◆大久保麑山:家系

《大久保謙治》愛知一中の野球部選手で競走部の人となった【愛知一中競走部史】昭和41年(1996)

【愛知一中競走部史】昭和41年(1996)
出版者   一中競争部史編纂室
出版年月日 1966.12
大正七年度
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529482/1/114
競走部練習生成績表
(大正七年五月調査)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529482/1/117
 競走部の思出  加藤高茂(42回)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529482/1/122

愛知一中の野球部選手で競走部の人となったのは
大久保謙治君、
ハードルで第一人者となり
吉田重三君と二人切り
上海の極東オリンピックに派遣せられて程の選手である。
p123【愛知一中競走部史】昭和41年(1996)
p123【愛知一中競走部史】昭和41年(1996)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529482/1/123
 第五回極東オリンピック東海予選
全国予選会の結果、
東海選出にて上海出場の選に入った者は、
短距離の吉田重三氏(四二回)と
ハードルの大久保謙治氏(早大)の両名であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529482/1/156
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月10日 05:42
《大久保愼二》[推選校友:明治34年卒業]
【早稲田大学校友会会員名簿】大正4年
【早稲田大学校友会会員名簿.  大正4年11月調】
[推選校友之部] p143/189
明治三十四年
《大久保愼二》 名古屋市南久屋町
※大久保謙治の養父

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年07月01日 14:44
大久保慎二[扶桑新聞:社長]
別府三穂三郎[扶桑新聞:編輯]【新聞総覧】
[扶桑新聞]
社長 大久保慎二 明治42年2月~明治45年5月
編輯 別府三穂三郎(三保三郎) 明治42年2月~
【新聞総覧】明治44年12月編纂
[扶桑新聞]p130-132/414
(名古屋市新町二丁目樹五番地)
電話 長 四二一
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[関西の雄、三高の野球大会]明治35年~大正3年の主要な勝敗【高校野球優勝物語 (スポーツ新書)】昭和32年

【高校野球優勝物語 (スポーツ新書)】昭和32年
著者    広瀬謙三 著
出版者   ベースボール・マガジン社
出版年月日 1957
  関西の雄、三高の野球大会
大体予選の経過は以上のようなものであったが、
関西の王者三高主催の野球大会のことを補足して、
全国大会以前の概観を終ることとしよう。
三高の大会は十月中旬または十一月上旬に毎年行われ、
関西の諸中等学校は秋の唯一の舞台としていたのであって、
大会の形式はトーナメントでなく
力量の似たチームを主催者が組み合わせるのであった。
各年度の主要な勝敗をあげると
明治三十五年 神戸中学 7-6 愛知一中
明治三十六年 神戸中学 17-8 愛知一中
       神戸商業 4-4 京都一中
明治三十七年 大垣中学  対  膳所中学
       京都一中  対  松山中学
       神戸中学  対  岡崎中学
       愛知一中 8-5 神戸商業
明治三十七年 京都一中 3-3 岡崎中学
※明治38年 大垣中学 12-2 松山中学
       神戸中学 5-3 愛知一中
明治三十九年 神戸商業 9-8 愛知一中
       京都一中 0-0 明倫中学
       大垣中学 13-3 神戸中学
明治四十年  京都一中 4-0 岡崎中学
       明倫中学 2-0 神戸商業
       愛知一中 19-6 神戸中学
       大垣中学 8-3 松山中学
明治四十一年 松山中学 4-1 岡崎中学
       京都一中 4-2 明倫中学
       愛知一中 4-1 堺中学
明治四十二年 愛知一中 3-2 神戸商業
       膳所中学 1-0 愛知一中
明治四十三年 京都一中 8-1 神戸商業
       京都二中 4-1 大垣中学
       膳所中学 9-1 松山中学
       同志社  2-0 神戸一中
明治四十四年 愛知一中 3-3 京都二中
       四日市商業2-2 同志社
       京都一中 5-2 松山中学
※大正1年(明治45年)  諒闇
大正二年   愛知一中 1-0 京都二中
       愛知一中 3-1 京都商業
       京都一中 3-1 市岡中学
       山田中学 2-1 京都商業
       愛知一中 3-3 京都一中
などであって、
強味の中心は名古屋、京都、神戸にあって、
大阪では市岡中学が抬頭していた。

