せられて、
  此三町の内■、住居せしめらる、又途中、編笠を可むる〕
■ちこちの誰もむきくる山の宿さるわ可まちとよふ子鳥可南)

爾来日月
昌盛。頗ル■閙ヲ極メテ。江戸市中ノ三大繁榮地ト成リケルカ。
明治維新後ニ及ヒテ。三座芝居ハ漸次他方ニ移轉シテ。
其跡ハ一時茫々タル草原ニ變シタリ。
此圖ハ特ニ小出侯カ園池光景ノ何如ヲ。
今日ニ徴ス可キノミナラスシテ。
地理ノ沿革ヲ資考スルニモ。
亦裨益スル所淺鮮ナラストス。
洵ニ希丗ノ珍圖ト稱スヘキ者也。
明治廿六年(1893)春三月 醉園居士識
[明治廿六年春三月 醉園居士識]1
〔画像〕[明治廿六年春三月 醉園居士識]

  天保十三年(1842)壬寅 春三月
[芝居替地小出信濃守殿中屋敷之圖]
玉岩地藏石之像
孔子之像ハ文覺上人之作
一里塚ハ六字之名号アリ
法念上人之真筆
姥供養爲ニ建之
池之内片葉葭アリ
此外所々ニ木々多有■
圖ノサマタケニナル故
コレヲ略ス

北新町通御旗本
 小出永之進殿御屋敷

新設猿若町ノ地圖ヲ
此処ニ張込ム事
p2【丹波国園部藩主…浅草中屋敷林泉全図】
〔画像〕p2【丹波国園部藩主…浅草中屋敷林泉全図】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[猿若町]
奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、
一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)
にあった丹波国園部藩の下屋敷を収公。
翌天保13年 (1842年) 2月にはその跡地一万坪余りを代替地として
中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 
丹波国園部藩主小出信濃守候浅草中屋敷林泉全図」
(収公前の園部藩庭園画)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録
[旧浅草猿若町(浅草界隈4  大江戸散歩)]
天保13年正月には、
浅草にあった
丹波園部藩小出伊勢守英発(ふさおき)の下屋敷を収公して、
一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夢七雑録
夢まぼろしの鼠山感応寺
2012-04-07 09:59:00
感応寺の跡地のうち東南側には、
浅草の花川戸にあった小出伊勢守の屋敷が移され、
小出伊勢守の屋敷跡には境町や葺屋町の芝居小屋が移転させられている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
小津圭次郎(酔園)の東京府立関芸学校に於ける造園教育について
誌名    ランドスケープ研究
ISSN    13408984
著者    小板橋, 二三男
      進士, 五十八
巻/号    73巻5号
掲載ページ p. 786-795
発行年月  2010年3月
農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波産学連携支援センター
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小沢圭次郎
小沢 圭次郎(おざわ けいじろう、
天保13年4月2日(1842年5月11日) - 
昭和7年(1932年)1月12日)は、
日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。
近代初の造園研究者。酔園と号した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

舊園部藩主 從四位 子爵 小出英延君【現代船井郡人物史】大正5年

舊園部藩主 從四位 子爵 小出英延君【現代船井郡人物史】大正5年

【現代船井郡人物史】大正5年
  舊園部藩主 p9-10/157
 從四位 子爵 小出英延君
    東京牛込區市ケ谷藥王子町
 小出家は藤原氏大職冠鎌足公より出づ、
秀政播磨守は尾州愛智郡に住せしかば、
時の太閤豐臣秀吉は同郷の出身にて
長子吉政は秀吉の伯母を妻とせり、
故に吉政と秀吉は伯父甥の間柄とて
親密を極め常に謀議に參せり、
天正十三年(1585)
吉政は泉州岸和田に於て三萬石の城主となれり、
慶長三年(1598)
吉政の次男吉親年九歳にて加賀守となり
二十一歳上野國内にて二千石を賜ひ
出石と合せ二萬九千七百十一石の城主となりしが、
元和五年(1619)
岸和田を松平周防守に賜ひたる爲め、
吉政の長子吉英出石に移り
吉親は園部二萬二千七百石に封ぜらる、
是れ子爵家中興の祖にて、
吉親侯着園後暫く小畠太郎兵衞方に御寄
居城普請に着手せられたるが
爾來三ヶ年を要して竣工せり、
今は唯當時の俤を存するのみなるも
惣郭堀外南北六丁、
東西四丁にして
惣廻はり二十一町二十五間にして
侍屋敷七十七軒を有し、
宏大壯觀を極めたり、
爾來藩主連綿として
現代英延子に及びたるものなるが、
前主英尚侯の世は王政維新の騒ぎにて
穏かならざりしも、
現主英延子は明治十二年(1879)生にて
世の波風を外に榮耀榮華に人となり給ひたる幸運兒にて、
謡曲を嗜好せらるゝ外、
讀書に親み園藝を好ませらるれども
他に取立て申上ぐる材料もあらざれば、
唯家運の隆盛を祝して、本史の責を補ふ。
大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月10日 16:01 
◆現代船井郡人物史 [現代船井郡人物史]目次
[現代船井郡人物史]目 次 [001]―[050]
[001] 〔小出英延君〕p001
    従四位 子爵 舊園部藩主
    東京牛込区市ケ谷藥王子町
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

