◆暫定[本官勘合帳 外國官一号]

明治五年外国留学生調(美々津県都城県関係)【佐土原町史】1982.2

【佐土原町史】1982.2
出版者   佐土原町
出版年月日 1982.2

  第5表 明治五年外国留学生調(美々津県都城県関係)
  (県立図書館「宮崎県地方史研究紀要」第五輯)

出 帆 明治2年9月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 24歳
帰 朝 明治8年11月1日
其 他 島津忠寛嫡子 貴族院議員

出 帆 明治2年9月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 22歳
帰 朝 明治8年11月1日
其 他 島津忠寛二男 肥前大村家を継ぐ

出 帆 明治2年9月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 24歳
帰 朝 明治6年10月18日
其 他 旧佐土原藩士 明治5年3月以降 海軍学生
    第五高等中学校長

出 帆 明治2年9月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 23歳
帰 朝 明治5年10月
其 他 旧佐土原藩士
    明治6年2月9日 外務省八等出仕

出 帆 明治3年8月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 26歳
帰 朝 明治6年春
其 他 旧佐土原藩士 台湾事件従軍
    バルカン造船会社日本代理人

出 帆 明治3年8月28日
留学先 独
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 27歳
帰 朝 明治6年10月12日
其 他 旧佐土原藩士
    大蔵省印刷局会計部長

出 帆 明治3年8月28日
留学先 独
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 23歳
帰 朝 明治6年10月12日
其 他 旧佐土原藩士
    明治7年4月27日文部省十等出仕
    山形、栃木、福島の公立病院長

出 帆 明治3年8月28日
留学先 米
学資金 藩費 年800ドル
年 限 3ケ年
年 令 15歳
帰 朝 明治9年4月22日
其 他 島津忠寛 第三子
    明治6年8月以降 海軍学生
    8年9月放免

出 帆 明治4年2月2日
留学先 英
学資金 官費額不明
年 限 2ケ年
年 令 27歳
帰 朝 明治6年12月30日
其 他 旧飫肥藩士 大蔵省七等出仕

出 帆 明治5年1月27日
留学先 英
学資金 自費1000ドル持参
年 限 2ケ年
年 令 28歳
帰 朝 不明
其 他 旧高鍋藩士 大審院長
p172【佐土原町史】1982.2
〔画像〕p172【佐土原町史】1982.2
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/172
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◆[本官勘合帳 外国官一号]原本 (13)
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《島津又之進》ニューブロンスウィッキの米国留学生姓名【佐土原町史】1982.2

【佐土原町史】1982.2
出版者   佐土原町
出版年月日 1982.2
 2 外国留学
藩知事忠寛は維新以来多くの功績があり、
内外に通ずる識見の持主であったから、
今一歩考えを進めて外国文化をと、
外国留学に踏み切った。
明治二年七月廿三日、
島津又之進、平山太郎、橋口宗議、
三人の亜米利加留学(明治二年より同四年まで)
願いを出して許可された。
これに武之進の弟、 ※又之進
丸岡武郎が加えられ四名となった。
これは維新の功による賞典米三万石
(実質は四分の一、七千五百石)の
下賜による余裕からという。
  島津又之進  年 弐拾壱歳 ※島津忠寛の長男
  丸岡 武郎  年 拾九歳  ※島津忠寛の二男
                ※大村純雄
  平山 太郎  同 弐拾壱歳
  橋口 宗議  同 弐拾歳
右者亜米利加國江 政事学為修業三ケ年差遣申度
則御当地開成所御雇教師ウエルベッキ之書翰ヲ以
於彼地相応ノ人江 相附修業仕筈ニ御座候
一 自分賄ヲ以 壱ケ年八百ドル位之目当ニ御座候
一 入費差送り方之儀ハ、横浜為替問屋江
  金払入於彼地為替手形請取筈ニ御座候
一 入費ハ藩知事ヨリ差出申候
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/169
右之通御座候間、何卒御許容被成下、
則御印章御渡被下候様、奉願之候 以上
  九月十九日 佐土原藩  片岡 新

外務省御役所
右之通願出候処、御印章四枚御規則書四冊、
松本幸太郎殿ヨリ、御渡シ相成候付、
片岡新 相受取帰候事

御印章とは旅券のことであろう。
明治二年九月二十八日、
留学生は横浜から出発した。
ついで次の年の八月二十八日、
第二陣が出発した。
この二陣も賞典米による余裕からという。
町田啓次郎十三歳、 ※島津忠寛の三男
日高次郎二十六歳、
三浦十郎二十七歳、
木脇良二十三歳の四人、
後の三名は啓次郎のお付を兼ねていたと思われる。

啓次郎の留学については、
彼の師勝海舟が忠寛に強く勧めて実現したという。
当時外国に留学したものは、
日向国内で一〇名、
その八名が佐土原藩士であった。
江戸期の佐土原藩では、
学習館の成績優秀な者は、
江戸や大坂に学問稽古に遊学させる慣例があったが、
大平洋をこえたアメリカまでの考えは
大変な進歩である。
宗藩である鹿児島の例に刺激された事も
大きかったと思われる。

そして自分の後継者である男の子全部を手離して、
様子のよくわからぬ外国に留学させたのは、
藩政改革にかける忠寛の意気込みの一端を
物語るものではないだろうか。

イ アメリカで
又之進一行はハワイ経由サンフランシスコに向った。
彼が国元に送った手紙によると
 小生一たび日本を離れ四千里余の大海を越え、
 又数千里の鉄道を蒸気車にて、
 わずかに数日を経て
 メリケンの大都会ニューヨークに達す。
 実に飛矢の如く又、
 道には多くの電信機を掛け、
 あたかも蜘蛛の如し、
 千万里の遠きを一時に達し、
 其の軽便驚きにたえず

はじめて接したアメリカ文明社会は、
彼等にとって驚天動地の想いであったろう。
さらに続けて、
 僕等四人始めには、
 ニューブロンスウィッキと申処へ滞留致候得共、
 三、四ケ月以前に僕、平山とは、
 ボストンと申処ヘ引移り勉強致居候、
 新渡留学生友人はニューヘブンと申処ヘ滞留致候、
 ニューヘブン当地を去ること凡そ百三、四十里、
 ニューブロンスウィッキ当地を去ること
 殆ど二百五、六十里なりと雖も、
 蒸気車、蒸気船、日夜往来するを以往還自在なり

