大邊 男(マスオ):大河内傳次郎

《大邊 男:大河内傳次郎》【日本紳士録. 44版(昭和15年)】

《大邊 男:大河内傳次郎》
【日本紳士録. 44版(昭和15年)】

【日本紳士録. 44版(昭和15年)】
 昭和15年5月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127298/1133

《大邊 男》 p584/1138
藝名 大河内傳次郎
映畫俳優
京都市 右京、嵯峨、北造路町
●所得税 五三一五
▲電話  嵯峨 三六〇(2)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127298/584

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

《末松玄洞》[文部省]【官員鑑. 明治8年6月】

《末松玄洞》[文部省]【官員鑑. 明治8年6月】

【官員鑑. 明治8年6月】
[文部省]  四月上瀚校正 大手町二丁目 p63/108
十二 少録    末松玄洞  コクラ  p63/108
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779210/63
[愛知外國語學校]p65/108
 八等出仕    吉川泰二郎 ワカヤマ
十三等出仕    宮崎政和  トウケイ
十五等出仕    鈴木 忍  ニヒハル
教官
十三等 三等教諭 下條幸次郎 カサマ
         小川セン吉 アイチ
十二等出仕    木邨乙吉  イシカワ
[廣島英語學校] p65/108
         大澤良雄  アイチ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779210/65

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

blog[小野一雄のルーツ]改訂版

[下西友枝村 末松玄洞 醫術出精]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2559918.html

[下西友枝村 末松玄洞 醫術出精]【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

[下西友枝村 末松玄洞 醫術出精]
【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年

《末松玄銅》
『大河内傳次郎』著者 富士正晴
 中央公論社
大辺耕斎=シン(末松玄銅六女:明治21年(1888)死亡) ※末松玄洞
       (大河内傳次郎の祖母)

《末松玄洞貞 (初代玄洞)》
《末松玄洞貞親(二代目玄洞)》
『実録 大河内伝次郎』著者 池永 敬
 ライオンズマガジン社
 平成2年5月10日発行
大辺 ユキ   西友枝・末松玄洞 貞  長女 p65
           (初代玄洞)
        慶應四年八月二十三日
       ※慶應4年8月23日(1868年10月8日) 歿

大辺 シン   西友枝・末松玄洞 貞親 五女
           (二代目玄洞)
        明治二十一年十月九日     p65
       ※明治21年(1888)10月9日 歿

《末松玄洞》 ※(初代玄洞):小野一雄
《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.004
039『婦』 13-2
同郡友枝村 末松玄洞 女 奥野
文化八辛未年生  (1811年1月25日)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291489.html

【福岡県史資料. 第4輯】昭和10年3月31日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/431
一一 明治四年 豊津縣 町家 帯刀之者 言上書 p335/434
本書表紙に「五郡并町家帯刀之者言上書、未十一月 民事課」とあり。
      ※明治4年辛未11月(1871年12月12日)
明治四年豊津縣民事課にて、
田川、京都、仲津、築城、上毛、
五郡の各手永大庄屋に命じて、
帯刀の資格者調を書出さしめしものにして、
企救郡の缺げたるは、
當時企救郡は日田縣の管下に属せしを以てなり。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/335
上毛郡 友枝手永 p354/434
下西友枝村 末松玄洞 醫術出精、嘉永四年十二月 苗字帯刀 p354/434
               ※嘉永4年12月(1851年12月23日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213894/354

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

『大河内傳次郎』著者 富士正晴
 中央公論社
 昭和54年1月20日再版

大辺耕斎=シン(末松玄銅六女:明治21年(1888)死亡) p9
       ※末松玄洞
       (大河内傳次郎の祖母)

