◆『国会図書館デジタルコレクション』その他

「京極小唄」(昭和七年三月二十九日作詞)【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年

【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年
著者    田中弁之助 編
出版者   京報社
出版年月日 昭和7
 p3【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年
〔画像〕p3【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1171013/1/3
 新京極聯合組合記錄
https://dl.ndl.go.jp/pid/1171013/1/56

「京極小唄」(昭和七年三月二十九日作詞)
(1)鈴のこつぽり   エナメルキツト
   花の涙か     七色時雨
   濡れてうれしい  アスフアルト
   ほんに京極    よいところ
(2)キネマスターは  おしやれでシツク
   エロなウインク  片笑くぼ
   宵の京ブラ    恋あさり
   ほんに京極    よいところ
(3)紅の提灯     ウ井ンドうつす
   甘い囁(さゝや)き 品さだめ
   ネオンライトの  投げキツス
   ほんに京極    よいところ
(4)可愛い絵日傘   パラソルまじり
   今日もくるくる  上り客
   いとし 君への  プレセント
   ほんに京極    よいところ
(5)閉場(はね)の人並 トーキー小唄
   たれを待つやら  あの娘(こ)の顔に
   広重好みの    月が照る
   ほんに京極    よいところ
 p57【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年
〔画像〕p57【京極沿革史:創始六十周年紀念】昭和7年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1171013/1/57
昭和七年五月二十八日印刷
昭和七年五月三十一日發行 非賣品
編輯發行 田中辨之助
兼印刷者 京都市下京區富小路通四條南入
     德正寺町三十二番地
發行所  京報社
     京都市下京區富小路通四條南入
     德正寺町三十二番地
     振替大阪六四〇一八番
印刷所  松崎印刷所
     京都市下京區油小路通松原上ル
     電話下四七一七番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1171013/1/124
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【新撰京都叢書 第1巻】1985
著者    新撰京都叢書刊行会 編著
出版者   臨川書店
出版年月日 1985.2
  新京極連合組合記録
京極小唄(昭和七年三月二十九日作詞)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575727/1/227
『新撰京都叢書』第一巻
昭和六十年二月 十五日 印刷
昭和六十年二月二十五日 発行
     定価八、五〇〇円
編著者 新撰京都叢書刊行会
    代表 野間 光辰
発行者 片岡 英三
印 刷 株式会社 精興社
製 本 牧製本印刷株式会社
発行所 株式会社 臨川書店
    京都市左京区今出川通川端東入
    電話(075)721-7111
    振替京都7-800番(〒606)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575727/1/273
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 夢の浮橋
2019年12月16日
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[京極小唄]塚本篤夫【日輪さま:民謡集】昭和5年

【日輪さま:民謡集】昭和5年
著者    塚本篤夫 著
出版者   民謡と民謡論社
出版年月日 昭和5
 p2【日輪さま:民謡集】昭和5年
〔画像〕p2【日輪さま:民謡集】昭和5年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033344/1/2
[京極小唄]
濡れた京極
春の宵
文藝ネクタイ ひき眉毛(まゆげ)
     ソードス ソードス
          ひき眉毛

似顔繪顔の
芝居小屋
乙女心の 櫻井屋
     ソードス ソードス
          櫻井屋
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033344/1/80
靑いソフトの
似せ紳士
ステツキガールの お孃さん
     ソードス ソードス
          お孃さん

そつとしなする
舞妓(はんぎょく)に
鈴蘭電燈の薄明り
     ソードス ソードス
          薄明り

二枚目どころや
三枚目
たまに通るは 撮影監督(デイレクタ)
     ソードス ソードス
          デイレクタ

行きと歸りを
五六つ回
てくるお方は 女優(アクトレス)
     ソードス ソードス
          アクトレス

昔 憶へば
京極も
更けて狹霧の 夢を見る
     ソードス ソードス
       夢を見る
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033344/1/81
昭和五年六月二十日印刷
昭和五年六月廿五日發行 定價 九拾錢
著作者  塚本 篤夫
發行者兼 民謡と民謡論社
印刷者  淺草區田町一ノ一
發行所  民謡と民謡論社
     東京市淺草區田町壹ノ壹
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033344/1/84
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[碑文谷一家初代総長の花会状]江湖の無頼漢を取締り呉れば:大正12年4月5日【任侠百年史】昭和55年(1980)

