<チャー坊(“村八分”)の生と死>

★単行本化のお知らせ『草臥れて/チャー坊(“村八分”)の生と死』

★単行本化のお知らせ
『草臥れて/チャー坊(“村八分”)の生と死』

[Quick Japan]Vol.20
(平成10年)1998年6月1日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p180
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《最終回》
取材・文 北沢夏音

〔最終話・生きる事の話(後編)〕 p180
 ―略―
スピードをやりすぎると、
幻覚や幻聴がきて、
言ってることがチンプンカンプンになる。 p183

<最後の診断> p184
ぼくが、 ※北沢夏音
京都府・宇治市にある府立洛南病院を訪れたのは、
昨年二月のことだった。
精神科のみの専門病院。
他で断られた患者さんも、
なるべく引き受ける」ようにしているという。
おだやかにぼくを迎えてくれた
岡江晃氏は、
なるほどチャー坊が信頼を寄せるだけある、
微塵の権威臭も感じさせない、
人間臭い先生だった。
 ―略―
「日本ではほとんど例がないほど
 多種多様な薬物を、
 大量に、
 長期に渡って服用した唯一の日本人。
 それが彼だ」
 ―略―
「―略―  p184
 ギターを弾きたいという
 彼の希望を早いうちから適えてやったら―」
「―略―   p187
 おそらく本人には、
 最後まで自分が病気だという意識はなかったろう。
 僕はそう思う。
 なぜ病気という意識もないのに、
 病院にきちんと来て、
 薬を飲むのかわからなかった。
 彼に出していた精神安定剤は、
 いくら薬を飲むのが好きな人間でも
 これだけは嫌うというぐらい、
 キツい代物だったから」

その時、ぼくは、
朋子さんから、
人生の最後の二年間、
岡江先生の後任の医師が処方していた薬のうち、
チャー坊が実際に飲んでいたのは
睡眠薬だけだったということを、
まだ聞かされてはいなかった。
 ―略―
前号の[お詫びと訂正]について、 p186
吉村邦代さんから抗議がありました。
十分な裏づけが取れないまま、
訂正したのは早計でした。
事実関係をより慎重に調査した上で
単行本執筆を行います。
配慮に欠けた点をお詫びいたします。
(北沢)

★単行本化のお知らせ     p187
長らく御愛読いただきました
『草臥れて/チャー坊(“村八分”)の生と死』は、
今回を持って連載を終了させていただきます。
本誌未発表のインタヴュー及び
新たな書き下ろしを加え、
小社より一二月に単行本化する予定です。
取材に御協力いただいた方々、
貴重な写真や資料を提供してくださった方々、
テープ起こし
その他の作業を手伝っていただいた方々、
そして御感想、御批判のお手紙を送って下さった方
全てに、
厚く御礼申し上げます。

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.20
(平成10年)1998年8月3日 第一刷・発行
定価・900円
編集人 村上 清
発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

スピードをやりすぎると、
幻覚や幻聴がきて、
※アルコールでも、
 幻覚や幻聴はあります。

ギターを弾きたいという
※昭和55年(1980) 始め
 スナック〔高野〕に私(小野一雄)の借金の返済に、
 チャー坊(柴田和志)と行った時、
 〔高野〕のママに、
 「チョット、話をしてもよろしいか」と、
 壁に掛けてあったギターを借りて、
 弾き始めた。

※昭和55年(1980)
 チャー坊(柴田和志)から電話があり、
「河原町の□□薬局で、△△という薬を買ってきて」
□□薬局・△△という薬。
名前は、いずれも覚えていない。
誰でも買える薬です。
□□薬局(現:京都BL附近)

※昭和59年(1984) 秋頃?
 洛西ニュウータウンのマンションで、
 チャー坊(柴田和志)が、
 大きな薬袋から、薬を出して
「これは何に利く、これは何に利く、これは何に利く…」
 楽しそうに、説明をしてくれた。

※昭和55年(1980)
 市電の伏見稲荷駅付近を、
 チャー坊(柴田和志)と歩いていた時、
 「三味線を習いたい……」

※昭和55年(1980)
 バスケットの練習をしたいので、
 チャー坊(柴田和志)と二人で、
 三浦卓先生が顧問の、松原中学に行った。
 明日の行事の為、
 体育館全面に椅子が並べてあった。
 三浦先生に話すと、
 三浦先生と生徒がコート半面の椅子を片付け、
 私(小野一雄)が、シュートをしていると、
 ピアノの音が聞こえた。
 誰かなと思い、
 檀上を見ると、
 チャー坊(柴田和志)が弾いていた。