小出家(舊丹波園部藩主)小出家(丹波綾部藩主)【日光東照宮奉納品一覧表附説】大正11年

小出家(舊丹波園部藩主)小出家(丹波綾部藩主)
【日光東照宮奉納品一覧表附説】大正11年

【日光東照宮奉納品一覧表附説】
  小出家(舊丹波園部藩主) p40/82
信濃守英知、明和二年四月十七日、石燈籠一基を奉納す。
     ※1765年6月5日
  (銘)
奉献石燈籠 一基
野州日光山東照宮 御寶前
  明和二年乙酉 四月十七日 ※1765年6月5日
    信濃守從五位下藤原朝臣小出英知
 英知 初吉久、信濃守、從五位下、元和四年(1618)生る。
    寛文七年九月(1667年10月)遺領を繼ぎ、
    丹波國園部に住し二萬五千石を領す。
    綱吉公の仰せにより九年(1669)京都北野天滿宮の修理を助く。
    元祿八年(1695)正月卒す年七十八。(重修譜五輯八七三頁)
   ○秀政-吉政-吉親-英知-英利-英貞-英持-英常-
    英筠-英發-英敎-英尚-英延(現子爵)

  小出家(丹波綾部藩主) p40-41/82
大和守小出吉英、元和三年四月十七日、石燈籠一基を奉納す。
       ※1617年5月21日
  (銘)
奉上
日光山東照大權現 御寶前
  元和三年丁巳 卯月十七日 小出大和守藤原吉英
  ※1617年5月21日
 吉英 右京大夫、大和守、從五位下、天正十五年(1587)大阪に生る。
    慶長九年(1604)東照公の仰せにより父吉政の住せし
    但馬國出石城を賜はり五萬石を領す。
    此時吉政別に和泉國岸和田城の移り三萬石を賜はる。
    十八年三月(1613年4月)
p40【日光東照宮奉納品一覧表附説】
〔画像〕p40【日光東照宮奉納品一覧表附説】
   父卒するにより岸和田城に移され封加都て五萬石を領す。
   のち大阪兩度の役に加はり功あり、
   元和五年(1619)轉じて舊領に移され出石城に住す封邑元の如し。
   寛文六年三月卒す年八十。(重修譜五輯八六五頁)
   ※1666年4月
  ○正重-秀政-吉政-吉英-吉重-英安-英益-英長-英及
   英及の時嗣子なく家絶ゆ。
p41【日光東照宮奉納品一覧表附説】
〔画像〕p41【日光東照宮奉納品一覧表附説】
大正十一年十一月十一日印刷
大正十一年十一月十五日發行
       【非賣品】
著作兼發行者 別格官幣社東照宮社務所
代表者    栃木縣上都賀郡日光町大字日光
       高松四郎
印刷者    東京市京橋區銀座三丁目十七番地
       三間隆次
印刷所    東京市京橋區銀座三丁目十七番地
       三間印刷合名會社

【日本教育史資料集. 貳】
舊園部藩 p180/474
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[072]〔岩崎革也君〕p097-098[現代船井郡人物史]

[072]〔岩崎革也君〕p097-098[現代船井郡人物史]

【現代船井郡人物史】p57-58/157
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910636/57
[072] 〔岩崎革也君〕p097-098
    須知銀行頭取
    船井郡須知町
氏は舊名を茂三郎と云ひしが
明治三十四年感ずる所ありて
革也と改名せり、

