◆大久保麑山:家系

《大久保謙治》[早稲田大学ラグビー部創設]大正7年11月7日【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)

【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
 第1章 草創時代 p21-24/198
大正6,7年度
[ラグビー部創設]
早稲田大学ラグビーの創立は、
大正7年11月7日である。
今年創部60周年を迎えたことになる。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/21
[北越館グループ]
当時独法科に在籍の同志社中学出身
《西村聡》が戸塚球場上の北越館に下宿していた。
そこに同級生である《岩崎粂雄》が毎日のように
ぶらっとやって来た。
《岩崎粂雄》は慶応普通部出身であり、
多少ラグビーの経験があるので、
時には話題にのぼっていたことが想像される。

私大一方の旗頭といわれる早稲田に
ラグビーのないのはおかしい。
お互いにラグビーを知らぬわけではなく、
一つ同志を集めて始めようではないかと
話は次第にエスカレートしていった。
そこで《西村聡》は
同志社中学の一年先輩である
《井上成意》や、
兄が三高選手だった《国光素介》等に
相談を持ち込んだことから、
とんとん拍子に進展していったのである。

その中で年長である《井上成意》は
熱心に陣頭に立って奔走した。
同志社の知友から古ボール、
色あせたジャージーをもらい、
土台作りに取りかかった。

[栄進館グループ]
これとは別に、
北越館の目と鼻の先にあった栄進館には、
《大久保謙治》をはじめ
《名和野秀雄》、
《大西次郎右ヱ門》、
《黒沢昌弘》、
《瀬尾俊三》らが下宿していた。
彼等は”牧羊クラブ“と称して
草野球などを楽しんでいたようである。

その中の
《大久保謙治》は ※下記ブログに記載
ハードルの選手として名を知られ、
その弟の《大久保次郎》は ※下記ブログに記載
同志社の有名な選手だったことから、
ラグビーに関心はなくわない。
これもまた、
弟からボールをもらって蹴っていた。

《黒沢昌弘》が、蹴り始めたのは
北越館のグループより、
むしろ栄進館グループの方が早かったように思う、
といっている。

[倶楽部結成と部員の募集]
 ―略―
これを見て馳せ参じたのは、
台湾台北一中出の
《磯部秀景》、
《角谷定正》、
《小原兵蔵》の3名ぐらいだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/22
彼等は在学中に慶応OB《松岡正男》から
ラグビーの手ほどきを受けたということである。

試食会もそれなりの効果はあったが、
この程度ではなんとしても人員不足なので、
さらに勧誘して回った。
その中でも《瀬尾俊三》は熱心だった。
集まって来たのは
《服部》、《石丸》、
《大町》、《佐東》たちである。

[体育会加入の届出]
《井上成意》は、前記の遺稿にある通り、
体育会の主な人々に予め
加入の了解を取付ける工作を進め、
部員も30名を越した頃を見計らって、
大正7年11月7日に、
次の委員連名をもって加入を届け出た。
主将 井上成意
委員 大久保謙治、国光素介、勝丸信三、
   角丸定正、峯 波雄。
〔写真〕部創立当時の部員(大正7年秋)
 p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23

[初の三高戦]
たまたま、このシーズンの正月に
三高が慶応との定期戦のために
上京する予定であることを伝え聞き
これを機に手合わせしたいと考えた。

幸いに名和野は三高の主将《谷村敬介》と
京都下京の第二尋常高等小学校の
同級生だったのを奇縁として、
谷村に招請状を送ったところ
間もなく承諾する旨の返事に接し、
一同大いに喜び練習に熱が入るようになった。
速成ではあるが、
《大久保謙治》の弟《大久保次郎》に、
1週間のコーチを受けた。

まだ、ジャージーを持っていなかったので、
早速京都の水野運動具店に依頼して
白地にエンジの横縞を入れたジャージーを作って、
この第1戦に備えた。
当時1着2円50銭だったという。

さて、試合は大正8年1月7日戸塚球場で挙行、
その経過は記録なく定かでない。
しかし、当日は雪解けの重いグランドで
結果は15対0とまずまずというところであった。
三 高    早稲田
岩 田 FW 勝 丸 ※勝丸信三(?)
 梁     名和野 ※名和野秀雄(大正11)
山 本    野 瀬 ※野瀬忠治(竹内)(大正12)
奥 山    吉 原 ※吉原万治(大正13)
滝 口    小 原 ※小原兵蔵(?)
一 井    佐 東 ※佐東福次郎(大正11)
熊 野    岩 崎 ※岩崎粂雄(大正12)
城 田    服 部 ※服部憲照(大正11)
円 下 HB 井 上 ※井上成意(大正10)
佐 伯    黒 沢 ※黒沢昌弘(大正12)
鶴 原 TB 磯 部 ※磯部秀景(大正13)
谷 村    石 丸 ※石丸五郎(大正11)
坪 内    大 町 ※大町 清(大正12)
大 村    大久保 ※大久保謙治(大正11)
安 西 FB 角 谷 ※角谷定正
            角谷清三郎(大正11)大商
   15-0
  大正8年1月7日
   戸塚球場
 レフリー 塩川潤一