[京都府中学校 バスケットボール 優勝の歴史]昭和24年~平成24年
《松原(昭和50年夏季女子~昭和57年府下女子)三浦 卓先生》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2350964.html

『ギー』  〔アメーバ:西陣五番町:カレーライス〕
[東人雑記]
2005年11月04日
ジャズ喫茶「ギー」
今朝、新聞を読んでいて急に京都の「ギー」という店を思いだした。
三条の蹴上にゆく電車道にそって左側、
外観は濃いブルーの壁、
ドアを開けるとさして広くない店内にいつも
ピアノトリオの曲がかかっていた。
パリにでもあれば似合いそうなカフェの雰囲気があった。
 ―略―
http://blog.livedoor.jp/guen555/archives/50196379.html

心残りは……、
『伏見』
 チャー坊(柴田和志)が、
「今日は、『伏見』の□□ちゃんの誕生日。
 何か、お祝いを持って行こう」
お金が無かったので、
木屋町の質屋に、
私(小野一雄)の背広を入れにいった。
すると、背広は入らないと、言われた。

※□□ちゃんの名前は覚えていない。
 その後、顔を見に、
 二人で、東山七條の魚屋さんに行った。

[京都三条の居酒屋さん「伏見」と名物おばちゃん]
 ―略―
居酒屋「伏見」は、伏見にあらず、三条にあります!
京阪三条または地下鉄三条・・三条通り、三条大橋の東すぐ。
ボリュームがあるので、1人ではなく、2,3人で・・、
そして笑顔で「断る勇気」も持って行ってくださいね!
http://blogs.yahoo.co.jp/sayuri2525maria/23475178.html

追記:平成28年(2016)5月19日
[名物おかみの居酒屋閉店へ 京都・東山 半世紀「出会い感謝」]
京都市東山区で60年、
営業を続けてきた居酒屋「お食事処 伏見」が5月末で閉店する。
新鮮な海産物とおかみ川原多津子さん(67)の
ざっくばらんな人柄が人気で、
俳優の故大滝秀治さんも通った名物店。
 ―略―
川原さんの父・故西澤繁三朗さんが1955年ごろ開店した。
 ―略―
京都新聞【20160518 1020分】
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160518000029

 

チャー坊の最後のパートナー:石黒朋子さん<チャー坊(“村八分”)の生と死>

チャー坊の最後のパートナー:石黒朋子さん
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[Quick Japan]Vol.19
(平成10年)1998年6月1日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p158
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第八回》
取材・文 北沢夏音

〔最終話・生きる事の話(前編)〕 p159
 ―略―
石黒朋子(ともこ)さん。
チャー坊の最後のパートナー。
晩年の彼のいちばん近くで
その素顔を見つめたひとだ。
 ―略―

――パリのどういうところが合ったんでしょうね。 p163
「さあ。いつも何か美術館とか。
 ピカソの実物のタッチが強烈だったと」

――きっと向こうでも詩を書いてたんでしょうね。
「ええ。フランスパン買って、チーズとヨーグルトも好きで、
 ヨガをやってたって(笑)―略―」

「 ―略―
 でも、パリには非常に愛着を持ってました」

――友達がいたとか……?
「でも、話聞いていたら、孤独だったみたいですけどね」
 ―略―

――ご飯は朋子さんが作っていたんですか? p164
「いやー。やっぱり作るのは嫌(笑)。
 昔はよく作ってましたけど」

【お詫びと訂正】 p163
石黒朋子さんから、
本誌17号 P.98の
「チャー坊が朋子さんと別れたがっていた」
という記述は事実に反するとの抗議がありました。
御迷惑をおかけしたことをお詫びするとともに、
謹んで訂正させていただきます。

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.19
(平成10年)1998年6月1日 第一刷・発行
定価・900円
編集人 村上 清
発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