資産は小作米四百石
外に銀行其他株券を合して拾四五萬ならんも、
外觀は貳拾萬圓と敬稱せり、

而し此の資産は氏が儲産にあらずして
亡父藤三郎氏の賜たるなり、

藤三郎氏は同郡新庄村字野條の生にて
松本を姓とせしが
明治初年酒屋杜氏として須知に來り
時の酒造家岩崎家に雇はれたるものにて、

岩崎家は同町の名家にて昔時は
須知の岩崎か
岩崎の須知かと
稱せられだれども
其當時は非常に冷落して
酒造業も繼續覺束なしと云ふの有樣なりしを、
藤三郎氏が引受けて、之れを繼承し遂には
岩崎姓を名乗るに至りたるものにて
近年岩崎家に家督相續事件の起りしも之れが爲めなり、

兎に角前代藤三郎氏は勤勉の人にて
酒は自分で造る傍ら金貸を以て大に利殖を圖り、
當時騒がしかりし勤王家に出入して
公債を當にドシドシ貸付けると云ふ有樣にて
非常に金を拵へ
曩きの岩崎家をも凌駕するに至り
一代に今日の資産を爲したる大成功者たるなり、

氏は其守産者にて藁の上へからの坊稚育ちなれども
普通學は勿論
漢籍をも修めて讀書家として稱せられ
長ずるに及び才智縱横、頭脳明晰にし
辯論亦確なる爲め
忽ち名聲を博し

擧げられて町長となりたること二回、
町會議員となり、郡會議員となり
郡參事會員となる等
名譽職の數々に歷任し
遂には代議士候補者たるに及びたるが
中途にして旗を巻きたるが如き思志薄弱、
冷熱秋天の如くなるを惜むべし、

斯る有樣なれば清濁併呑の雅量に乏しき感あり
之れ君が短所として修養を要する所なり、

殊に先年
幸徳秋水一派の社会主義者と同視せられ
警察の視察は善惡の別なく君に集中し
君をして窮地に陥入れたる感あらしめたるは同情に堪へず、

今や須知銀行頭取と云ふ大責任を荷ひ
地方經濟界の重鎭として他を顧みず奮闘せり、

君は手腕卓越、資産豐にして
他の羨む處なれども、
家庭に風波絶へざるは遺憾なり、

されど今や嗣子平造氏
早稲田大學を卒へ鄕にありて家事を助く、

岩崎家は鬼に金棒、
益々隆盛を期待すべきなり、
君幸に安じて可なり。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〔岩崎革也〕
http://iss.ndl.go.jp/books?any=%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E9%9D%A9%E4%B9%9F&op_id=1&ar=4e1f
〔 〕『国立国会図書館サーチ』より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[091]〔森本万平君〕p121-122[現代船井郡人物史]

[091]〔森本万平君〕p121-122[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行
[091] 〔森本万平君〕p121-122
    呉服商
    船井郡須知町
氏は船井郡須知町に於ける重鎭にて
現時氏が右に出づるものなく
同町の飛將軍として何人も道を譲る
吉田九一郎君ですら、
氏には服從して敵らざるを見ても知るべし、

前々代は屋號を笹万と稱して質屋を業とし
金貸を以て資産を造り成功せるも、

前代万右衞門氏は嚴父に似ず御人よしにて
酒を好み父の遺産も大半費消し
一世を氣樂に通過したる幸福者たり

氏は其長子にして呉服商を營み
現在に至れるが
頗る才子にして機を見るに敏にして
日進月歩の時代に遲れず
目新らしき新柄を仕入れては是を在方に持廻り
盛に奇利を博したるものにて
幾何ならずして同町屈指の財産家となり
町民の崇敬する所となりたり、

擧げられて町會議員となり
須知郵便局長となり、
郡會議員となり
町名譽職の數々を双肩に荷ふに至り
名聲大に加はり
町長候補者に推れたること幾回なるかを
知らざれども町長だけはと固辭して出でず、

君は温厚沈着なるが如くにて
性剛毅、大膽にして寡言、
其多くを語らずと雖も
發する一言一句は悉く至誠の結晶にて、
對者をして一種の温味を感ぜしむのみならず
任侠に富み後進者を愛撫し
親切と同情を以て誘掖に努め、
資産家に有勝ちなる吝氣もなければ、
町の勤めは何時も他に卒先して
範を示すを例とし
金遣ひ實に奇麗にして
儲もするが遣ひもすると云ふ風にて
殊に先見明かなれば批難の打ち所なく、