 ニューブロンスウィッキの米国留学生姓名
  岩倉公子 朝日小太郎
  同    龍 小次郎
  薩    松浦 弘蔵
  同    折田 権蔵
  長    山本 十介
  同    服部 一三
  駿    勝  小鹿
  同    高木 三郎
  佐土原  丸岡 武郎
  佐土原  橋口 宗議
 ボストン
  肥後   林  玄介
  同    津田亀太郎
  筑前   平賀儀三郎
  同    本間
  薩    吉田 彦麿
  長    児玉周一郎
  佐土原  僕(島津又之進)と 平山
 ウースタ
  筑後   山田
  筑前   井上六三郎
 ミールストン
  駿    富田鉄之助
 アナポリス
  薩    松村 淳蔵
  肥後   伊勢佐太郎
 ニューヘブン
  薩    大原令之介
  佐土原  町田啓次郎 ※島津啓次郎
  同    児玉 章吉(日高次郎)
  薩    湯地治右衛門
 ミドルタウン
  薩    永井五百介
p170【佐土原町史】1982.2
〔画像〕p170【佐土原町史】1982.2
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/170
  〇外に薩人両人地名忘る。
  〇宮様連中ブルクリンに御滞留と承候得共分明ならず。
  〇右の外朝廷の印章なしに出候人も少々有之由

以上は又之進が恩師籾木熊男先生に
あてた手紙から拾ってみた。
三浦十郎と木脇良の名前がないのは、
すでにドイツに渡ったあとだったからであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/171
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《鈴木國藏の立志》【地方資料小鑑:千葉県展覧会記念】明治44年

《鈴木國藏の立志》【地方資料小鑑:千葉県展覧会記念】明治44年

【地方資料小鑑:千葉県展覧会記念】明治44年
  鈴木國藏の立志  印旛郡六合村  p383-/456
木下町に舟漕を業とせる德次郎の長子なり
十五六歳の頃より晝は行商
夜は湯屋の三助となり糊口し
幾何ならず行商に失敗し
終に人の憐みを乞ひ
神社に起臥して露命を繫ぐに至り
一夜社殿内風冷なるの時
熱々靑春の身を以てして
其腑甲斐なきを嘆じ
奮然志を立て東都に出て
千住大橋に至りしも方向定まらず
饑餓に迫り橋下に投ぜんとせしに
一土工あり
止めて情を聞き
且つ握飯三個と錢若干を與へ示すに
横濱に於て募集中なる
布哇渡航人夫に應ずべしとの事を以てす
國藏之を聞き大に喜び謝して乃ち行き
人夫中に加はりて渡航し
爾來辛酸勞苦を嘗め
自から期す五百金を貯へ得ば歸國せんと
日夜勤勞怠らず後
雜貨商を營み
傍ら本邦人の通辨をなし信用を博し
遂に巨萬の富を爲し大に成功を遂ぐ
爰に於てか商店には管理人を置き
三十年郷里に歸り親戚知友を訪ひ
往年起臥したる八幡神社には額堂を建て
自己閲歷上の額面及幟を捧げ
料理を調へ父老に饗し
小學校に二百圓を寄附し
不動堂へ五十圓を納め
又曾て某に三圓の負債ありしかば
二十圓を以て恩償し
八幡社に起臥の日
天保錢一枚を惠まれたる者に若干を致し
厚く謝したりと其舊を忘れざるの深情
洵に鑑みとすべし
爾來又親戚某より金融の求めあるや
左の返書を送れり
氏素より文字なし
然るに其誠意紙面に躍然たり
人をして三省せしむるものあらん
 お前の父も酒を飲むだし
 お前も酒を飲むからだめだ
 わしは方々あるいて見たが
 酒を飲むもので成功した者はない
 しかし酒を飲んでは惡いと云ふわけではない
 成功してから後なら飲んでもよい
 わしは今一日に八拾錢づゝ酒を飲むが
 家内は毎月七圓づゝ子供等へも
 夫々貯金さすることは怠らない
 人の力をあてにせず酒をやめて
 一生懸命に働く樣にならなければ
 金をやつてもだめだ云々
   鈴木國藏立志  p385/456
p385-鈴木國藏立志
〔画像〕p385-鈴木國藏立志
明治四十四年五月 十日印刷
明治四十四年五月二十六日發行  地方資料小鑑奥付
編纂者 千葉縣
發行兼 能勢 鼎三
印刷者 千葉縣千葉郡千葉町千葉五百貳拾貳番地
印刷所 多田屋印刷工場 千葉活版所
    千葉縣千葉郡千葉町千葉五百四十八ばんち
發行所 多田屋書店
    千葉縣千葉郡千葉町千葉本町三丁目

【東京市養育院報告 第31回(明治35年度)】
 〇明治三十五年度寄附金      p101/127
  明治三十五年 十二月分     p106/127
一 金百圓  本所區須崎町一六一  鈴木國藏殿
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年09月27日
鈴木国藏:千葉縣印旛郡木下風【新布哇】明治35年1月5日発行

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年09月28日
[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一
【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年
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[本官勘合帳 外國官一号]第253号~第259号

[本官勘合帳 外國官一号]第253号~第259号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百五十三号 『大塚綏次郎』午二十一歳p044 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
        《大塚綏次郎》米 p004
         佐賀縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿四   ※明治6年(1873)
         七年六月十三日返納 ※明治7年(1874)6月13日

第貮百五十四号 『児玉淳一郎』午二十五歳p044 ※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 米國
        《児玉淳一郎》 米 p004
         山口縣 留学 律学 官
         辛未年二月   ※明治4年辛未2月(1871年3月21日)
         明治六年 廿八 ※明治6年(1873)

第貮百五十五号 『田尻稻二郎』 午十九歳 p044 ※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
         十二年十二月廿六日返納   ※明治12年(1879)12月26日
         兵庫縣
        《田尻稻二郎》 米 p004
         鹿児島縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿二  ※明治6年(1873)
         十二年十二月廿六日返納 ※明治12年(1879)12月26日
         兵庫縣より返納

第貮百五十六号 『村治才一郎』午二十二歳p044 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
        《村治才一郎》 米 p005
         佐賀縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿五   ※明治6年(1873)

第貮百五十七号 『種子田清一』 午二十歳 p044 ※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
         明治六年十月十四日返納   ※明治6年(1873)10月14日
        《種子田清一》 米 p005
         鹿児島縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿三   ※明治6年(1873)

第貮百五十八号 『最上五郎』 午二十四歳 p044※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
         留学中 免状紛失・・・
         明治八年五月中 自身・・届出・・ ※明治8年(1875)5月
        《最上五郎》 米 p005
         鹿児島縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿七   ※明治6年(1873)
         免状紛失・・・届出

第貮百五十九号 『二木彦七』  午十四歳 p045 ※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
         十一年九月帰朝 ※明治11年(1878)9月
         仝月九日返納  ※明治11年(1878)9月9日
        《二木彦七》 米 p005
         鹿児島縣 留学 官
         庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿七   ※明治6年(1873)
         ・・・・・
         十一年九月帰朝 ※明治11年(1878)9月
         仝月九日返納  ※明治11年(1878)9月9日

第貮百五十三号 『大塚綏次郎』

2007年12月22日
明治初期の海外留学生
1871年(明治4)9月までに全国では281人が海外に留学しています。
うち佐賀県出身者は34人でした。
佐賀出身の方のお名前を下記に記します。
出典は1897年(明治30)発行の「佐賀」です。
お名前の後ろの
(官)=官費留学生、(県)=県費留学生、(自)=自費留学生です。
米国
香月経五郎(官) 大塚綏二郎(官) 村地才一郎(官)
http://blog.livedoor.jp/bakumatusaga/archives/51134084.html