※チャー坊(柴田和志)
 「ルーブル美術館、フリーパスの友達がいたので、よく行った」

 「1フラン(当時60円)で、ワインとフランスパンを食べていた」
 「1フラン(当時60円)のワインと、フランスパンを食べていた」
  どちらかです。

 「腹筋運動が、精神安定剤だった」

――ご飯は朋子さんが作っていたんですか? p164
「いやー。やっぱり作るのは嫌(笑)。
 昔はよく作ってましたけど」

※昭和59年(1984) 秋頃?
 洛西ニュウータウンのマンションで、
 一度、
 石黒朋子さんの手料理を、
 チャー坊(柴田和志)と一緒に頂きました。

※昭和59年(1984) 春頃?
 洛西ニュウータウンのマンションで、
 ボンチャン(柴田次男)とチャー坊(柴田和志)と私(小野一雄)、
 三人で麻雀をした。
 何時も、ボンチャン(柴田次男)が、トップ。
 さすが、プロと納得した。
 《麻雀:玉突き:パチンコ》プロ。

※ボンチャン(柴田次男)曰、
 「麻雀と玉突きは、小野が教えた」

 小野一雄
 昭和40年(1965)3月 桃山高校卒業
 昭和41年(1966)9月 坂本工業 入社

 この間、《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)で、
 よく麻雀をした。
 ボンチャン(柴田次男)と、その同級生、小野一雄、
 皆、麻雀を覚えたての頃だった。

 ある時、徹夜麻雀をしていると、
 隣の部屋から、
 物凄く大きい「鼾」が聞こえて来た。
 ボンチャン(柴田次男)
 「吉村法俊さんや。明日、入る……」

 ある時、麻雀をしていると、
 ボンチャン(柴田次男)
 「今、下(一階)で親父が麻雀している。
  麻雀は、いつも正座でする」

[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 2002年12月18日 初版発行
昭和41年(1966) 1月 父 柴田金三郎 逝去(63歳)   p314
           父の仕事を柴田次男(兄)が引き継ぐ。

 私の父親(小野又一)が、
 家庭用の玉突きの台を買ってくれた。
 それを、《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)に
 持って行った。

《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)では、
 ボンチャン(柴田次男)以外の人の顔を見た記憶は無い。

北白川聖ヴィアトール・カトリック教会<チャー坊(“村八分”)の生と死>

北白川聖ヴィアトール・カトリック教会
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年12月30日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p096
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第7回》
取材・文 北沢夏音
 ―略―
チャー坊の遺体は、    p102
突然死ということもあり、
死亡届の提出が済むと下鴨署に移され、
司法解剖を受けた。
その後、
京都府立医科大学の死体安置室から、
死化粧を施され、
着替えを済ませたうえで
引き取られたチャー坊は、
葬儀の会場に決まった
北白川聖ヴィアトール・カトリック教会へ帰って来る。

平成六年四月二七日、葬儀ミサ。
明けて二八日、告別式―
その時の様子を、
次男氏はこう語っている。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年12月30日 第一刷・発行
定価・900円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

※小野雄二:談
チャー坊(柴田和志)が亡くなった事は、
彼女(多分:石黒朋子さん)から電話があり、
そちら(小野一雄)に電話をした。
平成6年(1994)4月27日に、
妻(喜代子)と自宅に行った。
ボンチャン(柴田次男)と会い、
翌日の告別式の予定を聞き、帰宅した。

平成6年(1994)4月27日、告別式。
北白川聖ヴィアトール・カトリック教会

告別式で、久しぶりに、
千恵(ちえ)さんと会った。
「この教会のステンドグラスは、
 私(千恵)の彼氏(当時)が、製作した」
と話していた。

又、この教会は、
父(小野又一)の墓がある、
衣笠墓苑を管理する教会である。

告別式が終わり、
「花山火葬場にも行かれますか」と、
 親切に聞かれた。
(私は、あまりその人と面識はなかったように思ったが、
 チャー坊から私の事を聞いていたのか、丁寧で親切だった)
「自分の車で行きます」と答えた。

霊柩車が出発し、
私は車椅子から車に乗り換えるので、
時間がかかり、少し遅れて出発した。
花山火葬場に着いたが、
どの部屋(室)で行われているのか分らず、
そのまま帰宅した。