関東は明治三十七年以来茨城県下大会が開かれ、
土浦、水戸、竜ケ崎、太田、下妻と
主催校が一巡して
明治四十一年までで中止したが、
水戸中学はこの間に二度土浦と接戦しただけで全勝、
明治三十八、九年は全盛時代で
明治三十八年東京へ旅行して
慶應普通を六対五、
学習院中等科を八対二でやぶった功名がある。
水戸対宇都宮は明治二十九年十月十七日
まだ素手の時代に、
時の王者一高のコーチを受けて試合をしたことがあり、
横浜商業対静岡中学とともに
整った対抗試合の古いところでは双璧をなしている。
p13【高校野球優勝物語 (スポーツ新書)】昭和32年
p13【高校野球優勝物語 (スポーツ新書)】昭和32年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2483477/1/13
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《大久保謙治》京都第二中学野球部(大正3年10月) 【野球年報 第14号】大正4年(1915)9月発行

【野球年報 第14号】大正4年(1915)9月発行
著者    美満津商店野球年報編纂部 編
出版者   美満津商店
出版年月日 大正2-4
 中學野球團の雄飛
 大阪商業の中國四國遠征 p96-101/203
◎京都二中に破らる 七對二
(大正3年)十月二十一日、
京都の三高野球大會だ。
大阪商業方、練習不足のため
無慘にも大敗をした。
京都二中 七對二 大阪商業
4 内藤     6 豐島
8 仲      7 藤井
6 能勢     5 中村
1 藤田 元   3 米倉
2 大久保謙治  9 石坂
7 飯田     2 松川
5 大場     4 渡邊文吉
9 半井修一   8 山口
3 大島     1 彌谷
         1 田邊
         三壘打 渡邊文吉
p100【野球年報 第14号】大正4年(1915)9月発行
p100【野球年報 第14号】大正4年(1915)9月発行
大正四年九月 八日印刷 定價金四十錢
大正四年九月十二日發行 郵税金 四錢
著作者 野球年報編纂部
    東京市本郷區本郷五丁目十番地
    美滿津商店内
發行者 伊東 卓夫
    東京市本郷區本郷五丁目十番地
印刷者 中野鍈太郎
    府下荏原郡下大崎四百五十二番地
印刷所 東洋印刷株式會社
    東京市芝區愛宕町三丁目二番地
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三高主催 關西中學野球大會(大正2年10月31日)【野球年報 第13号】大正3年(1914)8月発行

【野球年報 第13号】大正3年(1914)8月発行
著者    美満津商店野球年報編纂部 編
出版者   美満津商店
出版年月日 大正2-4
三高主催 關西各中學野球大會
     關西野球大會
 三高主催 關西中學野球大會
第三高等學校では、例年の如く
昨(大正2年)秋十月三十一日から五日間、
其校庭で關西野球大會を催した。
昨年は諒闇中で休會したのと、
今年は名古屋、大阪、金澤と各地に
關西の大會が開かれた後であるから、
出戰のチームの
意氣組も自然鋭く、
非常に盛んな、
そして非常に面白い大會であつた。
 第三日 ※大正2年11月2日
京都二中 0-1 愛知一中
二塁 加藤    遊撃 後藤
遊撃 浮田    右翼 花井
捕手 大原    投手 加藤
投手 磯野    中堅 高松
一塁 增井    捕手 平井
中堅 中     三塁 秋田
右翼 平井    右翼 三宅
左翼 菱田    左翼 一柳
三塁 能勢    二塁 牧山
p136【野球年報 第13号】大正3年(1914)8月発行
p136【野球年報 第13号】大正3年(1914)8月発行
大正三年八月十四日印刷 定價金四十錢
大正三年八月十七日發行 郵税金 八錢
著作者 野球年報編纂部
    東京市本郷區本郷五丁目十番地
    美滿津商店内
發行者 伊東 卓夫
    東京市本郷區本郷五丁目十番地
印刷者 佐脇七之亮
    東京市芝區愛宕町三丁目一番地
印刷所 佐脇印刷所
    東京市芝區愛宕町三丁目一番地
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京都二中の投手は明大に行った名投手藤田(故人)捕手は早大のハードラー大久保謙治君:大正3年