第貮百五十四号 『児玉淳一郎』

[Wikipedia]
児玉 淳一郎(こだま じゅんいちろう)
(1846年(弘化3年2月) - 1916年(大正5年)4月30日)は、
長州藩士、明治初期の官吏、
慶應義塾法律科初代講師、大審院判事、貴族院議員。
中定勝と共に、日本において最初の近代的代言人(弁護士)といわれる。
経歴 [編集]
長州藩士・児玉伝兵衛の第三子。
藩校明倫館で学んだ後、長崎でフルベッキや芳川顕正から英語を教わり、
明治2年(1869年)6月、長州藩留学生として渡米し、法律を学んで、
明治3年(1870年)11月25日に一旦帰朝する。
翌月さらに太政官留学生(年洋銀千枚支給)となり、
「刑法」修学の目的で再渡米し、
ワシントン大学や同府裁判所で司法事務を見習い、
岩倉使節団一行が同府に立ち寄った際には、
司法理事官・佐々木高行の米国法律取調の事務手伝いを命じられたと言う。
明治6年(1873年)4月29日に帰朝している。
帰朝後まもなく司法省十等出仕に任じられたが、
その低い地位を不満として江藤新平に辞職届を出して辞職している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%B7%B3%E4%B8%80%E9%83%8E


第貮百五十五号 『田尻稻二郎』

[Wikipedia]
田尻 稲次郎(たじり いなじろう)
(嘉永3年6月29日(1850年8月6日)
- 大正12年(1923年)8月15日)は、
日本の経済学者・法学者・政治家・官僚。
元東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
生涯 [編集]
稲次郎は薩摩藩士の三男として、薩摩藩京都上屋敷で生まれた。
薩摩藩の開成所にて洋学を学び、長崎に遊学した後、上京。
慶應義塾、開成学校(大学南校、のちに南校)で英学を、
海軍兵学寮で兵学を学んだ。
刑部省から留学を命ぜられ、
1871年から1879年まであしかけ9年間、アメリカに留学した。
イェール大学文科を経て、
イェール大学大学院に進学、経済学、財政学を学び修了。
帰国し東京大学講師に就任、
のちに大蔵省で彼の部下となる阪谷芳郎・添田寿一などを教え、
日本初の法学博士の5人の1人となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B0%BB%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E


第貮百五十六号 『村治才一郎』

2007年12月22日
明治初期の海外留学生
1871年(明治4)9月までに全国では281人が海外に留学しています。
うち佐賀県出身者は34人でした。佐賀出身の方のお名前を下記に記します。
出典は1897年(明治30)発行の「佐賀」です。
お名前の後ろの
(官)=官費留学生、(県)=県費留学生、(自)=自費留学生です。
米国
香月経五郎(官) 大塚綏二郎(官) 村地才一郎(官)
http://blog.livedoor.jp/bakumatusaga/archives/51134084.html


第貮百五十七号 『種子田清一』
第貮百五十八号 『最上五郎』
第貮百五十九号 『二木彦七』

「北大百年の諸問題. 札幌農学校と米欧文化」
田中彰
北大百年史, 通説: 487-505
1982-07-25
表5 開拓使派遣留学生一覧   p496-497
    『種子田清一』   『最上五郎』    『二木彦七』
学資支給 大蔵省       大蔵省       開拓使
留学国名 米国        米国        露国
学 科  農         農         鉱山
発 遺  明治4年1月4日    明治4年1月4日    明治4年1月4日
帰 朝  明治6年10月     明治7年2月6日
族 籍  鹿児島県士族    鹿児島県士族    鹿児島県士族
発遺年齢 23         26         16
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/30022/1/tsusetu_p487-505.pdf

[本官勘合帳 外國官一号]第251号~第252号

[本官勘合帳 外國官一号]第251号~第252号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百五十壱号 『光田三郎』 午二十三歳 p043※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 佛國
        《光田三郎》 佛 p029
         山口縣 留学 官
         明治三年庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿六   ※明治6年(1873)

第貮百五十二号 『廣澤健三』 午十七歳  p043※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 米
         辛未正月・・・帰朝
         同月廿七日届出免状返納   ※明治4年辛未1月27日
                       (1871年3月17日)

第貮百五十壱号 『光田三郎』

[光妙寺三郎]
―その人と足跡―

福井純子

第1節 光妙寺と半雲和尚 p104
三郎は弘化4年(1847)8月,
周防国三田尻の光妙寺主半雲和尚(1812-1874)の三男に生まれた。
光妙寺,正しくは浄土真宗本願寺派鬼玉山光妙寺は
山口県防府市東三田尻1丁目に現存する。
三郎は父が住持する寺の名前を姓としたのである。
また彼は時に光田を名乗るが,
これは光の字をとったものである
―略―

第2節 留学 p107
三郎が学んだ横浜の兵学校は
慶応元年(1865)3月幕府が創設したフランス語学校で,
新政府に引き継がれたものであった。
明治3年(1870)8月,
三郎は長州藩から毎月7両の学資金をうけることになり,
12月には,小倉衛門介・周布金槌とともに藩費留学生として
フランス留学の許可を受けた。
彼は翌年1月に出発したが,留学生の選抜にあたっては
木戸・井上の推輓によるところが多いという。
『木戸日記」明治3年10月22日,26日,27日の各条には
「光田三郎来話」の文字が見えるが,
これは留学の相談だったのだろうか。
木戸と三郎との関係は留学後も続く。

第3章 少壮官僚 p111-112
第1節 帰国と任官
太政官権少書記官光田三郎は79年には2度,
内閣委員として元老院に出席している。
1度めは5月14日に始まった
「虎列刺病伝染予防規則」についての会議であり,
太政官少書記官小野梓とともに委員をつとめていた。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/4-4/RitsIILCS_4.4pp.103-128Fukui.pdf

【勅奏官職員録】明治12年5月改正
太政官書記官     p4/104

少書記官       p5/104
小野 梓 東京府平民 p6/104
從六位
浅草區浅草橋場町六番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/6

權少書記官      p6/104
周布公平 山口県士族 p7/104
正七位
麹町區上二番町三十二番地

光田三郎 山口縣士族 p7/104
京橋區銀座一丁目九番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1151991/7

【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

リサーチ・ナビ
国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:光妙寺 三郎
別 名:光明寺三郎

人物名:光妙寺 以然
別 名:浪江,三蔵,嬾仙

人物名:光田 為然
別 名:光妙寺 以然

人物名:光田 恵然
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

[京都大学附属図書館 維新資料画像データベース]
吉田松陰とその同志展 人物解説
静間健介,光田三郎
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/jinbutsu_j/jin988.html

