◆移民

[ブラジル移民名簿:第一回~第三回]大正6年度【伯剌西爾行移民名簿】第一回~第三回

【伯剌西爾行移民名簿 第一囬】大正6年
出版者   伯剌西爾移民組合[ほか]
出版年月日 1917-1941
[伯國移民名簿]p1/394
 組合第一回
 大正六年四月廿日
 神戸出帆 若狭丸
 六月十八日 サントス着
 伯剌西爾移民組合
 監督 狩谷
p1【伯剌西爾行移民名簿 第一囬】大正6年
〔画像〕p1【伯剌西爾行移民名簿 第一囬】大正6年

【伯剌西爾行移民名簿 第二囬】大正6年
出版者   伯剌西爾移民組合[ほか]
出版年月日 1917-1941
[第二回伯國移民名簿]p1/172
 大正六年六月十二日
 神戸 河内丸
 八月十三日 サントス着
 伯剌西爾移民組合
 監督 豊島 昌

【伯剌西爾行移民名簿 第三回】大正6年
出版者   伯剌西爾移民組合[ほか]
出版年月日 1917-1941
[第三回伯剌西爾移民名簿]p1/523
 大正六年十一月三日
 若狭丸便
 十二月二十八日 サントス着
 伯剌西爾移民組合
 監督 松田
 イロハ別
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《鈴木國藏》布哇に於ける邦人最古の商店【在米日本人史観】昭和5年(1930)

《鈴木國藏》布哇に於ける邦人最古の商店
【在米日本人史観】昭和5年(1930)

【在米日本人史観】昭和5年(1930)
著者    鷲津尺魔 著
出版者   羅府新報社
出版年月日 1930.4
 商店及び一膳飯の元祖
   鈴木國藏
鈴木國藏は千葉縣人、
弘化二年生、
幼時家貧にして苦惨の生活を續け、
慶應三年四月横濱に於て
獨逸人ベレリウテーに雇はれ、
甘蔗栽培勞働者として布哇に渡つた、
(明治元年者より一年前)
爾來各所に轉働し、
明治十九年十月、
布哇島ヒロ市に來り、
初めて小店を開いた。
店には少許の果物を並べ一膳飯を商ふた。
之れ布哇に於ける邦人最古の商店である。
國藏は「ヒロの國」と呼ばれ
商運次第に盛大に赴き
數十萬弗の財産を作り
内外人の信用を博したが、
物故して其跡を留めてゐない。
p241【在米日本人史観】昭和5年(1930)
〔画像〕p241【在米日本人史観】昭和5年(1930)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906530/1/241
一千九百三十年三月十五日印刷
一千九百三十年四月 一日發行 定價 金五弗
著 者 鷲津 尺魔
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    ホールデール通三千六百五十三番地
發行者 唐木 保藏
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    東一街二千六百十八番地
印刷者 佐渡 高一
    東京市外千駄ケ谷町原宿百七十番地十三號
發行所 羅府新報社
    北米 合衆國加州ロスアンゼルス市
    北ロスアンゼルス街百四番地
印刷所 中外印刷株式會社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906530/1/249
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《鈴木國藏》故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠【母国見学記念誌】昭和4年(1929)

《鈴木國藏》故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠
【母国見学記念誌】昭和4年(1929)

【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
著者    布哇仏教青年会 編
出版者   布哇仏教青年会
出版年月日 昭和4
  二、故參移民の奉納せる嚴島神社の石燈籠
昨夏七月十七日
我が見學團が嚴島神社に參詣せし時、
計らずも我等に關係ある御影石の大燈籠一對を發見せり。
それには布哇島ヒロ鈴木國藏の奉納といふ銘あり。
我が見學團に因緣あるを以てこゝに紹介す。