試合の後、泥と汗を流すため、
風呂屋に案内しようとしたところが、
生憎この日は7日正月といって
商家は休む風習があり、
銭湯も休業である。
已む無く道場わきの井戸で体をぬぐい、
高田牧舎のミーテイングに出席したが、
三高の方々には寒中まことにお気の毒なことに
なってしまった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23
  卒業生一覧表 p192-194/198
 p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月15日 07:38
<大久保系圖:No.12>
75《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》
祖父 大久保麑山 文政8年12月11日生
         ※1826年1月18日
父  大久保慎二
母  大久保利根子
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
75《三男 慎二》※大久保慎二
     明治四年一月二十九日生
     ※1871年3月19日
   妻 利根子
     茨城縣下總 古河藩主 土井子爵ノ分家
     土井利治ノ長女ニシテ
     大正十年(1921)一月十日朝
     享年 五十四
     昭和二十三年(1948)七月四日 p25/28
     老衰ノ為歿
     享年 七十八才
     明治二十九年(1896)生
     大正十一年(1922)
     早稲田大學ヲ卒業
     三越ニ就職
     運動具部主任
     大正十二年(1923)
     関東大震災後 三越を去り
     日本活動寫眞株式會社へ入社 後
     宣傳部長、営業部長を歴任
     大東亜戰後 仝社を去り
     アドボードKK、常務取締役
     外 一二の會社を歴任す
     松浦浪子と結婚し
     長女 満里子は、
     ハワイ二世ジェリー大村と結婚し二男あり
     世田谷区世田谷町一ノ二三八に居住
     昭和二十七年(1952)三月十九日
     胃癌にて歿す
     享年 五十六才
     戒名 景徳院恭山宗謙居士
     京都 東福寺 即宗院に葬る
77《次男 次郎(昭和二年 博司と改名)》
     ※大久保次郎:大久保博司
     明治三十一年(1898)四月二日生
     大正十三年(1924)
     京都 同志社大學卒業
     學生時代 ラグビー選手
     卒業二年前よりその主將を務む
     卒業後
     横浜ホテル、ニューグランドへ入社 後
     用度課長、
     昭和十七年(1942)
     仝ホテルを去り
     箱根強羅ホテルへ
     取締役支配人として招聘され
     昭和二十五年(1950)に
     日活株式會社
     日活ホテル建設の為め仝社へ入社し
     開業後
     支配人を奉職
     昭和九年(1934)四月
     ホテル・ニューグランド 在任中
     植松登志子(三十二才)と結婚す
     長男 武司(昭和十三年九月九日生)
       ※大久保武司
     長女 道子(昭和 十年七月七日生)
     昭和二十八年(1953)
     現住 豊島、千川町の家に移る
     昭和三十年(1955)四月
     仝家を購入
     八月 登記す
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齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年