第貮百五十二号 『廣澤健三』

[日本英学史学会]
2007/2 其の一
ブルックリン日本人留学生関連日本側資料の紹介と広沢健三の死について

塩崎 智

これまで、アメリカ側のブルックリン留学生関連資料を紹介、
説明してきたが、
今回は、日本側の資料を中心に扱った。
まず、華頂宮一行の五十川基(福山藩)が
手紙の形で藩関係者に郵送したと思われる、『東洋紀行』がある。
陽暦1870年9月22日に横浜をグレート・リパブリック号で出航し、
ブルックリンに着いてしばらく経った陽暦11月14日までの、
日記形式の文章である。
原資料の一部虫食いにより判読できない部分がある。
現地の新聞に取り上げられた日本人関連の記事を読んで
自らの襟を正す様子など、
当時の留学生の心境をリアル・タイムに綴った貴重な資料である。
(『広島県史 近世資料編 VI』所収)
次に、やはり華頂宮一行の五十川と江木高遠(高戸賞士)が
江木の父鰐水に書き送った手紙の内容を、
鰐水が日記に書きつけている部分が数箇所ある。
分量的には決して多くはないし、
手紙そのものではないが(引用のみ)、
学校での月間成績や2人の気概などを伝えている。
これも貴重な資料である。
(「江木鰐水日記」『大日本古記録』6下所収)
広沢真臣の息子健三も
BPI(ブルックリン・ポリテクニーク・インスティチュート)で学んでいたが、
病名不明の病気で急逝した。
広沢の死を扱った新聞記事も紹介したが、
より詳細な説明は次回、さらに今後の発表を待たれたい。
http://eigakushi.org/honbu_07.html

[本官勘合帳 外國官一号]第247号~第250号

[本官勘合帳 外國官一号]第247号~第250号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百四十七号 『荒川邦蔵』 午十九歳 p043 ※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 米國
         七年七月八日免状返納  ※明治7年(1874)7月8日
        《荒川邦蔵》 米 p004
         山口縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿二 ※明治6年(1873)
         七年七月八日免状返納  ※明治7年(1874)7月8日

第貮百四十八号 『五十川 中』 午二十九歳 p043
                       ※明治3年庚午(1870年)
         菊間藩 米國
         病気ニ付 辛未四月七日帰朝 ※明治4年辛未4月7日
                       (1871年5月25日)
         同月十二日届出 免状返上  ※明治4年辛未4月12日
                       (1871年5月30日)

第貮百四十九号 『小倉衞門之介』 午二十三歳 p043
                     ※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 佛國
         八年五月十八日免状返納 ※明治8年(1875)5月18日
        《小倉衞門之介》 佛 p029
         足羽縣 留学 官
         明治三年庚午十二月 ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二六   ※明治6年(1873)
         八年五月十八日免状返納 ※明治8年(1875)5月18日

第貮百五十号  『周布金槌』  午二十壱歳  p043
                   ※明治3年庚午(1870年)
         山口藩 佛國
         九年一月廿三日返納 ※明治9年(1876)1月23日
        《周布金槌》 佛 p029
         山口縣 留学 官
         明治六年 廿四   ※明治6年(1873)
         九年一月廿三日返納 ※明治9年(1876)1月23日

第貮百四十七号 『荒川邦蔵』
荒川邦蔵[あらかわ-くにぞう]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
荒川邦蔵 あらかわ-くにぞう
1852-1903 明治時代の官僚。
嘉永(かえい)5年4月生まれ。
ドイツに留学し法律学をまなぶ。
法制局参事官などをへて
明治25年福井県知事,31年内務省県治局長となる。
退官後は帝国党の組織づくりにつくした。
明治36年10月11日死去。52歳。
山口県出身。大学東校(現東大)卒。
http://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E9%82%A6%E8%94%B5

第貮百四十八号 『五十川 中』
ながみみMEMO:
木戸とゆかいな仲間たち/幕末明治の留学生(一緒になりました)
2012年8月25日土曜日
雑談:備忘録~手島精一
追記:
公文書のデジタルアーカイブを見ていたら、
M3年11月末ころに、
菊間藩の五十川中という人に私費留学許可が出ているのだが、
これは手島、又は田辺と関係した人なのだろうか。
http://nagamimi-memo.blogspot.jp/2012/08/blog-post_24.html

[件名 五十川中米利堅ヘ遊学願]
菊間藩 p1/2
五十川 中
右ノ者 此度 米利堅國ヘ相越 自費ヲ以テ留學仕度旨願出候
此段御差許被成下候様仕度尤モ願濟ノ上ハ
来十二月二日 乗込 飛脚舩ヘ差遣申度候間
至急 御許容被成下候様仕度奉願候 以上
庚午十一月廿九日 菊間藩 ※明治3年庚午11月29日(1871年1月19日)
辨官
  御中
願ノ趣聞届候事
  即日

菊間藩士族 p2/2
五十川 中
右 自費ヲ以テ米利堅國ヘ遊學ノ儀 願出 御許容相成候間
例ノ通 免状 渡方 御取計可有之此段 御達申入候也
庚午十一月廿九日 辨官 ※明治3年庚午11月29日(1871年1月19日)
     外務省
      御中
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000001316&ID=M0000000000000071018&TYPE=&NO=

[件名 菊間藩五十川中米国留学ヲ許ス] p1-2/2
三年十一月廿九日   ※明治3年庚午11月29日(1871年1月19日)
菊間藩士族 五十川中 自費ヲ以 米國留學ヲ許ス
菊間藩願
菊間藩
五十川 中
右ノ者此度 米利堅國ヘ相越 自費ヲ以 留學 仕度旨願出候
此段 御差許被成下候様仕度尤モ願濟ノ上ハ
来十二月二日 乗込 飛脚舩ヘ差遣申度候間
至急 御許容被成下候様仕度奉願候 以上
三年十一月廿九日  ※明治3年庚午11月29日(1871年1月19日)
願ノ趣聞届候事 即日
 外務省ヘ通牒 辨官
菊間藩士族
五十川 中
右 自費ヲ以テ米利堅國ヘ遊學ノ儀 願出 御許容相成候間
例ノ通 免状 渡方 御取計可有之此段 御達申入候也
三年十一月廿九日  ※明治3年庚午11月29日(1871年1月19日)
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000000245&ID=M0000000000000835099&TYPE=&NO=

『国立公文書館・デジタルアーカイブ』より

第貮百四十九号 『小倉衞門之介』
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[海を越えた日本人名事典]
人物名:馬屋原 二郎
別 名:小倉右衛門介,衛門太
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

馬屋原二郎[うまやばら-じろう]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
馬屋原二郎 うまやばら-じろう
1847-1915 明治-大正時代の官僚。
弘化(こうか)4年10月17日生まれ。
もと長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。
ヨーロッパ留学後,司法省につとめ,
函館,神戸,大阪の各地方裁判所長を歴任し,大審院判事となる。
明治36年貴族院議員,維新史料編纂(へんさん)局評議員。
大正4年11月2日死去。69歳。
http://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E5%B1%8B%E5%8E%9F%E4%BA%8C%E9%83%8E