また、晋の母シンは福岡県上毛郡西友枝村の
末松玄銅六女であるが、 ※末松玄洞
まことに大辺耕斎なる者に嫁すのに適しいような
父の名前といわねばならない。
医者か儒者であろうと思っていたが、
儒者だということである。  p12
     ――――――――――
『実録 大河内伝次郎』著者 池永 敬
 ライオンズマガジン社
 平成2年5月10日発行
大辺家の一覧表を、
富士正晴著「大河内傳次郎」(中央公論社)を参考にしながら、作ってみよう。
大辺耕斎(医者)
大辺シン(儒者・末松貞親、号・二代目玄銅の五女) p36
                 ※末松玄洞
以上の墓塔調査と生田重倫が執筆した
「生田氏姻戚系譜考」の“大辺耕斎家”系譜から
大辺家の略系図をつくってみた。
(正直以下は没年月日を記入、渡辺信幸調べ)     p63
大辺 杏寿 正綱(医)天保十一年三月一日
          ※天保11年3月1日(1840年4月3日) 歿
    = p65
大辺 ユキ      西友枝・末松玄洞 貞  長女
              (初代玄洞)
           慶應四年八月二十三日
          ※慶應4年8月23日(1868年10月8日) 歿

大辺 正次 杏庵 耕斎(養子)(医)
           中津藩 瀬川三太夫頼利 二男
           慶應元年二月十六日
          ※慶應1年2月16日(1865年3月13日) 歿
    = p65
大辺 シン      西友枝・末松玄洞 貞親 五女
              (二代目玄洞)
           明治二十一年十月九日
          ※明治21年(1888)10月9日 歿

大辺 晋 正隆(医) 明治四十年(1907)五月十日 歿 六十歳
    = p65
大辺 アキ      大久保逕三 教之 四女
           昭和十一年(1936)一月三十日 歿
     ――――――――――
《別府家系図:福岡県豊前市三毛門 大庄屋》 No.004

038『 』(郷太郎)13-1
号 三毛門丹左衛門
文化三丙寅五月六日生  (1806年6月22日)生
童 名 雄 冠 日 郷太郎
受 父之譲 奉仕

039『婦』 13-2
同郡友枝村 末松玄洞 女 奥野
文化八辛未年生  (1811年1月25日)生
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2291489.html
     ――――――――――
《末松 偕一郎》
《末松玄洞の三男》

[広報 豊教だより]第90号
平成22年 (2010)9月1日発行
発行所 豊前市教育委員会
《末松 偕一郎》
明治八年(1875)六月一八日、
築上郡友枝村東上の医師
末松玄洞の三男として生まれる。
―略―
http://www.city.buzen.lg.jp/gakkou/documents/houkyoudayori90.pdf

[大邊 男(マスオ):大河内傳次郎][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊 男(マスオ):大河内傳次郎][日光社]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。P28

大正十一年頃といえば、
大辺マスオは次兄弘の経営する洋酒・化粧品の日光社の
会計部長時代なのだろう。P41

再び、大正四年に帰る。
五月五日、次姉ミツ二十七歳が、
神戸市神戸栄町七丁目五〇番屋敷伊藤金二郎と婚姻届出。
その頃、長兄亮に死期が迫って来ていたので、
あわただしく婚姻をすませたという感じがしないでもない。
又、神戸は本籍地であって、
大阪に住み何か企業をやっていた人ではないかと
想像したくなるような点もあるが、
この人についてはまだ調べるに至っていなかった。 P41-42

大正七年(一九一八)二十一歳、大阪商業を卒業し、
神戸高商の入学試験には失敗したマスオは結局、
上級学校進学をあきらめさせられ
(と思う。もし、神戸高商へ入っていたら、
 次兄弘、三兄脩も学費を出してやったかも知れないとも思う)、
従って早稲田大学進学など及びもつかず、
次兄弘の会社に会計部長で入ったということになっている。
この会社は日光社といい(太陽社という人もいる)
化粧品、洋酒などを製造販売していたと、御園京平の「年表」にある。
しかし、その「年表」ではマスオの大阪商業卒業を
大正四年(一九一五)十八歳としており、三年早期にずれているので、
弘の会社についてのことも、
誰か親族のはるかな記憶によったもであろうと思われる。
それより、今のところ方法がないことも確かである。
さきに藤本準三説の、騒人社といって出版業をやっていたと思うというのも、
マスオの在学中の弘の会社の仕事であったのかも知れないのである。
弘という次兄の事業の変転につての追及は
ほぼ不正確にしか行われ得ないようだ。 P48-49

