大久保慎二

《正岡升(子規)》日本新聞の従軍記者:明治28年2-5月【子規を語る】昭和9年

【子規を語る】昭和9年
著者    河東碧梧桐 著
出版者   汎文社
出版年月日 昭和9
 二十六 從軍前後
明治二十八年と言へば、
子規の周圍は可なりに有形的な事件の起伏した時だつた。
二月には子規が從軍する。
四月には古白が自殺する。 ※下記:藤野古白
五月には子規が瀕死の病氣を得て歸つて來る。
愈々從軍の決定した日、
日本新聞社近くの肉屋か鳥屋で、
夕飯を三人で食つたやうに覺えてゐる。
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【選挙:選挙や政治に関する総合情報誌 14(2)】1961-02
出版者   都道府県選挙管理委員会連合会
出版年月日 1961-02
 俳人逸話▷俳壇百年物語 補遺◁ p22/23
   翌檜居主人
 一七、藤野古白
p22【選挙:総合情報誌 14(2)】1961-02
〔画像〕p22【選挙:総合情報誌 14(2)】1961-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2756261/1/22
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【秋山真之将軍:世界的偉人】昭和6年
著者    松堂松田秀太郎 著
出版者   向井書店
出版年月日 昭和6
  正岡升さんと秋山淳さん
畏友夏目漱石、剛友秋山眞之と呼んだ正岡子規は、
日淸の戰役、日本新聞の從軍記者として
遼東に出征せんとする。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031975/1/160
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年07月04日05:47
牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)
コメント一覧 (1)
小野一雄様
三宅雄次郎(三宅雪嶺)、坂崎紫瀾、
西村天囚、國木田獨歩も従軍していたとは
寡聞にして知りませんでした。
正岡升(子規)は従軍していましたね、
確か戦地で森林太郎軍医と面識を得たはずと記憶していますが。
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牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)

牙山從軍之新聞記者【戦國寫真画報 (5)】明治27年(1894-12)

【戦國寫真画報 (5)】1894-12
出版者   春陽堂
出版年月日 1894-12
p1【戦國寫真画報 (5)】1894-12
〔画像〕p1【戦國寫真画報 (5)】1894-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/1
 牙山從軍之新聞記者
圖に示す所は牙山出征の前、
在朝鮮の我が各新聞通信員は、
一同南山に於て寫眞を撮りたし、
盖(けだ)し從軍の間萬一の事あるも測らざれば、
其紀念を留むるの意なりしなるべし、
筆硯に從ふ者亦
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/25
一身を抛(なげう)つて、
國家同胞の爲に通信の業を力(つと)む、
我が軍威の振ふこと素(もと)よりなり、
其の人名を擧(あぐ)れば則ち
(上段に記したるは立てる人の名なり)
 報知新聞    遲塚 麗水
 (未 詳)
 京都日出新聞  堀江 松華
 めざまし新聞  佐原 石嵓
 自由新聞    今西恒太郎
 神戸又新々報  岩崎  虔
 日  本    櫻田 文吾
 (未 詳)
 開花新聞    箕輪  勝
 六派聯合    三宅雄次郎
 二六新報    佃  斗南
 大坂朝日新聞  西村 時彦
 毎日新聞    柵瀨軍之佐
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/26
 朝日新聞    山本 忠輔
 時事新報    高見  龜
 國民新聞    久保田米齋
 日々新聞    黑田甲子郎
 東京通信社   山中  茂
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/27
(下段に記したるは坐せる人の名なり)
 土陽新報    坂崎 紫瀾
 内外通信社   弓削田精一
 名古屋扶桑新聞 鈴木 經勲
 讀賣新聞    藤野房次郎
p25【戦國寫真画報 (5)】1894-12
〔画像〕p25【戦國寫真画報 (5)】1894-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/1567882/1/25
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月14日10:25
[日淸戰役:從軍記者の話]
【大日本対外戦争史話】昭和18年
第二編 日淸戰役前後  p26/189
 九 成歡・牙山に捷つ 付・從軍記者の面魂 p56/189
從軍記者の話をしよう。   p58/189
久保田米僊(國民)
西村天囚(大阪朝日)
高木利太(大阪毎日)
光永星郎(日本)
遲塚麗水(都)
藤野房次郎(讀賣)
黒田甲子郎(東京日日)
其の他
錚々たる新聞記者の寄集りであつた。
安達謙藏も交つてゐた。
(國木田獨歩は海軍に從軍して、
 愛弟通信が其の所産である)
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全國各新聞社の特派從軍通信記者〔2/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