第貮百五十号  『周布金槌』
[春風狂想曲]
幕末長州藩中心(一応)
九州・山口周辺で史跡巡りをしています
周布政之助顕彰碑
2010-02-13 | 史跡探訪・山口県
周布政之助顕彰碑
所在地:山口県山口市亀山町
碑文は、周布公平監修『周布政之助伝 下巻』より
以下に引用させていただきましたが、
気付いた誤字はいくつか訂正し、欠字や平出は無視しました。
なお、読点は実際の碑文にはありません。
―略―
男名 金槌、後改 公平、今為 兵庫県知事
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/a39a59c7954fb69ce60557205f6d97f2

周布公平[すふ-こうへい]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
周布公平 すふ-こうへい
1851*-1921 幕末-明治時代の武士,官僚。
嘉永(かえい)3年12月6日生まれ。
周布政之助(まさのすけ)の次男。
長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。
維新後フランスに留学。
明治9年司法権少丞(ごんのしょうじょう)となり,
22年第1次山県内閣の書記官長。
兵庫県,神奈川県の知事をつとめ,のち枢密顧問官。貴族院議員。
大正10年2月15日死去。72歳。号は水石。
http://kotobank.jp/word/%E5%91%A8%E5%B8%83%E5%85%AC%E5%B9%B3

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[海を越えた日本人名事典]
人物名:周布 金槌

人物名:周布 公平
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

[本官勘合帳 外國官一号]第241号~第246号

[本官勘合帳 外國官一号]第241号~第246号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百四十一号 『大石良乙』午二十二歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
         七年六月十八日免状返納 ※明治7年(1874)6月18日
        《大石良乙》 米 p004
         佐賀縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿五 ※明治6年(1873)
         七年六月十八日免状返納 ※明治7年(1874)6月18日

第貮百四十二号 『今井 巌』 午十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         福井藩 米國
         十年十月帰朝仝月十二日返納 ※明治10年(1877)10月12日
        《今井 巌》 米 p004
         足羽縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿二 ※明治6年(1873)
         ? ・・・・
         十年十月帰朝仝月十二日返納 ※明治10年(1877)10月12日

第貮百四十三号 『山脇 玄』 午二十二歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         福井藩 米國
        《山脇 玄》 米 p004
         足羽縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二四 ※明治6年(1873)
         ?・・・・

第貮百四十四号 『相良元貞』 午三十歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
         明治八年六月三日返納 ※明治8年(1875)6月3日
        《相良元貞》 米 p004
         佐賀縣 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 三十三 ※明治6年(1873)
         ?・・・・
         明治八年六月三日返納 ※明治8年(1875)6月3日

第貮百四十五号 『池田謙齋』 午二十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         東京府貫属 米國
         明治九年五月中帰朝
         同月廿二日返納  ※明治9年(1876)5月22日
        《池田謙齋》 米 p004
         東京府貫属 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 三十二 ※明治6年(1873)
         明治九年五月中帰朝
         同月廿二日返納  ※明治9年(1876)5月22日

第貮百四十六号 『大澤謙二』 午十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         豊橋藩 米國
         七年八月三十日返納  ※明治7年(1874)8月30日
        《大澤謙二》 米 p004
         額田縣 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二十二 ※明治6年(1873)
         七年八月三十日免状返納 ※明治7年(1874)8月30日

第貮百四十一号 『大石良乙』
[寄稿 わが国の三角測量を創業した田坂虎之助(下)]
第三回 駐独日本人留学生の指導、岩倉遣欧使節団と対米条約改正交渉
プロシア・フランス戦後、相前後して伯林に来れる百余名の留学生中には、
北白川宮に扈従したる
井上省三、山崎喜都真[橘馬]、田阪虎之助、
松野、岡田翁助、河島醇、東久世某の諸氏、
及び大学東校[従来の大学校医学校]より派遣されたる
池田謙斎、大沢謙二、北尾二郎[次郎]、山脇玄、
荒川邦蔵、相良玄貞、大石良乙[良二]の諸氏あり、
其の他は多く山口、鹿児島、高知、和歌山、
名古屋、佐賀等の各県より留学を命ぜられしものなり。・・・・・
国土交通省:国土地理院
http://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/479-5.htm

第貮百四十二号 『今井 巌』
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国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:岩佐 巌
別 名:今井(本姓)
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

[新居浜市]
担当: 別子銅山文化遺産課 / 掲載日: 2009年06月19日
新たな登録有形文化財 (2) 旧山根製錬所煙突
山根製錬所は、明治21年(1888年)5月、
惣開地区の製錬所と時をあわせて竣工された。
設計したのは、東京大学の教授であった岩佐巌。
岩佐は広瀬宰平の招きに応じ、
別子銅山で廃棄していた低品位の鉱石から硫酸などの化学薬品の回収と、
残った鉄分からの製鉄を目指した。
それは、官営八幡製鉄所に先立つこと7年であった。
残念ながら事業としては成り立たず、
わずか6年余りで製錬所は閉鎖されたが、
わが国最古級の重化学工業の忘れ形見である煙突は、
120年を経過した今日でもレンガ造りのその愛らしい姿により、
市民からは「えんとつ山」の愛称で親しまれ、
市のシンボルとして市の発展を見守り続けている。
http://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/detail.php?lif_id=11898

第貮百四十三号 『山脇 玄』
山脇 玄(やまわき げん)
(1849年3月26日(嘉永2年3月3日)
- 1925年(大正14年)10月7日)は、
日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。
法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。
福井藩藩医・山脇立樹の長男として生まれる。
福井藩医学校・済世館で学び、さらに長崎で蘭学を学んだ。
明治3年(1870年)、文部省留学生としてドイツに渡り、
ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学んだ。
1877年5月に帰国。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E7%8E%84

第貮百四十四号 『相良元貞』
[相良元貞とベルツ博士]
相良元貞(1841~1875年)は、
相良知安の弟で佐賀城下八戸村に天保12年出生する。
藩校弘道館から藩医学校で学ぶ。
慶応元(1865年)には、兄の知安が学んだ佐倉順天堂塾で
蘭医学を佐藤尚中らから学ぶ。
順天堂塾で元貞は、会頭を努め、
「ヒルトル解剖書」や「ストクハルドト化学書」を朝から夕方まで講義した。
明治2年(1869年)、大学東校の中助教兼大寮長に就任した。
明治3年(1870年)2月に大阪医学校へ転勤後、
同年12月に明治政府の第1回留学生(9名)の一員として、
プロシャ(ドイツ)のベルリン大学へ医学留学した。
専攻は病理学である。
ドイツ滞在5年間に勉学に励み医学博士号を取得する。
しかし、患者の解剖手術の感染から肺病を患った。
元貞とベルツ博士との出会いは、1875年に
ライプチヒ大学病院に入院した元貞を診察した時に始まる。
ベルツは、日本からの留学生である元貞を献身的にお世話し、
次第に元貞の母国の日本への強い好奇心を抱き始める。
異国の地で病に倒れ心細い思いをしていた元貞は、
ベルツの温情にどれほど感謝したかは容易に想像がつく。
明治8年(1875年)失意のうちに帰国した元貞は、
35歳の若さで東京で没し青山墓地に葬られる。
http://sagarachian.jp/main/91.html