抑も故鈴木國藏氏は私も相知の人なるが、
故參の在住者間には元年者として、
成功者として知られ居たり。

同氏は明治元年に外國人の計劃による
帆船サイト號に殆んど奴隷の如くにして
布哇に携れ行かれし
最古の日本人移民百五十三名中の一人なり。

故に上陸後數年勞働に從事せしと雖も
明治二十年頃には布哇島ヒロ市に獨立店舗を開き
白人間にも最も信用厚く
元年者隨一の成功者なりしなり。

目に一丁字なかりしも常に日本魂を失はず、
白人に對してもお世辭を使はず、
一歩も譲らず、
日本人たる事を誇として居れり。

その妻君はポルトガルの婦人なりしが、
子女も舉げし仲なれども、
明治二十七年の日淸戰爭の當時、
その妻君が日本は支那に負けんと放言しけるに、
氏は憤然として鐵拳を見舞へりと云ふ。

明治四十年頃布哇を引揚て歸朝し、
東京向島に邸宅を構へ老後を養ひ、
諸所遊歷せしが、
此燈籠もその頃奉納せしものならん、
大正三年頃七十餘歳に達し
終に東京にて逝去せられたり。

我が見學團と共に此燈籠に對して、
國藏老在住の昔と今日の發達を比するに
實に雲泥の差あり、
然るに六十一年前に移住したる故人は
此記念を内地の名所に遺せり、
今その事なし、
遺憾の至と謂ふべし。
p24【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
〔画像〕p24【母国見学記念誌】昭和4年(1929)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1077781/1/24
昭和四年十二月十五日印刷
昭和四年十二月二十日發行
編輯兼發行者 布哇佛敎靑年會
       米領布哇ホノルル・フオート街
右代表者   高桑 與市
       東京市京橋區東港町一丁目二十六
印刷所    精興社
       東京市神田區錦町三丁目十七
印刷者    白井赫太郎
       東京市神田區錦町三丁目十七
https://dl.ndl.go.jp/pid/1077781/1/65
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《鈴木國藏》本所區須崎町一六一(金百圓) 【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)

《鈴木國藏》本所區須崎町一六一(金百圓) 
【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)

【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
著者    東京市養育院 [編]
出版者   東京市養育院
出版年月日 1903-01
◎特志の寄附
▲本所區須崎町一六一
 鈴木國藏氏は祖先供養の爲めとて
 金百圓を何れも本院へ寄附せられたり。
p7【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
〔画像〕p7【東京市養育院月報 (23)】明治36年(1903)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1515506/1/7
明治三十六年一月廿四日印刷
明治三十六年一月廿五日發行 (定價 金貳錢)
發行兼編輯人 高畠登代作
       東京市小石川區大塚辻町十八番地
印刷人    木村 龜作
       東京市日本橋區兜町二番地
印刷所    東京印刷株式會社
       東京市日本橋區兜町二番地
發行所    東京市養育院
       東京市小石川區大塚辻町十八番地
       (電話番號 番町四百四十二番)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1515506/1/9
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《鈴木國藏》嚴嶋神社石燈[Quni HILO.HAWAII]【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)

《鈴木國藏》嚴嶋神社石燈
[Quni HILO.HAWAII]
【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)

【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
著者    天沼俊一 著
出版者   スズカケ出版部
出版年月日 昭和7
目測だから間違つてゐるかも知れぬが、
高さ十五尺位はあらうと思はれる大石燈で、
型式は平凡であるが、
第四重目の基礎正面に、拙い文字で
 「菱の内にD」
 Quni HILO.HAWAII
とあるのが眼立つてゐる。
撥型の竿には、大きな字で「明輝」、
後面に「明治三十一年一月一日」、
左右側面に
 東京府住人
 布哇國布哇島ヒロ街
 鈴木國藏
と、一は楷書、他は草體でほつてある。
そこでQuniとあるのは「國藏」の「國」らしく、
普通Kuniと綴るべきに、
KをQとし態(わざ)とであらう。
「菱の内にD」は商標か何かと思はれる。
單に大きいのみで平凡な石燈を圖示した理由は、
銘文をみせるのが目的で、
横文字でももう少し巧みにかいておいたならば、
全形の不滿足を幾分でも取返すことができたらうに、
鐵釘流では頗る心細いのである(六・四・六)。
p98【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
〔画像〕p98【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/98

