大久保逕三の五女の夫[脇屋正人]

軍事史學:規約・顧問・理事長・理事・主事【楠公研究の栞】昭和13年

軍事史學:規約・顧問・理事長・理事・主事【楠公研究の栞】昭和13年

【楠公研究の栞】
【楠公研究の栞】p01
〔画像〕【楠公研究の栞】p01

   規 約 p39/40
一 本會を軍事史學と稱す。
一 本會を軍事史の研究を目的とす。
一 本會は此の目的を達成せんが爲め
  左記事業を行ふ。
イ、 雜誌『軍事史研究』の發行
但し當分の間一ケ年六回とす
ロ、 會合、調査、圖書の出版及頒布
ハ、 右の他必要と認むる事項
一 本會々員を分つて賛助會員及正會員とす。
  賛助會員は本會の趣旨を賛助し、
  金參拾圓以上を寄附する者、
  正會員は同志の士にして
  毎年會費(當分の間年額金參圓)を負擔するものを謂ふ。
一 本會に役員として理事及評議員各若干名を置く。
  役員の所掌等に關しては別に之を定む。

  顧 問(順序不同)
文學博士 井上哲次郎
文學博士 白鳥庫吉
文學博士 三上參次
     德富猪一郎
文學博士 瀧 精一
文學博士 村川堅固
文學博士 黑板勝美
文學博士 瀨川秀雄
文學博士 新村 出
文學博士 辻 善之助
文學博士 渡邊世祐
文學博士 河野省三
文學博士 大類 仲
文學博士 中山久四郎
文學博士 福井久藏
文學博士 井野邊茂雄
文學博士 平泉 澄

  理事長
海軍造兵中將 有坂鉊藏
  理 事
陸軍中將   渡邊金造
陸軍中將   中岡彌高
陸軍少將   原田二郎
陸軍少將   山内保次
陸軍少將   伊藤政之助
公  爵   大山 柏
海軍大佐   廣瀬 豐
海軍大佐   有馬成甫
陸軍敎授   佐藤堅司
       蘆田伊人
       浪岡具雄
内務省考證官 鳥羽正雄
  主 事  附分擔
出版部    神谷健一
雜誌部    石岡久夫
資料部    島田貞一

不許複製
昭和十三年五月三十日印刷 定價貮拾錢
昭和十三年六月 一日發行 郵税 參錢
編輯者 軍事史學會
發行者 軍事史學會
    東京市芝區二本榎西町三番地
    電話 高輪 五三六一番
    振替 東京八八三五二番
印刷人 北川武之輔
    東京市京橋區銀座四丁目四番地
印刷所 株式會社 細川活版所
    東京市京橋區銀座四丁目四番地
【楠公研究の栞】p39
〔画像〕【楠公研究の栞】p39
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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脇屋義助の墓【楠公研究の栞】昭和13年

脇屋義助の墓【楠公研究の栞】昭和13年

【楠公研究の栞】
【楠公研究の栞】p01
〔画像〕【楠公研究の栞】p01

ロ、脇屋義助の墓 p32-33/40
愛媛縣(伊豫國)越智郡櫻井町大字國分字谷ノ口の丘上
(櫻井駅の北十町)にある。
碑の高さ五尺餘で正面には
「脇屋刑部卿源義助公神廟」の文字を刻し
側面には寛文九年に再建せる旨を記してある。

卿は新田義貞の弟、通稱源次郎、
元弘の初めに兄と共に南朝方に參し
爾来終始義貞軍の有力なる部隊長として各地に轉戰した。

卽ち北条高塒を鎌倉に滅し、
また延元元年足利高氏兄弟を討って西國に走らしめ、
次で播磨、備後の平定に從ひ福山城に據つたが、
後兵庫に於ける戰に利あらず遂に春ノ宮を奉じて北國に下つたが、
藤島に於て義貞の戰死するやその跡を嗣いで將軍となり
吉野行宮に謁し後勅を受けて
暦應三年四月三日四國に向け吉野を發し
紀伊田邊に至り之より船にて淡路國武島、
備前小豆島を經て四月廿三日今張浦(今治)に上陸し國府に入る。