第貮百四十五号 『池田謙齋』
池田謙斎
天保12年(1841)11月1日、
越後国蒲原郡西野の里正(庄屋)、入沢健蔵に次男が生まれた。
後に幕府奥医師、池田玄仲の養子となり池田謙斎と名乗った入沢圭助である。
―略―
明治4年、大学東校は二人のドイツ人医師を招聘するとともに、
池田謙斎を含む9名を官費ドイツ留学生に選び、
謙斎はプロイセン国ベルリン大学医学部に学ぶ。
明治8年、学位試験に合格、博士の称号と共に、
大いに讃するに値するとの褒詞が与えられた。
明治9年5月に帰国し、
陸軍軍医監ならびに宮内省御用掛(侍医)を拝命する。
さらに同年七月、謙斎は東京医学校校長に任ぜられた。
東京医学校は東京開成学校と合併して東京大学となり
池田謙斎が医学部総理に任ぜられる。
明治30年、陸軍一等軍医に任じられる。
明治31年、男爵に叙任。
大正天皇即位に当たり勲一等旭日大授章授与。
大正七年(1918)4月30日逝去。享年78歳。
「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著
新人物往来社 1989年 より
http://www.saiki.tv/~miro45/ikeda.index.html

第貮百四十六号 『大澤謙二』
074 [大澤謙二像] 武石弘三郎作
一九一七年、七七・三×六八・〇×四六・二cm、
大理石、木製台座
本体基底部に「PROF. DR. KENJI OSAWA」、
本体背後に「1917 K. TAKEISHI」、
台座正面に次の銘文
「大澤謙二先生(一八五二~一九二七年)は
医学者として本学最初の教授であり
わが国生理学の父であった
先生は愛知県豊川の大林家に生れ
豊橋の医家大澤家に入り十四歳にして上京
医学所に学んで中得業士となり
二回にわたりドイツに留学
一八八二年帰国して
東大教授 生理学の教育に従事し 
講義の傍 開国期の医学界の啓発に尽し
学界の柱石となる多数の学者を育てられた
教授在職三十三年
六十四歳にして勇退され
七十六歳尊い生涯を閉じられた
本像は一九一七年
先生の寿康を祝し門弟が建立し旧生理学教室中庭に置かれ
関東震災の厄を免れ保存されていたが
一九八二年開講百年に際し東大生理学同窓会が
その台座を新にしてここに安置し
先生の遺徳を永遠に伝えることになった
一九八三年 東大生理学同窓会」
医学部生理学教室蔵(U)
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1998Portrait/03/03200.html#074

大蔵省七等出仕『吉田二郎』明治五年壬申四月拜[官員全書]大蔵省 壬申五月改

大蔵省七等出仕『吉田二郎』明治五年壬申四月拜
[官員全書]大蔵省 壬申五月改

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
第201号『吉田二郎』[大蔵少丞兼国債権頭 吉田二郎 任 外務一等書記官]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295064.html

第貮百壱号  『吉田二郎』午廿八歳  p034 ※明治3年庚午(1870年)
        大蔵省出仕
        米國

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[本官勘合帳 外國官一号]第198号~第201号
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295063.html

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[大蔵省 記録寮 七等出仕 吉田次郎:司法省:工部省:逓信省]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295065.html

[官員全書]大蔵省 壬申五月改     p1/58
大蔵省  壬申五月廿日改       p3/58
     ※明治5年壬申5月20日(1872年6月25日)

大蔵卿  從三位 大久保利通 薩摩 鹿児島縣人 p3/58
     明治辛未六月任 ※明治4年辛未6月(1871年7月18日)

大蔵大輔 從四位 井上馨   周防 山口縣人  p3/58
     明治辛未七月任 ※明治4年辛未7月(1871年8月16日)

大蔵少輔 正五位 吉田清成  薩摩 鹿児島縣人 p3/58
     明治辛未十月任 ※明治4年辛未10月(1871年11月13日)

大蔵省  三等出仕
     從五位 上野景範  薩摩 鹿児島縣人 p3/58
     明治壬申二月拜 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

大蔵省  三等出仕
     從五位 澁澤榮一  東京府人     p3/58
     明治壬申二月拜 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

大蔵大丞 從五位 渡邉 清  肥前 長崎縣人  p3/58
     明治辛未十月任 ※明治4年辛未10月(1871年11月13日)

大蔵大丞 從五位 岡本義方  土佐 高知縣人  p3/58
     明治辛未十月任 ※明治4年辛未10月(1871年11月13日)

大蔵省  四等出仕
     從五位 馬渡俊邁  肥前 伊万里縣人 p3/58
     明治壬申四月拜 ※明治5年壬申4月(1872年5月7日)

大蔵少丞 從五位 林 友幸  周防 山口縣人  p4/58
     明治辛未七月任 ※明治4年辛未7月(1871年8月16日)

大蔵少丞 兼 戸籍權頭
     正六位 郷 濬   東京府人     p4/58
     明治壬申二月任 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

大蔵少丞 正六位 小野義真  土佐 高知縣人  p4/58
     明治辛未十月任 ※明治4年辛未10月(1871年11月13日)

開拓使  五等出仕 兼 大蔵少丞
     正六位 大鳥圭介  駿河 静岡縣人  p4/58
     明治壬申二月任 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

大蔵少丞 正六位 熊谷直光  羽後 秋田縣人  p4/58
     明治壬申三月任 ※明治5年壬申3月(1872年4月8日)

大蔵省  六等出仕
     正七位 北代正臣  土佐 高知縣人  p4/58
     明治辛未九月拜 ※明治4年辛未9月(1871年11月13日)

大蔵省  六等出仕
     正七位 中島信行           p4/58
     明治壬申四月拜 ※明治5年壬申4月(1872年5月7日)

大蔵省  六等出仕
     從七位 長谷川為治 周防 山口縣人  p4/58
     明治壬申二月拜 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

大蔵省  六等出仕
     從七位 三島為嗣  肥前 長崎縣人  p4/58
     明治壬申二月拜 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)
―略―
大蔵省  七等出仕『吉田二郎』東京府人     p5/58
     明治壬申四月拜 ※明治5年壬申4月(1872年5月7日)


大蔵大録 南 保       陸奥 青森縣人  p5/48
     明治壬申二月任 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)


造幣寮   p11/58
造幣權頭  益田 孝     武蔵 神奈川縣人 p11/58
      明治壬申四月任 ※明治5年壬申4月(1872年5月7日)

