大久保麑山:学校長

漢籍を大久保逕三(麑山)先生の門に學び【偉人和田豊治翁】大正14年

【偉人和田豊治翁】大正14年
著者    三木作次郎 著
出版者   三木作次郎
出版年月日 大正14
p2【偉人和田豊治翁】大正14年
〔画像〕p2【偉人和田豊治翁】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/2

先生(和田豊治)は幼時、
漢籍を麑山大久保逕三先生の門に學び、
書道を川端楊坪先生に習はれた。

兩親の庭訓に加へて、
賢夫人と噂された
祖母藤子(とうこ)刀自の
親しき薫陶を受けて居たが、
明治十二年八月、
十九歳の時に嚴父を喪ひ、
翌年に至りて亦祖母に訣かれた、
是より先き先生は十五歳の頃より
中津藩の典醫村上長翁の家に寄寓し
藥局の手傳をなすの餘暇を利用して
市學校に通學せられた。
 ―略―
抑も此の市學校と云ふは明治四年の頃、
福澤先生が西洋文化鼓吹の爲めに
中津藩士島津祐太郎、桑名豐山、津田耕烟の
諸氏に内意を授けて
中津町三之丁(今の南部小學校の敷地)
に創設したもので、
當時に於ける關西唯一の英語學校であり、
慶應義塾とは經費を異にして居れど、
分校見たいなやうなものであつた。

初代の校長としては小幡篤次郎氏が就職せられ、
濱野定四郎氏其の後を襲かれた。
學級は初等、中等及び高等の三科に分ち、
先生(和田豊治)は高等科に在り
主として洋籍を研修せられたと云ふ。
p25【偉人和田豊治翁】大正14年
〔画像〕p25【偉人和田豊治翁】大正14年
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/25
大正十四年二月廿七日印刷
大正十四年三月 八日發行
編輯兼 三木作次郎
發行者 大分縣下毛郡中津町二二六九番地
印刷者 伊崎 開治
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 株式會社 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/983122/1/166
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《留川一路》中津藩儒大久保麑山の家塾【基督者列伝:信仰三十年】大正10年

【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
著者    警醒社 編
出版者   警醒社書店
出版年月日 大正10
p2【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
p2【基督者列伝:信仰三十年】大正10年

《留川一路》
 現住所  福岡縣三瀦󠄀郡大川町
 生 國  大分縣中津町
 所屬敎會 大川日本基督敎會
安政元年二月十九日に生る。
※1854年3月17日
父は山脇藤吉、母をブン、
兄を山脇良市といふ。
出でて留川家を襲げり。

幼にして中津藩儒
大久保氏の家塾に學び、 ※大久保麑山:下記
明治五年(1872)より明治八年(1875)まで
藩立修德館に入りて、  ※進修館:下記に記載
英語數學を修めたり。

而して同年(明治8年)秋より長崎に出で、
米國宣敎師ヘンリー、
スタウト氏の家塾に入學し、
專ら英學を修めたるが、
其間家庭の禮拜に出席し、
聖書の講義を聞くこと一年有餘に及び
信仰の心生じ、
明治九年(1876)十二月廿五日、
長崎一致敎會に於て
ヘンリー、スタウト氏より洗禮を受けたり。

受洗後聖靈の指導と、
スタウト氏の勸めによりて、
宗敎界に献身するの決心をなし、
明治十二年(1879)東京に出で
一致神學校に入學せり。

而して明治十三年(1880)四月、
東京中會に於て傳道者に認定せられたり。
翌明治十四年(1881)神學校を卒業し、
明治十五年(1882)五月
鎭西中會に於て按手禮を受け、
牧師に任ぜられ、
鹿兒島、長崎、久留米の各地に傳道し
明治二十三年(1890)十二月
廣島日本基督敎會に赴任せり。

此の間佐賀久留米等にては
佛敎徒の迫害劇甚にして
暴徒のために危害を加へられしこと
一再に止らざりしといふ。

而して在職五年、
翌明治二十八年(1895)十月より
明治三十年(1897)まで
長府日本基督敎會を牧し、
同年(明治30年)十一月より大正六年(1917)まで
佐賀、唐津、大分、柳河の各地に傳道し、
現任地は福岡縣大川町なり。