※北白川聖ヴィアトール・カトリック教会
[カトリック聖ヴィアトール北白川教会]
http://www.stviator-kcc.org/

※花山火葬場
《京都市情報館》
[京都市中央斎場]
京都市には,旧来,花山火葬場,蓮華谷火葬場等が
設けられていましたが,
施設の老朽化に伴い,旧花山火葬場を全面撤去し,
その跡地を拡張,造成のうえ,
昭和56年に京都市中央斎場を開設致しました。
当斎場は,場内に豊かな緑を配し,
周囲の景観との調和に努めており,
人生最後の葬送の場にふさわしい荘厳な施設となっております。
http://www.city.kyoto.lg.jp/hokenfukushi/page/0000073341.html

《ステファニー*アメリカの涙》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《ステファニー*アメリカの涙》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん(吉村邦代)”―    p077
 ―略―
<ドロップアウト>  p079
 ―略―
村八分の活動が盛んだった頃、
「金がなかったらダメだ」って言い出して、

一時期(当時結婚していた)
ステファニーと二人で
こっちでチリ紙交換をしていたことがあるんです。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

※チャー坊(柴田和志)
昭和55年(1980) 
チャー坊(柴田和志)が、
「ステファニーに逢いにアメリカに行くので…」と、
私(小野一雄)と二人で、
神戸のアメリカ領事館にビザを取りに行った。

何日か後、
「ステファニーに逢いに、アメリカに行って来る」
と、新幹線で東京へ行った。

数日後、
「ブラックリストに載っていたので、
 出国出来なかった」
と、帰京。
[チャー坊遺稿集]飛鳥新社2002年12月18日初版発行

 『アメリカの涙』 p94-95
  ―略―
 *アメリカの涙
  八〇年代後半に書かれた
  ステファニー(前出)を回想する詩。
  六九年七月、
  アポロ十一号が月面着陸に成功。
  六九年頃、
  チャー坊はステファニーと共に
  アメリカで生活を送っていた。
  その時、
  チャー坊はステファニーが外に出て
  月を眺めながら
  涙を流す光景を目にしたという。
  それを回想し書かれた詩。
[チャー坊遺稿集]飛鳥新社2002年12月18日初版発行
昭和59年(1984) 11月頃
この頃、ステファニー(妻)と正式に離婚。 p328

昭和55年(1980) 
※チャー坊(柴田和志)が、
 『小さい家』(京都市伏見区向島庚申町)の向かいの、
 ちゃんとした文化住宅の、
 六畳と四畳半ほどある部屋で、
 宇宙旅行に、600万円で行ける。
 (テレビか新聞で見た)
 「行きたい。積立しようか」

※チャー坊(柴田和志)に、
 小野梓が、未完だが、不平等条約改正の為に、
 [日本歴史]を英語で書いたのがあると話すと、

 「小野はん、その本を貸して。
  どんな英語を使っているのか、
  知りたいので…」と、

『小野梓傳』西村眞次 著 冨山房 發兌
      昭和10年(1935)11月20日発行
第三節 科學的史學の先驅者 p289-296
第二十九圖版元 [History of Japan] p292
『小野梓傳』西村眞次 著 冨山房 發兌
 チャー坊(柴田和志)歿後、
 ボンチャン(柴田次男)から返送されて来た。

[株式会社 大林組]
おおばやし史
発展の時代
―略―
昭和31年(1956) 11月 神戸米国総領事館竣工
―略―
http://www.obayashi.co.jp/history/3_development

《昭和の神戸 アメリカ領事館と関西電力》
[写真]
昭和55年撮影(神戸市生田区)
http://kobemtsh2006.blog79.fc2.com/blog-entry-249.html

blog[小野一雄のルーツ]
柴田和志:Staphanie(ステファニー)LPレコード
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2166879.html

洛西シミズ病院への見舞<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》

洛西シミズ病院への見舞
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》

[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p096
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第7回》
取材・文 北沢夏音

姉・吉村邦代さんの話から p097
<第七部・最後の日々>  p097
和志から最後に連絡があったのは、
亡くなる二日ぐらい前、  ※平成6年(1994)4月25日 歿
夜中の一一時半とか、一二時近くでした。
 ―略―

<命けずって>      p097
その一年ぐらい前、夜中の一一時頃に、 ※平成5年(1993)4月頃
和志が家に来て、
明け方の五時頃まで、
私に今まで溜めていたことを
ほとんど口に出したんじゃないかと思うぐらい、
しゃべったことがあったんです。
 ―略―