之により地方の官軍大に振つたが五月四日病を發し
臥床僅かに七日にして病歿せらる。

明治十六年八月從三位を贈らる。

史徴墨寳考證は ※下記
「義助伊豫に死せしこと
太平記の記載甚だ鹵莾にして
別に考ふべき證なし」
と記するも、
これは太平記否認時代の一錯誤であつて、
今日に於ては當然訂正せらるべきものと思ふ。

また今日流布の書多くは公の病歿を五月五日と記す。
然し乍ら太平記西源院本に ※下記
【楠公研究の栞】p32
〔画像〕【楠公研究の栞】p32

 自同四日宮方ノ大將軍ニテ國府ニ坐セラレタル
 脇屋刑部卿義助俄ニ病ヲ受テ、
 心身惱亂シ給ケルカ打臥事纔
 日ヲ過テ終ニハカナク成ニケリ
とあれば薨去の日は五月十日を採るべきものと認む。
【楠公研究の栞】p33
〔画像〕【楠公研究の栞】p33
不許複製
昭和十三年五月三十日印刷 定價貮拾錢
昭和十三年六月 一日發行 郵税 參錢
編輯者 軍事史學會
發行者 軍事史學會
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    電話 高輪 五三六一番
    振替 東京八八三五二番
印刷人 北川武之輔
    東京市京橋區銀座四丁目四番地
印刷所 株式會社 細川活版所
    東京市京橋區銀座四丁目四番地
【楠公研究の栞】p39
〔画像〕【楠公研究の栞】p39
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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史徴墨宝
[内閣修史局編]
[大成館], 1887-1889.12
[第1編上巻][第1編下巻][第1編]考證上巻[第1編]考證下巻
[第2編本編]考證1巻[第2編本編]考證2巻
[第2編本編]考證3巻第2編考證 1巻第2編考證 2巻第2編考證 3巻
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国立国会図書館サーチ
太平記 : 西源院本
鷲尾, 順敬, 1868-1941,鷲尾順敬 校訂
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伊豫國府址:脇屋義助終焉の地【日本史蹟大系. 第7巻】昭和10年

伊豫國府址:脇屋義助終焉の地【日本史蹟大系. 第7巻】昭和10年

【日本史蹟大系. 第7巻】
伊豫國府址 p126-128/212
 脇屋義助終焉の地
伊豫國府は、同國越智郡櫻井村大字古國府に、其址を存す、
今、國分に改む、此址の唐子山に、府中城址あり、
城址の西十町の處に、國分寺址あり、
今、四國五十九番の札所たり。

延元年中、四條有資、伊豫國司として、府中城に居り、
脇屋義助、亦、此處に來りて、
南海の官兵を督し、尋(つい)で、病んで、歿す、
國分寺の東二町、字谷の口に、其墓あり。
 ―略―
《写真》脇屋義助の墓 其一
脇屋義助の墓は
伊豫國越智郡櫻井村大字國分字谷ノ口に在り
此れは其前方の光景にして國分寺の東二町の地。
 第7巻】p126
〔画像〕【日本史蹟大系. 第7巻】p126

《写真》脇屋義助の墓 其二 p127/212
此れは其墳墓にして
寛文九年七月に再建せるもの ※1669年7月
元の墓石たる十四個の五輪塔は概ね破損せられて
僅かに其面影を存するのみ。
 ―略―
 第7巻】p127
〔画像〕【日本史蹟大系. 第7巻】p127
 第7巻】p128
〔画像〕【日本史蹟大系. 第7巻】p128
昭和十年十二月十七日印刷
昭和十年十二月廿一日發行 〔二圓八十錢〕
著 者 熊田葦城 ※下記
發行者 下中彌三郎
    東京市日本橋區呉服橋三ノ五
印刷者 關口一男
    東京市日本橋區呉服橋三ノ五
印刷所 單式印刷株式會社
    東京市芝區金杉新濱町一二
發行所 株式會社 平凡社
    東京市日本橋區呉服橋三ノ五
    振替 東京二九六三九番
    電話 日本橋二一五七番 二一五八番 二一五九番
 第7巻】p209
〔画像〕【日本史蹟大系. 第7巻】p209
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《熊田葦城:名は宗次郎》【明治畸人伝】明治36年
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脇屋義助碑【南朝忠臣碑文集】大正11年