されば吉田君の如きも敬服せるなり、

幼時見るべき學歷を有せざれども
一を聞て十を知るの天才は
今日の成功を爲さしめたる母なり、

君は書?、圍碁を好み
圍碁は其最も得意とする所なり、

君年齒尚春秋あり
幸に健在以て
須知町の爲め貢獻を祈る。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[森本万平(笹万事)] 呉服・太物商 須知町
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《大正4年 京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)<商工人名>》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182931.html
【京都府商工人名録】
大正4年9月13日出版
<須知町商工人名> p135-136/241
酒造業
[森本安兵衛(森安事)]鬼転酒・醸造販売 丹波須知町 取引銀行 須知銀行
[岩崎久佐衛門]    銘酒 獣王 須知町
醤油醸造業
[岩崎やゑ]      醤油・味噌 製造 並ニ文具・売薬商 須知本町
酒類販売業
[塩尻藤蔵] 和洋酒類 販売元 須知町
呉服商
[森本万平(笹万事)] 呉服・太物商 須知町
[渡辺辨吉] 呉服・古着商 須知町
―略―
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923484/135
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[089]〔故平尾恒次郎君〕p118-119[現代船井郡人物史]

[089]〔故平尾恒次郎君〕p118-119[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[089] 〔故平尾恒次郎君〕p118-119
    須知町の成功者
    船井郡須知町
本史を編するに當り
逸すべからざる模範的人物を
平尾恒次郎君となす、

氏は昨年九月無き人の數に入りしも
事蹟は赫々として後世人士の
龜鑑とすべきに足る、

氏は貧家に人となり
長ずるに及び阪地に遊び
拮据辛酸を甞め商機を研究して歸鄕し、
呉服商を開業したるが
當時世上は西洋風に流れ
目新らしき洋反物は羽を生して飛ぶと云ふ、
好機に乘じて盛に田舎廻りを爲したる爲め
僅かの歳月にて莫大なる利益を博し
今日の基礎を爲したる大成功者たるなり、

歳の移るに從ひボロキ利益のなきに至りてよりは、
卸賣を專らになし
小賣人には一年何程賣揚をなせば幾何、
何年間繼續して小賣をなせば幾何と云ふ奨勵法を設けて
小賣人を奨勵せるは
他に見ざるの特例にて
是れが爲め一層繁榮せり、

斯の有樣にて氏は秩序ある學歴あらざるも
獨學自修の功に依り
書を能くし帳簿を作るにも一字一劃整然として亂れず、
資産の成ると共に名聲加はり

明治二十二年町村制實施の際
擧げられて同村助役となりて
續て村會議員となり
勤續多年克く公共の事に盡し、

須知銀行大株主となり
監査役に擧げられて村政のみか
實業界にも重きを爲したり、

資性温厚着實、志操堅實にして
注意周到其模範的人物たりしは
左に掲ぐる親友明田吉五郎氏の
吊文に徴して知るべきなり、
―略―
大正四年九月八日  明田吉五郎

君は明田氏が吊文に示す如く
二男喜一氏は京都帝國大學理科出身の學士にて、
三男信一氏は大阪高等醫學校出身にて
共に令名あり、

君、死すと雖も餘榮あり

平尾家中興の祖として
同家系圖を彩るに足らん

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《京丹波町 時計・貴金属・蓄音器》【全国業界名鑑興信録】大正14年 昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182937.html
【全国業界名鑑興信録】昭和10年版
日本貴金属時計新聞社 昭和10年6月21日発行
岡本勝之 博賣社 園部町字本町 p253/494
眼鏡・蓄音器・小売

平尾兵太郎 船井郡須知町新町  p253/494
創業 明治37年 貴金属・眼鏡・小売

仲 和三郎 船井郡須知町新町 p253/494
時計・貴金属・眼鏡・小売

中村弥太郎 船井郡梅田村   p253/494
創業 大正8年 時計・貴金属・蓄音器・小売

中南長三郎 船井郡梅田村    p253/494
創業 明治42年 時計・小売
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036231/253

[三男信一氏は大阪高等醫學校出身]
【大阪医科大学一覧】 昭和2年
大阪醫科大學
昭和2年11月25日発行
大正4年7月卒業(76名)
平尾信一 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278966/112

