別府賢吉

《別府賢吉》弁護士 旭川信用組合(四代目組合長)【北海道経済の百年】昭和42年(1967)

《別府賢吉》弁護士 旭川信用組合(四代目組合長)
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)

【北海道経済の百年】昭和42年(1967)
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
(北海タイムス社, 1967)  

【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p1
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/1

  大正前期には五金庫の前身  p76/148
本道には市街地が指定されるまでの大正前期に、
産組法の従来の規定による
単営の信用組合が引き続き新設されており、
その中には、
現在の信金の前身となる五つの組合が含まれていた。
旭川(大正三・四)、古平(大正四・十)、根室(大正五・五)、
帯広(大正五・五)、室蘭(大正六・九)の各信用組合である。
(括弧内は設立年・月)

旭川は曲木工芸会社の秋本一也が初代組合長。
当時旭川は、大正二年の大凶作で、
農民はもとより
“中小企業の困苦、言語に絶す”る不況下にあった。
大正七年、本道市街地信用組合の第一号となるが、
秋本の事業の失敗もあって、
大正十二年には破産状態となる。
これを更生させたのは
弁護士 別府賢吉(四代目組合長)であった。

古平(組合長 梅野梅蔵)は
"大正四年秋なかば上る朝日の空高く"の歌声で
「御大典記念有限責任古平信用組合」
という長い名前がついて生まれた。
漁業、加工業者中心でつくった信用組合だ。

根室も同じだが、ここは昭和八年まで、
購・販事業を兼営し続ける。

帯広は高倉治助、
室蘭は小林孝一郎、
いずれも地元の有力資産家が組合長である。
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p76
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p76
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/76

北海道経済の百年
昭和四十二年十月十五日発行
編集人 平塚 正雄
発行人 高柳 幸雄
製 作 中央公論事業出版
発行所 株式会社 北海タイムス社
    札幌市大通西四丁目
    電話札幌(23)〇一三一(代表)
    定価五〇〇円
【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p131
〔画像〕【北海道経済の百年】昭和42年(1967)p131
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442852/131
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《別府賢吉》福岡縣人 別府又十郎の五男 別府祐六の兄【大衆人事録. 第3版】昭和5年(1930)

《別府賢吉》福岡縣人 別府又十郎の五男 別府祐六の兄
【大衆人事録. 第3版】昭和5年(1930)

【大衆人事録. 第3版】昭和5年(1930)
《黑屋 辰六》 勳六   p513/1380 ※別稿に記載
〔家庭〕
長女 キン(明治三四年生)は
福岡縣人 別府祐六に嫁す

《別府 賢吉》      p1066/1380
 旭川市會議員
 旭川商工會議所顧問
 旭川市辯護士會會長
 旭川市育児院理事
 旭川市信用組合長
 救護會理事
 上川無盡(株)監査
 辯護士
 旭川市四條通一二左
 電話 旭川三一五
君は福岡縣人 別府又十郎の五男
別府祐六の兄
明治十六年三月 福岡縣築上郡三毛門村に生れ
明治卅六年分家す
五高を經て明治四十一年
東京帝大法科獨法科を卒業し
明治四十年
東京市に於て辯護士を開業せしも
幾許ならずして之を癈し
やまと新聞社に入り政治部記者たりしが
明治四十四年 現住所に於て再び辯護士となり
以て今日に至る
現に旭川市會議員外 前掲諸職に在り
宗敎 眞宗
趣味 讀書
〔家庭〕
妻  哲子 (明治二三)栃木縣人 小林織吉 三女
            宇都宮高女卒
長男 隆博 (大正 九)
長女 八重子(明治四四)旭川高女卒
二女 喜多子(大正 三)
三女 惠美子(大正 五)
四女 道子 (大正一一)
二男 隆彦 (大正一五)