全國各新聞社の特派從軍通信記者〔2/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

【征清戦史:武勇日本. 下】
 第二節 全國各新聞社の特派從軍通信記者 p824-829/837

今左表に、當時各從軍通信記者諸氏の氏名、 p826/837
及其所遣各新聞社名、並に其附屬軍隊、若くば軍艦名、
將た之が經過せし戰地名簿を掲げんに、
※附屬軍隊並軍艦名・經過戰地名は略す=小野一雄


特派員氏名
[29] 東北日報(新潟)  p828/837
寺澤 熊男
[30] 下野新聞(宇都宮)
太田 昇三郎
大門 恒作
周藤 千代壽
中村 忠吉
[31] 東北新聞(仙臺)
櫻田 孝次郎
菅野 多聞
[32] 東北日報(仙臺)
水谷 愛次郎
[33] 福島民報(福島)
佐原 七郎
[34] 中國民報(岡山)
岩崎 吉太郎
[35] 山陽新報(岡山)
野間 五造
[36] 藝備日日新聞(岡山)
小泉 左右治
[37] 門司新報(山口)
川田 政三
[38] 長周日報(山口)
中島 眞准
中川 彌平
[39] 高知日報(高知)
楠田  玄
[40] 土陽新聞(高知)
坂崎  斌
安藝 喜代香
中野 寅次郎
[41] 長崎新報(長崎)
江口  翠
[42] 鎭西日報(長崎)
塙  燕藏
岩永 八之丞
河原 元之助
[43] 佐賀自由新聞(佐賀)
吉村 喜平次
[44] 福岡日日新聞(福岡)
守田 彌八郎
[45] 福陵新報(福岡)
奈良崎 八郎
宮川 五郎三郎
末永  節
[46] 九州日日新聞(熊本)
安達 謙藏
佐々木 正
矢島 篤政
高木 正雄
内海 香洲
高木 末熊
稻田 初太郎
[47] 九州自由新聞(熊本)
牧野 勇喜
中村 楯雄
[48] 北 海(函館)
筒井 喜平
[49] 北のめざまし(函館)
菅原 笑治
[50] 琉球新聞(沖縄)
諸見里 朝鴻
護得 朝惟

右の表中に挿入せざりし
日本新聞社特派從軍記者《櫻庭經緯》氏の如きは、
第一軍司令部附にて、平壌を出發せんとするに際し、
不幸にも病痾の侵す所となりて、
棋津浦の我兵站病院に病歿し。

又報知新聞社特派從軍記者《枝元長辰》氏は、
大總督府に從屬して、大連灣に上陸し。
尋で金州城より旅順口に至りしが、
同く病魔の襲ふ所となりて歸朝し、
直に日本赤十字病院に入療せしかども、
藥石其効を奏せずして死亡し去り。