<死の予感>       p098
 ―略―
―あの最後の晩、     ※平成5年(1993)4月頃
和志は私にはっきりそう言ったんです。
「クーちゃんな、
 俺が音楽でものすごく良くなってお金、
 三億でも五億でももらえるようになったら、
 くーちゃんにはいくらでもあげる。
 だけど、俺はそんなところで生きてないんだ。
 自分がいいと思った音楽をやれれば、
 俺はそれでいいんだ」って、
そんなことを言うから。
私が、
「そうなん?でも、
 もうちょっと売れるように考えたら」
なんて返事したら、
「くーちゃん、
 俺に向かってそんなこと言うのはナンセンスや」って(笑)
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年12月30日 第一刷・発行
定価・900円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

「クーちゃんな、
 俺が音楽でものすごく良くなってお金、
 三億でも五億でももらえるようになったら、
 くーちゃんにはいくらでもあげる。……」

※チャー坊(柴田和志) 平成6年(1994)4月25日 歿

小野一雄
平成1年(1989)2月8日  洛西シミズ病院 入院
            (横断性脊髄炎)
平成2年(1990)2月25日 洛西シミズ病院 退院
平成5年(1993)10月   洛西シミズ病院 再入院
            (横断性脊髄炎:再発の為)
平成5年(1993)12月   洛西シミズ病院 退院
平成6年(1994)1月8日  三上照夫先生 歿
平成6年(1994)2月28日(株)日本松栢経営指導協会 退社

※平成5年(1993)10月~12月の、いずれかの日に、
 チャー坊(柴田和志)が、
 洛西シミズ病院に入院していた、
 私の見舞いに来てくれた。
 その時、
「小野はん(小野一雄)と、雄さん(弟:小野雄二)に、
 三億円あげるは…」
 妻(小野喜代子)も同席。

平成6年(1994)1月8日
当時、公私とも世話になっていた、
三上照夫先生〔(株)日本松栢経営指導協会:社長〕が亡くなられた。
私は、(株)日本松栢経営指導協会を解雇になった。

平成6年(1994)3月 初旬、
チャー坊に、
「会社をクビになった」
と電話すると、
「とりあえず、一千万円持っていくわ…」

平成6年(1994)4月25日 柴田和志 歿

《丸善で買った、バーバリーのコート》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《丸善で買った、バーバリーのコート》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[Quick Japan]Vol.15
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p104
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第6回》
取材・文 北沢夏音

姉・吉村邦代さんの話から p104-106
 ―略―
※昭和55年(1980) 1月 約15年ぶりに、チャー坊と再会。
 ―略―
そうした時期に、
和志は最後の彼女になった
朋子(ともこ)という娘と一緒に暮らすようになって。
 ※昭和59年(1984)12月頃
 ―略―
そしたら、  p106
ある日突然、朋子さんから初めて電話をいただいて、
「実は私は和志さんと一緒に住んでいる者なんですけど、
 どうも様子がおかしい」
って言われて、
びっくりして様子を見に行ったんです。
朝の一〇時頃京都に着いて、
(チャー坊と朋子さんが住んでいた)
アパートに行ったら、
なんとも淋しそうに、
足を引きずるようにして和志が出てきたんです。
次男が羽振りがよかった頃、
高島屋でいちばん高いコートを買ってやったんですけど、
そのコートを着て、
よれよれの靴を履いて。

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.15
(平成9年)1997年8月31日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

註:小野一雄
『大きな家』 京都市伏見区深草大門町
『小さい家』 京都市伏見区向島庚申町

<高島屋でいちばん高いコート>
※昭和55年(1980) 1月 約15年ぶりに、チャー坊と再会。
※《丸善で買った、バーバリーのコート》
河原町通 六角を歩いていた時、
チャー坊(柴田和志)が、
「□□□さんが、10万円送ってくれた。
 丸善(京都河原町店)で、バーバリーのコートを八万円で買った。
 そして、CDを数枚買った。
 あと一万円ほど、残っている」
私の部屋(京都市山科区小山)に、
□□□さんが、
蕎麦を持参して、湯がいてくれ、食べた。
チャー坊(柴田和志)と一緒に来たのか、
チャー坊(柴田和志)が、先に来ていたか
覚えていない。