松山日本基督敎會牧師《南廉平》、
新潟日本基督敎會牧師《西健二》
梅光女學院長《廣澤藤吉》氏の如き、
皆氏の傳道によりて基督敎に歸依したるなりと。

明治二十二年(1889)一月十八日、
蜂谷元壽氏の妹さめ子を娶り、
惠士、羔二、三郎、四郎の四男あり。
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
大正十年十一月廿五日印刷
大正十年十一月廿八日發行 (定價 貳圓)
編 纂 警醒社編纂
發行者 福永文之助
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
印刷者 村岡 平吉
    横濱市太田町五丁目八十七番地
印刷所 福音印刷合資會社
    横濱市山下町百〇四番地
版 元 警醒社書店
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
    振替 東京五五參番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日08:46
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日09:00
《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日15:28
《学校長(主長タル者・首座教員)大久保逕三》明治11年~17年
片端中學校
片端學校
中津中學校
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齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年

明治十七年
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。

【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
著者    日本歯科医師会 編
出版者   日本歯科医師会
出版年月日 昭15
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
明治十六年までに、
齒科で醫籍に登錄された者に就ては異説あるが、
左に判明した者を載せる。
 第五章 齒科醫術開業試驗
明治十六年十月公布された醫術開業試驗規則は、
明治十七年一月一日から實施されたが、
實施上から屢々改正された。
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、 ※下記
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。
 第三節 齒科試驗擧行地及期日
明治十七年から明治三十九年迄に告示された、
齒科醫術開業試驗擧行地及び期日は、
次表の通りである。
 第四節 齒科醫術開業試驗の狀況
東京に於ける試驗場は、
明治二十一年まで
本願寺淺草別院と慈惠醫院を充てたが、
 ―略―
齒科實地試驗は、・・・
明治二十六年第一回試驗から一日六名宛とし、
 ―略―
茲に明治十七年から三十九年までの、
齒科出願者及び及第者數を示すと、
次表のとおりである。
昭和十五年十月二十五日印刷
昭和十五年十月 三十日發行 (非賣品)
編輯兼發行者 小川正一郎
印刷者    柴山 則常
       東京市本郷區駒込林町一七二
印刷所    合資會社 杏林舎
       東京市本郷區駒込林町一七二
       電話駒込(82)七七三・七七四・七七五
發行所    日本齒科醫師會
       東京市神田區小川町一ノ三
       小川町ビルヂング内
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<第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ>
【[和漢医師継続請願ノ理由]】明治25年
著者    山田茂 編
出版者   山田茂
出版年月日 明25.10
  〇布 達
〇太政官第三拾四號
今般第三拾五號ヲ以
醫師免許規則布告相成候ニ付
醫術開業試驗規則別冊ノ通リ相定メ
明治十七年一月一日ヨリ施行ス
  但明治十二年二月
  内務省甲第三號布達ハ同日ヨリ廢止ス
右布達候事
  明治十六年十月廿三日
    太政大臣 三條實美
    内務卿  山田顯義
(別冊)
    醫術開業試驗規則
第一條 醫術ヲ開業セントスルモノハ
    此規則ニ據リ試驗ヲ受クヘシ
第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ
    但試驗ヲ擧行スヘキ地方及ヒ試驗期日ハ
    六ケ月前之ヲ内務卿ヨリ告示スヘシ
第三條 内務卿ハ醫術開業試驗ヲ擧行スル毎ニ
    官立及ヒ府縣立醫學校病院ニ從事スル者
    又ハ地方ニ於テ學術名望アル
    醫師理化學者等ヲ選ヒ
    試驗委員ヲ命スヘシ
     但齒科醫術開業試驗ニ於テハ
     齒科醫一名ヲ試驗委員ニ加フルヿアルヘシ
第四絛 内務卿ハ主務者ヲ派遣シ
    試驗一切ノ事ヲ監督整理セシムヘシ
第五絛 醫術開業試驗ハ之ヲ二期ニ分チ
    前期試驗後期試驗トス
    前後二期ノ試驗ヲ同時ニ受クルコトヲ得ス
     但齒科醫術開業試驗ハ
     全科一時ニ受クルモノトス
第六條 試驗科目ヲ定ムルヿ左ノ如シ
    ―略―
明治廿五年十月十一日印刷
同   年十月十二日出版 (非賣品)
編輯兼 山田 茂
發行者 東京市本所區龜澤町壹丁目五十番地
印刷者 根岸高光
    東京市牛込區市ヶ谷加賀町壹丁目廿三番地
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2023年09月11日 11:40
《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)
・従來開業、舊試驗及第者(二八名)
【歯科評論 (57)】大正4年
<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)・従來開業、舊試驗及第者(二八名)【歯科評論 (57)】大正4年