明治十七年
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。

【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
著者    日本歯科医師会 編
出版者   日本歯科医師会
出版年月日 昭15
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
p2【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
明治十六年までに、
齒科で醫籍に登錄された者に就ては異説あるが、
左に判明した者を載せる。
 第五章 齒科醫術開業試驗
明治十六年十月公布された醫術開業試驗規則は、
明治十七年一月一日から實施されたが、
實施上から屢々改正された。
開業試驗は毎年二回擧行し、
明治二十六年
學説試驗と實地試驗を分離し、 ※下記
及落を決するを穩當とするとの意見が起り、
これを中央衞生會に諮詢した。
 第三節 齒科試驗擧行地及期日
明治十七年から明治三十九年迄に告示された、
齒科醫術開業試驗擧行地及び期日は、
次表の通りである。
 第四節 齒科醫術開業試驗の狀況
東京に於ける試驗場は、
明治二十一年まで
本願寺淺草別院と慈惠醫院を充てたが、
 ―略―
齒科實地試驗は、・・・
明治二十六年第一回試驗から一日六名宛とし、
 ―略―
茲に明治十七年から三十九年までの、
齒科出願者及び及第者數を示すと、
次表のとおりである。
昭和十五年十月二十五日印刷
昭和十五年十月 三十日發行 (非賣品)
編輯兼發行者 小川正一郎
印刷者    柴山 則常
       東京市本郷區駒込林町一七二
印刷所    合資會社 杏林舎
       東京市本郷區駒込林町一七二
       電話駒込(82)七七三・七七四・七七五
發行所    日本齒科醫師會
       東京市神田區小川町一ノ三
       小川町ビルヂング内
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<第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ>
【[和漢医師継続請願ノ理由]】明治25年
著者    山田茂 編
出版者   山田茂
出版年月日 明25.10
  〇布 達
〇太政官第三拾四號
今般第三拾五號ヲ以
醫師免許規則布告相成候ニ付
醫術開業試驗規則別冊ノ通リ相定メ
明治十七年一月一日ヨリ施行ス
  但明治十二年二月
  内務省甲第三號布達ハ同日ヨリ廢止ス
右布達候事
  明治十六年十月廿三日
    太政大臣 三條實美
    内務卿  山田顯義
(別冊)
    醫術開業試驗規則
第一條 醫術ヲ開業セントスルモノハ
    此規則ニ據リ試驗ヲ受クヘシ
第二絛 内務卿ハ毎年二回醫術開業試驗ヲ擧行スヘシ
    但試驗ヲ擧行スヘキ地方及ヒ試驗期日ハ
    六ケ月前之ヲ内務卿ヨリ告示スヘシ
第三條 内務卿ハ醫術開業試驗ヲ擧行スル毎ニ
    官立及ヒ府縣立醫學校病院ニ從事スル者
    又ハ地方ニ於テ學術名望アル
    醫師理化學者等ヲ選ヒ
    試驗委員ヲ命スヘシ
     但齒科醫術開業試驗ニ於テハ
     齒科醫一名ヲ試驗委員ニ加フルヿアルヘシ
第四絛 内務卿ハ主務者ヲ派遣シ
    試驗一切ノ事ヲ監督整理セシムヘシ
第五絛 醫術開業試驗ハ之ヲ二期ニ分チ
    前期試驗後期試驗トス
    前後二期ノ試驗ヲ同時ニ受クルコトヲ得ス
     但齒科醫術開業試驗ハ
     全科一時ニ受クルモノトス
第六條 試驗科目ヲ定ムルヿ左ノ如シ
    ―略―
明治廿五年十月十一日印刷
同   年十月十二日出版 (非賣品)
編輯兼 山田 茂
發行者 東京市本所區龜澤町壹丁目五十番地
印刷者 根岸高光
    東京市牛込區市ヶ谷加賀町壹丁目廿三番地
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2023年09月11日 11:40
《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)
・従來開業、舊試驗及第者(二八名)
【歯科評論 (57)】大正4年
<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
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《青山千代次》齒科醫籍簿:免狀番號(一~五五)・従來開業、舊試驗及第者(二八名)【歯科評論 (57)】大正4年

【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-01
齒科評論附錄
  齒科醫籍簿  p10-14/18
   例 言
一 齒科醫業ニ從事スルモノハ
  齒科醫籍簿を備付スルノ必要アリ
一 本社爾後引續キ毎號本紙附錄トシテ
  齒科醫籍ヲ掲載スベシ
一 齒科醫籍ハ内務省原簿ニ基キ
  第一號登錄者ヨリ順次掲載スルコトヽセリ
   但シ明治十七年以前ニ於ケル
   従來開業、舊試驗及第者ハ一括シテ巻頭ニ掲載ス
  ―略―
  大正四年一月二十五日
   齒科評論編輯局
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/10

免狀番號     一
免狀下附ノ日   明治十七年十月三十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 東京府士族
現住所    年  月  日死亡
氏  名 青山千代次
生年月日 
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
p12【歯科評論 (57)】大正4年(1915-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507498/1/12

【歯科評論 (61)】大正4年(1915-05)
出版者   歯科評論社
出版年月日 1915-05

免狀番號     二四九
免狀下附ノ日   明治二十七年十月十日
免狀ヲ得タル理由 試驗及第
本  籍 大分縣下毛郡中津町一四三 平民
現住所  大阪市西區九條三四八
氏  名 重松良説
生年月日 明治三年六月生
https://dl.ndl.go.jp/pid/1507502/1/14
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<年二回、試験があります>
【歯科医術開業試験問題集】明治30年
著者    瑞穂屋歯科雑誌部 編
出版者   瑞穂屋歯科雑誌部
出版年月日 明30.3
学説之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/4
二十六年度第二回歯科医術学説試験問題
二十七年度第一回歯科医術学説試験問題
二十七年度第二回歯科医術学説試験問題
二十八年度第一回歯科医術学説試験問題
二十八年度第二回歯科医術学説試験問題
二十九年度第一回歯科医術学説試験問題
二十九年度第二回歯科医術学説試験問題
実地之部
https://dl.ndl.go.jp/pid/836470/1/14
二十六年度第二回歯科医術実地試験概况
二十七年度第一回歯科医術実地試験概况
二十七年度第二回歯科医術実地試験概况
二十八年度第一回歯科医術実地試験概况
二十八年度第二回歯科医術実地試験概况
二十九年度第一回歯科医術実地試験概况
二十九年度第二回歯科医術実地試験概况
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月12日 09:47
齒科醫術開業試驗の狀況【歯科医事衛生史 前巻】昭和15年
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《郡立中津中學》大久保麑山校長漢學を受持ち漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、【山田小太郎先生】昭和15年