【"思い出"さん今日は!】昭和40年(1965)
著者    近畿陸上競技神人会 篇
出版者   近畿陸上競技神人会
出版年月日 1965.9
 マラソンとクロスカントリーと
 日本オリンピック
  渡辺文吉
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/30
大正に入ってクロスカントリー・レース、
別名山野横断競走という
新しい名の競争が浮びあがつて来た。
これも毎日新聞の主催で、
コースは今の十三大橋北詰の川床
(当時両河岸に二軒の十三の焼餅屋があつて、
 一方は元祖、一方は本家を名乗つて競争していた。
 南詰の本家は深谷家で、
 深谷君は北野から一高、東大に進んで
 初期の硬式野球で鳴らした)
をスタートして箕面公園の入口がゴール、
百五十人あまりの選手が、
いろんな色どりの姿でどつと飛出し、
その頃北摂一体にかけて
文字通り見渡す限り菜の花畑の中を、
思い思いの近道をえらんで
北え―北えと姿を消して行つた。

まだ夕刊のない時代で、
午後に出た号外によると
愛知一中の田舎片善次君が一番、
さきの井上についで
田舎片(イナカガタ)の名が
子供達あこがれの的となつた。

同じクロスカントリーが
大正四年(1915)、豊中、宝塚間で行われた。
宝塚から山陰線で一駅むこうの生瀬回りで、
ゴールは宝塚少女歌劇場の前、
私は池田の町を金栗さんとしばらく並行して走る
ほこらしい喜びをあじわつた。

途中市岡中学から早大野球部に進んだ
投手の中島駒次郎君、
これも早大でベーブ田中の偉名を謳われた
田中勝雄君らと
中山寺の関所を前後して通過した思い出が、
今もなおありありと瞼にうかぶ。
 ・・・
当時私は大阪商業の野球選手で遊撃手、
朝日新聞主催の中等野球のはじまる前の年の
大正三年(1914)、
豊中で開かれた美津濃主催の
関西学生連合野球大会で
伊丹中学、京都商業、愛知一中、神戸二中に
勝つて優勝したことがある。
コーチは当時明大の主将だつた中沢不二雄氏、

  【日本野球発達史】大正11年
  著者    横井春野 著
  出版者   美津濃
  出版年月日 大正11
      第八節 大正三年(1914)
  ◇關西學生聯合野球大會
  美津濃主催の同大會は、
  (大正3年)八月一日より五日迄連日舉行した。
  參加校二十四校の内、
  最後迄殘つたのは、
  大阪商業と神戸二中であつた。
  六對五を以て、
  大阪商業の優勝にきした。

その年の秋(大正3年10月21日)
三高の野球大会では
京都二中に負けたが、
その試合で私は左中間に三塁打して
左翼手の半井修一君を
うしろむきに走らせた自慢話がある。
京都二中の投手は
明大に行つた名投手藤田(故人)
捕手は早大のハードラー大久保謙治君。
p31【思い出さん今日は!】昭和40年(1965)
p31【"思い出"さん今日は!】昭和40年(1965)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/31
"思い出"さん今日は!
昭和四十年九月一日印刷
昭和四十年九月十日発行 (非売品)
発行者 近畿陸上競技神人会
印刷所 大阪市大淀区天神橋筋七ノ八
    株式会社 エレフアクス印刷所
    電話(371)四五一四番六九六五番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/84
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【日本全国諸会社役員録 第25回】大正6年(1917)
著者    商業興信所 編
出版者   商業興信所
出版年月日 大正6
合名會社 神戸明礬製造所
 神戸市兵庫苅藻通四丁目
 電話 本局一八五九
設 立  大正五年十一月
資本金  貳萬壹千五百圓
代表社員 大久保愼二 ※大久保謙治の養父
     京都府紀伊郡深草村
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2012年07月01日 14:44
大久保慎二[扶桑新聞:社長]
別府三穂三郎[扶桑新聞:編輯]【新聞総覧】
『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社
 昭和54年1月20日再版
謙治の父の慎二が毎日新聞記者で、
豊竹呂昇のパトロンであり、
呂昇が京都大阪に来た時など
平安中学にいた謙治に
※京都二中
小遣いをくれたというエピソードからも、
謙治が大学を出てすぐ
新派の俳優になったということにも
何の不自然さも感じないで、
その芸名は何かと空しい調査さえしたのであった。
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《大久保謙治》《松浦浪子:松浦和平の長女・双葉高女卒》《鳥居孝一郎》【大衆人事録】昭和7-10年