『小さい家』(京都市伏見区向島庚申町)の二階に、
チャー坊(柴田和志)と私が居た。
□□□さんが、上がって来た。
チャー坊(柴田和志)は、
睡眠薬が利いていたのか、
眼を覚ます事はなかった。
□□□さんは、
チャー坊(柴田和志)の寝顔を、
優しげに、寂しげに、なのか、
見ていた。
□□□さん(当時:パリ在住)
名前が出てこない。
小野一雄
[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 2002年12月18日 初版発行
昭和55年(1980) 11月 潮の宮病院 入院 p326

<バーバリーと言えば丸善>
[踊る阿呆を、観る阿呆]
さよなら、丸善京都店。
というわけで、閉店間近の丸善京都河原町店に行ってきた。
 ―略―
それから…、あ、丸善の洋傘。
購入してから10年以上たちずっと愛用し続けているけれども、
現在でも購入時とほとんど同じ状態で、とても具合がいい。
おそらく一生モノになるのは間違いないだろう。
また、現在ではもう取り扱っていないようだが、
ある年齢以上の方なら
<バーバリーと言えば丸善>というイメージが
未だに強いのではないだろうか。
私もまた、カネのない学生時代から
バーバリーのコートには憧れていたものだ。
 ―略―
http://www.tongariyama.jp/weblog/2005/08/post_83e0.html

六畳と四畳半ほどある部屋<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第6回》

六畳と四畳半ほどある部屋
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第6回》

[Quick Japan]Vol.15
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p104
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第6回》
取材・文 北沢夏音

姉・吉村邦代さんの話から p104-106
 ―略―
それまで大きな家に住んでた時はよかったんですけど、
父が死んで、
小さい家になった時点で、
向かいにちゃんとした文化住宅があったんで、
そこの六畳と四畳半ほどある部屋を借りてやってたんですけど、
 ※昭和55年(1980) 1月 約15年ぶりに、チャー坊と再会。
 ―略―
入院中に母が亡くなってしまって……。
 ※昭和58年(1983)4月母(つぎ)逝去
その時は、和志の状態が悪くて、
知らせることができなかった。

それからしばらくして、
主人の仕事が傾いたので、
私は急遽、
また東京へ帰ることになったんです。

その時点で、
和志の入院費用は私が出していたんですけど、
面倒みてくれる人がいなかったので、

和志の当時の彼女だった
“ちえ”に面倒を一任して、
大阪を引きあげたんです。

その娘と連絡を取り、
次男と連絡を取りしてやってたんですけど、
和志がそろそろ良くなって帰って来るという頃に、
             ※昭和59年(1984)4月退院
次男が奥さんと、
和志のことだけが原因じゃなかったんですけれども、
別れることになって、
             ※昭和59年(1984)3月離婚
次男が和志を引き取ったんです。

でも、
女房もいなくなる、    ※柴田令子
              当時 住友生命     外交員
                 エイボン?化粧品 外交員
                 スナック(祇園 花見小路下ル)
              帰宅 阪急電車 桂駅 24時頃
                 ボンチャン(柴田次男)が、
                 ホンダ・シビックで送迎。

子供三人もいなくなるで、 ※柴田大地・詠地・光地
次男も自暴自棄になってしまったんですね。

そうした時期に、
和志は最後の彼女になった
朋子(ともこ)という娘と一緒に暮らすようになって。
 ※昭和59年(1984)12月頃
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.15
(平成9年)1997年8月31日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

註:小野一雄
それまで『大きな家』に住んでた時は
よかったんですけど、
父が死んで、
『小さい家』になった時点で、
向かいにちゃんとした『文化住宅』があったんで、
そこの六畳と四畳半ほどある部屋を借りてやってたんですけど

『大きな家』 京都市伏見区深草大門町
『小さい家』 京都市伏見区向島庚申町
※昭和55年(1980) 1月 約15年ぶりに、チャー坊と再会。

『小さい家』
チャー坊(柴田和志)と一緒に、
遅い朝ごはんをご馳走の為、入ると、
ボンチャン(柴田次男)が、背広を着て仕事に出掛ける所だった。

Quick Japan]Vol.7
(平成8年)1996年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《前編》
取材・文 北沢夏音
チャー坊のお兄さん―  p082
柴田次男氏との待ち合わせに指定されたのは、
京都大学農学部の正門にほど近い百万遍にある
喫茶店「進々堂」である。
 ―略―
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、
〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。
 ―略―