《別府 祐六》 辯護士  p1066/1380
 東京市外大井町坂下二七三七
 電話 大森一〇〇五
君は福岡縣人 別府又十郎の六男
別府賢吉の弟
明治廿八年七月廿五日を以て生れ後 分家す
大正十年 京都帝大法科英法科を卒業し
直に十五銀行大阪南支店に入り
昭和二年 同行を辭し
昭和三年 辯護士を開業
山内確三郎法律事務所に勤務し
以て今日に至る
宗敎 眞宗
〔家庭〕
妻  きん(明治三五) 大分縣人 黑屋辰六 長女
            門司高女卒
長女 明子(大正一一)
二女 知子(大正一三)
三女 晶子(昭和 二)
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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『別府賢吉:大學豫科 第十二回卒業生』第五高等学校[龍南會雜誌]101

『別府賢吉:大學豫科 第十二回卒業生』
第五高等学校[龍南會雜誌]101-64-126

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 101: 64-126
Issue date 1903-10-24
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5611
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5611/1/101-013.pdf

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○卒業證書 授與式  p2-5/64
七月一日、 ※明治36年(1903)7月1日
本校工學部第三回、
大學豫科第十二回
卒業證書授與式を擧行せらる。
 ―略―
本年卒業生の姓名は左の如し。
工學部 第三回 卒業生
土木工學科(九名)
 ―略―
機械工學科(八名)
 ―略―

大學豫科 第十二回 卒業生
     〔○は京都大學ヘ〕
     〔△は福岡大學へ進入〕
第一部 法科(四十六名)
 ―略―
 別府賢吉(福岡) ※東京帝國大學
 ―略―

第一部 文科(二十四名)
 ―略―

第二部 工科(二十八名)
 ―略―

第二部 理科(七名)
 ―略―

第二部 農科(十名)
 ―略―

第三部 醫科(二十八名)
 ―略―

又當日の學事報告は左の如し。
 ―略―

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『別府賢吉:東西德敎の比較』第五高等学校[龍南會雜誌]100

『別府賢吉:東西德敎の比較』
第五高等学校[龍南會雜誌]100-183-204

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 100: 183-204
Issue date 1903-06-25
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5708
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5708/1/100-026.pdf

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

○第三回演説會記事       p4/23
滿地の新綠微風に薫ずる
五月廿二日夜、    ※明治36年(1903)5月22日
演説部は卒業生餘䬻を兼ね、
第三回演説會を瑞邦舘裡に開く。

『東西德敎の比較』 別府賢吉君 p7-8/23

豊頬とカイゼルの髯とを
徐ろに壇上に運んで説て曰く、

余少時漢學を崇拜し西洋の物質的文明を蔑視せしが、
近時少しく基督敎を研究するに至り
卽ち今聊か東西思想界の比較を試みんとす、

先づ西敎の主なる基督敎は其の理想を唯一神にして
愛、正義、眞理の神なるゴツトに置けり、

之に對し東洋思潮の根源たる儒敎は、
治國平天下を以て目的とせり、
今其の及ばせし社會的現象に見れば、
我國明治維新の大業の如き
戰國時代の活劇の如き、
是れ儒敎の力にして

佛蘭西革命の如き
米國獨立の如きは
是れ基督敎の力なり、

一は愛と正義の敎にして
ルツテル、ワシントンの如き人物出でたり、

一は大義名分を精神として
藤田東湖、四十七士の如き義士現はれぬ。

要するに基督敎の根本義は神の前には公共なり、
正義の前には恐るゝ所なしといふに在り、

然りと雖も這般の思想は東洋にも亦
古來存せりしなり、

彼の義理の爲めには身を忘れ、
水火の中をも辞せざるが如きは
此の思想の發現なり。

基督敎が文明を西洋に與へし如く。

儒敎は東洋に文明を與えざりしと雖も、
其の眞理は必ず存在せりしなり、
唯其の精神の發展せざりしのみ。

次に両敎の將來を想望するに、

余は到底基督敎に隨喜する能はず、
文明人を救濟する宗教なりと信ずる能はず、
今日西洋に於て戰爭等の殘忍なる事行はれ、
漸く德敎の根本を喪失せんとしつゝあるは
全く此の故なるが如し。