【任侠百年史】昭和55年(1980)
著者    藤田五郎 著
出版者   笠倉出版社
出版年月日 1980.10
 p3【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p3【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/3
  碑文谷一家初代総長の花会状
謹啓 花は紛々香は馥郁
心地好げなる好季節に御座候処
各位益々御健勝御清福の儀と御怡び申上候
伏て各位の前に申述度
抑大君の座す都も程近き江戸の頃ろ
世には東海道の触れ出しと
天下諸侯の参勤交替に
上り下りも名の如く
江戸城根堅の関門に其繁雑謂はん方なく
数多の雲助人足等は虎の威を借る狐勢に似て
暴虐無尽の振舞大手を拡げて騒ぎ立つれば
誰あって制するものなく我意に任せ尽
尚暗らき感あり
此の時か男の中の俠客と衆他に立らる、
躬なれば五尺の体驅を投げて
強きを挫き弱きを救い
上役人まで碑文谷一家の有るを知られ
江湖の無頼漢を取締り呉れば
 十一代目碑文谷一家-1-60
民百姓は更らなり
却て往来行通う旅びとまでが安心の眉を開き
此の武蔵野に小金井小次郎逝いての後は
碑文谷一家の棟梁として
安藤栄次郎の有るあり
栄次郎會て誇らず漫せず
温厚篤実仏の如く
人呼んで神かと斗り敬へば
能く道を知り、
上の仰せを守り
新刑法の出るあらば
数多の児分に替り
児分の留むるも聴かず
法道に皈したり
遁げも隠れもせぬは
数百人が児分の妻子を思う情けの深きなり
此の人一度の喧嘩口論もせず
此の歳月まで過ぎ来し方の経路を掲ぐれば
只ゞ慈悲善根を旨とし
他人を憐むに努たり
異なる哉奇なり大漢
茲に本年七十有六歳
連れ添う妻も七十八歳
栄次郎と倶に苦楽を嘗め
碑文谷一家の根堅
弥が上にも強固に築き上げたる目出度さは
国家の栄へと共に喜こぶ事にこそ幸い
跡に天角あり
老翁の健全無事を祝するも
亦至孝の極みと
世話人一同老翁に替り
御礼旁々各位の健在祈る処に御座候  敬具

   親の名を為すものは子の力にあり
   老翁後系の繁昌は
   天角こと平林角蔵の有るあり
   何卒天下一般の各位
   碑文谷一家を愛護援助されん事
   伏て奉懇願候
 但し来る廿五日碑文谷鷹番まで
 御来駕被下度
 是亦特に御願仕候
   大正十二年四月五日
     大日本国粋会関東本部評議委員長
      世話人  東 京 篠 信太郎
      仝    川 崎 堀井 久吉
      仝    四軒寺 田中 三次
      仝    大 森 平林 角蔵
      仝    影 人 平松 兼吉
      仝    碑文谷 安藤伊之助
      法学士顧問 芝区芝園橋
               平渡  信
      赤羽組総長 麻布達アト
               赤羽 隆次
    大日本国粋会関東本部副幹事長
           東 京 金井 米吉
      同    同
           東 京 鈴木栄太郎
      同   拡張委員長
           東 京 中村 三吉
      丸豊組総長
           水戸市 柴田 豊松
           海 岸 原田啓三郎
    大日本国粋会陸軍少将関東本部
      次長   東 京 本田伊之助
    大日本国粋会関東本部幹事長
           東 京 荻野文次郎
 各 位
 p105【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p105【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/105
任俠百年史
定価 35,000円
昭和55年10月1日 発行
著 者 藤田五郎
発行者 笠倉操六
発行所 株式会社 笠倉出版社
    東京都千代田区三崎町3-10-15
    郵便番号(101)
    電話03(263)6282(代)
印刷所 凸版印刷株式会社
製本所 株式会社 三森製本所
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/448
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年11月12日04:15
[碑文谷一家]戦後の関東やくざ組織
【任侠百年史】昭和55年(1980)
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[碑文谷一家]戦後の関東やくざ組織【任侠百年史】昭和55年(1980)