【大阪帝国大学一覧】 昭和17年度
大阪帝國大學
昭和17年12月30日発行
元大阪府立高等醫學校 卒業生
大正4年7月卒業(76名) p199/322
平尾信一 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276940/199
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[133]〔奥村英一君〕p176-177[現代船井郡人物史]

[133]〔奥村英一君〕p176-177[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[133]〔奥村英一君〕p176-177
    東亜烟草株式会社
    木浦支店長
氏は明治九年十一月
船井郡西本梅村字南八田に呱々の聲を擧ぐ、

祖先は源氏の末裔にして
代々農を業とし
庄屋其他の村役を勤め公共に貢獻せり、

氏は幼にて聰明強記にして怜悧、
鄕黨呼んで神童と稱せり

其高等小學校を卒業するや笈を東都に負ひ、

早稲田大學に入り行政科卒業後

即ち明治三十七年
韓國釜山居留民團會計役として招聘せられ
在職二ヶ年にして

韓國政府財政顧問附に轉じ
目賀田顧問を補佐し、
同國財政改革に盡瘁して名聲を博す、

日韓協約成立後は度支部事務官に任ぜられ、
韓國財政上竝に工業上に貢獻せるもの尠からず

勳功に依り勳五等に叙せられ日韓併合後
官を辭して、

帝國專賣局の別動隊として
支那朝鮮に日本官烟の販路擴張を圖る爲め
政府の特許せる
東亜烟草株式會社に入り、
營口平壌等の支店長に歴任し
現に同社の木浦支店長たり、

君は資性温厚、
頭腦明晰にして稜々たる氣骨を有し
進取的氣象に富み、
血あり涙ある熱血男子にて
己れに薄く人に厚き美的は
其手腕と相俟ちて
至る所
悉く名望を博して
其入社以來在職する地に於て
必ず商業會議所役員
竝に學校組合議員に擧げられて、
公共事業に盡瘁するを常とせり、

本部出身者中成功者尠しとせざるも
君の如きは其群を抜きたるものなり。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【早稲田大学校友会会員名簿】
[第1冊]大正4年11月調
大正4年12月24日発行
邦語行政科 p67/189
明治31年得業
奥村英一 京都
東亜烟草會社 販賣所長
朝鮮平壌大同門通
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910566/67

【早稲田大学校友会会員名簿】
[第2冊]大正14年11月調
大正14年12月14日発行
邦語行政科 p146/517
明治31年度得業
奥村英一 公吏
京都府船井郡西本梅村南八田
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910567/146

【早稲田大学校友会会員名簿】
[昭和10年用]
昭和9年12月10日発行
明治31年得業 p130/462
邦語行政科
奥村英一 京都
村長・船井郡町村長會長
川北電氣製作所 常任監査役
京都府船井郡西本梅村南八田
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/130

【韓国財務経過報告】第1回
隆熙二年上半期
<隆熙2年:明治41年(1908)>
(朝鮮総督府度支部, 1911)
<明治44年(1911)>
煉瓦製造所事務官 p303/331
奥村英一
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799651/303
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[奥村英一翁伝]
奥村英一翁伝編纂委員会/編
出版地 西本梅村(京都府船井郡)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I033345072-00
『国立国会図書館サーチ』より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[082]〔船越彌三郎君〕p109-110[現代船井郡人物史]

[082]〔船越彌三郎君〕p109-110[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[082] 〔船越彌三郎君〕p109-110
    須知町の元老
    船井郡須知町
氏は安政六年七月十一日生にて
書籍、文房具、舶來雑貨品を商ひ隆盛を極む、

明治二十二年四月
町村制實施の際
擧げられて同村會議員となり
爾來再選を重ねる四期、

四十三年四月退職、

明治二十三年五月
同村助役となり

二十四年十月
衞生委員となり、

四十四年三月
學務委員となる等
専ら公職の爲に盡瘁し、
事蹟の見るべきもの尠からず

須知銀行監査役となり

亦町長候補者に推されたること屡々なるも、
其器にあらずとて出でず
孜々として始終番頭役を以て一貫せり、

本年四月
學務委員滿期退任後は
一切の公職と絶縁し
今や元老を以て重きをなす、

君は温厚篤實にして思慮周到、
細微の點にも注意を拂ひ
町内の事情に精通し
如何なる事をも記憶に存す故に人、
萬年暦と稱せり、

斯く事情に詳かなる爲め
萬一其意見に反するあらんか
熱心に自分の主張を固執して譲らず、
餘りに頑厚なる爲め
時には疎ぜらるゝ事あり
之れ君が短所として惜むべき所なりき、