【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-01
齒科評論附錄
  齒科醫籍簿  p10-14/18
   例 言
一 齒科醫業ニ從事スルモノハ
  齒科醫籍簿を備付スルノ必要アリ
一 本社爾後引續キ毎號本紙附錄トシテ
  齒科醫籍ヲ掲載スベシ
一 齒科醫籍ハ内務省原簿ニ基キ
  第一號登錄者ヨリ順次掲載スルコトヽセリ
   但シ明治十七年以前ニ於ケル
   従來開業、舊試驗及第者ハ一括シテ巻頭ニ掲載ス
  ―略―
  大正四年一月二十五日
   齒科評論編輯局
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/10

免狀番號     一
免狀下附ノ日   明治十七年十月三十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 東京府士族
現住所    年  月  日死亡
氏  名 青山千代次
生年月日 
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/12

【歯科評論 (61)】大正4年(1915-05)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-05

免狀番號     二四九
免狀下附ノ日   明治二十七年十月十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 大分縣下毛郡中津町一四三 平民
現住所  大阪市西區九條三四八
氏  名 重松良説
生年月日 明治三年六月生
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507502/1/14
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<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月12日 09:47
齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
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《郡立中津中學》大久保麑山校長漢學を受持ち漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、【山田小太郎先生】昭和15年

【山田小太郎先生】昭和15年
出版者   学仏会
出版年月日 昭和15
p3【山田小太郎先生】昭和15年
〔画像〕p3【山田小太郎先生】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/3
  六十余年前(中津)市中ノ漢學塾ニ入リ
  初メテ四書等ノ素讀ヲ受ケ
  漢學講讀ノ門ニ入ル……
市中は中津を指すものに相違ないが、
何塾であつたらうか、
いろいろ各方面を採訪もし照會もしたが、
結局橋本塾から大久保塾へと、
時期を異にして入門されたことが、
始め中津の黑澤覺治氏から御報知があり、
其後に同じ頃一所に就學された、
從兄弟たる了戒晉作翁の御話で確かめられた、
その入塾の最初は七八歳頃であつたらしい。
 依つて此二塾に關する記事を
 下毛郡敎育會編纂の「下毛郡史」から摘錄する。
 「橋本塾は中間町に在り中津藩儒官
  手島物齋の弟鹽巖の主宰する處なり、
  鹽巖出てゝ橋本氏を嗣き
  早く山川東林に學び又熊府に遊學、
  後中津に歸り進修館敎授に任ぜらる。
  癈藩後自ら誠求め堂を再興す。
  明治十五年五月病で家に歿す享年六十七、
  鹽巖長身赫顔頗る威容あり、
  性最も謹巖剛直
  常に詩歌文章を以て末技となし、
  專ら窮經講史を尚ひ實用を以て主となす」
この最後の「詩歌文章を以て末技となし」以下は、
山田先生の講學精神の萌芽を培つたものと思はれる。

更に大久保塾に就ては
「塾は大久保麑山通稱逕三の經營する處、
 業を叔父野本白巖に受け夙成を以て名あり、
 又劍馬槍弓の術を習ふ、
 後三百間砲臺守隊長及進修館助敎となる、
 (明治)十八年八月歿享年六十一、
 人となり溫厚篤實
 親に事へて至孝なり、
 家甚だ貧困なりしかとも、
 父翁酒を嗜みたれば、
 供張一日も缺きたる事なし、
 其子弟に接するや溫顔にして疾言せず、
 諄々として誦讀を授く
 屢々其窮乏を救へりと」
とある、この塾に於ける感化も、
先生の生涯に相當色濃く
あらはれてゐるやうである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/18
 再度の郡立中津中學(片端中學) p41-45/591
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/41
筆の序てに明治十九年の三月に卒業した生徒は、
古門林太郎、鈴木辨次郎、大江達三郎(以上物故者)
末廣房市氏と自分位なものである、
更に記憶に殘れるものは、
該中學に二學年の高等科があつたことで、
昨年物故された元中津市長の中里直淸、
梅津春五郎、水島吉次、宇都宮仙太郎(舊姓武原)
諸氏がその生徒であつた。