《鳥居孝一郎》松浦浪子と大正10年頃婚姻か?
【大衆人事録 第5(昭和7年)版 ア-ソ之部】
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社[ほか]
出版年月日 昭和7
※大久保謙治:記載なし
【大衆人事録 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部】
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社[ほか]
出版年月日 昭和7
《鳥居孝一郎》
 鳥居商店(株)社長
 東京藥學專門學校理事
 (税)二七五二
 東京市外中野町氷川一三
 電話中野二一一五
【本文】
神奈川縣 鳥居德兵衞の長男
明治廿三年[1890]三月五日
横濱市に生れ
大正十一年[1922]
家督を嗣ぐ
夙に慶應義塾理財科に學び
大正四年[1915]
米國に渡航し
藥品業其他の營業狀態を視察する事六ヶ年
大正九年[1920]歸朝し
祖業たる藥種問屋
鳥居商店を經營す
大正十年[1921]
之が組織を變更
株式會社となるや其社長に就任し
現在に至る
傍ら東京藥學專門學校理事たり
宗敎 曹洞宗永平寺派
趣味 音樂ゴルフ旅行
【家庭】
妻  浪子(明治三五)[1902]
      工學博士 松浦和平 長女
      双葉高女卒
長男  孝(大正一二)[1923]
二男  宏(大正一五)[1926]
妹  京子(明治三九)
      東京女大卒
妹  好子(明治四三)
      東洋英和女學卒
弟  敏雄(明治四五)
      成城第二中學卒
姉  榮女(明治二〇)
同夫 淸志(明治一五)と共に分家し
妹   隆(明治三四)は
      東京府 小林敏行に嫁し
弟  三郎(明治三七)は
母  はな(明治 八)と共に分家す
※鳥居三郎の項參照
p163【大衆人事録 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部】
p163【大衆人事録 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《大久保謙治》松浦浪子と昭和2年頃婚姻か?
【大衆人事録 第11版】昭和10年
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社[ほか]
出版年月日 昭和10
《大久保謙治》
 日本活動寫眞(株)宣傳部長
 東京市品川區大井林町三三四
 電話高輪六二九三
【本文】
明治廿九年[1896]六月廿四日
中津市に生れ
大分縣士族 大久保愼二の養子となる
大正十一年[1922]
早大商科卒業
三越本店・三越大阪支店等に歷勤し
大正十五年[1926]
現職
宗敎 日蓮宗
趣味 スポーツ
【家庭】
養父 愼二 (明治 六)[1873]
妻  浪子 (明治三六)[1903]
       松浦和平 長女
       双葉高女卒
長女 萬里子(昭和 三)
p478【大衆人事録 第11版】昭和10年
p478【大衆人事録 第11版】昭和10年
《鳥居孝一郎》
 鳥居商店(株)社長
 東京藥學專門學校理事
 (税)二二六四
 東京市中野區氷川町一三
 電話中野二一一五
【本文】
 ―略―
【家庭】
長男  孝(大正一二)[1923]
二男  宏(大正一五)[1926]
弟  敏雄(明治四五)
      東京帝大醫科在
姉  榮女(明治二〇)は
      同夫淸志(明治一五)と共に分家
妹   隆(明治三四)は東京府 小林敏行に
妹  京子(明治三九)東京女大卒は小堀治平に
妹  好子(明治四三)東洋英和女學卒は
      杉村甚兵衞長男 友三郎に各嫁し
弟  三郎(明治三七)は
母  はな(明治 八)と共に分家す
※鳥居三郎 鳥居淸志參照
p1254【大衆人事録 第11版】昭和10年
p1254【大衆人事録 第11版】昭和10年
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《諏訪広胖》早稲田ラグビーと同志社ラグビーチーム【同志社ラグビー七十年史】昭和58年