又二六新報社特派從軍記者《遠藤又一》氏は、
第二軍司令部附を以て山東省に赴きつ、
摩天嶺攻撃の際に、敵彈の爲に斃れき。

又朝野新聞社特派從軍記者《奥村文三郎》氏は、
病痾の爲に、仁川共立病院にて死亡し。

又大阪毎日新聞社特派從軍記者《西村時輔》氏は、
歩兵第九旅團司令部附なりしが、
京城の滯在中に病に染み、
一旦歸朝せしも終に死亡し。

又大阪毎日新聞社特派從軍記者《辻信之助》氏は、
第一軍司令部附を以て、牛莊より營口に向ふの途次、
高刊にて發病し、歸朝の後、
大阪府立病院に死歿し。

又中國新聞社特派從軍記者《山下熊吉》氏も、
歩兵第九旅團司令部に在りしが、
平壌攻撃の際、箕子廟畔にて戰闘の視察中、
不幸にも敵彈の爲に斃れにしとぞ。

明治三十四年二月廿六日印刷  征淸戰史下巻
明治三十四年三月十四日出版   上中下三冊
著作者 穗波德明
    東京市小石川區表町百〇九番地
發行者 大日本中學會
    右 代表者 岡田義道
    東京市小石川區表町百〇九番地
印刷者 玉置與十郎
    印刷擔任者 山口竹二郎
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
發行所 大日本中學會戰史部
    東京市小石川區表町百〇九番地
    (電話 番町六番)
印刷所 合資會社 國文社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
    (電話 新橋二五九番)
製本者 岩本一郎
    東京市神田區錦町二丁目五番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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全國各新聞社の特派從軍通信記者〔1/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

全國各新聞社の特派從軍通信記者〔1/2〕【征清戦史:武勇日本. 下】明治34年

【征清戦史:武勇日本. 下】
 第二節 全國各新聞社の特派從軍通信記者 p824-829/837

今左表に、當時各從軍通信記者諸氏の氏名、 p826/837
及其所遣各新聞社名、並に其附屬軍隊、若くば軍艦名、
將た之が經過せし戰地名簿を掲げんに、
※附屬軍隊並軍艦名・經過戰地名は略す=小野一雄

特派員氏名
[01] 東京日日新聞(東京)
黑田 甲子郎
新井 由三郎
甲  秀輔
石塚 剛毅
二階堂 行文
志賀 祐五郎
山崎 正秀
鵜飼 熊吉
佐伯  安
[02] 時事新報(東京)
山本 述次郎
間利子 八五郎
市川 高策
高見  龜
堀井 卯之助
宮本 芳之助
永松 達吉
[03] 日本新聞(東京)
櫻田 文吾
末永 純一郎
井上 龜六
正岡 常規
福本  誠
古島 一雄
淺水 又次郎
鳥居 赫雄
[04]國民新聞(東京)
德富 猪一郎
久保田 米僊
菊地 謙譲
松原 岩五郎
原田 重三郎
山本 重太郎
横澤 三次郎
阿部 充家
國木田 哲夫
茂木 啓次郎
吉田 友吉
[05] 報知新聞(東京)
遲塚 金太郎
弓削田 精一
廣瀨 久次郎
原田 信良
鮫島 鐵馬
[06] 毎日新聞(東京)
棚瀬 軍之介
林  政文
權藤 震二
關  美太郎
花田  節
一本松 啓
[07] 讀賣新聞(東京)
藤野 房次郎
越智 修吉
匹田 鋭吉
河東  銓
吉田 東伍
[08] 中央新聞(東京)
川崎 三郎
中島 直淸
大岡  力
水田 榮雄
松井 廣吉
小泉 力松      p827/837