脇屋義助碑【南朝忠臣碑文集】大正11年

【南朝忠臣碑文集】
 脇屋義助碑 p128/206
脇屋義助廟碑は、
愛媛縣伊豫國越智郡櫻井村字國分に在り。
文政十二年五月、 ※1829年6月
土地の有志家佐伯惟忠の建つる所にして、
貝原益軒の作に係る、
脇屋義助の賛を碑背に刻し、
所建の意を附記せるものなり。

位置は、同村國分寺の向ふ側なる小丘に在り。
碑前に拜殿を建て、五坪餘の石疊を造り、
四方は土塀を圍らし、
碑は中央に立ちて、
高さ五尺餘、
貝原益軒の賛文碑は、
拜殿の右に在り。
【南朝忠臣碑文集】p128
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p128
大正十一年十一月二十一日印刷
大正十一年十一月二十五日發行
不許複製 非賣品
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  編輯兼發行人
      辻 こう
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷人 辻  仁三郎
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷所 合資會社 明輝社
      電話三宮五五〇番
【南朝忠臣碑文集】p204
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p204
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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新田氏略系:大井田・江田・大館・畑・亘・篠塚【南朝忠臣碑文集】大正11年

新田氏略系:大井田・江田・大館・畑・亘・篠塚【南朝忠臣碑文集】大正11年

【南朝忠臣碑文集】
 新田氏略系 p104/206

 大井田經隆 p108/206
經隆は、義貞の族人にして義重の裔なり。
遠江守と為る。
 ―略―

 大井田氏經 p108/206
氏經は、義貞の族人にして、義重の裔、經兼の子なり。
 ―略―

 江田行義 p108/206
行義は、義貞の族人にして、義重の裔、有氏の子なり。
又二郎と稱す。

 ―略―

 大館氏明 p108/206
氏明は、義貞の將なり。
左馬助と稱す。
元弘以後、忠戰の功多し。
世に云ふ、四天王の一とす大館宗氏の子なり。
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p108
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p108

 畑 時能 p109/206
時能は、六郎左衛門と稱す。
義貞の臣なり。
 ―略―

 亘 忠景 p109/206
忠景は、新左衛門と稱す。
亘、一に渡里とも書す。
義貞の臣なり。
 ―略―

 篠塚重廣 p109/206
重廣は、伊賀守と稱し、
又諱を正氏とも云ふ。
義貞の臣にして、四天王の一人なり。
常に一方の將として、忠戰の功多し。
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p109
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p109
大正十一年十一月二十一日印刷
大正十一年十一月二十五日發行
不許複製 非賣品
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  編輯兼發行人
      辻 こう
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷人 辻  仁三郎
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷所 合資會社 明輝社
      電話三宮五五〇番
【南朝忠臣碑文集】p204
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p204
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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新田氏略系:新田・脇屋【南朝忠臣碑文集】大正11年

新田氏略系:新田・脇屋【南朝忠臣碑文集】大正11年

【南朝忠臣碑文集】
 新田氏略系 p104/206
 新田義貞  p104-105/206
義貞は、源義家十世の孫なり。
祖父を基氏と云ひ、父を朝氏と云ふ。
小字は小太郎、乾元元年十月、 ※1302年10月
上野國新田郡世良田の邸に生る。
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p104
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p104

 脇屋義助  p105-106/206
義助は、新田朝氏の第二子にして、義貞の弟なり。
出て脇屋氏を繼ぐ。
嘉元三年七月生る。 ※1305年7月
小字を二郎と稱す。
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p105
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p105
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182188/105