造幣寮出仕 益田克徳     東京府人     p11/58
      明治壬申二月拜 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)
―略―
記録寮                     p48/58
記録頭   正六位 立 嘉度 駿河静岡縣人   p48/58
      明治辛未十二月任 ※明治4年辛未12月(1872年1月10日)
      吉田次郎 記載なし         p49-50/58
―略―
勸農寮   p55/58
勸農頭  正六位  福原恭助 周防 山口縣人  p55/58
     明治辛未八月任 ※明治4年辛未8月(1871年9月15日)

勸農助  正七位  由良守應 紀伊 和歌山縣人 p55/58
     明治辛未八月任 ※明治4年辛未8月(1871年9月15日)

勸農助  正七位  金沢庫治 東京府人     p55/58
     明治辛未八月任 ※明治4年辛未8月(1871年9月15日)

勸農寮  七等出仕 澁澤喜作 駿河 静岡縣人  p55/58
     明治壬申三月拜 ※明治5年壬申3月(1872年4月8日)

勸農寮  七等出仕 立田彰信 駿河 静岡縣人  p55/58
     明治壬申六月拜 ※明治5年壬申6月(1872年7月6日)

勸農寮  大屬   植木忠淳 周防 山口縣人  p55/58
     明治壬申二月任 ※明治5年壬申2月(1872年3月9日)

官版 不許翻刻  p58/58
御用御書物師
    山中市兵衛
    北畠茂平衛
職員録・明治五年五月・官員全書改(大蔵省)
【 階層 】国立公文書館>内閣>官員録・職員録>
昭和46年度総理府移管 官員録・職員録>
明治5年>職員録・明治五年五月・官員全書改(大蔵省)
【 レファレンスコード 】A09054279000
【 年代域 】明治5年5月【 画像数 】58

『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[南清ヨリ 兄 大藏大録 保 洋行中 月給ノ儀 申請]
 明治六年(1873)八月三十日
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2559924.html
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[本官勘合帳 外國官一号]第237号~第240号

[本官勘合帳 外國官一号]第237号~第240号

[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/

[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百三十七号 『熊沢善庵』午二十壱歳 p041 ※明治3年庚午(1870年)
         郡山藩 独乙・・・
         明治六年十二月十日返納  ※明治6年(1873)12月10日
        《熊沢善庵》 獨 孛  p032
         奈良縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿四 ※明治6年(1873)

第貮百三十八号 『谷元兵右衛門』午二十六歳p041 ※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
         明治六年十一月十三日返納 ※明治6年(1873)11月13日
        《谷元兵右衛門》 米 p004
         鹿児嶌縣 留学 海軍学 官
         庚午年十一月  ※明治3年庚午11月(1870年12月22日)
         明治六年 廿九 ※明治6年(1873)
         明治六年十一月十三日免状返納 ※明治6年(1873)11月13日

第貮百三十九号 『北尾次郎』午十七歳  p041 ※明治3年庚午(1870年)
         松江藩 米國
        《北尾次郎》 米 p004
         嶌根縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二十 ※明治6年(1873)
         明治十六年十二月廿日返納 ※明治16年(1883)12月20日

第貮百四十号  『尾崎平八郎』午二十歳  p041 ※明治3年庚午(1870年)
         鹿児島藩 米國
        《尾㟢平八郎》 米 p004
         嶌根縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿五 ※明治6年(1873)

第貮百三十七号 『熊沢善庵』
熊沢善庵[くまざわ-ぜんあん]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
熊沢善庵 くまざわ-ぜんあん
1845-1906 明治時代の化学者。
弘化(こうか)2年生まれ。
大槻磐渓(おおつき-ばんけい),伊東玄朴(げんぼく),
坪井信良(しんりょう)にまなぶ。
明治3年大学南校少助教。
ドイツ留学後,東京開成学校教授をへて,
10年東京大学医学部助教授となる。
18年官職を辞し,東京薬学校(現東京薬大)教授,
大阪セメント技師長などをつとめた。
明治39年8月8日死去。62歳。江戸出身。
http://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%96%84%E5%BA%B5

[故熊澤善庵君小傳] 柴田承桂
http://ci.nii.ac.jp/els/110003664476.pdf?id=ART0004205537&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1350683487&cp=

第貮百三十八号 『谷元兵右衛門』
谷元 道之(たにもと みちゆき)
(1845年(弘化2年5月) - 1910年(明治43年)2月21日)は、
幕末の薩摩藩士、外交官、海軍主計官、実業家、東京馬車鉄道創立者。
衆議院議員。元の名は、谷元兵右衛門。
1872年(明治5年)、太政官より留学を命ぜられて渡米、
次いで兵部省付に転じた[3]。
1873年(明治6年)、川村純義の欧米視察に、随従した後、
同年末に帰国し、海軍に出仕し、
1881年(明治14年)に依願退職するまで在職した[4]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%85%83%E9%81%93%E4%B9%8B

第貮百三十九号 『北尾次郎』
北尾次郎[きたお・じろう]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年:嘉永6.7.4(1853.8.8)
没年:明治40.9.7(1907)
明治時代の科学者。
松江藩医松村寛祐の長男で,のち北尾家の養嗣子となる。
明治3(1870)年からドイツのベルリン,ゲッチンゲン大学に留学し,
物理学を専攻。
16年に帰国し,・・・。
http://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E5%B0%BE%E6%AC%A1%E9%83%8E

[北尾次郎の肖像]
―気象学の偉大な先達―
 廣田 勇
http://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2010/2010_12_0035.pdf

第貮百四十号  『尾崎平八郎』
 リサーチ・ナビ
 国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:尾崎 平八郎
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

第貮百三十五号 『畠山潮平』《上杦 亨》[上杉勝賢]【華族諸家伝】等

第貮百三十五号 『畠山潮平』《上杦 亨》[上杉勝賢]【華族諸家伝】等

第貮百三十五号 『畠山潮平』午二十壱歳  p041 ※明治3年庚午(1870年)
         上杦、養子
         上杦 亨
         米澤藩 米國
         九年十二月帰朝  ※明治9年(1876)12月
         同月七日免状返納 ※明治9年(1876)12月7日

        《上杦 亨》 米 p004
         華族 留学 五ヶ年 自
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿四  ※明治6年(1873)
         九年十二月帰朝  ※明治9年(1876)12月
         同月七日免状返納 ※明治9年(1876)12月7日
[畠山潮平]
[上杉 亨(トホル)]
[上杉勝賢]
嘉永三年三月三日生 ※嘉永3年庚戌3月3日(1850年4月14日)
明治三十一年十月卒 ※明治31年10月   (1898年10月)

内室 東京府士族  大鳥圭介 長女
夫人 喜武(キム) 城戸高博 五女
   萬延元年二月六日生 ※萬延1年庚申2月6日(1860年2月27日)