【山田小太郎先生】昭和15年
出版者   学仏会
出版年月日 昭和15
p3【山田小太郎先生】昭和15年
〔画像〕p3【山田小太郎先生】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/3
  六十余年前(中津)市中ノ漢學塾ニ入リ
  初メテ四書等ノ素讀ヲ受ケ
  漢學講讀ノ門ニ入ル……
市中は中津を指すものに相違ないが、
何塾であつたらうか、
いろいろ各方面を採訪もし照會もしたが、
結局橋本塾から大久保塾へと、
時期を異にして入門されたことが、
始め中津の黑澤覺治氏から御報知があり、
其後に同じ頃一所に就學された、
從兄弟たる了戒晉作翁の御話で確かめられた、
その入塾の最初は七八歳頃であつたらしい。
 依つて此二塾に關する記事を
 下毛郡敎育會編纂の「下毛郡史」から摘錄する。
 「橋本塾は中間町に在り中津藩儒官
  手島物齋の弟鹽巖の主宰する處なり、
  鹽巖出てゝ橋本氏を嗣き
  早く山川東林に學び又熊府に遊學、
  後中津に歸り進修館敎授に任ぜらる。
  癈藩後自ら誠求め堂を再興す。
  明治十五年五月病で家に歿す享年六十七、
  鹽巖長身赫顔頗る威容あり、
  性最も謹巖剛直
  常に詩歌文章を以て末技となし、
  專ら窮經講史を尚ひ實用を以て主となす」
この最後の「詩歌文章を以て末技となし」以下は、
山田先生の講學精神の萌芽を培つたものと思はれる。

更に大久保塾に就ては
「塾は大久保麑山通稱逕三の經營する處、
 業を叔父野本白巖に受け夙成を以て名あり、
 又劍馬槍弓の術を習ふ、
 後三百間砲臺守隊長及進修館助敎となる、
 (明治)十八年八月歿享年六十一、
 人となり溫厚篤實
 親に事へて至孝なり、
 家甚だ貧困なりしかとも、
 父翁酒を嗜みたれば、
 供張一日も缺きたる事なし、
 其子弟に接するや溫顔にして疾言せず、
 諄々として誦讀を授く
 屢々其窮乏を救へりと」
とある、この塾に於ける感化も、
先生の生涯に相當色濃く
あらはれてゐるやうである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/18
 再度の郡立中津中學(片端中學) p41-45/591
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/41
筆の序てに明治十九年の三月に卒業した生徒は、
古門林太郎、鈴木辨次郎、大江達三郎(以上物故者)
末廣房市氏と自分位なものである、
更に記憶に殘れるものは、
該中學に二學年の高等科があつたことで、
昨年物故された元中津市長の中里直淸、
梅津春五郎、水島吉次、宇都宮仙太郎(舊姓武原)
諸氏がその生徒であつた。