當時の校長は大久保塾を開いて居られた
大久保麑山氏で漢學を受持ち、
首席敎諭は中里文太郞氏で國語を擔當、
山田先生は英語、敷田傳吾氏が數學
外に三木・小原の兩氏、
漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、
理化の大江春水氏、
經濟は石野孝太郎氏、
博物と歷史は川崎松次氏、
簿記と英語は
佐々木勇太郎氏(前南海電鐵社長)であつた。
 ―略―
猶ほ當時の生徒は右の外
鈴木恒三郎、磯村豊太郎、矢野目孫一氏等であつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/43
  扇城學舎  p51-
前記の明治十九年四月の勅令は實に寝耳に水であつた、
それに依つて中津中學が癈校になり、
在學子弟百餘名は全く修學の前途を
塞がれてしまつた、
そこで舊職員二三氏は「・・・」
私立中學扇城學舎を設立して、
これらの癈學生徒を収容したのであつた、
先生は其發起人の筆頭であつたので、
推されて舎長兼講師となつた、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/51
幸ひ校舎は舊中津中學の校舎を
其儘用ひることになり、
同時に書物器具等も借用出來たから、
差當りの授業には不便はなかつたが、
經營資金とて別に準備してないので、
僅かに授業料を以て校費を支辨し職員は概ね
「勞力義捐」であつた、
其人々は
小原多喜三、大江春水、
大久保恂、佐々木勇太郞、中里左吉郞諸氏で、
此當時の學生は百名餘に上り、
大部分は無論中津中學に學んで居つた人達で、
其内二人の女性がまじつてた、
重松重治さんの御話では、
扇城學舎は、山田小太郎氏といふ英語の先生で、
偉い方がやつて居ると聞いたので、
或人の紹介で入學したのだとのことである、
やはり同舎の學生であつた
上田欽策さんは現在中津蠣瀨町で、
醫業を營んで居られる、
その談片を左に掲げる。
 ―略―
猶ほ當時扇城學舎で學んで居つた、
女性の一人である生田やす子さん
(中津市新魚町住)の御話を次に掲げる。
「私共は姉二人が東京の高等師範に入學したので、
 是非上の學校に入りたいと思つて
 始めは福岡の女學校に入る積りでしたが、
 其内中津に扇城學舎が出來ることになつたので、
 自分等も入學したいものだと思ひまして、
 上田辰衛さまに御願して其御骨折りで
 漸くはいれました。
 十六の歳でございます、
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/52
昭和十五年一月五日印刷
昭和十五年一月十日發行 非賣品
編 者 井坂 秀雄
發行者 草野忠右衛門
    東京市麴町區一番町四ノ二
印刷所 大黑屋印刷所
印刷者 羽田 政勝
    東京市京橋區月島通五ノ八
發行所 學佛會
    東京市京橋區銀座西一ノ一
    永樂ビル内
    振替東京一五三一四一番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/588
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年08月23日 06:30
<大久保系圖:原本>p21~p22[67《長女 セツ》~73《二男 格》]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月07日 08:13
<大久保系圖:No.09>67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格
71《長男 恂》※大久保 恂
     文久元年九月二十三日生 ※1861年10月26日
     藩黌舘ニ學ビ
     十七歳ニシテ ※明治11年(1878)
     家督ヲ繼ク
     二十歳ノ時  ※明治14年(1881)
     京都ニ遊學シ
     村上佛山ノ門ニ入リ
     漢學ヲ學ブ
     明治十八年(1885)
     父ノ病ニヨリ歸郷シ
     助教トシテ
     中津中學校ニ教鞭ヲ取リ
     又
     父ニ 代テ塾生ニ代講ス
     二十六歳ノ時 ※明治20年(1887)
     大阪ニ出デ
     次デ上京シ
     獨學ヲ以テ英學ヲ修ム
     年餘ニシテ
     〔パーレー〕ノ萬國史ヲ讀破シ得ルニ至ル
     人 皆 以テ 天才トナシ
     将来ヲ嘱望サル
     明治二十四年(1891)
     肺患ニ罹リ
     同年(1891)十一月八日
     遂ニ起タズ
     享年 三十一
     中津 大法寺ニ葬ル
     法號 守法院遊山日恂居士
     中津藩士 逸見栗藏ノ長女
     武子ト婚約アリシモ
     遂ニ果サズシテ逝ク
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《大久保麑山》重松良説 大分県下毛郡中津町【臨牀歯科 (317)】1986-06

