《賀來素吉君》母 宇佐郡佐田村 賀來家 カヂ子
【下毛郡史】大正1年
【下毛郡史】大正1年
【下毛郡史】大正1年
六、癈藩置縣 p107/372
明治八年小倉縣の第七大區となり
仝郡を七小區に分ち、
各正副戸長數人を置きて之を管轄す、
今其區域を示せば左の如し
―略―
第三小區 加來村
一四、大幡村の自治 p147/372
明治廿二年村會議員十二名の選擧を行ふ
賀來 長造
明治廿三年一月議員定數を十四名にし增員二名の新選
及補缺選擧を爲す
賀來 判造
明治廿五年四月議員八名の改選を爲す
賀來 淸吉
賀來 判造
明治三十四年四月
賀來 健治
賀來 淸吉
明治三十七年四月
賀來 駿一
第九編 郡制の施行 p213/372
第一次 臨時會
明治廿四年
賀來素吉
大幡 賀來素吉
《賀來素吉君》 p221/372
▲醫を業とす
君の祖父を賀來途德と稱し二子あり
長 途弘 家を繼ぎ、
次 訥 醫を學びて
天保三年別家して亮采と號し醫業を始む、
次で宇佐郡佐田村 賀來家より夫人カヂ子を迎へ
嘉永六年五月廿五日 一子を擧ぐ、
※1853年7月1日
之即ち君なり
君始め兄弟七人あり
長兄不幸にして夭折し
次男 判造途信 入りて宗家を襲ぎ、
※大幡村 賀來家
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年09月04日
別府萬壽人(別府敏治の二男)《別府家系図》別府祐弘様 所蔵
別府萬壽人 明治43年(1910)3月9日生
父 別府敏治 明治10年3月3日生
母 別府タク 明治15年10月22日生
明治33年12月6日
大分県下毛郡大幡村大字賀来81番地
賀来判造 三女 婚姻
[賀来判造の三女:別府タク]
[賀来判造の長男:賀来駿一]
三男 糺 兄の後を襲いで醫を修めしが
廿五歳を以て不歸の客となりしかば
君は四男を以て家を嗣げり、
君 幼時 蒲柳の質にして
三歳父を失ひ母の鞠育により人となれり
▲君の修養
―略―
▲夫人を迎ふ
明治五年夫人トナ子を宇佐郡長州町南家より迎えへ
琴瑟能く和して母を扶け以て家事の經營に任じ、
内は産を治めて益々家運を盛ならしめ、
外は社會に活動して地方の文化に貢獻せり
▲縣會議員となる
―略―
▲産業の振興を獎勵す
―略―
▲北堂の賛助
君が以上の事業に奔走するに就て逸すべからざるは
北堂揖子刀自の夫人トナ子と共に内に之を佐けし事之なり、
※揖子:楫子の誤植?
刀自は婦人として才學一郷に冠たり、
―略―
▲郡會議員時代
―略―
▲米穀改良組合長となる
―略―
▲其他の公職
―略―
▲君の終焉
―略―
▲君の趣味
―略―
▲君の人物
―略―
▲君の逸事
君始め際造と呼びしが十八歳の時
病に臥し殆んど死し又蘇る、
依つて蘇吉と改めしが後
同音の故にて素吉と稱するに至れりとぞ、
―略―
▲君の家庭
君の夫人トナ子又頗る母堂の風あり
夙に寡婦となりて固く貞節を守り、
能く故人に仕ふ、
二子あり、
長を道子と云ひ、
次を維一郎と呼びしが不幸
維一郎君早世せしかば
揖子刀自の生家より團二君を迎へて
※揖子:楫子の誤植?
長女に配し其祀を繼げり、
蓋し團二君は
揖子刀自の兄 惟熊氏の孫に當ると云ふ
※揖子:楫子の誤植?
曩に中央大學法科を卒業し大に社會に活躍せんとす、
君亦後ありと云ふべし
大正元年十二月十五日印刷 下毛郡史奥付
大正元年十二月二十日發行 定價金拾圓
著者兼 山本 利夫
發行者 大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
印刷者 水谷 景長
東京市小石川區久堅町一〇八番地
印刷所 博文館印刷所
東京市小石川區久堅町一〇八番地
發行所 私立三余女學校
大分縣下毛郡上津村大字折元五百五拾七番地
發賣元 東京堂
東京市神田區表神保町三番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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