當時の校長は大久保塾を開いて居られた
大久保麑山氏で漢學を受持ち、
首席敎諭は中里文太郞氏で國語を擔當、
山田先生は英語、敷田傳吾氏が數學
外に三木・小原の兩氏、
漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、
理化の大江春水氏、
經濟は石野孝太郎氏、
博物と歷史は川崎松次氏、
簿記と英語は
佐々木勇太郎氏(前南海電鐵社長)であつた。
 ―略―
猶ほ當時の生徒は右の外
鈴木恒三郎、磯村豊太郎、矢野目孫一氏等であつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/43
  扇城學舎  p51-
前記の明治十九年四月の勅令は實に寝耳に水であつた、
それに依つて中津中學が癈校になり、
在學子弟百餘名は全く修學の前途を
塞がれてしまつた、
そこで舊職員二三氏は「・・・」
私立中學扇城學舎を設立して、
これらの癈學生徒を収容したのであつた、
先生は其發起人の筆頭であつたので、
推されて舎長兼講師となつた、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/51
幸ひ校舎は舊中津中學の校舎を
其儘用ひることになり、
同時に書物器具等も借用出來たから、
差當りの授業には不便はなかつたが、
經營資金とて別に準備してないので、
僅かに授業料を以て校費を支辨し職員は概ね
「勞力義捐」であつた、
其人々は
小原多喜三、大江春水、
大久保恂、佐々木勇太郞、中里左吉郞諸氏で、
此當時の學生は百名餘に上り、
大部分は無論中津中學に學んで居つた人達で、
其内二人の女性がまじつてた、
重松重治さんの御話では、
扇城學舎は、山田小太郎氏といふ英語の先生で、
偉い方がやつて居ると聞いたので、
或人の紹介で入學したのだとのことである、
やはり同舎の學生であつた
上田欽策さんは現在中津蠣瀨町で、
醫業を營んで居られる、
その談片を左に掲げる。
 ―略―
猶ほ當時扇城學舎で學んで居つた、
女性の一人である生田やす子さん
(中津市新魚町住)の御話を次に掲げる。
「私共は姉二人が東京の高等師範に入學したので、
 是非上の學校に入りたいと思つて
 始めは福岡の女學校に入る積りでしたが、
 其内中津に扇城學舎が出來ることになつたので、
 自分等も入學したいものだと思ひまして、
 上田辰衛さまに御願して其御骨折りで
 漸くはいれました。
 十六の歳でございます、
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/52
昭和十五年一月五日印刷
昭和十五年一月十日發行 非賣品
編 者 井坂 秀雄
發行者 草野忠右衛門
    東京市麴町區一番町四ノ二
印刷所 大黑屋印刷所
印刷者 羽田 政勝
    東京市京橋區月島通五ノ八
發行所 學佛會
    東京市京橋區銀座西一ノ一
    永樂ビル内
    振替東京一五三一四一番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年08月23日 06:30
<大久保系圖:原本>p21~p22[67《長女 セツ》~73《二男 格》]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月07日 08:13
<大久保系圖:No.09>67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格
71《長男 恂》※大久保 恂
     文久元年九月二十三日生 ※1861年10月26日
     藩黌舘ニ學ビ
     十七歳ニシテ ※明治11年(1878)
     家督ヲ繼ク
     二十歳ノ時  ※明治14年(1881)
     京都ニ遊學シ
     村上佛山ノ門ニ入リ
     漢學ヲ學ブ
     明治十八年(1885)
     父ノ病ニヨリ歸郷シ
     助教トシテ
     中津中學校ニ教鞭ヲ取リ
     又
     父ニ 代テ塾生ニ代講ス
     二十六歳ノ時 ※明治20年(1887)
     大阪ニ出デ
     次デ上京シ
     獨學ヲ以テ英學ヲ修ム
     年餘ニシテ
     〔パーレー〕ノ萬國史ヲ讀破シ得ルニ至ル
     人 皆 以テ 天才トナシ
     将来ヲ嘱望サル
     明治二十四年(1891)
     肺患ニ罹リ
     同年(1891)十一月八日
     遂ニ起タズ
     享年 三十一
     中津 大法寺ニ葬ル
     法號 守法院遊山日恂居士
     中津藩士 逸見栗藏ノ長女
     武子ト婚約アリシモ
     遂ニ果サズシテ逝ク
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《大久保麑山》重松良説 大分県下毛郡中津町【臨牀歯科 (317)】1986-06

【臨牀歯科 (317)】1986-06
著者    臨牀歯科社 [編]
出版者   臨牀歯科社
出版年月日 1986-06
p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
〔画像〕p1【臨牀歯科 (317)】1986-06
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/1
  医・歯 一元か二元か
   重松良説の時代
現在、大阪府歯科医師会会員名簿には、
堺市、重松雅人先生、
南區、重松成一郎先生の名まえが載っている。
奥野喜一本会会長と重松成一郎先生とは
ご兄弟といううわさも聞いている。
重松姓は、大阪の歯科界において
陽の当たる位置にある。

ところで、大正2年の『大阪現代人名辞典』
(大阪府立中之島図書館、郷土資料室備付資料)に、
医師、重松良説を立志伝中の偉人として
紹介している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/20
 重松良説君(医師)
“君は大分県の人、重松元貞の三男にして、
明治3年2月23日を以て生る。
其祖は新田家の末流にして
福岡県築上郡下垂水村に住せしが、後、
大分県下毛郡中津町出でて
代々眼科医を業とせり、
君、(明治)18年、
中津中学校を3年にして退学し、
故大久保麑山に就いて漢籍を学ぶ。
明治21年大阪に出で、
普通医術を修業せんと志せしも、
家計の都合にて歯科医に志を転じ、
堺市開業歯科医轟氏に就て
学説実地を攻究するかたわら、
東京、高山歯科医学院院外生徒として学説を究め、
明治26年第2回内務省歯科医術開業試験に及第し、
明治29年初めて現在の地に門戸を張れり。
妻をルイと言い、
一子貞雄は市岡中学に通学せり。
(大阪、西、九条通1の85、電西3384番)“
このように誌されている。
この時代には一般に歯科医を医師のなかの
専門科として心得てうたにちがいない。
現に大阪府統計にも、
歯科は医師の大わくのなかに組込んで、
置かれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/21
臨牀歯科 No.317(発行予定月1・4・7・10)
1部 ¥   600(送料別)
年間 ¥3,000(送料共)
昭和61年6月30日発行
編集発行・津下敏夫
京都・西七条石井町29
発行所  臨牀歯科社
京都・蛸薬師・堺町東
振替京都7-25583
電話313-5811
https://dl.ndl.go.jp/pid/1780386/1/22
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《大久保藏之助:大久保麑山》中津私塾【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年