佛敎は吾人をして
厭世的の境涯に導きし弊はありとするも、
而も死に對する大覺悟を養成せし上に於ては、
却て大に西人に誇らんと欲する所なり、

西人は多く死に對して
恐怖の念を懐くと雖も、

我國民は全く之を超脱し、
平然として死を見ること歸するが如し、

是れ我か國民が善戰の士なる所以にして、
斯くの如き思想は
全く東洋的の大精神より
胚胎し來りたるものなりと信ず、

と西敎は遂に東敎の上に
出つる能はざるを論じ
終りて降壇せり。

其の滔々として
東を論じ
西を説き、

理を談し
例を掲げ、

巧みに擒縱の妙を極めて
遂に其の要を逸せざりしは、

さながら渓流の
紆餘曲折の致を呈しつゝも、
終始東指して大海に朝するに似たり、

而も其の切實なる語氣は
大に聽者を感せしめたりき。

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『活動の時機:別府賢吉』第五高等学校[龍南會雜誌]91

『活動の時機:別府賢吉』
第五高等学校[龍南會雜誌]91-56-89

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 91: 56-89
Issue date 1902-04-25
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5325
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5325/1/091-010.pdf

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

○演説部大會(三月七日)           p27/35
 ※明治35年(1902)3月7日

第一席は『活動の時機』なる題を掲げて立てる  p28-29/35
一部獨法二年の別府賢吉君である、

君が諄々として説く所を聞けば
大体こうである、

宇宙間の萬物は皆活動して居る
――勿論此處には君の審しき例証があつたのである――
人も亦其の數に漏れ?活動して居る、

彼の偉人傑士は只?の活動が、
より大に、
より烈しかつたのだと説き、

更に進みて、
社會と活動を悲觀して
厭世的な考を持つ人あり、

又は他人の活動を罪悪と見て、
それを禁せんが爲め
書を焼きし秦始皇の如きあれども、
二者共に否なりと辨駁し、

更に滔々數万言
――支那流で云へば――
であつたが、
惜むらくば、
演説し終らざるに時間が來た、

が而し、
その結論も、
大概は讀むことが出來る、

時間の短いのは、
始めから、
判然つて居るのだから、
思想も適當に短縮して置く必要があるのだ、

この点が卽ち稽古になるのである、
龍南の辨士には屡々
演し終れずに降壇するものがあるが
此の風は大に注意す可きものである。

第二席はスヰート先生である、
――先生は別府君が演説中に來られた――
演題は御國名物のスキスピア、
内懐から原稿を取出されて、
自分の演題は、
セキスピアとしあるけれど、
實は、
セキスピアを例證として、
如何に英文學を研究す可きかを
説くのであるとの前置て、
ピチャピチャ饒舌られたが、
實の所、
雜報子は、
聞き取ることが出來ぬ
――英語が下手であるから――
が大体を綴り合せて見ると、
書物は一編大体を通讀して、
その後に文法的に解す可し、
これ英文學を研究する奥の手で、
又其書物の著者が、
如何なる境遇にあるしとき、
その著ありしかを知る必要あり、
―略―

於是乎        p32/35
遠山部長は壇上に立ちて
各辨士を批評せらるゝには

別府君は誠に好個の辨士である、
アーチキユレーションも
明晰であつたし、
語の中に卽ち
音のムーブメントのに
思想の愉快が籠つて居て
聽く者が中々聽き取り易かつた……
説明的の演説には最も適當して居る、
が動もすれば平板に流るゝ患があるから
それを一ツ注意せねばならぬ、
又今少し強く
エキスプレツスションをなした方がよい、
君はまだ二年で練習する機會があるから
奮發し給へ
―――
先生話中に必ず
上衣の一番下のボタンを
懸けてははずす癖あり
―――
―略―