【任侠百年史】昭和55年(1980)
著者    藤田五郎 著
出版者   笠倉出版社
出版年月日 1980.10
 p3【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p3【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/3

目黒区碑文谷1の22の22 円融寺
初代 四文安太郎こと伊東安太郎
 p16-1【任侠百年史】昭和55年(1980)
画像〕p16-1【任侠百年史】昭和55年(1980)

碑文谷一家二代目 林新吉
明治27年2月1日歿
 p16-2【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p16-2【任侠百年史】昭和55年(1980)

目黒区碑文谷1の22の22
天台宗圓融寺
四文安太郎こと伊東安太郎 明治2年11月5日
篭新こと林新吾?※林新吉 明治27年2月1日
安東栄次郎(71歳 昭和3年3月12日)
安藤伊之助(昭和16年3月12日)
茶政こと吉沢政吉(6年2月23日)
 p16-3【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p16-3【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/16

碑文谷一家初代総長の花会状
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/105

 戦後の関東やくざ組織 p233-235/449
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/233
[碑文谷一家]は
小金井一家の流れを汲むもので、
明治の初期
目黒区東町の安藤栄次郎が
当時 荏原郡碑衾村一帯をナワ張として
碑文谷一家を結成し、
   (※初 代) 四文安太郎こと伊東安太郎
   (※二代目) 林新吉
   (※三代目) 安東栄次郎
二代目(※四代目) 安藤伊之助、
三代目(※五代目) 吉沢政吉、
四代目(※六代目) 大杉精一から
昭和二十年ごろ
五代目(※七代目) 高橋喜之助(五五)となる。
貸元全員、
安藤栄造(五三)、
高橋鶴吉(四八)、
小宮喜一(五一)、
祐天こと飯田勇三郎(四七)、
作太郎こと松田道龍(五七)、
牛腸 基(五〇)、
倉田星一(三一)、
石庫こと石井庫吉(五八)、
持田 一郎(四七)、
増田 健吉(四七)、
増田 文蔵(五六)、
吉沢金五郎(三四)、
井上鉄太郎、
内田守太郎、
六代目 (※八代目) 西山  実、
現七代目(※九代目) 長谷川春治
    (※十代目) 西山  輝
    (※十一代目)熊谷 正敏
<関係警察署、大森、蒲田、碑文谷、東調布、大井、荏原>
註:(※初代~十一代目)は、
  下記『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 p234【任侠百年史】昭和55年(1980)
〔画像〕p234【任侠百年史】昭和55年(1980)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/234
任侠百年史
定価 35,000円
昭和55年10月1日 発行
著 者 藤田五郎
発行者 笠倉操六
発行所 株式会社 笠倉出版社
    東京都千代田区三崎町3-10-15
    郵便番号(101)
    電話03(263)6282(代)
印刷所 凸版印刷株式会社
製本所 株式会社 三森製本所
https://dl.ndl.go.jp/pid/12099933/1/448
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
歴代
初 代 - 四文安太郎(伊東安太郎)
二代目 - 林新吉(籠新)
三代目 - 碑文谷栄次郎(安東栄次郎)
四代目 - 安藤伊之助
五代目 - 吉沢政吉
六代目 - 大杉精一
七代目 - 高橋梅吉(高橋㐂之助)
八代目 - 西山実
九代目 - 長谷川春治(稲川会最高顧問)
十代目 - 西山輝(稲川会常任相談役)
当代
十一代目 - 熊谷正敏
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ラッパの円太郎『新作咄面白雙六』より(橘右近蔵)【快楽亭ブラックの「ニッポン」 】1986

【快楽亭ブラックの「ニッポン」 : 
 青い目の落語家が見た
 「文明開化」の日本と日本人 (21世紀図書館)】
著者    佐々木みよ子, 森岡ハインツ 著
出版者   PHP研究所
出版年月日 1986.10
三代目三遊亭円遊 ※ステテコ踊り
(人気絶大であったので初代円遊と呼ばれた。
 一八四九~一九〇七年)、※嘉永1年~明治40年
初代三遊亭万橘(一八八四年没)、※明治17年
四代目立川談志(一八八九年没)、※明治22年
四代目橘家円太郎(一八四四~一八九八年)が
        ※天保14年~明治31年
当時の四天王であった。