『六畳と四畳半ほどある部屋』
〔じん〕広島出身:多分、実家は医師。
ギターを、何時も、ボロン・ボロンと弾いていた。
全く喋らない。
チャー坊 「ご飯食べよか」
〔じん〕 「ふん」
三人で、インスタント・ラーメンを食べる。

〔松井マネージャー〕
京都大学 十八年在学(医学部と?)
CDかレコードを持って、
チャー坊の感想を聞きに来ていた。

[Wikipedia]
[現行商法の改正点 [編集]]
1981年(昭和56年)改正 - 6月9日公布、
1982年(昭和57年)10月1日施行
1975年(昭和51年)のロッキード事件、
1978年(昭和53)年のダグラス・グラマン事件等の
会社資金不正支出という不祥事が明るみに出された結果、
このような事件を会社が自治的に防止できるような
措置を講ずるための改正がなされた。
株式制度の合理化
(株式単位を5万円に引き上げ、単位株制度・端株制度の導入など)
監督制度の強化
議案提案権、取締役の説明義務、総会決議無効・取消しの訴え
総会屋排除のため、株主への利益供与の禁止
取締役会・監査役の監督権限強化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E6%B3%95

《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《柴田金三郎(父):柴田つぎ(母)》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 2002年12月18日 初版発行
柴田和志 年譜  p312-334
昭和41年(1966) 1月 父:柴田金三郎(63歳)逝去。p314
昭和58年(1983) 4月 母:柴田つぎ (73歳)逝去。p327

洛西ニュータウンのマンションで、
お母さん(柴田つぎ)の話。

※お父さん(柴田金三郎)が元気な頃、
 向日町競輪場で、騒ぎがあった。
 誰かが、「柴金」が来てると叫び、一騒動、
 一件落着と云っても二日かかった。
 お父さんが、新聞紙で包まれた束を、
 紐にぶら下げて帰って来た。
 中を開けると、百円札が一杯、入っていた。
 お父さんは、その時、初めて向日町競輪場に行った。
 その後、そのお金は、全部、競輪に使った。

 この話は、お母さんから、私が直接、聞きました。

京阪電車から全線無料定期券が、
 お父さんの歿後何年も送られていた。

※お母さん(柴田つぎ)の葬儀
 (伏見区向島庚申町・昭和58年(1983) 4月)に、
 篠原組の供花があり、若い衆が数人、参列していた。

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん(吉村邦代)”―    p077
 ―略―
チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
門下の方も大勢いらして、
それと、
こういう仕事にはつきものなんですけど、
やくざのような方ともつきあいがありましたから、
日銀の方や大臣から、
やくざの若い衆に至るまで、
本当にいろんな種類の人が
毎日訪れて来るような、
そんな家だったんです。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>[Quick Japan]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370665.html

邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》

邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第7回》


[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p096
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第7回》
取材・文 北沢夏音

姉・吉村邦代さんの話から p098
 ―略―
それから、亡くなった母のことで、

(註・薬物中毒のため入院中だった
   チャー坊の病状が相当悪化していたため、
   母・つぎさんの死を知らせなかった)
 ※昭和58年(1983)4月母(つぎ)逝去

「お葬式に出られなかった俺の気持ちがわかるか?」
って責められて、

「あんたがクスリやるからや!」って言い返したり……。
 ―略―
主人の仕事が傾いて、
お金もそんなに勝手が利かなくなってきた時に、
傷までつけた

(註・薬物中毒で一時的に錯乱したチャー坊が、
 誤って邦代さんの夫・
 吉村法俊〔のりとし〕氏を包丁で傷つけた)