【同志社ラグビー七十年史】昭和58年
出版者   同志社ラグビークラブ
出版年月日 1983.12
[ラグビーチーム勃興期]
大正後期になると京都中心であったチームが
次第に他の地区にも浸透し創部する学校が増えて来た。

大正5年普通部を卒業した
《井上成意》と《西村聡》は部員ではなかったが
全校生徒が大なり小なり
ラグビーに親しんでいたので
早稲田大学へ入学した後にその魅力が忘れられず、
勇壮きわまる競技を是非とも早稲田に創り、
長年関東で孤立していた慶応と対抗したいものと念願し、
最初は倶楽部組織から発足し
大正7年の秋に正式なラ式蹴球部を誕生せしめた。

同志社中学時代に大毎主催の大会で活躍していた
《原槇真二》、《兼子義一》、《片岡春樹》が
早稲田に入学し、
京一中、京一商からのラグビー経験者の
京都勢の入部者を加え強力なチームに成長して来た。

明治39年に野球試合が原因で
十数年の間確執状態にあった早慶戦を大正11年の秋に
ラグビー戦の決行により、
早慶和解の楔を打ち込み
遂に大正14年の野球戦を始めとする
あらゆる競技再開の導火線とする
大きな役割をつとめた裏には
同志社で楕円球に因り
スポーツマン・シップを培われた
多くの若者達の情熱の結実であると
言っても過言ではなかろう。

早大ラ式蹴球創設時代には、
部員以外に同志社大の先輩である
《露無文雄》や
当時現役の《大久保次郎》らが
コーチをしているが、

大正8年1月の同慶定期戦まで
同志社の現役選手として活躍していた
《諏訪広胖》は、
卒業を見ずにして突如として
京都から姿を消し
早大GBクラブのメンバーに加わり、
早稲田の練習に毎日のように現われて
コーチをしていたという変り者もいた。

外では後に良きライバル校となった
早稲田のチーム造りに傾倒していた者があるのに、
内では冬眠状態にあった大学チームの事情は、
70年の歴史の中で最も判然としない時期でもあった。
p28【同志社ラグビー七十年史】昭和58年
p28【同志社ラグビー七十年史】昭和58年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/28
同志社ラグビー70周年史
1983年11月20日印刷
1983年12月3日4発行
編集 同志社ラグビー70周年史
   編纂委員会
印刷 株式会社 図書印刷 同朋舎
   京都市下京区壬生川通五条下ル
発行 同志社ラグビークラブ
   京都市東山区東大路新橋林下町437
   福住荘 中村公紀 気付
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/237
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
大正8年度 [寄り合い所帯]
大正8年度の概況
なお、この記事にGBのハーフ諏訪とあるが
彼は《諏訪広胖》といって
同志社で名の知られたハーフだった。
どのような理由かわからないが、
京都から姿を消して上京し、
毎日のように早稲田の練習に顔を見せ、
コーチをしていたという。
時には早稲田の角帽をかぶっていたこともあり、
身辺のことは判然としないが、
またとないパートナーであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/24
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《大久保謙治》[早稲田大学ラグビー部創設]大正7年11月7日【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)

【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
 第1章 草創時代 p21-24/198
大正6,7年度
[ラグビー部創設]
早稲田大学ラグビーの創立は、
大正7年11月7日である。
今年創部60周年を迎えたことになる。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/21
[北越館グループ]
当時独法科に在籍の同志社中学出身
《西村聡》が戸塚球場上の北越館に下宿していた。
そこに同級生である《岩崎粂雄》が毎日のように
ぶらっとやって来た。
《岩崎粂雄》は慶応普通部出身であり、
多少ラグビーの経験があるので、
時には話題にのぼっていたことが想像される。