ラッパの円太郎『新作咄面白雙六』より(橘右近蔵)
 【快楽亭ブラックの「ニッポン」】p22
〔画像〕【快楽亭ブラックの「ニッポン」】p22
https://dl.ndl.go.jp/pid/12438424/1/22
万橘、談志、円太郎など、
四天王の他の三人は、
仕方、踊りなどを取り入れた短いおかしい話で
大勢の聴衆を惹きつけた。

円太郎は真鍮のラッパを持って高座にのぼり、
乗合車夫の真似をし、
「ラッパの円太郎」と言われた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12438424/1/23

公園で遊ぶ英国女性の様子。
今のゲートボールにそっくりなのが面白い。
『英国龍動(ロンドン)・劇場土産』より
 【快楽亭ブラックの「ニッポン」】p42
〔画像〕【快楽亭ブラックの「ニッポン」】p42
https://dl.ndl.go.jp/pid/12438424/1/42
快楽亭ブラックの「ニッポン」
青い眼の落語家が見た「文明開化」の日本と日本人
1986年10月6日 第1版第1刷発行
著 者 佐々木みよ子 森岡ハインツ
発行者 江口克彦
発行所 PHP研究所
    東京事務所
    東京都千代田区三番町3番地10
    〒102 (03)239-6221
    京都本部
    京都市南区西九条北ノ内町11
    〒601 (075)681-4431
印刷所 製本所 大日本印刷株式会社 ¥590
https://dl.ndl.go.jp/pid/12438424/1/110
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《新垣宣榮》朝鮮東洋捕鯨會社醫局醫員ニ任命【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年

【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
著者    浜松哲雄 編
出版者   沖縄県医師同窓会
出版年月日 昭和4
 p2【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
p2【沖縄医生教習所記念誌】昭和4年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/2
《新垣宣榮》 p102/151
 現住所・佐賀縣佐賀郡鳥栖町。
明治元年一月廿五日生。
※1868年2月18日
醫生敎習所卒業後
專ラ實地ノ研究ヲ積ミ、
醫術開業後期試驗ニ合格シテ
大正五年(1916)
第四〇四五一號ヲ以テ登錄サル。
朝鮮東洋捕鯨會社醫局醫員ニ任命サレ、
勤務八年ノ後
現住所ニ開業
内科新垣醫院ヲ經營シテ
今日ニ至ル。
尚ホ
大正十三年(1924)
東京永井結核研究所ニ於ケル講習ヲ終了ス。
齡還曆ニ達スレド
今尚壯健ナリ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/102
昭和四年三月 二十日印刷
昭和四年三月二十五日發行 非賣品
發行人 沖繩縣醫師會同窓會
編輯人 濱松 哲雄
    沖繩縣那覇市若狭町二丁目二十六番地
印刷人 中澤藤太郎
    東京市本郷區春木町二丁目五番地
印刷所 中信堂印刷所
    東京市本郷區春木町二丁目五番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031216/1/150
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敗戦の詔勅:麻布市兵衛町大蔵省別館(田中絲屋邸宅)吉村課長・宮沢喜一保険課事務官【損保企画 (7)】1977-08

【損保企画 (7)】1977-08
著者    損害保険企画 [編]
出版者   損害保険企画
出版年月日 1977-08
   鼎 談
終戦から損保再建までの道(上)
 占領下の損害保険行政と当時の業界事情を語る
語る人 橋本  保氏
    (東亜火災海上再保険株式会社相談役)
    長崎 正造氏
    (日本船舶保険連盟会長)
    昭和17年から大蔵省に出向、
    昭和22年から27年まで保険課長
司 会 白川國三郎氏
    (社団法人全国損害保険代理業協会連合会会長)
《橋本 保》
終戦時の損保事情については、
最初にむしろ長崎さんから伺ったらと思います。
長崎さんは昭和17年から27年まで10年間
大蔵省におられ、
戦争前後の推移を頭に置かれて
保険行政に当られてきたもですから……。