されど普通は至極圓滿なる人にて
葬式に臨めば自ら花を切り、
何事にも心易き器量人にて稱讃せらたり、

然るに先年夫人を喪ひ、
一男は日露戰役の花と消へ
爾來唯一人寂しき家庭にあるは氣の毒に堪へず、

されど頃日聞く
故平尾恒次郎氏の三男信一氏を嗣子となせりと
信一氏は大阪高等醫學校を本春卒業せる俊才なり、

君聊か以て慰するに足らん、
幸に鶴壽を祈る

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[書籍商]
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《明治・大正時代の京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)の書籍商》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182920.html
【全国書籍商名簿】東京書籍商組合事務所 明治40年11月8日発行
船井郡 p40/161
大石(犬石)嘉吉 船井郡園部町
大西利吉 好文堂 船井郡園部町 貯金1034
岡本博賣舎    船井郡須知町
山崎勝右衛門   船井郡須知町
船越弥三郎    船井郡須知町
中井支店     船井郡須知町大字京町
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900109/40

【全国書籍商組合員名簿】[第1冊]大正13年1月現在
 全国書籍商組合連合会 大正13年3月25日発行
船井郡 p69/253
犬石嘉吉      園部町上本町 電話 園部35振替 大21633
岡本とみ  博賣社 園部町    電話 園部47振替 大25412
大西 順  好文堂 園部町           振替 大5059
船越弥三郎 水戸屋 須知町
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917473/69

[印刷業者]
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《京丹波町 印刷業者》【全国印刷業者名鑑】大正11年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182936.html
船井郡   p153/346
植山活版所 植山光治  活版 須知町
船越活版所 船越弥三郎 活石 須知町新町
犬石活版所 犬石嘉吉  活版 園部町字上本町
大西活版所 大西 順  活版 園部町字上本町
中川支店  細見謙太郎 石版 八木町
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970397/153

[故平尾恒次郎氏の三男信一氏]
【大阪医科大学一覧】 昭和2年
大阪醫科大學
昭和2年11月25日発行
大正4年7月卒業(76名)
平尾信一 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278966/112

【大阪帝国大学一覧】 昭和17年度
大阪帝國大學
昭和17年12月30日発行
元大阪府立高等醫學校 卒業生
大正4年7月卒業(76名) p199/322
平尾信一 京都
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276940/199
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[103]〔河合宇之助君〕p137-138[現代船井郡人物史]

[103]〔河合宇之助君〕p137-138[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[103] 〔河合宇之助君〕p137-138
    勳七等
    船井郡會議員
    船井郡須知村
先代茂兵衛氏の世まで
大黒屋と稱し旅館を營業とせしも、
資産の成るに隨ひ名義を他人に譲りて

農業を專業と爲すに至りたるが
同町區長たりしこと多年
非常なる勤勉家にして
同家今日の基礎を爲したり、

氏は其長子にて
明治五年一月七日生れ、

明治二十六年十二月一日
徴兵にて歩兵第二十聯隊に入營、

二十八年十一月
滿期退營爾來家業に從事したるが

明治三十五年一月
擧げられて町會議員となり、

同年十二月
同町々長に當選、

四十年一月
滿期退職したるも此間日露戰役ありて
事務多端を極めたれども
出征軍人の慰問、公債の募集、献金の奨勵、家遺族の保護等
克く恤兵の實を揚げ
戰時の村長として重任を全ふしたる功績に依り
勳七等に叙せられたり、

同四十二年三月
同村助役に擧げられたるも
翌年一月
家事都合を以て辭任、

同四十一年四月
同村學務委員となり
滿期再選を重ねて
本年四月退職、

同四十一年四月
土木委員となり、

同年八月
同町區長に當選、

四十三年十一月
勸業委員となり、

昨年九月擧げられて
郡會議員となり今日に至る、

君は温厚篤實にして淡白、
人と爭ひを好まず、
自分を低くして他人に厚く
事に當りて熱心、
克く人の世話をして倦まず
任侠に富めり、

されば名聲村内に普く崇敬する處なれども、
忌憚なく評せば思志薄弱なるの感ありて
村會などの議場にても往々失言することあるも
君が平常を知る議員のみなれば
又遣ったで事なきを得るも
之れ君が短所として自重すべき點なり、