【臨牀歯科 (317)】1986-06
著者    臨牀歯科社 [編]
出版者   臨牀歯科社
出版年月日 1986-06
p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
〔画像〕p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/1
  医・歯 一元か二元か
   重松良説の時代
現在、大阪府歯科医師会会員名簿には、
堺市、重松雅人先生、
南區、重松成一郎先生の名まえが載っている。
奥野喜一本会会長と重松成一郎先生とは
ご兄弟といううわさも聞いている。
重松姓は、大阪の歯科界において
陽の当たる位置にある。

ところで、大正2年の『大阪現代人名辞典』
(大阪府立中之島図書館、郷土資料室備付資料)に、
医師、重松良説を立志伝中の偉人として
紹介している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/20
 重松良説君(医師)
“君は大分県の人、重松元貞の三男にして、
明治3年2月23日を以て生る。
其祖は新田家の末流にして
福岡県築上郡下垂水村に住せしが、後、
大分県下毛郡中津町出でて
代々眼科医を業とせり、
君、(明治)18年、
中津中学校を3年にして退学し、
故大久保麑山に就いて漢籍を学ぶ。
明治21年大阪に出で、
普通医術を修業せんと志せしも、
家計の都合にて歯科医に志を転じ、
堺市開業歯科医轟氏に就て
学説実地を攻究するかたわら、
東京、高山歯科医学院院外生徒として学説を究め、
明治26年第2回内務省歯科医術開業試験に及第し、
明治29年初めて現在の地に門戸を張れり。
妻をルイと言い、
一子貞雄は市岡中学に通学せり。
(大阪、西、九条通1の85、電西3384番)“
このように誌されている。
この時代には一般に歯科医を医師のなかの
専門科として心得てうたにちがいない。
現に大阪府統計にも、
歯科は医師の大わくのなかに組込んで、
置かれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/21
臨牀歯科 No.317(発行予定月1・4・7・10)
1部 ¥   600(送料別)
年間 ¥3,000(送料共)
昭和61年6月30日発行
編集発行・津下敏夫
京都・西七条石井町29
発行所  臨牀歯科社
京都・蛸薬師・堺町東
振替京都7-25583
電話313-5811
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/22
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《大久保藏之助:大久保麑山》中津私塾【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年

【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
著者    岩波書店 編
出版者   岩波書店
出版年月日 昭和7

中津 私塾
領内私塾四校あり。

明治三年(1870)
藩士 白石常人、
晩香堂を開き漢學を授く。
明治十七、八年(1885)の頃尚繼續せり。

僧 高梨旭山、
文政元年(1818)に塾を開く。
文久三年(1863)癈す。

農民 岩本 隱、
文久(1861)・元治(1864)の頃、
塾を立て皇學、漢學、算術を授く。

藩士 大久保藏之助、
安生年中 ※安政年中
※嘉永7年/安政元年(1854年–1855年)
 安政7年/万延元年(1860年)
塾を開き、漢、詩、算を授く。
p31【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
〔画像〕p31【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1075558/1/31
昭和七年十月 十日印刷 岩波講座 敎育科學
昭和七年十月十七日發行 第十三冊附錄「敎育」
編輯兼發行 岩波茂雄
印 刷 者 東京市神田區一ツ橋通
印 刷 所 三秀舎
      東京市神田區美土代町
發 行 所 岩波書店
      東京神田一ツ橋通
寺島製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/1075558/1/36
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《賀來理策君》大久保徑三先生の塾に入り漢學を修むる事三年【下毛郡史】大正1年