[09] 朝野新聞(東京) p827/837
山口  昂
高安 龜次郎
[10] 萬朝報(東京)
山本 秀樹
渡邊 久太郎
原田 慶次郎
杉山 豐吉
[11] 中外商業新報(東京)
石川 逸藏
永原 鐵三郎
三田村 玄龍
[12] 二六新報(東京)
安達 太郎
大澤  龍
江原 熊次
辻  鍈次郎
[13] 東京朝日新聞(東京)
横澤 次郎
小林  環
山本 忠輔
鈴木  巌
横川 勇次
[14] やまと新聞(東京)
坪内 鉖太郎
[15] めざまし新聞(東京)
光永 規一
上野 岩太郎
[16] 自由新聞(東京)
今西 恒太郎
福原 幸太郎
川上 ◇三郎
[17] 開花新聞(東京)
箕輪  勝
小崎 文次郎
[18] 都 新聞(東京)
◇◇ 羊造
大谷 誠夫
石戸谷 昌之◇
中田 德太郎
[19] 扶桑新聞(名古屋)
鈴木 經勳
[20] 新 愛 知(名古屋)
谷  槌太郎
[21] 靜岡民友新聞(靜岡)
石田 魯市
[22] 淡海民報(大津)
川村  曄
[23] 近江新報(大津)
吉村 平造
[24] 大阪朝日新聞(大阪)
西村 時彦
小川 定明
天野  皎
矢野 俊彦
石原 常節
藤田 軌達
黑崎 美智雄
[25] 大阪毎日新聞(大阪)
相島 勘次郎
高木 利太
大久保 愼二
曾田  亨
[26] 日出新聞(京都)
堀江 純吉
[27] 神戸又新日報(神戸)
岩崎  虔
宮部 政厚
奥  泰資
日高 慶輔
[28] 北陸新報(金澤)
淸水 八十吉

明治三十四年二月廿六日印刷  征淸戰史下巻
明治三十四年三月十四日出版   上中下三冊
著作者 穗波德明
    東京市小石川區表町百〇九番地
發行者 大日本中學會
    右 代表者 岡田義道
    東京市小石川區表町百〇九番地
印刷者 玉置與十郎
    印刷擔任者 山口竹二郎
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
發行所 大日本中學會戰史部
    東京市小石川區表町百〇九番地
    (電話 番町六番)
印刷所 合資會社 國文社
    東京市京橋區宗十郎町十五番地
    (電話 新橋二五九番)
製本者 岩本一郎
    東京市神田區錦町二丁目五番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《高木利太》[父 高木寅次郎:大分士族]【人事興信録. 4版】大正4年

《高木利太》
[父 高木寅次郎:大分士族]
【人事興信録. 4版】大正4年

【人事興信録. 4版】大正4年1月10日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995/1040
《高木利太》 p445/1041
大阪毎日新聞 營業部長
大阪府 士族 ※大分から大阪に転籍している。
 母 重  天保一四年七月生 ※1843年7月
      大分 士族 野本武藏  長女 ※野本武蔵下記
 妻 まさ 明治一二年(1879)五月生
      大阪府人  藤田辰之助 長女 ※藤田辰之助(傳三郎の甥)
 女 チカ 明治三二年(1899)一二月生
 弟 正二 明治一〇年(1877)四月生
君は大阪府士族 高木寅次郎の長男にして
明治四年正月十九日を以て生る ※1871年3月9日
夙に慶應義塾を卒業して
大阪毎日新聞社に入り
現に同社の營業部長たり
(大阪、北、中ノ島町二ノ一三)
(電話 長 東 二三八三)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995/445

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月17日(日)
《高木利太》
[毎日電報主任:豊前中津奥平藩]
【慶応義塾出身名流列伝】明治42年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660362.html

blog[小野一雄のルーツ]
2014年04月10日(木)
《大久保麑山の父:大久保教直=教連》
[慶応義塾後期鉄砲洲時代の意義]河北展生
大久保次郎兵エ教直  :大久保麑山の父
野本三太郎      :野本真城(伯美・白巖)の長男
大久保麑山と野本三太郎:従兄弟
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1726/

《高木利太》[毎日電報主任:豊前中津奥平藩]【慶応義塾出身名流列伝】明治42年

《高木利太》
[毎日電報主任:豊前中津奥平藩]
【慶応義塾出身名流列伝】明治42年

【慶応義塾出身名流列伝】明治42年6月15日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715/531
《高橋利太氏》 p200-201/536
毎日電報主任
東京市麻布區兵衞町二ノ二七
(明治四年生)
氏は豊前中津奥平藩の人、
幼にして父を喪ひ、
母の手に育せらる。