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『在寮法科生懇話會:別府賢吉・松村仙造』第五高等学校[龍南會雜誌]86

『在寮法科生懇話會:別府賢吉・松村仙造』
第五高等学校[龍南會雜誌]86-64-104

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 86: 64-104
Issue date 1901-06-18
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5199
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5199/1/086-011.pdf

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『在寮法科生懇話會』 p18/42
本學年最終の懇話會は
六月三日午後八時から  ※明治34年(1901)6月3日
瑞邦舘で開かれた、
―略―

次は別府君の「偶感」、 ※別府賢吉
ジゴ聲張り揚げて
現社會の狀態を
痛憤したのはよかつたが
手足の活動が酔狂に類して居たのは
聽者の拍手を迎ゑたと同時に又た
其の笑を招いた。

―略―

次に出たのは
知名の松村和尚樣、   ※松村仙造
何か説敎でもなさるのかと
耳傾けて居たが、
幽靈の、
鬼の、
腕かぢりの、
脛かぢりので終つたには
少々閉口仕つた。

―略―

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《別府賢吉》君[釧路國の部]【東北海道人物画伝. 第1巻】大正1年

《別府賢吉》君
[釧路國の部]
【東北海道人物画伝. 第1巻】大正1年

【東北海道人物画伝. 第1巻】大正1年11月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920895/110
[釧路國の部] p41/124
《別府賢吉》君 p79/124
札幌地方裁判所々屬
法學士 別府賢吉氏は、
明治十六年十月一日          ※明治16年(1883)10月1日生
福岡縣築上郡三毛門村大字三毛門に生る。

三十六年 熊本第五高等学校を卒業して ※明治36年(1903)
東京帝國大學 法科大学 獨法科に入り、
四十一年卒業して法學士となる。    ※明治41年(1908)

四十二年二月 辨護士登録を了して   ※明治42年(1909)2月
東京に於て開業す。

開業幾干もならずして或る事情に防げられ、
氏も亦將來辨護士たるを好まず、

仝年 やまと新聞社に入りて      ※明治42年(1909)
政治經濟法律記者となり
昨 四十四年十一月まで在社、     ※明治44年(1911)11月

此間 氏は文官高等試験に應じたるも、
筆記に及第して
口授に失敗したるは惜む可きなり。

四十四年十二月渡道して        ※明治44年(1911)12月
旭川町に來りて辨護士開業、
釧路町の有望に觀取して出張所開設、
少壯辨護士として令聞あり。
《別府賢吉》君
 辨護士 法學士
《別府賢吉》君
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920895/79

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《別府賢吉:辯護士》【旭川案内】大正3年:大正4年

《別府賢吉:辯護士》
【旭川案内】大正3年:大正4年

【旭川案内】大正3年8月3日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948101/28
辯護士  p12/30
 入山知一 四ノ十一、左一 電話三五七番
 阿部清道 四ノ九、 左七 電話五三九番
《別府賢吉》四ノ九、 右九 電話三一五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948101/12

【旭川案内】大正4年12月20日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967147/28
辯護士   p10/30
 入山知一  四ノ十一左一   電話三五七番
《別府賢吉》 四ノ九 左九   電話三一五番
 阿部清道  四ノ九 左七   電話五三九番
 太田 諭  宮下ノ十 左ノ一 電話一三九番
 青柳新次郎 五ノ九 左四   電話三七三番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967147/10

旭川区内の辯護士及公証人は左の如し p12/30
入山知一君 象像區議の項に在り(p8/30)
辯護士《別府賢吉君》
辯護士《別府賢吉君》
辯護士 阿部清道君
辯護士 太田 諭君
公証人 野田英三君
公証人 菅原景忠君
旭川區内に居住せずして事務所を設置し
出張して事務を所理せらるゝ十餘の辯護士あり
下欄營業案内欄に就て見らべし
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967147/12