《賀來理策君》大久保徑三先生の塾に入り漢學を修むる事三年
【下毛郡史】大正1年

【下毛郡史】大正1年
大幡 武原理策   p288/372
《賀來理策君》   p295-296/372
▲武原姓を稱す
君の祖先は加來城主 加來惟直より出づ、
今より七代以前宗家と分れて一家を構へしが
明治維新姓氏を稱するに至り
苗字御免格以外の者は村名を取るを許されず
武原と稱せしが
明治四十四年四月其筋の許す處となり
賀來姓に復せりとぞ
▲君は安政三年九月二日を以て生る、
   ※1856年9月30日
父 文平 母 ヤス子 君は長男なり
幼時 寺子屋に入りて手習を受けしが
十七歳の頃 中津に出で
大久保徑三先生の塾に入り
漢學を修むる事三年、
次で中津養成校に轉じ生山直次君等と共に
螢雪の苦を積みて卒業と共に敎員免許狀を下附せらる
▲久原學校長となる
 ―略―
▲遷喬學校長となる
▲村會議員となる
▲郡農會評議員となる
▲第一次郡會議員時代
▲第二次郡會議員時代
▲多方面の趣味
▲君の人物
大正元年十二月十五日印刷 下毛郡史奥付
大正元年十二月二十日發行 定價金拾圓
著者兼 山本 利夫
發行者 大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
印刷者 水谷 景長
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
發行所 私立三余女學校
    大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
發賣元 東京堂
    東京市神田區表神保町三番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《福土勘八郎君》大久保先生に就て漢籍を學び【下毛郡史】大正1年

《福土勘八郎君》大久保先生に就て漢籍を學び【下毛郡史】大正1年

【下毛郡史】大正1年
 《福土勘八郎君》  p280/372
▲君の幼時
君の家は世々福土の里正たり、
一郷の尊敬を受くる事深かりき、
父 與八 母 タケ子
年漸く傾きて子なし、
即ち中津藩 磯貝十太夫の六男を養ふて嗣とす
之即ち君にして
嘉永六年十月十五日を以て中津に生れしなり、
※1853年11月15日
君 兄弟九人あり
養母タケ子は實に其長姉に當ると云ふ
▲君の修養
養父 與八氏は庄屋に上りてより
能く郷内を治め、
年貢の上納に堪へざるものあれば
自ら私財を投じて之を償ひ
常に第一着を占めしかば
領主其功を賞して苗字帶刀を免ぜしと云ふ、
君は十二三歳の頃
中津奥平要氏に就て手習を受くる事數年、後
大久保先生に就て漢籍を學び
側ら永井梅二郎氏に就て手習を修む
▲郡會議員となる
▲村會議員となる
▲郡會議員時代
▲福土道路の開鑿
▲君の人物
大正元年十二月十五日印刷 下毛郡史奥付
大正元年十二月二十日發行 定價金拾圓
著者兼 山本 利夫
發行者 大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
印刷者 水谷 景長
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
發行所 私立三余女學校
    大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
發賣元 東京堂
    東京市神田區表神保町三番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《半田鐵一郎君》藩儒 大久保徑三、橋本鹽巖等に就て漢籍を修む【下毛郡史】大正1年

《半田鐵一郎君》藩儒 大久保徑三、橋本鹽巖等に就て漢籍を修む
【下毛郡史】大正1年

【下毛郡史】大正1年
 《半田鐵一郎君》  p249-250/372
▲君の幼時
君は文久二年八月二十四日を以て生る、
  ※1862年9月17日
父 貢一 母 コウ子
君は其長男なり、
君の家は世々奥平家の藩士たり、
幼時 金谷 佐久間某に就いて手習を受け
十歳 市學校に入り、
翌年諸町小學校に轉じ、
卒業後 片端中學科に普通學を修め、
更に藩儒 大久保徑三、橋本鹽巖等に就て漢籍を修む
▲東都に遊學す
▲二豐新聞社を創立す
▲中學校を創立す
▲郡會議員時代
▲實業銀行を創設す
▲赤十字社商議員に擧げらる
▲壹千圓を寄附す
▲君の人物
▲君の家庭
大正元年十二月十五日印刷 下毛郡史奥付
大正元年十二月二十日發行 定價金拾圓
著者兼 山本 利夫
發行者 大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
印刷者 水谷 景長
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 博文館印刷所
    東京市小石川區久堅町一〇八番地
發行所 私立三余女學校
    大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
發賣元 東京堂
    東京市神田區表神保町三番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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