第二百六十三図 嚴嶋神社石燈 其九
  上。全形
  下。基礎正面の銘文
    (左右に立てるは曲尺の一尺)
  (昭和六年三月二十九日)
p99【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
〔画像〕p99【石灯籠 第4回分冊】昭和7年(1932)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/99
昭和七年十二月二十日印刷 石燈籠 第四回分冊
昭和七年十二月三十日發行 價五・〇〇
著 者   天沼 俊一
發行者   川勝政太郎
      京都市烏丸通二條南
寫眞印刷者 桑名  節
      京都市夷川寺町四
活版印刷者 松永 貞藏
      京都市烏丸鞍馬口南
發行所   スズカケ出版部
      京都市烏丸通二條南
      電話上二二二九
      振替大阪八三七一四
叢文社印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/1263998/1/329
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鈴木国蔵が厳島神社へ寄進した石灯籠【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)

鈴木国蔵が厳島神社へ寄進した石灯籠
【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)

【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
著者    ハワイ日本人移民史刊行委員会 編
出版者   布哇日系人連合協会
出版年月日 1964
「元年者」の人々と「明治元年渡航者の碑」
→ヒロのクニ(鈴木国蔵)が厳島神社へ寄進した石灯籠。
p25【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
〔画像〕p25【ハワイ日本人移民史】昭和39年(1964)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3030154/1/25
ハワイ官約移住75年祭記念
ハワイ日本人移民史  頒価¥2500
1964年4月20日発行
編集/
ハワイ日本人移民史刊行委員会
委員長 岡畑 博
発行/
布哇日系人連合協会
代表者 仲嶺真助
米国ハワイ州ホノルル市ビショップ街1145
製作代行/
日本出版貿易株式会社
東京都千代田区神田猿楽街1丁目1番地
印刷/
凸版印刷株式会社
東京都台東区台東1丁目5番1号
Printed in Japan
https://dl.ndl.go.jp/pid/3030154/1/379
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千葉縣人鈴木國藏(弘化二年生) 【大日本海外移住民史 第1編】昭和13年

千葉縣人鈴木國藏(弘化二年生)
【大日本海外移住民史 第1編】昭和13年

【大日本海外移住民史 第1編】昭和13年
出版者   海外調査会
出版年月日 昭13
  第二、實業界
一、商業經濟
  日布貿易
これより先、千葉縣人鈴木國藏は(弘化二年生)
明治十九年十月にヒロ市に來りて開店し、
少し許りの果物を表に並べて一膳飯屋を始め、
後食料雜貨を商つて大成功し、
數十萬弗の財を作つた。

彼が安藝の嚴島神社に奉納した石燈駕籠は
今も尚輝いてゐる。
p105【大日本海外移住民史 第1編】昭和13年
〔画像〕p105【大日本海外移住民史 第1編】昭和13年
昭和十二年十月一日印刷
昭和十二年十月十日發行 非賣品
著者兼   藤井秀五郎
印刷發行人 大阪市北區兎我野町二八
印刷所   美術日報社
      大阪市北區兎我野町二八
發行所   海外調査會
      大阪市北區兎我野町二八
      電話北四八三一番
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由利郡鳥海村出身の三船末吉さん(六〇)しげさん(五四)夫婦の一家【世界を旅して:外から見た日本】1960