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

〔即ち〕を連發せし別府賢吉君:第五高等学校[龍南會雜誌]82-90-110

〔即ち〕を連發せし別府賢吉君:第五高等学校[龍南會雜誌]82-90-110

[熊本大学学術リポジトリ]
Title 雜報
Author(s)
Citation 龍南會雜誌, 82: 90-110
Issue date 1900-10-30
Type Departmental Bulletin Paper
URL http://hdl.handle.net/2298/5045
Right
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/5045/1/082-014.pdf

在寮法科生懇話會   p8/22
(明治33年)十月十九日午後七時半より
例の如く瑞邦館にて開會す、
會するもの五十余人、
非常の盛會なりき。
此日の討論題次の如し
國民仝盟會外交政策の可否

片山委員の開會の辭、
發題者高橋君の説明を終りて討論に移りぬ、
此日抽籖により柴原君議長となる。

積極の側に立ち國民仝盟會を賛助したる論者は、
詭辯を以て名ある高橋君、
愛嬌ある野守君、
莊重なる杉生君、
眞面目なる白石君、
堅實なる花田君、
論理を以て「ゴマ」かさんとせし藤堂君、
〔即ち〕を連發せし別府君等にして、

消極論者として大に支那保全論を攻擊せしは、
多々辯して遂に本題に入らざりし佐藤君、
湯を飲むと三斗狼の如くうなる村上君、
手を振る野村君、
支那人的模糊を以て瞞着せんとし河野君、
アウストリヤとアウスタラリヤ?を間違へたる柳川君、
其聲朗かに其論矯なる谷口君、
穏當なる大場君等なりき
議論坌湧甲論乙駁、
時の移るを覺へざりき、
討論終りて茶話會に移り、
各々例の苛酷なる拳に練なれて午後十一時散會。

討論會        p8/22
昨年鉄道國有の可否に關し討論會を開き、
非常の盛況を極めた事は、
諸君の既に知らるゝ所であるが、
今回又、
「現時日本に於て死刑を廢する可否」
と云ふ題て討論會が開かれた。
今之の概況を評して見よう。
―略―
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《大學豫科第一部 一年 法科(乙組)》
《別府賢吉 福岡》

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
別府賢吉[大分県立中津中学校]【第五高等学校】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257804.html

【第五高等学校一覧】明治32-33年
大學豫科第一部 一年 法科(乙組)p185/253
別府賢吉 福岡
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812891/185

【第五高等学校一覧】明治34-35年
大學豫科第一部 二年(丙組)   p54/303
別府賢吉 福岡平民
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/54

【第五高等学校一覧】明治34-35年
大學豫科第一部 三年(丙組)   p150/303
別府賢吉 福岡平民
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/150

【第五高等学校一覧】明治34-35年
大學豫科第拾貳回(明治三十六年七月)卒業
第一部(法科)          p284/303
別府賢吉 福岡平民 東京法科大學 在學
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812892/284

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《在寮法科生懇話會》1900年10月19日午後7時30分より
(明治33年)十月十九日午後七時半より
例の如く瑞邦館にて開會す、
會するもの五十余人、
非常の盛會なりき。
此日の討論題次の如し
國民仝盟會外交政策の可否