【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
著者    岩波書店 編
出版者   岩波書店
出版年月日 昭和7

中津 私塾
領内私塾四校あり。

明治三年(1870)
藩士 白石常人、
晩香堂を開き漢學を授く。
明治十七、八年(1885)の頃尚繼續せり。

僧 高梨旭山、
文政元年(1818)に塾を開く。
文久三年(1863)癈す。

農民 岩本 隱、
文久(1861)・元治(1864)の頃、
塾を立て皇學、漢學、算術を授く。

藩士 大久保藏之助、
安生年中 ※安政年中
※嘉永7年/安政元年(1854年–1855年)
 安政7年/万延元年(1860年)
塾を開き、漢、詩、算を授く。
p31【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
〔画像〕p31【岩波講座教育科学 附録 第13號】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1075558/1/31
昭和七年十月 十日印刷 岩波講座 敎育科學
昭和七年十月十七日發行 第十三冊附錄「敎育」
編輯兼發行 岩波茂雄
印 刷 者 東京市神田區一ツ橋通
印 刷 所 三秀舎
      東京市神田區美土代町
發 行 所 岩波書店
      東京神田一ツ橋通
寺島製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/1075558/1/36
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《正岡升(子規)》日本新聞の従軍記者:明治28年2-5月【子規を語る】昭和9年

【子規を語る】昭和9年
著者    河東碧梧桐 著
出版者   汎文社
出版年月日 昭和9
 二十六 從軍前後
明治二十八年と言へば、
子規の周圍は可なりに有形的な事件の起伏した時だつた。
二月には子規が從軍する。
四月には古白が自殺する。 ※下記:藤野古白
五月には子規が瀕死の病氣を得て歸つて來る。
愈々從軍の決定した日、
日本新聞社近くの肉屋か鳥屋で、
夕飯を三人で食つたやうに覺えてゐる。
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【選挙:選挙や政治に関する総合情報誌 14(2)】1961-02
出版者   都道府県選挙管理委員会連合会
出版年月日 1961-02
 俳人逸話▷俳壇百年物語 補遺◁ p22/23
   翌檜居主人
 一七、藤野古白
p22【選挙:総合情報誌 14(2)】1961-02
〔画像〕p22【選挙:総合情報誌 14(2)】1961-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2756261/1/22
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【秋山真之将軍:世界的偉人】昭和6年
著者    松堂松田秀太郎 著
出版者   向井書店
出版年月日 昭和6
  正岡升さんと秋山淳さん
畏友夏目漱石、剛友秋山眞之と呼んだ正岡子規は、
日淸の戰役、日本新聞の從軍記者として
遼東に出征せんとする。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031975/1/160
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年07月04日05:47
牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)
コメント一覧 (1)
小野一雄様
三宅雄次郎(三宅雪嶺)、坂崎紫瀾、
西村天囚、國木田獨歩も従軍していたとは
寡聞にして知りませんでした。
正岡升(子規)は従軍していましたね、
確か戦地で森林太郎軍医と面識を得たはずと記憶していますが。
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牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)

牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)

【戦國寫真画報 (5)】1894-12
出版者   春陽堂
出版年月日 1894-12
p1【戦國寫真画報 (5)】1894-12
〔画像〕p1【戦國寫真画報 (5)】1894-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/1
 牙山從軍之新聞記者
圖に示す所は牙山出征の前、
在朝鮮の我が各新聞通信員は、
一同南山に於て寫眞を撮りたし、
盖(けだ)し從軍の間萬一の事あるも測らざれば、
其紀念を留むるの意なりしなるべし、
筆硯に從ふ者亦
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/25
一身を抛(なげう)つて、
國家同胞の爲に通信の業を力(つと)む、
我が軍威の振ふこと素(もと)よりなり、
其の人名を擧(あぐ)れば則ち
(上段に記したるは立てる人の名なり)
 報知新聞    遲塚 麗水
 (未 詳)
 京都日出新聞  堀江 松華
 めざまし新聞  佐原 石嵓
 自由新聞    今西恒太郎
 神戸又新々報  岩崎  虔
 日  本    櫻田 文吾
 (未 詳)
 開花新聞    箕輪  勝
 六派聯合    三宅雄次郎
 二六新報    佃  斗南
 大坂朝日新聞  西村 時彦
 毎日新聞    柵瀨軍之佐
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/26
 朝日新聞    山本 忠輔
 時事新報    高見  龜
 國民新聞    久保田米齋
 日々新聞    黑田甲子郎
 東京通信社   山中  茂
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/27
(下段に記したるは坐せる人の名なり)
 土陽新報    坂崎 紫瀾
 内外通信社   弓削田精一
 名古屋扶桑新聞 鈴木 經勲
 讀賣新聞    藤野房次郎
p25【戦國寫真画報 (5)】1894-12
〔画像〕p25【戦國寫真画報 (5)】1894-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/25
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月14日10:25
[日淸戰役:從軍記者の話]
【大日本対外戦争史話】昭和18年
第二編 日淸戰役前後  p26/189
 九 成歡・牙山に捷つ 付・從軍記者の面魂 p56/189
從軍記者の話をしよう。   p58/189
久保田米僊(國民)
西村天囚(大阪朝日)
高木利太(大阪毎日)
光永星郎(日本)
遲塚麗水(都)
藤野房次郎(讀賣)
黒田甲子郎(東京日日)
其の他
錚々たる新聞記者の寄集りであつた。
安達謙藏も交つてゐた。
(國木田獨歩は海軍に從軍して、
 愛弟通信が其の所産である)
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田中秀治郞君 豐前中津 大久保麑山先生に就き漢學を修養す【新選代議士列伝】明治35年