夙に慶應義塾幼稚舎に入り、
(明治)二十四年義塾を卒業し、
直に大阪毎日新聞社に聘せられて
其の社員となる。
主筆は渡邊治氏にして
社運未だ今日の如く隆盛ならず、
加之(しかのみならず)
同地には先輩の關係せる
諸新聞甚だ多く、
殊に大阪朝日新聞なる大敵のあるなり、
氏は主筆渡邊氏と共に頗る苦心を重ねたり。

明治廿七八年の戰役に際し、
第一軍に從軍し、
親しく戰況を視察して具(つぶさ)に之を報じ、
紙上に光彩を添へし事尠からず、
役終つて大阪に歸る。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715/200
(明治)二十九年より三十年にかけて
一時藤田組に入りしが
幾許もなく辭して
再び大阪毎日に入る。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715/201

【慶応義塾総覧. 大正5年】
明治二十一年七月  p83-84/135
 別科卒業(二四)
《宮永熊吉》 大分 p84/135 ※豊州館:創立者:別稿に記載
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940251/84
明治二十四年七月  p85/135
 正科卒業(二七)
《高木利太》 大分
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940251/85

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月17日(日)
《高木利太》
[父 高木寅次郎:大分士族]
【人事興信録. 4版】大正4年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660363.html

《宮永熊吉》[慶応義塾・明治21年卒:豐州學舘]【慶応義塾塾員履歴集】

《宮永熊吉》
[慶応義塾・明治21年卒:豐州學舘]
【慶応義塾塾員履歴集】

【慶応義塾塾員履歴集】明治27年4月
《宮永熊吉》 p55/63
豐前國下毛郡下宮永村 平民
醸造業
元治元年三月六日生 ※1864年4月11日
七歳より文字を學び、
中津市校に通學し又
漢學を修めたり、
明治十五年(1882)
水戸に遊び
茨城第一中學校に入り
其第二級に至り
病を以て郷に歸り
居ること一年にして癒ゆ
明治十八年(1885)五月
慶應義塾に入社し
明治二十一年(1888)
別科を卒業す
卒業後直に歸邑す

偶々地方中等敎育を
再興せんとするの秋に會し
郡中有志者の勸誘により
豐州學舘を中津町に起し
自ら舘主となりて
舘務を調理すること殆んど四年

中津尋常中學校の組織成るに及び
解舘して父業を襲ひ
傍ら養蠶製糸に從事せり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779576/55
明治二十七年四月廿二日印刷
明治二十七年四月三十日發行
非賣品
編輯者 西澤喜四郎
    京橋區木挽町一丁目二番地
發行者 赤堀三男
    下谷區徒士町二丁目十六番地
印刷者 村 豐秀
    芝區白金三光町四百五十九番地
印刷所 大山活版所
    下谷區徒士町一丁目七番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779576/61

【慶応義塾総覧. 大正5年】
明治二十一年七月  p83-84/135
 別科卒業(二四)
《宮永熊吉》 大分 p84/135
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940251/84
明治二十四年七月  p85/135
 正科卒業(二七)
《高木利太》 大分
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940251/85

【慶応義塾塾員名簿. 大正13年】
《宮永熊吉》 大分 p267/325
明治二十一年卒業
酒造業
大分縣下毛郡中津町外宮永
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1119436/267
《高木利太》 大阪 p124/325
明治二十四年卒業
大阪毎日新聞社 常務取締役
兵庫縣武庫郡本山村北畑
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1119436/124

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月12日(火)
《豊州學舘:學校長 宮永熊吉》
【大分県学事年報. 明治21-25年】
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2660353.html
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<大久保系圖>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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[日淸戰役:從軍記者の話]【大日本対外戦争史話】昭和18年

[日淸戰役:從軍記者の話]
【大日本対外戦争史話】昭和18年

【大日本対外戦争史話】昭和18年
第二編 日淸戰役前後  p26/189
 九 成歡・牙山に捷つ 付・從軍記者の面魂 p56/189
從軍記者の話をしよう。   p58/189
久保田米僊(國民)
西村天囚(大阪朝日)
高木利太(大阪毎日)
光永星郎(日本)
遲塚麗水(都)
藤野房次郎(讀賣)
黒田甲子郎(東京日日)
其の他
錚々たる新聞記者の寄集りであつた。