《長崎正造》
私も、大蔵省では当初
戦争保険の現場の事務を主にやっていたので、
戦争中から終戦前後の立入った内容については
余りよく知らないんです。
ただ、終戦時には
当時の保険課長吉村成一さん(故人)、
そのあとは西原直廉さん
(現、第一火災海上保険相互会社取締役社長)の
そばにおりましたので、
時折、保険行政のお話を伺ったり、
ご相談受けたりしたことや、
出入りする人の状況から想像はしておりました。
私が、敗戦の詔勅を聞いたのは、
麻布市兵衛町に設営された大蔵省の別館で、
田中さんという絲屋さんの邸宅でした。
そこには吉村課長のほか、
宮沢喜一さんが保険課の事務官をしておられました。
その頃、損害保険中央会の理事長であった
鈴木祥枝さんがよく見えられて
吉村課長と要談されていましたし、
水沢謙三さん(当時中央会総務部長、
現、財団法人損害保険授業研究所理事長)も
見えてました。
p2【損保企画 (7)】1977-08
〔画像〕p2【損保企画 (7)】1977-08
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252758/1/2
損保企画 8月5日号 No7
昭和52年8月5日発行
(毎月5日・15日・25日3回発行)
編集・発行人 太田隆紹
発行所    株式会社損害保険企画
       〒164
       東京都中野区本町6-15-10
       新中野ビル 501号
       TEL 東京(03)381-0690(代)
印刷所    (有)若葉印刷社
       東京都新宿区西落合1-30-20
https://dl.ndl.go.jp/pid/2252758/1/8
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【生命保険協会会報 68(3)】1988-10
出版者   生命保険協会
出版年月日 1988-10
  対談
  終戦前後の保険行政を語る
長崎正造 日本船舶保険連盟顧問
     元大蔵省保険課長
山内正憲 生命保険協会顧問
《山内正憲》
昭和十八年当時の保険課というのは、
生命保険と損害保険を一緒にやっていたわけですか。
《長崎正造》
大蔵省監理局保険課というのは、
商工省から保険監督行政を受け継いだところで、
また戦時保険課というのも受け継がれました。
これが戦争保険関係の仕事をやるところで、
そこへ僕は入ったわけです。
お隣の保険課は課長が河野通一さんで、
古川汎慶さんがおられましたね。
そして終戦の年には、
銀行保険局ということになって、
戦時保険課はなくなって
保険課一つだけになった。
その課長は吉村成一さんで、
終戦を迎えました。
僕なんか現業組もそこへ入って…。
そこに宮沢喜一さんがおられたことがありましたよ。
終戦の詔勅は、
吉村さん宮沢さんと一緒に聴きました。

《山内正憲》
宮沢さんにこの前お会いしたとき、
そういっておられました。
私は保険課にいましたよ、なんて。
p3【生命保険協会会報 68(3)】1988-10
〔画像〕p3【生命保険協会会報 68(3)】1988-10
https://dl.ndl.go.jp/pid/2748854/1/3
昭和六十三年十月二十五日 印刷
昭和六十三年十月二十八日 発行
編集兼 社団法人 生命保険協会
発行人 東京都千代田区丸の内三丁目四番一号
    新国際ビル三階
    電話(286)二七二七 資料室
印刷者 奥村印刷株式会社
    東京都千代田区西神田一の一の四
https://dl.ndl.go.jp/pid/2748854/1/80
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《宮沢喜一》召集令状:昭和20年6月13日「即日帰郷」で召集解除【宮沢喜一・全人像 】1981

【宮沢喜一・全人像 (行研political hopefulシリーズ)】1981
著者    清宮龍 著
出版者   行政問題研究所出版局
出版年月日 1981.11
  池田勇人との出会い
ところで昭和十六年(1941)暮れ、
東大を繰り上げ卒業になると、
宮沢は翌十七年(1942)一月七日、
大蔵省に入省した。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12190882/1/49