由利郡鳥海村出身の
三船末吉さん(六〇)しげさん(五四)夫婦の一家
【世界を旅して:外から見た日本】1960

【世界を旅して:外から見た日本】1960
著者    沢石謙 著
出版者   秋田魁新報社
出版年月日 1960
  Ⅰ 空から見た中南米
時速五〇〇キロで
五月十四日午後ロサンゼルス空港から、
ブラジルのリーアル航空四発機で、
サンパウロへ向けて飛ぶ。
途中、メキシコシティ、パナマ、
ボゴタ(コロンビア)マナウス(ブラジル)の
四空港へ降りてそれぞれ一時間前後、
給油のため休む。
時速平均五〇〇キロで飛んでいるのだが、
いちどジェット機のスピードになじめば、
四発の一流機も鈍行の感じ。
空の奥羽線というところだ。
サンパウロへ着いたのは、十六日午前二時。
足かけ三日約三十時間を飛びつづけたことになる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982222/1/19
  Ⅱ サンパウロ
ブラジルのサンパウロ市に十六日着いた
小畑知事、中田県会議長一行を歓迎する
在ブラジル秋田県人会の歓迎会が、十六日の夜、
邦字紙パウリスタ社の三階サロンで、
県人百人あまりが出席して盛大に行われた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982222/1/20
望郷の思いは、
コロニストにとっては、
胸中ふかく蔵すべきもので、
生活のうえに、具現し得ないものである。
それだけにいっそうつらい思いである、といえよう。

スザノ地区でたずねた由利郡鳥海村出身の
三船末吉さん(六〇)しげさん(五四)夫婦の一家も、
やはり望郷三十年の思いに生きている人たちだが、
これを克服して、
みごとにブラジル社会に融合している家族でもある。

七人の子だくさんだが、
移住者の家族には、九人ないし十人前後はざらである。

末娘のやす子さんは十七歳で中学の二年生。
ブラジルでは、中学の年齢は、マチマチだ。
ひとり日本人だけではない。

やはり生活が安定するまでは、
学校にやるひまがない、
というのが現実であるからだ。
しかしそれでも日本人移住者子弟の教育率は、
ブラジルのあらゆる人種のうちで最高である。

ところで、このやす子さん、
「こんにちは、よくいらっしゃいました」が、
いかにもたどたどしい。

兄さんたちも、まずまず、
ポルトガル語はとてもうまい。
ことばも風俗も、日本のものから、
完全にはなれて、ブラジルの国にとけ込んでいる。

これは三船さん夫妻の、不干渉主義のためである。
子どもはブラジルの子どもだという考え方だ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982222/1/27
しかし、三船さんの客間正面には
天皇、皇后両陛下と皇太子の写真が、
かざられている。
皇太子の写真は、
生まれたときの白い産着のときのもの。
主婦之友、キング、講談倶楽部などの雑誌も、
戦前のものだ。

望郷の思いは胸の中に、
古くそしてつねに鮮明に蔵され、
現実の生活は日々新しく、繰り返されてゆく。

これがコロニストの生きる道であろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982222/1/28
世界を旅して
昭和35年8月15日発行 ¥200
著 者 沢石  謙
    秋田市大町1-14
発行者 秋田魁新報社
    秋田市中谷地町4
印刷者 秋田活版印刷株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982222/1/111
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【サンパウロ四百年祭】1957
出版者   聖市四百年祭典日本人協力会
出版年月日 1957
◎スザノ駅管内……一八区域  p177-178/330
中央日本人会地区  扱者 岡部清三
 各一〇〇鉘宛   三船末吉
p178【サンパウロ四百年祭】1957
〔画像〕p178【サンパウロ四百年祭】1957
https://dl.ndl.go.jp/pid/3443166/1/178
1957年5月10日印刷
1957年5月15日発行
サンパウロ四百年祭
発行者 聖市四百年祭典日本人協力会
サンパウロ市・プラッサ・ダ・リベルダーデ90番6階
サンパウロ日本文化協会内
印刷所 日本写真印刷株式会社
    京都市中京区壬生花井町三番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/3443166/1/327
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月17日 12:52
《三好竹三郎 二〇〇鉘》コチア産業組合扱地区 友愛会扱地区
【サンパウロ四百年祭】昭和32年(1957)
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三船末吉氏(六〇)由利郡鳥海村出身(三船敏郎の叔父さん)【海外旅行記】小畑勇二郎(秋田県知事)昭和36年