安達謙藏も交つてゐた。
(國木田獨歩は海軍に從軍して、
 愛弟通信が其の所産である)

其の頃の新聞記者は國士を以て
任ずる慷慨家が多い。

福本日南一派の如きは
朝鮮政府改革問題に就いて
現實に奔走畫策する處があつた位である。

この陸軍從軍記者も猛者揃ひで、
紺飛白(こんがすり)に
裁付袴(たっつけばかま)があれば、
フロツクに鳥打帽、
中にはメリヤスのシヤツに
洋袴著用といふが如き服装で、
朱鞘の大刀腰にブツ込んだり、
短銃ひねくつたり、
見るからに物騒千萬だ。

從つて從軍記者は勇壯淋漓、
まことに勇しい限りであつた。
さうして獨立獨歩の氣慨が強いから、
相當に係りの軍部を手こづらさしたが、
其の代りに意氣の旺盛さは天を衝く――
かういふ連中が通信した
成歡・牙山以下の戰記は、
國民の志氣を燃えたゝすに
大に役にたつたは勿論である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460264/58
一六 陸海軍協同威海衞攻撃、 p83/189
   果敢なる水雷艇隊の夜襲
日淸戰役に最後の痛撃を加へたものは
威海衞攻略であらう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460264/83
威海衞は九十海里を距てゝ旅順と相對する
渤海灣の入口に在り、
北洋艦隊の策源地である。
 ―略―
陸軍は第二軍が擔當する。
 ―略―
海陸軍で研究の結果、
威海衞の東方約三十海里に在る
榮城灣を以て適當となし、
之を上陸地點と決定した。
既に大連灣に來てゐた
第二、第六師團の兵は、
(明治)二十八年一月十九日から
續々榮城灣に向ひ、
我が艦隊に護衞されて
先頭は二十日早天に上陸した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460264/84
大日本對外戰爭史話
停 定價二圓五十錢
  送料  十五錢
(出文協承認 ア 410255號)
昭和18年4月10日 初版印刷
昭和18年4月20日 初版發行
(部數 5000部)
著作者 小川多一郎
發行者 淺井忠吉
    東京市豐島區巣鴨二ノ三五
印刷所 野見山恭行 一葉社
    東京市神田區神保町二ノ二〇
    (東東 三二〇〇番)
發行所 良國民社
    東京市豐島區巣鴨二ノ三五
    振替 東京 八〇七七一番
    電話 大塚 (86)0474番
    會員番號 140036番
配給元 日本出版配給株式會社
    東京市神田區淡路町二ノ九
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460264/186

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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《大久保愼二》[日淸戰爭當時の從軍記者]【思ひ出草:随筆】岡本綺堂:昭和12年

《大久保愼二》
[日淸戰爭當時の從軍記者]
【思ひ出草:随筆】岡本綺堂:昭和12年

【思ひ出草:随筆】昭和12年
[昔の從軍記者] p21/143
日淸戰爭當時は初めての對外戰爭であり、
從軍記者といふものゝ
待遇や取締りについても、
一定の規律はありませんでした。

朝鮮に東學黨の亂が起つて、
淸國が先づ出兵する、
日本でも出兵して、

(明治)二十七年六月十二日には
第五師團の混成旅團が仁川に上陸する。

かうなると、
鶏林の風雲おだやかならずと云ふので、
東京大阪の新聞社からも
記者を派遣することになりましたが、
まだ其時は從軍記者といふわけではなく、
各社から思ひ思ひに
通信員を送り出したといふに過ぎないので、
直接には軍隊とは何の關係もありませんでした。