さて大蔵省に入って宮沢が最初に配属になったのは
大臣官房企画課だった。

一年後の翌十八年(1943)一月
静岡県沼津の税務署長、
その年(昭和18年)の八月には
東京芝の税務署長になった。

そしてこの年(昭和18年)の十一月、
芝税務署長在任中に、
日本学生会議で知り合って以来
ずっと交際を続けてきた
伊知地庸子と結婚した。

  今晩から電気がつく
ながい戦争もいよいよ大詰めを迎えようとする
十九年(1944)十月彼は本省に戻った。

間もなく日本本土への空襲がはじまり、
多数の都市が焼土と化しはじめた。

この年(昭和19年)の七月にはサイパン島が陥落し、
日本軍は各地で苦戦、
後退を余儀なくされた。
(昭和19年)十一月にマラリア基地から
B29が本土への爆撃を開始した。

二十一日九州西部、
そして二十四日にはついに
東京がB29の初空襲に見舞われた。

翌二十年(1945)に入ると、
米軍の空襲はますます激しくなり、
ほとんど連日のように
本土の各都市が爆撃をうけるようになった。

宮沢は大蔵省銀行保険局で
戦争保険を扱うことになった。

戦争が苛烈化し、
各地で戦災が出はじめたのに対応して、
被災者に支出する保険の認定をするのが仕事だった。

空襲である地域が焼けたとき、
宮沢が「この地域は丸焼け」と認定すると、
被災者に対して即座に三千円が保険会社から支払われた。

当時の三千円は大金だった。
戦時下とはいえ、
これがたった十二円の掛け金で支払われたのである。

「戦争で皆兵隊にとられ、
 私は銀行保険局でたった一人残った事務官だった。
 その私が空襲があるたびに現地にいって
 調査することなど不可能だから、
 東京で現場をよくみもせず
 “この地方は全焼”と認定すると
 莫大な金が支払われる。
 大変な金を動かしていたんですよ」
と宮沢は当時をふりかえって苦笑した。

こうして空襲の激化とともに
宮沢の仕事はますます忙しくなったが、
戦争も末期に近づいた(昭和20年)六月十三日、
彼にも召集令状がきた。

ところが山口の連隊に行って
入営のための検査を受けると
「即日帰郷」で召集を解除される。

徴兵検査では丙種合格だった宮沢だが、
当時は本土決戦にそなえて
彼程度の男は
p52【宮沢喜一・全人像 】1981
〔画像〕p52【宮沢喜一・全人像 】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12190882/1/52
どんどん軍にとられていた時代である。

それがなぜ即日帰郷になったのか。
「私は当然入営するものと思っていた。
 しかし戦時保険の仕事を
 たった一人でやっていたので、
 役所の方で軍と交渉し
 猶予してもらったのではないか……」
と宮沢は推測している。

とにかく、一日で役所に戻り、
空襲下の東京で相変わらず
保険事務に追われる毎日を過ごした。

そして(昭和20年)八月十五日、
ついに終戦の日がやってきた。

そのころ大蔵省は都内各地に分散疎開し、
宮沢の所属する銀行保険局は本部を
日本橋本石町の日銀庁舎の中に置いていた。

しかし、そこは手狭なので宮沢たちは、
港区麻布市兵衛町の焼け残っていた
個人の家を借りてそこで事務をとっていた。

いまのホテルオークラの向い側あたりだったという。

終戦の日(昭和20年8月15日)
宮沢はどこで何をしていたのだろうか。
本人の記憶はあまり確かでない。

「それがあんまり思い出せないんですね。
 とにかく事務官以上の幹部が
 銀行保険局の本部があった日銀に集められて、
 終戦の詔勅をきいた、
 これは覚えています」

――正午に詔勅をきいてから、
池田さんや前尾さんたち少壮官僚は
連れ立って宮城前に行き、
二重橋のところで天皇におわびしたようですが、
あなたも一緒じゃなかったんですか。

「うーん一緒じゃなかったですね、
 なにしていたのだろう。
 あの晩熱海に帰ったことは確かですがね……」

――あの詔勅をきいて最初に思ったことは何でしたか。

「非常におはずかしいことですが、
 最初に思ったのは
 ”今晩から電気がつくんだなあ“
 ということでした」
p53【宮沢喜一・全人像 】1981
〔画像〕p53【宮沢喜一・全人像 】1981
https://dl.ndl.go.jp/pid/12190882/1/53
著者紹介
清宮  龍
1928年 東京都に生まれる
    東京教育大卒・
    時事通信社で首相官邸キャップ、
    沖縄特派員、モスクワ特派員、
    海外部長、整理部長等を歴任。
    1973年から政治・国際問題評論家。
宮沢喜一・全人像
昭和56年11月25日 初版第1刷発行
著 者 清宮 龍
発行者 竹内陽一
発行所 行政問題研究所 出版局
    〒100
    東京都千代田区内幸町2-2-1
    日本プレスセンタービル8F
    電話03(504)1260番(代表)
印刷所 三元堂印刷
https://dl.ndl.go.jp/pid/12190882/1/154
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《服部直》京都の新聞記者:京都新報―京都滋賀新報―中外電報―日出新聞【公私月報 (20)】1932-05