上杉勝道 上杉茂憲 弟 亨ヲ養子トス]
明治五年六月廿八日
上杉勝道 上杉茂憲 弟 亨 ヲ 養子トス
東京府伺
従五位 上杉勝道儀 實子無 之ニ付
従四位 上杉茂憲 弟
當時 米利堅ニ留學罷在候
亨儀ヲ養子ニ貰受度段 別紙ノ通 願出候間
御廻シ申入候可然 御指令有之度此段申進候也
六月廿七日 東京
上杉勝道願 東京府宛
私儀 當申四十九歳ニ罷成候處 實子無之痛心仕候ニ付
當申二十三歳相成候 従四位 上杉茂憲 舎弟
當時 米利堅ニ留學罷在候 亨儀
私養子ニ被仰付 永遠奉報朝恩度此段伏テ奉願候
冝シク御執奏可被成下候誠
恐再拝 六月
―略―
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000000682&ID=M0000000000000857898&TYPE=&NO=

件 名  華族上杉亨義改名ノ件
階 層  行政文書>*内閣・総理府>太政官・内閣関係>
     第一類 公文録>公文録・明治15年>
     公文録・明治十五年・第百八十二巻・明治十五年七月~九月・宮内省
請求番号 本館-2A-010-00・公03390100
件名番号 038
作成部局 太政官
年月日  明治15年07月
マイクロフィルム リール番号:045600、開始コマ:0479
http://www.digital.archives.go.jp/

『国立公文書館・デジタルアーカイブ』より

【華族諸家伝】下巻:明治13年5月
上杉 亨(トホル)藤原] p12/107
無位 内務省七等屬
元髙 一万石 現米 二百九十二石六斗
禄券 一万三千二百五十五圓四錢三厘
明治五壬申年七月廿九日 家督 ※明治5年壬申7月29日(1872年9月1日)
内室 東京府士族 大鳥圭介 長女
邸  東京麻布區麻布鳥居坂町五番地
家令 黑井繁邦
家扶 三本丈助
   淺間 登
葬地 淺草新鳥越 寶藏院
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780627/12

【華族部類名鑑】明治16年10月
[上杉 亨] p22/39
舊 羽前 米沢新田藩主 旧髙一万石
現米二百九十二石余
内務六等属
株髙 七十七株
禄券 一万三千二百五十五円余
嘉永三年三月生     ※嘉永三年庚戌三月(1850年4月12日)
妻 東京府士族 大鳥圭介 長女
住所 東京麻布區鳥居坂町五番地
葬地 アサクサ 宝藏院
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780628/22
明治十六年十月一日御届
編輯人 安田虎男
    東京府平民
    日本橋區元柳町二番地
出版人 橋本藤藏
    東京府平民
    浅草區須賀町十三番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780628/36

【改正華族明覧】明治21年1月
[上杉勝賢] p45/65
舊  米澤新田藩主
舊禄 一、○○○○石
夫人 喜武
   四谷區傳馬町一丁目五十四番地
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780642/45

【華族鑑】新刻:明治27年2月10日発行
 舊 羽前 米澤新田藩主 舊 一萬石
 禄券 一萬三千二百五十五圓餘
[從四位 子爵 上杉勝賢(カツカタ)]  p61/114
         嘉永三年三月三日生  ※嘉永3年庚戌3月3日
                    (1850年4月14日)
 夫人  喜武子 萬延元年二月六日生  ※萬延1年庚申2月6日
                    (1860年2月27日)
 勝賢先代
 從四位 勝道  文政九年二月廿八日生 ※文政9年丙戌2月28日
                    (1826年4月5日)
 夫人  美代子 天保九年二月十七日生 ※天保9年戊戌2月17日
                    (1838年3月12日)
 住所  東京市四ツ谷區傳馬町一丁目五十四番地
 葬地  淺草寶蔵院
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780624/61

【華族大系】大正3年
[子爵 上杉勝憲] p161/505
羽前米澤新田藩主 禄髙一萬石 外様 柳間 宗家(米沢藩)
正五位 東京市四谷區傳馬町一丁目五十四番地
勝定
――勝義(駿河守・天保十三年薨)
             ※天保13年壬寅(1842年2月10日)
――勝道(齊憲弟、駿河守、天保十三年三月承)
             ※天保13年3月(1842年4月11日)
――勝賢(齊憲四男、畠山潮平、明治五年七月承)
             ※明治5年壬申7月(1872年8月4日)
――勝憲(茂憲四男、明治十九年五月生、明治三十一年十月承)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950444/161

【現代華族譜要】昭和4年1月15日発行
[子爵 上杉勝憲] 正四 p83/443
神奈川縣鎌倉町雪ノ下六三六
諸侯(米澤新田、外様、柳間、一萬石)

勝道 駿河守、齊憲(宗家)弟、天保十三年三月承
                ※天保13年3月(1842年4月11日)
夫人 美代(ミヨ) 谷衞助 二女
      天保九年二月生   ※天保9年戊戌2月(1838年2月24日)
      明治三十二年九月逝 ※明治32年(1899)9月

勝賢 齊憲四男、畠山潮平、明治五年七月承
             ※明治5年壬申7月(1872年8月4日)
   明治三十一年十月卒 ※明治31年(1898)10月
夫人 喜武(キム) 城戸高博 五女
   萬延元年二月生   ※萬延1年庚申2月(1860年2月22日)

勝憲 同姓茂憲 五男
   明治十九年五月生  ※明治19年(1886)5月
夫人 幸子(ユキコ)
   板倉勝英 二女
   明治二十八年八月生 ※明治28年(1895)8月
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879484/83
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より


追記 平成24年10月19日 小野一雄

[件名 中原国之助米国ヘ差遣度願]
今般 名和權少記儀 御用有之 亜米利加國ヘ被差越候付
當藩 中原國之助ト申者 自費ヲ以 差越度奉存候間被遂
御許容被下候様奉願候 以上
庚午十一月 山口藩     ※明治3年庚午11月(1870年12月22日)
辨官御中
願之趣聞届候事
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000001272&ID=M0000000000000069395&TYPE=&NO=

[件名 山口藩中原国之助米国留学ヲ許ス]
三年十一月
山口藩士族 中原國之助 米國ヘ留学
山口藩願 辨官宛
今般 名和權少記儀 御用有之 亜米利加國ヘ被差越候付
當藩 中原國之助ト申者 自費ヲ以 差越度奉存候間被遂
御許容被下候様奉願候 以上  三年十一月日欠
願之趣聞届候事
外務省ヘ通牒 辨官
       山口藩士族
       中原國之助
右何レモ洋學爲修行 以 自費 米利堅國ヘ罷越度旨願ノ通聞届候間
爲御心得此段申達候也
三年十一月廿三日  ※明治3年庚午11月23日(1871年1月13日)
右何レモトアルハ 米澤藩 畠山潮平ノヿナリ 別ニ出ス
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000000245&ID=M0000000000000835100&TYPE=&NO=

『国立公文書館・デジタルアーカイブ』より
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