 新田義顯  p106-107/206
義顯は、義貞の長子なり。
幼字は太郎丸、元享元年二月生る。 ※元亨元年二月:1321年3月
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p106
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p106

 新田義興 p107/206
義興は、義貞の第二子なり。
元享三年二月生る。 ※元亨三年二月:1323年3月
幼字は、德壽丸。
 ―略―

 新田義宗 p107/206
義宗は、義貞の第三子なり。
正中元年正月生る。 ※1324年2月
 ―略―

 脇屋義治 p107-108/206
義治は、義助の子なり。
正中元年生る。 ※1324年
幼名を三郎丸と稱す。
 ―略―
【南朝忠臣碑文集】p107
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p107
大正十一年十一月二十一日印刷
大正十一年十一月二十五日發行
不許複製 非賣品
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  編輯兼發行人
      辻 こう
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷人 辻  仁三郎
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷所 合資會社 明輝社
      電話三宮五五〇番
【南朝忠臣碑文集】p204
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p204
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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伊豫脇屋義助公墓碑【南朝忠臣碑文集】大正11年

伊豫脇屋義助公墓碑【南朝忠臣碑文集】大正11年

【南朝忠臣碑文集】
伊豫脇屋義助公墓碑 p40/206
同 碑陰文
【南朝忠臣碑文集】p40
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p40

   脇屋義助廟碑(譯文) p41/206
   淸和天皇十七代
表面 脇屋刑部卿源義助公神廟
      暦應三年五月十一日 ※1340年6月14日
   脇屋卿賛
    舉兵廟算、    義に仗り速に驅く、
    桓々たる雄武、  懦夫を起たしむべし、
    戰功籍甚、    名兄と倶にす、
    病て南海に歿す、 時か命か、
   此賛は、益軒貝原氏、八十餘歳にして作る所なり。
   余、偶々自娯集を讀み、之を得て感懐已む能はず。
   因って、之を同志に謀り、相與に石を刻し、
   以て墓側に奉建すと云ふ。
    文政己丑仲夏の日 ※1829年6月頃
             佐伯惟忠謹んで識す
【南朝忠臣碑文集】p41
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p41

大正十一年十一月二十一日印刷
大正十一年十一月二十五日發行
不許複製  非賣品
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  編輯兼發行人
      辻 こう
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷人 辻  仁三郎
神戸市三宮町一丁目三百二十番屋敷
  印刷所 合資會社 明輝社
      電話三宮五五〇番
【南朝忠臣碑文集】p204
〔画像〕【南朝忠臣碑文集】p204
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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脇屋義治の墓(香川縣大川郡丹生村大字土居)【日本伝説叢書. 讃岐の巻】大正8年

脇屋義治の墓(香川縣大川郡丹生村大字土居)
【日本伝説叢書. 讃岐の巻】大正8年

【日本伝説叢書. 讃岐の巻】
脇屋義治の墓(大川郡丹生村大字土居) p119-120/235
       脇屋義治の墓(香川縣) 讃岐の巻
正平二十三年七月、 ※1368年8月
上野國の戰敗れて、
新田義宗・脇屋義治の兩將は、
出羽國羽黑山に匿れてゐた。
後、伊勢國に移らんと請ふたけれども、
北畠氏、
京師に近きを以て許さなかつたので、
遂に、潜行して、
伊豫國宇摩郡下山村に匿れてゐた。

後、義宗は病を以て卒したので
土居通郷・徠能通種の義徒、
祠を立てて之を祀つた。

然るに、其後、新田の族を討索すること
 讃岐の巻】p119
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p119

甚だ急であつたので、
義治は、其子義長と、
讃岐國丹生山
(此處より、阿州へ行くに、正守【まさもり】を越して、
 浦地村【うらちむら】に行けば、民家がある。
 德島より七里の道といふ。)
の近くなる、
丹生山村の長福寺
(眞言宗、大谷の釋王寺末寺、
 本尊聖觀音、開基詳かならず。)
に匿れて、
土居氏の族と稱してゐたが、
その後土居に移り、
義長・義信・德光・義則等繼承、
子孫繁延すといふことである。