和志の面倒を主人に見てあげてほしいとは言えなくて、
私が働きに出て和志に仕送りをしていたんです。

そのことを、
和志がいちばんよくわかっていたと思うんですよ。

だから和志が

「くーちゃん悪いなぁ、
 俺が苦労かけてるからや」
って言って肩揉んでくれた時」、

私はそれだけで、
あーわかってくれているんだ、
と思って嬉しかった。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.17
(平成9年)1997年12月30日 第一刷・発行
定価・900円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※邦代さんの夫・吉村法俊〔のりとし〕氏
《哲人の風貌を持った大柄な方でした》
[夢曼荼羅のブログ]
忘れられない右翼のテロ事件
2012-01-16 11:03:28
テーマ:ブログ
政治テロ事件と言えば、
もっとも記憶に残っているのは、
昭和三十五年の山口二矢(おとや)の、
浅沼稲次郎社会党委員長暗殺である。
まだ僕が小学生の頃である。
日本中が大騒ぎになり、
僕の父などは妙に興奮していた。
 ―略―
実は後に、僕は山口二矢の暗殺決行前に一緒だった
吉村法俊という人に何回か会った事があります。

哲人の風貌を持った大柄な方でした。

二十年前ぐらいに亡くなりましたが、
その一週間ぐらい前に
妻と病院にお見舞いに行った事がありました。
何故に知っていたかと言えば、
父の人脈の中の一人だったのです。
父は、気が合えば、左右関係なく付き合っていました。
それは僕と似ているのかも知れません。

山口二矢の暗殺決行前には、
吉村さんの他に、
後に江戸川乱歩賞を取ったNさんという
推理作家がいますが、
その方にはお会いした事はありませんでした。
 ―略―
https://ameblo.jp/fgh1234/entry-11137328275.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[今日の出来事ロジー]
10月12日、浅沼稲次郎暗殺事件
2006/10/12(木) 午前 6:25
 ―略―
1960年10月12日、社会党委員長の浅沼稲次郎が
右翼少年・山口二矢(おとや)に刺殺されました。
 ―略―
[写真]
右から二人目:赤尾敏 中央:山口二矢
※右端:多分、吉村法俊 註:小野一雄
 ―略―
[写真]
山口二矢のデスマスク
 ―略―
http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/21513644.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※チャー坊(柴田和志)と一緒に、大阪の家に行き、
 吉村法俊さんに一度だけ会ったことがある。

※チャー坊(柴田和志)の独白
「山口二矢のデスマスクを見て、
 頭がおかしくなった」

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年12月23日 04:17 ◆柴田和志 [チャー坊遺稿集]
[デスマスク]『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年02月26日 07:50
《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《内田良平 額=為 柴田金三郎》<チャー坊(“村八分”)の生と死>

《内田良平 額=為 柴田金三郎》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>

内田良平」から、柴田金三郎に贈られた額。

為 柴田金三郎 と、書かれていた。
私(小野一雄)が預かっていたが、
お姉さん(吉村邦代さん)に、
佐川急便で、昭和63年(1988)頃に、返した。
※年度は正確な記憶がない。

それを、お姉さんのご主人(吉村法俊・亡くなっていた)が、
世話になった人に贈ったと、柴田令子さんから聞いた。
※この電話の年月は覚えていない。

[吉村法俊](別稿に記載)
山口二矢が暗殺決行前に一緒だった
吉村法俊という人に何回か会った事があります。
http://ameblo.jp/fgh1234/day-20120116.html

[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行

草臥れて(くたびれて) p067
ロック殉教者
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
《第五回》
取材・文 北沢夏音

“クーちゃん(吉村邦代)”―    p077
 ―略―
チャー坊の父・柴田金三郎氏は、
立命館大学時代の後輩で、
のちに法務大臣を務めた
自民党代議士・田中伊佐次らと共に、
敗戦と同時になくなっていた
建国記念日制定のため尽力するなど、
関西でも指折りの民族主義運動家だった。
 ―略―
チャー坊の父・金三郎は三重県の、
母・“つぎ”は京都の出身です。
 ―略―
父は初めアナーキスト(無政府主義者)
だったらしいのです。
ところが、
ご存じのように弾圧が非常に厳しくて
常に特高に追われている状態で生活していたのが、 p078
あるとき昭和の初めぐらいに転向して、
内田良平
―この人は民族主義の運動の創始者みたいな方だそうです―
に師事した。
 ―略―

[クィック・ジャパン]
[Quick Japan]Vol.13
(平成9年)1997年4月26日 第一刷・発行
定価・800円
編集発行人 赤田祐一
発行所  (株)太田出版
東京都新宿区荒木町22
エプコットビル1F

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