三船末吉氏(六〇)由利郡鳥海村出身
(三船敏郎の叔父さん)【海外旅行記】
小畑勇二郎(秋田県知事)昭和36年

【海外旅行記】
著者    小畑勇二郎 著
出版者   秋田県広報協会
出版年月日 [ ] ※昭和36年11月頃
三船敏郎の叔父さん  p44-45/159
サンパウロ近郊、スザノ地区にいる
三船末吉氏(六〇)由利郡鳥海村出身―は、
映画俳優三船敏郎氏の叔父さん。
この人は、家族だけで養鶏をやり、
三千羽ほど飼育している。
バタリー式で、
飼い方は日本のやりかたと変りがない。
卵は全部コチア産業組合で引き取っているので、
販売には心配はない。
七人の子だくさんで、
子どもさんは全部高校、
中学と一とおり教育を受けさせている。

生活が安定するまで、
子どもを学校にやれないので、
生徒の年齢はまちまちだが、
日本人移住者の子弟の教育程度は、
ブラジルでは飛び抜けて高い。
自分は無学だが、せめて子どもだけはという思いから、
子どもの教育は、日本内地より熱心である。

ここにも、
両陛下と雑誌から切り抜いた皇太子のお写真がある。

奥さんが、手打ちそばを御馳走しようと
いっしょうけんめい仕度されている。
そば好きの私には、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879036/1/44
たまらないおいしい におい がしてくる。

しかし、県人会の大橋幹事の厳格な命令で、
そばを置き去りにして出発する。
今度の旅行の残念物語りの一つであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879036/1/44
筆者紹介
小畑勇二郎
明治39年9月 秋田県北秋田郡田代町で出生
昭和20年8月 秋田県知事官房文書課長
昭和24年2月 秋田県民生部長
昭和25年8月 秋田県総務部長
昭和26年6月 秋田市助役
昭和30年4月 秋田県知事
昭和34年4月 秋田県知事(再選)
著 者 小畑勇二郎
発行者 落合喜久郎
発行所 秋田県広報協会
印刷所 秋田協同印刷株式会社
    三浦 伝六
    非売品
https://dl.ndl.go.jp/pid/1879036/1/156
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年01月13日 04:25
序 秋田県知事 小畑勇二郎
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年
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【追憶の曠野】昭和34年(1959)
著者    小西達四郎 著
出版者   小西達四郎
出版年月日 1959
序 秋田県知事 小畑勇二郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/1669843/1/6
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〔写真〕帝國總領事 上野專一氏・朝日野球團【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)

〔写真〕帝國總領事 上野專一氏・朝日野球團
【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)

【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)
帝國總領事 上野專一氏
Mr.S.Uyeno.
Japanese Consul-general.

布哇縣知事 フリアー氏
Hon.W.F.Frear.
Governor of Hawaii.

ホノルヽ郵便局長 プラツト氏
Mr.J.G.Pratt.
Honolulu post-master.

移民局長 ブラオン氏
Mr.R.C.Brown.
Superintendent of Immigration brew.
p13【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)
〔画像〕p13【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)

朝日野球團
Asahi Base Ball Cam. [Honolulu]
※当時の野球道具が写っている。
p19【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)
〔画像〕p19【ホノルヽ繁昌記】明治44年(1911)
(明治四十四年)
千九百十一年十二月一日印刷
千九百十一年十二月五日發行
著作兼 武居 熱血
發行者 原籍 山口縣都濃郡下松町
    現住 米領 布哇縣ホノルヽ市
印刷者 原田辰五郎
    東京市京橋區木挽町二丁目十三番地
印刷所 原田寫眞銅板印刷所
    東京市京橋區木挽町二丁目十三番地
發行所 本重眞壽堂
    キング街
    布哇みやげ
   ホノルヽ繁昌記
大賣捌所
山本精々堂  ホテル街
推木藥舗   ホテル街
中津商店   リバー街
大島藥舗   ベレタニア街
森重書籍店  ベレタニア街
町田藥舗   ベレタニア街

【職員録. 明治44年(甲)】
〇外務省        p82/586
〇在ホノルル總領事館  p87/586
總領事   上野 專一
領事官補  森 安三郎
外務書記生 原田 明達
      伊藤金次郎
      中村  修
      内藤 啓三 陸軍歩兵伍長
外務通譯生 河野小七郎
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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