私大一方の旗頭といわれる早稲田に
ラグビーのないのはおかしい。
お互いにラグビーを知らぬわけではなく、
一つ同志を集めて始めようではないかと
話は次第にエスカレートしていった。
そこで《西村聡》は
同志社中学の一年先輩である
《井上成意》や、
兄が三高選手だった《国光素介》等に
相談を持ち込んだことから、
とんとん拍子に進展していったのである。

その中で年長である《井上成意》は
熱心に陣頭に立って奔走した。
同志社の知友から古ボール、
色あせたジャージーをもらい、
土台作りに取りかかった。

[栄進館グループ]
これとは別に、
北越館の目と鼻の先にあった栄進館には、
《大久保謙治》をはじめ
《名和野秀雄》、
《大西次郎右ヱ門》、
《黒沢昌弘》、
《瀬尾俊三》らが下宿していた。
彼等は”牧羊クラブ“と称して
草野球などを楽しんでいたようである。

その中の
《大久保謙治》は ※下記ブログに記載
ハードルの選手として名を知られ、
その弟の《大久保次郎》は ※下記ブログに記載
同志社の有名な選手だったことから、
ラグビーに関心はなくわない。
これもまた、
弟からボールをもらって蹴っていた。

《黒沢昌弘》が、蹴り始めたのは
北越館のグループより、
むしろ栄進館グループの方が早かったように思う、
といっている。

[倶楽部結成と部員の募集]
 ―略―
これを見て馳せ参じたのは、
台湾台北一中出の
《磯部秀景》、
《角谷定正》、
《小原兵蔵》の3名ぐらいだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/22
彼等は在学中に慶応OB《松岡正男》から
ラグビーの手ほどきを受けたということである。

試食会もそれなりの効果はあったが、
この程度ではなんとしても人員不足なので、
さらに勧誘して回った。
その中でも《瀬尾俊三》は熱心だった。
集まって来たのは
《服部》、《石丸》、
《大町》、《佐東》たちである。

[体育会加入の届出]
《井上成意》は、前記の遺稿にある通り、
体育会の主な人々に予め
加入の了解を取付ける工作を進め、
部員も30名を越した頃を見計らって、
大正7年11月7日に、
次の委員連名をもって加入を届け出た。
主将 井上成意
委員 大久保謙治、国光素介、勝丸信三、
   角丸定正、峯 波雄。
〔写真〕部創立当時の部員(大正7年秋)
 p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23

[初の三高戦]
たまたま、このシーズンの正月に
三高が慶応との定期戦のために
上京する予定であることを伝え聞き
これを機に手合わせしたいと考えた。

幸いに名和野は三高の主将《谷村敬介》と
京都下京の第二尋常高等小学校の
同級生だったのを奇縁として、
谷村に招請状を送ったところ
間もなく承諾する旨の返事に接し、
一同大いに喜び練習に熱が入るようになった。
速成ではあるが、
《大久保謙治》の弟《大久保次郎》に、
1週間のコーチを受けた。

まだ、ジャージーを持っていなかったので、
早速京都の水野運動具店に依頼して
白地にエンジの横縞を入れたジャージーを作って、
この第1戦に備えた。
当時1着2円50銭だったという。

さて、試合は大正8年1月7日戸塚球場で挙行、
その経過は記録なく定かでない。
しかし、当日は雪解けの重いグランドで
結果は15対0とまずまずというところであった。
三 高    早稲田
岩 田 FW 勝 丸 ※勝丸信三(?)
 梁     名和野 ※名和野秀雄(大正11)
山 本    野 瀬 ※野瀬忠治(竹内)(大正12)
奥 山    吉 原 ※吉原万治(大正13)
滝 口    小 原 ※小原兵蔵(?)
一 井    佐 東 ※佐東福次郎(大正11)
熊 野    岩 崎 ※岩崎粂雄(大正12)
城 田    服 部 ※服部憲照(大正11)
円 下 HB 井 上 ※井上成意(大正10)
佐 伯    黒 沢 ※黒沢昌弘(大正12)
鶴 原 TB 磯 部 ※磯部秀景(大正13)
谷 村    石 丸 ※石丸五郎(大正11)
坪 内    大 町 ※大町 清(大正12)
大 村    大久保 ※大久保謙治(大正11)
安 西 FB 角 谷 ※角谷定正
            角谷清三郎(大正11)大商
   15-0
  大正8年1月7日
   戸塚球場
 レフリー 塩川潤一