[國民仝盟會]
国民同盟会 発会式を挙ぐ
外交上に強硬なる主的方針を以て、対清問題を解決せんが為、
国民の一統を図らんが為発起せられたる国民同盟会は、
昨日(明治33年9月24日)午前十一時より、
上野公園精養軒に於て組織式を挙行せり。
当日の来会者は近衛公を始め
二条基弘、長岡護美、佐竹義理、馬屋原彰、
曽我祐準、島津忠亮、谷森真男、柴原和の九貴族院議員、
大石正巳、佐々友房、箕浦勝人、河野広中、加藤政之助、
野間五造、鈴木重遠、神鞭知常、深尾親兼、大村和吉郎、
柴四朗、佐治幸平、犬養毅、鈴木万次郎の十九衆議院議員、
其他
荒川邦蔵、守屋此助、天野確郎、三宅雄二郎、頭山満、
安東俊明、川村亨、恒屋盛服、国友重章、中井喜太郎、山田猪太郎
並に同盟新聞通信記者等総計九十三名なりしが、
近衛公は昨日恰も皇太子殿下の学習院行啓に接し
漸く午前十一時五十分会場に来着間もなく開会、
最初に発起準備委員より昨日迄の経過を報告し、
続いて近衛公爵の演説あり、
その趣旨は公が頃日新聞記者同盟会の席上に於てせられたる者と大差なく、
〔省略〕
〔『読売新聞』明治33年9月25日〕
国民同盟会 発会式を挙ぐ 今日の紙面 明治新聞雑誌記事紹介
過去の今日はどんな日だったのかを
明治時代の新聞紙面から検討するサイトです。
http://sinbunzassikiji.blog91.fc2.com/blog-category-222.html
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別府賢吉【帝国大学出身名鑑】昭和7年:昭和9年

別府賢吉【帝国大学出身名鑑】昭和7年:昭和9年

【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和7年12月16日発行
[別府賢吉] p807/1005
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子  明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博  大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり
現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/807

※ 明治十六年三月生。
  正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄

【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和9年11月25日発行
[別府賢吉] p786/990
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子  明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博  大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280156/786

※ 明治十六年三月生。
  正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[追記]
二男 別府隆彦(大正十五年生)
別府隆彦:元明治大野球部監督
生 大正15年(1926)
歿 平成22年(2010)12月25日

[明治大学野球部]
別府体制のスタート
7季目で宙に舞う別府監督
田中が連盟2千本目の記念アーチ
島岡―別府体制でスタートした明大。
昭和天皇の崩御で昭和から平成に代わった、
明大も春のリーグ戦の第1週(早明戦)が終わった後の4月11日、
島岡吉郎総監督が亡くなった。享年78歳。
 
 昭和27年1月1日、明大助監督兼明治高校の監督とはいえ、
学生時代は応援団長だった異色の存在だけに球界に大きな波紋を呼び、
主力選手の集団退部で社会問題にまでなったが、
平成元年に亡くなるまで42年間野球部の指導的地位にあって
明大野球部を隆盛に導いた功績は大きい。
 
 カリスマ的存在であった島岡総監督の死去は、
野球部にとってなにものにもかえられない損失だったが、
幸い島岡総監督に旧制明治中学の監督のころから支えて来た、
別府隆彦氏が前年秋に監督になっていたので、
大きな波乱もなく、スムーズなバトンタッチがきた。
 
 春のリーグ戦は第1週が伝統の早明戦。明大は1回戦が舟山の好投で、
2回戦は東瀬―赤羽根のリレーで連勝。
その翌日島岡総監督の訃報に接した。
生前島岡総監督は「打倒早慶」を旗印に、
部員を叱咤激励してきただけに、
早明戦の連勝は亡き島岡総監督へのなによりの“はなむけ”になった。
―略―
http://homepage3.nifty.com/meijibbc/history/history/history11.html

[別府隆彦氏死去 元明治大野球部監督]
別府 隆彦氏(べっぷ・たかひこ=元明治大野球部監督)
(平成22年12月)25日午後4時9分、
間質性肺炎のため東京都新宿区の病院で死去、84歳。
北海道旭川市出身。
葬儀・告別式は29日午前10時半から東京都杉並区永福1の8の1、
築地本願寺和田堀廟所で。
喪主は長男寛隆(ひろたか)氏。

明大では名物監督だった島岡吉郎氏の後を継いで
89年から95年まで監督を務め、
東京六大学リーグで優勝4度。
95年は明治神宮大会で優勝した。
監督退任後は総監督も務めた。
2010/12/26 10:34 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122601000074.html
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