《佐治 職(さじ・つかさ)》日本の口中科免許第一号
【歯科沿革史調査資料】昭和1年
【歯科沿革史調査資料】昭和1年
佐治 職(ツカサ)傳 p11/61
佐治 職(ツカサ)ハ
嘉永六年六月十日ヲ以テ ※1853年7月15日
攝津有馬郡三田屋敷町ニ生ル
家 世々士班タリ
父ハ 伍左衛門
母ヲ さく ト云ヒ
職(ツカサ)ハ ソノ五男ナリ
明治七年(1874) 志ス トコロアリ
横濱ニ出デ
米國齒科醫「エリオット」ノ門ニ入ル
「エリオット」ハ當時横濱元居留地七十五番地ニ開業セリ
職(ツカサ)ノ入門セシ頃ニハ
小幡英之助モ コノ人ニ就キテ修學セリ
職(ツカサ)ノ記憶ニヨレバ「エリオット」ノ家ニアリシ
松岡萬藏ト云フハ微者ニシテ門生ノ中ニアラズ
「エリオット」ガ弟子タルヲ許セシモノ
英人「ポート」
佐治 職(ツカサ)ノ三人ノミナリト、
松岡ノコトハ桐村克己ノ傳中ニ附ス
ソノ門ニ在ルコト二年「エリオット」歸國セシカバ
職(ツカサ)モ郷里ニ歸リ
兵庫縣ニ於テ開業試驗ヲ受ケタリ
コノ時兵庫縣ニハ齒科ノ試驗ト云フモノナカリシカバ
職(ツカサ)ハ口中科トシテ受驗セリト云フ
明治十年(1877)ノ頃
大阪緒方病院ハ齒科部ヲ設ケテ
職(ツカサ)ヲ ソノ主任ニ聘シタリ、
職(ツカサ)コヽニ於テ精勵事ニ當リ
大ニ治術ヲ行ヘリ
コレ大阪ニ於ケル近世齒科醫術ノ權輿ナリ
後 年月不詳 ※明治11年:下記
京都同志社英學校ニ入リテ普通學ヲ修メタリ
カクテ明治十三年(1880)ニ至ルヤ
米國齒科醫「ギューリック」ノ横濱ニ來リテ業ヲ開クアリ
職(ツカサ)ハ此ノ人ノ許ニ赴キテ助手トナリ
傍ラ實地ノ研究ヲ積メリ
明治十八年(1885)ニ至リ「ギューリック」米國ニ歸リシカバ
職(ツカサ)ハ コレニ隨ヒテ米國ニ渡リ
加州桑港ノ齒科醫「カーグスウェル」ニ就キテ
二ヶ年間ノ研究ヲ重ネ
明治二十年(1887)ヲ以テ歸朝セリ
其後大阪ニ業ヲ開キ治術ヲ行フコト十有八年ニ及ビシガ
明治三十八年(1905)病ヲ獲テ郷里ニ歸リ優游自適
今ニ及ブト云フ
室ハ 古立岩吉ノ女 貞子
子女ナシ
年 表 p54/61
明治三年(1870) p55/61
是 歳 米國齒科醫「エリオット」横濱ニ來リテ業ヲ開ク
明治五年(1872)
是 歳 小幡英之助「エリオット」ノ門ニ入ル
明治七年(1874)
是 歳 佐治 職(ツカサ)「エリオット」ノ門ニ入ル
明治八年(1875)
是 歳 佐治 職(ツカサ)兵庫縣ニ歸リ試驗ヲ受ケ合格ス、
明治十年(1877)
是 歳 大阪緒方病院ニ齒科部設ケラレ
佐治 職(ツカサ)其ノ主任トナル、
明治十一年(1878)
是 歳 大阪緒方病院ノ齒科部廢セラル、
佐治 職(ツカサ)同志社ニ入ル、
明治十三年(1880)
是 歳 「ギューリック」横濱ニ來リ神戸ニ赴キ開業ス、
佐治 職(ツカサ)此ノ人ノ助手トナル、
明治十八年(1885)
是 歳 「ギューリック」米國ニ歸ル、
佐治 職(ツカサ)米國ニ赴キ
其地ノ齒科醫「カーグス」ニ就キテ研究ス、
明治二十年(1887)
是 歳 佐治 職(ツカサ)米國ヨリ歸リテ業ヲ大阪ニ開ク、
大正十五年十二月二十三日印刷
昭和 元 年十二月二十五日發行 (非賣品)
※大正15年12月25日=昭和元年12月25日
發行兼 東京市本郷區金助町六十七番地
編輯者 高橋直太郎
電話 小石川三八三七番
印刷者 東京市本郷區湯島三組町八十一番地
川邊 多門
印刷所 東京市本郷區湯島三組町八十一番地
川邊活版所
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發行所 東京市神田區錦町三丁目九番地 田村一吉方
社團法人 大日本齒科醫學會
電 話 神田四〇五五番
振替口座 東京四四二二二番
【日本医籍】明治22年8月
大阪府 西區 p24/246
京町堀通五丁目 p25/246
《佐治 職》
兵庫縣 有馬郡 有野村 p35/246
《佐治 貞齋》
【帝国医籍宝鑑】明治31年8月
開業醫 兵庫
神戸市兵庫西町
《佐治 職》 p91/427
【日本杏林要覧】明治42年12月
口 中 科 p790/976
《佐治 職》
試驗明治廿年六月
大阪平民、嘉永六年生
兵庫縣有馬郡參田町内三田屋敷
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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日本の口中科免許第一号
佐治 職(さじ・つかさ)
樋口輝雄
日本歯科大学新潟生命歯学部 医の博物館
日本医史学雑誌 第53巻第1号(2007) 116-117
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