「そのうち、日光社の取引先きである
 東京銀座の明治屋の仕入部に入社することができ、
 余暇を得て文学の勉強に励み、雑誌などに投稿するようになった。」
(「年表」大正四年の項)とあるが、
「そのうち」が大正四年(一九一五)であるのは論外として、
大正七年から大正十二年、二十一歳から二十六歳の間のどの年か、
今のところ全然はっきりしない。 P50

震災で明治屋をやめて引き上げ
(その時、やはりひとりでやる仕事でなければ駄目だと痛感して帰って来たという。
家族も、甥もそういう意味のことを、本人から聞いている)、
再び日光社に勤めた。
ということは大阪市北区山崎町七四番地の
次兄弘のところへ帰り住んだということで、
本人の母親アキもそこに居たそうだ。
そのころ、日光社では化粧品とかブローチを商っており、
倉庫の二階にマスオはおって、
伊藤田力は緋の袴をはいた女の人の綺麗な絵をかいてもらったそうだ。 P51

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大邊男:大河内傳次郎]
『株式会社 日光社』
取締役 大邊 弘
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正


【銀行会社要録】
[第22版]大正7年 画像なし

【銀行会社要録】 附・役員録. 23版:大正8年刊行
『株式会社 日光社』        p214/1163
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 工業薬品ノ製造販売
株 数  4,000
資本金 200,000
内払込額 50,000
取締役 大邊 弘
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/214
『大邊 弘』           p890/1163
大阪府豊能郡麻田村五三
旭製作株式会社   取締役
日本自動車株式会社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/890
『川崎静雄』           p918/1163
大阪府泉南郡麻生郷村
日本自動車株式会社 監査役
旭製作株式会社   取締役
株式会社日光社   取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/918
『伊藤金二郎』          p825/1163
大阪市西区今木一九八
旭製作株式会社   取締役
株式会社日光社   監査役
日本自働車株式会社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/825
『旭製作株式会社』        p261-262/1163
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十月
満 期 未詳
目 的 諸機械類製作販売
株 数  2,400
資本金 120,000
内払込額 30,000
取締役 大邊 弘
取締役 松尾四郎
取締役 川崎静雄
取締役 三谷佐太郎
取締役 伊藤金二郎
監査役 富田賢治
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936327/261

【銀行会社要録】 附・役員録. 24版:大正9年刊行
『株式会社 日光社』 p218/1162
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/218
『大邊 男』 p876/1162
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936333/876

【銀行会社要録】 附・役員録. 25版:大正10年刊行
『株式会社 日光社』 p222/1208
南区長堀橋筋一ノ二三
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/222
『大邊 男』 p816/1208
大阪市南区長堀橋筋
株式会社日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936331/816 

【銀行会社要録】 附・役員録. 26版:大正11年刊行
『株式会社 日光社』 p192/1091
北区本庄葉村町一一〇五
設 立 大正六年十二月
満 期 未詳
目 的 一般輸出入業
株 数   4,000
資本金  200,000
内払込額 100,000
取締役 川崎静雄
取締役 高島俊治
取締役 大邊 男
取締役 祇園玉次
監査役 伊藤金二郎
監査役 菅野 正
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/192
『大邊 男』 p781/1091
大阪市南区長堀橋筋
(株)日光社 取締役
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936340/781

[第27版]大正12年
『株式会社日光社』『大邊男』 いずれも記載なし


【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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