されど人格崇高にして手腕卓越
須知銀行取締役を勤め
經濟界にも重きを爲せり、

年歯尚壯なり
幸に其短所を補ひ
將來層一層町政の爲に努力を祈る。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[大黒屋]
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
【信用録】大正1年9月再版 ※追記:令和4年(2022)12月8日
田中 彌吉  旅人宿  船井郡須知  p616/926
【信用録】大正1年p616
〔画像〕【信用録】大正1年p616
發行所 合名會社 日本興信所
明治四十三年十一月 八日第一版發行
大正  元年 九月十四日印刷
大正  元年 九月二十日再版發行

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《京丹波町(旧 瑞穂町・丹波町・和知町)の旅館》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2182918.html
【全国旅館名簿】神田屋商店出版部 大正15年6月18日発行
京都府 p109/381 船井郡 p116/381
須知町 p117/381     電話番号
料理 魚 福 山崎福之助 須知 二一 須知町鍋倉
料理 琴水亭 隅水キヌ  須知 二八 須知町新町
料理 大国屋 田中安次郎 須知 四一 須知町
料理 井筒屋 岩崎市之助 須知 五八 須知町
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020121/117

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[京都府船井郡(現:京丹波町のみ)]
【全国著名旅館名録:名勝案内】昭和3年
【全国著名旅館名録:名勝案内】昭和3年
京都府 舟井郡     p33/212
旅館名 館主名     電 話    住 所
    野間久治郎  園部  九  下和知村字本庄 ※旧:和知町
    古富萬吉   園部 四七  上和知村字市場
    山本多吉   園部 一一  上和知村篠原
魚福  山崎福之助  須知 二一  須知町鍋倉   ※旧:丹波町
琴水亭 隅水キヌ    須知 二八  須知町新町
大黒屋 小川浅次郎  須知 四一  須知町
井筒屋 岩崎市之助  須知 五八  須知町

【全国旅館名簿】旅館研究会 昭和16年2月5日発行
須知町(船井郡) p287/532
琴水亭 旅館 隅水 キヌ  須知 22 須知 料理
大国屋 旅館 蔭山 富之助 須知 41 須知 料理
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033104/287
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

[104]〔澤田與太郎君〕p138-139[現代船井郡人物史]

[104]〔澤田與太郎君〕p138-139[現代船井郡人物史]

[現代船井郡人物史]三丹新報社:大正五年九月二十五日発行

[104] 〔澤田與太郎君〕p138-139
    竹野村助役
    船井郡竹野村
船井郡竹野村は高山次郎左衞門翁を筆頭に
今西 上原 野田の如き
積徳無比なる三老人を出し續て
船越藤三郎、山鳥鹿次郎氏の如き成功者を見、

近時亦 古田良太郎、野田幸次郎、一谷治郎左衞門氏を始め
夥多敏腕家を見る中に氏、
亦名聲あり實に多士濟々たる竹野村かな、

氏は明治十三年四月十二日生にて

明治三十一年三月
同村役場書記となり、

明治四十二年一月
同村収入役に擧げられ

大正二年四月
同村助役となり
今日に至れるが、

大正三年四月
同村區長竝に同村會議員に擧げられ
現に其任に當れり、

君は資性温厚
人に接する着實親切、
毫も隔壁を設けず
淡白活快
克く談じ
克く語り
洵に附合ひ易き
書生風の才子にして、

縱横深慮に富み
淸濁併呑の雅量を有せり

頭腦明晰にして頗る事務に精通し、
手腕、名望敢て一谷村長に譲らず、
將來一谷氏の敵たるものは卽ち君なり

將來 竹野村三老人の一人たるもの
卽ち君なり、

幸に自重自愛以て
活動を其生命となし、
軌道を逸するなく
成功を期せ。

大正五年九月二十日印刷
大正五年九月二十五日発行
編輯兼発行人 藤本 薫
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
印刷人    中西勝太郎
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
印刷所    中西印刷合名会社
       京都市下立売小川東入西大路町十番戸
発行所    三丹新報社
       京都府天田郡福知山町字岡ノ九番地ノ拾五
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

記事検索
カテゴリー
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
アーカイブ
  • ライブドアブログ