今、土居の地に、
義治の墓なるものを存してをるが、
これには、
淨琳居士脇屋之墓と認(したゝ)められてあるといふ。
銘に曰く、
 六孫王之裔系自新田高岸頽矣舊蹟廢焉以以以續續爾之先
 於今爲庶追孝是處維此塋
 兮不崩不騫
      藤原廣野誌
と。

傳へていふ。
天文十六年、 ※1547年
細川晴元反せし時、
安富氏、義治の孫德光に書を贈つて、
此度の戰は、わが主無道である。
されば、戰は、必ず勝つべからずと思はれる。
しかれども われは臣、
とかく節義を失ひ難い。
我子右馬丸なほ幼少でござるが、
願はくは、此子を養育下されて、
人となしたまはれとて、
田五十石を能へて、その子を託し、
然して軍に赴いたといふことであるが、
此書なほ其家に藏すといふことである。
           (「脇屋家傳」)
 ―略―
 讃岐の巻】p120
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p120

顧問 文學博士 森 林太郎先生
顧問 文學博士 喜田 貞吉先生

日本傳説叢書 讃岐の巻
大正八年五月廿八日印刷
大正八年六月 一日發行
編著者 藤澤衛彦
非賣品 不許複製
發行者 日本傳説叢書刊行會
    東京市神田區錦町一丁目十九番地
代表者 森 淸太郎
    東京市神田區錦町一丁目十九番地
印刷者 中田福三郎
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 秀英舎
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
發行所 東京市神田區錦町一丁目
    日本傳説叢書刊行會
    電話・神田二二九二番
    振替・東京八四四六番
 讃岐の巻】p233
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p233
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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古矢紘一様のBLOGariへのコメント投稿を転記

古矢紘一様のBLOGariへのコメント
名前 古矢紘一
日付 2017/01/01(日) 01:48
コメント本文
明けましておめでとうございます。
私は曾祖父に脇屋正人、
曾祖母に脇屋リウの血を受け継ぐ者です。
脇屋家には過去に脇屋家から別府家へ
ひさ、ゑつ、
と言う二人の女性が嫁いでいる事が
書かれた文章が残っています。
我が古矢家のお寺は、
偶然にも別府家の血を引く
東京、神谷町のお寺、
光明寺の住職の母上、幸子さんとも
親戚で有ることも判明しました。
また幸子さんは別府祐弘さんを存じ上げ、
お会いした事もあると聞いております。
過去、脇屋家、別府家、大久保家、大辺家は
親戚どおしで結婚していたと聞いています。
〔記事を見る〕
blog[小野一雄のルーツ]
2015年05月09日(土)
<大久保系圖:No.10>74《六女 リウ:別府⇒脇屋》
BLOGari 2017年1月31日をもって終了する。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月09日
<大久保系圖:No.10>74《六女 リウ:別府⇒脇屋》
BLOGariからblog.livedoorへ引越しの為、
コメント欄に反映出来ない。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年07月03日
大久保逕三の五女の夫[脇屋正人]『大河内傳次郎』富士正晴
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大久保逕三の五女の夫[脇屋正人]『大河内傳次郎』富士正晴

大久保逕三の五女の夫[脇屋正人]『大河内傳次郎』富士正晴

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

父 大久保逕三
母 坪坂氏(姉)〔慶応三年(一八六七)歿?〕
五女(名不詳)の夫
(別府義顕)ト碑文ニアルガ、加来秀介ニヨレバ
 脇屋某トイウ 
 東京デ医者ヲシ救世軍ニ熱心デアッタトイウ P19

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[脇屋正人]
安政3年(1856)8月生
医術開業試験合格 明治30年(1897)10月登録 大分平民
東京市下谷区二長町34

【東京姓名録】三原松皆治郎 明治33年(1900)10月31日発行
医士     下谷区        p104/266
脇屋正人   二長町三四      p104/266
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779946/104