田中秀治郞君 豐前中津 大久保麑山先生に就き漢學を修養す
【新選代議士列伝】明治35年

【新選代議士列伝】明治35年
(写真)立憲政友會総裁大勳位 侯爵伊藤博文君 p2/204
(写真)憲政本黨總理 伯爵大隈重信君     p3/204
p3【新選代議士列伝】明治35年
〔画像〕p3【新選代議士列伝】明治35年
   福岡縣郡部選出衆議院議員        p197/204
  田中秀治郞君 (憲政本黨)
君は文久三年十月廿日(1863年11月30日)
福岡縣糸島郡長糸村に生る、
明治十一年(1878)より
福岡 正木昌陽先生及
豐前中津 大久保麑山先生に就き漢學を修養す、
十七年(1884) 福岡縣私立藤雲館に入り法律を研究す、
十八年(1885) 東京法學院に入り法律を研究して歸郷す
廿六年(1893) 徴兵參事員
廿八年(1895) 郡制施行により自然退任
◎二十九年(1896)   福岡縣縣會議員當選
 三十二年(1899)   滿期退任
◎三十三年(1900)七月 株式會社糸島銀行取締役及び
   同年(1900)   常務取締役就任
 三十四年(1901)十月 辭任
◎三十三年(1900)九月 糸島郡郡會議員當選及參事會會員當選
 三十五年(1902)五月 辭任
 所得税四百圓餘を納む。
p197【新選代議士列伝】明治35年
〔画像〕p197【新選代議士列伝】明治35年
明治三十五年十二月三日印刷  新選 代議士列傳
明治三十五年十二月六日發行  定價 金五拾錢
發行兼 金港堂書籍株式會社
印刷者 東京市日本橋區本町三丁目十七番地
代表者 右社長 原 亮一郎
    東京市下谷區龍泉寺四百十四番地
印刷所 帝國印刷株式會社
    東京市京橋區築地三丁目十五番地
賣捌所 各府縣特約販賣所

東京法學院=中央大学
【学員名簿】中央大学員会・昭和2年11月
 ◎卒業及推選    p15/284
姓  名 田中秀治郎 p107/284
現  業 北九州輕便鐵道株式會社監査役
現  住 福岡縣糸島郡長糸村本一六八〇
本  籍 福岡
入會年月 卅五 十二(明治35年12月)

※北九州輕便鐵道株式會社
【官報. 1918年10月26日】大正7年
官報 第一八七〇號 大正七年十月二十六日 p9/18
  〇通運
◎輕便鐵道免許狀下付
大正七年十月二十三日
北九州輕便鐵道株式會社
發起人 草場猪之吉 外二百五十四名ニ對シ
同免許狀ヲ下付セリ
其起業目論見ノ概要 左ノ如シ(鐵道院)
鐵道種別  蒸氣鐵道
軌道幅員  三呎(フィート)六吋(インチ)
線  路  福岡縣筑紫郡那珂村
兩  端  佐賀縣西松浦郡大坪村
延長哩程  五十一哩(マイル)六十鎖
建設資金  五百万圓

※北九州鐵道株式會社
 監査役 田中秀次郎  福岡縣糸島郡長糸村
【日本全国諸会社役員録. 第28回】大正9年
北九州鐵道株式會社  p999-1000/1153
 佐賀縣   東松浦郡唐津町
設 立    大正八年三月
資本金    五百萬圓
一 株    五拾圓
拂込高    壹百貳拾五萬圓
取締役(代表) 草場猪之吉  東松浦郡唐津町
取締役    宮島德太郎  同上
同      堤  常助  東松浦郡濱崎村
同      松尾 熊助  西松浦郡伊萬里町
同      堀田政太郎  西松浦郡大川村
同      松尾忠二郎  神戸、野崎七
同      高崎 勝又  福岡、地行東
同      森田 葆光  門司、淸瀧一
同      小島 尚吾  福岡縣糸島郡前原町
同      三島 藤七  福岡縣糸島郡波多江村
同      靑木眞五郎  福岡縣早良郡壹岐村
監査役    岸川善太郎  東松浦郡唐津町
同      納富 陳平  大阪府泉北郡高石町
同      松尾 寛三  東京、芝、芝公園
同      田中秀次郎  福岡縣糸島郡長糸村
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全國各新聞社の特派從軍通信記者〔2/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