試合の後、泥と汗を流すため、
風呂屋に案内しようとしたところが、
生憎この日は7日正月といって
商家は休む風習があり、
銭湯も休業である。
已む無く道場わきの井戸で体をぬぐい、
高田牧舎のミーテイングに出席したが、
三高の方々には寒中まことにお気の毒なことに
なってしまった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23
  卒業生一覧表 p192-194/198
 p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月15日 07:38
<大久保系圖:No.12>
75《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》
祖父 大久保麑山 文政8年12月11日生
         ※1826年1月18日
父  大久保慎二
母  大久保利根子
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
75《三男 慎二》※大久保慎二
     明治四年一月二十九日生
     ※1871年3月19日
   妻 利根子
     茨城縣下總 古河藩主 土井子爵ノ分家
     土井利治ノ長女ニシテ
     大正十年(1921)一月十日朝
     享年 五十四
     昭和二十三年(1948)七月四日 p25/28
     老衰ノ為歿
     享年 七十八才
     明治二十九年(1896)生
     大正十一年(1922)
     早稲田大學ヲ卒業
     三越ニ就職
     運動具部主任
     大正十二年(1923)
     関東大震災後 三越を去り
     日本活動寫眞株式會社へ入社 後
     宣傳部長、営業部長を歴任
     大東亜戰後 仝社を去り
     アドボードKK、常務取締役
     外 一二の會社を歴任す
     松浦浪子と結婚し
     長女 満里子は、
     ハワイ二世ジェリー大村と結婚し二男あり
     世田谷区世田谷町一ノ二三八に居住
     昭和二十七年(1952)三月十九日
     胃癌にて歿す
     享年 五十六才
     戒名 景徳院恭山宗謙居士
     京都 東福寺 即宗院に葬る
77《次男 次郎(昭和二年 博司と改名)》
     ※大久保次郎:大久保博司
     明治三十一年(1898)四月二日生
     大正十三年(1924)
     京都 同志社大學卒業
     學生時代 ラグビー選手
     卒業二年前よりその主將を務む
     卒業後
     横浜ホテル、ニューグランドへ入社 後
     用度課長、
     昭和十七年(1942)
     仝ホテルを去り
     箱根強羅ホテルへ
     取締役支配人として招聘され
     昭和二十五年(1950)に
     日活株式會社
     日活ホテル建設の為め仝社へ入社し
     開業後
     支配人を奉職
     昭和九年(1934)四月
     ホテル・ニューグランド 在任中
     植松登志子(三十二才)と結婚す
     長男 武司(昭和十三年九月九日生)
       ※大久保武司
     長女 道子(昭和 十年七月七日生)
     昭和二十八年(1953)
     現住 豊島、千川町の家に移る
     昭和三十年(1955)四月
     仝家を購入
     八月 登記す
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齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年