【日本東京医事通覧】日本医事通覧発行所 明治34年(1901)11月13日発行
東京市下谷区            p222/507
脇屋正人(試験)明治三十年(1897)年十月登録 大分県平民
安政三年(1856)八月生 二長町三四  p222/507
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833368/222

【日本杏林要覧】日本杏林社 明治42年(1909)12月28日発行
東京市下谷区            p106/976
脇屋正人 試験 明治三十年(1897)十二月 大分平民
安政三年(1856)生 二長町三四    p107/976
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/107

【救世軍病院】第1年報告:大正2年(1913)9月25日発行
東京市下谷区仲徒町三丁目四十五、六番地に卜し、
ここに一病院を新築して、専ら貧民の救療に便することとなった。
これが即ち「救世軍病院」設立の始末の概略である。 P7/18
救世軍病院は明治四十五年(1912)六月三十日を以て開院の式を挙げたのである。P7/18
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/912658/7
本営の当事者は左の如し。P9/18
日本司令官 少 将 ヘンリー、シ、ホッダー
同書記長官 大佐補 山室軍平
病院に直接働いて居る職員は左の如し。P9/18
院 長 医学士   松田三彌
副院長       脇屋正人
教務兼事務係 中尉 松村 勇
医 師       今村千代子
医 師       岩佐倫子
医 師       寺澤眞子
薬剤師       長谷川智恵子
看護婦長      高月ヨネ子
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/912658/9
大正二年九月廿二日印刷
大正二年九月廿五日発行
編輯者 山室軍平
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
発行者 ヘンリー、ホッダー
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
印刷者 村岡平吉
    横浜市太田町五丁目八十七番地
印刷所 福音印刷合資会社
    横浜市山下町百〇四番地
発行所 救世軍日本々営
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
    電話(京橋七四九番)
    振替(東京四四〇〇)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/912658/16

【日本の救世軍】大正2年(1913)9月25日発行
二一 救世軍病院 P35/58
明治四十五年六月末
下谷区仲徒町三丁目四十五、六番地に設立したのが、
即ち救世軍病院である。
院長は医学士松田三彌氏、副院長は脇屋正人氏、
病院附士官一名、女医三名、
看護婦四名、調剤員一名、雇員二名にて
此事業を経営して居る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922980/35
大正貳年九月廿二日印刷
大正貳年九月廿五日発行
編輯者 山室軍平
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
発行者 ヘンリー、ホッダー
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
印刷者 村岡平吉
    横浜市太田町五丁目八十七番地
印刷所 福音印刷合資会社
    横浜市山下町百四番地
発行所 救世軍日本本営
    東京市京橋区銀座二丁目十一番地
売捌所 警醒社書店
    東京市京橋区尾張町二丁目十五番地
売捌所 警醒社支店
    東京市本郷区春木町二丁目廿三番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922980/55

【復活の人】一名・救世軍の事業:大正4年(1915)2月23日発行
救世軍病院          P48-49/62
救世軍病院は下谷区仲徒士町三丁目にある。
これは貧民救療を目的とするものにて、
其最近一年間に於ける事業は雑と次の如し。
―略―
院長は医学士松田三彌氏、副院長は脇屋正人氏、
其他士官、女医、看護婦等、何れも
「坊主と医者と兼業」といった様な精神にて熱心に働き、
目ざましき成功をして居るのである。
(電話 下谷一三四三番)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907243/48
大正四年二月二十日印刷
大正四年二月廿三日発行
著作兼発行者 山室軍平
       東京市京橋区銀座二丁目十一番地
印刷者    村岡平吉
       横浜市太田町五丁目八十七番地
印刷所    福音印刷合資会社
       横浜市山下町百四番地
発行所    救世軍日本本営
       東京市京橋区銀座二丁目十一番地
       電話 京橋 七百四十九
       振替 東京 四四〇〇番
売捌所    警醒社書店
       東京市京橋区尾張町二丁目十五番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907243/59
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

 

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