そのうちに事態いよいよ危急に迫つて、
七月二十九日には成歡牙山の
支那兵を撃ち攘ふことになる。

この前後から朝鮮にある
各新聞記者は我が軍隊に附屬して、
初めて從軍記者といふことになりました。

戰局がますます擴大するに從つて、
内地の本社からは
第二第三の從軍記者を送つて來る。

これ等はみな陸軍省の許可を受けて、
最初から從軍新聞記者と名乘つて
渡航したのでした。

これ等の從軍記者は
宇品から御用船に乘込んで、
朝鮮の釜山又は仁川に送られたのですが、
前にもいふ通り、
何分にも初めての事で、
從軍記者に對する規律といふものが無いので、
その扮装も思ひ思ひでした。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227560/21
どの人もみな洋服を着てゐましたが、 p22/143
腰に白木綿の上帶を締めて、
長い日本刀を携へてゐるのがある。

槍を持つてゐるのがある。

仕込杖をたづさえてゐるのがある。

今から思へば嘘のやうですが、
其當時の從軍記者としては、
戰地へ渡つた曉に軍隊が何の程度まで
保護してくれるか判らない。

萬一負け軍とでもなつた場合には、
自衞行動をも執らなければならない。

非戰闘員とて油斷は出來ない。

まかり間違へば支那兵と
一騎打をするくらゐの
覺悟が無ければならないので、
いづれも嚴重に武装して出かけたわけです。

實際、
その當時は支那兵ばかりでなく、
朝鮮人だつて油斷出來ないのですから、
この位の威容を示す必要もあつたのです。

軍隊の方でも別にそれを咎めませんでした。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227560/22
昭和拾貮年拾月拾參日印刷
昭和拾貮年拾月拾八日發行
定價  貮圓
著作者 岡本綺堂
刊行者 小林美一
    東京市日本橋區通二ノ四 日本橋ビル
印刷社 竹田佐藏
    東京市神田區三崎町二ノ四
印刷社 一匡印刷所
    東京市神田區三崎町二ノ四
製本所 柏谷製本工場
刊行所 相模書房
    東京市日本橋區通二丁目四番地
    日本橋ビルディング
    電話 日本橋(24)九八〇・九八一番
    振替 東京 一三〇四八〇番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227560/138

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<大久保系圖>75《三男 慎二》
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《大久保愼二》[日淸戰爭]【大阪毎日新聞社史】大正14年【稿本本山彦一翁伝】

《大久保愼二》
[日淸戰爭]【大阪毎日新聞社史】大正14年
[京都支局主任]【稿本本山彦一翁伝】昭和4年

【大阪毎日新聞社史】大正14年4月1日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/109
日淸戰爭は實に我國最初の大戰爭にて、 p29/112
内外共に其成行きに注意したれば、
報道の方面に於ても全力を傾注し、
「大毎」の眞價を知らしむる好因となつた、
故に「朝日」が西村天囚藤田軌達等諸氏の如き
老練記者を派遣せるに對し、
我社は特に、高木利太相島勘次郎、辻信之助、
大久保愼二等諸氏の如き年少記者五名を、
各種の手段を講じて各軍に從事せしめたれば、
遠國の讀者も我社の號外を鶴首してまつに至つた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/29

【稿本本山彦一翁伝】昭和4年9月14日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178393/381
 第三章「大阪毎日」の合理的經營 p162/384
 一 社長就任當時の狀況
既に述べた如く本山彦一君が
大阪毎日新聞社社長に就任し、
編輯、營業兩局を統率するにいたつたのは
明治三十六年十一月のことで、…。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178393/162
今本山君社長就任當時の      p163/384
幹部諸氏の氏名を擧ぐれば
左の如くである。
 編輯局
 ―略―
△京都支局主任 大久保愼二
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178393/163

【松陰本山彦一翁. 〔本編〕】昭和12年12月25日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1220426/354
附録 松陰・元山彦一翁 年譜 p348/357
明治二十七年(一八九四)
日淸戰役に際し
社員 高木利太、相島勘次郎、
大久保愼二等を戰地に
菊池淸を大本營附として派遣す
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1220426/348

【新聞目録:大正元年十月調】
名古屋新聞 p12/21
扶桑新聞  p12/21
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908437/12

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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>75《三男 慎二》
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