明治十七年
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。

【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
著者    日本歯科医師会 編
出版者   日本歯科医師会
出版年月日 昭15
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
明治十六年までに、
齒科で醫籍に登錄された者に就ては異説あるが、
左に判明した者を載せる。
 第五章 齒科醫術開業試驗
明治十六年十月公布された醫術開業試驗規則は、
明治十七年一月一日から實施されたが、
實施上から屢々改正された。
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、 ※下記
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。
 第三節 齒科試驗擧行地及期日
明治十七年から明治三十九年迄に告示された、
齒科醫術開業試驗擧行地及び期日は、
次表の通りである。
 第四節 齒科醫術開業試驗の狀況
東京に於ける試驗場は、
明治二十一年まで
本願寺淺草別院と慈惠醫院を充てたが、
 ―略―
齒科實地試驗は、・・・
明治二十六年第一回試驗から一日六名宛とし、
 ―略―
茲に明治十七年から三十九年までの、
齒科出願者及び及第者數を示すと、
次表のとおりである。
昭和十五年十月二十五日印刷
昭和十五年十月 三十日發行 (非賣品)
編輯兼發行者 小川正一郎
印刷者    柴山 則常
       東京市本郷區駒込林町一七二
印刷所    合資會社 杏林舎
       東京市本郷區駒込林町一七二
       電話駒込(82)七七三・七七四・七七五
發行所    日本齒科醫師會
       東京市神田區小川町一ノ三
       小川町ビルヂング内
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<第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ>
【[和漢医師継続請願ノ理由]】明治25年
著者    山田茂 編
出版者   山田茂
出版年月日 明25.10
  〇布 達
〇太政官第三拾四號
今般第三拾五號ヲ以
醫師免許規則布告相成候ニ付
醫術開業試驗規則別冊ノ通リ相定メ
明治十七年一月一日ヨリ施行ス
  但明治十二年二月
  内務省甲第三號布達ハ同日ヨリ廢止ス
右布達候事
  明治十六年十月廿三日
    太政大臣 三條實美
    内務卿  山田顯義
(別冊)
    醫術開業試驗規則
第一條 醫術ヲ開業セントスルモノハ
    此規則ニ據リ試驗ヲ受クヘシ
第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ
    但試驗ヲ擧行スヘキ地方及ヒ試驗期日ハ
    六ケ月前之ヲ内務卿ヨリ告示スヘシ
第三條 内務卿ハ醫術開業試驗ヲ擧行スル毎ニ
    官立及ヒ府縣立醫學校病院ニ從事スル者
    又ハ地方ニ於テ學術名望アル
    醫師理化學者等ヲ選ヒ
    試驗委員ヲ命スヘシ
     但齒科醫術開業試驗ニ於テハ
     齒科醫一名ヲ試驗委員ニ加フルヿアルヘシ
第四絛 内務卿ハ主務者ヲ派遣シ
    試驗一切ノ事ヲ監督整理セシムヘシ
第五絛 醫術開業試驗ハ之ヲ二期ニ分チ
    前期試驗後期試驗トス
    前後二期ノ試驗ヲ同時ニ受クルコトヲ得ス
     但齒科醫術開業試驗ハ
     全科一時ニ受クルモノトス
第六條 試驗科目ヲ定ムルヿ左ノ如シ
    ―略―
明治廿五年十月十一日印刷
同   年十月十二日出版 (非賣品)
編輯兼 山田 茂
發行者 東京市本所區龜澤町壹丁目五十番地
印刷者 根岸高光
    東京市牛込區市ヶ谷加賀町壹丁目廿三番地
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2023年09月11日 11:40
《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)
・従來開業、舊試驗及第者(二八名)
【歯科評論 (57)】大正4年
<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)・従來開業、舊試驗及第者(二八名)【歯科評論 (57)】大正4年

【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-01
齒科評論附錄
  齒科醫籍簿  p10-14/18
   例 言
一 齒科醫業ニ從事スルモノハ
  齒科醫籍簿を備付スルノ必要アリ
一 本社爾後引續キ毎號本紙附錄トシテ
  齒科醫籍ヲ掲載スベシ
一 齒科醫籍ハ内務省原簿ニ基キ
  第一號登錄者ヨリ順次掲載スルコトヽセリ
   但シ明治十七年以前ニ於ケル
   従來開業、舊試驗及第者ハ一括シテ巻頭ニ掲載ス
  ―略―
  大正四年一月二十五日
   齒科評論編輯局
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/10

免狀番號     一
免狀下附ノ日   明治十七年十月三十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 東京府士族
現住所    年  月  日死亡
氏  名 青山千代次
生年月日 
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/12

【歯科評論 (61)】大正4年(1915-05)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-05

免狀番號     二四九
免狀下附ノ日   明治二十七年十月十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 大分縣下毛郡中津町一四三 平民
現住所  大阪市西區九條三四八
氏  名 重松良説
生年月日 明治三年六月生
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507502/1/14
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<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月12日 09:47
齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
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