全國各新聞社の特派從軍通信記者〔2/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

【征清戦史:武勇日本. 下】
 第二節 全國各新聞社の特派從軍通信記者 p824-829/837

今左表に、當時各從軍通信記者諸氏の氏名、 p826/837
及其所遣各新聞社名、並に其附屬軍隊、若くば軍艦名、
將た之が經過せし戰地名簿を掲げんに、
※附屬軍隊並軍艦名・經過戰地名は略す=小野一雄


特派員氏名
[29] 東北日報(新潟)  p828/837
寺澤 熊男
[30] 下野新聞(宇都宮)
太田 昇三郎
大門 恒作
周藤 千代壽
中村 忠吉
[31] 東北新聞(仙臺)
櫻田 孝次郎
菅野 多聞
[32] 東北日報(仙臺)
水谷 愛次郎
[33] 福島民報(福島)
佐原 七郎
[34] 中國民報(岡山)
岩崎 吉太郎
[35] 山陽新報(岡山)
野間 五造
[36] 藝備日日新聞(岡山)
小泉 左右治
[37] 門司新報(山口)
川田 政三
[38] 長周日報(山口)
中島 眞准
中川 彌平
[39] 高知日報(高知)
楠田  玄
[40] 土陽新聞(高知)
坂崎  斌
安藝 喜代香
中野 寅次郎
[41] 長崎新報(長崎)
江口  翠
[42] 鎭西日報(長崎)
塙  燕藏
岩永 八之丞
河原 元之助
[43] 佐賀自由新聞(佐賀)
吉村 喜平次
[44] 福岡日日新聞(福岡)
守田 彌八郎
[45] 福陵新報(福岡)
奈良崎 八郎
宮川 五郎三郎
末永  節
[46] 九州日日新聞(熊本)
安達 謙藏
佐々木 正
矢島 篤政
高木 正雄
内海 香洲
高木 末熊
稻田 初太郎
[47] 九州自由新聞(熊本)
牧野 勇喜
中村 楯雄
[48] 北 海(函館)
筒井 喜平
[49] 北のめざまし(函館)
菅原 笑治
[50] 琉球新聞(沖縄)
諸見里 朝鴻
護得 朝惟

右の表中に挿入せざりし
日本新聞社特派從軍記者《櫻庭經緯》氏の如きは、
第一軍司令部附にて、平壌を出發せんとするに際し、
不幸にも病痾の侵す所となりて、
棋津浦の我兵站病院に病歿し。

又報知新聞社特派從軍記者《枝元長辰》氏は、
大總督府に從屬して、大連灣に上陸し。
尋で金州城より旅順口に至りしが、
同く病魔の襲ふ所となりて歸朝し、
直に日本赤十字病院に入療せしかども、
藥石其効を奏せずして死亡し去り。

又二六新報社特派從軍記者《遠藤又一》氏は、
第二軍司令部附を以て山東省に赴きつ、
摩天嶺攻撃の際に、敵彈の爲に斃れき。

又朝野新聞社特派從軍記者《奥村文三郎》氏は、
病痾の爲に、仁川共立病院にて死亡し。

又大阪毎日新聞社特派從軍記者《西村時輔》氏は、
歩兵第九旅團司令部附なりしが、
京城の滯在中に病に染み、
一旦歸朝せしも終に死亡し。

又大阪毎日新聞社特派從軍記者《辻信之助》氏は、
第一軍司令部附を以て、牛莊より營口に向ふの途次、
高刊にて發病し、歸朝の後、
大阪府立病院に死歿し。

又中國新聞社特派從軍記者《山下熊吉》氏も、
歩兵第九旅團司令部に在りしが、
平壌攻撃の際、箕子廟畔にて戰闘の視察中、
不幸にも敵彈の爲に斃れにしとぞ。

明治三十四年二月廿六日印刷  征淸戰史下巻
明治三十四年三月十四日出版   上中下三冊
著作者 穗波德明
    東京市小石川區表町百〇九番地
發行者 大日本中學會
    右 代表者 岡田義道
    東京市小石川區表町百〇九番地
印刷者 玉置與十郎
    印刷擔任者 山口竹二郎
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
發行所 大日本中學會戰史部
    東京市小石川區表町百〇九番地
    (電話 番町六番)
印刷所 合資會社 國文社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
    (電話 新橋二五九番)
製本者 岩本一郎
    東京市神田區錦町二丁目五番地
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