【公私月報 (20)】1932-05
出版者   宮武外骨
出版年月日 1932-05
  京都の新聞記者 服部直
明治十四年の春
『京都日々新聞』及び『西京畫入新聞』が
癈刊したのを機とし、
同年五月に『日刊商報』を改題して
『京都新報』と稱し、
從來の商況專門を變更して
普通の時事報道に改め、
政治上の記事をも加へて漸次頭角を現はし、
それを近江地方へも擴張する策として
同十五年七月に『京都滋賀新報』と改題し、
其事業の發展に伴ひ、
同十七年十月更に『中外電報』と改題し、
依然硬派の格を持して
關西有力の大新聞と認めらるゝに到り、
翌年四月同社より別に繪入傍訓附の
『日出新聞』といふ小新聞を續刊する事に成つた

時勢の變化は大新聞小新聞の別を容れず、
大小相接近する事に成つて、
朝日新聞社の『大阪公論』が癈刊した
明治二十三年に『中外電報』も亦癈刊した

此 京都新報―京都滋賀新報―中外電報―日出新聞に
連續して記者たること三十餘年、
放浪生活者の多い執觚家中、
一社に斯く勤續した者は、
京都では此《服部直》一人であるとの談を聽いた

《服部直》は岐阜縣士族、
昭和六年二月二十日
享年八十五の高齢で歿したさうである、
予が去月の長途旅行中、
京都で同系の古新聞紙を多く購入したのは、
此《服部氏》が丹念に保存して居た
合綴中の一部分を其孫たる
三猿堂主人より讓渡を受けたのである
p2【公私月報 (20)】1932-05
〔画像〕p2【公私月報 (20)】1932-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/1476147/1/2
公私月報 毎月一回發行
  定價一部金十錢 郵送料二錢
  一ケ年分前金郵送料共 金一圓四十錢
   但し十二部の外 附錄は無料
  初號以下取揃への注文に應す
昭和七年五月六日印刷
昭和七年五月七日發行 (内務省認可)
編輯兼 (宮武)外骨 [是本名也]
發行者 東京市本郷區龍岡町十五番地
    電話 小石川(85)二六九番
    振替 東京三九四二〇番
印刷者 近藤印刷所
    近藤秋治
    東京市小石川區柳町二十四番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1476147/1/6
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《秋吉十太郎》二男 秋吉良次・五男 秋吉正四:日本國籍ノ離脱ヲ允許【官報 1924年06月23日】大正13年

【官報 1924年06月23日】大正13年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正13年
◎内務省告示第三百九十五號
 原 籍 福岡縣三井郡大堰村大字西原二百三十九番地ノ二
 現住所 北米合衆國加州オークランド市マザー街一六二
     戸主 十太郎 二男 秋吉良次
     同      五男 秋吉正四
右法定代理人 父 秋吉十太郎ノ申請ニ依リ
大正十三年六月十八日
日本國籍ノ離脫ヲ允許セリ
大正十三年六月二十三日
内務大臣 若槻禮次郎
p1【官報 1924年06月23日】大正13年
〔画像〕p1【官報 1924年06月23日】大正13年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月15日04:08
《秋吉 壽》[福岡縣三井郡大堰村 十太郎 長男]
日本國籍ノ離脱ヲ允許【官報】大正10年
コメント一覧 (1)
1. 吉村 2024年09月15日 20:20
記述にある秋吉十太郎は母方曾祖父の弟で
現福岡県三井郡大刀洗町西原から
明治33年にカルフォルニアに渡った
日系一世で壽は十太郎の長男(日系二世アメリカ人)です。
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